甲州街道銀杏並木ウオーク
免許更新のため高尾署へいくことになった。どうせなら早起きして人の来ないうちに楽なコースを登って昼飯までに帰ろうと思っていたが、もたもたして結局月例と同じ電車になってしまった。高尾駅ににはいったとたん、ホームがハイカーで溢れているのに遭遇。あっさりあきらめて、甲州街道ウオークに変えた。
高尾山口駅の手前位から、八王子市の中心部まで見事な銀杏並木がある。工場勤務のころはいろんな機会で訪れることもあったのだが、月いち高尾、などと言ってるのにここの所歩くこともなかった。ちょうど天気が回復し、青い空を背景にハラハラ落ちる落ち葉などが取りたかったのだが、小生の技術ではとても無理。小泉さんでもおられればいい写真ができたのだろうにと残念。
徒歩約5000歩、途中で早昼(ほんとはトイレに行きたくなったため)、おろしハンバーグ、890円。何だかわからないが払ったのは1134円。今大揉めの消費税騒動がどう落ち着くのか急に心配になった。
”むかし”の語り部として その1
この12月で小生も81歳となる。いつの間にか、傘寿とやらもがやがやと仲間と騒いでいる間に過ぎてしまった。しかし年齢は確実かつ冷酷に現実に忍び寄ってきている。できる限り、ワンデルングは続けるつもりではあるが、他人に迷惑をかける危険は最小限にしたいと思い、昨年、まさに断腸の思い(こういう時に使う言葉かどうか不安はあるが)でスキーをやめた。2018年のOB夏合宿につづいて久しぶりに山荘祭に参加したが、たぶん、これで浅貝にいくのは最後になるだろうという気がして、半日、作業をさぼって周りをうろつき、卒業後大変お世話になったトヨシマにもそれとなく挨拶をしてきた。
小屋へもどって、若い人たちと何となく時間が過ぎていく間に、(俺たちが ”あの時代” について、もう少し、伝えておくことがあるのではないか?)という気持ちになった。もちろん、いろんな記録が整理され残されていることは知っているし、結構なことだと思っているが、その多くは事物の記録であり、その背景になにがあったのか、ということはあまり伝えられていない。今の学生生活、その結果ワンダーの在り方がぼくらのころと全く異次元にあることはわかっているつもりではあるが、若い人たち特に現役諸君が現在の在り方について考えてみるきっかけになれば、と思い、数回にわけて36年卒同期の文集 ”ナンカナイ会 そのふみあと” から、一部を抜粋し何回かにわけて紹介していこうと思う。今回は歴史的規模?の大人数入部に関してのことである。
***************************************************
(文集第二章 ”美しから八幡平へ” から抜粋)
われわれが入部する前、すなわち卒業年度でいえば1957年次(中代孝史総務)まで、KWV は戦後の混乱期からの復興を成し遂げられた吉田晴彦(1948卒),平賀健吉(1950卒)、亀井昭伍(1952卒)、山戸和夫(1953卒)ほか数多くの先輩が築かれた、自主的、家族的雰囲気を持ったクラブ活動を基盤としてきた。ほかの大学のワンダーフォーゲルが体育会に所属しているのに対し、慶應はドイツに源泉を持つ広い視野にたった活動をする文化団体に所属する、という気概と伝統はその時代につちかわれたものだ。戦後の混乱期を脱し始めた50年代後半から、所属部員は大体40人から60人前後で推移し、その間に活動の基盤は個別に企画されるワンデルングへの自主参加におき、部全体行事としてベースキャンプ方式の合宿やスキー合宿(当時KWVでいうスキーとは今でいうオフゲレンデを滑走することとされていたようだ)、あるいは部創立の精神にたってワンダーフォーゲル活動のPRを目指す一般募集というような活動の基本原則が確立された。
しかしわれわれが入学する57年あたりから、大学生活そのものが開放的なアメリカ型のカレッジライフを志向する傾向が高まり、もともと学生の自主性を重んじ、先進的な立場にあった慶応のキャンパスがその先導的地位をしめるようになる。それに呼応して、それまでのアスリート系のクラブ活動が基本的に父権主義にもとづく体育会主導であったため、スポーツを愛しながら体育会入りをためらう学生を、より開放的な独立的なクラブが吸収するという図式ができた。その延長線上にあったのかどうか、明確な回答はないが、32年から40年くらいまで、まさに全国規模で各大学のワンダーフォーゲル部に入部希望者が殺到した(第12章参照)。決して慶応だけではなかった点が面白いのだが、何が原因であれ、我々と同じくKWVの門をたたき、入部を許可された1年生は現存する名簿によれば237人である(新注:この時点での部員数410名)。
