KWV OB会 “日帰りワンデルング” が戻ってきた!

コロナ騒動でOB会の年中行事もしばらく中止のやむなきになっていたが、今回、”秋の日帰りワンデルング” が復活。ファミリー帯同も前提にした楽しい一日、今回の参加者は124人!とのこと。まさに待ちに待った、というところだろうか。集中地は青梅駅近くの河原、いつもなら部旗がはためき山の歌が聞こえるのだが、今回は自粛。これもまたよし、か。

編集子はあまたのコースからファミリーむきの散策を選択。岩田君ファミリーを中心に2時間ほどの時間を満喫した。

エーガ愛好会 (147) 軍用列車

僕はあまりテレビを見るほうではないのだが、何となくスイッチオンしてみたらこの映画がちょうど始まるところだった。別に期待もしていなかったのだが、アリステア・マクリーン原作の映画だというので、座りなおした。マクリーンは多作で知られる作家だし、ナヴァロンの要塞 女王陛下のユリシーズ号 をはじめとして主なものはずいぶんと読んだ記憶がある。しかしこのタイトル(原題はBreakheart Hill という)は見たこともなかった。おそらく第二次大戦での抗ナチ活動の話だろうと思っていたのだが、タイトルバックに出てくる機関車がどうみてもセーブゲキ風なので(マクリーンが書いた西部劇?)というオドロキと、クレジット・タイトルにごひいきベン・ジョンスンが出てきたので、意を決して(おおげさかな)最後まで見てしまった。

筋書きはよくある軍の幹部が武器密売にかかわる腐敗もので、たとえば最近で言えばトム・クルーズのジャック・リーチャーもの第二弾 ネバーゴーバック と同じ筋書きだ。ただ、クルーズのほうが万事アクションで追い詰めていくのに、そこはマクリーン、観ていても謎解きに引き込まれるようだった。ただ西部劇時代の話となると、時代考証的に(まあ、いいんだけど)いろいろ疑問が湧く。ウイキペディアにある記事ではサスペンススリラー、と分類していた。

筋書きは辺地でジフテリアが発生したため、医療品と補充兵を運ぶ軍用列車での謎解きである。列車は度々停車し、目的地の砦(すでに悪漢一味に占拠されている)に報告を入れるのだが、当時まだ当然無線は出来ないから、電線に送信装置をつながなければならないはずなのに、画面で見る限り電線が引かれているとは思えない。ジョエル・マクリーンの 大平原 では、二挺のライフルの銃身を電線につないでモールスを送る場面があったが、そういえばあれはどうだったか、も一度DVDを見てみよう。

ベン・ジョンスンは別件で登場するのだが、酒場でお尋ね者として手配されているチャールズ・ブロンソンを見つけ、それを連行するという名目で軍用列車に乗り込む。ところがこの列車、突然兵士を載せた車両が切り離されて逆走、転落したり、殺人があったり、謎が深まっていく。ブロンソンが医療品の箱が実はダイナマイトとライフル銃であることを見つけ、生き残りの中で唯一信用できる将校とともに解決し、密売の相手だった先住民の襲撃を押しとどめる。女性で登場するのはジル・アイアランドだが、まったくのそえものでロマンス話はなし。もう一人、どっかで見た顔だと思ったら、ランボー でスタローンの上司になるリチャード・クレンナだった。

時代考証、という意味でもう一つある。ブロンソンは実は秘密情報部員だ、という事がわかる。待てよ、映画の中に正確な記述はないが、大統領はグラントのころだろう。その当時にすでに CIA のごとき組織は存在したのか? 何方か博識の方、よろしくご教示ありたし。

ま、ぽかんとあいた午後の2時間、退屈はしなかった。

 

フランシス・フクヤマ論文を読んだ   (44 安田耕太郎)

 

