乱読報告ファイル (48)赤ひげ診療譚  (普通部OB 菅原勲)

「赤ひげ診療譚」(著者:山本周五郎。新潮文庫。1959年)。

先だって、砂原浩太郎の「夜露がたり」、西条奈加の「四色の藍」(よしきのあい)、を読んだ。いずれも時代小説だが、大変、面白くなかった、特に、「四色の藍」は途轍もなく酷かった。と落胆していたところに、誠に気障な言い方をすれば、突如として天啓の如く、久し振りに、山本周五郎が出現した。

小生の山本作品に対する拙い読書歴を披露すると、「寝ぼけ署長」、「楡の木は残った」、「五辨の椿」(なお、これは、コーネル・ウールリッチの処女作「黒衣の花嫁」の内容と可なり酷似しているが、今は、それを云々する場ではない。蛇足だが、ジャイ大兄お気に入りの「幻の女」の作者、ウィリアム・アイリッシュは、このウールリッチの別名だ)、「青べか物語」、「さぶ」、「町奉行日記」と言ったところで、その内、最も面白かったのは「青べか物語」(1959年)だ。現在の千葉県浦安市が舞台で(勿論、ディズニー・ランドなど、影も形もない)、昭和初期、山本がまだ貧窮に喘いでいた頃の自伝的な小説だ。

そこで、これまで読んでいなかった中で、真っ先に取り付いたのが、この「赤ひげ診療譚」と言うわけだ。期待に違わず、滅茶苦茶、面白かった。久し振りに小説の醍醐味を味わった。

確かに、赤ひげこと新出去定(にいできょじょう)の診療譚と言えないこともないのだが、この小説は、寧ろ、ドイツ語で言うところのビルドゥングス・ロマン(Bildungsroman)、有る青年(保本登)の成長物語と言った方が正鵠を射ているのではないだろうか。

これは、長編と言っても八つの短編/エピソードから成り立っている。例えば、保本は、狂女を患者にしたり、その狂女から殺されそうになったり、手術を見て失神したり、一方の赤ひげは無料奉仕なのだが、富めるものからは診察料をふんだくる(これは、義賊ロビン・フッドか)、などなど。

保本は将来を約束されたエリート青年医師だが、長崎に遊学して最新のオランダ医学を学び、将来は幕府の御目見医の地位さえ保証されていた。ところが、「小石川養生所」と言う「患者は蚤と虱のたかった、腫物だらけの、臭くて蒙昧な貧民」であり、「給与は最低」、「昼夜のべつなく赤ひげにこき使われる」場所に、強制的に送り込まれる。ところが、それに不本意な彼は、養生所の決められた制服を着用しないなど、色々な点で、赤ひげに激しく反抗する。しかし、上記のエピソードによって展開される様々な出来事に関わって行くことで、彼の想像を遥かに越えた人間の感情や心理の明暗、表裏を知り、人間として大きく成長して行く。

最後は、1年の見習い勤務が終了し、晴れて御目見医となることになるのだが、保本は、ここに止まることを決意し、赤ひげから、「おまえはばかなやつだ」、「先生のおかげです」、「ばかなやつだ。若気でそんなことを言っているが、いまに後悔するぞ」、「お許しが出たのですね」。「きっといまに後悔するぞ」、「ためしてみましょう、有り難うございました」で、赤ひげはゆっくりと、保本の部屋を出て行く。

ただし、この文庫本に致命的な汚点が一つある。解説の手前で、純文学作家の辻邦生が、得々と「山本周五郎論」を開陳している。しかし、これが途轍もなく酷いもので、抽象論に終始し、何遍読んでも辻の意図することが皆目わからない。山本は、こんな意味の分からない抽象論を、最も忌み嫌っていたのではないか。

これを機に、未読の「天地靜大」(幕末の激浪の中に生きた小藩の若者群像)、「栄花物語」(老中田沼意次父子を時代の先覚者として描く)などを読んで見ようと思っている。

なお、これは「赤ひげ」の題名で映画化されており(1965年)、監督は黒沢明、赤ひげに三船敏郎、保本に加山雄三など。小生は見ていないが、これを見た山本は、「原作より素晴らしい」と賞賛したと伝えられている。

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山本 周五郎は、日本の小説家。本名:清水 三十六。質店の徒弟、雑誌記者などを経て文壇に登場。庶民の立場から武士の苦衷や市井人の哀感を描いた時代小説、歴史小説を書いた.

