乱読報告ファイル (54) トランプ帝国のネオ・パクスアメリカーナ

 

一見支離滅裂に見えるトランプ政権の行動に世界中が振り回されている現状だが、自衛隊幹部だった著者によれば、それは外見だけであって、実はしたたかな計算に基づいた、一貫性のある政策なのだ、という議論である。軍人らしい大胆な解釈だが、なるほど、と思わせた書である。

司馬遼太郎の大作、坂の上の雲で、主人公の秋山真之は米国留学の機会に当時注目されていた思想家、アルフレッド・マハン の教えを受ける、帰国後の行動の根底にはマハンの主著 海上権力史論 に説かれたシ―パワー の理論が根付いていた。現代において、再びこのシーパワー理論を実践実行しようというのがトランプなのだ、というのが著者の解釈である。

ウイキペディアによると、マハンはこの著書の中で、地理的位置、海岸性の形態、領土の範囲、人口、国民性と政府の性格などがその国のシーパワーに影響を及ぼす要素である。これらから構成されるシーパワーは生産、海運、植民地の連鎖とこれを保護するための海軍のそれぞれのバランスのとれた海洋政策によって国家の力となると主張した。

トランプの一枚看板、America First  という極めて分かりやすい主張からすれば、われわれはそれが外国のことから手を引いて、自国第一の、内向き志向、という感覚を持ちがちだが、それは実は アメリカが世界を制覇することすなわち パクスアメリカーナの再現であり、”Make America Great Again” の、その実現にむけた行動が実は一見無秩序に見えるトランプの行動なのだ、というのが福山の主張である。第二次大戦後実現したアメリカのもたらしたものがパクスアメリカ―ナだとすればそれはすでに崩壊してしまった。トランプの主張が実はその延長なのだ、と読み切って,ネオ、と付け加えているのが本著である。われわれ門外漢にとってみれば、なぜグリンランドなのか、パナマなのか、と首をかしげることも、軍事の専門家から見れば、これからの地球規模の変化によって大国間の交通路になるのが明確な北極海と、アジアへの出口である太平洋への海軍の進出路を確保する、という狙いは明確であり、”アメリカファースト” が決して内向きの思想ではなく、実はふたたびアメリカ帝国の実現を目指しているのだ、ということが、いくつかの資料を論拠に展開される。そしてもう一つ、隠された意図として中国を完全に抑え込むことがあり、さらに言えば、その底流には明治初期に展開されていた、黄禍論、も見え隠れする、とも言っている。この論議に当たっては、AIの解釈もトライしたということで、その解答も付記されているのも面白い。

”アメリカのポチ” と揶揄・侮蔑されこともある現代日本の在り方だが、小生はそれを否定しない。この本の著者の見解では、このあり方の根本にある “不戦” という国是は、そもそも日本を占領したGHQが押し付けたもので、これをめぐっての議論は果てしないが、なんといわれようと、戦後は寸土といえども国土を失うことなく、国民をただひとりも戦争で失わず、80年間の絶対的平和、が実現しているのはこの政治姿勢にあるのは疑い得ないからだ。しかしもしアメリカが再び帝国として君臨することを望む、ということになってしまえば、その時、我が国の立ち位置はどうあるべきか。わが国土が戦場となり、攻撃され、再び焦土と化す可能性が高まることを、著者は軍人の立場からそのことを論じ、憂えているのは明らかである。

トランプがどれだけの人物なのか、まだまだ疑問はあるが、この本は一読にあたいする。

 

アルフレッド・セイヤー・マハンはアメリカ合衆国の海軍軍人・歴史家・地政学者。最終階級は海軍少将。アメリカ海軍の士官であるだけでなく、研究者としても名を馳せた。その研究領域は海洋戦略・海軍戦略・海戦術などに及び、シーパワー・制海権・海上封鎖・大艦巨砲主義などに関する研究業績がある。

 

(ウイキペディア)パクス・ロマーナとは、古代ローマ帝国が地中海世界を支配していた時代に実現した、約200年間の平和な時代のことです。アウグストゥス帝の時代から五賢帝時代までを指し、ローマの圧倒的な軍事力と政治力によって、内乱や外敵の侵入が少なく、商業や文化が栄えました。しかし、この平和はローマの支配によるものであり、被支配地域では搾取や不平等も存在していました。パクス ブリタニカ(Pax Britannica)とは、19世紀のイギリスが圧倒的な経済力と軍事力で世界の平和を維持したとされる状態を指し古代ローマ帝国の「パクス・ロマーナ」に例えられ、「イギリスの平和」を意味します。パクス・アメリカーナ(Pax Americana)とは、第二次世界大戦後、アメリカ合衆国が主導し、国際社会に安定をもたらしたとされる秩序のことです。

 

第101回 ”第四世代” 月いち高尾報告  (51 斉藤邦彦)

 

先月5月12日に第百回記念山行を終え新たに第四世代としてスタートとなった今回の山行。夏至の一日前でしたが真夏を思わせる強い日差しのもと大勢の参加者で賑わい、新次元のプラン第一号がスタートした。

1.日時:令和7年(2025)6月20日(金)

2.コース別の山行記録(敬称略、()内は昭和卒年)

(1)シニアコース

<参加者(8名)世話人:村上祐治>

鮫島弘吉郎(36)中司恭(36)町井かをる(38) 多田重紀(39)武鑓宰(40)保屋野伸(42)村上裕治(46)平井利三郎(47)