第二次世界大戦においてナチスドイツの敗色が濃厚となった頃、戦後の東西冷戦を予見しソ連と西欧との間には「鉄のカーテン」が引かれると喝破したのはイギリスの元首相ウィンストン・チャーチルだった。彼は、更に「民主主義は最悪の政治形態だ。ただし、これまでに試されたすべての政治形態を別にすれば」、と民主主義の政治体制を逆説的に賛美した。しかし、戦後4分の3世紀を経た今日、ロシアと中国に代表される権威主義的専制国家は強力に前進しているように見える反面、民主主義の命運に関する悲観論が高まってきたかにみえる。民主主義の盟主たるべきアメリカの国力低下も起因しているのは明らかだ。権威主義専制政府は、民主主義政府のような逡巡や躊躇、あるいは議論の対立とは無縁に、迅速に意思決定をして果断に行動に移すことが出来る。民主主義体制の弱点は、一人の為政者が国を治める期間は短く政権交代は頻繁で、長期的に一貫した持続可能な政策・戦略を採ることが相対的に困難な点である。

 

ロシアにおけるウクライナ侵攻、北朝鮮のミサイル発射による威嚇、中国による台湾侵攻の恐れ・・・。権威主義的独裁国家による民主主義体制への圧迫が続く。国際社会を大きく「民主主義」対「権威主義的独裁」の構図で観た場合、人口の合計はそれぞれ「23億人」対「55.6億人」となり、世界の人口の71%が「独裁」側に住んでいることになる(下記貼付資料: スウェ―デンの独立研究機関のデータによる)。世界で最も多い統治形態は民主主義の理念を掲げる独裁国家とのこと(橙色の国)。データ入手可能な199ヶ国の内、実に55%の109ヶ国が権威主義的独裁国家なのだ。アメリカなど多くの民主主義国で、自由な国際秩序を攻撃し、自国内の「法の支配」を傷めつけるポピュリストの指導者が出現している。民主主義とその体制はこのままジリ貧状態に陥ってしまうのだろうか。現状を示す下記の地図で 赤と橙色が広い意味で「独裁」に分類されている:

去る5月22日の読売新聞朝刊の「地球を読む」にアメリカの政治学者フランシス・フクヤマの投稿記事「ウクライナ・コロナ」が載った。今、最もホットな話題2つを取りあげて、権威主義的国家の問題と民主主義の先行きを論じているので紹介する。

我々はここ数か月で、権威主義的大国による二つの破滅的な意思決定を目撃した。第一は、ロシアのウクライナ侵攻である。第ニは、中国が「ゼロコロナ」戦略の維持という無意味な闘いに取り組んでいることである。

ロシアは、無辜のウクライナ市民を何万人も殺害し、国のインフラの多くを破壊した。しかし負け戦の途上にある。首都キーウ周辺から撤退を余儀なくされ、東部ドンバス地域の確保という目標も縮小を迫られている。ロシア側の代償も甚大で、ロシア軍兵隊の士気の低下は顕著だ。NATO拡大により旧ソ連圏が脅かされるとして、侵略を正当化したが、今やNATOはフィンランドとスウェ―デンにまで広がろうとしている。同時にロシアは民主主義世界から未曽有の経済制裁を科された。ロシア経済は外部世界から切り離され、いずれ機能不全に陥ろう。ウクライナの抵抗戦力を過小評価して楽観的に侵略したロシアは、今やNATO諸国から継続的に武器の供与を受け続けるウクライナの高い戦闘士気と戦闘能力の向上の前にたじたじである。士気の低下が目立つロシアと好対照である。プーチンの成功はおぼつかない。

中国の「ゼロコロナ」戦略の維持は、多くの都市における封鎖(ロックダウン)をもたらし、中国経済に深刻な結果をもたらすだろう。習近平はゼロコロナ戦略に個人的威信をかけている。中国共産党独裁は高度に制度化され、指導部幹部の任期には制限があり、引退年齢も決まっていた。毛沢東時代のようなカリスマ的指導形態への忌避感は明白であった。これらの制度的な権力監視の規定の多くが習近平により解体され、彼自身が兼務する国家主席の任期(2期10年)も撤廃した。例外的な次期5年或いはさらに次の5年の政権を担うことは当然視されている。自分に対する個人崇拝の構築も進めてきて、「習近平思想」の教義を強調し、自らを過去の「偉大な指導者」になぞらえている。習近平の独裁的権力と威信に立ち向かう人物が指導層内にいなさそうな現状では、依然として暫くは習近平独裁体制が続くのだろう。

