乱読報告ファイル (39) 米欧の分裂と日本の選択

先回本稿で書いた ”西洋の敗北” の著者、エマニュエル・トッド博士の論文が文芸春秋5月号に紹介された。現在論争の火種になっているトランプ外交についての解説として非常に明快なものだ。

今回の寄稿はホワイトハウスでの、ゼレンスキーとトランプ・ヴァンスの首脳会談を、”前代未聞のショー―一つの文明のルールが崩壊した場”という衝撃的なイントロで始まっている。トッドはこれをさらに、米国の新たな ”野蛮さ” が露呈した歴史的瞬間で、破廉恥にも全世界に生中継され、欧州にとってはまさに ”文明の衝突” とも言える事件だった、とし、”トランプ政権の首脳陣が揃って欧州への憎悪と軽蔑をあらわにした”、とも書き足している。

この論文はウクライナ問題をめぐっての話だが、もともとウクライナは自力でロシアと戦えるはずはなかったのが、米英の支援によってロシアが脅威と感ずるほど増強された。その上の支援を受けてもロシアに勝てないのは明確になった今、停戦を論議することは正しい。しかし起きていることは勝者のロシアと敗者としての米国プラスウクライナ、であるのに、あたかも米国はウクライナよりも上位にいる仲裁者、とみせかけている茶番劇である、と断言し、これによって彼のいう ”西洋の敗北” が具体的な事実となるだろう、というのだ。それがどのように起きてくるかはまだわからないが、現時点で確実に言えることは、トランプの行動は不確実で予測もできないが、プーチンの冷静な言動は一貫した論理に基づいたものだ、と書いている。ウクライナへの侵攻は決して突然起きたことではなく、以前からNATOがウクライナを包含する、と宣言した時点で、それは絶対に許さない、とプーチンは明言していた。このようにして起きてしまった、有言実行のロシア vs 予測不能なアメリカ という図式の結果、アメリカを信用したジョージアは結果として領土の2割を失い、ウクライナもその轍を踏むであろう。そしてその不確実性、はいまやトランプ体制のもとでさらに悪化している、というのだ。

”西洋の敗北” は本来欧州の中心にあるべき国々、特にイギリス、ドイツとフランスの迷走によってますます激化し、彼らが理論と行き過ぎた理想論から導き出したEUが、実は国民レベルに大規模な混乱を引き起こしている。それに比べた時、プーチンの指導力と実行力に支えられたロシアの優位は揺るがないものである、と言えるようだ。

EUという体制が実現する前夜、当時編集子は大学で社会思想史に興味を持っていた。この分野とくに欧州思想史の泰斗であった故平井新教授はこの動きを知って、”君たちはこのような歴史の転換を目の当たりにできる時代に生きている。この事実をよく理解したまえ”、と言っておられたものだ。あのころの高揚感にくらべて、いまの西洋の敗北、をだれが予想しえただろうか。

そのトランプの政治姿勢は今やアメリカ経済を支配している一連のIT企業オーナーのスーパー富豪たちが牛耳る形になっているが、その背景や見通しについては、本書でトッド論文の次に掲載された前駐米大使富田浩司氏のトランプ外交に関する解説に詳しい。現在、トランプをめぐって論争が激しいが、文春掲載のこの二つの論文はトランプのみならず、アメリカの現実を理解する貴重な資料となるだろう。トランプ現象に興味を持たれる方のご一読をお勧めする。文春1冊、1200円は決して高くない投資と思うのだが。

エーガ愛好会 (319) ”リオグランデの砦 ” をめぐって

ジョン・フォード監督&ジョン・ウェイン主演による名作西部劇で、「アパッチ砦」「黄色いリボン」に続く「騎兵隊3部作」の最終作。ジェームズ・ワーナー・ベラの短編小説を原作に、西部を守る騎兵隊の活躍と家族愛を描く。メキシコ国境に近いリオ・グランデ川の砦を守る騎兵隊のヨーク中佐は、西部を荒らしてはメキシコへと逃れる横暴なアパッチ族に手を焼いていた。ある日、別居中の妻キャスリーンと暮らしていた息子ジェフがヨークの部隊に赴任し、息子を心配するキャスリーンも砦にやって来る。厳しい軍隊生活の中でジェフは次第に逞しくなり、ヨークとキャスリーンの仲も少しずつ修復されていく。そんな中、アパッチ族の大軍が砦を襲撃する。妻キャスリーン役に「静かなる男」のモーリン・オハラ (以上、グーグル記事)。