代表作 ”樅ノ木は残った” ”ながい坂” ”さぶ” などがよく知られている。

 

(河瀬)『赤ひげ』の映画は見ていませんが、私は1970年卒業後研修医の時、「白い巨頭」事件をきっかけに慶應医学部で民主化学生運動が勃発しました。そのため研修どころか給料なし、食事なし、部屋なし、トイレの道具部屋を占拠して勉強したり、夜患者を見るのにストレッチャーで寝たりしました。そのお陰で「赤ひげ」の保本に近い経験をしました。

その経験で困っている立場の患者の気持ちがよくわかりましたので、26年後に教授になり研修制度改革委員長になった時、「研修医は疑似患者になる」研修を提案しましたが、事務の反対で実現しませんでした。
 『医師は皆そのような経験をすべき』と考えています。
(編集子)小生は山本の作品は 樅ノ木は残った と ながい坂 の2冊しかよんでいないが、樅ノ木 は亡兄が勤務先で複雑な人間関係や大企業特有の出世競争に翻弄されていたころこの本を読み、感ずることがあった、といったのを覚えていて、だいぶ後になるが同じようなシチュエーションで読んだ。ながい坂、のほうはそういう背景もなく、あっさりと読んでしまった。河瀬兄のような忠実な読者ではないようだ。

(’本題と関係ないが、スガチューの指摘した ウールリッチ=アイリッシュの件は了解。これもまた奇妙なタイミングだが、彼のメールを読む数日前、ウールリッチ名で発表した Phantom Laday (邦名:幻の女)を読み終えたところだった。次はアイリッシュ名義のどれかにしようか、それとも未見の 黒衣の花嫁、にもしようかと考え中。)

最近、よく眠れてる?    (普通部OB 篠原幸人)

テレビで最近睡眠に関するニュースが多くないですか? 日本人の平均睡眠時間は約7時間。これは諸外国に比べると少し短いようです。そのせいかJRなどの乗ると、座っている人は全員 スマホをいじっているか寝ているか。まあ目の前に高齢者などが立った時に狸寝入りをきめこむ若人もいるけどね。

不眠には入眠障害(寝つきが悪い)と、頻回に目が覚めるもの(途中覚醒)があります。

皆さんは寝つきは良いですか? 夜中に何回ぐらい排尿で起きるかな? 私も最近以前よりは寝つきが悪くなりました。但し、夜中には1回 眼が覚めるか、全然起きないかのどちらかですね。夕食時にビールや水分をたくさん飲んだ時以外は、夜中は起きないことが多いですね。しかしこれは例外的で、70歳を過ぎたら1-2回夜中に排尿で起きるのは普通かな。これは余り心配しなくていいでしょう。排尿の後、またすぐグッスリ眠れるならば。

この不眠は心筋梗塞や脳卒中発症と関係があることが医学的にはほぼ常識化しており、最近では心不全やアルツハイマー病になる確率も高いことが分かってきました。もっとも毎日9時間以上寝るのも認知機能障害には問題という報告もあります。7-8時間の睡眠が皆さんのお年では最適かな。子供さんはもっと寝ていいと思いますが。

「睡眠時無呼吸症候群(SAS)」って聴いたことありますよね。睡眠中、大イビキをかき、良く観察すると途中で息が数十秒ぐらい止まる方、パートナーにそれを指摘されたら、是非呼吸器の専門家に相談してください。これも不眠の原因の一つです。舌根が睡眠中に喉に落ち込み易かったり 肥満やあごの形・扁桃腺の肥大など原因は様々ですが、一般的にこれらの方は血液が固まりやすい傾向があり、脳や心臓の血管が詰まる可能性が高いのです。

じゃ、眠れなかったり、一晩に3-4回以上も起きてしまうのはどうしたら良いかって?

