“ハードボイルド”文学について(その2)

さきにふれた大藪の”野獣死すべし”の中に、主人公の伊達邦彦が書いた大学の卒業論文は”ハメット―チャンドラーーマクドナルド派に於けるストイシズムの研究”だったということになっていて、大藪の作家としての原点はやはりこのあたりにあったのかと思っていたのだが、”冒険小説論”で知られる評論家の北上次郎は大藪の作品ををハードボイルドとして紹介したのが間違いで、彼の作品は冒険小説とよばれるべきだ、と論じていることを知った。このあたりの論議は専門家の間でもいろいろあるようだ。ともかく、伊達がどういう論文を書いたのか知る由もないが、僕の考える”ハードボイルド文学”とはどんなものか、自分自身の整理のために今まで書いたことからまとめてみると、結局二つの点に要約できると思う。

第一に、話を紡ぐ主人公が(その意味では一人称で書かれたもののほうがわかりやすい)自身で確立した人生観・価値観を持ち、すべての行動をその基準(昨今のビジネス用語でいうコード・オブ・コンダクトと言ってもいい)に則って自分のやり方にあくまで固執しつつ、目的を完遂することが主題であり、その実現のためには社会通念とか伝統とかそのほかのしがらみを切り捨てて顧みない、ローンウルフであること、そしてそのことに誇りを持っていることが要求される。

第二に、文体というかスタイルは簡潔であり直截的でありながら、その中に一匹狼でありつづけなければならない主人公がそのことゆえに感じる孤独とロマンチシズムがはさまれていなければならない。つまり自分が孤独であるがゆえに、他人に対して、敵味方とか正義とか愛情とかの、いわば本質的値観や感情ではなく、一個の人間として(最近習い覚えた言葉を使えば)実存的な共感を覚えさせるものがあることだ。

この二つの点に焦点を当てれば、”ハードボイルド”という分野の題材というかストーリーは別にミステリである必要はなく、冒険小説というジャンルに入るものや、一般の読みものであってもかまわないことになる。ただ、ものの順序としてミステリの”御三家”についていえば、僕の好みはやはり全体(この場合清水俊二の翻訳)に流れる雰囲気から”長いお別れ”がどうしても第一に来るのだが、そのほかの作品となるとマクドナルドのものに共感する部分が多い。それは彼の中期以降の作品がまさに僕らの知っているアメリカの病巣ともいうべき部分に的を絞っているからで、そこには絵空事ではない現実感があるからだろう。多くの長編のなかでは、”縞馬模様の霊柩車(The Zebra-striped Hearse)”,”寒気(The Chill)”,”ウイチヤリー家の女(The Wycherly Womon)”の三篇が特に気に入っている。

さて、この”御三家”の跡を継ぐのは誰か、ということについては専門の文学者をはじめ多くの議論があるようだ。一時はジェイムズ・クラムリ―(”酔いどれの誇り”など)やジョージ・ペレケーノスなどという名前がよく出てきたが、一般に知られたという意味ではロバート・パーカーではないだろうか。翻訳は長編はほぼ全編がそろい、”スペンサー(主人公の名前)シリーズ”と銘打って素敵な装丁でまとまって刊行されている。この”スペンサー”シリーズが”御三家”と違う第一の点は主戦場がボストンであり、全編、かなり知的な会話がちりばめられ、しかもサブキャラクターとして”ホーク”という黒人を配して人種問題にも言及があったり、しかも主人公のロマンチシズム志向を失っていない、といった点で多くの読者を獲得したのだと思う。パーカー自身もチャンドラーに私淑していて、チャンドラーが未完でのこした原稿を書き継いで”プードルスプリングス物語”という長編にまとめ上げている。この中では、マーロウが長年のロマンスにピリオドを打つ、というおまけまで添えられているのも彼のチャンドラーに対する敬意とでも言えるかもしれない。

僕が自分で探した、というと自慢めくが、最も気に入っているのがスティーブ・ハミルトン(Steve Hamilton)という作家である。デビュー作 ”A Cold Day in Paradise”は”氷の闇を越えて”というタイトルで翻訳されているが、これがまた見事な出来栄えですっかり気に入ってしまい、同じ翻訳者(越前敏弥)のシリーズを読了した後、アマゾンで手に入る原本をすべて読み直した。彼の文体は平易で読みやすいが、そのほかにも物語の舞台が今度はミシガン州パラダイスという街(架空ではなく実際にあることは地図で確認した。とにかく冬は猛烈に厳しいところのようだ。パラダイス、といっても天国ではないのだがこの辺がアメリカ人のユーモア感覚だろうか)。”御三家”シリーズで慣れてしまったカリフォルニアとは全く違う社会環境であることや、パーカーの場合の黒人に対して地元の先住民族との交流や協力がたびたび登場するのも面白いところだろうか。ハミルトンの出発は元警官のアレックス・マクナイトのシリーズで、これは僕の定義するハードボイルドの範疇にはいる佳作ばかりだが、最近は別のニック・メイスンシリーズというのが始まった。だがこちらのほうはむしろクライム・ノベルというべきではないかと思っていて、ストーリーは面白いがマクナイトものには及ばない。

