冬支度の富士山です    (グリンビラ総合管理HPより転載)

今朝の冷え込み現在の外気温マイナス2度となっています。日中は寒気も次第に緩んで日差しの温もりを感じれるかもしれません。

一昨日大泉から事務所に帰る際、甲府盆地の明かりの向こうに富士山が見えました。すっかり冬の装いですね. 長坂小荒間地区の富士見坂周辺からの冬姿です。

 

”時代の証言” ー 加山雄三

読売新聞のシリーズ 時代の証言 が今回は加山雄三(池端直亮)だった。上原謙 という戦中から戦後にかけて、日本の映画界を代表する二枚目スターの長男として生まれた彼は小生と同じ昭和12年生まれ。僕は満州からの引き揚げ組だが、帰国した時点ではだいぶ衰弱していたらしく、用心深かった母は帰国後すぐ復学させず、ほぼ半年遅れで小学校へ戻ったので、同い年よりは一学年遅れであった。もしこのことがなければ、彼とは慶応高校で同期だったはずだから、多分知り合いになり、(おい、池端ア)なんていう仲になっていたかもしれない。KWVの1年先輩(つまりひょっとしたら同期だったはずの)の何人かが彼と高校時代に交友があって、その関係で一度、蔵王で彼と遭遇、華麗なスキーをみたこともある。そんな因縁があって、今回の31回にわたった連載は自分の時代の思い出、と思いながら完読した。

映画スターの息子、という環境でいろいろ難しい問題もあったのだろうが、高校入学以前、というより幼少のころからミュージシャンとしての天分に恵まれ、一方ではその後ヨットを自作するまでの才能豊かな少年だったことが書かれている。何かといえば上原謙の息子、とみられることに反発して高校時代は硬派で通そうと髪を五分刈りで通してスキーに熱中し、妙高高原ではパトロールをやっていたし国体にも出場したというから、当時赤倉燕に通い詰めていた僕らとひょっとしたらゲレンデですれ違っていたかもしれないし、レベルの違いはあれ、同じような生活だったのだろうと親しみを覚える。この時代、僕らを引き付けた音楽シーンのことどもは曲名をきくだけでも懐かしい。大学卒業にあたって就職を考えた時点で意に反するような形で俳優になった、いうのも、同じ時期、あるハプニングがきっかけで新聞記者になろうという意思をなくしてサラリーマン生活を選んだ、僕自身のありように引き比べて感ずることが多かった。

俳優、ミュージシャンとしてのサクセスストーリーは今更いうまでもない。ただ、彼の映画の中核として触れられている若大将シリーズは、例によって起きてしまった天邪鬼症状で、一本も見ていないが、椿三十郎の若武者ぶりは素晴らしかったし、”独立愚連隊西へ” での活躍も面白かった。しかしこの新聞コラムを続けて読もうと思い立ったのは、高校同窓、という親近感もさることながら、その第一回目の見出しが100歳まで生きる宣言、となっていたからだ。そしてそのために生活態度をあらためている、という意気込みに賛同したからでもある。先輩にあたるわけだから、池端さん、と言わなければならないのかもしれないが、お互い他人さまから見れば恵まれた環境を生きてきた同時代人として、俺だって100歳まで生きてやらあ、という意気込みにさせてくれた読み物だった。

 

エーガ愛好会 (294)ロイ・ビーンとニューマン  (大学クラスメート 飯田武昭)

小泉さんに感想を詳しく書いて頂いた「ロイ・ビーン」を初見でみました。

私はポール・ニューマンは「傷だらけの栄光」「熱いトタン屋根の」「ハスラー」等々、多数見ていますが、好きな俳優の一人です。この映画「ロイ・ビーン」(1972年)は、絶頂期の彼の代表作明日に向かって撃て!」(1969年)と「スティング」(1973年)の間に製作された作品ですが、それを考えると正直、ちょっとがっかりしました。小泉さんの記述にあるように≪気に入らない者は首を吊るして行くという人間を無邪気さとのギャップを込めながら描いている≫ということでしょうが、見ている本人(私)としてはあまり面白くない。