一度、懇意の主治医に相談することでしょうね。SASならCPAPという装具をつけて良く成った方が沢山います。SASもなく、頻尿のみで起きる方は、まず泌尿器科で前立腺や女性の場合は膀胱などに異常がないか診てもらってください。テレビで宣伝している漢方薬は夜間頻尿には効かない人も多いようですが。SASや膀胱・前立腺にも異常がない場合、医師は睡眠薬を勧めるかもしれません。しかしこれも考え物です。従来の睡眠薬の多くは、無理に脳の機能を抑え込んで眠らせるものもが多く(これは一寸誤解を招く表現ですが,分かりやすく表現しました)長期使用は認知機能を抑えてしまうとも言われています。すなわち、ボケやすくなるわけです。最近、オレキシン受容体拮抗薬という新薬が出てきました。これはそのような有害事象は出にくいと言われていますから、かかりつけ医から従来型の睡眠薬を長期に貰っている人は良く相談してください。

まあ、寝酒として強めのアルコールをほんの少量飲むのはアリかもしれませんね。しかしビールやお湯割りをたくさん飲めば、また排尿で起きてしまいますよ。

「眠れなければ我慢して眠らなければいい、眠って死んだ方はいるが眠れないで死んだ方はいないよ」と時々、冗談で神経質な患者さんには申し上げますが、実は非常に稀なスローウィールス感染症という病気(もう過去の病気だと忘れられている狂牛病もその一つです)の中に「致死性家族性不眠症」という病気もあります。これはホントに眠れないで死んでしまう病気ですが、この病気は非常に稀で、私が20年以上前に日本の第1例目を米国雑誌に発表して以来、まだ日本からは2例目が出ていないくらい稀有な病気ですから心配はいりません。

そんなことより、長く続けた昔からの睡眠薬から脱皮できず。新しい薬を渡されても、効かないと自分で決めこんで、古くからの薬にこだわる人のことが心配です。年をとると意固地になる人が多いからね。

 

台北に行ってきました  (大学クラスメート 飯田武昭)

台湾(台北)に数日間ですが行ってきました。

元々は2020年4月に予定していた台湾旅行ですが、コロナ禍で出発直前に予約をキャンセルした分を、今回は約半分の日程で台北のみ気楽に行きました。

台湾の中興の祖の蒋介石を祀る中正紀念堂、忠烈詞(辛亥革命や対日抗戦で命を落とした英霊を祀る)の衛兵交代、超高層建築物「台北101」(2004年築)は509m、101階で3年間だけ世界一の高さだった、戦前まで50年間にわたり日本が統治していた当時からの建物の総統府などと、まるでバイクレース?と見紛うほどの通勤手段のバイクの多さや市内あちこちでの夜市で、庶民の生活を感じました。

一度は行ってみたかった「千と千尋の神かくし」の舞台に似ているとの評判になった急な坂道の途中にある9份の「阿妹茶楼」(あめおちゃ)での冷たいお茶のセットは、飲み水が切れかかっていた喉には、抜群に美味しく味わえました。

西門駅周辺はまるで、渋谷のスクランブル交差点と新宿の歌舞伎町辺りを超小型にしたような若者の賑わいがありました。

(菅原)飯田 さん、誰かさん、この国を盗もうとしてるんですよ。一国二制度なんて香港を見れば紛いもの。台湾は何とかこのまま居続けて欲しい。小生、30年ほど前に2/3回台湾に行きました。良いところでした。

(安田)お元気な足腰と好奇心+興味、何よりです。ご感想ありがとうございます。九份の写真、素敵です。何より感嘆するのは親日的な温かな対応、世界に名を馳せる絶品の小籠包のレストラン鼎泰豊(ディンタイフォン)、安全・安心な社会、日本的遺産(料理・街並み・言葉・新幹線など、後藤新平の功績大)、中部の山岳地帯(九州より小さい面積に3000mを超える高峰が269座、富士山より高い峰7座)。現在の民主主義体制が存続するのを願わずにはおれません。

86は殺しの番号

昨日の新聞に トランプ暗殺計画、という記事があった。もとFBIの高官だった人物が砂浜に 8647 という文字を書いたのがそれだ、というまさに映画か漫画の世界のような話だ。解説によると、86、という数字は米国の俗語で殺人を示し、47、というのはトランプが47代大統領だからだ、というのだ。

英和辞書をあたってみると、確かに米国の俗語として、86という数字はそのままつかうこともあるようだ。辞書のヘッディングは eighty six で出てくるが、 金を払わなかったり暴れたりするので酒を出さない客、というのが原義で、好ましくない客を断る、さらに転じて排除する、追い出す、殺す、というように使われると書いてある。

