エーガ愛好会 (329)左ききの拳銃   (34 小泉幾多郎)

「俺たちに明日はない1967」でニューシネマを誕生させ変革の時代の寵児と言われたアーサー・ベン監督のデビュー作。モノクロであり、広大な西部の景
観も出て来ないし、TV映画を観ている感じで、まだまだ革新的な時代の寵児出現という感じまでは認識しなかった。しかしこの作品の主演が「銀の盃1954」「傷だらけの栄光1956」に次ぐ主演3作目のポール・ニューマンで、当時マーロン・ブランドのコピーと言われていた時代だったが、西部開拓期の反逆児ビリー・ザ・キッドの演技によって新しいスターの誕生が予告され、作品自体も、従来の西部のヒーローとは変わった視点から描いていたと言えるのかも知れない。

現存しているビリー・ザ・キッドの写真

伝説のアウトロー、ビリー・ザ・キッドの生き様を生々しく、また人間味豊に描いた作品で、精神的に追い込まれて行く様をリアルに演じている。

冒頭、熱気と疲労にやられたウイリアム・ボニー(ポール・ニューマン)別称ビリー・ザ・キッドが牛商人一行の代表タンストール老人(コリン・キース=ジョンストン)に救われる。その一行がリンカーンと言う町へ入ると、自分らの経済的損失を受ける恐れを抱いている保安官ブラディ(ロバート・フォーク)、副保安官ムーン(ウオーリー・ブラウン)、商売敵の家畜商ビル(ボブ・アンダーソン)とモートンの4人は、タンストールが町へ入ろうと峠道を歩いているところを待ち伏せ射殺してしまう。それを知ったビリーは、恩人の仇とリンカーン街道で保安官ブラディとモートンを射殺する。副保安官であるムーンは法の名により、ビリーに制裁しようと知人の隠れ家に逃げたビリーを取り囲み、火をつける。焼死した情報が流れる中、辛うじて脱出したビリーは旧知のサバル(マーティン・ギャラガーガ)と美しい妻セルサ(リタ・ミラン)のもとに身を寄せ、養生する間に、セルサといい仲になったりする。

仲間の牧童チャーリー(ジェームズ・コンドン)とトム (ジェームズ・ベスト)に合流したビリーは、連邦保安官が来たとおびき寄せ、副保安官ムーンをチャーリーが射殺、最後の一人ヒルは腕の経つパット・ギャレット(ジョン・デナー)に保護を求める。パットは結婚式を控え、それどころではなかったが、結婚式当日、恐怖に発砲したヒルをビリーが射殺し、結婚式だけは血で汚さないよう警告していたパットは怒り、保安官に就任、自警団を組織し、ビリー以下3人を追うことになった。トムとチャーリーは射殺、ビリーは捕獲され、絞首刑の宣言を受ける。鎖につながれたビリーは、トイレに行く機会を狙い逃亡、逃げまどうが、結局サバルとセルサの家に辿り着くものの、ビリーと懇意だった出版社のモールト・リー(ハード・ハットフィールド)の情報から、パットに知られていた。この家の二人からも愛想を尽かれ、この世に未練をなくしたビリーは、ピストルをサバルに渡し、撃つように願い、家を出たビリーは、待ち構えていたパットに声をかけられ、振り向いた一瞬、弾を受け絶命した。

雇い主の仇を討つことで、晴れ晴れとした気分で、大きな罪の意識はなく、人との暖かい交わりを求めながらも、雇い主タンストール老人以外の人たちとは誰一人とも、そういう生き方が出来ない不器用な若者を丁寧に描いていた。

(飯田)「左ききの拳銃」のストーリーが書き難かったと言われるのは、御尤もですが、小泉さんの感想文の最後のパラグラフで、ストーリーの総てを言い表していると最初に読んだ時に思いました。その部分は以下のパラグラフです。

≪雇い主の仇を討つことで、晴れ晴れとした気分で、大きな罪の意識はなく、
人との暖かい交わりを求めながらも、雇い主タンストール老人以外の人たちとは誰一人とも、そういう生き方が出来ない不器用な若者を丁寧に描いていた。≫

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ビリー・ザ・キッドを描いた映画は多くあり、トーキー以降次の通り10作品。未見①⑨⑩1.      ビリー・ザ・キッド1930ジョニー・マック・ブラウン ②最後の無法者1941ロバート・テイラー ➂ならず者1943ジャック・ビューテル
➃テキサスから来た男1953オーディ・マーフィ ➄左ききの拳銃1958ポール・ニューマン ⑥チザム1970ジョイフリー・デュエル ⑦ビリー・ザ・キッド21歳の生涯1973クリス・クリストファーソン ⑧ヤングガン1988エミリオ・エステベス ⑨ビリー・ザ・キッド1989ヴァル・キルマー ⑩ビリー・ザ・キッド孤高のアウトロー2019ディン・デハーン

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この映画の背景にある史実はリンカーン・ウオーとして名高い抗争である。ウイキペディアの抜粋:

リンカーン郡戦争(Lincoln County War)は、1870年代後半のアメリカ西部の辺境で起きた事件のこと。当時のニューメキシコ準州リンカーン郡で発生した、二つの派閥の間の一連の紛争事件を指す。この「戦争(War)」は、裕福な牧場主が率いる派閥と、独占的な雑貨店の経営者が率いる派閥との間で起こった。牧場主側の派閥には、ヘンリー・マカーティことビリー・ザ・キッドがいたことで有名な事件である。

地域の物資、商売を事実上独占していた雑貨店「ザ・ハウス」を、郡庁所在地のリンカーンに所有していた経営者たちは、ニューメキシコ州サンタフェの土地の役人とも親密な関係にあり、トーマス・B・カトロンを筆頭とした、地域の法の執行を牛耳る政治/犯罪組織、「サンタフェ・リング」を形成していた。

24歳のジョン・タンストールは、イギリス人の牧場主で、地域の銀行家かつ商人。 彼と、法律家のアレクサンダー・マクスウィーン英語版、地域に莫大な頭数を抱える有名な牛飼いのジョン・チザムの3名は、マーフィーとドランの派閥のギャング「ザ・ボーイズ」に対抗するため、乱暴者の徒党「レギュレーターズ英語版」(整理屋)を率いており、この中にビリー・ザ・キッドも含まれていた。タンストールは「ザ・ハウス」の真向かいに雑貨店を開き、チザムから買った牛を納品した。チザムは、以前からマーフィー派を快く思っていなかったのでタンストールに協力した。

