



旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
ここの所、親しかった友人やら先輩の訃報が多い。自分自身の終焉も遠くはない年齢になってみると余計に敏感になっているのだろうか。
本稿でも何回か触れた愛読書のひとつ、北方謙三の ”ブラディドール” シリーズ全10冊の終わりの方で、主人公が親友を亡くす場面がある。その時、主人公が自分に言い聞かせるようにいうセリフが小生にこの ”別れ” について唯一納得できる解答のように思える。
”俺たちにできるのはあいつを覚えていてやることだけさ”
葬儀に列席すると,納棺の前の ”故人と最後のご対面” という儀式、小生はこれが好きではない。故人との付き合いが深いほど、その思い出がデスマスクを見ることによって薄れてしまうのが耐えられないからだ。
Mがなくなったのは時悪しくコロナの最盛期で、多くの場合葬儀自体が難しく、遺族も弔問客への伝染をおもんばかって会葬を制限してしまうことが多かった。普通部時代からの親友Kの場合もそうだったが、Mの一番の友達だ、と思っている自分にもご遺族のご意向で葬儀への出席はかなわなかった。
翌日、夫人から奴のご遺体が自宅にあるから、来てほしい、と電話があった。タクシーを飛ばせば30分とかからないのだが、俺は行かなかった。死に顔を見てやる、というのは確かに儀礼として正しいことだろうが、そのことで奴を ”覚えていてやる” ことを妨げるのが怖かったからだ。俺にとって、Mとの別れになった、雨模様の日蔭沢での、あの、見慣れた顔、それが脳裏から消えてしまうのが怖かったのだ。
たぶん、夫人は不快に思われただろう。今まで言い訳はしていないが。
3ヶ月ほど前に教皇の死、次期教皇の選挙と時期をいつにするように映画「教皇選挙」が上映された。 複雑な「根比べ」を要する選挙はコンクラーヴェ(concalve)と呼ばれ話題となり、劇場にて興味深く鑑賞した。鑑賞録をブログに投稿したかと思う。その後、間もなくして公開された映画「国宝」は久方振りに大人気を博した日本映画の大作で前評判が頗るよく映画館に足を運んだ。予約席を確保するのに1週間以上を要して、前人気を裏付ける盛況ぶりであった。
任侠の世界に生まれた喜久雄(吉沢亮)は15歳の時、父親を抗争で亡くし、天涯孤独となる。喜久雄の天性の才能を見抜いた上方歌舞伎の名門の当主花井半二郎(渡辺謙)は喜久雄を引き取り、喜久雄は思いがけず歌舞伎の世界に飛び込むことに。花井家には喜久雄とほぼ同世代の花井の跡取り息子・俊介(横浜流星)がおり、二人は兄弟のように育てられ、親友としてお互いに高め合い、芸に青春を捧げて成長していく。だが、厳しい芸と伝統と血統を重んじる歌舞伎世界では二人はライバルとして宿命づけられ、やがて二人は運命の綾に翻弄されていくことになる。
喜久雄役の吉沢亮は2021年のNHK大河ドラマ「晴天を衝け」で主役の渋沢栄一を、親友だがライバルとなる俊介役の横浜流星は今年度の大河ドラマ「べらぼう」で主役の蔦屋重三郎を演じ、当代きっての旬な人気若手俳優が主役と相手役として映画に於いて芸と存在感を競っている。歌舞伎の芸に青春を捧げ切磋琢磨して成人して暫く経ったあるお日、名門の歌舞伎役者である当主花井半二郎が事故で入院する。病室で半二郎は代役に花井の跡取りであるはずの息子の俊介でなく、喜久雄を指名する。血縁より芸を選んだ歌舞伎の世界では稀有な半二郎の判断に驚愕し、呆然とする二人。二人の運命は大きく揺るがされていく。
映画「国宝」は公開からわずか31日(5月末)で観客動員数319萬人。興行収入45億円を突破し、まさに空前の社会現象となっている。封切られて3ヶ月以上経つが、依然として上映されている。