いろいろな職業、現場にはそれぞれ特有の符丁が存在する。高校時代、まだテレビドラマといえばアメリカ製だった時代、人気プログラムのひとつに ハイウエイパトロール、というシリーズがあり、主人公のブロデリック・クロフォードが無線で本部とやり取りするシーンでよく出てきたのが 10-4 (ten-four) という略号で、これは ”了解” を示す用語だった。アマチュア無線の世界では電信(モールス符号)による通信に用いる一連の略号があって、英文字3字、それもすべてQで始まる三文字で構成され、Q符号、と呼ばれる。これはもともと電信通信業務で使われていたプロの世界の慣習がハムの間で使われるようになったものだ。たとえば QTH? という送信は通信相手の場所を尋ねるいみで、聞かれたほうは QTH TOKYO と答えるので、転じて、住所を意味するようになってきた。数字2桁、の略号もいくつかあって、一番一般的なのは 73 は さよなら、ごきげんよろしく、を示す。これの転用として、相手が女性と分かっているときは 88 と打つ、というようなことだ。試しに辞書で seventy three と引いてみたが記述はなかった。ついでに言うと、ハムの世界では女性オペレータはYL(young lady)という。これから転じて人妻はもとYL,ということからEX(もと)をつけてXYLなどという。

(44 浅野)余計な事を一つ。73はBest regardsやBest wishesの意味ですが、88はLove &Kissesで意味は同じですが女性(YL)サイドから送る物だと聞いており。ました。元々は「Phillips Code」と呼ばれる無線略号に由来するのだそうです。

このほか、ハムの世界での常用数字として、相手の信号の質や強さを表すのに3個の要素を取り、5あるいは9段階の数字をあてはめる慣習がある。質もよくよく聞き取れる問題のない、いい信号、は599という(電話の場合は59)形で表現される。どこかで見たよなあ、と思っていたら、高尾山の標高が599メートルで、高尾山口駅からケーブルカー乗り場へ行く道にこの数字が書かれていたのだった。ま、俺たちが通ってる山は文句のない、いい山なんだ、ということだろうか。

トランプから脱線した。それでは73。Ten-four ?

 

エーガ愛好会 (324) 荒野に生きる   (34 小泉幾多郎)

荒野に生きる [Blu-ray]「荒野に生きる1971」は、舞台・時代は19世紀開拓初期の米北部、山系に手負いで置き去りにされた通商遠征隊の猟師が、厳しい大自然を生き抜いたサバイバルであり、置き去りにした隊長への復讐の物語。

この隊長ヘンリーを映画監督でもあるジョン・ヒューストンが扮し、山高帽とダブル前のコ―トでの威圧感で怪演する。遠征隊の猟師である男ザック・バス、狩の途中、熊グリズリーの襲撃を受け、満身創痍の大怪我を負う男に、リチャード・ハリスが扮する。このザックは青年時代から隊長ヘンリーと行動を共にし、隊長はザックを息子同様に育てながらも、いざザックが死ぬと判断すると置き去りにしてしまうという二面性を持つ。遠征隊自体がビーバーの毛皮を求め、白人未踏の米北部を回り、雪深くなる前にミズーリ河に到着しようと苦難の旅を続けていることもある。このビーバーの毛皮を積む船に、山をも越えられるように、車輪をも付けてある。船のマストは、荷車に載せた木造船帆は道を走るときはたたんであり、十字架のように見え、全編を覆う宗教的イメージが強調される。

熊に襲われたザックは意識を失う瀕死の重傷、隊長ヘンリーにより穴を掘られ、聖書を握らせたまま置き去りにされるが、何とか一命をとりとめる。満身創痍の中で、狼連中と競争しながら、バッファローの肉を奪い、落ちていた骨を砕いてほじくり、泥に塗れたザリガニを鷲掴みに食らいつく。布団は木屑や土、聖書を破いて焚火にして耐える。こうした中で、自分を捨てた隊長への復讐心を胸に秘めながらも、原住民アリカラ族の女性の出産を目のあたりにしたりして、残してきた息子を思い、遠退く意識の中過去を夢で見る。過去のことは、画面に出てきての回想のみだが、どうやら結婚した妻は死に、息子とは、別れ離れになってしまったらしい。通商遠征隊は、時折原住民のアリカラ族に遭遇したりして、壊滅状態に近ずいているところで、このヘンリー率いる遠征隊、原住民アリカラ族、重傷から回復したザックが対面する。ザックは疲弊した遠征隊を見て復讐心が消え、ザックの胸のうちを読み取ったアリカラ族の酋長(ヘンリー・ウイルコクソン)も静かに立去り、ザックはヘンリーから自分の鉄砲を受け取り、一日も早く息子を探し出さねば、と歩みを速めた。最期がそれまでの苦渋の物語から信じられないような終演には驚き。

