(安田)「許されざる者」1992年は、「シマロン(Cimarron)1931年、「ダンス・ウイズ・ウルブス」(Dances with Wolves)1990年に続きアカデミー作品賞を受賞した3本目の西部劇映画。製作・監督・主演の一人3役のクリント・イーストウッドは脚本を映画製作の10年前に買い取っていたが、主人公の歳まで彼自身が達するまで製作を待ったという。彼が師と仰ぐ、映画製作の1992年直前に鬼籍に入っていた、2人の監督に捧げる映画だという。ドン・シーゲルとセルジオ・レオーネである。シーゲル作品は「ダーティハリー」「アルカトラズからの脱出」「マンハッタン無宿」「白い肌の異常な夜」「真昼の死闘」に出演。セルジオ・レオーネのマカロニ・ウエスタン3部作に出演。両監督映画は共にハリウッド社会では芸術性などの点で高評価を得られてなかったようだが、興行的にはなかなかの成功を収めたよだ。クエンティン・タランティーノなどはレオーネから多くを学んだと云っている。
(小泉)金曜日でなく月曜日なのに西部劇の放映は珍しい。今年の5月4日付で、菅原さんの西部劇に関する考察に触発され、この映画への感想を若干述べたが、再び観ることで、従来からの勧善懲悪的な西部劇とは一線を画する考えさせる西部劇で、観ていて疲れてしまった。若いころから、西部劇やミュージカルといった単純な観ていて楽しい映画を好んできた者としては、監督であり主演者であるクリント・イーストウッドは何を言いたいのか、を考えながら観ることにならざるを得ないような映画だった。それでもアカデミー賞9部門にノミネートされ、作品賞、監督賞、助演男優賞、編集賞を獲得していることは、普遍的に、共感を得た映画だったことは間違いないのだろう。イーストウッド4本目の西部劇、「恐怖のメロディ」から20年余16本目の監督作品。
(安田)今やハリウッドを代表する “巨匠” と誰もが認めるイーストウッドがアカデミー賞レースに絡むことは、本作を撮る頃まではなかった。1971年の初監督作品「恐怖のメロディ」から20余年、16本目の監督作品にして、4本目の西部劇である「許されざる者」は、彼の作品として初めてアカデミー賞の主要部門の対象となり、見事に栄冠を勝ち取った。「作品賞」「監督賞」「助演男優賞」(ジーン・ハックマン)、「編集賞」である。脚本を買い取ってから雌伏10年、満を持しての製作・監督・主演であったに間違いない。時も彼に味方した。1970年代以降は謂わば「終わった」ジャンル扱いされた “西部劇“ だったが、1990年に公開されたケヴィン・コスナー製作・監督・主演の「ダンス・ウイズ・ウルヴス」が大ヒットアカデミー賞を作品賞、監督賞など7部門を受賞した直後で、” 西部劇 “ を見直す動きが強まっていたのである。イーストウッドが心の底から渇望したアメリカでの評価 =アカデミー賞を得るためにも、これ以上ない好機であった。
映画の題名「許されざる者」(Unforgiven)の言葉の意味は、当事者にとっては許すことの出来ない乱暴な振る舞いや、不法な行動、無謀な企てという意味。この映画では、町で罪もない娼婦の顔をナイフでメッタ切りにして傷を負わせた牧童2人は「許されざる者」である。仲間の娼婦がかたき討ちにお金を出し合い2人の首に懸賞金1,000ドルを懸ける。伝統的アメリカ西部劇の虚飾をはぎ取り、「勧善懲悪」などとは程遠い世界観で綴られている。イーストウッドはセルジオ・レオーネと組んだマカロニウエスタンの名無し男の正義感のなさと残酷さ、ドン・シーゲル監督の「ダーティ・ハリー」のキャラハン刑事に見られる、殺人者と紙一重の危うい正義感の集大成として、この彼が言う「最後の西部劇」を作ったのだ。2人の恩師監督に捧げるというのはそう意味だと思う。
