エーガ愛好会 (280) 今度はジョン・ウエインで

数日前、ドクターセーブゲキこと小泉さんからメールが来た。ここのところ、テレビ放映が再放送、再々放送ばかりでの嘆きを共有した。今回は少し前に放映された アラスカ魂 のことで、だいぶ以前、本稿で取り上げた紹介記事を種になにか書いてみないかとのお誘いであった。ご指摘の記事はこの作品とよく似たしあがりの スポイラース と、小生がアラスカ物として紹介した 世界を彼の腕に (西部劇ではなく、主演が グレゴリー・ペックとアン・ブライスという当時人気のあった組み合わせの作品で、米国もロシアもそんなことが起ころうとは夢にも思わないでアラスカ地方をロシアから新興国アメリカが買い取ったところ、なんと大きな金鉱が発見されたという、いわば歴史に残る大バーゲンの話)についてふれたものだ。この2作品はジョン・ウエインの作品群の中では異色で、”準”セーブゲキ、だと僕は思っているのだが、ちょうど、読みかけていた A.J.クイネル のシリーズもののひとつ Message from Hell の後半でジョン・ウエインについての面白い会話があってなるほど、と思っていたところだったので、最近新登場の島田君の好評イーストウッド論の向こうを張ってみようか、と思い立った。

このクイネルというのは実は知る人ぞ知る高名な作家のペンネームらしいのだが、その正体がわからない、言ってみれば覆面作家、ということになっていて、海兵隊からフランス外人部隊に投じ、いわゆる ”戦争の犬” と蔑視される傭兵の主人公の話だ。ほかにも数多くあるスーパーヒーローではなく、陰のある人物で、東南アジアでの汚い戦争を共に戦った旧友たち(彼らはすべて正業を持つ一般市民になっている)とが登場する。調べてみた範囲では10冊、書かれているらしいがその中の一つがこの本(和訳のタイトルは地獄からのメッセージ)で、面白いと思ったという会話は、国自慢のなかでフランス人がWhat has America given the world ,except John Wayne ?” とからかう。アメリカ人はほかの場所で、”The only things the French know are how to make Bearnaise sauce and reide a bycycle” とやりかえすのだ。僕が付き合った連中だけでの話だが、この二つは ”アメリカ人” という概念についての米欧人の相互理解というか抜きがたい感情として変わらないように思える。”アメリカ人” とは何か。

1979年、ウエインが一度は立ち直ったものの癌が進行し、最後の時を迎えようとしていると知り、彼に名誉を与えるために特別の金メダルを鋳造しようという議案が上院に提出され、時のカーター大統領もその立法を支持した。そのとき、親友のモーリン・オハラは ”私たちが感謝し、愛していることを彼に見せてあげましょう。彼はヒーローなのです” と涙声で語ったという。勲章の表には彼の肖像と、”ジョン・ウエイン、アメリカ人” と刻まれたが、この文句はそのモーリン・オハラが提案したもので、裏には多くの作品が撮影された、あのモニュメントバレーの風景が刻まれた。この議会名誉勲章を贈られたのはジョージ・ワシントン、トーマス・エジソン、ライト兄弟ほか83人であるという。この事実がすべてを語っているということなのか、彼の墓に墓碑銘はないそうだ。

(彼が癌に侵された遠因はネヴァダの砂漠地帯でのロケで残留していた放射能に侵されたからである、という説は、”ジョン・ウエインはなぜ死んだか” という本に詳しい)

リオグランデの砦 のウエインとオハラ

ウエインが出演した作品はドキュメンタリなどへの出演を除き、153本あり、そのうち103本が日本でも上映された。僕はそのうち40本(小学生のころ兄貴に連れられてみたものがまだあるはずだがはっきり覚えていない)をみているが、うち29本が西部劇である。

ウエインの西部劇、となると誰でもが第一に挙げるのが 駅馬車 (1939年)だろう。ウエインが撮影所の下働きをしているとき、ラオール・ウオルシュの目に留まり、Big Trail の主役に抜擢された、というよく知られた話から 駅馬車 でヒットを飛ばすまで、実に9年かかっているが、jこれ以後は順調にスター街道に乗り、今回のきっかけになった スポイラース では マレーネ・ディートリッヒという大女優と共演。ここでランドルフ・スコットと演じた乱闘シーンはのち、(あのスポイラースのような)と引用されるほどになった。アラスカ魂 での乱闘もなかなかのものではあるのだが。