歌舞伎は東銀座の歌舞伎座に数度足を運んで観たことがあるが、素人の域を出ない門外漢。映画を観て、先ず驚いたのはインターミッションなしに3時間ぶっ通しであること。映画館で観た映画の長編大作でインターミッションがあったのは、ずいぶん昔の「ベンハー」「十戒」「七人の侍」「赤ひげ」「黒部の太陽」などがあったが、最近3時間の長編を休憩なしで上映する映画はないと記憶する。3時間があっという間に過ぎるほど引き込まれたのは面白かったからに他ならなかったからだろう。映画の題名「国宝」は、名前の通り仰々しい大向こうを唸らせねばならない宿命を負った映画でなくてはならない、とは思う。それほどの映画なのであろうか?観終わってから考えたが、正直よくわからない。人間国宝は、芸能と工芸技術の2つの分野があり、2023年10月までに認定された芸能分野の人間国宝は、死去された者を含めて述べ203名。内、歌舞伎分野では25名。生存する歌舞伎人間国宝は、① 七代目「尾上菊五郎」(妻は富司純子、長女の寺島しのぶが映画「国宝」に渡辺謙演じる花井半二郎役の妻の役で出演している。なかなかの名演だった)、② 十五代目「片岡仁左衛門」、③ 五代目「坂東玉三郎」(女形役者)の3名のみ。これ程の希少価値があるのが人間国宝だが、それに値する映画だったのか、出演者の演技だったのか、監督の演出だったのか、舞台装置・衣装だったのか・・・、正直よくわからない。二度目を観に行くことを思案中である。
仙丈ケ岳山頂で烈風にも負けず寒さにも負けず、
(金藤)
お帰りなさい。 スーパー介添人⁈お若い光輝さんが同行されて、留守宅の皆さまも心強く思われたことでしょうね。
高山植物ミヤママンネングサは知りませんでしたが、うちには下界のマンネングサが咲いています。随分前に実家から持ってきた鉢に一緒に入って来たのですが、今でも場所を変えて咲き続けています。
外は暗くなってしまい写真は撮れませんので、ネットにあった画像をコピーしました。 多肉植物 のベンケイソウ科マンネングサ属です。 葉の数は下界のマンネングサの方が多く、花と花茎も違うようですね。
クロード・ルルーシュ監督の映画2本,来年(2026年)2月から始まる第25回冬季オリンピック・ミラノ・コルチナダンペッツオ大会を前に、過去のオリンピックを描いた映画「白い恋人たち」と、併せて同じ監督のヒット作「男と女」を再見した。
「男と女(Un homme et une femme)」(1966年)はパリに住む元F1レーサーの男性(ジャン=ルイ・トランティニアン)と元演出助手の女性(アヌーク・エーメ)が、それぞれの子供をパリ郊外のドウヴィルの寄宿学校に預けながら、毎週のようにパリから子供に会いに行く間に、パリ行きの列車に乗り遅れた女性を男性が車で送ったことをきっかけに交際が始まるところから物語は始まる。この映画も後述の「白い恋人たち」と同様に、セリフは極くわずかに押え、映像で観ている観客に感情の起伏を想像させる手法で物語は進行する。二人の子供が仲良く無邪気に遊ぶ姿、犬を散歩に連れ歩く老人のシルエットが海浜や海沿いのプロムナードに映し出されるシーンなども、観る人の感情を感傷に引き込む代表的シーン。ストーリーは男女それぞれの相方が過去に事故などで他界したシーンが再現せれる以外は単純だが、この映画の印象を強くしたのは、主演のトランティニアンとアヌーク・エーメエの魅力と更には大ヒットしたダバダバダ・ダで始まるメランコリックなフランシス・レイ作曲の主題曲の効果があったことは間違いない。
