9月度月いち高尾報告 (39堀川)

開催日:2017年9月20日(水)

楽々コース  高尾山口⇒バスで大垂水峠⇒一丁平⇒薬王院

安藤 吉牟田 後藤 高橋 深谷 翠川 平松 小泉 船曳孝彦 船曳愛子 椎名   町井 蔦谷 立川 藍原 中川 堀川

定番コース  高尾山口⇒稲荷山コース⇒高尾山⇒薬王院

西澤 武鑓

直行コース  高尾山口⇒薬王院

岡 翠川(紀子) 中司恭 中司八恵子

9月の「月いち高尾」は20日(水)に開催。お昼には薬王院の精進料理を食べることになっていたためか、なんと全体で23名の参加。天候もまずまず。お彼岸入りの日で涼しい!

楽々コースは17名が参加、バスで大垂水峠まで行ったので標高差もあまりなく、ススキがすっかり秋の気配を感じさせる道を1時間ちょっとで一丁平へ。その後、もみじ台の細田小屋を経由し、高尾山は巻き道利用で薬王院へ12時50分着。先行の稲荷山コースの2名と直行コースの4名とも時間通りに合流出来た。

薬王院の精進料理は有名だが、これほど足しげく高尾山に行っていても全員初めての経験、今回は2800円コースにしたが、十分な内容で少しビールなども飲みながら楽しむことが出来た。食事後は全員でぶらぶらとケーブルカー乗り場まで行き、解散。ケーブル利用、リフト利用、しっかり歩いていく人等三々五々帰宅。リフトで下山した組はケーブル山麓駅で思いがけず猿園を見学された秋篠宮・紀子様に遭遇した。

 

“ハードボイルド”文学について(その2)

さきにふれた大藪の”野獣死すべし”の中に、主人公の伊達邦彦が書いた大学の卒業論文は”ハメット―チャンドラーーマクドナルド派に於けるストイシズムの研究”だったということになっていて、大藪の作家としての原点はやはりこのあたりにあったのかと思っていたのだが、”冒険小説論”で知られる評論家の北上次郎は大藪の作品ををハードボイルドとして紹介したのが間違いで、彼の作品は冒険小説とよばれるべきだ、と論じていることを知った。このあたりの論議は専門家の間でもいろいろあるようだ。ともかく、伊達がどういう論文を書いたのか知る由もないが、僕の考える”ハードボイルド文学”とはどんなものか、自分自身の整理のために今まで書いたことからまとめてみると、結局二つの点に要約できると思う。

第一に、話を紡ぐ主人公が(その意味では一人称で書かれたもののほうがわかりやすい)自身で確立した人生観・価値観を持ち、すべての行動をその基準(昨今のビジネス用語でいうコード・オブ・コンダクトと言ってもいい)に則って自分のやり方にあくまで固執しつつ、目的を完遂することが主題であり、その実現のためには社会通念とか伝統とかそのほかのしがらみを切り捨てて顧みない、ローンウルフであること、そしてそのことに誇りを持っていることが要求される。

第二に、文体というかスタイルは簡潔であり直截的でありながら、その中に一匹狼でありつづけなければならない主人公がそのことゆえに感じる孤独とロマンチシズムがはさまれていなければならない。つまり自分が孤独であるがゆえに、他人に対して、敵味方とか正義とか愛情とかの、いわば本質的値観や感情ではなく、一個の人間として(最近習い覚えた言葉を使えば)実存的な共感を覚えさせるものがあることだ。