文体、と言ってもまずは翻訳書の話だが、その雰囲気で気に入ったのがサム・リーブス(Sam Reaves)である。彼の場合は翻訳者(小林宏明)の案なのか早川書房の案なのか、原題とは全く関係のない、一見すると女性向ロマンではないかと錯覚するようなタイトルがついている。いわく、”雨のやまない夜”だとか”過ぎゆく夏の別れ”などといった具合である。ネットにファンの書き込みがあるが、主人公のマクリーシュは今にいうハケンである、という意見もあるように私立探偵とか警官とかではなく、一人のロマンチストの運転手が活躍する。本国ではさほどヒットしなかったようで、アマゾンで原書を探しても初期のものはぼろぼろの中古しか入手はできていないが、僕の好みに合ったシリーズである。

ハミルトンがミシガンの田舎を舞台にしているといったが、一転してワイオミングの自然の中で展開するシリーズがある。作家の名前はC.J.ボックス、主人公は野生動物の保護官ということになっていて、大自然の中で素朴に生きているアメリカ人の社会がパーカーなどとは全く違ったものであることがよくわかる。僕がひそかにあこがれている米国中西部の、まっとうなアメリカ人が描かれていることも、もちろんストーリーの見事さもあるけれども愛読する理由でもある。

ここまで紹介した作品や作家は、”ハードボイルドミステリ”の定義に当てはまる要素をしっかりもっているのだが、その要素の中で特に”現場を歩き足で解決する”という部分に特化すれば、何といっても、かつてテレビ普及の初期に人気番組だった”87分署”シリーズのエド・マクベインにとどめを刺すようだ。テレビで主人公キャレラ刑事を演じたロバート・ランシングの特異な顔つきを覚えているむきもあるのではないか。ニューヨーク市警をモデルにしたという架空の町での話だが、人種問題や階級意識の問題など、マクドナルドのところでもふれたが現在のアメリカ社会の暗黒部の話が毎回出てくる。だが主人公にはローンウルフ的なイメージがなく、分署の組織が動く、という点と結果的にはいかにもアメリカ的な解決が多いのが物足りない。

アメリカの話ばかりになったが、日本の作家ではどうだろうか。先駆者ということになっている大藪についてはすでに述べた。出版業界では大藪の売り出しで味を占めたのか、以後、”ハードボイルド小説””ハードボイルドタッチ”などという宣伝文句がしょっちゅう目に留まるようになった。この分野に目される人も大沢在昌とか逢坂剛とか沢山いるわけだが、僕の好みは北方謙三にとどめをさす。どこかで北方が書いていたことだが、本人は純文学志向であったのだが或る時友人からハードボイルド、という分野を聞き、”読んでみたら、なんだこれなら俺にも書けると思って書き始めた”、のだそうだ。最近は”三国志”をはじめとして中国古典のリライトなどが多く(というか多すぎて)流行作家的な存在になってしまっているが、”弔鐘はるかなり”とか”二人だけの勲章”とか、暗いトーンでまとまった中編もいろいろ読んだ。70年代の学生運動とその熱狂から醒めた人物像が主人公のものが多く(本人もそのひとり)、同時代を生きたものとしてある種の郷愁を感じるものが多いが、僕には”さらば荒野”で始まり”再びの荒野”で終わる、という”ブラディドールシリーズ”が一番いい。全10冊がすべて独立した主人公で完結する物語になっていて、彼らの背負っている人生の負の遺産の重みを感じる佳作ぞろいである。純文学から転身した北方は明らかにハードボイルド作品で”文体の持つ意味を意識しているようで、独特の短い文節を矢継ぎ早に並べる書き方もそのひとつの試みなのだろう。

この”ハードボイルドタッチの文体”を日本語で表す、というのはプロであっても苦労するようだ。すこし軽妙過ぎて僕の好みではないのだが、”リンゴオ・キッドの休日”とか〝サムライノングラータ”などを書いた矢作俊彦・司城志朗にはその試みがあきらかにある。北方が文体そのものに挑戦しているのに対し、彼らは特にチャンドラーものに多い,大げさな形容詞句を発明することで味を出そうとしているようだ。

”犯罪現場での話”の拡張をしていくと、最近では大掛かりな組織、つまりCIAとか軍とかFBIなどといったものをバックにした話が多くなってきた。この辺になると、本題の”ハードボイルド”と”冒険小説”との境目がよくわからなくなってくる。冒険小説とは何か。このあとに僕の冒険小説遍歴について書いてみたい。

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