(編集子)上記小泉リストの6番目、チザム は実在の人チザムの話で、ジョン・ウエインとベン・ジョンソンという筆者ごひいき二人至極明快な仕立ての活劇だが、キッドは快活で正直な青年として描かれていて、名保安官となるパット・ギャレットとの友情もからむ、ここのニューマンものより爽快感のある作品だった。ジョン・チザムが開拓した牛の運搬ルートはチザム・トレイルとよばれてまだそこここに残滓がみられるはずであり、かの ”赤い河” も明示的ではないがこのルートの話だろうといわれている(本題には関係ないが、”チザム” で雇われガンマンを演じたのがクリストファ・ジョージで、彼の凄みのある悪漢ぶりは記憶に残っている)。

乱読報告ファイル (52)Band of Brothers

 

英国とドイツの間の歴史的な対立から始まり、ドイツがヒトラーのもとで軍事大国となって、第一次大戦のいわば復讐ともいえる電撃戦を開始し、あっという間にヨーロッパの大半を手中に収めた第二次大戦の欧州戦線では、アメリカの参戦によって徐々に立ち直ってきた連合軍の失地回復のための大陸への反攻が始まる。それを予期したドイツ側は有名なロンメル将軍の指揮下、沿岸の防備を強化して待ち構えていたが、1944年6月6日,連合軍側はアイゼンハワーの指揮の下、フランス南岸、ノルマンディへの大規模な上陸を敢行する。この事実の映画化が ”史上最大の作戦(The Longest Day) “である。この作戦成功後、今度はイギリス側の最高司令官モントゴメリはドイツ中心部への反撃作戦を展開する。マーケット・ガーデン作戦であり、その中の一つのエピソードを中心にこれまた巨費を投じて映画 ”遠すぎた橋 (A Bridge too far)” が作られた。成果は一応ドイツ中心部への侵攻はできたが、連合軍は多大の損失をこうむり、モントゴメリの失策と数えられる作戦であった。その後ドイツは守勢にまわるのだが、秘密裡に作られていた新兵器(大型戦車タイガーや現代でいうミサイルに該当するV2号ロケット弾など)を駆使して反攻に出て、中部欧州を横断しアントワープまでの進撃を開始する。この作戦の全貌を映画化したものが ”バルジ大作戦 (Battle of the Bulge)” (バルジ、は突出、と言った意味で、この作戦の意図がすでに連合軍の手にある戦線にくさびのように突出した部分であることに由来する)で、中でも激戦が展開されたのがバスト―ニュ包囲戦で欧州戦線の激戦の一つに数えられる。この3本の映画はもちろん映画そのものとしての評価もあるだろうが、欧州での大戦の史実を時間軸を合わせて理解するにはまたとないツールでもある。

3本の映画が語る場面には各国から精鋭部隊が引き続き投入されていくのだが、その中で、この3つの戦場すべてに参加した部隊がひとつあった。米国陸軍の空挺師団、101師団、506連隊、E中隊である。この中隊は本のカバーによれば、fron Nomandy to Hitller’s Eagles’ Nest ,というのだが、ノルマンディのユタビーチにパラシュート降下して以来、バルジ作戦における最激戦地バスト―ニュでの死闘を経て、最後にはヒトラーの本拠地まで、米軍最強の舞台として参加した中隊の話がこの本で、一つの中隊規模の部隊がこのように連続して主要作戦に参加した(それだけ上層部の信頼があったということか)例はほかにはないようだ。

しかし、これは単なる軍記ものでもヒーロー譚でもない。その時間を戦い抜いた戦友、というよりもタイトルにいう BAND の話である。  手元の辞書によれば、band という単語には我々にとっても日常語である ひも、ベルトという意味やそれから転じて範囲,階層 あるいは群れとか楽団、などというほかに、団結、義務債務、さらに(法的、道徳的、精神的に束縛するもの、きずな、という意味があるという。タイトルの band がこの最後の意味で使われていることは明らかだ。つまり生死を分け合った仲間たち、のことだ。戦場でともに生きた仲間たち、というだけならごく一般的な意味なのだが、この本が band という単語を使ったのが、著者が伝えたかったことだと思われる。

1040年代になって米国はパラシュートを用いて戦う戦闘集団の創設を試みる。その代表がこの本の主題である第101および第82空挺師団である。この二つの師団はノルマンディで同時に投入される。映画史上最大の作戦、でジョン・ウエインの演じるヴァンダーブ―アト中佐(写真左)が戦場で遭遇する兵士に、”you, eightysecond ?” と尋ねるシーンがあるので、この作品で登場する兵士たちは82師団の所属だと知れる(この作品はいろいろなエピソードをつづっていくが、そのうち、これが主題の101師団E中隊、と明確なシーンはない)。

このE中隊所属の兵士たちは、すべてハイスクール卒の若者だが、徴兵後ただちにジョージア州トッコアに設けられた特別な訓練施設で猛烈は訓練を受ける。この訓練を指揮した将校(ソべル大尉)はその猛烈さと病的なまでの細部にこだわる姿勢から兵士たちの恨みを買い、事実反乱まがいのことまで起きてしまうのだが、戦後、兵士たちのインタビューでは、この男がE中隊の強靭さをつくったの

リチャード・ウインタ―ズ大尉

だ、と評価されている。上層部の判断でこの将校は指揮を解かれ、実戦では理想的ともいえる士官(ウインタ―ズ大尉)に恵まれるのだが、この二人の在り方と指揮官としての資質がどこにあるのか、考えさせられる。この本は戦後、著者がインタビューしたメンバーとの会話が編集されているが、ウインタ―ズはその後も順調に出世していくのだが、ソべルは家族にも恵まれず、失意のうちに亡くなり、その葬儀も寂しいものだった、と書かれている。

本はE中隊の戦場での行動をこまかに記録しているが、その中に映画的なエピソードやヒロイックな行動があるわけではない。ただ忠実な記録の羅列なので、ストーリー性に欠けて面白くなく、300ページを超える本文を読み続けるのは正直言ってつらかった。ただ、その中で、前線で負傷し後方に送られた兵士が全員、元の中隊への帰属を熱望し、中には負傷の全快せぬまま、戻ってくるものさえあったという記述がある。バスト―ニュの激戦終了後、ドイツの退潮ぶりは明確となり、米国への帰還が早まるとささやかれるようになっていて、兵士の無事の生還が身近な話題になっていたから、負傷した兵士の多くは名誉のうちに帰国できる可能性が高くなったことを知っていた。しかしなお、このE中隊から後方に送られた負傷者でも回復したものはすべてみな、帰国を拒んで、中隊に復帰することを熱望したし、中には引き留める手を振り切って歩き続けたものもいた。それが彼らの間に生じた band だったのだ、というのがこの本のすべてである。

