大阪・関西万博のシンボル・マークのミャクミャクを折り紙動画で家内が作ってみたというので食卓に置いてスナップを撮ったものです。
未だ万博には行く機会なしですが・・・
旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
3ヶ月ほど前に教皇の死、次期教皇の選挙と時期をいつにするように映画「教皇選挙」が上映された。 複雑な「根比べ」を要する選挙はコンクラーヴェ(concalve)と呼ばれ話題となり、劇場にて興味深く鑑賞した。鑑賞録をブログに投稿したかと思う。その後、間もなくして公開された映画「国宝」は久方振りに大人気を博した日本映画の大作で前評判が頗るよく映画館に足を運んだ。予約席を確保するのに1週間以上を要して、前人気を裏付ける盛況ぶりであった。
任侠の世界に生まれた喜久雄(吉沢亮)は15歳の時、父親を抗争で亡くし、天涯孤独となる。喜久雄の天性の才能を見抜いた上方歌舞伎の名門の当主花井半二郎(渡辺謙)は喜久雄を引き取り、喜久雄は思いがけず歌舞伎の世界に飛び込むことに。花井家には喜久雄とほぼ同世代の花井の跡取り息子・俊介(横浜流星)がおり、二人は兄弟のように育てられ、親友としてお互いに高め合い、芸に青春を捧げて成長していく。だが、厳しい芸と伝統と血統を重んじる歌舞伎世界では二人はライバルとして宿命づけられ、やがて二人は運命の綾に翻弄されていくことになる。
喜久雄役の吉沢亮は2021年のNHK大河ドラマ「晴天を衝け」で主役の渋沢栄一を、親友だがライバルとなる俊介役の横浜流星は今年度の大河ドラマ「べらぼう」で主役の蔦屋重三郎を演じ、当代きっての旬な人気若手俳優が主役と相手役として映画に於いて芸と存在感を競っている。歌舞伎の芸に青春を捧げ切磋琢磨して成人して暫く経ったあるお日、名門の歌舞伎役者である当主花井半二郎が事故で入院する。病室で半二郎は代役に花井の跡取りであるはずの息子の俊介でなく、喜久雄を指名する。血縁より芸を選んだ歌舞伎の世界では稀有な半二郎の判断に驚愕し、呆然とする二人。二人の運命は大きく揺るがされていく。
映画「国宝」は公開からわずか31日(5月末)で観客動員数319萬人。興行収入45億円を突破し、まさに空前の社会現象となっている。封切られて3ヶ月以上経つが、依然として上映されている。
歌舞伎は東銀座の歌舞伎座に数度足を運んで観たことがあるが、素人の域を出ない門外漢。映画を観て、先ず驚いたのはインターミッションなしに3時間ぶっ通しであること。映画館で観た映画の長編大作でインターミッションがあったのは、ずいぶん昔の「ベンハー」「十戒」「七人の侍」「赤ひげ」「黒部の太陽」などがあったが、最近3時間の長編を休憩なしで上映する映画はないと記憶する。3時間があっという間に過ぎるほど引き込まれたのは面白かったからに他ならなかったからだろう。映画の題名「国宝」は、名前の通り仰々しい大向こうを唸らせねばならない宿命を負った映画でなくてはならない、とは思う。それほどの映画なのであろうか?観終わってから考えたが、正直よくわからない。人間国宝は、芸能と工芸技術の2つの分野があり、2023年10月までに認定された芸能分野の人間国宝は、死去された者を含めて述べ203名。内、歌舞伎分野では25名。生存する歌舞伎人間国宝は、① 七代目「尾上菊五郎」(妻は富司純子、長女の寺島しのぶが映画「国宝」に渡辺謙演じる花井半二郎役の妻の役で出演している。なかなかの名演だった)、② 十五代目「片岡仁左衛門」、③ 五代目「坂東玉三郎」(女形役者)の3名のみ。これ程の希少価値があるのが人間国宝だが、それに値する映画だったのか、出演者の演技だったのか、監督の演出だったのか、舞台装置・衣装だったのか・・・、正直よくわからない。二度目を観に行くことを思案中である。
