先の「戦争遺跡として巡る三田キャンパスツアー」で谷口吉郎さんと慶應義塾の建築について一部語ふれましたが、「建築大好きな」熟年生としては谷口さんの建築について書いてみました。
谷口吉郎さんはすでに戦前から、慶應義塾の各所において建築設計を依頼されていました。彼の手により、1936年には天現寺に幼稚舎が、翌年には日吉寄宿舎が完成しています。どちらの建築物も優れた意匠のみならず当時最新の設備を有し、当局から高い評価を得ていました。
熟年生は普通部入学の時は天現寺の幼稚舎校舎を仮住まいとしていましたので、この建物の理科の部屋などは我が根城でした。非常にモダンな1937年に作られた建物とは思えない素晴らしさでしたね。
1949年には5号館、4号館、学生ホールが木造で完成した。これらによって、谷口は建築家の最も栄誉ある賞、日本建築学会賞(作品)の第1回受賞者に輝いた。学生ホールの東西の両壁面には猪熊弦一郎による壁画「デモクラシー」があり、
今は西校舎内の食堂に移設されているが、こうした芸術家との協働は現在、南館にある「ノグチ・ルーム」につながる。これは1951年に完成した鉄筋コンクリート造の第2研究室の一部を移築したものだ。谷口は木造の校舎、鉄筋コンクリート造の校舎を通じて、縦に細い窓を連続させるというデザインモチーフを用いることで、三田キャンパスに清新な一貫性を付与したのだった。
慶應義塾の建築家と言えるのが谷口吉郎だ。関わりの始まりは1937年に完成し、今も現役の慶應義塾幼稚舎である。校舎の設計を当時、慶應義塾常任理事を務めていた槇智雄が依頼したのだった。谷口はまだ20代であり、助教授を務める東京工業大学の水力実験室と数棟の住宅しか手掛けていなかったが、谷口は従来の校舎のありかたを継承するのではなく、新しく考え直して、良いと思うものを設計した。モダニズムと呼ばれる手法だ。第2次世界大戦後の三田キャンパスで、これが大いに使われることになる。小生は普通部入学の時は天現寺の幼稚舎校舎を仮住まいとしていたので、この建物の理科の部屋などは我が根城で、非常にモダンな1937年に作られた建物とは思えない素晴らしさだった。
慶應義塾普通部は天現寺幼稚舎から1951年に日吉へ谷口吉郎さん設計の建物へ移転、未だ芋畑とか米軍のカマボコ兵舎などが残る荒れ地で、先ずは草むしりから始まったが校門も何もなかった。細いスリット状の窓は谷口吉郎さんの慶應義塾の戦後の建物の特徴で、演説館などの伝統建築を引き継いだいだと言う事も言われているが、実際は戦後の日本では大きなガラスは高価で割安なガラスで済ませたというのが谷口の苦辛の表れかと思われる。
谷口吉郎設計1937年竣工戦中に海軍聯合艦隊司令部となった悲運の名建築寄宿舎の建物は1937年に建った。 谷口がこの設計に取り掛かったときは、まだ30歳そこそこの若輩建築家であった。東京工業大学助教授として、1932年に建った同大学の水力実験室が処女作で、自邸、慶應義塾幼稚舎(1937年竣工)、それに続くのがこの寄宿舎である。
若い無名の建築家を、慶応義塾はよくも起用したものである。ここから彼は名建築家への道を歩み出したのであった。慶應義塾の建築家と言えるのが谷口吉郎だ。関わりの始まりは1937年に完成し、今も現役の慶應義塾幼稚舎である。校舎の設計を当時、慶應義塾常任理事を務めていた槇智雄が依頼したのだった。谷口はまだ20代であり、助教授を務める東京工業大学の水力実験室と数棟の住宅しか手掛けていなかったが、谷口は従来の校舎のありかたを継承するのではなく、新しく考え直して、良いと思うものを設計した。モダニズムと呼ばれる手法だ。第2次世界大戦後の三田キャンパスで、これが大いに使われることになる。小生が谷口吉郎先生の謦咳に接したのは、大学で教わった時である。その頃はもう還暦が近く、秩父セメント工場、藤村記念館、東宮御所などの名作で有名建築家であり、その美丈夫にして謹厳なる様子には近寄りがたい風格があった。右目と比べて左目が大きいのが印象的だった。西洋建築史を文学部の講座に単位にも成らん無いのに熱心に受講した想い出がある。