その band はどうして生まれたのか。どこでも戦場にあれば戦友という関係が生じるが、欧州戦線の反攻段階のすべてを戦い続けてなお、誰に遠慮することなく堂々と帰国する機会を与えられてなお、前線にとどまっている部隊への復帰を選択した男たちの胸の内は何だったのか、は最後の章、19. Postwar Careers ,の17ページのインタビュー記事に集約される。しかしそれをどう判断解釈すべきか、著者のコメントはない。僕も、戦争という破壊しか生まない人間の行為がこういう結果を生み出した、という事実にただ、感銘を受けた、としか表現できない。現代の、いわばエレクトロにクスの化け物が帰趨を決定する戦争、ウクライナやガザの戦士たちの間には band が生まれるのだろうか。絶望的にならざるを得ない。

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著者スティーヴン・エドワード・アンブローズ(Stephen Edward Ambrose, 1936年1月10日 – 2002年10月13日)は、アメリカの歴史家およびドワイト・D・アイゼンハワーの伝記作者。

この本はフィルム化され、DVDとして販売されていて、小生もだいぶ以前、購入したが、今なお、未見のままである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

乱読報告ファイル (51)ベルリンフィル  (普通部OB 菅原勲)

「ベルリン・フィル」[副題:栄光と苦闘の150年史](著者:柴崎佑典、発行:中公新書、2025年)。

これは酷い!

この本の帯の表には「世界中の人々を魅了したものとは」とあり、その裏には「なぜ世界最高峰と呼ばれるのか」との惹句がでかでかと掲載されている。当然のことながら、ボンクラな小生は、それらの疑問に対する明確な回答があるものとして、この本を手に取ることになった。ところが、それらの疑問に対する回答は一切ない。ただただ、ベルリン・フィルの主席指揮者は、フォン・ビューローに始まって、ニキッシュ、フルトヴェングラー、カラヤン、アバド(イタリア)、ラトル(英国)であり、そして、現在はペトレンコ(ロシア)であることを、長々と論じているだけに過ぎない。こんなことは、いささかでもベルリン・フィルを齧ったことのある人なら、何ら新しいことではなく、既知の事柄だ。肝心なことである、ベルリン・フィルの魅力とは、具体的に、一体、何なのか、そして、それが世界最高峰であるのは何故なのかについては全く言及されていない。これこそ羊頭を掲げて狗肉を売る類いの話しであり、天下の中央公論がこんな杜撰な本を売り物にするなど、許されるものではない。小生の正直な反応は、内容が空虚で騙された!即刻、絶版にすべき代物だ。

著者も不適当だが、そんな著者に原稿を依頼した編集者も出来損ないだ。先ず、この著者は、確かに、巻末に膨大な参考文献を掲載しているが、ただそれだけを駆使してこの本を書き上げているに過ぎない。それ以前に最も重要なことは、ベルリン・フィルを生で聴いたことがあるかどうかだ。小生は、この著者は、ベルリン・フィルを一度も聴いたことがないと推定している。生は勿論だが、缶詰(LP、CD)だってそうだろう。それで良くもベルリン・フィルのことが書けたものだと、ただただ呆れるばかりだ。

さて、ベルリン・フィルの音色の特徴は、また、他の交響楽団、例えば、同じドイツのシュターツカペレ・ドレスデンとか、ライプツィッヒ・ゲヴァントハウスなどとはどこがどう違っているのか、などなど。こう言う肝心のことにも聊かの言及もない。それはそうだろう、何しろ、この著者はベルリン・フィルの生を一度も聴いたことがないのだから。

繰り返しになるが、「世界中の人々を魅了したものとは」に対する回答が、例えば、フルトヴェングラーや、カラヤンなどの指揮者であったとしても、その指揮者のどこがどう魅力的だったのか。そうではなくて、フルトヴェングラーのナチとの関係とか、カラヤンがクラリネット奏者、ザビーネ・マイヤー採用を巡ってのゴタゴタなどを長々と書いてお茶を濁しているに過ぎない。誠に腹立たしい限りだ。

ベルリン・フィルのことであれば、文献からだけでなく、生なり缶詰なり、ベルリン・フィルを、数多、聴いたことのあるもっと適当な人がいた筈だ。中央新書と言う権威ある新書が何故こんな著者を選んだのか、全く理解に苦しむ。例えば、「アーロン収容所」(1963年)を出版した当時の中公新書が草葉の陰で大泣きしているのは間違いない。

参考までに、小生は、フルトヴェングラーがベルリン・フィルを指揮した、ベートーヴェンの交響曲6番「田園」をCDで聴いたことがある。ベートーヴェンの交響曲は、そら行け、ドンドンと勢いの付いた類いのものが多いのだが、この6番は本人自らが、題名に「田園」と付けただけのことはあって、雷雨、嵐の第4楽章を除き、至って穏やかで、安らぎの曲だ。しかし、フルトヴェングラーに掛かると、この「田園」は、誠に荒々しい、それこそ荒野と言う趣きで、小生は全く馴染めなかった。

そこで、以下、小生の独断と偏見だが、ベルリン・フィルは今や単なるドイツの交響楽団に止まらず、万人のための、言ってみれば、ユニバーサルな交響楽団となってしまい、その独自性は喪われてしまったのではないか。それは多分カラヤンの頃から徐々にそうなって行ったに違いない。一方、鉄のカーテンに覆い隠された東ドイツにあって、シュターツカペレ・ドレスデン、ライプツィッヒ・ゲヴァントハウスなどは、ドイツ本来の骨太で、重厚な音を維持して来たのではないか。特に、コンヴィチュニーの下でのライプツィッヒにそれが著しい。小生、バカの一つ覚えのようにベートーヴェン、ベートーヴェンなのだが、なかでも、コンヴィチュニーがライプツィッヒを指揮したベートーヴェン交響曲全集(東ドイツ時代の1959年から1961年にかけてスタジオ録音された)を、それ故に愛聴している。カラヤンがベルリン・フィルを指揮したベートーヴェンの交響曲全集も缶詰で聴いたが、確かに大変奇麗な音楽が流れている。しかし、一言で言ってしまえば、感動するまでには至らず、面白くなかった。