仙丈ケ岳山頂で烈風にも負けず寒さにも負けず、
(金藤)
お帰りなさい。 スーパー介添人⁈お若い光輝さんが同行されて、留守宅の皆さまも心強く思われたことでしょうね。
高山植物ミヤママンネングサは知りませんでしたが、うちには下界のマンネングサが咲いています。随分前に実家から持ってきた鉢に一緒に入って来たのですが、今でも場所を変えて咲き続けています。
外は暗くなってしまい写真は撮れませんので、ネットにあった画像をコピーしました。 多肉植物 のベンケイソウ科マンネングサ属です。 葉の数は下界のマンネングサの方が多く、花と花茎も違うようですね。
クロード・ルルーシュ監督の映画2本,来年(2026年)2月から始まる第25回冬季オリンピック・ミラノ・コルチナダンペッツオ大会を前に、過去のオリンピックを描いた映画「白い恋人たち」と、併せて同じ監督のヒット作「男と女」を再見した。
「男と女(Un homme et une femme)」(1966年)はパリに住む元F1レーサーの男性(ジャン=ルイ・トランティニアン)と元演出助手の女性(アヌーク・エーメ)が、それぞれの子供をパリ郊外のドウヴィルの寄宿学校に預けながら、毎週のようにパリから子供に会いに行く間に、パリ行きの列車に乗り遅れた女性を男性が車で送ったことをきっかけに交際が始まるところから物語は始まる。この映画も後述の「白い恋人たち」と同様に、セリフは極くわずかに押え、映像で観ている観客に感情の起伏を想像させる手法で物語は進行する。二人の子供が仲良く無邪気に遊ぶ姿、犬を散歩に連れ歩く老人のシルエットが海浜や海沿いのプロムナードに映し出されるシーンなども、観る人の感情を感傷に引き込む代表的シーン。ストーリーは男女それぞれの相方が過去に事故などで他界したシーンが再現せれる以外は単純だが、この映画の印象を強くしたのは、主演のトランティニアンとアヌーク・エーメエの魅力と更には大ヒットしたダバダバダ・ダで始まるメランコリックなフランシス・レイ作曲の主題曲の効果があったことは間違いない。
「白い恋人たち(13 Jours en France)」(1968年)は、第10回冬季オリンピック・グルノーブル大会を描いた映画であるが、大会競技の記録ではなく、競技の映像に加え、会場整備の人達や警備の人達、或いはマスコミの舞台裏を映すことで、大会の雰囲気や関わった人々の苦労や喜びや怪我人の救助や痛みを、映画を観る観客に想像させる手法で貫いている。全編を通じてセリフは無く、有名になったフランシス・レイの音楽が時に流れることで印象は倍加する。主役は居ないが、この大会のヒーローは間違いなくフランスが誇るアルペン・スキー競技の王者、ジャン=クロード・キリーである。映像ではキリーの滑降シーンの完全収録、大回転及び回転シーンもそれぞれに準備段階から収録されている。特に大回転は吹雪の中で競技は行われるので、各選手が旗門通過をイメージして準備するシーンが印象的。或いはボブスレーの危険と隣り合わせのドキュメント・シーンや怪我をした選手の救急隊の活動シーンなど、当時の冬季オリンピック種目がスキーのスピードと距離中心の種目であったことを改めて思い起こさせる映像だ。近年の冬季オリンピック競技種目はスノーボード、モーグルやハーフパイプ、それにカーリングと瞬間の技を競う競技や頭脳競技が増えて、本来のスピードと距離を競う競技が薄れて見える時代になったのは極めて寂しいと個人的には思う。
ジャン=クロード・キリーはこの大会で滑降、大回転、回転のアルペン種目で3冠王を達成し、第7回コルチナ・ダンペッツオ大会(1956年)のトニー・ザイラーの3冠以来、2人目の快挙を達成し、この記録は今日まで破られていない。因みに、キリーは1943年生まれの81歳で、現在もなお健在。クロード・ルルーシュ監督は1937年パリ生まれ(ユダヤ系アルジェリア人)で87歳とこちらも健在。