<山行記録>

〇往路 ケーブルコースには36鮫島、38町井、39多田、47平井        6号路から稲荷山コースには40武鑓、42保屋野、46村上

稲荷山コースは危険木のため通行が規制されておりとても静かな山行を楽しむ。

〇復路

4号路からケーブル駅
38町井、42保屋野                            町井さんは下山ルートに躊躇なく「みやま橋」のある4号路を選ばれスキー風のストックさばきで軽快に下山。

・4号路から病院坂                           40武鑓、46村上                            富士道から1号路を経てケーブル駅 36鮫島、39多田、47平井

シニアコースは平均年齢82歳と超ベテラン揃いだったが、蒸し暑さにも負けず快調な山行を楽しんだ。

(2)一般コース

<参加者(14名)世話人:斎藤邦彦)

赤荻卓(44) 安田耕太郎(44)吉田俊六(44)徳尾和彦(45 福本高雄(47)福良俊郎(48)五十嵐隆(51)斎藤邦彦(51)石倉周一郎(54) 後藤眞(59) 鈴木一史(60)木谷潤(62) 齋藤伸介(63)大場陽子(BWV)

<山行記録>

上野原駅8:50⇒(富士急バス飯尾行き18分)⇒9:08尾続(オヅク)バス停

尾続バス停9:15⇒(45分)⇒10:00尾続山538m10:15⇒(45分)⇒11:00コヤシロ山11:05⇒(45分)⇒11:50要害山536m12:30⇒(45分)⇒13:15新井バス停13:44⇒13:59上野原駅14:07⇒(JR中央線18分)⇒14:25高尾駅

予定通り全員が飯尾行きのバスに乗車、尾続バス停でミーティングと体操を済ませて山行を開始する。尾続山までの登りは蒸し暑い気候の中、竹林や樹林帯の中を黙々と進む。コースタイムより早く尾続山に到達し頂上でゆっくりと汗を拭く。苦しい登りはここまででこれから先は風通しの良い樹林帯の尾根道を上り下りしながら5つの小ピーク(①尾続山(オヅクヤマ)②実成山(ミナシヤマ)③コヤシロ山④風の神様⑤要害山)を辿る。残念ながら曇り模様で富士山の景色は望めなかったが西に扇山、権現山を望みながら歩く。

要害山(ヨウガイサン)は戦国時代に甲斐・相模・武蔵の国境に大倉砦が築かれたことから要害(小さな城)の山と名付けられており、頂上付近には空堀や土塁跡が残っている。頂上からは南側に展望が開け石老山、高柄山、九鬼山などが望まれた。頂上の木陰のベンチ周辺でそれぞれ昼食を摂るが今回も大場さんからレモンケーキが振舞われそのおいしさに舌鼓を打ち大満足な時間を過ごした。

下山後にバスの待ち時間が30分あったので新井バス停前のデイリーヤマザキに立ち寄る。ここはは「近江屋、長岡酒店」の経営で我々は大歓迎を受けエアコンの効いた店内で立ち飲みを許して貰った。この地域の名物でジャガイモを触媒に作った「せいだ焼酎:芋大明神」を買って帰り天狗飯店に持ち込みで飲んだ。

(3)懇親会

今回初参加の赤荻卓(44)石倉周一郎(54)の両氏からご挨拶を頂いた。特に赤荻さんには茨城県の牛久からのご参加で都内に前泊での山行とのこと。ちなみに初参加にも拘らず一般コースの最高齢であった。また、石倉さんには今後幹事団の一角を担ってもらえることになった。

(4)フォトアルバムは以下のURLを参照されたい。なお、期間限定でのアップですので必要な写真はダウンロードのこと)

https://photos.app.goo.gl/qQ6hyeWCCVgdNJzj9

3その他の伝達事項

次回102回は9月30日(月)を、詳細は別途お知らせする。

乱読報告ファイル (53)袋小路   (普通部OB 菅原勲)

「袋小路」(著者:G.シムノン/1938年、翻訳:臼井美子、発行:東宣出版、2025年)。

ベルギー生まれのフランスの作家、G.シムノンは、メグレ警視ものの探偵小説(75冊)で有名だが、彼は、実はロマン・デュール(硬い小説、日本で言えば純文学)の作家である自負が甚だ強く、その著作は117冊にも及んでいる。これは、東宣出版からシムノン ロマン・デュール選集として出版された二冊目にあたる。

自宅から近い高輪図書館は近着の本であっても、まだ貸し出されていなものは近刊本の棚で閲覧に供しており、この本は、そこを覗いて見つけ出した。しかし、読後、大変、大変、失望した。まー、こんな酷い本は誰も借り出さないんだろう。

主人公は、友人である35歳のブリニ(本名:ゲオルギー・カレーニン)と共に、ロシア革命によってフランスに亡命した白系ロシア人、38歳のウラディーミル(プーチンと同じ名前だ)・ウゴフ。こいつが、コート・ダジュールは、カンヌとアンティーブの中間地点に位置する港町、ゴルフ=ジュアンで、金持ちの夫人が所有するヨットの船長となり、同時にその夫人の愛人となるのだが、無為徒食の生活を送り、朝から近くの店で酒浸り。ところが、実際に船の世話をしているブリニが、船に泊まっている婦人の娘と懇ろとなり、それに激しく嫉妬した彼は、夫人の大事な宝石を盗んで、それをブリニに擦り付け、罪に陥れて、ブリニを追い払ってしまう。小生、先ず、こんな下劣な行為を行う男は軽蔑するし、況や、感情移入なんて出来るわけがない。そして、確かに、罪の意識と後悔の念に苛まれはするが、飽くまでも自己中心の彼は、自分が今の悲惨な環境下に置かれているのは夫人のせいだと思い始める。そして、遂に、機会を見つけて夫人を絞殺する。そして、最後の行を見て欲しい。「ウラディーミルは満足だった。すべては順調に進んでいる!」。これには唖然とするばかり。一体、どう言うことだ!シムノンよ、貴兄は何の取柄もない殺人犯人を野に放つのか。確かに、実人生ではこういうことが起こり得るかも知れないが、であれば、小説の上での結末は、なおさらの事、勧善懲悪に徹すべきではなかったのか。そうか、ここでメグレ警視が登場していれば、それこそ間違いなくウラディーミルを捕まえて、勧善懲悪で終わっていたに違いない。そもそも、シムノンがロマン・デュール(純文学)なんて変な色気を出したのが間違いのもとなのだ。

