事務所界隈は25センチ程の積雪となっており、春の大雪となっています。周辺の市道は未だ除雪されておらず悪路となっています。
旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
事務所界隈は25センチ程の積雪となっており、春の大雪となっています。周辺の市道は未だ除雪されておらず悪路となっています。
本来若いころのアサ会は良く食べ、良く飲み、良く登る だけのただ元気だけの総勢30名近い年代でしたが 今や、10名に満たない仲間で、集まっております。
昨年は春のお花見、夏の暑気払い、冬の忘年会 と3回会合を開催しましたが、今年は春の会合を4月~5月に開催
奥様のご同伴のお陰で花は自前で済みますから、[すべて世は事も
(編集子)34年卒の先輩方は我々入部の時は活動の主軸、”鬼の三年生” だった。そのパワーで、それまでなかなか前進できなかった山荘建設を見事に成し遂げられた。部生活の中心となった、この山荘の所在地の浅貝部落には一方ならぬ愛情をお持ちで、同期会も韻を踏んで アサ会、と命名されている。
同期会に名前を付ける伝統というか慣習がいつから始まったのかは知らないが、我々が入部した時の4年生はS33年,を漢字読みにして “讃山会”、という優雅な命名。アサ会の次すなわち僕らと一番親しかった34年には女子が一人もいなかった。これをひがんだのか誇りとされたのか不明だが、”野郎会”として有名。われわれは万事百家争鳴、結果、なりゆきを貴ぶ雰囲気で過ごしたので、名前は故美濃島孝俊が最後の五色合宿あけで二日酔いの翌朝、投げやり的に提案した、”ナンカナイ会” に落ち着いた。今となってみると名は体を表すというか、結構みんな気に入っているようだ。
37年組は賛山会にならって、37を訓読みにし、皆、という意味をあらわす みなと読み、みんな若い=みなわ会、とこれはいい発想で命名。以下、高みへ登り続けようという意気をしめした登望会、仲間の絆を、という意味での 絆会、などなど、それぞれの代のあり方にふさわしい名称が続いている。野郎会、で思い出したが、世の中の有為転変というかなんというか、今年の現役は(僕らの時代の用語でいえば)総務、山荘という要職は二人とも女性で、はたまた理系の学生というではないか(女子がいない、という反発か諦観か、男子だけに終わった50年はこのあたりの事情には多くを語らない。一度笹田の主張も聞いてみたいと思うのだが)。
僕らの時代、大勢を占めていた法文系の間では就職になると(3年間の授業でとった”A”の数)、なんかが話題の中心になったもので(河合をはじめ40年卒の連中が一番乗り気になる思い出話だ)、勉学重視の四谷(医学部)や小金井(工学部)の部員は影が薄かった。
世の中は三日見ぬ間の桜かな、であろうか。そとは雪、そうはいかぬ、か。
朝飯前に30分くらい歩くのを日課にしているのだが、今朝は先日、本稿に書いてくれた飯田君の梅の話があって、今まで前を通っても気に留めていなかった、ある家の梅の老木に気をひかれた。僕の家のある地域は古くから金子と呼ばれていて、江戸時代には結構栄えていたところらしい。京王電鉄が不動産に事業を拡げた初期のころ、このあたりを住宅街として整理し、駅名も現在のつつじが丘、と変えた歴史がある。この家はその中でもわりに最近開発されたエリアなのだが、昔からあったこの老木はそのまま残るようなゾーニングをしたのだろう。樹齢がどのくらいなのか、素人にはわからないが、ひょっとしたら江戸の空の下でもあでやかに咲いていたのかもしれない。わけもなく、なんとなくうれしくなってしまった。
この家を過ぎてすぐ、道は甲州街道に出る。家へ帰るにはこれを右折するのだが、そこを数十メートルあるくと銀杏の大木がある。秋には実に見事な黄金色になる古木で、調布市指定の記念樹になっていた。それがほんの少し前、無残に枝が切り払われてしまった。この樹は往時の金子集落に,何代かにわたって酒の販売店を営んでいる旧家の庭先にある。店番をしている奥さんにきいてみたところ、周囲で落ち葉が大変だというクレームがあって、市が枝を払ってしまったのだというのだが、市が保存を申し出て、天然記念物に指定するまでのことをして、傍には 金子の大銀杏、という看板までたてていた樹なのだから、まさかそれだけの理由ではあるまい。なにか専門的な理由があるのだろうし、やがてまた、もとの、いわば江戸時代から続いてきた見事な姿になるだろう。しかしどう考えても僕の目の黒い間に、あの見事な姿が戻ることはあり得ない。
この樹を挟んで甲州街道に面したマンションに、先週3歳をむかえたひ孫が住んでいる。彼が物心ついて、あの樹はなあに、と尋ねる日も遠くはあるまい。なんだか、歴史の一コマの作られ方を体験した、というか、妙な気分になってしまった早春の朝だった。
日本では、1958年から、クレイトン・ムーア主演で愛馬シルバ
しかしこの2013年制作の映画は最低の映画を表彰するという34回(20
物語は、サンフランシスコの遊園地で、The Noble Savage in his Natural