西部劇のキング、ジョン・フォードに 騎兵隊三部作、というシリーズがあるのはよく知られている。いずれもジョン・ウエイン主演、いわゆるフォード一家総出演のくつろいだ作品である。もっともフォードはこの三部作を当初から考えていたわけではなく、自身の故郷であるアイルランドを舞台にした、かの ”静かなる男” の製作をする条件としてプロデューサ側から西部劇の作品製作を条件とされ、いわば仕方なく作ったのがこの リオグランデの砦 だったという。先 にヒットした アパッチ砦 の続編のようなストーリーで、前作では野心家の上司(ヘンリー・フォンダ)の暴挙をなんとか収めようと苦労する先任者のヨーク大尉という役柄を作っていたので、その人物が出世して辺境のリオグランデを守る立場にある、という形で続編という位置づけになっている。三部作のいわばエンディングになるのが 黄色いリボン で、退役を迎えた老大尉を描き、典型的な騎兵隊将校の半生を三作品で描いた形に収まったことになるが、ストーリーとしてはアパッチ砦とこの作品が当初から意識された連作ということになる。アパッチ砦 の話は明らかにカスター将軍がスー族に殲滅された事件が下敷きになっているが、この話は 駅馬車 の冒頭や 黄色リボン でも出てくる史実として西部劇によく出てくる(この悲劇を映画化したのが エロール・フリン の 壮烈第七騎兵隊)

ともあれ、この三部作では助演で登場するヴィクター・マクラグレン、ベン・ジョンスン、ワード・ボンド、ハリー・ケリー・ジュニアのかけあいが何とも楽しい。ジョン・フォードはアイルランド系の俳優をひいきにして使ったことでも知られているが、女優でいえば何といってもモーリン・オハラだ。我が谷は緑なりき をはじめとして多くの作品でなじみではあるが、編集子はこの リオグランデの砦 でのオハラ が一番気に入っている。ジョン・ウエインが癌で余命いくばくもなくなった時、オハラが全米に涙ながらによびかけて、ウエインの復帰を祈ったことはよく知られているが、やはり最高のコンビだったのだろう。

リオグランデ、という地名は西部劇ではこのほかにもメキシコとの国境線に横たわる地域、ということで、たびたび登場する。メキシコ、といえば今やトランプ騒動で物騒になっている国だが、古き良き時代を振り返れば、ジャズではスタンダードナンバーの South of the border は アロハオエ というアメリカ製ハワイ節が天国ハワイ、というイメージを作り出したように、この国にはアメリカにはない、いわば隠遁の楽園みたいな夢をいだかせた。エーガの例では あの Getaway  の結末、ミステリでいえば何度も繰り返しになるが 長いお別れ でも背景にもそういう感覚が感じられる。これからアメリカとの関係がどうなるかはわからないが、国境の辺地、のロマンは生き続けるだろう。

ウキペディアによる解説によると、リオグランデ、という名前はまたリオ・ブラーボとも呼ぶらしい。そうするとかのウエイン娯楽作、リオ・ブラボーというのは地名だと思ってきたのだが、もう少し違う意味なのかもしれない。以下、その解説のまとめをあげておこう。

リオ・グランデ川(リオ・グランデがわ、Rio Grande)は、アメリカ合衆国コロラド州から流れ出しメキシコ湾へ注ぐである。スペイン語で、リオ(Río)は川を意味し、リオ・グランデ(Río Grande)は、「大きな川」という意味なのだが、メキシコでは、リオ・ブラーボRío Bravo、怒れる川)またはリオ・ブラーボ・デル・ノルテRío Bravo del Norte、北の怒れる川)とも呼ぶということだ。

コロラド州のサンフアン山地英語版に源を発し、サンルイス谷英語版を流れてニューメキシコ州に入る。アルバカーキラスクルーセスを流れ、テキサス州エルパソに至る。エルパソ、シウダ・フアーレスから下流は、1845年からアメリカとメキシコ国境となっている。南東へ流れマタモーロスの東側に小さな三角州を形成しメキシコ湾に注ぐ。

リオ・グランデ川は高い山地を源流とし、かなりの部分は標高の高い場所を流れる。エルパソの地点での標高は1,147mある。ニューメキシコ州ではリオ・グランデ地溝英語版を流れ、エルパソからは東にチワワ砂漠の中を流れる。亜熱帯であるリオ・グランデ谷英語版では大規模な灌漑農業が行われている。長期間雨がほとんど降らないと、水は海まで到達しなくなる。

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風邪気味だ、という理屈をつけて, かのアンノウン直伝のホットバーボンをひっかけてよく寝た。目が覚めた時に突然思い出した。我が高校時代、ヒットソングのひとつ、ミッチ・ミラー合唱団の傑作、”テキサスの黄色いバラ” だ。歌詞はこうなっていた。

There’s a yellow rose in Texas, That I am going to see,
Nobody else could miss her, Not half as much as me.
She cried so when I left her It like to broke my heart,
And if I ever find her, We nevermore will part.