この二つの点に焦点を当てれば、”ハードボイルド”という分野の題材というかストーリーは別にミステリである必要はなく、冒険小説というジャンルに入るものや、一般の読みものであってもかまわないことになる。ただ、ものの順序としてミステリの”御三家”についていえば、僕の好みはやはり全体(この場合清水俊二の翻訳)に流れる雰囲気から”長いお別れ”がどうしても第一に来るのだが、そのほかの作品となるとマクドナルドのものに共感する部分が多い。それは彼の中期以降の作品がまさに僕らの知っているアメリカの病巣ともいうべき部分に的を絞っているからで、そこには絵空事ではない現実感があるからだろう。多くの長編のなかでは、”縞馬模様の霊柩車(The Zebra-striped Hearse)”,”寒気(The Chill)”,”ウイチヤリー家の女(The Wycherly Womon)”の三篇が特に気に入っている。

さて、この”御三家”の跡を継ぐのは誰か、ということについては専門の文学者をはじめ多くの議論があるようだ。一時はジェイムズ・クラムリ―(”酔いどれの誇り”など)やジョージ・ペレケーノスなどという名前がよく出てきたが、一般に知られたという意味ではロバート・パーカーではないだろうか。翻訳は長編はほぼ全編がそろい、”スペンサー(主人公の名前)シリーズ”と銘打って素敵な装丁でまとまって刊行されている。この”スペンサー”シリーズが”御三家”と違う第一の点は主戦場がボストンであり、全編、かなり知的な会話がちりばめられ、しかもサブキャラクターとして”ホーク”という黒人を配して人種問題にも言及があったり、しかも主人公のロマンチシズム志向を失っていない、といった点で多くの読者を獲得したのだと思う。パーカー自身もチャンドラーに私淑していて、チャンドラーが未完でのこした原稿を書き継いで”プードルスプリングス物語”という長編にまとめ上げている。この中では、マーロウが長年のロマンスにピリオドを打つ、というおまけまで添えられているのも彼のチャンドラーに対する敬意とでも言えるかもしれない。

僕が自分で探した、というと自慢めくが、最も気に入っているのがスティーブ・ハミルトン(Steve Hamilton)という作家である。デビュー作 ”A Cold Day in Paradise”は”氷の闇を越えて”というタイトルで翻訳されているが、これがまた見事な出来栄えですっかり気に入ってしまい、同じ翻訳者(越前敏弥)のシリーズを読了した後、アマゾンで手に入る原本をすべて読み直した。彼の文体は平易で読みやすいが、そのほかにも物語の舞台が今度はミシガン州パラダイスという街(架空ではなく実際にあることは地図で確認した。とにかく冬は猛烈に厳しいところのようだ。パラダイス、といっても天国ではないのだがこの辺がアメリカ人のユーモア感覚だろうか)。”御三家”シリーズで慣れてしまったカリフォルニアとは全く違う社会環境であることや、パーカーの場合の黒人に対して地元の先住民族との交流や協力がたびたび登場するのも面白いところだろうか。ハミルトンの出発は元警官のアレックス・マクナイトのシリーズで、これは僕の定義するハードボイルドの範疇にはいる佳作ばかりだが、最近は別のニック・メイスンシリーズというのが始まった。だがこちらのほうはむしろクライム・ノベルというべきではないかと思っていて、ストーリーは面白いがマクナイトものには及ばない。

文体、と言ってもまずは翻訳書の話だが、その雰囲気で気に入ったのがサム・リーブス(Sam Reaves)である。彼の場合は翻訳者(小林宏明)の案なのか早川書房の案なのか、原題とは全く関係のない、一見すると女性向ロマンではないかと錯覚するようなタイトルがついている。いわく、”雨のやまない夜”だとか”過ぎゆく夏の別れ”などといった具合である。ネットにファンの書き込みがあるが、主人公のマクリーシュは今にいうハケンである、という意見もあるように私立探偵とか警官とかではなく、一人のロマンチストの運転手が活躍する。本国ではさほどヒットしなかったようで、アマゾンで原書を探しても初期のものはぼろぼろの中古しか入手はできていないが、僕の好みに合ったシリーズである。