「白い恋人たち(13 Jours en France)」(1968年)は、第10回冬季オリンピック・グルノーブル大会を描いた映画であるが、大会競技の記録ではなく、競技の映像に加え、会場整備の人達や警備の人達、或いはマスコミの舞台裏を映すことで、大会の雰囲気や関わった人々の苦労や喜びや怪我人の救助や痛みを、映画を観る観客に想像させる手法で貫いている。全編を通じてセリフは無く、有名になったフランシス・レイの音楽が時に流れることで印象は倍加する。主役は居ないが、この大会のヒーローは間違いなくフランスが誇るアルペン・スキー競技の王者、ジャン=クロード・キリーである。映像ではキリーの滑降シーンの完全収録、大回転及び回転シーンもそれぞれに準備段階から収録されている。特に大回転は吹雪の中で競技は行われるので、各選手が旗門通過をイメージして準備するシーンが印象的。或いはボブスレーの危険と隣り合わせのドキュメント・シーンや怪我をした選手の救急隊の活動シーンなど、当時の冬季オリンピック種目がスキーのスピードと距離中心の種目であったことを改めて思い起こさせる映像だ。近年の冬季オリンピック競技種目はスノーボード、モーグルやハーフパイプ、それにカーリングと瞬間の技を競う競技や頭脳競技が増えて、本来のスピードと距離を競う競技が薄れて見える時代になったのは極めて寂しいと個人的には思う。
ジャン=クロード・キリーはこの大会で滑降、大回転、回転のアルペン種目で3冠王を達成し、第7回コルチナ・ダンペッツオ大会(1956年)のトニー・ザイラーの3冠以来、2人目の快挙を達成し、この記録は今日まで破られていない。因みに、キリーは1943年生まれの81歳で、現在もなお健在。クロード・ルルーシュ監督は1937年パリ生まれ(ユダヤ系アルジェリア人)で87歳とこちらも健在。
「白い恋人たち」は「男と女」で成功したルルーシュ監督の名を世に知らしめた次作ではあったが、シャルル・ド・ゴール大統領(この映画でも開会式に現れる)に対する新左翼グループの5月革命なる運動が活発化し、カンヌ・フェスティバル(カンヌ映画祭)が中止になるなどで当時のフランス本国では、さほどの脚光を浴びる機会が無かった。クロード・ルルーシュ監督は、その後に「愛と哀しみのボレロ Les Uns et les Autres」 (1981)がヒット作としてあるが、この映画を私は観ていない。だがこの映画の解説のよると登場人物のモデルになっているのが、ルドルフ・ヌレエフ、ヘルベルト・フォン・カラヤン、エディット・ピアフ、グレン・ミラーと各界の大御所ばかりなので、機会があれば是非観たいと思っている。
フランシス・レイ(フランシス・レ)(Francis Lai、1932年4月26日 – 2018年11月7日(死去判明日であり正確な逝去日は不明)[1])は、フランス・ニース出身の作曲家。イタリア系のフランス人。少年期からアコーディオンなどを奏でていた。16歳の時、ニースからパリに上京し、テルトル広場界隈にいた。のちアコーディオン奏者から作曲家に転身。フランスの香り漂うシャンソン風な哀愁を感じさせるメロディーに特徴があり、日本でも親しまれた。多くの映画音楽を作曲。特にクロード・ルルーシュ監督とのコンビによる作品はよく知られている[1]。
(編集子)フィルムのほうはさておき、フランシス・レイのたおやかな曲、とくに ”白い恋人たち” は大学卒業後、スキーにのめりこんでいたころに聞き、それ以来、小生の愛好曲ナンバーワン、であり続けている。特に初めてアメリカの土を踏みシリコンバレーの端っこの2軒長屋に落ち着いたその冬、まだ運転にも慣れておらず、まして冬道だ、安全第一、と近場をさがした。同じ時期、現地のマイクロウエーヴ事業部に工作技術向上のために駐在していた、若手社員坂本澄雄君に付き添ってもらって Soda Springs という小さなスキー場へ出かけた。カリフォルニアには著名なスキー場がたくさんあるが,シエラネヴァダのすそ野にあるかわいらしい家族向けの場所だった。
The Soda Springs Mountain Resort is located just off Highway 80 near the Donner Summit.