こんなことを得々として書いているシムノンは、Wikipediaによれば、13歳以来、約1万人の女性と交合い、その内の8000人が娼婦で、残りの2000人が素人だったそうだ(自分でこんなことを公言したのだろうか)。これは「袋小路」とはあんまり関係ないが、その余りの酷い出来具合から、いささかシムノンの悪口も言いたくなる。解説を書いた瀬名英明は、「シムノン、おまえは、天才だろ」とこの本を絶賛しているが、馬鹿者!バカも休み休み言いたまえ。

 

ジョルジュ・シムノンGeorges Simenon1903年2月13日 – 1989年9月4日)は、ベルギー出身のフランス語で書く小説家推理作家。息子のマルク・シムノンフランス語版(1939 – 1999)は映画監督で、女優ミレーヌ・ドモンジョの夫。

103編ある、ジュール・メグレ警視(Jules Maigret, 後に警視長)が登場する一連の推理小説で知られる。

世界中で最も読まれたフランスの作家は、ヴィクトル・ユゴージュール・ヴェルヌについでシムノンであるとの説がある位、シムノン文学は世界各国で好評を博した(シムノンはベルギー生まれだが、ほとんどのフランス人は彼のことを同国人と考えている)。その売上のほとんどはメグレものだが、シムノン自身はメグレを主流な仕事とは考えておらず、あくまで自分を純文学の作家とみなしており、そのメグレ以外の代表作の一つ、『雪は汚れていた』(“La neige était sale”)はアンドレ・ジッドフランソワ・モーリアックから絶賛された。

 

何れ菖蒲か杜若 (普通部OB  船津於菟彦)

未だ梅雨だと言うのに猛暑日の連続。先日は橫浜山手西洋館めぐりに行きましたが暑くて途中で帰宅。矢張り爺やは早めに熱中諸対策を講じるように心がけて行動しています。
16日も恵比寿へFilmCameraで撮影したモノを現像に出してて、数時間で出来るというので、先ずは原宿の神宮花菖蒲園を撮影して戻る予定で居ましたが、暑さより湿気に参り、家に逃げ帰りました。農作物等もこの大雨・酷暑で減産のようですね。困ったなぁ。まぁそんな浮世から離れ中東の紛争など忘れて「お花見」
立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花

では無く「いずれ菖蒲か杜若」とは、いずれも優れていて優劣がつけにくいことのたとえです。
語源は、源頼政が鵺(ぬえ)という怪しい鳥を退治した褒美として菖蒲前(あやめのまえ)という美女を宮中から賜る際、十二人の美女の中から選び出してみよと命じられて詠んだ歌にあります。とのこと。

毎年根津美術館の燕子花を尾形光琳の屏風の公開共に咲く燕子花を撮影に行くのですが今年はタイミングが悪く燕子花は観ることが出来ませんでした。ことらも趣のあるやや小ぶりな花で如何にも「燕子花」と言う字に合ってているようなお花で、国宝の屏風はメトロポリタン美術館と根津美術館に在り一度里帰りして同時展示されたこともありました。

根津美術館蔵の燕子花屏風                        メトロポリタン美術館蔵の尾形光琳『八橋図屏風』

そんなことで、やや出遅れましたがド暑い中毎年訪れて居る明治神宮花菖蒲園を訪れました。光琳の屏風の様に写真には撮れませんね。写真に成り難いお花ですね。それでも矢張り美しい可憐さがありますね。此方は水田に咲く花菖蒲ですね!菖蒲・燕子花・あやめ-菖蒲-・花菖蒲と色々ありますね。

水を出し菖蒲の芽あり映り居り 高浜虚子
池さびし菖蒲の少し生ひたれど 水原秋桜子
廣々と紙の如しや白菖蒲 星野立子
人妻のあだに美し菖蒲園 鈴木花蓑
花ひとつ折れて流るゝ菖蒲かな 政岡子規

日本製鉄はどうなりますかとか自動車関税などでトランプに引き回されていますし、プーチンのご機嫌取りに忙しそう。イスラエルをトランプは解決できるのか。投資家の間では、新しいトレーディングスタイル「TACO」が定着しつつある。TACOは「Trump Always Chickens Out(トランプはいつも尻込みする)」の略語だ。つまり、トランプ氏の新たな関税発動の脅しに動揺して売りまくってはいけない、いずれ発言は撤回され株価は反発するのだから、というものだ。
さてさて。


オータニさーんは二刀流復帰。ダメ虎は連敗続き。でも他も負けている。まぁお花とスポーツでも観て世の汚さは忘れましょう。

(編集子)ダメ虎なんざどーでもえー。 永遠に不滅の読売巨人軍の体たらくは目を覆うね。慎之助と相性は悪かったらしいが、俺のごひいき,秋広をおっぽり出して持ってきたリチャードなにがし、なにやってんね? 日替わりで登場する若い連中は名前を覚えるだけで大変だけど、面白い。願わくばシーズン終わって、金にものいわせたトレード合戦に戻るようなこたあするなよな! ア、ごめん、話はカキツバタ、だっけか、フナツ君?