(小泉) ワイオミングのビッグ・ウイスキーという町が舞台。ジーン・ハックマンが保安官を務めるこの街は、ガンコントロールが敷かれ、銃の所持は許されない。冒頭酒場兼売春宿で牧童二人が、性器を笑われたことに腹を立て娼婦の顔等めった切り、それに対し娼婦側も保安官の裁定に納得せず、1000ドルの懸賞をかける。まず最初の賞金稼ぎは、鉄道会社の手先となって中国人を撃ち殺したりしたという伝説的人物、これをリチャード・ハリスが扮するが、保安官によ って、その伝説等が覆され、完膚なき迄殴打される。クリント・イーストウッドは3年前に妻を亡くし、子供二人と農夫となっていたが、過去列車強盗や保安官殺しで名を馳せた伝説的アウトローだった。貧苦のため、若者の誘いに乗り、過去の仲間で黒人モーガン・フリーマンを誘い、賞金は獲得するが、帰途についたフリーマンが、保安官側に捕まり、リンチの上殺害され、酒場前に晒されることに。怒ったイーストウッドは、まずは酒場と売春宿の主を非武装ながらも殺し、銃撃戦の上保安官とその一味を撃ち倒す。
以上があらすじだが、イーストウッドが意図したことは?まずは開拓者としてのアメリカ人の精神的役割を担ってきた西部劇の自助、独立、自由といった神話性の否定。リチャード・ハリスの伝説的な美談的行動の虚構性のガンファイトの暴露に示される。次に男権的な家父長制に立脚した男に都合の良い世界観の否定だ。先ずは賞金稼ぎのもととなった娼婦による嘲笑。その前にイーストウッドがアウトローから真人間になったのは、妻である女性の力だとセリフでも述べている。仲間のフリーマンの妻は先住民だが、誘われて出掛ける夫に対する心配の念とまた昔の癖が始まったか、という軽蔑の眼が印象的。また、人種差別では、過去の先住民や黒人に対するたちゆかなくなった事実への反省を含め、保安官は牧童は助けるが、黒人は鞭打ち、娼婦を蔑む差別的性格が強調された。この保安官、1992年の黒人逮捕に端を発したロス暴動発生時のロス警察本部長を念頭に置いたともいわれる。
(安田)ちなみに、僕が好きなイーストウッド監督作品は伝説の早生(享年34, 没年1955年)ジャズサックス奏者・チャーリー・パーカーの音楽と生涯を、フォレスト・ウィテカー主演で描いた、「バード」1988年だ。モダン・ジャズの創始者と言われる彼はあだ名をバード(Bird)といった。NYの有名なジャズクラブ「Birdland」は彼のあだ名に由来している。この映画は、フランスの「カンヌ国際映画祭」などで高く評価されるよりも、ジャズ人気の高い日本では映画祭などより早く話題になっていた。ジャズ界ではチャーリー・パーカーはサックス分野では神様に等しい存在。彼に続くジョン・コルトレーン(彼も早逝、享年41歳1967年没)がサックスの両横綱だと思っている。
(小泉)それにしてもこの映画のひたすら暗さを強調した映像、暴力と理不尽さと恐ろしさを真正面から取り上げたと言える。とは言え、暗さは画面が見えずらいことも事実。
冒頭と終焉の太陽の光に赤く照らされる子供二人との農家の佇まいだけが救い。許されざる者とは誰のこと?、それから除かれるものは、子供二人は当然としても、あとは娼婦か?殺す者と殺される者はいるが、善悪の二元論的対立ではない。許されざる者は全て死ななくてはならないはずだが、イーストウッドは殺される側にでなく殺す側に立ち、親友を殺し侮辱し、銃規制を敷いた者を殺したのだ。銃こそは個人が倫理的意志を貫徹する最後の手段となっている。善玉も悪玉もいない殺し合いは、イーストウッドが演じたマカロニウエスタン「荒野の用心棒」及び現代の保安官サンフランシスコ市警の「ダーティハリー」に既に存在していた。最後妻の墓に参るに当り、亡き両監督で多大なる示唆を得たセルジオ・レオーネとドン・シーゲルにこの映画を捧ぐの字幕が出る。