それからしばらくして、本稿で飯田が書いている映画ができ、主題歌ができた。それ以来、”白い恋人たち” はあの小さなスキー場でのおだやかな夕方と、限られた時間ではあったが、今なお心温まる ”古き、良きアメリカ” の黄昏を味わうことになった滞在を思い出させる、 ”俺のテーマソング” として、もうひとつ、フランシス・レイの技巧とは好対照、素朴なカントリークラシック、Red River Valley とともに、いつもそばにある。
猛暑のみぎり、まったく時季外れの話題ではあろうが、これを取り上げてくれた飯田に感謝する。
先輩の保屋野伸さんから、齢80の傘寿を過ぎて記念に300
Trans Japan Alps Raceに初参加、完走した猛者である。介添え人としては持って
KWV夏合宿終了から1週間後、長野県伊那市の仙丈ヶ岳山麓の戸
最終日、馬の背からの仙丈登頂には前夜からの荒天で視界は悪く、
山に好天と荒天は付き物、両方を体験できた上、傘寿過ぎの300
帰路、JR中央線側から、登山中反対側から眺めた鋸岳・甲斐駒ヶ
(保屋野)チビ太氏ご投稿の通り、80才で3000m峰(但し、ハイキ
仙丈岳は比較的優しい3000m峰ですが、北沢峠からの標高差は
中々ハードで、強風とガスの中、山頂に立てた喜びはひとしおでし
44年卒のチビ太は79才、吉田(ズン六)は80才(81才にな
そして何よりもチビ太の甥っ子(光輝さん)スーパーマンがガイド
ちなみに、彼は9月にウエールズの大会に出場する予定で、初日の
最後に、この登山で私の65年に渡る登山人生は卒業します。山靴
今後は高尾山等低山ハイクを中心に四季折々の自然を楽しみたいと
ブラウザ、という、もともとはコンピュータの世界でのプロの使うものだった単語はいつの間にか日常語の仲間入りをしてしまったようだ。browse という単語そのものははこれでも英検1級だ、知ってはいたけれどここまで普遍化するとは想像もできなかった。それは原義が ”漫然と商品を見る” という、自分がよく読んでいた本のジャンルではあまり頻度の高くないものだったからだろう。ただ、エクスワード搭載の辞書で原義の ”2” にあげられている ”立ち読みをする” ということならば話は別だ。というのは、この本に遭遇して、何となく購入した(しまった、というのが実情だが)のはまさに寝苦しい夜を迎えて駅前の本屋で漫然とブラウズしていた結果だからだ。
小生はそこそこの本マニアではあるが、もともと純文学系は高校時代に、大げさに言えば人生の転機、みたいな経験があって、それが引き金で(いっときだったが)世をすねていた時期があり、そこでおさらばをしてしまったので、芥川賞、なんてので話題になった作品なんぞには背を向けてきた.。直木賞、なら多少は縁があるか、位なので、この本の作者も知らなかったし、また作品がそのようなレベルで評価されていたこなどは全く知らなかった。なんで今回読む気になったか、と言えばそれはカバーに池上冬樹が”ハードボイルド(HB)の香りがする、というようなコメントをしていたからだ。池上が同時に日本ではHB作家とカテゴライズされている大沢在昌の HBは惻隠の情である という定義を引いていることも文春文庫930円に投資をする気にさせた理由だが。
HBとはなんぞや、についてはいまさらだが、かつては ”HBとは銃と雨と裸の女がでてくりゃHBさ” と酷評された時代もあった。日本ではHBの本家(僕はこの人の作品は単なるガンマニアの妄想だとおもっていて評価しないのだが)みたいにいわれる大藪晴彦のデビュー作が多分そうさせたのだろう。しかしその原点にはやはり、”ヘミングウエイ風の語りくち” と、まさに大沢の言う ”惻隠の情” がなければなるまい。英語が母国語でない人間には、よほどの力量というか感性がなければ ”ヘミングウエイの文体” がどんなものか、を理解することは難しい。したがって、僕らが読み、感じる、外国人の書いたHBは日本人翻訳者のプロの筆力というか迫力にかかってしまう。何度も繰り返しになるが、そうして読むとなると、たとえば僕の場合、HBのいわば聖典である ”長いお別れ” はやはり村上春訳でなく清水俊二訳でなければならなくなってしまうのだ。