東ドイツは西ドイツに吸収合併されて消滅してしまう誠にダラシナイ国家だったが、ドイツ本来の質実剛健な音楽は、東ドイツ時代も脈々と受け継がれて来たようだ。ただし、現在、そのライプツィッヒの主席指揮者はイタリア人のガレッティだから、ここもユニバーサルな交響楽団に変貌してしまったのかも知れない。そのように、みんな金太郎飴になってしまったら、何とつまらないことか。でも、これが、巷で言われているグロ-バリゼイションと言う世の中の流れの一環であるのかもしれないのだ。

(44 安田) 小汀利得と細川隆元の「辛口時事放談」のような小気味良い毒舌(笑)批評に共感し、芝崎祐典なる人物の本を読まずとも、(正鵠を射ている)諸点に納得です。念の為、本書の紹介記事をネットで読みました。著者と詳細に目次の紹介が成されている。偏差値の高い優等生が史実を淡々と客観的に書き綴った内容で、そこには血の温かさに溢れた感性・情熱あふれる「ベルフィル」に対する愛と寄り添う思い遣りは全く感じ取れない。長文の目次から察するに無機質な史実の羅列なのだ。確かに、皆が一番興味ある「何故、どこがベルリンフィルの特徴的な魅力なのか?」に関する個性ある記述はなさそうな、重厚な目次詳述であった。

(編集子)残念ながら小生にはスガチューの論点について語れる教養も知見もないので、本論へのコメントは差し控える。しかし別のところで、彼がいみじくも言っている、羊頭を掲げて狗肉を売る類いの話にはよく遭遇する。それが昨今のITだAIだという一連の社会変革にまきこまれるのだから、誰もがプロパガンダの中で漂流してしまう。そうなると安田コメントの言うような、当たり障りのない史実を羅列することがあたかもインテリジェンスのように思えてくる。いやな世の中になりつあることを実感する。不便でも若者に馬鹿にされようとも、横丁の旦那の意地っ張りで、ユーチューブなんて化け物には一切手を出さない、というマイウエイで行こう、という気になる。俺は単なる知恵遅れか?

ブルショット ってご存じですか  (バーアンノウン 川島恭子)

美味しいビーフブイヨンを入手したので、今夜はブルショットを作ってみました。
🔸ホットにも出来ます🔸
ウォッカの量で、軽めにも出来ます.
,

ビーフブイヨンは、ハインツの2倍に薄める缶を使いました。

大きい缶しかないようなので、お家では、マギーブイヨンを濃い目に作って使ってください。
ワンカップ、ウォッカはお好みで10ml〜30ml ,ブイヨン60mlを使います。
ウォッカの量で ブイヨンの量を調整してください。
ペットボトルに両方の材料を入れて 振って混ぜて、氷の入ったグラスに注いで、お好みで パセリや胡椒を 少しふりかけても美味しいです。ホットで飲む場合は、少しブイヨンを薄味にしてください。
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恭子さんから教えてもらった名前が面白いので調べてみた。デトロイトのさるクラブのバーで作られたのが最初らしいが、そのオリジナルはなんとも物凄いものだった。その後、New Bull Shot  というのも紹介されている。

(Original) Bullshot Cocktail

By the Caucus Club | Detroit

INGREDIENTS

  • 1 1/2 ounces vodka              ウオッカ
  • 3 ounces Campbell’s beef broth         キャンベルのビーフブロス
  • 1/2 ounce lemon juice             レモンジュース
  • 3 dashes Tabasco sauce, or more to taste    タバスコ
  • 3 dashes Worcestershire sauce, or more to taste ウースタソース
  • Garnish: celery stick, lemon wedge       セロリまたはレモンスライス

New Bullshot

INGREDIENTS

  • 2 ounces Moletto gin (Italian tomato gin)     ジン
  • 2 ounces steakhouse jus (or to taste, but heavy on the umami flavors) どんなものか想像できないが、jus  というのは肉汁、というからグレーヴィみたいなものか
  • 3/4 ounce Bloody Mary mix, preferably Brewt’s  ブラディマリーミクス
  • Garnish: candied round pancetta        パンチェッタてえのは燻製でない生のベーコン、と辞書にはかいてあるが、できあがりがどんなものか、恐ろしい。

恭子さんのレシピに比べるとなんだか猛獣的な感じがしてくるカクテル。この解説によるといってみれば ブラディマリーファミリ、見たいな位置づけで、まさに文句なくアメリカそのもの、という感じがする。やっぱり俺っちにはアンノウンバージョンがよさそうだ。

 

エーガ愛好会 (328) 5月のBS劇場  (HPOB 小田篤子)

5月のBS映画「Shine」「荒野のガンマン」を観ました。

荒野のガンマン」の始まりは美しいモーリン・オハラの歌声。
西部劇には先日の「リオグランデの砦」の『I’ll take you home…』、「勇気ある追跡」のグレン・キャンベルの歌etc.…沢山の良い歌がありますね。
モーリン・オハラは、知的な顔立ちから、酒場の女性より学校の先生が似合うような気がします。
息子の遺体を運びながらの闘いには少し疑問もあり、ハラハラしましたが、やはりハッピーエンド。ほっとしました!
シャイン
1947年生まれのオーストラリアのピアニスト、《デビット ヘルフゴット》の自伝。同じくらいの歳ですが、初めて知りました。
ヘルフゴットは、収容所で両親を亡くした父に厳しく、強くなれ…と育てられます。色々なコンクールで優勝。留学を希望しますが、父親の反対でだめになりますが、その後、援助してくれた老婦人のお陰で王立音楽大学へ進みます。
しかし、きびしい教えや、冷たく接する父の態度などで精神を病み、病院に入りピアノは禁じられてしまいます。退院後も症状は続きますが、教会のオルガニストやワイン・バーで働く、彼の才能を認めてくれる女性たちに出会います。
そして1984年に出会った15歳年上で裕福な女性と、彼の優しい性格と才能に共感してくれ結婚します。
1986年にはオーストラリアで公演、温かい歓迎を受け、その後、ドイツ、デンマーク等での演奏会も成功。大人からの役のジェフリー·ラッシュはアカデミー主演男優賞を受賞。早口で喋り続ける役は大変だったと思います。
1941年には東アフリカ、ナイジェリア、リビア他をチャーチルの息子から借りたジープで走り回りルポルタージュを書き、シリア、イラン等で戦争記者となり、ビルマから中国へ行き蔣介石、インドではガンジーに会ったりしました。
戦後、米大使館の夕食会で隣りになった、仏系『ヘンリー·ラブイス』と結婚。
ケネディに命じられ、夫婦でギリシャの米国大使に。
その後、夫はユニセフ事務局長として、ノーベル平和賞受賞。 ヘンリーは14年間トップを続け、彼女も共に世界中をまわり、ユニセフを設置しました。
9.11の時には、96歳のエーヴは近くに住んでいた孫一家を助けたく、”救助車両の運転を申し出て断られた” そうです。100歳のお祝いにはアナン国連事務総長が自宅に訪ねてこられたり、戦争中の勇気ある行動を称え、レジオン・ドヌール勲章も受賞しています。(両親、姉夫婦は計5つのノーベル賞を受賞)
2007年102歳で亡くなっています。