ジョン・ヒューストンという監督は“鬼才“とあだ名がつけられていたと思いますが、奇をてらって演出する所があり、「キー・ラーゴ」「赤い風車」「白鯨」などは成功した部類ですが、「アフリカの女王」はアカデミー賞を取ったというので、数回見てやっと良さが分ったのが正直な所でした。この映画、薄汚い格好のK.ヘップバーンとH.ボガートが延々とボートで漂流するシーンが続きました。
翻って「ロイ・ビーン」にもポーカー賭博シーンが2~3回出てきますが、ストーリー展開の割には場面転換が少ない感じがしたのとP.ニューマンが女性たちを呼ぶのに娼婦と売女と言い分けて呼んだり(菲才な小生には聴き分けられなかったですが)するシーンも、あまり戴けない感じがしました。

折角のP.ニューマン主演の映画でしたが残念でした。率直な感想です。

(小泉) 飯田さんの言われること、もっともと思うことが多々あります。小生の感想、映画
の内容を紹介するだけの、個々のエピソードをごたごた書きすぎて、感想らしくないものになってしまっているようです。どうやらジョン・ヒューストン監督としては、気に入らない者の首を吊ることの正義感は法律の手先であることへの反発としているかのようです。妻を失ったことへの責任を医師のせいにして、縛り首にしようとして、阻まれ、町を出て行く場面等も、本人は正義の裁きを下せない不条理を感じての行動のようだが、心から納得するところまでは行きません。

(編集子)この人(ニューマン)のことは良く知らないので見当はずれかもしれないが、基本的にセーブ劇向きの人じゃなかったと思うな。スマートすぎるというか、うまく言えないんだが、いつも冷笑的な、都市人特有の感じが抜けない気がする。

京都紅葉   (42 保屋野伸)

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9年ぶりに、京都の紅葉をJRのツアー(往復新幹線とホテル京阪2泊のみ)で楽しんできました。今年の紅葉は夏の猛暑でイマイチとの不安もありましたが、色づきはまあまあだったと思います

名所の、光明寺、真如堂、常寂光寺、北野天満宮のモミジ宛、そしてNo1の永観堂、素晴らしい紅葉でした。また、同期の,京都にマンションを持っているモツ(田中ひろみさん)から紹介された「智積院」が今回のサプライズ。

まっ黄色の大銀杏と真っ赤な楓も見事でしたが、昨年開館した「宝物館」の「長谷川等伯の国宝絵画」に目を奪われました。「雪松図」、「桜図(久蔵)」「楓図」、「松に秋草図」、「松に黄蜀葵図」、「松に立ち葵図」の6点は全て国宝です。

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YHP東京支社 旧友集合の一夕

 

12月3日、YHP  (今の正式社名は日本HPなのだが俺達にはYHPがよく似合うのだ)東京支社時代の悪友が一夕を共にした。苦労話、今だから打ち明ける話、あの娘はきれいだった話など、あっという間に3時間が経過していた。心温まる時間だった。

左から麻生洋、沖本重之、木内和夫、田中一夫、中司、天堀平衛。

 

富士山が見える朝です   (小学校クラスメ―ト 板橋喜佐子)

こんな小さな姿でも富士山には元気が貰えます、電車から見えるとその日は良いことが有るような。

(編集子)大田区立赤松小学校昭和26年卒6年2組。戦後の混乱はようやく一段落したものの、朝鮮動乱が始まり、新たな世界が始まったころ、遊び場はまだ焼け跡で(ここでよく 匂いガラス なんてものを探したもんだ。B29の窓ガラスの破片だ、なんていう説があって見つけると宝物みたいにしたりしたのを思い出す)、今は見かけることもないが ”コッペパン” に甘いだけの安ジャムがのっている、それだけで大ご馳走になり、北千束と大岡山の子供料金が50銭だった、そういう時代だった。GHQ(占領軍司令部)の押しつけ改革にあおられて教育現場にも混乱が絶えなかったあのころ、戦線から帰国し、新時代には新しい教育が必要と信じて教員免許を取ったひとりの熱血青年が僕らのクラスの仲間を育てた。旧態依然の古手教師とは子供たちとの向き合い方をめぐって真っ向から張り合い、噂では殴り合いも辞さなかったという ”会津っぽ” そのものの人、今の世の中にこそ求められる、まさに僕らの 恩師 と呼ぶにふさわしい人だった。その教え子たる僕ら2組はいまだに ”クラス仲間” と誇れる友情を保ち続けている。