USスチール買収劇決着    (47 関谷誠)

 

(編集子)いろいろと話が飛び交った、日本にとっても歴史的な出来事が決着した。日鉄OBの関谷君からのコメントを紹介する。

本稿でも紹介したが、日米戦争開始にあたって、最後まで反対し(皮肉なことに真珠湾攻撃でその戦争の口火を切ることになった)、米国の国力を知るためにはピッツバーグへ行って煙突の数をかぞえろ!と警告した、山本五十六元帥が現存したらなんと言っただろうか。米国製造業の衰退は、かのジェネラルエレクトリックの、当時は華麗なる転身、とか言ってマスコミがもてはやした一連の外注化、短期的利益追求のために金融業への傾斜、などが生み出した皮肉な結果だ。今回の買収劇がマスコミの過剰反応に踊らされず、日米双方にとって意味のある結実となることを祈ろう。

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やっとケリが付いたようです。WEBのニュースリリースをご参照ください。うまく行く事を祈るのみです!  

https://www.nipponsteel.com/

1960年代の改革を振り返る  (横河電機同僚  山川陽一)

僕らが社会人になった60年代はいわゆる高度成長期が始まったタイミングでした。日本中の企業がそれぞれに改革を試み、それが集大成されることで日本の経済が飛躍できた、まさに企業ごとにそれぞれが積み上げた社内改革が国家レベルでの高度成長を可能にしたのだと思います。今や ”国難” とされる問題に対して国家を挙げての改革が叫ばれています。あの頃のことを私が勤務した横河電機での改革のありようを参考までに、オールドタイマーの記憶をたどってみます。

■ 週休2日制の導入

私の会社務めの第一歩は人事部から始まりましたが、ちょうど労働組合からの時短要求にどう対処するかがテーマになっていた時期でした。当時は土曜半ドンの会社も多くありましたが、横河電機は1日7時間週42時間労働でした。

日本人は体力がないから1日の時間は短い方がいい、土曜半ドンにすべきだというのが社長の意見でした。いろいろ調べた結果私は週休2日1日8時間労働が世界の潮流であり、日本もいずれそうなるだろうと主張しました。社内広報誌を使ってキャンペーンを張り、全社員にあるべき形を問いかけました。結果として、週休2日制が実現することになるのですが、これはキャノンに次いで日本で2番目の快挙でした。

  • 倉庫スペースが足りない

ボルト、ナット、ワッシャーなど数千種に及ぶ標準小物部品の管理は大変な仕事でした。倉庫は部品番号順に一定の間隔で配列されており、手配担当者は入出庫台帳の残高を眺めながら発注をかけるやり方でしたが、右肩上がりの生産量に対応できず、倉庫スペースの不足や欠品の増加で破たん寸前の状態でした。

部品番号順の配列をやめて空いているスペースに自由に収納するフリーアドレス方式への変更、在庫の残高が一定数になったら一定数を自動発注するオーダーポイントシステム(OPS)の採用、金属製の保管引き出しを組み立て式の大小数種の段ボール引き出しに変えるなどを軸にした変更で、必要倉庫スペースの半減、手配工数の半減、欠品の減少を実現しました。こんなことをゼロから考えだすのは大変なことですが、かつて見た技術提携先の倉庫管理方式が念頭にあっての提案でした。

新部品展開システムの考案

すべて手作業で行っていた生産管理をシステム化する任務を与えられたのが労務から生産部門に転じて3年目のことです。生産部門と情報システム部門だけでなく技術部門も巻き込んで丸3年を要した大プロジェクトで、仕事のやり方を一変させるものでした。

当時生産管理と言えばIBMのPICSと言われるくらいPICSはその道の教科書的存在であり、まさに世界標準でした。私たちも当初はPICSの導入を考えていましたが、検討するうちに大きな“疑問”に突き当たります。この方式だとモノの作り方に合わせた対応を組むことになりますが、作り方が変わったらまた組みなおす必要が生じます。考え抜いた末私たちは独自の方法を取ることに決めました。その結果、モノの作り方が変わっても生産方式の変更に自在に対応できることや、技術図面の情報をそのまま入力しているので技術変更にも容易に対応できるなど、多様なメリットが生じました。 天下のIBMのしくみを覆す発想でした。

在庫を半減させる

モノを生産する場合、部品、サブアセンブリ、アセンブリ、製品の順で組み上げていきますが、当時はそれぞれの段階で在庫を持つやり方で生産していました。当然、在庫量は膨らみます。製造部門と話し合い、中間在庫を持たないで部品から製品まで一気通貫で作る生産方式に変えることにより、在庫費用の大幅な削減に成功しました。私が原価課長時代のことで、社長賞を受賞しました。 

  • システム開発手法PRIDEとの出会い

システム部門主導で開発されたオーダー処理システムがうまく機能せず、当時原価課長だった私が急遽システム部門に配転され、ゼロリセットでシステムの再構築をすることになりました。調べてわかったことは、ユーザー目線、業務改革目線に立ったシステムになっていないこと、超高層ビルの建設を宮大工に任せるようなもので巨大システムの作り方としてはあまりにお粗末な開発のやり方だったことです。そんな時出会ったのがシステム開発手法PRIDEでした。その基本は3点に集約されるものでした。

  • User Oriented
  • Phase to Phase Approach
  • Documentation Communication Concept

「ウン、これだ!」と思いました。あれから40年、いまやコンピュータの性能もシステム開発のツールも隔世の感がありますが、システム開発の本質はまったく変わっていないと思います。

