エーガ愛好会 (338)ケイン号の反乱    (HPOB 小田篤子)

私は初めてですが、ハンフリー·ボガートが出演しているので、既にご覧になっている方が多いかと思います。
プリンストン大卒のエリート、キース少尉の配属され選んだのは、コネで勧められた戦艦ではなく、ボロの海の掃除機、掃海艦。
前任者に代わり来た、新艦長(ハンフリー·ボガート)は皆のシャツのすそ入れや髭、髪ばかり気にしていて、偏執症では、と疑われている。
ある時など、冷凍苺の減り方がおかしいと、夜中1時に集合させ、苺を砂に見立て、それぞれに食べた量を聞き、身体検査や鍵まで提出させたり!ある日、猛烈な台風に襲われ、艦長の運航の判断はおかしいと、副艦長が強引に交代し、無事乗りきります。
後半は、この時の艦長の精神状態と副艦長の判断は正当か…の軍事裁判の場面が続きます。最後、勝った副艦長側の弁護士が酔って語った本音は…意外でした!
*ハンサムなエリート少尉役、ロバート·フランシスは、陸軍士官学校を描いた「長い灰色の線」にも出演しましたが、翌55年、自家用飛行機操縦中墜落し、25歳で亡くなっています。惜しいですね。
*ハンフリー·ボガートは意外な役で面白かったです。
*TV「パパ大好き」のフレッド·マクマレイも最後に疑われた小説家志望の大尉役で出でいました。
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(余計なことかもしれないがウイキペディアに載っていた、その筋の専門家であろう弁理士法人テックロー国際知財事務所のコメントを転載しておく。こういう現象というか境遇はサラリーマン時代に幾度か巻き込まれた経験もあったので)

日米戦争当時のアメリカ海軍の掃海艇で起きた叛乱事件を描いた作品である。上半身裸で艦長室で執務するという、風紀にいい加減だった前艦長の後任として赴任した新艦長は、全く反対で、乗組員がシャツの裾をズボンから出したままにすることさえ許さないという、細かいことに厳しい人であった。

そして、着任早々、「当艦の乗組員は、全員が、平均点以上の成績を出さなければならない。」と訓示する。これを聞いて、これは絶対破綻する、と直感した。何故なら、あらゆる人間の組織に見られるとされる「一割現象」という法則に反するからである。「一割現象」とは、軍学者兵頭二十八氏が提唱するもので、人間のいかなるグループ、団体でも、上部一割の優秀者、下部一割の落ちこぼれ、中間8割の平凡人に分れるという「法則」である。同氏は、このことを、自衛隊にいたとき発見したとのことである。或る艦の乗組員の全員が平均点以上の成績を出すということは、この法則に反していて、無理なことなのである。

新艦長の異常な、偏執狂的言動は積み重ねられ、ついに、台風に遭遇したときの操船方法をめぐって争いとなり、艦長の命令は無視され、部下によって拘束される。この事件が、台風を乗り切った後、軍法会議にかけられる。ところで、例えば、東大生といえば全員優秀な人に違いないと思いがちであるが、決してそうではなく、ここでも、この「一割現象」は厳然として存在する、らしい。「さもありなん。」という気がする。そうであるなら、弁護士の業界、弁理士の業界(そして、裁判官の世界)にも、この法則は当てはまると思われる。

世界的に見ても、当事務所は、約50ヶ国の現地代理人と取引があるが、スピード感、緊張感、責任感をもって仕事のできる人は、やはり、一割程度しかいないように思われる。養老先生が、「まともに考え、自分の言葉を持っている人間は、十人に一人いるかどうかだろう。」と言っているのも、この「一割現象」の一面であろう。

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(編集子)ミッキーも懐かしい顔に出会えたようで、よかったね。小生は中学1年の時に翻訳者は誰だったか忘れてしまったがこの本に出合った。不運なくじをひきあてた副長のマリックに大いに同情したものだった。何十年か経って、映画の締めくくりになるなったサンフランシスコはマ―ク・ホプキンスホテルを尋ねる機会があり、このシーンだっただろうと思う広間でへへえ、と思ったりした。

なお、ミッキーはキースがケイン号を選んだ、と書いているが、原作では実は母親が頼りにしたコネが働かず、いやいやながらの着任だったのだ。そうしないとこの作品の背景が違って見えてくるので、付け加えておこう。

小生には負けを覚悟で正義感から弁護士役をひきうけたホセ・ファーラーが印象に残っている。この弁護士はユダヤ系で両親をナチに惨殺されたという経歴を持つ。職責上、艦長を糾弾するが、(こういう男たちがいたからこそ、、ナチは撲滅できたのに)という葛藤にさいなまれ、最後に祝賀会に招かれざる客として現れ、爆発する。この映画の真骨頂はこのアイロニーをぶちまけたことにあるのではないか、と思うのだが。