Habitatと銘記されたトント(ジョニー・デップ)の銅像が
中間では、やや中弛みの感じもしたが、西部劇に求められる渓谷でで走る、レベッカが下に落とされると其処に馬が。梯子をつかって列車に飛び
主人公ジョンは当初、相手を直接殺すことに躊躇していたが、徐々に、法を守るか
(編集子)曜日まで覚えていないが、サンセット77、拳銃銃無宿、ライフルマン、ララミー牧場、ペリーメイスン、コンバット、ローハイド、などなどに午後8時になればV9継続中のジャイアンツ。いい時代にテレビ全盛を迎えたものだった。付け加えれば巨人戦中継は ”解説 中澤不二雄、実況越智正典” と決まっていたものだ。
そういう時代
のレギュラー番組の一つが ”ウイリアム・テル序曲にのったローンレンジャー”、の話だ。歳月、人を待たず。
ここのところ、テレビはもっぱら、あの頃 プラスワン、位の時代の刑事ドラマに決め打ちしている。すでに境をことにした名優たちの若いころが現代に見えてきて、ふっと気が付いている自分がいる。これが洋画だとそういう感情はわかないのが不思議だ。
厳しかった今冬の寒さから一転して温暖な陽気がここ数日続くので、今日は午後から観梅に出かけました。こちら(阪神間)で近年は観梅と言えば大阪城公園、万博記念公園や自宅近くでは中山観音寺梅林、甲東園梅林等が有名ですが、今日は神戸市東灘区岡本にある「岡本公園梅林」に行きました。
昔は“梅は岡本、桜は吉野、みかん紀ノ國、栗丹波”と言われた時代もあった由ですが、傾斜地の宅地開発かで、昔の梅林は影が薄くなり1980年代から植林を重ねて復活を試みている途上で若い樹木が多くスケール感には欠けますが、気持ちよく鑑賞出来ました。
(菅原)見事なもんじゃないですか。匂いまで漂って来る気配です。私事になりますが、亡くなったカミサンの実家が、一時、岡本にあったので、可なり頻繁に訪ねたことがありますが、こんな見事な梅林があったなんて知りませんでした。眼福の極み。
良く読んだら、植林は1980年代の話しだとか。小生が足繫く通っていたのは、1960/70年代だから、その頃は、話題にも上らないほどの状態だったんでしょう。ちなみに、カミサンの産地は三宮です。そう言えば、当時は、夜行で行って、夜行で帰ってきたな。
(飯田)ご存じのように阪急「岡本」駅とJR「摂津本山」駅は、駅名が全く違うのに、阪神間(大阪―神戸の間)で最も駅と駅の距離が接近していて、徒歩で約7~8分ですが、結構しゃれた店がちらほらあるので散策にも好都合ですね。
長らく同期幹事だった翠川幹夫が敷いたレールに乗って同期会の行事を続けてきたが、厳寒酷暑の外出が難しくなってきつつあるので、今年から新年会を 春の集まりとして3月に、夏の集まりを8月から秋に変更することにし、今回は第一回の 春の集まり を挙行した。
参加人数は18名、夫人2人の合計20人、と相変わらずの出席率を確保した。出席者は 安東夫妻、浅海昭、飯田茂子、遠藤夫士男、深谷勝、大塚文雄、岡秀雄、阪田清、鮫島弘吉郎、高島次郎、高橋良子、田中新弥、鶴岡禎子、中司恭、中司八恵子、深谷勝、堀野達男、前田信雄、吉牟田正稔夫妻。
カメラ担当の鮫島がカメラを忘れてきた。このご時世だからスマホならだれでも代役が務まるのだが、だれもそれじゃーと名乗り出るものなく、はたまた気にせず、ア、ソー、サメだからしやーねーか、で済んだ。このあたりがナンカナイ会の性格というか雰囲気というか、である。
画面に締まりがないので、会場としたレストランの写真を使わせてもらう。これで2回目だが、雰囲気、料理とも全員絶賛。秋もまたご厄介になりそうだ。個人的にも推奨、ギンザの老舗、いい店である。
(44 安田)20名のご参集とは素晴らしい!お元気な方が大
拝見した写真から察するvenueは風格といい落ち着いた品格あ
銀座の老舗、しかと建物に刻まれた
「エルダー兄弟」を再見しました。舞台となっているテキサス州クリアウオーターの街を中心に、それ
始めに出てくるエルダー兄弟の母親ケティの荒野での葬儀のシーン
全編の略、四分の三は4人のエルダー兄弟が母親が手放した牧場
音楽は小泉さんも述べられているようにベテランのエルマー・バー
もう一つ、この映画の俳優はエルダー兄弟の長男ジョン(ジョン・
保安官ビリー(ポール・フィックス)、下宿屋の娘メアリー(マーパーはジェームス・ディーンの第2作「理由なき
(編集子)デニス・ホッパーは西部劇にも助演の形でしばしば見かける顔であった。役どころは決まっていて、このエルダー兄弟でも、あるいは最近再放映されたOK牧場の決闘でも、心ならずも悪役から抜け切れずにいて非業の最後に見舞われる、という難しい役を演じている。フォード一家、でいえばアンディ・ディヴァインというようにキャスティングをみただけで役どころがわかるような、なじみの顔であった。ウイキペディアはその紹介に ”アメリカの俳優、映画監督、映画プロデューサー、芸術家””と書いている。
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クリアウオーターという場所は?ウイキペディアにいわく:
