「クアトロ・ラガッツィ」Quattro Ragazzi (イタリア語で4人の少年の意) は若桑みどり著、2003年集英社単行本、2008年文庫本(上・下)が刊行され、文庫本を読んだ。2巻で1,000ページを優に超す読みでがある歴史小説だ。副題「天正少年使節と世界帝国」が付記されている。
著者は西洋美術史が専門の日本人で、20代の時イタリア政府給費留学生としてローマ大学に留学。帰国後東京芸術大(彼女の出身校)教授を経て、千葉大学教授を勤めた美術史学者。彼女の他の著書は読んでいないが、著書リストを観ると、中野京子や原田マハが描いたテーマと類似しているが、いかにも学者が丹念に歴史資料を調べ緻密に歴史を描いた著書が「クアトロ・ラガッツィ」だった。著者は西洋美術専門の日本人でありながらイタリア語に堪能で、日本側の記録だけでなく少年たちが訪れたヴァチカン市国に残されている現地側の記録も紐解いている。日欧それぞれの立場から歴史を紐解く貴重な一冊だと思った。著者は60歳の時、大学を1年間休職し、「東アジアへのキリスト教布教についての第1資料」を探しにローマを訪れ、ヴァチカンの大学図書館で天正少年使節についての多くの文書に出会う。更に5年後の大学退官後、再びローマを訪れ、都合7年がかりで本書を上梓した。小説というより論文といった方が適当だと思った読み物だった。世界史軸から観た中世日本の様子が具体的に描かれていて、非常に読み応えがあった。特に、戦国武将の描写が驚くほど面白い。遣欧少年使節がヨーロッパへ旅立つまでは信長が天下を取る(取った)過程で、彼が世界を観ていたことがほぼ証明されている。著者は、この力作を上肢して4年後、燃え尽きたかのように鬼籍に入った.
フランシスコ・ザビエルが来日した(1549年)から3年後、27歳のポルトガル人船長で医師ルイス・デ・アルメイダが貿易で儲けようと来日したところから始まる。彼はイエズス会に入り、約30年間滞在して日本で亡くなった。16世紀の大航海時代、キリスト教の世界布教に伴い、色々な国籍の宣教師が日本にもやって来た。戦国時代の時代背景や布教の状況を、資料を引用しながら詳しく解説。天正遣欧使節の少年たちが登場するのは上巻の430ページで、日本で布教が成功した絶頂期だった。イエズス会の宣教師たちが日本人や日本の風習や生活様式をどう感じたかを綴った手紙も興味深い。戦国時代の日本とヨーロッパの出会いが、生涯ヨーロッパに触れ続けた日本人の研究者という視点で深く描かれている。宣教師という日本最初の外国人来訪者(特に西欧人)が日本をどう観察し、ファン(信者)を増やし、どこで失敗したかが見えてくる。原田マハの「風神雷神」以来の興味を深堀りできた本だった。
本のタイトルから想起される煌めく天正使節団の記録とは一線を画し、戦国時代が終焉する時代の日本と当時日本が名付けた南蛮の2国ポルトガルとスペインが興って世界帝国を築いていく時期のヨーロッパを綿密に綴った日本のキリスト教布教史だ。偏見ではあろうが、僕は、ポルトガル・スペイン両国はキリスト教布教を先兵として布教する国々をキリスト教シンパにしながら、並行して軍事的・政治的に征服して植民地化する戦略を遂行するのが、中南米で成功したように、彼らの常套手段ではないかという先入観を持っていた。両国やカソリックの国イタリアには植民地化の意図はなく、少年使節の遣欧に中心的な役割を果たした開明的なイエズス会のヴァリニャーノはヨーロッパとは異なる高度な文化を日本に認め、時のキリシタン大名に日本人信徒をヨーロッパに派遣する計画を持ちかける。イエズス会は布教が征服者的で王国本位、ポルトガルやスペインに傾き過ぎることを抑制する為、イタリア人のヴァリニャーノをアジアの「巡察師」に任命。ルネサンス・イタリア人の巡察師ヴァリニャーノは日本人に古代ギリシャ、ローマ的な知性を観る。セミナリオや印刷所まで作り「初穂」となる少年たちを教皇に引き合わせたいと考えた。少年使節団派遣を実現させた最大の功労者の一人だ。
宣教師ザビエルが日本に来てから僅か10年で人口の3%を超える30万の信者を得た事実や、宣教師たちは予算が限られる中で大名をターゲットにして貿易による利益をちらつかせながら効率的に信者を増やしたこと、4人の少年は生まれながらに洗礼を受けて改宗していない「初穂」(はつほ)であったことも選抜の条件であったこと、日本での布教の成果として4人の家柄も重要であったこと、何と2年以上要してヨーロッパ最初の国ポルトガルに着いたことなど大変興味深い。
鎖国、キリスト教禁教前の世界史上に一瞬の光彩を放った四人の日本人少年使節の運命と8年に及ぶヨーロッパ往復の航海と滞欧の様子を描くと同時に、少年使節が派遣されるに至った時代背景を、宗教を絡めた覇権争いの最中のイエズス会の布教活動を中心に綴る巡察師ヴァリニャーノの奮闘、信長の絶頂期が日本キリスト教の絶頂期、そして布教の成果を立証し資金を獲得する為、次代を担う邦人司祭育成を目的として少年使節を派遣するに至った背景など、イタリアで膨大な原資料を渉猟し実在感ある人物像を描いている。