乱読報告ファイル (61)雪あかり日記・せせらぎ日記 (普通部OB 菅原勲)

「雪あかり日記/せせらぎ日記」(著者:谷口吉郎―ヨシロウ、発行:中公文庫/2015年)。

掛け値なしに、大変、面白かった。解説も入れて541頁もある大冊なのだが、それこそ一気に読了した。ただし、谷口が建築家であることから、そのことについての記述が数多あるが、小生、建築には極めて疎いので、ここではそのことに言及していないことを事前にお断りしておく。ただし、ここで強調しておきたいことがある。例えば、大使館の日本庭園に庭石を検討する際、野火で焼かれてしまった奥州平泉の毛越寺(もうつうじ)に残された庭石を思い出すなど、適宜、欧州の建築を見る目は、日本のそれを思い出しながら眺めていることだ。勿論のこと、こんなことは、日本の事を知悉していなければ出来ることではない。

海外の旅行記と言えば、通常、漫遊記の類となるのが普通だろう。ところが、建築家、谷口にとって不運だったのはその時期が悪かった、それも極めて。横浜で日本郵船の靖国丸に乗り、マルセイユで上陸し、列車でベルリンに到着した正にその当日の11月10日、歴史上でも非常に悪名高きナチスによるユダヤ人に対する蛮行、即ち、水晶の夜がそのベルリンで行われていたからだ。日本も同様だった。長いが以下に引用する。マルセイユに行く途中、「船がアデンの港を出た頃、日本軍が広東に近いバイヤス湾(註:大亜湾)に上陸したという報に接すると、船客は全員が甲板に整列して、宮城を遥拝し、声をそろえて「君が代」を歌った。・・・祖国の方に向かい、声をはりあげて「万歳」をさけんだ」。こう言う時代だったのだ。

つまり、その旅行期間は、1938年11月から1939年9月まで、世は正に風雲急を告げていたわけで、彼はそこに飛び込む羽目に陥ってしまう。本来の目的は、恩師、伊東忠太の指図によって、ベルリンの日本大使館が新しい都市計画のために改修されることとなったので、この機会に向こうに言ってはどうか、と言う伊東の厚意に従ったものだった。

そのベルリンでは、彼が行く至る所でナチスが闊歩しており、「強制収容所」の存在も耳にする。加えて、ドイツの民衆のナチス、ヒットラーに熱狂する様は筆舌に尽くし難く、中でも、チェコを制圧し、凱旋するヒットラーを一目見んものと集まった群衆は(彼もその一人なのだが)、ウンター・デン・リンデン街を埋め尽くしている。彼がドイツ人を訪問すると、どんな人からも、先ず、「ハイル・ヒットラー」と声を掛けられ、その人の赤い腕章には必ず、ナチスの党印章である「ハーケン・クロイツ」(逆卍)の紋章が付いている。

しかし、そう言った状況にもめげず、彼はベルリンを拠点として欧州を駆け回る。勿論、その主眼は専門の建築物が主な対象だが、パリでは「オランジュリー美術館」でモネの絵を愛で、また、建築家のコルビュジェに会う。しかし、コルビュジェからは、フランスでは仕事がないことから、満州国(この時点で、フランスは満州国を承認していない)にでも大きな仕事がないかとの相談を持ち掛けられる。イタリア行きの列車の中では同席したイタリア人が、親しくなってから、突然、本居宣長の和歌「敷島の大和心を人間はば、・・・」を美しいバリトンで歌い出すのに驚く。ミラノの「レオナルド・ダヴィンチ博覧会」では、その万能ぶりに驚嘆する。また、彼は、ナチス・ドイツの建築界が国粋的な保守主義に固まっているのに対し、全体主義国家であるイタリアが建築界も美術界も新鮮なモダン・スタイルが旺盛であることを応援する、などなど。中でも、白眉なのは、マッターホルンを直接眺めるために、態々、ツェルマットまで出かけ、しかも、牧歌的なスイスの休日を満喫していることだ。ただ、残念だったのは、危険であることから、ギリシャ行きを断念してしまったことだ。

谷口と言う人は、何物にも阿らない、明治生まれの硬骨漢と言う印象が甚だ強い(1904年生、1979年没)。小生は彼に漢(オトコ)を見た。それが彼の建築にどのように反映されているかは、建築に疎い小生には分からない。しかし、慶応義塾幼稚舎の校舎に、1935年、今から90年も前でありながら床暖房を設置した、その優れた先見性には目を見張るばかりだ(コペンハーゲンのグルンドヴィッヒ記念教会堂を見学するために中に入ったが、床が工事中だった。そこから、これは床暖房の工事をやっているのだと気づき、自分も日本でやったことを思い出す)。