ハミルトンがミシガンの田舎を舞台にしているといったが、一転してワイオミングの自然の中で展開するシリーズがある。作家の名前はC.J.ボックス、主人公は野生動物の保護官ということになっていて、大自然の中で素朴に生きているアメリカ人の社会がパーカーなどとは全く違ったものであることがよくわかる。僕がひそかにあこがれている米国中西部の、まっとうなアメリカ人が描かれていることも、もちろんストーリーの見事さもあるけれども愛読する理由でもある。

ここまで紹介した作品や作家は、”ハードボイルドミステリ”の定義に当てはまる要素をしっかりもっているのだが、その要素の中で特に”現場を歩き足で解決する”という部分に特化すれば、何といっても、かつてテレビ普及の初期に人気番組だった”87分署”シリーズのエド・マクベインにとどめを刺すようだ。テレビで主人公キャレラ刑事を演じたロバート・ランシングの特異な顔つきを覚えているむきもあるのではないか。ニューヨーク市警をモデルにしたという架空の町での話だが、人種問題や階級意識の問題など、マクドナルドのところでもふれたが現在のアメリカ社会の暗黒部の話が毎回出てくる。だが主人公にはローンウルフ的なイメージがなく、分署の組織が動く、という点と結果的にはいかにもアメリカ的な解決が多いのが物足りない。

アメリカの話ばかりになったが、日本の作家ではどうだろうか。先駆者ということになっている大藪についてはすでに述べた。出版業界では大藪の売り出しで味を占めたのか、以後、”ハードボイルド小説””ハードボイルドタッチ”などという宣伝文句がしょっちゅう目に留まるようになった。この分野に目される人も大沢在昌とか逢坂剛とか沢山いるわけだが、僕の好みは北方謙三にとどめをさす。どこかで北方が書いていたことだが、本人は純文学志向であったのだが或る時友人からハードボイルド、という分野を聞き、”読んでみたら、なんだこれなら俺にも書けると思って書き始めた”、のだそうだ。最近は”三国志”をはじめとして中国古典のリライトなどが多く(というか多すぎて)流行作家的な存在になってしまっているが、”弔鐘はるかなり”とか”二人だけの勲章”とか、暗いトーンでまとまった中編もいろいろ読んだ。70年代の学生運動とその熱狂から醒めた人物像が主人公のものが多く(本人もそのひとり)、同時代を生きたものとしてある種の郷愁を感じるものが多いが、僕には”さらば荒野”で始まり”再びの荒野”で終わる、という”ブラディドールシリーズ”が一番いい。全10冊がすべて独立した主人公で完結する物語になっていて、彼らの背負っている人生の負の遺産の重みを感じる佳作ぞろいである。純文学から転身した北方は明らかにハードボイルド作品で”文体の持つ意味を意識しているようで、独特の短い文節を矢継ぎ早に並べる書き方もそのひとつの試みなのだろう。

この”ハードボイルドタッチの文体”を日本語で表す、というのはプロであっても苦労するようだ。すこし軽妙過ぎて僕の好みではないのだが、”リンゴオ・キッドの休日”とか〝サムライノングラータ”などを書いた矢作俊彦・司城志朗にはその試みがあきらかにある。北方が文体そのものに挑戦しているのに対し、彼らは特にチャンドラーものに多い,大げさな形容詞句を発明することで味を出そうとしているようだ。

”犯罪現場での話”の拡張をしていくと、最近では大掛かりな組織、つまりCIAとか軍とかFBIなどといったものをバックにした話が多くなってきた。この辺になると、本題の”ハードボイルド”と”冒険小説”との境目がよくわからなくなってくる。冒険小説とは何か。このあとに僕の冒険小説遍歴について書いてみたい。

がにまた会乾杯!  (42 松本好弘)