監督は、リチャード・サラフィアンで、西部劇の体裁をとっているが、厳しい大自然を生き抜くサバイバルで復讐と父子の物語という宗教的雰囲気が漂う。撮影監督ジェリー・フィッシャーで自然描写を望遠やロングショットで美しくとらえていた。音楽は偉大なアレンジャーと言われたジョニ・ハリスで印象的なメロディが多かった。

春の日平会 開催 (普通部OB 船津於菟彦)

本日は好天の銀座三田倶楽部で11名参加で愉しく語り合いました。近況報告の他最後は岡野・田村さん等から「延命策」の話などありやや宗教的ではありますがやがて訪れることで真剣な議論がありました。

出席 中司・蓮井・岡野・田村・水木・宮坂・三宅・田中宏幸・佐藤・河野さん船津11名参加
欠席 田中新弥・老田・飯泉・片貝・日高・篠原・高山・亀田さん 8名
連絡無し 吉村・岩瀬・岡部さん

この会の今後について語り合い創設者日高さんが欠席でしたが、ご意見を戴き、会う機会が少ないのだから年四回以上やっては如何という事で、岡野さんから年三回でというお話しも在りましたが、会場は銀座三田倶楽部で原則、2月、5月、9月、11月の第三木曜日開催と言う事で皆様の賛同が得られました。


矢張り元気なお顔を見ながら「すくっと立とう我が友よ」と語り合うのは元気が出ます。まぁ元気が華 人生100歳時代を謳歌して参りましょう。

 

乱読報告ファイル (44) 最上階の殺人 ほか  (普通部OB 菅原勲)

英国の探偵小説作家、アントニー・バークリーの「最上階の殺人」(原題:Top Storey Murder。翻訳者:藤村裕美、発行:1931年)、「地下室の殺人」(原題:Murder in the Basement。訳者:佐藤弓生、発行:1932年)を読む。いずれも、創元推理文庫。

先ず、バークリーについて簡単に触れておこう。バークリーの本名はA.B.コックス(代表作は、「黒猫になった教授」)だが、他にフランシス・アイルズ(「レディに捧げる殺人物語」。これは、A.ヒッチコックが監督した映画「断崖」の原作)、A.マンモス・プラッツ(「シシリーは消えた」)名義の筆名がある。そのバークリーは、1893年生で、1971年に死去し、例えば、A.クリスティーは、1890年生で、1976年に死去しているから、この二人は、ほぼ同世代であり、所謂、英国の本格探偵小説黄金時代を築いた作家と言うことになる。

本格探偵小説とは、端折って言ってしまえば、殺人が起こり、その犯人を捜すべく、警察、私立探偵が行動を起こし、最後に犯人を逮捕する。しかし、小説だから、その全権は作家が完全に握っており、作家はあの手この手を使って、例えば、ミス・ディクレクション(作家が読者を間違った方向に誘導する)などで、読者を幻惑し、最後まで読者から犯人を秘匿する。犯人が捕まったとしても、最後まで真犯人を秘匿することが出来れば、その作品は高く評価されることになる。だから、探偵小説の出来具合は、作家がその真実について、読者を最後の最後まで如何に騙しおおせるかと言う、それこそ作家の手腕如何に掛かって来るわけだ。