なお、この本が出来上がった経緯は以下の通りだ。これは、もともとは、雑誌「文藝」に「ベルリンの日記」として1944年11月号から1945年3月号まで5回、連載されたもので、ベルリンの冬の思いでだったことから、題名を「雪あかり日記」とした。だが、戦後、一冊の本として出版するに当たって、「ギリシャの文化」中の「シンケルの古典主義建築」(1942年)と雑誌、「演劇」に載せた、チェーホフの戯曲「桜の園」を観劇した感想(1943年)、いずれもドイツ、特にベルリンの冬の思いでであることから追加している。また、「せせらぎ日記」は、谷口の一周忌に遺稿として出版されたもので、その内容は、ベルリン以外のドイツの諸都市や、ドイツ以外の国々の思いでをまとめたもので、「雪あかり日記」の続編にあたる。「せせらぎ日記」の最後に「が、その地球の一角に火の手があがり、劫火が全地球をつつもうとしている」と、第二次世界大戦の勃発を正しく予言しているように、「雪・・・」も「せせらぎ・・・」も、いずれも戦前に書かれたものだが、その文章と言い、内容と言い、30歳台後半の谷口を反映してか誠に瑞々しい。そして、夫々が、見事なエッセイともなっている。

唯一の汚点は、この本の解説だ。この本の解説を堀江敏幸と言う人が書いている。初めて目にする名前なのでネットで調べてみた。2001年、第124回の芥川賞を受賞した作家だと言うことが分かった。こりゃー、ダメダ。案の定、何遍読んでも、何が言いたいのか、その意味するところがさっぱり分からない。谷口の文章は極めて明快で、極めて分かり易い。ところが、この芥川賞を受賞した作家の文章は、抽象語の羅列で、何を言いたいのかさっぱり分からない。例えば、「・・・ここに込められた、と言うより、事後的に含有されてしまったアイロニーを見逃すことになるだろう」と言う文章があり、アイロニーと言う言葉が出て来る。見慣れない言葉だし、態々、こんな言葉を使う必要があったのだろうか。こう言うさっぱり意味の分からない文章を有難がる輩もいるのだろうが、小生のような平均的な輩にとっては正にチンプンカンプンだ。だから、苦手だ、有体に言ってしまえば、嫌いだ。最後に、話しが脱線し過ぎた。

(下村) 読後感を拝読。谷口さんの紀行文の内容(の一部)を非常にわかりやすく解説していただき、ありがとうございます。端的で歯切れよくご紹介いただき、あたかも紀行文そのものを読んだ感じです。

 最後の堀江某のアイロニー問題にも心底共感を覚えます。評論家などにやたらと難しい用語や言い回しをする輩がいて、何だ”こいつ”という思いがすることしきりです。
(船津)飯田さんが既に書評書いていますが貴兄のはまた最後に皮肉が在りまたよしですね。
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谷口 吉郎(たにぐち よしろう、1904年明治37年)6月24日 – 1979年昭和54年)2月2日)は、昭和期の建築家である。東京工業大学名誉教授

石川県金沢市出身。東宮御所帝国劇場の設計者、庭園研究者。子の谷口吉生も建築家である。女婿に納屋嘉治(宗淡)・淡交社社長。金沢市名誉市民第1号。

「藤村記念堂」や「東宮御所」、「東京国立博物館東洋館」など、日本を代表する建築の設計をしたのが谷口吉郎です。 金沢では、当時の「石川県繊維会館」(現・西町教育研修館)や「石川県美術館」(現・石川県伝統産業工芸館)なども設計しています。

建築家 谷口吉郎を知ろう! 東宮御所/東京国立近代美術館など - SUMUKOTO.COM

 

二人のジミー:70年代の名優たち     (大学クラスメート 飯田武昭)

金藤さんの映画「ララミーから来た男」の主演、ジェームス・スチュワートの名前がヒントで、思い付いた事です。ご承知のように、アメリカ人はファースト・ネームで人を呼ぶ習慣が強く、ジェームスは愛称(ニックネーム)ジミーですが、俳優でジミーと言えば先ずジェームス・スチュワートの事です。それほどに彼は沢山の映画、それもジャンルを問わず略40年間にスクリーン上で活躍した俳優は多分、彼しか居ないと思います。
ご参考までにリストを添付しますが、もう一人のジミーは、言わずと知れたジェームス・ディーンです。

こちらは「エデンの東」「理由なき反抗」「ジャイアンツ」の3作品(1955年&56年製作)のみで、24歳で、この世を去った悲運のスターです。こちらも映画公開当時はジミーと言えばジェームス・ディーンでした。