[Chorus]

She’s the sweetest little rosebud That Texas ever knew,
Her eyes are bright as diamonds, They sparkle like the dew;
You may talk about your Clementine, And sing of Rosalee,
But the YELLOW ROSE OF TEXAS Is the only girl for me.

When the Rio Grande is flowing, The starry skies are bright,
She walks along the river In the quiet summer night:
I know that she remembers, When we parted long ago,
I promise to return again, And not to leave her so.

テキサス、といえばかつては Lone Star State と呼ばれ半独立国であったくらい、お国自慢の土地だ。ここでのリオグランデ、は、岩手でいえば北上、京都なら加茂、といった感じだろうか。

この歌詞でもう一つ。本題とは関係ないが、コーラスの3行目、You may talk about your Clementine というくだりだ(調べてみるとこの原曲は1850年代、争乱のあったテキサスの軍歌だったらしく、ここには娘の名前ではなく、敵将の名前がはいっていたらしい)。クレメンタイン、名画(と僕は思っているのだが)荒野の決闘、の現題は My Dalring Clementine だ。テキサスがバラの土地なのかどうかは知らないが、これもまた、人々の間に親しまれた名前なのだろう。

(HPOB  小田)リオ·グランデ川…ルート66の旅でアルバカーキ辺りで横切っていると思うのですが、気が付きませんでした!

息子役のクロード·ジャーマンJrは、「子鹿物語」の愛らしい時から背は高く、8等身近くになっていますが、顔はゴツくならず変わっていませんね。
子鹿物語では可愛がっていた鹿が作物を荒らし、父親に殺してしまうか決断を迫られましたが、今回は父親の胸に刺さった矢を抜くよう、迫られています。
90歳の今年1月に亡くなられています。
モーリン・オハラはこの映画の9年前(’41年)の「わが谷は緑なりき」の綺麗な姉役を演じていて、気丈なアイルランド女性と思わせました。クロード・ジュニアはプレスリーの話題によく出る、テネシー州ナッシュビル出身ですね。
また、Giさんのお好きな場面で流れる「I’ll take you home againKathleen」はプレスリーも’71年5月にレコーディングしていて、CDで時々聴いています。翌年3月に離婚しているからか、悲しげに歌っています(注:オハラが来た夜、部下たち(実演はサンズ・オブ・パイオ二―アズ)が聞かせる。そういえば、ウエインとオハラは離婚した過去があることになっている)。このシーンがまた、いいのだ)。
(中司―小田往復)
*このCDってどんなの?
*フーエルヴィス·プレスリー」というタイトルで ’71〜’72にレコーディングされた作品が入っています。

*ありがとう。今手に入れる方法があるかなあ。アマゾンだと意外に古いものもあるけど。
アマゾンにしっかりあったよ!

だけど中古で1万6千円だそうだ。やーめたったと!
ミッキー手持ちのやつ、コピーしてくれたらシャルドネ1本、ていう ”ディール”、いかが。
セーブゲキの楽しみはガンプレーや牛の暴走ばかりじゃないんだぜ、諸君。

 

 

 

 

”紙の情報” について  (41 斎藤孝)

KWVの先輩である船曳さんの(KWV三田会の情報運営に関する)ご提案を拝見する機会があり、感ずるところがあった。そもそもはOB会名簿の形態をどうすべき、という議論であるが、ご提案の中の、

「情報の漏洩は各個人の責任であり、紙の名簿の存在自体ではないはずです。」

船曳先輩のこの一行には、全面的に賛同する。しかし小生が専攻してきた分野の視点からは多少の異論を持つ。以下、私見を書かせていただく。 

紙の末路は本屋や図書館の未来と同じである。紙以前のパピルスは同じような運命をたどったが、文字は残っている。したがって論点は文字を記録するメディアが紙なのかデジタルメディアであるのか、ということになろう。

