大分前の本稿で、アメリカの女性ハードボイルドライター、グラフトンのことに触れた。
以前からオヤエがこの分野での女性作家、例えばサラ・パレッキーとかルース・レンデルなんかの翻訳と一緒に収集していたので、僕も散発的にグラフトンものを拾い読みはしていた。それがどういうわけか翻訳の出版が途絶えてしまい、二人してどうしたんだろうと思って出版社に問い合わせたが、明快な理由は教えてもらえなかった。翻訳についての何か事務的あるいは法的な問題ではないかと想像はしたが、またまたアマノジャクが頭をもたげ、それなら原書で読めばいいんだろうとアマゾン頼りに A から始めたところ、まるで申し合わせたように彼女の早すぎる訃報に接した。
グラフトンはアルファベットシリーズとして ”アリバイのA (A is for Alibi)” から始まる Z まで26冊を書くことを約束していたのに、何という運命の皮肉か、25冊目の ”Y is for Yesterday” が最後になってしまった。あと一冊でライフワークが完了するという時点でのエンドマーク、本人もさぞ悔しかっただろうと、暗澹とした気持ちになった。
ともかく、問題の ”Y” はこの夏には入手してあったのだが、そのタイトルに The final Kinsey Millhone Mystery と書かれているのを見て、しばらく頁を開く気分にならなかった。それでも年を越すのはいやだったので、10月末から10日ほどかけて読み終えた。勿論会った事などあろうはずはないが、(スー、読み終えたよ、ありがとう)と言ってやりたい気持である。
25冊読み終えて、当然ながらオヤエから、”それで、どれが一番よかった?” と聞かれたが、返答に困ってしまった。同じ作家を読んでいれば、中には強烈な印象をのこしたものや、トリックの巧みさに驚愕したりするものが当然ある。僕の場合、それはクリスティでいえば ”アクロイド殺し”、アイリッシュなら ”幻の女”、マクドナルドなら ”さむけ” というふうにすぐでてくるのだが、このグラフトンシリーズにはそういうものが全く、ない。それでも、単なる意地や、英語の勉強、と言った動機を越えて、どうしても最後まで付き合おう、というものがあった。それはなんだったんだろうか。
ミステリ作品の基本はもちろん ”Who’s donit ? (誰がやったのか)” だが、話には ”How’s donit ? (どうやって殺したのか)”、それと ”Why donit ? (なぜやったのか)” が書き込まれる。クラシックの絶頂期にはこのなかでも ”How ?” つまり奇想天外なトリックをしめすこと、現代の警察ものなどででてくる用語でいえば MO (modus operandi) を主人公が神のごとき推理によって解決するところが作家の腕の見せ所だった。この推理の在り方がより現実的な行動に置き換えられたのがハードボイルド作品であり、その過程に引き込まれ、興奮し、同期化することが読者であることの醍醐味なのだ。だが、この25冊を読む間に、こういう知的興奮を覚えた記憶がないのである。
それではグラフトンは読むに値しなかったのか、と言えばもちろん、そんなことがあるはずはない。考えてみると、僕がこのシリーズにいれこんだのは、トリックのわざとか、ストーリーテリングの巧拙とか、文体とか、そんなことではない。それは80年代のカリフォルニア、まだ電子メールも携帯電話もなく、確かに人種問題なんかがありはしたものの現在の混迷とは全く違った、good old days とは言えなくてもあの陽光、微風、それといかにもとあっけらかんとした ”アメリカ人” が醸し出す、”これがカリフォルニアさ” といえたころ、短い時間ではあったがそれを満喫できた自分の過去をたどることを可能にしてくれたのがこの25冊の、ミステリという形をとってはいるが、言ってみれば ”あのころの良きアメリカ” へのオマージュであったからではないか、と思えるのだ。
25冊すべて、難しい謎解きや奇想天外なトリックや暴力描写があるわけはなし、MOと言ったってそこは銃社会のこと、拳銃以外にはほとんど見るべきものもない。それでも、独立心そのものと言ってもいい、中年に差し掛かりかけているカリフォルニア・ウーマンの生活パターン、女性ライターらしく登場人物のファッションのことこまかな描写、シリーズもの特有の常連バイプレーヤへの親近感、さらに言えば僕と同じにワインといえばシャルドネしか飲まないキンジー。そんなものが混然一体となったおとぎばなし、というのがこのシリーズのような気がしている。翻訳が R までしかないのが残念だが、ブックオフあたりで探せば文庫本はまだまだ手に入る。ぜひともご一読をおすすめしたいものである。