いずれにせよ、現実にこの大人数を抱えて、当時の部運営に当たる4年生(中尾大三郎総務)は大きな課題に遭遇されたはずだ。それまでのゆるやかな、家族的な、ある意味では自律を前提としたやり方で350人になろうかという組織が運営できるのか、このあたりの事情を責任学年4年生(同期OB会:賛山会)メンバーはどのように対応しようとしたか。
”基本的には、俺たちには大変だという悲壮感みたいなものはなかったね。今まで通りやっていけば大丈夫なんだと思ってた”と小林良男(副総務)は楽観的だったようだが、中尾大三郎(総務)は、”最大の問題はこれだけの人数に対応できるリーダーが不足することだと思った。毎回のワンデルングにリーダーを割り付けるだけで大変で、日曜日の夜は”無事帰京”の電話が入るまで、ひやひやの連続だった”と述懐する。
入部したての我々にはこのような事情がわかるはずもなく、美ヶ原新人歓迎のあとから、いわゆる”プラン”と呼ばれたワンデルングへの参加が始まった。
(注)部として企画されたワンデルングは通称”公式プラン”または単に”プラン”と呼ばれ、これ以外仲間だけで実施したものは”プライベート”と区別された。
日吉、三田などの”部室”の壁に、数か月先までのプランがリーダー名と一緒に書かれた模造紙が貼り出される。希望者はその下に学年と名前を書き、一緒に示されている日にちと場所で準備会に出る。したがって誰が行くのか、前もってわかるしくみで、これが結構、1年生仲間内の競争心をあおったものだった。上級生が袖に誇らし気につけていた三色の正部員章をもらうために、いち早く5回、ワンデルングに出る必要があったからである。
しかし中尾総務ら上級生が恐れていただろう現象は早くも5月連休後のプランで起きた。大菩薩峠ワンデルングに、山歩きの経験に乏しい多くの新入生がネームバリューにひかれたからであろう大量に集中した(記録では63人)。とても通常のやり方では運営できないということから、いくつかの班にわけ、それぞれ3年生がリーダーとなる大規模なものになったが、山慣れしていない大集団の悲しさ、1年生の誰かが起こした落石で、日吉の役員部員だった酒井征蔵が顔面に裂傷を受けるという事故が起きた。このこともおそらくひとつの直接的原因となって、事後新人への指導プランが喫緊の課題とされ、新人キャンプ(FCと略称された)という仕組みができた。この辺りの事情を、のちに発行された”八幡平合宿報告書”はFC制度について次のように述べている。
(前略)これは本年度に至って急増した部員数の調整という事に応じたものであった。すなわち本年度の新入部員は前年度の倍以上の数字を示したのである。そこで部員の教育の意味を含め、又その数を出来るだけ淘汰しようとしたのである。その上新人強化に参加していない者は、下記合宿には参加させないとし、下記合宿のテント受入数、テント地の状況も併せ考慮したのである(後略)。
こうして、従来は毎回、先輩が親しく個人に伝授してきた基本的な事柄を、組織的に教育するような仕組みができた。第一回は裏高尾山の小下沢で行われ、当時まだ浅川と呼ばれた現JR高尾駅から、土曜日の午後、64名の新人と先輩部員が照り付ける甲州街道を歩いて現地に着き、テントの張り方、火のおこしかた、等々を教わり、翌日は景信山を越えて、陣馬経由藤野へ降りた。
この夏の立山―槍プランは、北アルプス縦走コースの中では重量級に属するものだが、ここでも1年生の集中現象はあった。2年、3年各1名、4年生3名に対して1年は中妻、浅海、飯田、美濃島,中司の5人。高校時代にまともな訓練を受けていたのは美濃島だけ,そのうえ、立山から上高地下山まで、晴天だったのは1日半だけという悪天候だった。しかしその行程の記憶よりも鮮烈だったのは、途次、強い風雨のためテントを断念して宿泊したスゴの小屋でのことである。我々の後に同様に退避してきた某大学WVのパーティのふるまいは、われわれには想像すらできない、先輩への絶対的服従、というより神格化、上級生による下級生へのサディスティックな”しつけ”というか”いじめ”そのものだった。”あのあと、お前たち、すっかり静かになったよな”とリーダーの小林良男は笑うのだが、事実、1年生の目に、KWVの伝統と雰囲気、しかも素人同然の新人を見事に統率する上級生に対して新たな尊敬の気持ちが湧いた瞬間だった。事実として、その後、世に悪名高い”しごき事件”で部員を死なせたのはこの大学である。また、のちのことになるが、他大学との合同ワンデルングに参加し、多くの大学が同じような体質なのを経験した吉牟田正稔は、”ホント、俺、慶應でよかったなあって思ったね”と語っている。KWVと創部以来友好関係の深い義塾山岳部でも同様の”慶応”の伝統があるのは、やはりそれが大学の矜持であるからだろう。