ロシアと中国の今回の悲惨な選択は、単に情報の乏しさや個々の指導者の判断ミスに起因するものではない。これは、権威主義的な両国の政治システムそのものがもたらした結果といえる。両国とも、頂点に立つ個人に際限のない権力と権威を与える、いわば属人的な権威主義形態へと変化した。その個人に対する監視は殆どなく。明白な失敗があったとしても、方向を反転させるための仕組みは存在しない。権力に対する監視の欠如は、特にロシアで顕著だ。プーチンがコロナで孤立を深めたという指摘が多い。長テーブルの両端で側近やゲストの要人と協議する姿は、その象徴だ。最側近とのこういう関係は恐怖に基づくもので、知的な議論や熟考が可能な政治システムとは程遠い。それどころかプーチンには、誰もあえて真実を伝えず、彼は情報を遮断された泡の中に生きている「裸の王様」のようだ。

ロシアのウクライナ侵略によって、世界は重大な岐路に立たされている。ロシアは。東西冷戦の終結後に現れた民主主義に基づく政治を破壊しようとしている。それを、国際秩序のルール改変を模索する中国が助けている。だから、ウクライナ戦争がどういう形で帰結するかは、同国だけでなく世界全体に影響を及ぼすのだ。フランスのマリーヌ・ルペンやハンガリーのオルバン首相、アメリカのトランプ(前大統領)といった欧米の大衆先導型の政治家はおしなべて、プーチンを手本として仰いできた。それゆえ、ロシアによるウクライナ征服の試みが失敗することは、結果として地球全体の民主主義に、大きな恩恵をもたらそう。それはまた、民主主義諸国が地球規模で新たに結束する契機となりうるかも知れない。

 

エーガ愛好会 (146) 懐かしの名画   (普通部OB 船津於菟彦)

小学生の頃から「科学少年」で子供の科学とか「科学朝日」を毎月取って眺めていました!鉄道模型も作り当時万世橋にあった「交通博物館」の工作室には日曜日というと弁当持参で籠もってて居ました。電動ドリルとか色々な工具が無料で貸してくれました。

先日BSTVで「地球の静止する日」をやって居ましたので何気なく観たら懐かしさが戻ってきました。
1952年3月に日本公開という事はその昔見ているのだと思います。1950年代はSF映画ブームとなったが、「空想科学映画」は子供向けのお伽話であり、異星人は敵対するモンスターとして描かれ、スペクタクルが優先されるジャンルの映画と思われていた。その風潮の中で、ストーリーを重視して高い知性と友好的な異星人像を提示し、人類と異星人のファースト・コンタクトとそれに対する人類の動向をシミュレーション風に展開させた、本格SF映画の先駆的な作品。
異星人「クラトゥ」とロボット「ゴ-ト」。UFOやロボットのゴートのデザインが、シンプルながら精錬されていて美しかった。
異星人が、30分だけ電気などをストップし、人類に警告するなど、静かながらメッセージ性の強い展開。
当時、冷戦時代で地球で核攻撃などされると宇宙は迷惑だと警告にやって来たという想定は、今のウクライナ侵攻のロシアへの警告のようにも見える。
この映画と同じ様な「空気の無くなる日」(1949年製作の映画)映画は、文部省選定作品となる。映画は、1950年に発足した映画配給会社「共同映画」の配給網にのり、学校や公民館での移動巡回映画会などで上映されたとあるので多分小学校の巡回映画で講堂で観た記憶が甦った。
ハレーすい星が接近して来て、その引力で地球の空気が吸い取られてしまう。小学校の用務員のおじさんが、息を切らして職員室に駆け込んできた。
そんなバカげた話と相手にもしなかった校長が役場に出かけ、折り返し息を切らして帰って来た。空気がなくなる。
新聞にも記事が出る。(だが村人に新聞購読者はいない)
空気がなくなるのは5分間らしい。そのあと、空気はまた地上に満ちてくる。
校庭に生徒を集め、さっそく始めた訓練は、洗面器や水槽に水をはって顔をつけ、できるだけ息を止める訓練だ。気分が悪くなる子も出てくる。5分間も息を止めるのは、やはり不可能であった。
空気がなくなることを子たちが親に話し、村中は徐々に大騒ぎになって行く。が、対処しようがない。その日は刻々と迫る。
だが庄屋のあるじは、ある行動に出た。それは、もと小作であった男からの入れ知恵であった。自転車やバイクのタイヤチューブ内の空気を吸えば、5分間は凌げる。あるじは自転車屋のチューブをすべて買い占め、さっそく家族を集めチューブの口をくわえて呼吸の訓練を始めた。
そして、その日が来た。集まって南無妙法蓮華経を唱える人々。盛装し静かに時を迎える人々。柱時計を見上げる人々、そしてタイヤのチューブをくわえている人々。

さて、このあと、どうなりますやら。結局何事もなく過ぎ去って行き、晴れ渡った青空を子供たちがいつものように駆けている・・・というシーンで終わった。
何となくわくわくしてみたことが甦ってきて、今回の「地球の静止する日」を再見してSF映画も面白いなぁと!しかし、今から観ると皆時代がかったエーガですね!