ジェームス・スチュアートは又、役柄に悪役が無い善良な役ばかり、それが気に入らない人もいるかも知れませんが、20世紀の男優3人の大スター、ゲイリー・クーパー、ジョン・ウエイン、ジェームス・スチアートは何れも悪役を演じられないスターだったのではと改めて思い起こします。善悪、どちらも演じ分けたハンフリー・ボガートやリチャード・ウイッドマークなどの方が個性があって好きと言う人も多いと思います。

20世紀には「白熱」など、今ではテレビでは見られないジェームス・キャグニーのようなあくの強い悪役ばかりの名優もいました。

NO.36製作年タイトル番号
1、1938年我が家の楽園
2、1939年スミス都へ行く
3、砂塵
4、1940年フィラデルフィア物語
5、1946年素晴らしき哉、人生!
6、1948年ロープ
7、1949年踊る熱球
8、1950年ウインチェスター銃’73yes
9、折れた矢yes
10、1952年地上最大のショウyes
11、怒りの河yes
12、1953年裸の拍車yes
13、グレンミラー物語yes
14、1954年裏窓yes
15、遠い国yes
16、1955年戦略空軍命令yes
17、ララミーから来た男yes
18、1956年知りすぎていた男yes
19、翼よ!あれが巴里の灯だyes
20、夜の道
21、1958年めまいyes
22、媚薬
23、1959年ある殺人
24、連邦警察
25、1961年馬上の二人yes
26、1962年リバティ・バランスを射った男yes
27、西部開拓史yes
28、1963年シャイアンyes
29、1965年シェナンドー河yes
30、飛べ!フェニックスyes
31、1966年スタンピード
32、1970年テキサス魂
33、1974年ザッツ・エンターテイメント
34、1976年ラスト・シューティストyes
35、1977年エアポート’77/バミューダ

(編集子)小生が見たものは上記リストにアスタリスクをつけてみたが、結構よく見た、という感じがする。一番深い印象があるのは 34 ラスト・シューティストだ。映画の上でもそうだが、ウエインがこれが最後、と思い詰めたであろう傑作に出演、その演技から(相棒、これが最後だよな)というような、脚本には表れない気迫みたいのものが感じられたものだ。ローレン・バコールもよかった。

もう一本、リバティ・バランスを射った男 は、ストーリーもそうだが今度は役の上でもウエインに花を持たせた作品で、エンドマーク近く、ウエインの葬儀帰りの夫婦の会話が身に染みる、スチュアート作品の代表みたいな佳作だった。このエンディングの伏線になっているサボテンの花、見てみたいものだが日本では無理だろうな。

博識の飯田兄には無用のことと思うが、悪役、の代表はなんといってもブライアン・ドンレヴィだと小生は思っているし、顔が出てきただけで役どころがわかってしまったのがネヴィル・ブランドだったな。彼が、たしかトラトラトラだったと思うのだが、日本軍の奇襲の情報を知り、上官に伝達しようとするのに苦労する下士官を演じたことがあった。”悪役でない” ブランドはほかではお目にかかっていない。ほかの敵役で名の売れているということならご存じリー・マーヴィンとかアーネスト・ボーグナインやらヴィクター。ジョリーなんかかな。

(飯田)悪役の二人、ブライアン・ドンレヴィは以前にもジャイ兄が好きな悪役とのことで「大平原」「ボー・ジェスト」などを思い出していますが、もう一人のネヴィル・ブランドは名前は知りませんでした。調べたら年に2~3本は出ている俳優なので顔は知ってましたが、如何にも悪役面ですね。

「勇者のみ」「第十七捕虜収容所」「限りなき追跡」「胸に輝く星」「トラトラトラ」など多数に出ていたようですが、「やさしく愛して」ではエルヴィス・プレスリーを殺す役だったり、テレビ「アンタッチャブル」のアル・カポネ役だったとは・・覚えておかないといけませんね。

ところでローレン・バコールは夫ボギー(ハンフリー・ボガート)の死を看取ってから失意の時期が長かったですが、その間にボギーの親友だったフランク・シナトラと親密になったことを思い出しました。シナトラはエヴァ・ガードナーと離婚後に同じく失意の時期だったそうですね。ゴシップ全盛の時代ではありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

谷口吉郎の建築     (普通部OB 船津於菟彦)

先の「戦争遺跡として巡る三田キャンパスツアー」で谷口吉郎さんと慶應義塾の建築について一部語ふれましたが、「建築大好きな」熟年生としては谷口さんの建築について書いてみました。
谷口吉郎さんはすでに戦前から、慶應義塾の各所において建築設計を依頼されていました。彼の手により、1936年には天現寺に幼稚舎が、翌年には日吉寄宿舎が完成しています。どちらの建築物も優れた意匠のみならず当時最新の設備を有し、当局から高い評価を得ていました。
熟年生は普通部入学の時は天現寺の幼稚舎校舎を仮住まいとしていましたので、この建物の理科の部屋などは我が根城でした。非常にモダンな1937年に作られた建物とは思えない素晴らしさでしたね。