新聞は出版側が編集割付というスキーマ(注記参照)を決め、読者側は新聞というスキーマ(例えば政治面や三面記事など分類された)を読む視点が習慣づけられてきた。単行本や雑誌も同じく出版側と読者側は共有するスキーマによって情報提供され受け取られてきた。このような文字情報の「視点を学ぶことがリテラシー」であったのだ。

紙による名簿や冊子体の私的書籍であっても、このようなスキーマは意識される。紙による出版文化はスキーマ(言い換えればリテラシー)こそが知的伝統として学問や知的体系の形成に役立ってきた。なによりも紙は生の手に取り自己の知的ペースで操作できる。このようなアナログ習慣を忘れてしまえ・・という乱暴なデジタル世相、そこに恐怖があり、ここではこの古典的リテラシー崩壊というジレンマが憂えられているのだと思う。

デジタルでもその従来のスキーマを受け継ぐものとしてPDFなどがあって、PDFは図書や新聞など紙の編集(スキーマ)をそのまま受け継いできた。ただPDFはデジタル情報として冗長で無駄が多い。あくまでも紙の読者向けの過渡的な存在であるので、紙ではなくデジタルで提供されるので、スマホやPC操作が必要になり、電子本や電子冊子と呼ばれている。

ガス車やハイブリッド車がEDに移行する程度ならば、スキーマ(自動車という概念)は変わらない。ところが空飛ぶ車となると、それが車なのか飛行機なのか、それとも新しいスキーマとして理解すべきか悩むことになる。

余談が長くなってしまった。小生は所見として「紙の末路は本屋や図書館の未来と同じだ」と考える。船曳先輩の言われるように、名簿の簡素化が行われれば、絆は薄れ、おそらく10年後には今の形態のKWV三田会は消滅してしまう、という可能性はあるけれども、新たなデジタル時代に合致し追随できるKWV三田会という存在の可能性も検討すべきであろう。是非とも新たなデジタル時代のKWV三田会の存在について議論が展開されていくことを願う。

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(ウイキペディア抜粋)スキーマ英語schema)、シェーマドイツ語Schema)、シェマフランス語schéma)とは、もともとや図式や計画のことを指す言葉で、今では様々な分野で広く用いられる言葉である。「スキーム」 (scheme) とスキーマはほぼ同じ意味であるが、一般にスキームが具体的にほとんど完成された計画や図を意味するのに比べて、スキーマはその手前のおおまかな(概念)状態を指すことが多い。コンピュータサイエンスにおいては、スキーマ言語とは、文書構造を定義する言語を、データベースの分野において、ある種の定義のこと。

錦糸公園さくら祭り-宴はオシマイ (普通部OB 船津於菟彦)

緋寒桜から始まり枝垂れ桜から大島桜・染井吉野等々次々咲き矢張り春の来ない日本は無い。やや今年は遅かったり早かったり櫻の開花はやきもきしましたが、自然チャンと巡って参ります。
ここ錦糸公園も華やかな宴がこの日曜日で終わり雪洞とかライトアップを片づけています。地球温暖化で春だか夏だか冬だか分からない今年の櫻の季節でしたね、このまま行くと2030年には櫻は咲かないかもと言う学者さんも居ます。寒暖の差があって初めて櫻は咲くようです。秋と春が無いような日本になって貰っては困りますね。矢張り春夏秋冬商い繁盛がニッポン。

初桜 折しもけふは 能日(よきひ)なり  松尾芭蕉
咲く心しだれ桜に置きそめし 稲畑汀子
さまざまの 事思ひ出す さくらかな 松尾芭蕉
提灯は 恋の辻占 夕ざくら 高浜虚子
夜桜も賑わいました
夜桜や 天の音楽 聞し人 小林一茶
夜桜に 後ろの闇の ありてこそ 今井つる女
一杯の ビールに酔いひて 夜桜へ 星野立子

夜桜はライトアップされ遅くまで多くの人が賑わいました。多少雨でも寒くても夜桜に酔い

散る桜 残る桜も 散る桜 (良寛和尚)

ハラハラ落ちる染井吉野。散る櫻と花吹雪を観ると何か人生を感じますね。あぁ今年も春は終わっていよいよ夏かぁとか。亡き友人を思い出したり。

トラさんの狂気に振りまわされていますが、戦後は芋を食べたりランプ生活もしましたね。贅沢は敵だ鬼畜トランプなのかなぁ。まぁ我慢比べ。繁栄しすぎた日本がトラさんのお陰で「普通の生活」に戻るチャンスかも。欲しがりません勝つまでは。一戸一灯一テレビで我慢なのかなぁ。
ぽつんと一軒の様に自給自足で幸せに心豊かに生活されて居られる方いますよね。