サル痘、12カ国で92人確認 今後も増加へ (普通部OB 田村耕一郎)

友人から入手した情報です。ご参考まで。

世界保健機関(WHO)は21日、欧州などで感染者が増えている「サル痘」について、感染例が多く確認されてきた国や地域以外でも監視体制を強化するに伴い、今後感染者数が増加するとの見方を示した。サル痘に感染したサルの皮膚組織を50倍に拡大したもの(CDC/Handout via REUTERS)

[ロンドン 21日 ロイター] – 世界保健機関(WHO)は21日、欧州などで感染者が増えている「サル痘」について、感染例が多く確認されてきた国や地域以外でも監視体制を強化するに伴い、今後感染者数が増加するとの見方を示した。

サル痘は西アフリカや中央アフリカの一部で発生してきたが、WHOによると、12日時点でこうした地域以外の12カ国で92人の感染が確認された。

WHOは「これまでの情報から、症状のある人との濃厚接触でヒトからヒトへの感染が起きていることが示されている」と指摘。感染拡大の抑制に向けた指針を数日中に示すとした。サル痘は通常、症状は重くなく、濃厚接触で広がるため隔離や衛生管理によって比較的拡大を抑制しやすいとされる。

エーガ愛好会(145) 異色西部劇ふたつ   (34 小泉幾多郎)

色々な意味で典型的な西部劇から見て異色と言える2作品についての感想。

アパルーサの決闘

西部劇が殆んど作られなくなった2008年作だが、どうも日本での公開はなかったようで初めて観た。あの禿っぷりが大人の魅力といわれるエド・ハリスが監督した2作目で制作、脚本も主演もしている。原作はハードボイルド作家ロバート・B・パーカーの同名の小説。そのほかの俳優陣が凄いメンバーなのには驚かされた。エド・ハリス(ヴァージル・コール)の相棒が、ヴィゴ・モーテンセン(エヴェレット・ヒッチ)、ハリスの愛人にレネー・ゼルウイガー(アリー・フレンチ)、悪役にジェレミー・アイアンズ(ランダル・ブラッグ)等そうそうたるメンバー。この全員がアカデミー賞かノミネートはされている名優揃いだ。

概略内容を追うと、ニューメキシコの町アパルーサは、悪役ジェレミーに牛耳ら
れ、冒頭から保安官とその助手3人が殺され、町の有力者は凄腕のガンマンのハリスとその相棒モーテンセンを新保安官に任命し、ならず者たちと対抗することになる。数日後美しい未亡人レネーが町へやって来たことから、ハリスが惚れてしまうことに。このレネー酒場でピアノを弾くことで生計を立てるが、1曲目フォスターの草競馬、2曲目ハノン練習曲、この程度で給料貰える?女一人生きるためには強い男を選ぶという節操のなさそうな雰囲気。物語は紆余曲折の末、悪役アイアンズが恩赦により、死刑から無罪となってしまったことから、相棒モーテンセンが決闘によりアイアンズを倒し、町を去り、ハリスがレネーと結ばれ、この街で保安官としての役目を負うことになる。

夕日に向かって西へ行くモーテンセンのセリフ「これでやり直せるだろう、少なくとも暫らくのうちは。でも先のことは判らない。それは俺にも言えることだが。」開拓時代が終わり、ガンマンが腕を振るう時代が終わろうとしている雰囲気が伝わって来る。