1949年には5号館、4号館、学生ホールが木造で完成した。これらによって、谷口は建築家の最も栄誉ある賞、日本建築学会賞(作品)の第1回受賞者に輝いた。学生ホールの東西の両壁面には猪熊弦一郎による壁画「デモクラシー」があり、今は西校舎内の食堂に移設されているが、こうした芸術家との協働は現在、南館にある「ノグチ・ルーム」につながる。これは1951年に完成した鉄筋コンクリート造の第2研究室の一部を移築したものだ。谷口は木造の校舎、鉄筋コンクリート造の校舎を通じて、縦に細い窓を連続させるというデザインモチーフを用いることで、三田キャンパスに清新な一貫性を付与したのだった。

慶應義塾の建築家と言えるのが谷口吉郎だ。関わりの始まりは1937年に完成し、今も現役の慶應義塾幼稚舎である。校舎の設計を当時、慶應義塾常任理事を務めていた槇智雄が依頼したのだった。谷口はまだ20代であり、助教授を務める東京工業大学の水力実験室と数棟の住宅しか手掛けていなかったが、谷口は従来の校舎のありかたを継承するのではなく、新しく考え直して、良いと思うものを設計した。モダニズムと呼ばれる手法だ。第2次世界大戦後の三田キャンパスで、これが大いに使われることになる。小生は普通部入学の時は天現寺の幼稚舎校舎を仮住まいとしていたので、この建物の理科の部屋などは我が根城で、非常にモダンな1937年に作られた建物とは思えない素晴らしさだった。

慶應義塾普通部は天現寺幼稚舎から1951年に日吉へ谷口吉郎さん設計の建物へ移転、未だ芋畑とか米軍のカマボコ兵舎などが残る荒れ地で、先ずは草むしりから始まったが校門も何もなかった。細いスリット状の窓は谷口吉郎さんの慶應義塾の戦後の建物の特徴で、演説館などの伝統建築を引き継いだいだと言う事も言われているが、実際は戦後の日本では大きなガラスは高価で割安なガラスで済ませたというのが谷口の苦辛の表れかと思われる。

谷口吉郎設計1937年竣工戦中に海軍聯合艦隊司令部となった悲運の名建築寄宿舎の建物は1937年に建った。 谷口がこの設計に取り掛かったときは、まだ30歳そこそこの若輩建築家であった。東京工業大学助教授として、1932年に建った同大学の水力実験室が処女作で、自邸、慶應義塾幼稚舎(1937年竣工)、それに続くのがこの寄宿舎である。若い無名の建築家を、慶応義塾はよくも起用したものである。ここから彼は名建築家への道を歩み出したのであった。慶應義塾の建築家と言えるのが谷口吉郎だ。関わりの始まりは1937年に完成し、今も現役の慶應義塾幼稚舎である。校舎の設計を当時、慶應義塾常任理事を務めていた槇智雄が依頼したのだった。谷口はまだ20代であり、助教授を務める東京工業大学の水力実験室と数棟の住宅しか手掛けていなかったが、谷口は従来の校舎のありかたを継承するのではなく、新しく考え直して、良いと思うものを設計した。モダニズムと呼ばれる手法だ。第2次世界大戦後の三田キャンパスで、これが大いに使われることになる。小生が谷口吉郎先生の謦咳に接したのは、大学で教わった時である。その頃はもう還暦が近く、秩父セメント工場、藤村記念館、東宮御所などの名作で有名建築家であり、その美丈夫にして謹厳なる様子には近寄りがたい風格があった。右目と比べて左目が大きいのが印象的だった。西洋建築史を文学部の講座に単位にも成らん無いのに熱心に受講した想い出がある。

作品が採用されました!     (普通部OB 船津於菟彦)

日本クラッシクカメラクラブが1980年に発足以来、初めて小生の拙い写真が案内状に採用されました。嬉しい限りです。他にコンタックスDとライカⅢb+SNOOKYの三点出展致しております。お時間がありましたらお寄りください。モシ来られも場合は事前にメール戴ければ会場に出向くように致します。

全日本クラシックカメラクラブは絶滅危惧種救済団体AJCC( ^o^)はフィルム維持に懸命にフィルムを使いかつ古いカメラで撮影する奇特な団体です(@^▽^@)
会期は9月17日〜21日です。

新型コロナ ”ニンバス” ご存じですか   (普通部OB 篠原幸人)