(編集子)そうか、そういう見方もあるのか。おめえ、時にはいいこと、言うなあ。

エーガ愛好会 (318) ”ロードショーが150円” 追補 (大学クラスメート 飯田武昭)

川本三郎「ロードショーが150円だった頃(副題:思い出のアメリカ映画)」の菅原さんの読後感に興味をそそられ、著者の川本三郎を調べたところ、菅原さんが述べられているように代々木の自家を昭和20年5月の空襲で全焼するなど、極めて我々の世代に近い経験をしている(その後の麻布中学・高校から1浪で東大法学部卒、朝日新聞・朝日ジャーナルは全く別)。

評論家・翻訳家であるのに、1950年代、60年代の洋画を沢山観てきて懐かしがっている点、私も共感を得る一人です。この種の映画評論に関するエッセイで面白く読めるのは和田誠の「お楽しみはこれからだ」や池波正太郎の「映画を観ると損をする」などで、川本氏の著書もその類の著書かとも思う次第です。

それにしても川本氏の著作の数は驚くほど多く、そんな中でロードショウ、2流館、3流館と、よくぞそんなに映画を観る時間があったな~と驚きます。多分、その点、私は数だけでは負けていないのでは?と密かに思っています。

菅原さん曰く                              ≪いずれにしても、こう言った1950/60年代の映画が連なって来ると、こう言う類いの本の一番イケナイところは、見たくなる映画がゴマンと出て来ることだ。当時を思い出して懐かしさが込み上げて来るのは、年寄りとしては、致し方ないだろう。特に中でも「ハリーの災難」「成功の甘き香り」「十二人の怒れる男」「渚にて」「アラバマ物語」など≫

このくだりで、私の感想ですが何れの映画も過去数年間に再見、再再見していますが、「ハリーの災難」以外は全てモノクロ撮影ですね。「ハリーの災難」以外は概ね明確なテーマ性、作者の主張がある映画だと思います。全て佳作・面白い(愉快と言う意味でなく観て面白い)映画です。

「ハリーの災難」ですが、制作当時に映画館で見た時が1番面白かったです。その後は観るたびに興趣が少しずつ下がって来たのは、映画の舞台がニューハンプシャー州、バーモント州の田園風景の紅葉の時期に起こる殺人事件と言うヒッチコック特有のシュチュエーションのために、この地方特有の黄色を基調にした紅葉の色の美しさが徐々に経年劣化で薄れてくるためと感じています。西部劇の名作「シェーン」なども同じ理由で、公開当時が一番楽しめ、昨今のテレビ放映では相当に色彩の劣化が進んでしまっています。「拳銃王」も割合近年(2020年)にBSシネマの放送がありました。再見してみます。

 

藤沢蓮池公園 - ブキさんのこと     (41 斉藤孝)

老人仲間とのラジオ体操は近くの蓮池公園で楽しみます。小さな湖水は蓮で一杯になります。やがて赤い蓮の花が見ごろになります。水辺の蓮池公園には数本の大きな赤松と柳があります。

ここは悲劇の公園でもあります。平成17年(2005年)7月7日七夕の日でした。KWVのS38先輩である岡崎昌子さん親子は大きな松の木の下で雨宿り中に雷にうたれて亡くなられました。

 その柳は蓮池公園内ですがブキさん親子が落雷に遭われたの大きな松は、写真中央です。20年前は稲妻の後が一部黒く焦げていましたが今は、御覧の通り立派な松の大木になりました。今でも鮮明に思い出すのは激しい雷の稲妻と土砂降りでした。岡崎さんと娘さん、そして愛犬はこの松の下で雨宿りをされていた。その後の悲劇は地元では有名になりました。カメも当日に現場に行きました。

愛犬だけが生き残りご自宅に帰って来ました。岡崎県知事は自治省出身で大変な人格者で藤沢市民からも人望がありました。カメは藤沢市民として岡崎夫人の後輩であること誇りにしていました。ブキさんも優しいお人柄でテニスなど御一緒しました。鵠沼地区のプロテスタント系幼稚園にも熱心にご指導されていました。お二人の棺を載せた霊柩車はご自宅から駅前を通り市営墓地へと向かいました。実に厳かな市民葬でした。それにしても写真では立派な松に成長しました。本日、4月12日に見てきて驚きました。