「最上階の殺人」だが、ロンドンの閑静な住宅街、四階建てフラットの最上階で女性の絞殺死体が発見されるところから話しは始まる。現場の状況から警察(スコットランド・ヤードのモーズビー主席警部)は物盗の犯行と断定するが、一方、捜査に同行していた作家のロジャー・シェリンガムは、同じフラットの住人による巧妙な計画殺人と推理する。ここから話しは、専ら、その中に容疑者がいるであろうと思われる住人全員の聞き込みをするシェリンガムを中心に展開され、モーズビーは時たま顔を覗かせる程度だ。従って、読者は(小生も)、シェリンガムに完全に感情移入してしまい、何とか早く犯人を見つけてくれないものかと念ずるばかりとなる。しかし、これは、実は、バークリーが仕掛けた壮大なミス・ディレクション(作家が読者を間違った方向に誘導する)であって、真実はここにはない。

「地下室の殺人」は、新居に越して来た新婚夫婦がその地下室で掘り出したのが、若い女性の腐乱死体だったことから話しは始まる。しかし、被害者の身元が分からぬことから、上記、モーズビー主席警部は、その身元を詳らかにするために、警察小説であるかのように極めて地道な捜査を展開する。唯一の手掛かりは、被害者が、右の大腿骨を骨折し、その為にプレイトによる治療を受けた女性であることが判明し、その身元調査が行われ、最後の一人が、偶々、上記のシェリンガムが一時期代用教員を務めたことのある学校の教員であったことから、シェリンガムも捜査に乗り出すこととなる。ここで、作家、シェリンガムの代用教員時代の学校の話しが、作中作として披露され、学校内の複雑な人間模様が浮き彫りとなる(これが、なかなか面白い)。被害者が判明し、モーズリーは、その犯人が誰であるか薄々分かって来たが、徹底的な証拠を見い出すことが出来ず、シェリンガムに援助を仰ぐ。最後は、シェリンガムが、全く意外な人物を犯人と断定する。

これで、シェリンガムとモーズリーの直接対決は、ここでは1勝1敗、互角の勝負となったが、例え、名探偵と言われるシェリンガムと言えども間違えることがあると言うことなのだろう。例えば、クリスティーのH.ポワロにしてもJ.マープルにしても、間違えることは絶対になかったのではないか。この辺が、同じ黄金時代を過ごした二人ではあるが、バークリーの独自性が際立っている。

最後に、いずれの作品についても、ボンクラな小生、犯人を割り出すことは出来なかったが、一部の識者が大傑作のように褒めたたえているのにはただただ違和感を覚えた。

(編集子)スガチューの言う通り、世の中のエキスパートとか評論家という人種のセンスは理解しがたいものがある。どっちへ転んだって、要はエンタテインメントなんだから、読んだ本人が面白ければ、それが(少なくともミステリの世界では)傑作なんだと思っている。この2作は小生未読だが、今日時点でいえば、小生が感嘆したのは(実はこの連休に読破する予定だったがまだあと11ページ残っている)、コーネル・ウールリッチのPhantom Lady (翻訳題 幻の女)と、いわゆるエキスパートなら鼻で笑うだろうがクリスティのアクロイド殺人事件で、最後は思わず本を取り落とす(いいすぎかな)ほどのショックを受けたものだった。友人諸君、ミステリの門を叩きたまえ。鬱屈の気分が和らぐぜ。

 

 

 

”月いち高尾” 100回記念  (47 関谷誠 51 斎藤邦彦)

2011年1月に中司ご夫妻、翠川ご夫妻、川内さん、吉牟田さんのわずか6人で(ジャイさんいわく)「なんとなく」始まった「月いち高尾」は14年の年月をかけて100回大会を迎えた。天候はやや霧がかかっていたが過去最多の35人の参加で意気軒昂に高尾山を巡り頂上で記念の写真を撮影した。

1.日時:令和7年(2025)5月12日(月)

2.コース別の山行記録(敬称略、()内は昭和卒年)

(1)シニアコース(世話人:関谷/伊川)

<参加者(22名)>

船曳孝彦(34)愛子、浅海昭(36)遠藤夫士男(36)鮫島弘吉郎(36)高橋良子(36)中司恭(36)大塚文雄(36)矢部精一(37)多田重紀(39)立川千枝子(39)西澤昌幸(39)武鑓宰(40)相川正汎(41)下村祥介(42)木川達郎(46)関谷誠(47)伊川望(47)田端広道(47)平井利三郎(47)齋藤伸介(63)大場陽子(BWV)