暑いですね。日本は完全に今は熱帯地方の仲間入りですね。

そんな中。今日は久しぶりでコロナの話です。 街を歩いていても、マスクしている人 減りましたよね。公共の乗り物に乗っても マスクをしているのはお年寄りばかり。

厚生省がお金がかかるからと、コロナを「5類感染症」に引き下げてから、社会の緊張感も薄れ 皆さんもコロナは普通の風邪と全く同じと考えるようになったからでしょうね。

今、日本で猛威を振るいはじめているのは、オミクロン株(今となっては懐かしい響きも感じますが)から変異したと考えられる「ニンバス」です。香港・シンガポールなどから日本に入ってきたとの説が有力です。

症状の特徴は「刺すような、或いは剃刀(かみそり)を飲んだような強烈な咽頭痛」、それに加えて咳・痰・発熱・倦怠感・頭痛・時には吐き気や下痢を伴うこともあります。特徴的な咽頭痛を除けば普通の風邪症状ですよね。北海道・九州でも またいま私が滞在している長野でも7月に比べ8月は4倍近いこの患者が出ているようです。

但し、今 行われているコロナの治療はこのニンバスにも有効性が証明されています。お出かけの際は、できればまだマスクをお忘れなく。またたかが喉が痛いだけと痩せガンマンせず 怪しいと思ったら近所の先生に。

ニンバスをまだ知らない先生には 教えてあげてください。

ギボウシは見返り美人か    (41 斉藤孝)

 軽井沢の小さな山野草の庭で擬宝珠(ギボシ)の『見返り美人』から歓待された。

ギボウシは『見返り美人』であると妄想した。

背筋をすっと伸ばし首筋が綺麗だ。まっすぐ伸びた茎は、乙女の細いうなじのようで気品がある。その優美な茎先に筒状の花をいくつもつける。

浮世絵師「菱川師宣」は、女性を美しく見せる演出法として、歩みの途中で後方に視線を送る姿を描いた。「モナリザの微笑」にも匹敵できるような演出である。

乱読報告ファイル (60)花衣ぬぐやまつわる・・わが愛の杉田久女 (普通部OB 菅原勲)

「花衣ぬぐやまつわる・・・」副題:わが愛の杉田久女.。

小生、俳句については一見識もない。では、何故、女性俳人の杉田久女(久が本名。以下、久女)を知ったかと言うと、かねがね愛読している、日経は土曜の夕刊、最終面の「文学周遊」に久女のことが載っていたからだ。それも、彼女の俳句ゆえの話しではなく、彼女に対する毀誉褒貶の評価に、大変、興味をそそられたからに他ならない。

久女は、大蔵省の書記官を父に、鹿児島で1890年に生まれた。その父親の転勤に伴い、沖縄、台湾などで幼少期を過ごし、東京女子高等師範学校(今のお茶の水女子大)付属高等女学校を卒業後、19歳で、東京美術学校(今の東京芸術大学)を卒業し、小倉で美術教師をしていた杉田宇内と結婚する。俳句に慣れ初め出したのは、26歳の時、兄で俳人でもある赤堀月蟾から句を学び、以降、俳誌「ホトトギス」に数多の句を投稿した。

しかし、夫の宇内は、久女が俳句に夢中になることを好まず、一方、彼女には二人の娘の面倒を見る必要があり、しかも、女中がいないとあっては、誠に厳しい生活環境にあった。逆に、そう言う環境にあったからこそ、そこからの一種の逃避手段として、生き甲斐である俳句に徹底的に拘ったとも考えられる。しかし、一方では、「ホトトギス」の同人となりながら、敬愛する師、高浜虚子から、突如として除名されるなど、不幸な運命を辿ることにもなる。やがて、連夜の空襲の中、自身の句稿を抱えて防空壕にうずくまる日々。そして、戦後となり、心のバランスを崩した久女は、精神病院に入院、食糧難にも苛まれ、55歳で鬼籍に入る。彼女の生前に果たせなかった句集の出版は、娘の石昌子に引き継がれ、「杉田久女句集」として、1969年、角川書房から出版された。

確かに、田辺は久女の生き方に寄り添っているが、「尊敬すべき見識と教養を人にも認められながら、それが人と人とをつなぐ親和力にならず、かえって敬遠されていくという不幸」があったと述べている。小生は、久女には一本気なところがあり、加えて、人付き合いに不器用なところがあることから、それらが誤解を招く原因になったのではないかと推測する。例えば、俳句仲間のお宅を訪問し、話し込んで長っ尻となることから、自分から勝手に弁当を持参するなど、結局、以降、出入り禁止となってしまう。