そのクラス仲間の一人の筆者は小柄で、すばしこくて、ほがらかで、男の子だったらさしずめ 弾丸小僧なんて呼ばれていたかもしれない少女だった。彼女をはじめとして、お互い米寿をうかがう年齢になっても続いている小学校クラス会、というのは調べたことはないが慶応幼稚舎みたいな特例は別として、あまりないのではないか。春になったらまた誰かが言い出して集まることになるだろう。

 

エーガ愛好会 (293)  ロイ・ビーン (34 小泉幾多郎)

無法の地となった町を自らの手で一変させようとするロイ・ビーンという人物となれば「西部の男1940」でウオルター・ブレナンが扮し、アカデミー助演賞を獲得したことが思い出される。主演のゲーリー・クーパーをも凌駕する主演賞と言っても過言ではない演技だった。今回は、ポール・ニューマンが扮し、これまた西部劇のレクイエムとも言える殆んど非現実的なような世界を男の無骨な愛嬌で演じている。監督はジョン・ヒューストン、まずはハンフリー・ボガートの「黄金1948」等の主演作、他に「白鯨1956」のグレゴリー・ペック、「許されざる者1959」のバート・ランカスター、「荒馬と女1961」のクラークゲーブル等々豪快で野生的で独断的な男臭いヒーロー像を作り上げてきた。この映画でも、神たちに向っての代行者を自称し、気に入らない者は首を吊るして行くという人間を無邪気さとのギャップを込めながら描いている。

冒頭テキサスのペコス川は文明の境界線で、川より西は法も秩序もなく、無法者とガラガラ蛇だけが住む荒野が広がっていた。と説明が入ると、酒場で、銀行を襲ったという流れ者ロイ・ビーンが酒場にいる連中と争いになり、首に縄を付けられ馬に引きずられ痛めつけられる。メキシコ娘マリー・エレーナ(ヴィクトリア・プリンシパル)に助けられ、娘から拳銃を受け取ったビーンは悪党連中に復讐する。そこにラサール牧師(アンソニー・パーキンス)が現れ、死臭が漂うから死体を埋葬するよう説教した。ビーンはその後判事として正義となることを決め、牧師に告げる。ビーンは敬愛する女優リリー・ラングトリー(エヴァ・ガードナー)のポスターを壁に貼り、仕事をこなして行く。

これからは、暴力的なのに、何処か滑稽な個々のエピソードの積み重ねによって構成される。無法者たち5人を保安官に任命し、押収金が大量に集まり、荒野は街に変貌して行く。ビーンは5人の保安官の妻に娼婦を斡旋したりもする。また流れ者グリズリー・アダムズ(ジョン・ヒューストン)から黒熊を譲り受け相棒となったりする。美しく変貌したマリーと熊がビリーと共に暮れなずむ夕陽を背景にたたずむ。「テキサスの黄色いバラ」が下手だがビーンによって唄われ、その後アンディ・ウイリアムスにより「ママレードと蜂蜜より甘い恋」が唄われる。これはアカデミー歌曲賞にノミネートされた。音楽はあのモーリス・ジャールだが、耳慣れた交響的な雰囲気はなく、牧歌的な土俗的なほのぼのとした曲が流れる。その後、白塗りの無法者バッド・ボブ(ステイシー・キーチ)が町で、暴れまわるのを、ビーンは後ろから一撃で仕留めたり、弁護士フランク・ガス(ロディ・マクドナルド)が現れ、ビーンの土地の所有権を主張する。ガスが仕組んだと思われる殺し屋がビーンを殺そうとし、殺し屋はクマと格闘し死亡、熊も撃ち殺される。その後、リリーが公演でサンアントニオにやって来ることになり、正装したビーンは公演会場に向かうもチケット完売で、リリーに会うことが出来ず帰還。妊娠していたマリーは、子供を産んだが、臨終を迎える。遅れて来た医者をビーンは絞首刑にしようとするが、町長に任命されたガスがそれを制し、保安官たちもガスに丸め込まれたことを知りビーンは町から姿を消してし
まう。それから20年、石油王となったガスは自分に盾突く者は撃ち殺し、再び無法の町と化す。ビーンの娘ローズ(ジャクリーン・ビセット)は、ガスによる立ち退きを拒否しているとき、馬に乗る老人ロイ・ビーンを見かける。ビーンは、落ちぶれていた元保安官たちを集め、町の悪を一掃して姿を消すのだった。その後、町は昔に戻り、その地に、美しさの変らないリリーが町を訪れる。リリーは、今ではロイ・ビーン記念館となった、かっての酒場を訪れる。其処でリリーは記念館の館長から 拳銃と一通の手紙を受け取る。「・・・貴方への愛が俺の生きる喜びだ。命ある限りそして死んでも永遠に貴方の崇拝者。 ロイ・ビーン判事」