これからの新しい挑戦にむかって、オールジャパンでの改革の成功が望まれるところですね。

早めの暑気払い―南禅寺   (大学クラスメート 飯田武昭)

梅雨の晴れ間の昨日は猛暑の初日でした。

昨年、哲学の道を散策した春に、時間が足らずに中途半端な参拝となった京都の南禅寺に行ってきました。昨今の京都はインバウンド圧が強すぎて、どこも混雑しているのを覚悟に、今回は南禅寺だけをゆっくり散策するプランでした。

「三門」の急な階段をよじ登り、回廊から京都の景色を眺め、臨済宗にしか無い方丈という名の「方丈と方丈庭園」では、狩野探幽の襖絵≪水呑みの虎≫や静かな庭園を鑑賞し、明治時代に完成した琵琶湖疎水の「水路閣」の周りを散策し、「天授庵」の庭園でゆっくり時間を過ごしました。

最後は勿論、事前予約しておいた湯豆腐の「順正」で、約30年振りに京都の味の湯豆腐コースを堪能しました。早めの暑気払いでした。

エーガ愛好会 (329)左ききの拳銃   (34 小泉幾多郎)

「俺たちに明日はない1967」でニューシネマを誕生させ変革の時代の寵児と言われたアーサー・ベン監督のデビュー作。モノクロであり、広大な西部の景
観も出て来ないし、TV映画を観ている感じで、まだまだ革新的な時代の寵児出現という感じまでは認識しなかった。しかしこの作品の主演が「銀の盃1954」「傷だらけの栄光1956」に次ぐ主演3作目のポール・ニューマンで、当時マーロン・ブランドのコピーと言われていた時代だったが、西部開拓期の反逆児ビリー・ザ・キッドの演技によって新しいスターの誕生が予告され、作品自体も、従来の西部のヒーローとは変わった視点から描いていたと言えるのかも知れない。

現存しているビリー・ザ・キッドの写真

伝説のアウトロー、ビリー・ザ・キッドの生き様を生々しく、また人間味豊に描いた作品で、精神的に追い込まれて行く様をリアルに演じている。

冒頭、熱気と疲労にやられたウイリアム・ボニー(ポール・ニューマン)別称ビリー・ザ・キッドが牛商人一行の代表タンストール老人(コリン・キース=ジョンストン)に救われる。その一行がリンカーンと言う町へ入ると、自分らの経済的損失を受ける恐れを抱いている保安官ブラディ(ロバート・フォーク)、副保安官ムーン(ウオーリー・ブラウン)、商売敵の家畜商ビル(ボブ・アンダーソン)とモートンの4人は、タンストールが町へ入ろうと峠道を歩いているところを待ち伏せ射殺してしまう。それを知ったビリーは、恩人の仇とリンカーン街道で保安官ブラディとモートンを射殺する。副保安官であるムーンは法の名により、ビリーに制裁しようと知人の隠れ家に逃げたビリーを取り囲み、火をつける。焼死した情報が流れる中、辛うじて脱出したビリーは旧知のサバル(マーティン・ギャラガーガ)と美しい妻セルサ(リタ・ミラン)のもとに身を寄せ、養生する間に、セルサといい仲になったりする。

仲間の牧童チャーリー(ジェームズ・コンドン)とトム (ジェームズ・ベスト)に合流したビリーは、連邦保安官が来たとおびき寄せ、副保安官ムーンをチャーリーが射殺、最後の一人ヒルは腕の経つパット・ギャレット(ジョン・デナー)に保護を求める。パットは結婚式を控え、それどころではなかったが、結婚式当日、恐怖に発砲したヒルをビリーが射殺し、結婚式だけは血で汚さないよう警告していたパットは怒り、保安官に就任、自警団を組織し、ビリー以下3人を追うことになった。トムとチャーリーは射殺、ビリーは捕獲され、絞首刑の宣言を受ける。鎖につながれたビリーは、トイレに行く機会を狙い逃亡、逃げまどうが、結局サバルとセルサの家に辿り着くものの、ビリーと懇意だった出版社のモールト・リー(ハード・ハットフィールド)の情報から、パットに知られていた。この家の二人からも愛想を尽かれ、この世に未練をなくしたビリーは、ピストルをサバルに渡し、撃つように願い、家を出たビリーは、待ち構えていたパットに声をかけられ、振り向いた一瞬、弾を受け絶命した。

雇い主の仇を討つことで、晴れ晴れとした気分で、大きな罪の意識はなく、人との暖かい交わりを求めながらも、雇い主タンストール老人以外の人たちとは誰一人とも、そういう生き方が出来ない不器用な若者を丁寧に描いていた。

(飯田)「左ききの拳銃」のストーリーが書き難かったと言われるのは、御尤もですが、小泉さんの感想文の最後のパラグラフで、ストーリーの総てを言い表していると最初に読んだ時に思いました。その部分は以下のパラグラフです。

≪雇い主の仇を討つことで、晴れ晴れとした気分で、大きな罪の意識はなく、
人との暖かい交わりを求めながらも、雇い主タンストール老人以外の人たちとは誰一人とも、そういう生き方が出来ない不器用な若者を丁寧に描いていた。≫

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ビリー・ザ・キッドを描いた映画は多くあり、トーキー以降次の通り10作品。未見①⑨⑩1.      ビリー・ザ・キッド1930ジョニー・マック・ブラウン ②最後の無法者1941ロバート・テイラー ➂ならず者1943ジャック・ビューテル
➃テキサスから来た男1953オーディ・マーフィ ➄左ききの拳銃1958ポール・ニューマン ⑥チザム1970ジョイフリー・デュエル ⑦ビリー・ザ・キッド21歳の生涯1973クリス・クリストファーソン ⑧ヤングガン1988エミリオ・エステベス ⑨ビリー・ザ・キッド1989ヴァル・キルマー ⑩ビリー・ザ・キッド孤高のアウトロー2019ディン・デハーン