カメと年寄り仲間は毎朝、この鵠沼蓮池でラジオ体操に励んでいます。そして亡きブキさんを偲びいつも合掌しています。

(編集子)穏やかなやり方でありながら確たるリーダーシップを発揮してくれる、たよりになる ”2年生” だった。最後に会ったのは事故の少し前、伝説の ”八甲田合宿” を忍ぼうという企画で、当時の4学年仲間で東北ワンデルングをやった時だった。帰途のバスの中で、小生のすぐ後ろに陣取り、八戸までのの間、同期の町井(旧姓舟橋)としゃべり続けていて、こっちは居眠りができなかったことを覚えている。20年もたったのか、まさに感無量(こういう場合に適切な用語ではないかもしれないが)というだけである。合掌。

我が家もお花見でした  (HPOB 小田篤子)

昨日は水道管工事で13時〜17時まで断水。ならば、トム・ハンクス出演の《HERE》でも見に行こう…と決まり関係記事を読んだりしたのですが、朝になると良いお天気のお花見日和!

立川で映画館横を素通りし、昭和記念公園に行ってしまいました!

花火、紅葉、Xmas、ビールフェスティバル、駅伝予選会…などで訪れているのですが、お花見は始めてでした。
(船津)エーガ「チャップリンの独裁者」を観て居たら何故かトラさんの狂気と同じですなぁ。
気分改めて明日は雨とか言うので最後?の錦糸公園花見 八重桜が満開。ピンク色です。染井吉野も風で花吹雪すると茎がピンク。白からサクラ色。

福島ミニ合宿   (42 保谷野伸)

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同期14名での掲題ミニ合宿(4/9・10)は天気も良く、新幹線+レンタカーでの「早春の福島」を堪能しました。(幹事はDr河瀬とシモさん)

①  9日の花見山公園(1時間トレッキング)では、満開の桜と菜の花、サンシュ、モモ、レンギョウ等各種の「花の絶景」を楽しみました。(写真添付)

②  10日の会津、喜多方は、桜はまだ早かったのですが、鶴ヶ城や(蔵の街)喜多方の(酒蔵等)散策を楽しみました。

③  宿泊は東山温泉のリゾートホテル、「東鳳」で温泉も料理(バイキング)も十分満足できるものでした。最後に、平均年齢80才を超す14名(男7名、女7名)がドタキャンもなく全員2日間無事クリアできたのが何よりでした。

乱読報告ファイル (38)ロードショウが150円だったころ (普通部OB 菅原勲)

副題:思い出のアメリカ映画。著者:川本三郎、発行:晶文社、2000年。

川本は1944年生まれだから、小生とは6歳の違いがある。でも、以下のように見ている映画がほぼ重なっているから、1960年では川本16歳、小生22歳。川本がませていたのか、小生がボンクラなのか。その理由は、両方だろう。

彼は、この本が発行された2000年当時、あとがきでこのように述べている。「50年代から60年代にかけてのハリウッド映画は、いまよりずっと面白かったと思う」。その時代のアメリカ映画を語っているのがこの本で、ちょっと長いが、以下、全部で52本。ただし、例えば、「オクラホマ」、「ワーロック」、「許されざる者」など文中だけで言及している映画もあるが、余りにも煩雑になるので目次で示されている映画だけに限った。また、彼は、十代の映画少年にとって劇場プログラムは宝物だった、とプログラムを絶賛している。

ただし、彼はロードショーばかりを見ていたわけではなく、その値段が150円だった頃のことを回想して述べているのであり、ロードショーは勿論、二番館、三番館でも映画を楽しんでいる。なかでも、彼の大好物は西部劇で、作家の逢坂剛と西部劇について対談している本もある「大いなる西部劇」(新書館。2005年)。ただし、彼の好みは、例えば、監督はジョン・フォードではなく、同じジョンでも、「ゴーストタウンの決闘」、「OK牧場の決斗」、「ガンヒルの決斗」などのジョン・スタージェスであり、俳優はジョン・ウェインではなく、同じ「リオ・ブラボー」に出ていたリッキー・ネルソンと言った具合なのだから、そのねじ曲がり具合は尋常ではない。それを象徴しているのが、この本が、西部劇で始まり、西部劇で終わっていることだ。小生は見ていないが、冒頭の「拳銃王」(The Gunfighter。1950年)を「異色の西部劇」と呼んでいるが、何故なら、グレゴリー・ペック演ずる主人公がガンマンを止めたがっているガンマンと言う設定なのだ。また、とりを務める「ハッド」(Hud。1963年)を、川本は「西部の夢の終り」と名付けている。テキサスを舞台に、ポール・ニューマン(主人公のハッド)が出演しているのだが、全体にたそがれの西部という寂しい雰囲気にひたされていると言う。しかし、この類の西部劇を、川本は好んでいるようだが、小生は、イジケテいるからイジケタ西部劇と呼びたい。