ポール・ニューマンが西部の実在した人物を演じた映画は他に、ビリー・ザ・キッドの「左利きの拳銃1958」ブッチ・キャシディの「明日に向って撃て1969」バッファロー・ビルの「ビッグ・アメリカン1976」がある。

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「ペコスの西」

テキサス州西部の牧場が全盛期を迎えた時代、その中でも西端に位置するペコス川よりも西の地域は「ペコスの西」(“West of the Pecos”)と呼ばれ、未開の荒々しい地域をさす語とされた。ここから「ダッジの西に法はなく、ペコスの西に神はない」(“There’s no law west of Dodge, and no God west of the Pecos”)といった西部劇の譬えが生まれ、『ロイ・ビーン』、『チザム』といった当地を舞台とした作品にそのような土地柄がみられる。

エーガ愛好会 (292) Before シリーズのこと  (HPOB  小田篤子)

今月観た映画は、女性向きロマンス映画ですが、11月12日のBS映画《Before Sunrise》(恋人までの距離)。そして18日のその9年後の《Before Sunset》。

恋人までの距離(Before Sunrise)’95 (米)
アメリカからの旅行者ジェリー(イーサン·ホーク)は、パリへ帰るセリーヌ(ジュリー·デルピー)と列車で知り合います。気の合った若いふたりはウィーンで途中下車し、昔の体験や家族などお互いの事を話しながら一日観光。そして、又同じホームで逢う約束をして別れます。

②《Before Sunset》
同じ配役での9年後。
ジェリーは作家となり、9年前の出会いの体験を本にし、出版記念のサイン会の為パリに来、その会場を訪ねてきたセリーヌと再会します。
9年前、ジェリーは約束の場所に行ったのですが、セリーヌは祖母の葬儀と重なり行けなかったと、後悔していました。ジェリーは結婚し、教師の妻と子供もいますが、セリーヌはまだ独身。
ふたりはジェリーの夕方の飛行機の時間まで、ずっと語り合いながら、パリの街を巡り過ごします。
別れ近く、彼女のアパートの入口にタクシーを待たせ、部屋でレコードをかけ映画は終わりますが…
1作目はウィーン、2作目はパリを背景に、ふたりの会話だけの映画ですが、その風景と話しがどうなっていくのかが気になり、単調ですが観てしまいました。ふたりが若いので、会話が明るく、爽やかだったのも良かったかと思います。
この9年後の第3作目、今度はギリシャでの「Before Midnight」(2013年)があるようですので、NHKプレミアムシネマの頁に《リクエスト》欄を見つけ、リクエストしてみましたが…。イーサン·ホークは《今を生きる》にも出ていたようです。
(編集子)場所もテーマも同じ、どうしてロマンチックなエ―ガのわかれとなると ヨーロッパになるんかなあ。やっぱりヤンキーにはこういうテーマはそぐわないんだろうな。
ジョーン・フォンテ-ンとジョセフ・コットンの旅愁、キャサリン・ヘプバーとロッサノ・ブラッツイなら旅情。ロマンチックで寂しい映画だったがなんといってもテーマ音楽、あのセプテンバーソングベニスの夏の日。ミッキーの見たこの映画もまたそういう遺産をのこすだろうか?
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例によってウイキペディアからの付けたし:
仏女優ジュリー・デルピーが、イーサン・ホークとともに主演した「ビフォア」3部作の続編は実現しないとの見通しを明らかにした。 「ビフォア」3部作は、「ビフォア・サンライズ 恋人までの距離」(1995)、「ビフォア・サンセット」(2004)、「ビフォア・ミッドナイト」(13)で構成されたラブストーリー。

アルプスから氷河がなくなる日        (42 河瀬斌)