前に述べたように、急激な部員増加と部の運営の現実とのずれは少しずつ顕在化していたのだろうが、1年生という立場ですべて先輩まかせにでき、伝統の家族的雰囲気を満喫できたのは我々にとっては幸いであった。振り返ってみて、古き良き時代とでもいうべきものが味わえた、これが最後の機会だったのではないか、という意味で、美ヶ原新人歓迎とそのあとの八幡平夏合宿とはK W Vにとってもわれにとっても歴史的な意味を持つように思われる。
(以下、次回)
lパタゴニア探検レースのこと (44 安田耕太郎)
男3人女1人がチームを組んで南米最南部チリのパタゴニアで行わ
チーム名はイーストウィンド(East Wind)と言います。今年のレースは11月20日から30日ま
レースの模様は多分来春までにはNHK BSで放映されます。イーストウィンドのホームページでも現在進
11月度 月一高尾・後藤財布事件によせて (詠み人知らず)
病み上がりの月いち顛末 (36 吉牟田正稔)
2011年1月の同期ナンカナイ会の新年会の席でGIから月に1
本年 山荘祭頃より右膝が痛くなり日常の生活も多少不便になり 整形外科医のMRI検査を受けたところ 右膝半月板が損傷しており 暫く登山中止し 週1回のヒアルロン酸 注射と別の整骨院にてのマッサージ治療を約2ケ月行い ほぼ痛みも無くなり 先日は同期の第4回目の街歩きに参加し15000歩歩いても大丈夫だったので 今回 月一高尾にもチャレンジした次第でした。
小生の膝の治療してくれている 下北沢の整形外科医は慶応高校から阪大卒の医
者で ワンゲル仲間で毎月継続している…今回も14人も集まったな
今回の参加は当初 どこで膝が痛くなり途中リタイア―するかもしれず 個人参
加として1号路を登り 疲れ具合で ケーブルでの下山を考えてましたがGIが同期の面倒を見てやる… と同行してくれるとの温かい提案を受ける考えでした。当日 高尾山口駅集合地で コンクリート道の1号路を登るより バスで標高差を稼ぐ大垂水コースのほうが楽かもしれないと本隊に合流させて貰いまし
登山から2日ですが膝の痛みは全く無く 加齢による筋肉痛はありますが大丈夫
です。
11月月いち高尾報告 (39 堀川義夫)
久々の月いち高尾でした!! 月いち高尾としては久しぶりの晴天に恵まれ紅葉の高尾を楽しみました。何せ、今年は毎月企画するも呪われたがごとく、実施日と言えば雨、雨、雨でやっと11月が実施できて5割アップとなりました。
参加者 順不同敬称略
中司 吉牟田 遠藤 深谷 岡 高橋 椎名 後藤 町井 蔦谷 三嶋 伊川 岡沢 堀川
日 時 2018年11月14日(水) 高尾山口駅集合 10時
久しぶりの月いち高尾ということで全員入れ込み気味。バスで大垂水まで行きゆっくりと一丁平らを目指しました。高尾登山口あたりは紅葉シーズンということで込み合っていたが、ほとんど人に会うことのない静かな山を楽しむことができました。一丁平からもみじ台、そして久しぶりの細田小屋でこれまた定番のなめこ汁を楽しみ、GIさんの提案で日陰方面への下山は作業用の道を利用し、わずか40分ほどで林道に下山しました。細田小屋のご主人はたしか郵便屋道と言っていました(新聞やみちだったかな)。
この道は今後一般の方々に知られない登山道として月いち高尾の秘密の登山道になることでしょう。
日陰の林道からバス道に出て、今日は、バスに乗らずに摺差(するさし)の豆腐屋さんに一直線。寄せ豆腐に、岡沢の用意したたっぷりの薬味のねぎとポン酢、そして堀川がずっと担いできた冷えたビールでしばし豆腐ブレイクタイムを楽しみました。
ここで一時解散、バスで、また、小仏川沿いの散策路を高尾へ。これまた久しぶりの天狗で全員参加の打ち上げ。酒が旨い!!