恒例のガニマタゴルフも今回で何回目になるのでしようかね?
良く続けていると思います。

ベビーが初めて四国から参加し彼らしい努力の結果を残しているの は流石です。マコも腰の手術から完全回復したようで何よりですね!又トミがヤブタマこと河瀬君のバックアップもあって不死身のごと く元気になりゴルフ会に参加したのは嬉しい限りです。14名の参加者が写っている写真を見る限り全員が元気で楽しいゴ ルフ会だった事がよーく判ります。 健康で元気なことが一番大事ですからね…

私は4日から23日迄大山の小屋に滞在して秋冬野菜の植え付けや 種蒔きで大変ですが9日から11日に木川前会長と長年影の実力者 ?オスタ二人のご苦労さん会を関西支部の奥本会長、幹事( 安部君、金森君、笹岡君)、岡山のヒデ、石井君、小池君(木川、 オスタと同期)達10名でやりました。

関西支部としても二人には何かとお世話になったのでささやかな御 礼の気持ちをお伝えした次第です。
初日は午後集合して夜の焼肉会食、 翌日は大山登山組と出雲大社や松江の観光組に別れて行動し夜は地 ビールレストランでの夕食会、 最終日には大山寺周辺の観光後に御来屋漁港での美味しい海鮮丼を 食べて解散。

何時ものように夜は酒を酌み交わし学生時代の話や馬鹿話で大いに 盛り上がり、楽しい三日間でした。

それでは10月の熊ノ湯合宿で会いましよう!

がにまた会コンペ報告 (42 下村祥介)

ブログを拝読。 ハードボイルドを中心に米国文学についての広範な知識、 見識の深さに圧倒され、 浅学な小生は到底ついて行けず早々にギブアップしました。これを契機に少し勉強しておきたいと思いますが、 どこまで続くやら…。

さて、今週初めに同期15名が石和温泉に一泊、 翌日境川カントリー倶楽部でコンペを開催しました。 ぺリア方式でやったお陰で図らずも小生が優勝、 またも幹事になりそうです。べスグロは遠く愛媛から馳せ参じたベービー(宮脇君)が獲得。 一方、トミも驚異的に回復し、酒もゴルフも完走です。

前夜の宴会では我々も彼が持参した獺祭のおすそ分けに預かり、 皆で青春を謳歌しました。 次の集まりは10月中旬の志賀高原でのがにまた秋合宿です。 松本君やムスケ君も参加するようです。

 ゴルフはスコアよりも温泉付きで、飲みながらワイワイガヤガヤするのが楽しい年齢になっていますが、参加メンバー各位の名誉も若干尊重したいと思いますので、上位入賞者のみのネットスコアをご紹介させて頂きます。

①   下村(72.6)②村田トミ(76.0)③丸忠(76.6)④宮脇(77.0)⑤高橋(77.2)、杉浦真利子(77.2)でした。グロスでの上位は、①宮脇(95)、②丸忠(97)、③下村(98)です。

 

”ハードボイルド”文学について (その1)

僕は小学校の頃から本を読むのが好きだった。小学校時代は少年向けの名作シリーズがほとんどだったし、中学ではラグビーの練習が結構きつかったので、本格的に本を読みだしたのは高校へはいってからだった。シュトルムとかヘッセとかいう定番の名著を何冊か読み、次は”魅せられたる魂”か”ジャン・クリストフ”か、と考え出したころ、クラスのある仲間から、ミステリー小説、というのを吹き込まれた。明治風に厳格だった父親も旧制高校育ちの兄も”推理小説”などというのは悪書の一歩手前だ、くらいに思っていて、僕にも多少の躊躇はあったものの、彼(菅原勲)の勧めで、当時売れ始めた早川書房のポケットミステリで”矢の家”という作品を読んだ。1930年代、イギリスで高名な文学者たちがいわば手すさびに推理小説を書くのが流行だったころ、メイスンという高名な(僕はその本領を読んだことはないが)作家の書いた、典型的な本格推理ものだった。この本では、僕は話の筋よりも本の持つ雰囲気(とうことはいかに翻訳がよかったかということなのだが)にすっかり参ってしまって、そうか、ミステリも面白い、となり、次に手に取ったのがクリスティの”アクロイド殺人事件”だった。この本では、結末の意外さにただ呆然として、一瞬,本当に本を放り出したものだった。