小田さんのご主人はかつてEg. Midi から滑ったことがある、私と同じ冒険好きの方のようですね。そのご主人と一緒にアルプスと欧州をめぐる旅を楽しむのは私達に似て親近感を覚えます。
 2019年に小田さんがモンタンベール駅から撮った写真で見るように、モンブラン氷河(メールドグラス)はやせ細って石ころだらけとなり、今では夏スキーは氷河合流部の上しかできないようです。私が学生時代に行った1968年のモンタンベールからの写真を比較してみて下さい。昔は氷河はとても広く、駅からすぐ氷河に降りれたのです。
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2013年にその昔のイメージで私が企画したKWV42卒(ガニマタ)70歳記念旅行では、痩せた氷河に降りようとすると昔より50mも下にあって、その岩壁を鉄梯子と鎖で降りなければならなかったのです。
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その日は氷河に降り、痩せて石ころだらけの氷河を歩きました。
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氷河の両端の氷は厚い石の堆積物で覆われ、いずれその下の氷河は無くなる運命でした。30年後の駅からは石の川が見えるだけになっているかもしれませんね。
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とにかく今の温暖化ではアルプスの主な氷河はどんどん細くなり、広大な石ころだらけの河原になりつつあります。乾燥で高山植物は丈の高い草に代わりつつあります。氷河の衰退とともに私たちが記憶している美しいアルプスの夏の景色が失われつつあるのは残念ですね。それに伴い夏のホテルも休業するところが増える一方、グリンデルワルトやチェルビニアに見られるように冬のスキー場が拡大して収入源になっているようです。
 日本では岩岳や湯沢のように雪が少なくなるとゲレンデが閉鎖されて夏の遊び場になってしまうところが多いですね。20年後には夏の残雪や高山植物も少なくなり、スキー人口の減少もあってスキー場も高山や北海道だけになってしまうのでしょうか !?

 

2024年11月27日(水) 16:01 Atsuko Oda <ao.bluemoon.ep@gmail.com>:

河瀬さん

2019年6~7月の旅行は、もうあまり行けないのでは…と思い、最初と最後は私のいきたかった所、中に主人の希望する場所を訪れました。
ミラノ、フィレンツェを訪れ、トリノで車を借り、クールマイユール、シャモニー、セントバーナード峠を越え、チェルビニアへ、そして最後は私の希望したイタリアのマッジョーレ湖で少し長い25日間の旅を終えました。
河瀬さんが歩かれ、主人がエギーユ・デュ・ミディから滑った(ガイド付き)という、モンブラン氷河の雪は写真のように消えていました。
またチェルビニア(広場からの写真)は利用はスキーシーズンのようで、借りた広いコンドミニアムは人の気配があまりなく、ホーンテッドマンション状態でした。
*先日送られてきたJCBの旅の冊子の“大特集“は「今年のクリスマスはヨーロッパで」。
好きなホットワインを飲みながら、パリやドイツ、オーストリアのおとぎの世界のような写真を眺めて我慢します。寒そうですし。
プレスリーの《Xmasは我が家で》(I’ll be Home for
Christmas)を聴きながら…。
小田篤子

バラが咲いた     (41  斎藤孝)

季節外れのバラ一輪が紅葉の森に咲いた。うす紫色した可愛らしい名残のバラ。葉の艶は元気いっぱいである。

 紅葉の森にラベンターとローズマリーのほのかな香りが漂う。

平和な鵠沼の晩秋を楽しみ元気に生きていこう。

(編集子)バラが咲いた、という一言ですぐ頭に浮かんだのが、僕らの学生時代から社会人なりたての、ベトナムの悪夢が一応終わって、とりあえず平和気分が横溢していたころ、それまでの  ”流行歌” と一般に言われていた分野に新風を吹き込んでくれた、若者たちの歌の数々が思い出される。そのきっかけというか代表作がマイク・真木の バラが咲いた だったような気がする。ベトナム反戦の若者たちのいわばテーマソングだった ピ-ト・シーガーの 花はどこへ行ったの とか、スコット・マッケンジーの 花のサンフランシスコ、日本で言えば杉田次郎の 戦争を知らない子供たち などなど、この後にくるいわゆる日本フォークソングの先駆けとなった歌をなんとなく思い出される。ビートルズ世代との過渡期?だったのか、このあたり、年代自体がもうあいまいなのだが。