便秘の話です      (普通部OB 篠原幸人)

最近、私と同年配の患者さんで、本来の病気の他に「便秘」を訴える方が多くなりました。皆さんの中にも最近多少便秘傾向という方も多いのでは? 一番の原因は昔のようにキチンと毎日仕事に行かないから、生活が不規則になっていることもあるでしょうね。

動物は一般的に12秒ぐらいで排便するそうです。のんびり排便していると敵に襲われるからね。人間は大体50秒ぐらいというデータがあります。のんびりトイレで新聞なんか読んでいる人は別ですが。昔から「早食い・早便は芸のうち」って言いますよね。

人間が何かを食べると 吸収されなかったものは若い人では平均35時間で便として出るそうです。一方、高齢者では70時間ぐらいかかると言われています。高齢者はやはり腸の動きが少し弱っているんでしょうね。食べたものの種類や量にもよるけどね。この時間は運動量や水分量によっても変化しますが。一般的には毎日1回は排便があるのが普通と考えていいでしょう。個人差もあり、2-3日に1回までは許せますが、5日から1週間もため込む人は何らかの対応が必要でしょう。高齢になると直腸まで便が下りて来ていても便意を感じなくなる傾向があります。以前にもこの「徒然」で書いたと思うけれど、定期的にできれば毎日朝食後には便意がなくてもトイレに入る習慣は持っていたほうが良いでしょうね。例え、何も出なくても。最近便秘が気になる方は、普通の医院でも超音波(エコー)を使って簡単に便の移動の状態を調べてくれますよ。

便秘がひどいとどうしても息み(いきみ)がちになります。高齢者の息みは血圧を上昇させで心臓や脳の病気を引き起こしやすくします。熊本県での13年もかけた調査では便秘のひどい人は心臓病や脳卒中になる確率が高く、その主な原因は「いきみ」と考えられるとのことです。

また古くからある漢方薬や浣腸を使い続けるのには批判的な報告が多く、またよく使われるマグネシューム製剤も長期に及ぶと高Mg血症などが生じ心電図に異常が現れることもあります。

食事や生活習慣の改善で軽症の便秘は直るでしょうが、悩んでいる人はかかりつけの先生によく相談してください。

乾杯の歌   (大学クラスメート  飯田武昭)

最近テレビで「世界入りにくい居酒屋」という番組を見ているが、オーストリアのウイーン編やザルツブルグ編の居酒屋で、大声で歌われる乾杯の歌が耳に入って、私の大昔のドイツ駐在時代のことを思い出し、この小稿を記す気になった。番組では日本にいる若いタレント達が≪なんか大声で歌っていますねぇ。大声で歌うのが好きなのですね≫とか何とか合いの手を入れているが、ドイツやオーストリアのドイツ語圏の居酒屋で皆が歌っている歌は先ず一曲≪乾杯の歌―Ein Prosit・・・≫が殆どであることを知っていれば、居酒屋をより楽しめると思う次第だ。

日本では酒席での乾杯は〇〇を祝してとか、皆様のご健勝を祈念してとかで≪カンパイ!!≫となるが、同じようにアメリカでもFor Your Healthとかで≪チアーズCHEERS!!≫となるのが一般的と思う。ドイツ語圏でも同様に≪プロースト PROST!!≫となるが、少し砕けた集まりでは直ぐに≪さあ乾杯だ さあ乾杯だ 皆が集まったこの時に さあ乾杯だ さあ乾杯だ 皆が集まったこの時に 1、2、3、飲み干せ!乾杯!≫という歌が合唱で起こるのが常だ。

ところでドイツには南のミュンヘンには、日本人旅行者にも有名なホッフブロイハウス(Hofbräuhaus)と言う大きなビアホールがある。この名前はホフブロイハウスと言うビール会社の名前をビアホールに冠した物で、日本にひき直したら差し詰めキリンビールハウスとかアサヒビールハウス、サッポロビールハウスといった呼称になる。

私がドイツに居た(1965年と1973~77年)の北のハンブルグには、ツイラータール(ZILLERTAL)という南のホフブロイハウスに似た大型ビアホールがあった。日本からの出張者・来客の殆どはこのビアホールに案内するのが仕来たりの当時だったが、そのホール名が何に由来しているのかは忙しさにかまけて、今日まで調べも聞きもしなかった。ところが、過日にテレビ番組「アルプスSL鉄道の旅」を見ていたら、アルプスを走るSL列車の6鉄道を紹介していた。 6鉄道はそれぞれ 1、ブリエンツ・ロートホルン鉄道(スイス) 2、ブロネイ・シャンピー博物館鉄道(スイス) 3、フルカ山岳蒸気鉄道 4、ツイラータール鉄道(オーストリア) 5、アッヘンゼー鉄道(オーストリア) 6、シャーフベルク鉄道。

ツイラータール鉄道(ZILLERTAL-BAHN)は、かって、イエンバッハ駅→マイアホッフェン・イム・ツイラータール駅までの31キロメートルの山岳鉄道であった由。あれから(ハンブルグ勤務時代から)約50年経った今、大ビアホールの名前の由来に行き当たった本人だけに意味があるエピソードだが紹介したくなった。