この”アクロイド”が僕をミステリの世界に連れ込んだきっかけなのだが、それからはクイーンだ、カーだ、ヴァン・ダインだと名作をただ読み続けて、”ジャンクリ”も”魂”も”チボー家”も、当時のインテリ志向の人間には必読とされていた本は結局今日まで読まずにきてしまった。しかしある日、全く知らなかった”ハードボイルドミステリ”という存在に出会わなかったら、本格推理小説熱もいずれ冷め、純文学志向に戻って、今頃はひょっとすると斜に構えてドストエフスキーでも語るようなことになっていたもしれない。

さて、その”ハードボイルド”との出会い、である。

どういうものか、僕の人生で何かの転機、という不思議にたびたび登場するのが、慶應高校1年で同じクラスにはいった田中新弥なのだが(極め付きは義兄弟になってしまったことか)、ある日、(おい、これ、すごいぞ)と声を潜めるようにして教えてくれたのがミッキー・スピレーンの”裁くのは俺だ”だった。にくいことに彼はこの本の〝アイ・ザ・ジュリー”という原題をひけらかして、あたかもどうだ、わかんねえだろいうように僕の敵愾心?を誘ったものだ。何が”すごい”のか。何ということはない、ラスト数ページに展開される、犯人の悪女が探偵を誘惑して自分を見逃させようと一枚一枚服を脱いでいく、その描写の事だったのだ。今では中学生だって驚かない程度のシーンだが、当時としては、声を潜めていうくらいの衝撃だったのである。だがそれ以上に、この誘惑があっても動ぜず、冷然として自らこの悪女に銃弾をぶち込むラストはやはり強烈だった。今考えると、スピレーンの作品がミステリー小説というジャンルに入るのかどうか、疑問があるのだが、それはともかく、本の解説にあった、”ハードボイルド”という文学のカテゴリがあるのを知るきっかけを作ったのは間違いなく”裁くのは俺だ”だった。

これに続いてスピレーンの一連の作品が流行りだしたころ、また新弥が今度は”野獣死すべし、こいつはほんとにすごいぞ”と言い出した。一部によく知られている大藪晴彦の出世作である。読んでみると、たしかにそれまでに読んだ”推理小説”とは全く違った文体のものだった。しかしストーリーとして優れているとは思えなかったし、新弥が”すごいぞ”といった描写もたくさんあったが、読み終わってしまえばそれまで、というのが感想であった。大藪にはそのほか多数の作品があるが、いずれも暴力と銃器に関するマニアックな書き込み以外の印象はない。ただ、この本のようなスタイルの小説が”アメリカン・ハードボイルド”と言われるものだ、という事を知ったという意味ではひとつの転機ではあったようだ。しかし、まだ当時〝銃と酒と裸の女を書けばハードボイルド”、というような風刺もあって、この段階ではまだ巷間でも認知は低かったし、僕の読書性向を決めるものではなかった。