制作2008年,西部劇の伝統を無心に謳い上げた時代は終わったはずなのに、砂塵の町、用心棒、無法者の群、妖しの美女、鉄路での戦い、荒野の追跡、インディアンの襲撃、ガンファイト、1対1の決闘と西部劇の要素全てが入っている。ピストルの音が何故か迫力がなかったのを別として。全般的に、撮影、美術、衣裳等丁寧に作られていた。黒ずくめのガンマンファッションのハリスは恰好いい。モーテンセンはいつも大口径のショットガンを担った姿は様になっている。アイアンズの悪役も無表情ずるそうな憎々しさ。特にハリスとモーテンセン二人の熱い友情が柱となり、無骨でピンチに自信喪失になったり、レニーとの関係で悩むハリスをモーテンセンが必死にフォローして頑張るといった男臭い相棒コンビが主軸となり、ほのぼのとした雰囲気が漂う。こうなると主役が逆転してしまい、最後のセリフとなるのだった。

牛泥棒

正義対悪という典型的な図式の西部劇ではなく、正義とは何かを問いかける作品。1885年ネバダ州のある町で牛泥棒により、牧場主が殺され、牛が盗まれる事件があり、自警団を中心に犯人を見付け、リンチにするが、犯人は別人であることが分かる。人が人を裁くことの恐ろしさと集団心理の恐ろしさは、昨今のSNSにおける私刑的な誹謗中傷に通ずる。リンチは集団の持つ恐ろしさ、考えをを過信した人間が集まると集団内で揺るぎない正義が確立される。正義を確信しているときの人間程残酷なものはない。戦争する上で正義は絶対不可欠のもので、国民が納得できる正義がなかったら戦意も国民の団結も生まれない戦時中にこの映画が作られたところにその価値が見出せると思う。

ヘンリー・フォンダ(ドナルド・マーティン)と連れのハリー・モーガン(アード・クロフト)がその町にやって来るところから始まり、二人は街に自警団と一緒に牛泥棒を追う羽目になる。捕まった3人は、若きダナ・アンドリュース(ドナルド・マーティン)、アンソニー・クイン(ファン)とジョン・フォードの兄フランシス・フォード(アルヴァ)の三人。外観は三人共、フォードは、おどおどして要領を得ない老人、クインは露骨に怪しい前科者でメキシカン、アンドリュースは理知的に反論するが何か怪しい。アンドリュースの弁論も通じず、三人は吊るされてしまう。吊るされる前にアンドリュースが妻に書いた手紙が最後、フォンダによって読まれるが、処刑する者への非難はなく、人間の良心の尊さが記されていて、このことが監督の言いたいことだったのか。

最後に感じたこと。冒頭と最後、フォンダと連れのモーガンが町へやって来るところと去るところ、同じ道を同じように犬が横断する。何を意味するのか。フォンダの若き恰好良さはあるものの活躍の場が殆んどなく、三人の処刑に反対する7人の中には入るが、強烈な対応策がない。過去付き合いのあった女性メアリー・ベス・フューズ(ローズ)と対面するも、何ら進展なし。要はフォンダの活躍の場が少ない。原題名オックスボウ事件だが、三人を捕えた場所で、此処は何処?に対しオックスボウと答える場面があり、場所の名称であることが分かるが、ox-bowには牛のU字型のくびきという意味があり、牛や馬の頭の後ろに付けられた横木、転じて自由を束縛するものという意味にも使われるので、地名だけの題名ではないと思われる。1943年アカデミー賞にノミネートされたが、「カサブランカ」が受賞。どういう訳か、日本未公開、当時アメリカとして、逆に多数決の横暴が恥と感じたのかも知れない。

(保屋野)私刑(リンチ)をテーマにした、ユニークな西部劇ですね。
感想は、小泉さんと全く同じで、ヘンリー・フォンダの出番が全くなく、主役のいないエーガでした。そして、あのヒロイン?登場の意味は一体何だったのでしょう。
ただ、当時、このような冤罪による「リンチ」は多かったのでしょうね。悪しき歴史の1ページを描いた「エーガ」でした。

(小川)1943年作品、小泉兄の名解説でロシアの侵攻、SNSの現代等久し振りにいろいろと考えさせられた。古い映画ののほうが小生には向いている。小泉兄、教えて下さい。“冒頭と最後、フォンダと連れのモーガンが町へやって来るところと去るところ、同じ道を同じように犬が横断する。何を意味するのか。

(小泉)言われる通り、冒頭と最後に犬が横断する場面は、小生も気が付いてはおりましたが、その意味合いとするところが判らずに触れるのはやめたのでした。正直のところ、その意味するところを教えてもらいたいのです。私刑と
いう集団ヒステリーに対し警鐘を鳴らしているが、冒頭二人が町に入って来る際、進行方向の右から左に犬が道を横切る。最後は横切った方向から元の方向へ戻る形で二人の去る方向に対して右から左へと横切る。犬は結局元に戻るということは、変わりはないということか。多数決たる集団ヒステリーに警鐘をならすも簡単にはなくならないことを監督は言いたいのだろうか?