(編集子)乾杯の歌、となると洋の東西を問わずに名曲が多い。蘊蓄を傾ける人も多いと思うが、小生KWV生活真っ盛りのころ、酒宴となれば数多くの名曲を圧倒して人気のあったのは実はこういうものだったのだ(ただこれは当然、場所と雰囲気を考えてのことで、慶応の学生はこういうものしか知らなかったわけではない、と付け加えた方がよさそうだが)。35年卒、荒木さんの仲間たち、畠山さんとか、酒井さん、森田さんなど、”野郎会” の持ち歌でもあったが、”野郎” 文化の衰退?なのか女性パワーのなせるわざか、知っている人も少なくなったようなのはやはり時代の流れであろうか。

いわく、

ブタが線路を行くよ
向こうから汽車がくるよ
ブタは死ぬのが嫌だから
ブタは線路を避けていくよ

そんなこたあどうだってかまやせぬ
俺たちゃ酒さえあればいい

ずんちゃかちゃかちゃか
ずんちゃかちゃかちゃか

飯田の品位ある投稿の後で申し訳ないが、思い出ついでに、何かと言えば、”俺たち” (まだ早慶戦の夜といえば学帽を被って銀座を歩いていれば、全くの他人のOB方が、(おー、おめえ、塾生か。一杯のませてやるからちょっと来い!)なんて、ただ酒が飲めたころ(嘘ではない、あったのだ、そういう時代が)の話だ。数寄屋橋の水が地下に潜ったころから、しかも、”俺たち” が後輩にただ酒をおごらなければならなくなったころから、こういう文化はなくなってしまった。学生が帽子をかぶらなくなって、塾生の見分けがつかなくなったのが理由だろうか。

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そのころ、銀座でも ”俺たち” の財布で出入りできたのが並木通りの ”ブリック” だった。最近改装してえらく立派になってしまい、俺たちゃ酒さえ、なんて気持ちではどーんと敷居が高くなったのは残念。酒豪だった横山美佐子から何かと言えば説教されたあのテーブル、2階の奥の方にあった、傷だらけの、でかい、分厚い木のテーブル。改装直前に行ったときは残っていて、時間を超えて、俺を迎えてくれた。店のオーナーに心があれば、あの頃の空気をそっと残してくれているのではないか。確かめに行こうか、まだその勇気がないままだ。

 

 

 

 

 

 

乱読報告ファイル (50) クアトロ・ラガッツイ  (44 安田耕太郎)

「クアトロ・ラガッツィ」Quattro Ragazzi (イタリア語で4人の少年の意) は若桑みどり著、2003年集英社単行本、2008年文庫本(上・下)が刊行され、文庫本を読んだ。2巻で1,000ページを優に超す読みでがある歴史小説だ。副題「天正少年使節と世界帝国」が付記されている。

著者は西洋美術史が専門の日本人で、20代の時イタリア政府給費留学生としてローマ大学に留学。帰国後東京芸術大(彼女の出身校)教授を経て、千葉大学教授を勤めた美術史学者。彼女の他の著書は読んでいないが、著書リストを観ると、中野京子や原田マハが描いたテーマと類似しているが、いかにも学者が丹念に歴史資料を調べ緻密に歴史を描いた著書が「クアトロ・ラガッツィ」だった。著者は西洋美術専門の日本人でありながらイタリア語に堪能で、日本側の記録だけでなく少年たちが訪れたヴァチカン市国に残されている現地側の記録も紐解いている。日欧それぞれの立場から歴史を紐解く貴重な一冊だと思った。著者は60歳の時、大学を1年間休職し、「東アジアへのキリスト教布教についての第1資料」を探しにローマを訪れ、ヴァチカンの大学図書館で天正少年使節についての多くの文書に出会う。更に5年後の大学退官後、再びローマを訪れ、都合7年がかりで本書を上梓した。小説というより論文といった方が適当だと思った読み物だった。世界史軸から観た中世日本の様子が具体的に描かれていて、非常に読み応えがあった。特に、戦国武将の描写が驚くほど面白い。遣欧少年使節がヨーロッパへ旅立つまでは信長が天下を取る(取った)過程で、彼が世界を観ていたことがほぼ証明されている。著者は、この力作を上肢して4年後、燃え尽きたかのように鬼籍に入った.

フランシスコ・ザビエルが来日した(1549年)から3年後、27歳のポルトガル人船長で医師ルイス・デ・アルメイダが貿易で儲けようと来日したところから始まる。彼はイエズス会に入り、約30年間滞在して日本で亡くなった。16世紀の大航海時代、キリスト教の世界布教に伴い、色々な国籍の宣教師が日本にもやって来た。戦国時代の時代背景や布教の状況を、資料を引用しながら詳しく解説。天正遣欧使節の少年たちが登場するのは上巻の430ページで、日本で布教が成功した絶頂期だった。イエズス会の宣教師たちが日本人や日本の風習や生活様式をどう感じたかを綴った手紙も興味深い。戦国時代の日本とヨーロッパの出会いが、生涯ヨーロッパに触れ続けた日本人の研究者という視点で深く描かれている。宣教師という日本最初の外国人来訪者(特に西欧人)が日本をどう観察し、ファン(信者)を増やし、どこで失敗したかが見えてくる。原田マハの「風神雷神」以来の興味を深堀りできた本だった。

本のタイトルから想起される煌めく天正使節団の記録とは一線を画し、戦国時代が終焉する時代の日本と当時日本が名付けた南蛮の2国ポルトガルとスペインが興って世界帝国を築いていく時期のヨーロッパを綿密に綴った日本のキリスト教布教史だ。偏見ではあろうが、僕は、ポルトガル・スペイン両国はキリスト教布教を先兵として布教する国々をキリスト教シンパにしながら、並行して軍事的・政治的に征服して植民地化する戦略を遂行するのが、中南米で成功したように、彼らの常套手段ではないかという先入観を持っていた。両国やカソリックの国イタリアには植民地化の意図はなく、少年使節の遣欧に中心的な役割を果たした開明的なイエズス会のヴァリニャーノはヨーロッパとは異なる高度な文化を日本に認め、時のキリシタン大名に日本人信徒をヨーロッパに派遣する計画を持ちかける。イエズス会は布教が征服者的で王国本位、ポルトガルやスペインに傾き過ぎることを抑制する為、イタリア人のヴァリニャーノをアジアの「巡察師」に任命。ルネサンス・イタリア人の巡察師ヴァリニャーノは日本人に古代ギリシャ、ローマ的な知性を観る。セミナリオや印刷所まで作り「初穂」となる少年たちを教皇に引き合わせたいと考えた。少年使節団派遣を実現させた最大の功労者の一人だ。