帰りがけ、さぶちゃんが財布がないと大騒ぎになるも、なんと自宅の電話の前に置き忘れた事実判明。天才サブローもまた、人の子なりと同期生一同、安堵。
私の不注意からお財布紛失騒ぎを起こしてしまい大変失礼いたしま
素晴らしいコースアレンジで、高尾の良さをしみじみと味わいました。何よりも豆腐パーティが楽しいひと時でした。年末の牡蠣山行が楽しみです。昨日親睦委員会で実方さんを誘いました。久しぶりに参加すると意気込んでいらっしゃいました。生牡蠣は苦手なようですが、焼・蒸・煮は大丈夫です。 伊川望
秋の奥武蔵日帰り - その4
36年卒の中でFEMAと呼ぶグループがある。深谷、遠藤、翠川、浅海の4人で、これに後藤を加えた5人はしつこく強い。過去の合宿や日帰りでもそれぞれのコースを選んでいて、なかなか集まることがなかった。それが今回の奥武蔵ではナンカナイ会参加メンバーの全員が日和田山コースに集まった。案内文がとてもやさしく楽に思えたからか、佐藤・久松というリーダーの人柄だったのかは定かではないが、いずれにせよ珍しい現象だった。
指示通り、武蔵横手なる辺境?駅に最年長の荒川先輩を筆頭に集合。少しばかり危ぶまれる天候であったが歩くにつれ安定した空模様になった。コースは途中で一度一般道にもどるという多少変則的ではあったが、
日和田頂上では地元児童たちの遠足に合流、眺めもなかなか。高尾山からほぼ毎月見ている眺望が30度くらいずれた感じであった。下り道の一部が岩場とまではいわないが多少荒れていて、年寄りには多少応えた。夏合宿では西穂の独標の登りで足元が危ぶまれ、自分は登れるかもしれないが落石を引き起こす面倒を考えて引き返したことなど考えると、そろそろ考える時期に来たのかもしれない。
BC地にはともかく無事到着、今回は32年の上田さん、35年の手塚さんをはじめ、しばらくぶりにお会いでき、楽しい時間だった。この交歓にとりまぎれて、後で知ったのだが折角BC班が用意してくれた飯能名物を食べそこなったのだけが残念だった。解散後は飯能の居酒屋を浅野三郎君らのご努力で席を確保、大いに盛り上がった。佐藤、久松両君はじめ、”若手”各位のご助力に感謝。以下、参加者雑感。
下見を繰り返し、
心配した天気も秋のワンデリングには最適の一日となり、楽しい山行を楽しむことができました。大パーティーを見事にまとめられた、佐藤L 久松SLの事前準備から始まるご苦労に、深謝申し上げます。年を感じさせない諸先輩に元気をいただきました。また、皆様とご一緒できることを楽しみにしています。(42 井上徹)
日一日と秋も深まる中天気予報を気にしながらの日帰りワンデリングも予想を裏切る天気に恵まれ楽しい一日をご一緒させて戴き有難うございました。何時もながらKWV行事では旧知の方々との再会を楽しみにもしています。又の行事でお会いご一緒出来る事を楽しみにしています。(45大江)
昨日は楽しい一日のワンデルングを過ごさせていただき有難うござ
日和田山コースにご参加の皆様
4班参加の諸先輩の皆様、お疲れ様でした。朝雨模様でしたが、何とか天候も回復し、
何とか天候も持ち直し、秋の山歩きを楽しんでいただけたことと思います。最多パーティでしたが皆様のご協力により、ほぼ事前想定コースタイム通りに歩くことができました。ありがとうございました。
33年の荒川先輩はじめ山を愛する先輩方の姿、心から敬意を表します。またご一緒させていただけることを楽しみにしております。森田先輩 今回は残念でしたが次の春ワンに参加できますよう。(48 佐藤充)
第四回 タウンウオーク - 巣鴨界隈 (36 横山美佐子)
2月の柴又以来のタウンウォーク、巣鴨駅に集まったのは世話役のミドリ夫妻をはじめとする総勢13名のお馴染みの面々だが、前夜突然の風邪でダウンした首謀者、ジャイの顔が見えないのがチョッと淋しい。
『おばあさんの竹下通り』の異名で名高い地蔵通り商店街は、やけに目立つ赤パンツを売る店の陰でひっそりと商いを続けている駄菓子屋やお惣菜屋に江戸の下町の風情を感じ嬉しくなる。庚申塚から都電の唯一残っている路線で『鬼子母神』へ。
都電というと銀座や青山の大通りの真ん中を威風堂々と走っていた嘗ての姿をイメージするが、ここでは裏通りを遠慮がちに走る姿以上に存在感のある文字通りの庶民の足。とはいっても乗客の大半はわれわれと同類の『不要・不急のやから』のようでした。
飛鳥山の澁澤栄一記念館を見学したのち再び(三度か)都電で巣鴨に戻り、うな重の昼食。腹ごなしに六義園を散策して解散。
都内にもまだまだ知らない、いいところがいっぱいありますね!