<山行記録>

早朝の雨が懸念されたが、京成「高尾山口」に総勢22名が集合。平均年齢76.5、それも80歳以上が15名と途轍もなく元気なグループが、見るからに元気な遠足の小学生に負けずに集まった。その内、健脚グループ(矢部、多田、武鑓、下村、田端、斎藤伸、大場)の7名が、雨後でぬかるむ6号路琵琶滝コースを山頂へ。その他は、ケーブルで「高尾山」駅へ。一般登山者、それもインバウンドの外国人が少なかった月曜朝のもやに包まれた幻想的な参道を薬王院へ、高尾山の神々・天狗に100回記念達成を感謝した。船曳夫妻、関谷は無理せずにここまでとし、他の皆さんは一般コース、琵琶滝コースの皆さんと山頂で合流、記念撮影におさまった。昼食後、三々五々、下山、懇親会に向かった。

(2)一般コース(世話人:斎藤邦彦)

<参加者(10名)>

安田耕太郎(44)吉田俊六(44)村上裕治(46)福本高雄(47)福良俊郎(48)五十嵐隆(51)保田実(51)斎藤邦彦(51)羽田野洋子(51)鈴木一史(60)

<山行記録>

高尾駅北口バス乗り場10:12⇒(バス7分)⇒10:19蛇滝口バス停⇒(1時間)⇒

11:20展望台11:30⇒(4号路吊橋経由50分)⇒12:20高尾山頂上

第100回記念ということもあり 今まであまり使っていないコースを選び、先日調査行をして下さった村上さんを先頭に朝霧の中、出発しました。蛇滝口から霊験あらたかな水行道場を経て高尾山屈指の急登を浄心門近くまで登り、4号路の名所である吊橋「みやま橋」を渡って頂上直下の公衆トイレ横に突き上げた。頂上にはすでにシニア組の半数が到着しており6号路組の到着を待って山頂標識の周りで記念撮影.。100回記念として関谷さんが作った小旗や写真撮影用パネルの百回の文字を見て周囲の登山客から祝福の歓声が上がった。

 

(3)懇親会

<参加者:上記の山行組に加え次のふたりが参加>

中司八惠子(36)浅野三郎(44)

<懇親会の模様>

今回は堀川さんの仕事仲間だった白川さんが経営するガーデンテラスレストランの「TOUMAI(トウマイ)」を利用した。まずは庭に出て記念パネルを掲げての記念撮影を行った後、ジャイさんからの差し入れのワインを開けて乾杯。ドテさんから入部70周年の思い出を伺い、創成期メンバーの中心だったジャイさんから「なんとなく」始まった経緯をお話しいただいた。ご本人は「なぜ?いつから?こんなに賑やかになったのだろう?」と訝しがっておられましたが、おそらく堀川さん(残念ながら今回は欠席)のお力が大きいのではということだった。現幹事の関谷さん、伊川さんからもお話を頂戴し次回以降は世話役を斎藤邦彦、齋藤伸介が引き継ぐということで会のより一層の発展を図ることとなった。

<関谷より> 2017年12月、高尾山で忘年BBQを三陸直送の生カキ・アヒージョを堪能する集まりがあると、堀川さんに声を掛けられたのが切っ掛けで、山口県防府市在ながら、機会あらば「月いち高尾」に参加し始めたのが運の尽き、2021年末、堀川さんを始めとする世話人に懇親会後に呼び止められ、「来年からお前に任す」との一言。遠方在住ながら、諸先輩には抗し切れず、2022年1月から世話人代表を務めさせていただき、何とか、節目の100回目まで世話人として微力を尽くしたが、これはひとえに同期の伊川さんと51年卒の斎藤さんの力強い協力とメンバーの皆さんのご理解によるものと感謝。。ここにきて、思わぬ病魔に襲われてしまったが、早々に、皆さんと「月いち高尾」で汗をかき、「天狗」にてキンキンに冷えた生での一杯を楽しみに療養に頑張る覚悟。ありがとうございました。

(編集子)気がつけば100回だった、というのが正直な感想だった。37年の矢部君は比較的新しいメンバーだが、彼が細田小屋で昼飯のとき、 ”ジャイさん、これで何回目?” と言い出したのがきっかけだった。ヤッパは現役時代から突飛もない発想をする男(それとどういうわけかゴルフだけは妙にうまくなった)だったが、今回はその突飛さに感謝。