宣教師ザビエルが日本に来てから僅か10年で人口の3%を超える30万の信者を得た事実や、宣教師たちは予算が限られる中で大名をターゲットにして貿易による利益をちらつかせながら効率的に信者を増やしたこと、4人の少年は生まれながらに洗礼を受けて改宗していない「初穂」(はつほ)であったことも選抜の条件であったこと、日本での布教の成果として4人の家柄も重要であったこと、何と2年以上要してヨーロッパ最初の国ポルトガルに着いたことなど大変興味深い。

鎖国、キリスト教禁教前の世界史上に一瞬の光彩を放った四人の日本人少年使節の運命と8年に及ぶヨーロッパ往復の航海と滞欧の様子を描くと同時に、少年使節が派遣されるに至った時代背景を、宗教を絡めた覇権争いの最中のイエズス会の布教活動を中心に綴る巡察師ヴァリニャーノの奮闘、信長の絶頂期が日本キリスト教の絶頂期、そして布教の成果を立証し資金を獲得する為、次代を担う邦人司祭育成を目的として少年使節を派遣するに至った背景など、イタリアで膨大な原資料を渉猟し実在感ある人物像を描いている。

上巻570ページで漸くスペインに到着。日本の長崎を発って(1582年2月)、2年半後の1584年8リスボン到着、ローマにて1585年3月ローマ教皇に謁見。1585年6月ローマを出発、1586年4月リスボンを出港、帰路に就く。マカオやゴヤに長く滞在、1590年長崎に帰還。秀吉1587年に伴天連追放令を発布。

二年の歳月を経てヨーロッパに達したラテン語を話す東洋の聡明な四人の少年は、スペイン、イタリア各地で歓待され、教皇グレゴリオ十三世との謁見を果たす。しかし、栄光と共に帰国した彼らを待ち受けていたのは、使節を派遣した権力者たちの死とキリシタンへの未曽有の迫害であった。日本を発った1582年2月以降、帰国する1590年までの期間には、「本能寺の変」で時の権力者信長の死、秀吉への権力移行、秀吉による伴天連追放令発布、1591年4人はイエズス会に入会、1597年秀吉。宣教師と信者の死刑を命ずる、その年秀吉没、1600年関ケ原の合戦、1603年徳川家康、征夷大将軍に任ぜられ江戸に幕府を開く・・・など巨大な歴史の波に翻弄されながら鮮烈に生きた少年たちを通して、日本の姿を浮き彫りにした。

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伊東マンショ:使節団の首席正使。大友宗麟の名代として選ばれる。日向国(現宮崎県西都市)出身。帰国後1591年、京都聚楽第で秀吉と謁見。仕官を勧められるも司祭になるため断った。その後、司祭への道を進むため、天草のコレジョ(聖職者育成の神学校)で勉学、イエズス会に入会、1601年マカオのコレジョに移る。この時点で千々石ミゲルは退会。1608年、原マルチノ、中浦ジュリアンと共に司祭に叙階された。その後、豊前小倉(安田の出身地)を拠点に活動したが、領主細川忠興によって追放され、中津へ、更に追われて長崎へ移った。長崎のコレジョで教えていたが1612年、病没。享年43。

千々石(ちぢわ)ミゲル: 肥前国窯蓋城(かまぶたじょう)- 現長崎県雲仙市 ― 領主の子。肥前国領主・大村純前の甥。天正遣欧使節の派遣された4人の少年たちの中で唯一棄教した。巡察師、ヴァリニャーノは既にキリシタン大名であった大村氏と有馬氏に接近し、カソリック総本山のあるローマに使節団を送りたい旨提案。ミゲルも4人の中の一人として選ばれ渡欧。帰国後、コレジョでの勉学に勤しんだが、ヨーロッパ見聞の際にキリスト教徒による奴隷制度に不快感を表明するなど、キリスト教への疑問を隠さない様子がみられた。1601年、棄教を宣言し、イエズス会から除名処分を受ける。同時に洗礼名ミゲルを棄てる。仕えた主君に対して「日本に於けるキリスト教布教は異国の侵入を目的としたものである」と述べ、主君の棄教を後押しした。遣欧使節団4人の中でミゲルが反キリストに転じたことは、宣教師たちの威信を失わせた。晩年については謎だが、藩内で恨みを買い、弔われたとの見方がある。

中浦ジュリアン:肥前国彼杵郡(現・長崎県西海市)出身。肥前国中浦城の城主の息子。予定されていたローマ教皇謁見前に三日熱(マラリア)に罹り、高熱で宿舎に病臥。教皇との謁見は3人で行われたが、教皇はジュリアン独りと謁見し、優しく病気のジュリアンを労わった。教皇はこの謁見から一週間後、病を発症し、半月後に帰天した。帰国後、20長期間に亘りキリシタン禁教と弾圧下で潜伏して布教活動をしていた中浦神父はついに小倉で捕縛され、長崎に送られて拷問により棄教を迫られたが、頑なに拒否した。中浦は、ローマ滞在中に受けた教皇側の温かい対応ともてなしが彼のキリスト教布教の決意を強固なものにし、教皇やキリスト教に対して深い崇敬の念を抱くことになり、後の殉教に至ったとされている。帰国後、コレジョや教会に務め、1601年に彼と伊東マンショの2人はマカオに3年間留学した後、長崎のセミナリオで教える。1608年、ジュリアン、マンショ、原マルチノの3人は司祭に叙階された。1614年、多数の宣教師や信徒がマカオとマニラに追放され、原マルチノはマカオに流刑された。ジュリアンは禁教令に叛いて国内に残り、潜伏して布教を続けた。天草、肥後、筑前、筑後や豊前でも布教を行った。小倉で捕縛され、長崎に送られ棄教を拒絶した後、穴吊るしの刑という惨刑に処せられた。享年65。殉教から374年が経った2007年、ローマ教皇ベネディクト16世は、ジュリアンを福者に列することを発表され、2008年長崎で他の187人と共に列福式が行われた。4人の遣欧使節の一員で福者に列福したのはジュリアンだけである。

原マルチノ:使節団の副使。少年4人の中では最年少。語学に長けローマからの帰途のゴアでラテン語の演説を行い有名になる。肥前国、現・長崎県波佐見市出身。両親ともキリシタンで使節団の一員に選ばれた。1614年。江戸幕府によるキリシタン追放令を受け、マカオに出国。それまでの時期、日本人司祭では最も知られた存在だった。1629年死去。享年60。遺骸はマカオ大聖堂の地下に生涯の師ヴァリニャーノと共に葬られている。

 

エーガ愛好会 (327)  荒野のガンマン  (34 小泉幾多郎)

「荒野のガンマン1961」は、西部劇に新生面を開き、独特の映像美を演出してきたサム・ペキンパー監督の第一作。主演にジョン・フォード監督が、「リオ・グランデの砦」等に女優として好んで使ってからほぼ10年後のモーリン・オハラ、まだまだ魅力たっぷり、しかもイントロを見て驚いた。字幕と共に、女性の歌が聞こえる・・・愛の夢を見る私、でも夜明けが訪れる。愛を失った私が目覚めるだけ・・・まさかモーリン・オハラの声とは思われない素晴らしい声だったが、song by Marlin Skiles & Chales R Fitzsimons sung by Maureen O’haraとクレジットされていた.