そこで、この”ハードボイルド”とは何ぞや、という議論になる。これは文学愛好者やその道の専門家にいろいろな説があるようだが、主に二つの面が指摘されている。

第一は、それまでのいわゆる”本格推理小説”、というものに対する一種のアンチテーゼとしての”推理小説”の書き方、という点である。”アクロイド殺人事件”に代表されるように、”推理小説”の主題は何よりもまず、フーダニット(WHO DONE IT)すなわち殺人の犯人は誰か、であり、それと表裏一体になるのだがハウダニット (HOW DONE IT)),例えば完全な密室でどうやって人が殺せたのか、その仕掛けは何か、ということにある。特に1930年代を中心に書かれたものはこの”ハウ”に重きを置くために、およそ現実性に欠ける環境やメカニズムを背景にするようになって、たしかに論理を追及していくというインテリ好みの面白味はあっても現実の世界では起きえないようなことが描かれ、物語の終わりになって、名探偵が関係者を集めてとうとうと論理を述べ、真犯人を名指しする、というのが定番になっていく。これに対して、もっと現実の社会に立ち戻って、平凡な警察官なり探偵が足を棒にして現場や社会の裏側を歩き、物証を集めて犯人にたどり着く。多くの場合、犯人もまた、平凡な社会の一員であることが多い、という流れができたのはある意味で当然であろう。このいわば推理小説の変化のひとつのかたちとして、主人公(多くの場合探偵あるいは警官)をより現実的なものにしていくと、今度はその主人公にどういう性格を持たせるか、にも視点がいく。それまでの名探偵はいわば一種の天才か或る種の変人であり、その私生活やら性格描写に力点が置かれることは少なかったし、読者の報も超能力者を自分の周りにいる人間とは期待しなかった。この”探偵の人間化”ということ、すなわち安楽椅子に座った推理機械と生身の人間との違いを考えていく過程で、より現実的な、ビジネスライクな、行動的な人物像が作られていくことになる。その中で、より”行動”と”自己主張”と”個性”とを強調した小説作法が作られていき、それにアメリカ的な個人第一の倫理とが加味されて”ハードボイルド・ミステリ”が生まれたのだというのが第一の点である。”ハードボイルド”という形容詞は今や推理小説の分野に限らず、社会通念の一つとなっているが、当初は必ず”アメリカン”という限定詞がついていたことも記憶されるべきだろう。

第二の点は、これは我々素人が云々できる範囲を超えているのだが、その文体、スタイル、にかかわることである。”アメリカン・ハードボイルド”を論じている文章にまず必ず引き合いに出されるのがヘミングウエイだ。それはハードボイルド作家の書き方の手本になったのがヘミングウエイの文体だということなのだが、このような議論はまず英語を母国語として多くの著書を読み、かつまたアメリカ文化を経験した人か、あるいはこの分野を専攻している文学者にして初めていえることであり、われわれ門外漢はそれを受け入れるしかない(所詮、蟷螂の斧とは知りながら、僕もヘミングウェイの文章を読んでみようと思い立ち、”Farewell to Arms”とか“The Sun Also Rises”など数冊に挑戦したことがある。第一次大戦後の世界意識の変革期、その時代の若者の不安や絶望や社会のありようはそれなりに心を打つものがあったが、さてその文体なりスタイルなりがどうだ、といわれてもこればかりは無理な話だった)。

この分野の専門家といえば、現代アメリカ文学者のひとり小鷹信光には”私のハードボイルド” ”ハードボイルドアメリカ”という文字通りこの問題に特化した2冊と、ほかにも関連として”アメリカ語を愛した男たち” ”ハードボイルド以前”などという著作があるし、ほかにも僕が目を通したものでいえば青木透”ハードボイルド”とか郷原宏の編さんになる”ギムレットには早すぎる”などは軽いタッチで”さわり”を解説してくれたものがある。もちろん、ほかにも参考文献はいろいろあるようだ。

しかし、”誰が為に鐘は鳴る”のヘミングウエイをハードボイルド作家だという人はいない。文体だけでなく、もっと違う文学としての価値があるからだ。そうすると、”ハードボイルド”といわれる作品には、文体以外にもなにか共通するものがあるはずだ。それは今、話をとりあえずミステリに限るとすると、これらの作品に登場する人物、主人公の人物の描き方にあるのではないか。アメリカン・ハードボイルドの作家と言えば、御三家ともいわれるダシール・ハメット、レイモンド・チャンドラー、そしてロス・マクドナルドがまず登場するのだが、そのチャンドラーの”長いお別れ(The Long Goodbye)”の中に、主人公探偵のフィリップ・マーロウが親友の警部に、なぜおまえはそんなにこの事件にこだわるのか、と言われてこう答える部分がある。