いずれにしても、こう言った1950/60年代の映画が連なって来ると、こう言う類いの本の一番イケナイところは、見たくなる映画がゴマンと出て来ることだ。当時を思い出して懐かしさが込み上げて来るのは、年寄りとしては、致し方ないだろう。特に、中でも、「ハリーの災難」、「成功の甘き香り」、「十二人の怒れる男」、「渚にて」、「アラバマ物語」など。

蛇足だが、1960年当時の初任給を10000円とすると、150円の出費は可なり痛い。でも、一般大衆にとっての娯楽は、まだテレビではなく、その殆どが映画だった。従って、映画館で映画を見物する人口も、その後、テレビ、ビデオなど映画館以外での選択肢が大幅に増えたことにより、1960年の10億人以上から2012年の1億5000万人へとこの間殆ど1/10にまで激減してしまった、と伝えられている。

目次で取り上げられた52作品(太字は、小生が見た映画30本、*は西部劇13本)。 (編集子が見たものは g を付けてみた。スガチューにはやはり敵わないことがわかるのは一目瞭然)

「拳銃王」*

「ハーヴェイ」

「真昼の決闘」* g

「赤い風車」

「裸の拍車」   g

「シェーン」*  g

「悪魔をやっつけろ」

「大アマゾンの半漁人」

「ケイン号の反乱」 g

「裸足の伯爵夫人」 g

「雨の朝巴里に死す」

「ヴェラクルス」* g

「星のない男」* g

「情事の終り」

「日本人の勲章」

「東京暗黒街・竹の家」

「エデンの東」  g

「七年目の浮気」

「海底二万哩」

「マーティー」

「ハリーの災難」  g

「ピクニック」  g

「山」

「禁断の惑星」

「必殺の一弾」*

「ジャイアンツ」g

「友情ある説得」

「翼よ!あれが巴里の灯だ」g

「めぐり逢い」

「成功の甘き香り」

「戦場にかける橋」 g

「青春物語」

「情婦」  g

「若き獅子たち」

「ゴーストタウンの決闘」* g

「愛する時と死する時」

「手錠のま脱獄」

「大いなる西部」*  g

「大戦争」

「月夜の出来事」

「縛り首の木」*  g

「旅路」

「走り来る人々」

「十二人の怒れる男」

「ガンヒルの決斗」* g

「或る殺人」

「夜を楽しく」

「渚にて」

「スージー・ウォンの世界」

「荒野の七人」*  g

「アラバマ物語」

「ハッド」*

 

”コミュニケーションをとる” と言う言い方

人間年を取るにつれてそれまでは気にも留めなかったことがいろいろ気にかかるものらしい。本稿でも何回か、若い人たちの間で使われる、いわば現代語、について書いたことがあるが、今回は コミュニケーション という英語(ま、準日本語と言っていいのかもしれないが)についてのいちゃもんである。

先日、巨人戦の実況をみていた時、回のあいまのベンチの映像を見て、解説者が文脈はよく覚えていないのだが、投手とコーチが何やら話し合っている画像につて、”・・・・・こういう風な場面に経験の深いコーチとコミュニケーションをとることが非常に重要である” 云々としゃべっていた。言おうとすることはわかるのだが、なんでこんな場合にコミュニケーション、なんていう言葉をつかうのか、いつもながら違和感があった。 ”よく話し合う” とか、”意見を聞いてみる”などといったほうが自然ではないのか。なにか コミュニケーション ということのほうが程度が高いとか、そんな程度のことなのだろうが、こういう場面によく出くわす。僕がサラリーマン人生、まあまあ人並みにこなせたのは、なんといっても早い時期にこのコミュニケーション、というものの真のあり方を叩き込まれ、武骨に実践してきたからだと思っているので、そのことについて感想を書く(関係ないが、先日、KWVOB会の竹原君から、小生の愚痴話をなんと ”天下のご意見番” と持ち上げてもらった。気恥しいけれどもそんなことになればこのブログもやっている価値があろうかというものだ)。