上巻570ページで漸くスペインに到着。日本の長崎を発って(1582年2月)、2年半後の1584年8リスボン到着、ローマにて1585年3月ローマ教皇に謁見。1585年6月ローマを出発、1586年4月リスボンを出港、帰路に就く。マカオやゴヤに長く滞在、1590年長崎に帰還。秀吉1587年に伴天連追放令を発布。
二年の歳月を経てヨーロッパに達したラテン語を話す東洋の聡明な四人の少年は、スペイン、イタリア各地で歓待され、教皇グレゴリオ十三世との謁見を果たす。しかし、栄光と共に帰国した彼らを待ち受けていたのは、使節を派遣した権力者たちの死とキリシタンへの未曽有の迫害であった。日本を発った1582年2月以降、帰国する1590年までの期間には、「本能寺の変」で時の権力者信長の死、秀吉への権力移行、秀吉による伴天連追放令発布、1591年4人はイエズス会に入会、1597年秀吉。宣教師と信者の死刑を命ずる、その年秀吉没、1600年関ケ原の合戦、1603年徳川家康、征夷大将軍に任ぜられ江戸に幕府を開く・・・など巨大な歴史の波に翻弄されながら鮮烈に生きた少年たちを通して、日本の姿を浮き彫りにした。
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伊東マンショ:使節団の首席正使。大友宗麟の名代として選ばれる。日向国(現宮崎県西都市)出身。帰国後1591年、京都聚楽第で秀吉と謁見。仕官を勧められるも司祭になるため断った。その後、司祭への道を進むため、天草のコレジョ(聖職者育成の神学校)で勉学、イエズス会に入会、1601年マカオのコレジョに移る。この時点で千々石ミゲルは退会。1608年、原マルチノ、中浦ジュリアンと共に司祭に叙階された。その後、豊前小倉(安田の出身地)を拠点に活動したが、領主細川忠興によって追放され、中津へ、更に追われて長崎へ移った。長崎のコレジョで教えていたが1612年、病没。享年43。
千々石(ちぢわ)ミゲル: 肥前国窯蓋城(かまぶたじょう)- 現長崎県雲仙市 ― 領主の子。肥前国領主・大村純前の甥。天正遣欧使節の派遣された4人の少年たちの中で唯一棄教した。巡察師、ヴァリニャーノは既にキリシタン大名であった大村氏と有馬氏に接近し、カソリック総本山のあるローマに使節団を送りたい旨提案。ミゲルも4人の中の一人として選ばれ渡欧。帰国後、コレジョでの勉学に勤しんだが、ヨーロッパ見聞の際にキリスト教徒による奴隷制度に不快感を表明するなど、キリスト教への疑問を隠さない様子がみられた。1601年、棄教を宣言し、イエズス会から除名処分を受ける。同時に洗礼名ミゲルを棄てる。仕えた主君に対して「日本に於けるキリスト教布教は異国の侵入を目的としたものである」と述べ、主君の棄教を後押しした。遣欧使節団4人の中でミゲルが反キリストに転じたことは、宣教師たちの威信を失わせた。晩年については謎だが、藩内で恨みを買い、弔われたとの見方がある。
中浦ジュリアン:肥前国彼杵郡(現・長崎県西海市)出身。肥前国中浦城の城主の息子。予定されていたローマ教皇謁見前に三日熱(マラリア)に罹り、高熱で宿舎に病臥。教皇との謁見は3人で行われたが、教皇はジュリアン独りと謁見し、優しく病気のジュリアンを労わった。教皇はこの謁見から一週間後、病を発症し、半月後に帰天した。帰国後、20長期間に亘りキリシタン禁教と弾圧下で潜伏して布教活動をしていた中浦神父はついに小倉で捕縛され、長崎に送られて拷問により棄教を迫られたが、頑なに拒否した。中浦は、ローマ滞在中に受けた教皇側の温かい対応ともてなしが彼のキリスト教布教の決意を強固なものにし、教皇やキリスト教に対して深い崇敬の念を抱くことになり、後の殉教に至ったとされている。帰国後、コレジョや教会に務め、1601年に彼と伊東マンショの2人はマカオに3年間留学した後、長崎のセミナリオで教える。1608年、ジュリアン、マンショ、原マルチノの3人は司祭に叙階された。1614年、多数の宣教師や信徒がマカオとマニラに追放され、原マルチノはマカオに流刑された。ジュリアンは禁教令に叛いて国内に残り、潜伏して布教を続けた。天草、肥後、筑前、筑後や豊前でも布教を行った。小倉で捕縛され、長崎に送られ棄教を拒絶した後、穴吊るしの刑という惨刑に処せられた。享年65。殉教から374年が経った2007年、ローマ教皇ベネディクト16世は、ジュリアンを福者に列することを発表され、2008年長崎で他の187人と共に列福式が行われた。4人の遣欧使節の一員で福者に列福したのはジュリアンだけである。
原マルチノ:使節団の副使。少年4人の中では最年少。語学に長けローマからの帰途のゴアでラテン語の演説を行い有名になる。肥前国、現・長崎県波佐見市出身。両親ともキリシタンで使節団の一員に選ばれた。1614年。江戸幕府によるキリシタン追放令を受け、マカオに出国。それまでの時期、日本人司祭では最も知られた存在だった。1629年死去。享年60。遺骸はマカオ大聖堂の地下に生涯の師ヴァリニャーノと共に葬られている。
了