また、松本清張の小説「菊枕」(1953年)、吉屋信子の小説「底のぬけた柄杓 憂愁の俳人たち」(1963年)中の「私の見なかった人(杉田久女)」などで久女を言われもなく貶めているいい加減さが、後年の虚実入り混じった久女像の固定化に大きく影響した面もあろう。中でも吉屋の作品については、田辺は「ありていにいって、半分よたっぱちである」と酷評している。しかし、致命傷となったのは、師匠とも目していた虚子の彼女を狂人扱いにした(彼の著書「国子の手紙」、1948年)、それこそ正に嘘っぱちが人口に膾炙してしまったことが、彼女の句ではなく、久女を遠ざける風潮の源になったのではないか(確かに、久女は、短期間の間に、200通余りの手紙を虚子に送りつけている。しかし、解説を書いた作家の山田詠美は、それらの手紙を読んで、「私は、久女が、それほど、精神に異常をきたしていたとは思えない」と述べている)。だが、田辺のこの「花衣・・・」が彼女の名誉を完全に回復したのは間違いない。これは、小生の全くの憶測だが、虚子は、豪放磊落な人だったようだが、その本心は、久女の溢れんばかりの才能に激しく嫉妬し、我を忘れて嫉んでいたのではないか。それがこう言う彼女を「ホトトギス」の同人から除名し、更に必要以上に貶める発言になったのではないかと思われる。

田辺は「わが愛の杉田久女」と呼んでいるが、小生は、「我が愛する杉田久女」と呼びたい(山田は、「読みながら、何度も、久女の写真を見返した。彼女は、とても美しい顔をしている」)。

ここで、彼女の代表的と思われる俳句(小生にはそれを評価する術が全くないので、この欄で挙げられている句に止めておく)を列挙しておく。

「花衣ぬぐやまつわるひもいろいろ」。

「鯉を料るに俎せまき師走かな」。

「谺して山ほととぎすほしいまま」。

「朝顔や濁り初めたる市の空」。

以下は、田辺と解説を書いた山田が、最も心ひかれ、愛する句として挙げている。

「甕たのし葡萄の美酒がわき澄める」。

 

杉田 久女(すぎた ひさじょ、1890年明治23年)5月30日 – 1946年昭和21年)1月21日)は、鹿児島県出身の日本俳人[1]。本名は杉田 久(すぎた ひさ)。高浜虚子に師事[1]長谷川かな女竹下しづの女とともに、近代俳句における最初期の女性俳人で、男性に劣らぬ格調の高さと華やかさのある句で知られた。家庭内の不和、師である虚子との確執など、その悲劇的な人生はたびたび小説の素材になった。

 

エーガ愛好会 (337) それでも アラスカ魂 を見ましたよ (HPOB 小田篤子)

皆さんのメールをもとに、とても楽しく観ました。

特に喧嘩の場面!
お酒も溢れめちゃめちゃな酒場、やぎ?もドンドン飛び出すぬかるみの道路での泥だらけの喧嘩。
金鉱の水路でびしょ濡れになる喧嘩…。
俳優たちは大変だったことと思います。
宝田明似のような?ジョージが、彼女の為に作っておいた小屋がとても素敵です。
カーテン、ベッドも可愛いらしく、背景もすばらしい!
前に川が流れ、木々の向こうの山の上には、夜はオーロラが!
このところ話題のアラスカでもゴールド ラッシュがあったのですね。
飯田さんのおっしゃる通り、犬の表情、行動が印象的でした。
先月、Netflixで、実話に基づく「レスキュー·ドッグ·ルビー」を観ました。いたずらをしたり、感動させたりと活躍していました。
知的な綺麗さのジェニー役《キャプシーヌ》はスタイルの良さと名前から、やはりフランスのモデルさんでした。
ヘンリー・ハサウェイは『西部開拓史』や『勇気ある追跡』の監督でもありますね。
(編集子)騒動はあったけど、楽しんでいただいて安堵。殴り合いの壮絶さ、では小泉さんも書いておられる、”スポイラース”、コミカルタッチでは ”黄色いリボン” のヴィクター・マクラグレンを思い出します。
日本映画では僕が見た範囲は限られてますが、裕次郎と二谷英明の “俺は待ってるぜ” のラストの乱闘シーンがよかったかなあ。女性にも乱闘シーンがアピールするんですね。
セーブゲキなら、かの ”シェーン” でのアラン・ラッドとベン・ジョンスンの殴り合いも見ごたえあったなあ。

エーガ愛好会臨時版 アラスカ魂のオソマツ

(編集子)今朝お知らせした ”アラスカ魂” 売り込みの件。ジョニー・ホートンの主題歌についてはおしらせどおり、軽快な、 聴いていて愉快なものであることは間違いないのですが、ストーリーは実はグレゴリー・ペック主演の ”世界を彼の腕に (World in his arms)とごっちゃにしていました。こちらはロシアが誤解から宝庫アラスカをアメリカに叩き売った史実を絡めた、面白い作品です。いやーお恥ずかしい(恥ずかしいので写真もちいさい)。