 

われらが日吉の日々―”日平会” 開催

昭和29年(1954年)に慶應義塾普通部を卒業した仲間は卒業後も各クラスごとの集まりをそれぞれにやってきたが、卒業50周年に日吉の普通部校舎で同期会を開催、その後節目ごとに会合を重ねてきた。この同期のうち、B組にいた日高健郎の行きつけの店だった日平亭の常連が不定期だが同店で会合を持ち続けてきたが、その後は東京三田俱楽部で集まるようになっていた。コロナ騒動でしばらく会う機会もなかったが、久しぶりに集結した。発足以来、残念だがメンバーの中にも鬼籍に入ったものもあり、終息近いとはいえコロナの恐れもあり、今回は11名の参加にとどまった。発足のきっかけになった日平亭とは関係なく、昔懐かしい連中が残り少ない時間を共有するためにこの会を拡大しようという機運もある。参加希望の方のご連絡をお待ちする。

今回の参加者は岡野、船津、高山、飯泉、田中(ゴンべ)、岩瀬、田村(耕一郎)、河野、日高、佐藤(光男)、中司。

 

ウクライナ紛争と ”歴史の終わり” 

昨日、読売新聞の ”地球を読む“ にフランシス・フクヤマが書いている一文に興味を覚えた。フクヤマはかつて ”歴史の終わり“ という本を書いた。ウイキペディアはこの本について次のように解説している。

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「歴史の終わり」とは、国際社会において民主主義自由経済が最終的に勝利し、それからは社会制度の発展が終結し、社会の平和と自由と安定を無期限に維持するという仮説である。民主政治が政治体制の最終形態であり、安定した政治体制が構築されるため、政治体制を破壊するほどの戦争クーデターのような歴史的大事件はもはや生じなくなる。そのため、この状況を「歴史の終わり」と呼ぶ。

フクヤマは、ソビエト連邦の崩壊を以って「歴史は終わった」と主張した。しかし、これは、ソビエト連邦が崩壊し直ちに世界中が民主化され、世界中から戦争やテロが廃絶されるという意味の、楽天的な世界平和論や政治安定論ではない。ソビエト連邦の崩壊によって、「最良の政治体制は何か」「全人類に普遍的な政治体制は何か」「恒久的な政治体制は存在するのか」という社会科学的論争やイデオロギー論争に最終的な決着がついたことを意味している。        ************************************

今回の投稿は、現在かまびすしくなった、”世界の民主主義のレベルは低下していて、特に米国とインドでそれが顕著だ“ という指摘にこたえた形になっている。フクヤマは民主主義国はコロナウイルス対策に失敗したことで国家統治の最も基本的責務を果たせなかったが、ロシアや中国などの権威主義国家は民主主義国のような逡巡や議論の対立とは無縁に迅速な意思決定を実行して成果を上げているのがその論拠だ、と認めるが、その風向きは最近起きた ”権威主義大国による二つの破滅的意思決定によって明らかに変わった、と主張する。

その二つとはロシアのウクライナ侵攻と、中国におけるゼロコロナという無意味な政策である、というのだ。フクヤマはこの二つの破滅的な選択は、現時点で我々の多くが考えるような、単に情報の乏しさや指導者の無能によるものではない、と指摘する。その根底にあるのが、両国で起きた、頂点に立つ人物に際限のない権威を与えたことにある。米国で言えばトランプ、フランスではルペン、など多くのポピュリスト政治家はこのプーチンの行動に同調する部分が多くあって、それがおのおのの国における国民の分断を生じさせてきた。したがって、ロシアがウクライナで成功するかどうかは、地球全体の民主主義の在り方に影響を及ぼすだろう、と結んでいる。

