
生涯何十回と引越しを繰り返した北斎は現在の墨田区に暮らしたが、絵や画材が散乱する貧乏長屋で、絵のことしか頭にない父と共に暮らす中で彼女も絵筆を執るようになり、絵の才能を開花させていく。

やがて絵師として生きる覚悟を決めたお栄は、顎が出ているとことから「あご」と呼ばれるがやがて北斎は、娘をいつも「おーい」と呼んだことから「応為」の名を授ける。葛飾応為の誕生だ。最初は出戻りの娘を煙たがっていた北斎だが、やがて一人の絵師として認めていく過程が興味深い。特に応為の代表的肉筆浮世絵の傑作「吉原格子先乃図」を描いている彼女を見ていて「そんな絵どこで覚えた」と唸ると、「お前しかいないだろ、文句あるかい?」、「いや、ねえ。ちゃーんとお前の絵になってる」ぶっきらぼうながらも、父そして師匠として、見守っている北斎の深い愛情と尊敬が滲み出ていた。白眉の一シーンだと思う。

この「吉原格子先乃図」や「夜桜美人図」(写真貼付)など応為の肉筆浮世絵作品は「日本絵画史上、光と影を本格的に扱った重要な作品」と評される。
当時の鎖国時代、唯一入国を許されたオランダからもたらされただろう西洋絵画の書物、特に光の魔術師と呼ばれたオランダ人画家レンブラントやフェルメールの絵画を観る機会があって、応為が光と影に目覚めたかと注目して映画を観たが、そんな描写はなく、吉原の火事や貧乏長屋の自宅の蝋燭の光などに触発されたと映画では示唆されていた。宜なるかなと思う。
応為はまた美人画を描かせると北斎も敵わないとも評され、膨大な絵画を晩年まで描いた北斎画の手伝いをしていたのではと今では推察されている。
応為の性格は、父の北斎に似る面が多く、やや慎みを欠いており、男のような気質で任侠風を好んだという。家事一般は苦手でやらず、だが衣食の貧しさを苦にすることはなかった。北斎と異なり煙草と酒を愛し、煙管の吸殻を北斎の描きかけの絵に落とし台無しにしたシーンが映画で描かれる。その後禁煙したが、また喫煙を始めたという。兎に角自由奔放で、自らの信念、価値観と美意識に則り行動した現代風の芯の強い絵画の才能溢れた女性であったのは間違いない。父子とも歴史に名を残す無頼の不生出の浮世絵師だったのだ。