同期での集まりにどこから聞きつけたのか、38年の町井かをるが参加したのが8回目、39年の堀川義夫が10回目で、それ以降、五月雨的に同期生以外の参加が始まり、極めて自然に今の卒業年度を超えた行事になった。世の中に三田会という組織はたくさんあるが、その中で年度を超えての濃密な交遊があるのは我々だけだ、と言い切ってもいいかもしれない。小生が総務(今でいう部長?)になった年が創立25周年で、そのときはじめて、OBとのお付き合いを経験した。そのとき、同期の感激屋の田中新弥は ”我々は太い絆で結ばれている” と表現したものだが、その後、OB会という組織がそれ自体で意味を持つことはなかった。今回の成果がでたのは、34年卒の妹尾さんが築かれた路線があったからこそ、自分でいえば孫にあたる世代の諸君とあたかも同期生のような気持ちで接することができたのだとつくづく感じる。

時間は冷酷なもので、小生もいきがっては見ても足の衰えは隠せない。かの長嶋茂雄の有名な挨拶をかりれば、”気力体力ともに限界を知り、バットを置く” けれども、 ”わが月いち高尾は永遠に不滅でーす!” という日も遠くはあるまい。新幹事以下、各兄のご健闘を祈るや切、であろうか。

 

 

薔薇の絆ー 60年の友情   (41 斎藤孝)

教育と研究そして大昔の職場のお仲間は60年に渡る「薔薇の絆」を祝った。

遠く仙台からも来てくれた。80歳過ぎになっても友情は20歳代の若き情熱と同じだ。薔薇は祝福してくれた。まもなく90歳になる長老は自然体の人生を強調された。

見習って、頑張ろう !! まだまだワインを飲み続けよう !!

平和な鵠沼で、「薔薇の絆」のお仲間はワインとバラを楽しんだ。

 

乱読報告ファイル (43) 鹿鳴館の花は散らず   (HPOB 小田篤子)

980年5月、WHOにより、世界根絶宣言が出された、と8日の新聞に一面広告が載っていました。又また偶然に、植松三十里さんの本「鹿鳴館の花は散らず」で佐賀藩の天然痘に関わる話を読んでいるところでした。

岩倉具視の娘の(戸田)極子/きわこ)と岩倉具視の長男具義に嫁いだ榮子(ながこ)、一時義理の姉妹になったふたりの話が主です。
*極子は、女癖の悪い伊藤博文に抱きつかれ、裸足で馬車に乗り、逃げ帰った事がありました。この事件は新聞で報じられ、榮子は彼女のために伊藤博文の妻に頼み、後に、外交官の夫とオーストリアにいきます。
*榮子の夫、具義は結婚1年ほどで寝たきりとなり、榮子が23歳の時亡くなりました。
*その後岩倉具視はすまなく思い、共にバツイチの、佐賀藩主でオックスフォード出の外交官、鍋島直大(なおひろ)(父は直正)を紹介、ふたりは結婚しローマへ赴任します。
*種痘の話ですが…佐賀藩は長崎港の警備を担当したことから、蘭学を学んだ者が多く、シーボルトから種痘について教えられていました。 牛の乳搾りの娘たちが天然痘にかからないことから、種痘が始まり、佐賀藩では、試行錯誤の末、かさぶたを陶器に入れ、蓋を密閉してオランダから輸入。
蘭医の子供、そして藩主直正は自分の娘や息子(直大)に試し、その後江戸詰佐賀藩士の子供たちや出入りの御用商人の子供に接種。評判になると神田のお玉ヶ池に種痘所を開いたりしています。
(編集子)ミッキーの真面目な話のあとがきにはふさわしくないだろうが、小生の岩倉についての知識は(実は日本史のほぼ全域についてなのだが)、もっぱらかの司馬遼太郎の諸作品から得たものだが、我が高校の先輩(小生が引き揚げで遅れていなければ同学年なんだが)加山雄三はその何代目かにあたるはずである(ということが司馬の作品にでてくるわけはないが)、ということくらいだ。申し訳ない。
一晩寝たら思い出した。小淵沢に持ってるセカンドハウスの3軒隣が 桂さん というのだが、この人は桂小五郎の直系子孫なんだそうだ。あとは鞍馬天狗の子孫が見つかれば、このあたりは風雲急を告げる幕末が戻ってくる環境らしい。