「白い恋人たち」は「男と女」で成功したルルーシュ監督の名を世に知らしめた次作ではあったが、シャルル・ド・ゴール大統領(この映画でも開会式に現れる)に対する新左翼グループの5月革命なる運動が活発化し、カンヌ・フェスティバル(カンヌ映画祭)が中止になるなどで当時のフランス本国では、さほどの脚光を浴びる機会が無かった。クロード・ルルーシュ監督は、その後に「愛と哀しみのボレロ Les Uns et les Autres」 (1981)がヒット作としてあるが、この映画を私は観ていない。だがこの映画の解説のよると登場人物のモデルになっているのが、ルドルフ・ヌレエフ、ヘルベルト・フォン・カラヤン、エディット・ピアフ、グレン・ミラーと各界の大御所ばかりなので、機会があれば是非観たいと思っている。
フランシス・レイ(フランシス・レ)(Francis Lai、1932年4月26日 – 2018年11月7日(死去判明日であり正確な逝去日は不明)[1])は、フランス・ニース出身の作曲家。イタリア系のフランス人。少年期からアコーディオンなどを奏でていた。16歳の時、ニースからパリに上京し、テルトル広場界隈にいた。のちアコーディオン奏者から作曲家に転身。フランスの香り漂うシャンソン風な哀愁を感じさせるメロディーに特徴があり、日本でも親しまれた。多くの映画音楽を作曲。特にクロード・ルルーシュ監督とのコンビによる作品はよく知られている[1]。
(編集子)フィルムのほうはさておき、フランシス・レイのたおやかな曲、とくに ”白い恋人たち” は大学卒業後、スキーにのめりこんでいたころに聞き、それ以来、小生の愛好曲ナンバーワン、であり続けている。特に初めてアメリカの土を踏みシリコンバレーの端っこの2軒長屋に落ち着いたその冬、まだ運転にも慣れておらず、まして冬道だ、安全第一、と近場をさがした。同じ時期、現地のマイクロウエーヴ事業部に工作技術向上のために駐在していた、若手社員坂本澄雄君に付き添ってもらって Soda Springs という小さなスキー場へ出かけた。カリフォルニアには著名なスキー場がたくさんあるが,シエラネヴァダのすそ野にあるかわいらしい家族向けの場所だった。
The Soda Springs Mountain Resort is located just off Highway 80 near the Donner Summit.
それからしばらくして、本稿で飯田が書いている映画ができ、主題歌ができた。それ以来、”白い恋人たち” はあの小さなスキー場でのおだやかな夕方と、限られた時間ではあったが、今なお心温まる ”古き、良きアメリカ” の黄昏を味わうことになった滞在を思い出させる、 ”俺のテーマソング” として、もうひとつ、フランシス・レイの技巧とは好対照、素朴なカントリークラシック、Red River Valley とともに、いつもそばにある。
猛暑のみぎり、まったく時季外れの話題ではあろうが、これを取り上げてくれた飯田に感謝する。
先輩の保屋野伸さんから、齢80の傘寿を過ぎて記念に300
Trans Japan Alps Raceに初参加、完走した猛者である。介添え人としては持って
KWV夏合宿終了から1週間後、長野県伊那市の仙丈ヶ岳山麓の戸
最終日、馬の背からの仙丈登頂には前夜からの荒天で視界は悪く、
山に好天と荒天は付き物、両方を体験できた上、傘寿過ぎの300
帰路、JR中央線側から、登山中反対側から眺めた鋸岳・甲斐駒ヶ
(保屋野)チビ太氏ご投稿の通り、80才で3000m峰(但し、ハイキ
仙丈岳は比較的優しい3000m峰ですが、北沢峠からの標高差は
中々ハードで、強風とガスの中、山頂に立てた喜びはひとしおでし
44年卒のチビ太は79才、吉田(ズン六)は80才(81才にな
