プロローグ
1983年4月1日、横河北辰電機株式会社が誕生しました(合併3年後横河電機株式会社に社名変更)。 遡ること1年前のあの日、横河電機製作所の情報システム責任者だった私は社長室に呼ばれていました。その席で社長から告げられた言葉は今でも鮮明に覚えています。 「1年後に北辰電機と合併することになった。合併調印の日に新会社としてのシステムが動くよう準備してほしい。ただし発表の日まで口外は一切厳禁、寝言を云ってもダメだ。北辰の責任者にも同じことを伝えておく」と。
一点集中
発表の日までの半年間、部下に何もしゃべらないでどんな準備ができるというのだろう。しかも、失敗は絶対許されない。わが人生最大のピンチでした。
どんなに素晴らしいシステムができても、合併のその日に間に合わなければ零点だ。限られた日程、限られた戦力の中で何をどうするのか。私が立てた戦略は、お客様と直接関連するオーダー処理システムだけは完全なものにして合併の日を迎える、他のシステムはとりあえず応急手当だけで済ませるというものでした。今思い返しも、これが唯一最善の選択だったと思います。
新オーダー処理システムCOSMOSの開発
私たちにとって幸いしたのはこの時たまたまオーダー処理システムの再開発にとりかかっていたことでした。新システムの名称はCOSMOS。「これを新会社用のスペックに置き変えよう、今なら間に合う! 」そう考えました。
COSMOSは、サテライトに分散配置したHPの新型コンピュータHP3000と本社のホストコンピュータIBMをネットでつなぐ集中分散型のシステムで、受注、工場手配、進捗、完成、出荷、売上集計までを統合的にカバーする、多くの新しいアイディアを織り込んだ新会社にふさわしい内容のものでした。
合併に先立ってカットオーバー
合併に先立つ1982年11月、当初の計画より半年も前倒してCOSMOSのカットオーバーを強行しました。未熟児を帝王切開して出産させるようなものですから、当然バグだらけ、戦場のような騒ぎになりました。なぜこんなバカなことをしたのか。その理由は、合併に泥を塗るようなことはできない、事前に本番環境で可能な限りバグをつぶして合併の日を迎えたいという一念からでした。
救世主だったPRIDE
心配しなかったと言えばウソになります。ただ、そんな大騒ぎの中でも慌てなかったのは、「このシステムは新しく導入したシステム開発手法PRIDEのコンセプトと手順に従ってしっかり作りこんできている、バグさえ収まれば必ず機能する」と確信していたからです。 PRIDEが危機を救ってくれたと言っても過言ではありません。
エピローグ
あの1年間、徹夜、徹夜の連続で担当者のがんばりは想像を絶するものがありました。私自身も1日の休みもない365日でした。今の時代だったら、パワハラで訴えられてもおかしくない日々でしたが、苦言の一言もなかったのは、これを乗り越えたら必ず明るい明日があると信じられたからでしょう。会社の命運がかかった難関を一致団結ワンチームで乗り越えたこの経験は人生の大きな財産です。今後どんなに苦しい場面に遭遇しても、これ以上の事はそうそうないでしょう。
(参照) 「私の履歴書」1996年9月1日から29回わたり日本経済新聞に連載記事より
「日本の横河から世界の横河へ。トップランナーハネウエルと世界で対等に戦える会社にしたい、そのためには北辰との合併しかない。」 これが横河電機中興の祖と言われる社長横河正三が描いた大構想だった。
1963年ヒューレットパッカード社との合弁でYHPを設立し社長に就任、1974年横河に社長として復帰する。世界のトップ企業と付き合い世界市場で戦う中で芽生え育っていった構想が1983年の合併で結実する。われわれにとっては寝耳に水、突然の合併劇も、社長横河正三の中では長い道のりを経てたどり着いた産物であった。
(編集子)編集子と山川の付き合いは慶応高校時代にさかのぼるが、まったくの偶然で就職先が同じ横河電機だったうえ、自宅が同じ住宅地で5分とかからない隣人でもあった。小生は就職時点では思いもよらなかったことにコンピュータとの縁ができたのだが、合弁会社設立と同時に新会社で現在の用語でいえばIT,当時はEDPと呼んだ部署の責任者になって、縁は深まる一方だった。60年代からコンピュータ事業をはじめ、計測という専門分野での展開には一応の成功をおさめたHPが汎用(という区分自体、現在は無意味なのだが)に手を広げた。当時はIBMをはじめとするビッグビジネスの独壇場であり、日本ではそのIBMでさえ苦戦を強いられる電機大手との激戦を展開していたので、’(まさか日本には進出しないだろう)という予想を覆して日本に進出、その営業を任されたのが自分であった。
その後の苦戦、というより勝ち戦のつづく会社でただ一つ、お荷物扱いされるなかの生き残りのための死闘、については今更いうこともないが、親会社の横河電機が大手メーカーとの合併という大展開にあたってHP製品を選択してくれたのは本稿で山川も書いているが当時の横河正三社長の英断であったことはいうまでもない。しかも選定してくれたのが当時のHP製品群の中でも最大型機だったうえ、それもいわばまとめ買い、というべきもので、関係者一同の感激は大変なものだった。その先方のシステム担当が山川、というこれもまた入社時点から人事労政のプロを目指していた本人も驚く展開、というかめぐりあわせであった。彼が主導したCOSMOSについていえば、今では当たり前の受注から生産までの統合システム、というアイデアはどこでも考えていたアイデアだったが、実現となると障壁が大きかった。。この実現に寄与したのがHPが唱えていた(というかIBMに対抗できるいわば弱者の戦術だったのだが)コンピュータリソースの分散配置(Distributed Data Processsing、DDP)ということで、現代のIT社会は文字通りこのコンセプトで成り立っていることを考えればまさに時代を見通した卓見だった、といえるのではないか。
HPでは自社のシステムをすべてこのDDP方式に入れ替え、大型機を排除して(システムが完成した日、それまで使っていたIBMの超大型機のスイッチをオフする、その儀式?は大々的なものだった)作り上げた受注から生産までの一貫システムをHEARTと名付けた。文字通り経営の心臓、という含みである。ヤマの命名がどういう意図だったのかは聞いていないが、HEARTを超える、はるかに気宇壮大なものを目指していたのだろう。