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この映画の背景にある史実はリンカーン・ウオーとして名高い抗争である。ウイキペディアの抜粋:

リンカーン郡戦争(Lincoln County War)は、1870年代後半のアメリカ西部の辺境で起きた事件のこと。当時のニューメキシコ準州リンカーン郡で発生した、二つの派閥の間の一連の紛争事件を指す。この「戦争(War)」は、裕福な牧場主が率いる派閥と、独占的な雑貨店の経営者が率いる派閥との間で起こった。牧場主側の派閥には、ヘンリー・マカーティことビリー・ザ・キッドがいたことで有名な事件である。

地域の物資、商売を事実上独占していた雑貨店「ザ・ハウス」を、郡庁所在地のリンカーンに所有していた経営者たちは、ニューメキシコ州サンタフェの土地の役人とも親密な関係にあり、トーマス・B・カトロンを筆頭とした、地域の法の執行を牛耳る政治/犯罪組織、「サンタフェ・リング」を形成していた。

24歳のジョン・タンストールは、イギリス人の牧場主で、地域の銀行家かつ商人。 彼と、法律家のアレクサンダー・マクスウィーン英語版、地域に莫大な頭数を抱える有名な牛飼いのジョン・チザムの3名は、マーフィーとドランの派閥のギャング「ザ・ボーイズ」に対抗するため、乱暴者の徒党「レギュレーターズ英語版」(整理屋)を率いており、この中にビリー・ザ・キッドも含まれていた。タンストールは「ザ・ハウス」の真向かいに雑貨店を開き、チザムから買った牛を納品した。チザムは、以前からマーフィー派を快く思っていなかったのでタンストールに協力した。

(編集子)上記小泉リストの6番目、チザム は実在の人チザムの話で、ジョン・ウエインとベン・ジョンソンという筆者ごひいき二人至極明快な仕立ての活劇だが、キッドは快活で正直な青年として描かれていて、名保安官となるパット・ギャレットとの友情もからむ、ここのニューマンものより爽快感のある作品だった。ジョン・チザムが開拓した牛の運搬ルートはチザム・トレイルとよばれてまだそこここに残滓がみられるはずであり、かの ”赤い河” も明示的ではないがこのルートの話だろうといわれている(本題には関係ないが、”チザム” で雇われガンマンを演じたのがクリストファ・ジョージで、彼の凄みのある悪漢ぶりは記憶に残っている)。

乱読報告ファイル (52)Band of Brothers

 

英国とドイツの間の歴史的な対立から始まり、ドイツがヒトラーのもとで軍事大国となって、第一次大戦のいわば復讐ともいえる電撃戦を開始し、あっという間にヨーロッパの大半を手中に収めた第二次大戦の欧州戦線では、アメリカの参戦によって徐々に立ち直ってきた連合軍の失地回復のための大陸への反攻が始まる。それを予期したドイツ側は有名なロンメル将軍の指揮下、沿岸の防備を強化して待ち構えていたが、1944年6月6日,連合軍側はアイゼンハワーの指揮の下、フランス南岸、ノルマンディへの大規模な上陸を敢行する。この事実の映画化が ”史上最大の作戦(The Longest Day) “である。この作戦成功後、今度はイギリス側の最高司令官モントゴメリはドイツ中心部への反撃作戦を展開する。マーケット・ガーデン作戦であり、その中の一つのエピソードを中心にこれまた巨費を投じて映画 ”遠すぎた橋 (A Bridge too far)” が作られた。成果は一応ドイツ中心部への侵攻はできたが、連合軍は多大の損失をこうむり、モントゴメリの失策と数えられる作戦であった。その後ドイツは守勢にまわるのだが、秘密裡に作られていた新兵器(大型戦車タイガーや現代でいうミサイルに該当するV2号ロケット弾など)を駆使して反攻に出て、中部欧州を横断しアントワープまでの進撃を開始する。この作戦の全貌を映画化したものが ”バルジ大作戦 (Battle of the Bulge)” (バルジ、は突出、と言った意味で、この作戦の意図がすでに連合軍の手にある戦線にくさびのように突出した部分であることに由来する)で、中でも激戦が展開されたのがバスト―ニュ包囲戦で欧州戦線の激戦の一つに数えられる。この3本の映画はもちろん映画そのものとしての評価もあるだろうが、欧州での大戦の史実を時間軸を合わせて理解するにはまたとないツールでもある。

3本の映画が語る場面には各国から精鋭部隊が引き続き投入されていくのだが、その中で、この3つの戦場すべてに参加した部隊がひとつあった。米国陸軍の空挺師団、101師団、506連隊、E中隊である。この中隊は本のカバーによれば、fron Nomandy to Hitller’s Eagles’ Nest ,というのだが、ノルマンディのユタビーチにパラシュート降下して以来、バルジ作戦における最激戦地バスト―ニュでの死闘を経て、最後にはヒトラーの本拠地まで、米軍最強の舞台として参加した中隊の話がこの本で、一つの中隊規模の部隊がこのように連続して主要作戦に参加した(それだけ上層部の信頼があったということか)例はほかにはないようだ。