そして何よりもチビ太の甥っ子(光輝さん)スーパーマンがガイド
ちなみに、彼は9月にウエールズの大会に出場する予定で、初日の
最後に、この登山で私の65年に渡る登山人生は卒業します。山靴
今後は高尾山等低山ハイクを中心に四季折々の自然を楽しみたいと
ブラウザ、という、もともとはコンピュータの世界でのプロの使うものだった単語はいつの間にか日常語の仲間入りをしてしまったようだ。browse という単語そのものははこれでも英検1級だ、知ってはいたけれどここまで普遍化するとは想像もできなかった。それは原義が ”漫然と商品を見る” という、自分がよく読んでいた本のジャンルではあまり頻度の高くないものだったからだろう。ただ、エクスワード搭載の辞書で原義の ”2” にあげられている ”立ち読みをする” ということならば話は別だ。というのは、この本に遭遇して、何となく購入した(しまった、というのが実情だが)のはまさに寝苦しい夜を迎えて駅前の本屋で漫然とブラウズしていた結果だからだ。
小生はそこそこの本マニアではあるが、もともと純文学系は高校時代に、大げさに言えば人生の転機、みたいな経験があって、それが引き金で(いっときだったが)世をすねていた時期があり、そこでおさらばをしてしまったので、芥川賞、なんてので話題になった作品なんぞには背を向けてきた.。直木賞、なら多少は縁があるか、位なので、この本の作者も知らなかったし、また作品がそのようなレベルで評価されていたこなどは全く知らなかった。なんで今回読む気になったか、と言えばそれはカバーに池上冬樹が”ハードボイルド(HB)の香りがする、というようなコメントをしていたからだ。池上が同時に日本ではHB作家とカテゴライズされている大沢在昌の HBは惻隠の情である という定義を引いていることも文春文庫930円に投資をする気にさせた理由だが。
HBとはなんぞや、についてはいまさらだが、かつては ”HBとは銃と雨と裸の女がでてくりゃHBさ” と酷評された時代もあった。日本ではHBの本家(僕はこの人の作品は単なるガンマニアの妄想だとおもっていて評価しないのだが)みたいにいわれる大藪晴彦のデビュー作が多分そうさせたのだろう。しかしその原点にはやはり、”ヘミングウエイ風の語りくち” と、まさに大沢の言う ”惻隠の情” がなければなるまい。英語が母国語でない人間には、よほどの力量というか感性がなければ ”ヘミングウエイの文体” がどんなものか、を理解することは難しい。したがって、僕らが読み、感じる、外国人の書いたHBは日本人翻訳者のプロの筆力というか迫力にかかってしまう。何度も繰り返しになるが、そうして読むとなると、たとえば僕の場合、HBのいわば聖典である ”長いお別れ” はやはり村上春訳でなく清水俊二訳でなければならなくなってしまうのだ。
だから、小生は ”日本人が日本語で書いたHB”、にこだわりを持ってきた。北方謙三の ”さらば荒野” シリーズなんかに一度入れ込んだ時期もあったが,そのうち、ぴったりとはまったのが 原寮、という作家だった。ところがこの人は不幸にして急逝してしまった。もちろん大沢をはじめ何人かのHBライターカテゴライズされるひとたちの作品は結構読んでいるが、ここで新たに ”HB風の作品” とその道のコメントを目にすればこの本を見逃すことはできない、と思い込んだわけだ。
長くなったが、この ”枯葉色グッドバイ” だ。結論から言うと、ミステリとしての完成度ではなく、文章というか語り口、が印象に残った。これも池上が書いているように、チャンドラーの正統後継者、とみなされたロス・マクドナルドが作品の舞台に好んで使った、現代の富裕階級の裏にある家庭環境の暗闇というテーマがこの ”枯葉色” にも共通だ、ということもこの本をHBと絡めて読む意味もあるかもしれないが、探偵が初心の女性刑事で、彼女を支援するのが個人的な理由で警察をやめ、代々木公園あたりにホームレスの一人として乾いた日を過ごしているもと敏腕刑事、ということになっていて、この男の暮らしぶりというか気構えというか、その描写そのものがHBの定義を物語っているようにも思える(推理小説である以上、その筋を書くことはできないので、隔靴掻痒、ではあるのだが)。