現在米国では中間選挙の行方にいろいろな論議が盛んなようだ。もしこの選挙で民主党が衰退し、次回の選挙でトランプが復活する、という事態が起きたら、米国国民の分断には拍車がかかるだろう。民主党共和党間の争点は、いままでのような政策論議の範囲を超えて、国民の分断、ひいては民主主義を体現した大国アメリカの変貌につながるのではないだろうか。暴徒化した大衆による議事堂占拠などという、およそアメリカで起きるなどとは思ってもみなかった現実を思い出してみよう。もともと自己主張の強い国柄に人種問題がからんだ、週刊誌的表現を使えば “病めるアメリカ” の未来まで、今続くウクライナ戦争とかゼロコロナ強制はかかわってくるのだろうか。人道的、といえば大げさだが、戦火の苦しみを知る日本人の間ではともすればロシア軍による蛮行といった情緒的な面に同情しがちだが、地理的文化的距離から、我々に直接影響をもたらすという危機感は多少薄れがちだ。しかしフクヤマのこの指摘は、現在アメリカをむしばんでいる国民の分断、という事実を介してみると決して他人事ではない、という警鐘のように思えてならない。

エーガ愛好会 (144) 私は告白する  (普通部OB 舩津於菟彦)

(船津)ヒッチコックはさすが見せ方が巧み。時間も正味1時間40分ほどなので緊張感が最後まで持続して見ていられる。ヒッチコック光と影のこけおどしは控えて、黒の聖職者の「キャソック姿」が印象的に使われている。ヒッチコックが1951年に「見知らぬ乗客」1953年に私は告白する」1954年に「ダイヤルMを廻せ」1954年「裏窓」1955年「成金泥棒」1955年「ハリーの災難」1955年「知りすぎた男」1956年「間違えられた男」そして「めまい」等ヒット作を連発した時代の作品で一番と言えるのではでは。それは何と言っても「神父は告白を人に漏らすことはできないのだ!」モンゴメリークリフトがあまりにも美しい。彼はずっとキャソック姿なのだけどこれまた身長高いし美しい。
モンゴメリークリフトは1951年「陽の当たる場所1953年「私は告白する」1953年「終着駅」「地上より永遠に」など油に乗りきったときの映画で何とも適役で在り、彼が居たからこそこの映画が作られたという感じがした。
モンティは子役として13歳でブロードウェイで初舞台を踏み、以後10年間は舞台で経験を積み、多くの作品で主演を務めて高い評価を得た。ハリウッドからの誘いを断り続けていた彼だが、1948年、ジョン・ウェイン主演の『赤い河』で映画デビュー。同年の『山河遥かなり』でナチスによって母親と離ればなれにされた事によって、恐怖のあまり人間不信に陥り失語症となった少年を保護した心優しい米兵を演じアカデミー賞にノミネート。その後『陽のあたる場所』、『地上より永遠に』でもノミネートされ、二枚目俳優として活躍する。

映画スタジオとの長期契約を結ばず、大作や話題作への出演も断ることが多かった。『波止場』、『エデンの東』、『サンセット大通り』、『真昼の決闘』などは彼が断った作品の一部である。
1950年頃からアレルギーと大腸炎に悩まされるようになり、その結果、アルコールとドラッグの問題を抱えるようになる。更に1956年に交通事故に遭い顔面を負傷、整形手術をするも顔の筋肉の一部が動かなくなってしまい、以後更に健康上の問題を抱えるようになる。1959年にはテネシー・ウィリアムズの戯曲の映画化『去年の夏 突然に』、1961年にはマリリン・モンロー、クラーク・ゲーブル主演の『荒馬と女』に出演。1961年の『ニュールンベルグ裁判』ではアカデミー助演男優賞にノミネートされ、その後の活躍も期待されたが、1966年に心臓発作で死去した。

あらすじはカナダ・ケベック市の敬虔な神父マイケル・ローガンは、ある夜、教会で働くオットー・ケラーから強盗殺人を犯したとの告解を聞く。事件を担当するラルー警視は犯行時に犯人が僧衣をまとっていたことを突き止め、マイケルに疑いがかかる。だが、マイケルはケラーの告白を他言することができない。そのうえ、犯行のあった夜にマイケルが国会議員の妻ルースと逢っていたことがわかり、警察からの容疑が深まってしまう。