安東はテニスの試合があるとかで午前のみの参加、六義園へ足を延ばしたのは翠川夫妻、前田、深谷、遠藤、吉牟田、高橋、オヤエ。途次、遠藤君ご愛用の山靴屋 GORO へ立ち寄り。12月はなにかあったかい、ほんのりしたコースを考えたい。門仲あたりでぬる燗、てえのはどうかなあ、と考慮中なり。
秋の奥武蔵日帰りW ー その3 (H30 川上友輔)
OB1年目、H30年卒の川上友輔です。先日の秋の日帰りワンデリングについて書かせていただきます。私はワンゲルは卒業したもののまだ学生をやっており、時間があるため今年度の三田会行事には全て参加しようと決めていました。秋ワンについても参加するつもりでいましたが、締切直前までどの班に参加しようか迷っていたところ、丸満Lの10班にメンバーがいないと、親睦委員会から直々に参加要請が来たため、春ワンに続き丸満班に参加することに決めました。同期のイベント好きな稲毛、高田、渡邊の3人と、内定先の先輩でもあるS61年卒新山さんをお誘いし、S60年高橋さんも加わり無事8人パーティとなったわけです。
山域は伊豆ヶ岳東尾根というバリエーションルートで、いかにも丸満さんらしいルートで、山行中は、5,60代のOBと一緒に登っているとは思えないほどハードだった。SLの50年卒岡田さんがトップを務めたが、ペースの早いこと。どんな急登でもスイスイ駆け抜けていく。我々若手4人は為す術もなく、息を切らしながら必死についていった。出発から2時間半足らずで伊豆ヶ岳に到着。山頂では丸満さんのお馴染みの爆弾お手製牡蠣の燻製を始め、チーズケーキ、果物、お菓子など差し入れ祭りとなり、疲れた体に染み渡った。下りも一瞬で駆け下り、13時前には正丸駅に到着した。もはや皆走っていた。休憩を除くと3時間半程で全ての行程を終えてしまった。素晴らしい疾走感と達成感であった。後から岡田さんに聞いた話だと、事前に丸満さんに、今回は若手がいるからペースを上げてみようと言われていたらしい。それにしても、あのスピードを出せるのは素直にすごいと思った。体力と歩行技術が磨かれていないとできないため、我々はまだまだだと痛感したと同時に、自分が60歳近くなったときの目標にもなった。久しぶりに1年生に戻ったような感覚で、学びが多く刺激的なプランだった。ありがとうございました。
そしてお楽しみのBC地では、今回も100人を超えるOBが元気に飲み騒いでおり、これもまた刺激的でした。春ワン、夏合宿でも感じたことですが、これだけの数のOBが集まり、高齢にも関わらず元気に山に登り酒を飲むKWV三田会という団体は大変魅力的です。私はここで会えるおじいちゃんおばあちゃん達が大好きであります。近年三田会活動には若手はあまり参加してこなかったが、H28年卒の金さん水上さんが壁を崩してくれたおかげで私も参加できるようになりました。今後も若手が気安く参加できるような環境を作っていきたいし、それが私の使命だと思っています。これからもよろしくお願いいたします。
<H30年卒高田蒔子>
「お手柔らかに…」と自己紹介をされたはずの先輩方の歩くスピードの早いこと。渋い秋山を、息をきらして登り、牡蠣をはじめとするおいしい爆弾を分け合い、下山後には盛大な飲み会、とワンゲルらしさのぎゅっと詰まったプランでした。いつまでも山に登りたい、この人たちと、登り続けて行きたいと、強く思いました。