語り口、というがそれが ”ヘミングウエイ流” という観点にあたるのでは、と思うのは文庫本487ページ、ほぼ100パーセントが(正確な用語かどうか知らないが)、現在形、で書かれている( ”いる” ”ある” ”読む” で書かれ ”いた” “あった” ”読んだ” という文章は僕の数え方がまちがっていなければはじめの数か所にしか出てこない)ことだ。このことが、うまく表現できないのだが、書かれている内容が読む方にある種の一体感をもたらしてくれ、ホームレスの生き方の描写を通じて、”惻隠の情” を感じさせるように思える。いずれにせよ、ミステリとしての筋立てはともかくある種の爽快感を持って読み終えた。
これからしばらく、ミステリかどうかを離れて、樋口有介、という作家を読んでみようか、と思ったのだが、彼もまた病を得て4年前に亡くなっていることを知って暗澹としてしまった。原寮のこともあり、なんともいえない気分である。
(つけたし:原寮、については本稿 2020年12月27日、2021年1月4日付記事で紹介している。
6月25日 ゲリラ豪雨襲う三田キャンパスで慶應義塾史展示館 都倉教授によるツアーがあり参加致しました。非常に有意義なツア
慶應義塾は1858年(安政5年)に江戸築地鉄砲州で開塾してそ
「日本最大の戦争被害大学」と言われ、5割が焼失。1949年ま
戦後三田キャンパスは谷口吉郎設計の建物で復活していった。スリ
今回巡る三田キャンパスツアーのコースは先ず1875年竣工・1924年移築の「三田演説館」。福澤時代か
「第二研究室」「ノグチ・ルーム」(万来舎)1951年竣工 一時新築校舎のため解体されるモノが一部の方の努力により現在の
西洋と東洋の融和と戦没者への入れの眼差しのの平和を込めた暖炉
元の第二研究室 新聞研究所の米山・生田教授が居られました。谷口吉郎設計の細い
かっての「山食」に谷口吉郎さ設計の学生ホールに猪熊源一郎作の
この絵は「学生生活」「青春」「自由の世界いけ」堅苦しいことは
羽の生えた犬は「自由に世界へ行け」を表しているとか。
この場所に三田キャンパスのシンボル「大講堂」1915年竣工が
プロローグ
1983年4月1日、横河北辰電機株式会社が誕生しました(合併3年後横河電機株式会社に社名変更)。 遡ること1年前のあの日、横河電機製作所の情報システム責任者だった私は社長室に呼ばれていました。その席で社長から告げられた言葉は今でも鮮明に覚えています。 「1年後に北辰電機と合併することになった。合併調印の日に新会社としてのシステムが動くよう準備してほしい。ただし発表の日まで口外は一切厳禁、寝言を云ってもダメだ。北辰の責任者にも同じことを伝えておく」と。
一点集中
発表の日までの半年間、部下に何もしゃべらないでどんな準備ができるというのだろう。しかも、失敗は絶対許されない。わが人生最大のピンチでした。
どんなに素晴らしいシステムができても、合併のその日に間に合わなければ零点だ。限られた日程、限られた戦力の中で何をどうするのか。私が立てた戦略は、お客様と直接関連するオーダー処理システムだけは完全なものにして合併の日を迎える、他のシステムはとりあえず応急手当だけで済ませるというものでした。今思い返しも、これが唯一最善の選択だったと思います。
新オーダー処理システムCOSMOSの開発