だから、小生は ”日本人が日本語で書いたHB”、にこだわりを持ってきた。北方謙三の ”さらば荒野” シリーズなんかに一度入れ込んだ時期もあったが,そのうち、ぴったりとはまったのが 原寮、という作家だった。ところがこの人は不幸にして急逝してしまった。もちろん大沢をはじめ何人かのHBライターカテゴライズされるひとたちの作品は結構読んでいるが、ここで新たに ”HB風の作品” とその道のコメントを目にすればこの本を見逃すことはできない、と思い込んだわけだ。
長くなったが、この ”枯葉色グッドバイ” だ。結論から言うと、ミステリとしての完成度ではなく、文章というか語り口、が印象に残った。これも池上が書いているように、チャンドラーの正統後継者、とみなされたロス・マクドナルドが作品の舞台に好んで使った、現代の富裕階級の裏にある家庭環境の暗闇というテーマがこの ”枯葉色” にも共通だ、ということもこの本をHBと絡めて読む意味もあるかもしれないが、探偵が初心の女性刑事で、彼女を支援するのが個人的な理由で警察をやめ、代々木公園あたりにホームレスの一人として乾いた日を過ごしているもと敏腕刑事、ということになっていて、この男の暮らしぶりというか気構えというか、その描写そのものがHBの定義を物語っているようにも思える(推理小説である以上、その筋を書くことはできないので、隔靴掻痒、ではあるのだが)。
語り口、というがそれが ”ヘミングウエイ流” という観点にあたるのでは、と思うのは文庫本487ページ、ほぼ100パーセントが(正確な用語かどうか知らないが)、現在形、で書かれている( ”いる” ”ある” ”読む” で書かれ ”いた” “あった” ”読んだ” という文章は僕の数え方がまちがっていなければはじめの数か所にしか出てこない)ことだ。このことが、うまく表現できないのだが、書かれている内容が読む方にある種の一体感をもたらしてくれ、ホームレスの生き方の描写を通じて、”惻隠の情” を感じさせるように思える。いずれにせよ、ミステリとしての筋立てはともかくある種の爽快感を持って読み終えた。
これからしばらく、ミステリかどうかを離れて、樋口有介、という作家を読んでみようか、と思ったのだが、彼もまた病を得て4年前に亡くなっていることを知って暗澹としてしまった。原寮のこともあり、なんともいえない気分である。
(つけたし:原寮、については本稿 2020年12月27日、2021年1月4日付記事で紹介している。
6月25日 ゲリラ豪雨襲う三田キャンパスで慶應義塾史展示館 都倉教授によるツアーがあり参加致しました。非常に有意義なツア
慶應義塾は1858年(安政5年)に江戸築地鉄砲州で開塾してそ
「日本最大の戦争被害大学」と言われ、5割が焼失。1949年ま
戦後三田キャンパスは谷口吉郎設計の建物で復活していった。スリ
今回巡る三田キャンパスツアーのコースは先ず1875年竣工・1924年移築の「三田演説館」。福澤時代か
「第二研究室」「ノグチ・ルーム」(万来舎)1951年竣工 一時新築校舎のため解体されるモノが一部の方の努力により現在の
西洋と東洋の融和と戦没者への入れの眼差しのの平和を込めた暖炉
元の第二研究室 新聞研究所の米山・生田教授が居られました。谷口吉郎設計の細い
かっての「山食」に谷口吉郎さ設計の学生ホールに猪熊源一郎作の
この絵は「学生生活」「青春」「自由の世界いけ」堅苦しいことは
羽の生えた犬は「自由に世界へ行け」を表しているとか。
この場所に三田キャンパスのシンボル「大講堂」1915年竣工が