私はロマンティックな人間なんだよ、バー二―。夜中に誰かが泣く声が聞こえるといったらなんだろうと思って足を運んでみる。そんなことをしたって一文にもならない。常識を備えた人間なら……..他人のトラブルには関わり合わないようにつとめる……テリー・レノックスが死んだことを知った時、私はキッチンにいってコーヒーを作り、彼のためにカップに注いでやった……..そんなことをやっても一文にもならない。君ならそんなことはしないだろう。だから君は優秀な警官であり、私はしがない私立探偵なんだ…(村上春樹訳 ”ロング・グッドバイ”)

前に述べたように、”ハードボイルドとは何ぞや”については多くの専門家の意見があるのだが、一愛好者としての僕にはこの一節が”ハードボイルド”の真髄を語っているように思われる。ハメットは30年代のサンフランシスコを、マクドナルドは第二次大戦から現代までの、北部カリフォルニアを主な背景とした作品で知られる。チャンドラーの舞台は主にロスアンゼルスだが、時代背景はその中間にあたる。この三人が描こうとしたアメリカ、それも東部エスタブリッシュメントの社会とは違う西部の社会と人間模様はそれぞれに違っているのだが、ハメットがどちらかと言えば主人公の”ハードボイルド的”行動を中心に据えた、きわめてストレートな書き方なのに対し、チャンドラーは上記の一節に明らかなように、行動的ではあるがより人間的でありかつ性善説的な視点で優れた小説を書いた。マクドナルドになると戦後のアメリカ中級社会に起きて来た麻薬の問題とか家族崩壊と言った深刻なテーマが増える。それぞれにメインテーマは変わっているが、このマーロウの独白にこめられた思い入れは共通しているように思える。この3人についてはよく知られているし、特に”長いお別れ”はミステリの分野を超えて、現代英語文学の最高峰という評もあるくらいだから、これ以上云々することはやめよう。翻訳も清水俊二に名訳があり、ほかにも双葉十三郎、小鷹信光、などあり、最近、村上春樹が新訳を書き続けている。僕の好みとしては清水訳が一番好きだが。

蛇足だが、この3人の大家の作品はいくつかが映画化されている。僕らの時代に公開されたものとしては、チャンドラーのマスターピースのひとつ”大いなる眠り (TheBig Sleep)”が”三つ数えろ”というタイトルで、かのハンフリー・ボガートとローレン・バコールの主演で、またもうひとつ、”さらば愛しき女よ(Farewell my lovely)”がロバート・ミツチヤムの主演で作られている。ローレン・バコールについては今更言うまでもないが、この”さらば”の悪女で出たシャーロット・ランプリングの妖しい美貌は忘れられない。”長いお別れ”もエドワード・グールドで出たが、原作に忠実でないし、何しろミスキャストで期待外れだった。ハメットの代表作”マルタの鷹”もボガート、マクドナルドの”動く標的(The Moving Target)”はポール・ニューマンが主演している。この中では、何といっても”さらば”がロマンチックな雰囲気と音楽がミツチヤムの茫洋とした演技とあいまって、素晴らしかった。いずれもまだDVDで版があるはずだ。

長くなったがここまでが書きたいことの前段というか前提である。僕も大学時代はこれでもかなりまじめに専攻した社会思想史の文献を(山とスキーの合間を縫って、である、もちろん)読んでいたし、会社勤めが意外なことに外資系になったためにそれなりの負荷もあって、余暇に読んだのは、その乾いた文体が好きだった五木寛之とか、歴史の知識を広めるための手っ取り早い手段として司馬遼太郎をよみあさったくらいであった。本来の趣味としての読書にのめりこんだのはむしろ退職後のことであり、その退職後のいわば生きがいのひとつとして、”ハードボイルド文学”とのかかわりあいをこれから書いてみたい。