私たちにとって幸いしたのはこの時たまたまオーダー処理システムの再開発にとりかかっていたことでした。新システムの名称はCOSMOS。「これを新会社用のスペックに置き変えよう、今なら間に合う! 」そう考えました。
COSMOSは、サテライトに分散配置したHPの新型コンピュータHP3000と本社のホストコンピュータIBMをネットでつなぐ集中分散型のシステムで、受注、工場手配、進捗、完成、出荷、売上集計までを統合的にカバーする、多くの新しいアイディアを織り込んだ新会社にふさわしい内容のものでした。
合併に先立ってカットオーバー
合併に先立つ1982年11月、当初の計画より半年も前倒してCOSMOSのカットオーバーを強行しました。未熟児を帝王切開して出産させるようなものですから、当然バグだらけ、戦場のような騒ぎになりました。なぜこんなバカなことをしたのか。その理由は、合併に泥を塗るようなことはできない、事前に本番環境で可能な限りバグをつぶして合併の日を迎えたいという一念からでした。
救世主だったPRIDE
心配しなかったと言えばウソになります。ただ、そんな大騒ぎの中でも慌てなかったのは、「このシステムは新しく導入したシステム開発手法PRIDEのコンセプトと手順に従ってしっかり作りこんできている、バグさえ収まれば必ず機能する」と確信していたからです。 PRIDEが危機を救ってくれたと言っても過言ではありません。
エピローグ
あの1年間、徹夜、徹夜の連続で担当者のがんばりは想像を絶するものがありました。私自身も1日の休みもない365日でした。今の時代だったら、パワハラで訴えられてもおかしくない日々でしたが、苦言の一言もなかったのは、これを乗り越えたら必ず明るい明日があると信じられたからでしょう。会社の命運がかかった難関を一致団結ワンチームで乗り越えたこの経験は人生の大きな財産です。今後どんなに苦しい場面に遭遇しても、これ以上の事はそうそうないでしょう。
(参照) 「私の履歴書」1996年9月1日から29回わたり日本経済新聞に連載記事より
「日本の横河から世界の横河へ。トップランナーハネウエルと世界で対等に戦える会社にしたい、そのためには北辰との合併しかない。」 これが横河電機中興の祖と言われる社長横河正三が描いた大構想だった。
1963年ヒューレットパッカード社との合弁でYHPを設立し社長に就任、1974年横河に社長として復帰する。世界のトップ企業と付き合い世界市場で戦う中で芽生え育っていった構想が1983年の合併で結実する。われわれにとっては寝耳に水、突然の合併劇も、社長横河正三の中では長い道のりを経てたどり着いた産物であった。
(編集子)編集子と山川の付き合いは慶応高校時代にさかのぼるが、まったくの偶然で就職先が同じ横河電機だったうえ、自宅が同じ住宅地で5分とかからない隣人でもあった。小生は就職時点では思いもよらなかったことにコンピュータとの縁ができたのだが、合弁会社設立と同時に新会社で現在の用語でいえばIT,当時はEDPと呼んだ部署の責任者になって、縁は深まる一方だった。60年代からコンピュータ事業をはじめ、計測という専門分野での展開には一応の成功をおさめたHPが汎用(という区分自体、現在は無意味なのだが)に手を広げた。当時はIBMをはじめとするビッグビジネスの独壇場であり、日本ではそのIBMでさえ苦戦を強いられる電機大手との激戦を展開していたので、’(まさか日本には進出しないだろう)という予想を覆して日本に進出、その営業を任されたのが自分であった。