僕が就職をまじめに考えていた時期は、まだまだ経営といえばアメリカのほうが優れていて日本は遅れているのだ、というような風潮が支配的だったし、なんだかMBAなんてのがいるらしい、どっかで講習を受けた方がいいんだろうか、なんて時代だった。その頃、日本経営の問題点は、物事が論理的に解決されない、万事人間関係やありていに言えば親分子分仁義で決まってしまうことが多い。これは直ちにアメリカのようにきちんとしたフォーマルなコミュニケーションで論理的に解決するようにしなければならないのだ、という空気が支配的だった。小生は新聞記者になる、という夢に見切りをつけてからは、サラリーマンならどこでも同じだろう、位にしか考えずに家族的社風、ということで会社を選んだので、職場の雰囲気にせよ意思決定プロセスにせよ、そんなもんだろう、位で納得していたものだ。だから2年経って新進アメリカ企業として評価の高かったヒューレットパッカードとの合弁会社に移籍が決まった時は学生時代に理解していた、フォーマルコミュニケーションに基づいた論理一点張りの会社になるのだろうと思い込んでいた。ところが、移籍して間もなく、親会社から派遣されてきたマネジメントチーム(ま、占領軍司令部みたいなもんだったな)から、”この会社ではインフォーマルコミュニケーションを重視するのだ” と言われたときはただひたすらにびっくりしたものだった。これは会社の二人の創立者、ウイリアム・ヒューレットとデヴィッド・パッカードが卓越した技術者であると同時に事業を成すのは人間であり、お互いの信頼だ、という思想というか信念の持ち主であったからだ。

小生自身体験したのだが、初めてヒューレットと話をする機会にえらく緊張して ”Mister Hewlett…” と呼んだら、 ”Mister Hewlett is my father.  I’m Bill” と言われたものだ。これに倣って、会社ではお互いを呼ぶのに一切肩書を使うことをせず、課長だろうが部長だろうがつねに ”鈴木さん“”田中さん” と呼び合うことになった。このことが真の意味でのコミュニケーション、という土台を築き上げたのはまちがいない。当時の生産現場は中学出たての少女たちがずらりと並ぶ、典型的なシーンであったが、そのラインの中から、”ジャイさあん、ちょっとおしえて!”なんて声がかかったり、社長の横河さんが月末の出荷時期になると搬送場へ現われて、”俺にも箱詰めぐらいやらせろ”と冗談をいったりという、僕にとってみれば浅貝の小屋の雰囲気のような一体感があった職場だったのだ。(僕は当然ながらジャイ、ジャイさん、であり、英文では Gi Nakatsukasa とサインしたから、HP社取締役会議事録のどこかに Gi という名前が、例えば President  Shozo Yokogawa や、もしかすると David Packard 、などと並んで残っているはずである)。こういう全体としてのコミュニケーションを前提として、マネジメントは目的を示し、職員はそれに向かって自発的に動く、というのがこの会社の基本原理であった。技術という面ではもちろん世界水準を行く優良企業ではあったが、この経営思想と実践とがHPという企業の真価だったのだ。

話が少しずれた。言おうとしたのは、今気軽につかわれるようになった、コミュニケーション、とはなにか、ということだ。”Bill and Dave” の哲学で貫かれていた時代(とわざわざいうのは、同じ名前の会社はいまも存在するが。その実態は今では全く違った企業文化の企業に変わってしまったからだ)のHP社にいあわせ、そこで教わった定義は言葉だけでなく表情や感情や身振り手振りやそういうものすべてを通じて人と分かり合うこと、というものだった。だから、単なる情報が伝達されたからコミュニケーションが成立するものではない、ということを言いたいのだ。 ”詳しくはホームページを見てください” といえば ”コミュニケーションはとれる” のか。。

IT技術の展開によって、いろんなメディア(媒体という意味だ)が登場し、情報を正確に速く伝える、という部分は確かに出来上がった。しかしそれだけでは真の意味のコミュニケーションが成立したとは絶対に言えない。資料情報の伝達だけでなく、人間同士の間にのみ存在し感知し理解できるなにかが伝わって初めてコミュニケーションが成立したといえる。ホームページというのは確かに優れた情報伝達の手段ではある。しかしまず第一にそれが成立するには情報の受け手が自分でアクセスするというアクションがなければ絶対に機能しない。送り手の方がどうしても先方に、確実に、送りての感情もふくめて、とどいてほしい、という立場にあるのなら、ホームページに載せました、というのでは完結できないのだ。だから、”ホームページにのせました”というだけですませられないものが、いかにIT技術が発展した社会にあっても存在するはずだ。

本気で ”コミュニケーションをとる” つもりであるならば、” それにはそれだけの含みがあり意味があるのであって、ホームページにのせたからすむ、ということではないものがあるはずなのだ。