テレビの再放送ものを見直した。同じ題名の現代もの、トム・クルーズがシリーズキャラクタのリーチヤーを演じた作品はいたって簡単明瞭な, リー・チャイルド初期の作品の映画化で、原作を読んでいたこともあって気楽に楽しめたのだが、こちらの アウトロー にはちょっと違和感があった。
冒頭、主人公のイーストウッドが家族を殺され、家を焼かれるところから始まり、悪漢たちが赤いゲートルを履いている集団であることが示される。その後、そのあとのいくつかの場面を通じて、時代が南北戦争終結寸前の混乱期だということが観客にわかってきて、赤いゲートルの一味は北軍にあった悪名高いクアントレルゲリラを模したものだろうということも推察できる。復讐心に燃える主人公が独力で拳銃の腕を磨き、北軍に身を投じるが敗戦処理の過程で(なぜこうなったのかが説明されないのも不満)起きた騒動で兵士と戦い、多くをガトリング銃を駆使して殺し、一転、追われる身になる。その後はいくつかのエピソードが描かれ、また一人になった主人公が結果として凄腕のガンマンとして今に伝えられている、というのがあらすじだ。
同じような筋立ての作品は過去にもあったが、それらとくらべてこれは製作者(イーストウッドなのだが)の見方というか発想ばかりが空転しているようで(彼の活躍時期がいわゆるニューシネマ勃興期だたことも関係しているかもしれない)、結果として見終わっても(だからなんなんだ)という感じが残っていて釈然としないし、もっと単純に言えばセーブゲキの持ち味の爽快感とか没入感がない、中途半端な出来上がりだと感じた。ま、そういうレディメードの感想を求めないのが二ューシネマなる作品群が求める成果なんだろうから、それはそれでいい、ともいえるんだが。
ところがグーグルで調べてみて驚いたのは、この作品が批評家筋では高く評価され、作曲賞を得ているほか、永久保存すべき作品として遇されているというのだ。曰く、当時の現地に住む人たちの境遇や考えがよく描かれているとか、無法者のもつ寂寥感とか、そういうものの描写がすばらしい、というのが理由らしい。ローハイド時代を経て、西部劇の数々、テレビならダーティハリー、そのほか多くの佳作、例えばグラントリノなんかは特にそうだが、小生ごひいきのクリントさんよ、そうかなあ、というのが率直な感想なんだが。