(安田)日本で公開された直後に映画館で観ました。65年前の昔です。同時期にジョン・ウエイン主演の「アラモ」(1960年公開)も観ましたが、どっちが先だったか覚えていません。アラモは歴史にも知られたそのストーリーをおおよそ覚えていますが、「アラスカ魂」は主題曲の印象が強烈で忘れ難いのだが、ストーリーは殆ど覚えていません。マッチョのウエインらしからぬコメディ調だったのは微かに覚えています。再々見して、小泉さんの名解説の内、特に次の部分がこの映画の本質を突いていると思います。

≪冒頭のジョニー・ホートンによる主題歌North to Alaskaのメロディは懐かしく、歌詞が物語を説明して呉れている。監督はヘンリー・ハサウエイ、この監督の西部劇何本観ただろう。冒険活劇やさまざまのジャンルの映画、どれをとってもつまらない映画は皆無。監督作品の多さは職人監督と悪口を言われたこともあるが、職人こそが、映画の面白さを提供して呉れる。その点では「カサブランカ」を作ったマイケル・カーティスと双璧と言える≫

ところで、この映画のジョン・ウエイン、キャプシーヌ、シュチュワート・グレンジャーに続く、第4の主演者はワンちゃんだと思います。犬種が分からないのですが、西部劇には時々出てくるテリア系の犬と思いますが、何せ、主役のセリフや動きに反応して可愛らしい限りです。

(飯田)映画のタイトルを間違えたと言われますが、この ”世界を彼の腕に (World in his arms)“こそ、隠れた2流映画の名作ではないかと私はジャイ大兄の記憶力に脱帽します。この映画は私の記憶の限りにおいてテレビでは放映されたことは近年無い筈です。それを覚えておられる記憶力、この種の驚きこれまでも時々あるのですが脱帽です。この映画を自分は観たか観てないのか記憶の外にある映画です。

グレゴリー・ペックが「頭上の敵機」や「キリマンジェロの雪」の後、「ローマの休日」の前に撮った映画の筈です。

(小川)今録画見てる、これはこれで面白いよ!

(小泉) ジョン・ウエインが、英国の美男スチュアート・グレンジャーと仏国の美女キャプシーヌと共演した珍しくもコミカルな西部劇。5年前放映されたときに書いた感想ですが、其の侭送らせていただきます。

ゴールドラッシュ華やかな頃のアラスカ。シアトルから来たジョン・ウエインはスチュアート・グレンジャーとフェビアンの兄弟と一山あて、ウエインは一旦シアトルへ帰り、グレンジャーを裏切ったフィアンセの身代わりバーで知り合ったキャプシーヌを連れて帰る。ここからキャプシーヌをめぐるウエインとグレンジャーの鞘当てやら、金鉱をめぐる詐欺師アーニー・コバックスとの争い等を呑気なテンポでコミカルに描く。冒頭のジョニー・ホートンによる主題歌North to Alaskaのメロディは懐かしく、歌詞が物語を説明して呉れている。ジョン・ウエインとしては、コミカルな役を熱演している。ジョン・フォードの「静かなる男1952」、フォードの作風を受け継いだと言われるA・V・マクラグレンの「マクリントック1963」でコミカルな味を出してはいたが、これは全出演作の中で、異色の地位を占めるのではないか。ウエインがグレンジャーのために連れてきたキャプシーヌを愛し始めてきた場面、グレンジャーとキャプシーヌが小屋の中、ウエインは気が気でないが、入るわけにもいかず、地団駄踏む場面は、ウエインらしからぬコメディアンと化したのだった。西部劇としては珍しく、銃で人を殺す場面にお目にかからず、何かあると喧嘩!喧嘩を始めると、周りの野次馬まで触発、喧嘩もコメディとして不可欠な要素なのだ。その喧嘩の場面場面、倒れ方から、倒れることによって壊れるものものには種々の工夫が凝らされていた。

アラスカを舞台とした西部劇「スポイラース1942」の姉妹編でもあり、前年作られた「リオ・ブラボー1959」も意識していたかも。監督はヘンリー・ハサウエイ、この監督の西部劇何本観ただろう。冒険活劇やさまざまのジャンルの映画、どれをとってもつまらない映画は皆無。監督作品の多さは職人監督と悪口を言われたこともあるが、職人こそが、映画の面白さを提供して呉れる。その点では「カサブランカ」を作ったマイケル・カーティスと双璧と言える。

ジョニー・ホートン英語John LaGale Horton、1925年4月30日-1960年11月5日)は、アメリカカントリーミュージックホンキートンクロカビリー歌手ミュージシャンであった。

(編集子)”世界を彼の腕に” DVDはアマゾンにありました! これを買ってればこんな間違いはしなかったのに。遅まきながらちと高いけど買います。