西部劇たる男の主人公は、名前からして常識的な西部劇世界を拒否する逆転世界を想像させるイエロー・レッグという名前の男で、ブライアン・キースが扮する。この男南北戦争で右肩に弾を受けたままにしておいたため、右手が思うように動かず拳銃もライフルもうまく撃てない。しかもかって頭の皮を剥がされそうになり、額に傷が醜く残っており、いつも帽子を脱がずにいる。酒場で助けた首吊り損ないの中年ガンマンのターク(チル・ウイルス)、その相棒ビリー(スティーヴ・コクラン)と偶々教会に来ていたキット(モーリン・オハラ)が知り合うことに。タークはイエロー・ドッグが、額に傷をつけられ、ずっと狙っていた男で、長い間先住民の奴隷を買い集め自分の軍隊を作り南部の独立国再建を妄想する男。キットは結婚してすぐに夫を亡くした子持ちの未亡人でダンスホールで働いていて、町の女性からは不貞の子を産んだと陰口を叩かれている。

男3人は食うことの一番の手軽な方策とばかり、銀行強盗を計画するも、其処で覆面した銀行強盗に直面し、銃撃戦となり、思いもかけないイエローの正義の銃弾は、利き腕が動かず、銀行強盗ではなく、近くにいたキットの息子を射殺してしまったのだ。流石に責任を感じたイエローに対し、キットは子供の遺体は夫の墓のある現在はゴーストタウンになっているシリンゴという場所に埋めると主張する。シリンゴまでにはアパッチの出没する危険な地点もあるが、イエローは、経緯から決死行をせざるを得なくなり、キットに横恋慕しているビリーと仲間の
タークも同行するも、ビリーのキットに対する暴力的扱いによる対立から別れ、イエローとキットの二人だけの旅へ。途中、アパッチの酔いどれの大騒ぎ等もありながら、シリンゴのキットの夫のお墓に辿り着き、無事子供を埋葬する。

子供の遺体だけの運びとは信じないタークとビリーが再びやって来て対決することになるが、信じられないことだが、ビリーはタークに射殺され、そのタークはイエローに素手で倒される。思いがけぬことに、銀行強盗の追手の保安官以下メンバー7人が現れ、タークは逮捕された。イエローは、メンバーの牧師に、キットの子息埋葬の祈祷を依頼する。

最後にモーリン・オハラの歌が鳴り響く・・・軍隊を作るんだ、先住民の奴隷を買い集めて。今は目覚めても寂しい夜明けはない。私の心は満ち足りているか。愛を夢見ていた孤独な私。寂しい夜明けは過去のこと。愛を失った私はもうそこにはいない。

(飯田)この映画は10数年前にも当時の衛星映画劇場で観ていますが、ニューシネマと呼ばれた製作スタイルのサム・ペキンパー初の映画監督作品です。

主演はジャイ大兄のお好きなモーリン・オハラを中心に、ブライアン・キース、スティーブ・コクラン、チル・ウイリスの荒くれ3人男が、いわくありげの役を演じます。全編を流れるソロ・ギターの調べと大きなサボテンの生えた砂漠地帯がメキシコとの国境に近い雰囲気を高めています。

モーリン・オハラはジョン・フォード作品の「わが谷は緑なりき」(1941年)、「リオグランデの砦」(1950年)、「静かなる男」(1952年)、「長い灰色の線」(1955年)、「荒鷲の翼」(1956年)と全ての作品を私も好きですが、ジョン・フォードを離れてのこの作品「荒野のガンマン」での彼女の評価はどうなのでしょうか? 私は映画のストーリーはあまり好かないですが(特に最愛の幼い息子を殺された母親が、その射手を好きになるという展開などに無理があり)、モーリン・オハラ自身の容姿や演技は十分良かったと思っています。

(編集子)自分の初恋―というのか、例えば小学校で隣のハナコちゃんて、いたよな、位の昔をふと思い出して、わざわざ昔の場所を尋ねてみて、そのハナコがなんと泣きわめく子供を背中に背負ってとぼとぼ歩いているの見つける、なんて話はよくある。エーガの例ならばさしずめ 舞踏会の手帖、だろうか。飯田から(モーリン・オハラだぜ)とわざわざ知らせてもらって、録画しておいたものを見た。率直な感想は、これは俺にとっては ”舞踏会の手帖” だった。結論を言えば、オハラはやはりフォード作品でなければならない、ということだった。

飯田解説によればこれはかの アメリカンニューシネマに数えられる作品なのだという。この一連の作品のテーマや製作技法などというものについて語る資格は僕にはない。またそのカテゴリだとされる作品についても、見たのは限られている。そのなかで、本稿にも何回か書いたが、僕に衝撃を与えたのは バニシングポイント だった。ニューシネマ群の共通のテーマが(当時の)現代アメリカ文化に対する反抗であり、その結果がもたらす不条理感である、とすれば、この作品のもつ雰囲気は絶対的なものとして記憶にある。

それではこの作品(いつもはわき役でしか見ないブライアン・キースを見て驚いた)が、このニューシネマ的な感覚で作られていたのか、と言えばそうは思えない。バニシングポイントの衝撃的なラスト、絶対的な死に向かって夕陽の中を爆走するジーン・バリーの顔に浮かんでいた微笑、そういう衝撃もない。西部劇が持つべき要素(と僕は思うのだが)である善悪を超越した爽快感、もなかったし、娯楽性も感じなかった。

どうも今朝は寝起きがよくなかった気がする。飯田兄、申し訳ない。