その後の苦戦、というより勝ち戦のつづく会社でただ一つ、お荷物扱いされるなかの生き残りのための死闘、については今更いうこともないが、親会社の横河電機が大手メーカーとの合併という大展開にあたってHP製品を選択してくれたのは本稿で山川も書いているが当時の横河正三社長の英断であったことはいうまでもない。しかも選定してくれたのが当時のHP製品群の中でも最大型機だったうえ、それもいわばまとめ買い、というべきもので、関係者一同の感激は大変なものだった。その先方のシステム担当が山川、というこれもまた入社時点から人事労政のプロを目指していた本人も驚く展開、というかめぐりあわせであった。彼が主導したCOSMOSについていえば、今では当たり前の受注から生産までの統合システム、というアイデアはどこでも考えていたアイデアだったが、実現となると障壁が大きかった。。この実現に寄与したのがHPが唱えていた(というかIBMに対抗できるいわば弱者の戦術だったのだが)コンピュータリソースの分散配置(Distributed Data Processsing、DDP)ということで、現代のIT社会は文字通りこのコンセプトで成り立っていることを考えればまさに時代を見通した卓見だった、といえるのではないか。
HPでは自社のシステムをすべてこのDDP方式に入れ替え、大型機を排除して(システムが完成した日、それまで使っていたIBMの超大型機のスイッチをオフする、その儀式?は大々的なものだった)作り上げた受注から生産までの一貫システムをHEARTと名付けた。文字通り経営の心臓、という含みである。ヤマの命名がどういう意図だったのかは聞いていないが、HEARTを超える、はるかに気宇壮大なものを目指していたのだろう。
原題名シスターサラのための二頭の騾馬。ハイヌーンの「真昼の決闘」にあやかって、「真昼の死闘」と邦題にしたようだが、内容は死闘らしきものは最後だけ、それも真昼でなく夜。内容に全然そぐわない。シスターサラは、シャーリー・マクレーンが扮し、いつも騾馬に乗っているが、もう一頭は、muleには片意地者とか頑固者という意味もあり、一緒に冒険旅行を楽しむクリント・イーストウッドのことを指すらしい。
冒頭、朝日の輝く峰をイーストウッドが馬に乗り歩いていると聞き覚えのメロディが奏でられる、エンニオ・モリコーネの音楽だ。舞台はフランス占領下のメキシコだからマカロニウエスタンと見間違ってしまってもおかしくない。クレジットが始まると先ずはシャーリー・マクレーンから。当時イーストウッドはマカロニウエスタン三部作で、名を上げ、凱旋して2作目、演技の実績も名声もマクレーンのキャリアに遠く及ばなかった。キャリアを経てからメリル・ストリープと共演したりしたが、この頃に大女優になりつつあったマクレーンと共演して、何かを得ようとした気持ちは認めてやっても良いのでは?流石にマクレーンは、キュートなところもあり、売笑婦ながらも修道女に化け、しかもメキシコ革命軍に裏で協力する役柄を楽しくこなしており、革命軍と協力し金儲けを狙う風来坊のイーストウッド、格好は良いが、食われてしまったようだ。
最初に、悪玉3人に襲われていたマクレーンをイーストウッドが救ったことから二人のバディ&ロードムービーが始まり、協力しての弓矢の取り除き騒動、鉄橋爆破による列車転覆や要塞の攻略によるダイナマイト爆破等の見せ場はあるのだが、何となく、活劇のハラハラ感がない。どうやら悪逆非道なフランス軍に対するメキシコ革命の必然性の説明が皆無だからではないからでは?
この映画の監督ドン・シーゲルとイーストウッドの係わりも忘れてはならない。当時まで、B級アクション監督としてかたずけられてきたドン・シーゲルとマカロニ・ウエスタンの荒くれスターとしてのみ固定されていたイーストウッドの出会いは「マンハッタン無宿1968」で、西部劇では、この映画で。B級アクションから二人は「白い肌の異常な夜1971」「ダーティハリー1971」の野心作へ発展、さらに二人の友情は、イーストウッドの第1回監督作品「恐怖のメロディ1971」に付き合うまでに至り、その後のイーストウッドの偉大なる監督作品に多大なる影響を与えた。