しかし、これは単なる軍記ものでもヒーロー譚でもない。その時間を戦い抜いた戦友、というよりもタイトルにいう BAND の話である。  手元の辞書によれば、band という単語には我々にとっても日常語である ひも、ベルトという意味やそれから転じて範囲,階層 あるいは群れとか楽団、などというほかに、団結、義務債務、さらに(法的、道徳的、精神的に束縛するもの、きずな、という意味があるという。タイトルの band がこの最後の意味で使われていることは明らかだ。つまり生死を分け合った仲間たち、のことだ。戦場でともに生きた仲間たち、というだけならごく一般的な意味なのだが、この本が band という単語を使ったのが、著者が伝えたかったことだと思われる。

1940年代になって米国はパラシュートを用いて戦う戦闘集団の創設を試みる。その代表がこの本の主題である第101および第82空挺師団である。この二つの師団はノルマンディで同時に投入される。映画史上最大の作戦、でジョン・ウエインの演じるヴァンダーブ―アト中佐(写真左)が戦場で遭遇する兵士に、”you, eightysecond ?” と尋ねるシーンがあるので、この作品で登場する兵士たちは82師団の所属だと知れる(この作品はいろいろなエピソードをつづっていくが、そのうち、これが主題の101師団E中隊、と明確なシーンはない)。

このE中隊所属の兵士たちは、すべてハイスクール卒の若者だが、徴兵後ただちにジョージア州トッコアに設けられた特別な訓練施設で猛烈は訓練を受ける。この訓練を指揮した将校(ソべル大尉)はその猛烈さと病的なまでの細部にこだわる姿勢から兵士たちの恨みを買い、事実反乱まがいのことまで起きてしまうのだが、戦後、兵士たちのインタビューでは、この男がE中隊の強靭さをつくったの

リチャード・ウインタ―ズ大尉

だ、と評価されている。上層部の判断でこの将校は指揮を解かれ、実戦では理想的ともいえる士官(ウインタ―ズ大尉)に恵まれるのだが、この二人の在り方と指揮官としての資質がどこにあるのか、考えさせられる。この本は戦後、著者がインタビューしたメンバーとの会話が編集されているが、ウインタ―ズはその後も順調に出世していくのだが、ソべルは家族にも恵まれず、失意のうちに亡くなり、その葬儀も寂しいものだった、と書かれている。

本はE中隊の戦場での行動をこまかに記録しているが、その中に映画的なエピソードやヒロイックな行動があるわけではない。ただ忠実な記録の羅列なので、ストーリー性に欠けて面白くなく、300ページを超える本文を読み続けるのは正直言ってつらかった。ただ、その中で、前線で負傷し後方に送られた兵士が全員、元の中隊への帰属を熱望し、中には負傷の全快せぬまま、戻ってくるものさえあったという記述がある。バスト―ニュの激戦終了後、ドイツの退潮ぶりは明確となり、米国への帰還が早まるとささやかれるようになっていて、兵士の無事の生還が身近な話題になっていたから、負傷した兵士の多くは名誉のうちに帰国できる可能性が高くなったことを知っていた。しかしなお、このE中隊から後方に送られた負傷者でも回復したものはすべてみな、帰国を拒んで、中隊に復帰することを熱望したし、中には引き留める手を振り切って歩き続けたものもいた。それが彼らの間に生じた band だったのだ、というのがこの本のすべてである。

その band はどうして生まれたのか。どこでも戦場にあれば戦友という関係が生じるが、欧州戦線の反攻段階のすべてを戦い続けてなお、誰に遠慮することなく堂々と帰国する機会を与えられてなお、前線にとどまっている部隊への復帰を選択した男たちの胸の内は何だったのか、は最後の章、19. Postwar Careers ,の17ページのインタビュー記事に集約される。しかしそれをどう判断解釈すべきか、著者のコメントはない。僕も、戦争という破壊しか生まない人間の行為がこういう結果を生み出した、という事実にただ、感銘を受けた、としか表現できない。現代の、いわばエレクトロにクスの化け物が帰趨を決定する戦争、ウクライナやガザの戦士たちの間には band が生まれるのだろうか。絶望的にならざるを得ない。

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著者スティーヴン・エドワード・アンブローズ(Stephen Edward Ambrose, 1936年1月10日 – 2002年10月13日)は、アメリカの歴史家およびドワイト・D・アイゼンハワーの伝記作者。

この本はフィルム化され、DVDとして販売されていて、小生もだいぶ以前、購入したが、今なお、未見のままである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

乱読報告ファイル (51)ベルリンフィル  (普通部OB 菅原勲)

「ベルリン・フィル」[副題:栄光と苦闘の150年史](著者:柴崎佑典、発行:中公新書、2025年)。

これは酷い!

この本の帯の表には「世界中の人々を魅了したものとは」とあり、その裏には「なぜ世界最高峰と呼ばれるのか」との惹句がでかでかと掲載されている。当然のことながら、ボンクラな小生は、それらの疑問に対する明確な回答があるものとして、この本を手に取ることになった。ところが、それらの疑問に対する回答は一切ない。ただただ、ベルリン・フィルの主席指揮者は、フォン・ビューローに始まって、ニキッシュ、フルトヴェングラー、カラヤン、アバド(イタリア)、ラトル(英国)であり、そして、現在はペトレンコ(ロシア)であることを、長々と論じているだけに過ぎない。こんなことは、いささかでもベルリン・フィルを齧ったことのある人なら、何ら新しいことではなく、既知の事柄だ。肝心なことである、ベルリン・フィルの魅力とは、具体的に、一体、何なのか、そして、それが世界最高峰であるのは何故なのかについては全く言及されていない。これこそ羊頭を掲げて狗肉を売る類いの話しであり、天下の中央公論がこんな杜撰な本を売り物にするなど、許されるものではない。小生の正直な反応は、内容が空虚で騙された!即刻、絶版にすべき代物だ。