The community was named for the clear waters in the nearby Cypress Creek. White settlers arrived in the 1860s, but the community itself did not appear until the next decade. There was a sawmill, a gin, a store, and a church in the community in the 1930s. Its population was 25 in 1933, which grew to 50 by 1945. The community had a church, a cemetery, and several scattered homes in 1985.[2]
カントリーソングのなかにもこの名前の知られた歌があって、たしかサンズ・オブ・パイオニアーズ のきれいなハーモニーで聞いた記憶がある。ただ、この場合 clear water は普通名詞であって、地名ではないのだが。
父親が前年に殺され、今年母親が亡くなり、4人の兄弟が、葬儀に
製作時4人
冒頭河川に沿って走る蒸気機関車に聴きなれた音楽が伴奏する。音
葬儀に帰る長男ジョンを駅に出迎える3人の兄弟、「真昼の決闘」
ヘイスティングスとエルダー兄弟の戦いは、最初
以上概要だが、久しぶりに肩の凝らない痛快西部劇と言っても良い
東京空襲の一般民間人の被害全体についてみると、東京の区部が被
https://tokyo-sensai.net/
東京都慰霊堂は東京都墨田区横網の横網町公園内にある慰霊施設。
住吉の角にも暫くの間戦争慰霊館を作る計画が出ていましたが何時
しかし、80年前の未明に僅か2時間の間にこの下町界隈のが紅蓮
錦糸公園は戦時中は空襲からの避難所としての役割や戦災で命を落
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空襲当時の風景と今の風景。 同じ碑が在るので同じ場所だと思います。左の高いビルが当家です
(以下ウイキペディアの解説)
東京空襲の一般民間人の被害全体についてみると、東京の区部が被害を受けた空襲は60回を越えます。確認された死者の遺体数は約10万5400人になります。負傷者は約15万人で、罹災者は約300万人、罹災住宅戸数は約70万戸です。焼失面積は約140㎢で、区部の市街地の約50%、区部面積の約25%に当たります。三多摩や伊豆諸島・小笠原を含む東京都全体では、空襲は100回を越えています。東京大空襲は、第二次世界大戦の連合国による植民地・占領地も含む日本空襲の一環です。東京への本格的な空襲は1945年3月10日の下町への大空襲を境に区分されます。すでにアメリカ軍は、都市の中で、住宅が密集し人口密度が高い市街地を、焼夷地区1号に指定していました。東京は当時の深川区の北部と本所区・浅草区・日本橋区の大部分などが焼夷地区1号でした。そこをまず焼夷弾で焼き払う絨毯爆撃が、この日から始まりました。焼夷地区1号の目標地域には、軍施設や軍需工場などの明確な軍事目標はほとんどなく、アメリカ軍の目標となった大きな軍需工場は精工舎や大日本機械業平工場のみで、築地、神田、江東などの市場、東京、上野、両国の駅、総武線隅田川鉄橋などが実際の目標でした。住民を殺戮し、それによって戦争継続の意思をそぐことが、主な目的でした。また、市街地を焼き払うことで、そこにある小さな軍需工場を焼くことも合わせてねらっていました。アメリカ軍は春一番のような大風の吹く3月に焼き払い空襲を開始することを目指して、日本向けの油脂焼夷弾を開発し、B29とともに大量生産をしていきました。
3月10日の下町大空襲は夜間に低高度から1665トンに上る大量の焼夷弾を投下した空襲でした。目標地域に4か所の爆撃照準点を設定し、そこにまず大型の50キロ焼夷弾を投下しました。これにより、大火災を起こし、日本側の消火活動をまひさせ、その後小型の油脂焼夷弾を投下する目印となる照明の役割を果たしました。 火災は北風や西風の強風もあって、火災は目標地域をこえて、東や南に広がり、本所区、深川区、城東区の全域、浅草区、神田区、日本橋区の大部分、下谷区東部、荒川区南部、向島区南部、江戸川区の荒川放水路より西の部分など、下町の大部分を焼き尽くしました。罹災家屋は約27万戸、罹災者は約100万人でした。 木造家屋の密集地に大量の焼夷弾が投下され、おりからの強風で、大火災となったこと、国民学校の鉄筋校舎、地下室、公園などの避難所も火災に襲われたこと、川が縦横にあって、安全な避難場所に逃げられなかったこと、空襲警報が遅れ、警報より先に空襲が始まり、奇襲となったこと、踏みとどまって消火しろとの指導が徹底されて、火たたき、バケツリレーのような非科学的な消火手段がとられ、火災を消すことができないで、逃げおくれたことなどの要因が重なり、焼死、窒息死、水死、凍死など、9万5000人を超える方が亡くなりました。