ルースはマイケルの無実を証明するために良人、検事、警視、マイケルらの前で、マイケルが聖職を志す以前の過去の恋を打ちあける。そして、事件の被害者であるヴィレット弁護士が、この過去の恋を材料にして2人を脅喝し続けていた事実も判明する。ヴィレット弁護士が殺害された晩は、その対策を相談するために逢っていたのである。
マイケルは起訴されたが、確証がないため無罪の判決を受けた。だが民衆は承知せず、マイケルに罵声をあびせかけた。事件の真実を知るケラーの妻が真相を話そうとしたが、ケラーに拳銃で撃たれ殺されてしまう。ケラーはホテルへ逃げ込み、ラルー警視はマイケルらとともにケラーを追った。マイケルはケラーを説得しようとしたが、逆上したケラーは自らの罪をラルー警視の前で暴露し、マイケルに拳銃を撃ってきた。ケラーはラルー警視の命令によって包囲する警官の銃弾に倒れた。告解という言葉ではなく告白とするなら、したのはケラー、ルース、ケラー夫人。ローガンができるのはそれらを評価せず受け入れることのみ。ルースが最後までその場に留まらず、晴々とした顔で夫とともに帰っていくところがちょっとおもしろかった。彼女はあそこで、彼はもう本当に神父そのものであるとわかって未練が断ち切れたのかも。

マイケル・ローガン演- モンゴメリー・クリフト ケベック市のカトリック神父。 ルース・グランドフォート- アン・バクスター国会議員の妻。今も元恋人のローガンを愛している。アン・バクスターもなかなかの好演で告白は泣かせる。

(保屋野)

ヒチコックの「私は告白する」初めて観ました。彼の多くの作品の中で、上位に入る作品だと思います。

「モンゴメリー・クリフト」演ずる神父が、殺人犯から告白を受けるが、次第に神父自身が容疑者となっていく展開も斬新で、サスペンス感も中々でした。ただ、被告になった神父が裁判で無罪となり、更に真犯人(告白者)が分り、あっけなく死んでしまう、という結末は少々単純すぎるのではないか?

そして何といっても、この映画はM・クリフトの存在ですね。私は「赤い河」ですっかりファンになって、彼の映画はまだ2本目ですが、あの「憂いに満ちた風貌」は、他に追随を許さない、不思議な魅力を持った俳優ですね。また、今回の相手役、「アン・バクスター」も、建築家「ライト」の孫だそうですが、少々地味ながら、魅力的な女優だと思います。

三頭山新緑      (44 安田耕太郎)

19〜20日、三頭山1531mに登って来た。麓に泊まり周辺を散策。山頂は東京駅から直線で68キロ、八王子駅から31キロの距離に位置している。
標高900余mの檜原村都民の森まで車で行けるので、都内に位置する1500m峰に登るのには大変便利で気軽。好天にも恵まれ、新緑真っ盛りの絶好のハイキング日和。ゆっくり4時間ほど歩く。皇室も泊まったことのある築60年の風情ある三頭山荘も良し。
(金藤)

ドライブで奥多摩へ行くと大きな看板が目に入ります。
「三頭山荘」みとう山荘? さんとう山荘? みがしら山荘?
通るたびに “何と読むのでしたか?“   迷ってしまいます。
みとう山荘でしたね。
「三頭山荘」に宿泊した事はありませんが、昔々、会社の園芸部の日帰り旅行で盆栽・シクラメン等の生産者 園芸店を訪問した後、安田さんの写真の山菜の小皿料理を戴きに寄りました。 小皿の並べ方は変わっていないようです。
(安田)三頭山(みとうさん)は文字通り3つのピークを持つ山です。それぞれ東峰、中央峰、西峰と呼ばれます。三頭山荘の自家製山菜料理は小皿の盛り付けも昔から変わっていないのですね。フキノトウ、ぜんまい、ワラビ、タラの芽、ウド、こごみ、フキ、しその実、手作りこんにゃく、しめじ、などなど、堪らなく良かったです。僕の好きな山菜の女王といわれる「こしあぶら」はなかったです。ヤッコさんも泊まった三国山荘に春に行き、周辺で山菜を採取して、天麩羅にして舌鼓を打つのが最高の贅沢でした。女王「こしあぶら」の写真です。

錦秋の紅葉を愛でに、三頭山・広徳寺ともども再訪したくなりました。広徳寺の静寂感は味わえないでしょうが。