著者も不適当だが、そんな著者に原稿を依頼した編集者も出来損ないだ。先ず、この著者は、確かに、巻末に膨大な参考文献を掲載しているが、ただそれだけを駆使してこの本を書き上げているに過ぎない。それ以前に最も重要なことは、ベルリン・フィルを生で聴いたことがあるかどうかだ。小生は、この著者は、ベルリン・フィルを一度も聴いたことがないと推定している。生は勿論だが、缶詰(LP、CD)だってそうだろう。それで良くもベルリン・フィルのことが書けたものだと、ただただ呆れるばかりだ。

さて、ベルリン・フィルの音色の特徴は、また、他の交響楽団、例えば、同じドイツのシュターツカペレ・ドレスデンとか、ライプツィッヒ・ゲヴァントハウスなどとはどこがどう違っているのか、などなど。こう言う肝心のことにも聊かの言及もない。それはそうだろう、何しろ、この著者はベルリン・フィルの生を一度も聴いたことがないのだから。

繰り返しになるが、「世界中の人々を魅了したものとは」に対する回答が、例えば、フルトヴェングラーや、カラヤンなどの指揮者であったとしても、その指揮者のどこがどう魅力的だったのか。そうではなくて、フルトヴェングラーのナチとの関係とか、カラヤンがクラリネット奏者、ザビーネ・マイヤー採用を巡ってのゴタゴタなどを長々と書いてお茶を濁しているに過ぎない。誠に腹立たしい限りだ。

ベルリン・フィルのことであれば、文献からだけでなく、生なり缶詰なり、ベルリン・フィルを、数多、聴いたことのあるもっと適当な人がいた筈だ。中央新書と言う権威ある新書が何故こんな著者を選んだのか、全く理解に苦しむ。例えば、「アーロン収容所」(1963年)を出版した当時の中公新書が草葉の陰で大泣きしているのは間違いない。

参考までに、小生は、フルトヴェングラーがベルリン・フィルを指揮した、ベートーヴェンの交響曲6番「田園」をCDで聴いたことがある。ベートーヴェンの交響曲は、そら行け、ドンドンと勢いの付いた類いのものが多いのだが、この6番は本人自らが、題名に「田園」と付けただけのことはあって、雷雨、嵐の第4楽章を除き、至って穏やかで、安らぎの曲だ。しかし、フルトヴェングラーに掛かると、この「田園」は、誠に荒々しい、それこそ荒野と言う趣きで、小生は全く馴染めなかった。

そこで、以下、小生の独断と偏見だが、ベルリン・フィルは今や単なるドイツの交響楽団に止まらず、万人のための、言ってみれば、ユニバーサルな交響楽団となってしまい、その独自性は喪われてしまったのではないか。それは多分カラヤンの頃から徐々にそうなって行ったに違いない。一方、鉄のカーテンに覆い隠された東ドイツにあって、シュターツカペレ・ドレスデン、ライプツィッヒ・ゲヴァントハウスなどは、ドイツ本来の骨太で、重厚な音を維持して来たのではないか。特に、コンヴィチュニーの下でのライプツィッヒにそれが著しい。小生、バカの一つ覚えのようにベートーヴェン、ベートーヴェンなのだが、なかでも、コンヴィチュニーがライプツィッヒを指揮したベートーヴェン交響曲全集(東ドイツ時代の1959年から1961年にかけてスタジオ録音された)を、それ故に愛聴している。カラヤンがベルリン・フィルを指揮したベートーヴェンの交響曲全集も缶詰で聴いたが、確かに大変奇麗な音楽が流れている。しかし、一言で言ってしまえば、感動するまでには至らず、面白くなかった。

東ドイツは西ドイツに吸収合併されて消滅してしまう誠にダラシナイ国家だったが、ドイツ本来の質実剛健な音楽は、東ドイツ時代も脈々と受け継がれて来たようだ。ただし、現在、そのライプツィッヒの主席指揮者はイタリア人のガレッティだから、ここもユニバーサルな交響楽団に変貌してしまったのかも知れない。そのように、みんな金太郎飴になってしまったら、何とつまらないことか。でも、これが、巷で言われているグロ-バリゼイションと言う世の中の流れの一環であるのかもしれないのだ。

(44 安田) 小汀利得と細川隆元の「辛口時事放談」のような小気味良い毒舌(笑)批評に共感し、芝崎祐典なる人物の本を読まずとも、(正鵠を射ている)諸点に納得です。念の為、本書の紹介記事をネットで読みました。著者と詳細に目次の紹介が成されている。偏差値の高い優等生が史実を淡々と客観的に書き綴った内容で、そこには血の温かさに溢れた感性・情熱あふれる「ベルフィル」に対する愛と寄り添う思い遣りは全く感じ取れない。長文の目次から察するに無機質な史実の羅列なのだ。確かに、皆が一番興味ある「何故、どこがベルリンフィルの特徴的な魅力なのか?」に関する個性ある記述はなさそうな、重厚な目次詳述であった。

(編集子)残念ながら小生にはスガチューの論点について語れる教養も知見もないので、本論へのコメントは差し控える。しかし別のところで、彼がいみじくも言っている、羊頭を掲げて狗肉を売る類いの話にはよく遭遇する。それが昨今のITだAIだという一連の社会変革にまきこまれるのだから、誰もがプロパガンダの中で漂流してしまう。そうなると安田コメントの言うような、当たり障りのない史実を羅列することがあたかもインテリジェンスのように思えてくる。いやな世の中になりつあることを実感する。不便でも若者に馬鹿にされようとも、横丁の旦那の意地っ張りで、ユーチューブなんて化け物には一切手を出さない、というマイウエイで行こう、という気になる。俺は単なる知恵遅れか?