しかし何といっても 駅馬車 に始まるジョン・フォードとウエイン、という組み合わせの作品がウエインの真骨頂であることは間違いない。アパッチ砦 リオグランデの砦 そして 黄色いリボン、の騎兵隊三部作三人の名付け親,捜索者、騎兵隊、そして リバティ・バランスを射った男。これらの作品に共通のテーマというかバックグラウンド、一本気でフェアプレイを貫き、世間の目は構わずとにかく本懐を遂げるまで戦う男、というのが、世にいう”アメリカ人” というイメージを作り上げたのだろう。そしてその結果がフォードの監督ではないが、名作 赤い河 に集約されたのではなかろうか。

”遠すぎた橋” は第二次大戦欧州戦線で、連合軍がイギリス軍主導で実行した大規模侵攻作戦の話だが、冒頭から独善的な英国軍指導に対するアメリカ側の不満が描かれる。大陸侵攻前夜の会合で、エドワード・フォックス演じる指揮官がこの作戦を、(圧倒的な敵に囲まれ、最後の時を迎えようとしている人たちを救うために騎兵隊が駆けつける、アメリカ映画の、あの騎兵隊が俺たちなんだ!)とぶち上げるシーンがある。駅馬車 の上映が 1939年、いわば大戦前夜だったわけだから、フォックスの脳裏にあった騎兵隊、というのが、あの映画を有名にした一つの要因だった、砂塵を巻き上げて駆けつける騎兵の、あの突撃シーンであったろうことは想像にかたくない。このあたりが当時の英国人のアメリカ人観だったのではないだろうか。

西部劇以外でのウエインの作品(日本上映についてのことだが)には、アイルランドへの郷愁を描いた 静かなる男 をのぞけば、第二次大戦ものと警察ものが多い。僕が見た中では、これでもか、というくらい大物俳優をならべた 史上最大の作戦 でいい役を演じたウエインよりも、硫黄島の砂 で戦死してしまうウエインの悲痛な顔が印象にある(なお、映画でウエインが死ぬのは、日本で公開された中ではこれと ラストシューティストだけのはずである)。西部劇以外では ドノバン珊瑚礁 のようなコメディもあるし、マックQ だとか ブラニガン なんていう現代警察ものもあるが、なにもウエインが出るまでのものでもなかろうか、という程度の印象であった。

老熟期に出た リオ・ブラボー エルダー兄弟 エルドラド チザム など一連の作品は、いずれも一歩引いて若い連中の面倒を見ている、というような雰囲気と、軽いユーモアが感じられる見やすい作品だ。リオ・ブラボー の中でディーン・マーティンが歌った My Rifle My Pony and Me は僕の愛唱歌になった(追記したレッドリバーについての記事もご参照ありたい)。

と、ここまで気の向くまま云々、と書いてみたものの、きっかけのはずの、小泉兄のいわれた アラスカ魂 vs スポイラース 論にはどうも付け加えることはなさそうだ。先輩、すみません。

長くなりすぎた。最後に一応、(俺の言うベスト・ウエイン)をあげておくことにすれば、やはり 赤い河 になるだろうか。僕が高校時代、おととし旅立ってしまった関根達郎からもらった、ふるいレコードを ”電蓄” にかけて覚えた、いわば俺のもひとつの愛称歌、が RED RIVER VALLEY なのとは無関係なのだが。

思い出した。ウエインの死後、カリフォルニアはLAに近いオレンジカウンティがウエインに敬意を表して、市空港の名前をジョン・ウエイン空港、と改名した。このことをいち早く知ったのはHP時代の親友、佐藤敬幸でかれもウエイン好きだった。そのあと、パロアルトへ出張した時、新空港へ行って写真を撮ってきた。ビジネスの用件があったはずはないので、そのためだけに往復したのだと思う(経費をどうやってごまかしたかも忘れてしまったし、なんとその写真がどうしても見つからない、というお粗末なのだ)。

さらに追記。Red River についてはブログの検索コラムを red river で検索していただければ多少のリサーチをしてあるのでご参照のほど。

 

 

 

 

 

生まれる前のカメラ  (普通部OB 船津於菟彦)

狂にFilmCameraを使い、Film撲滅品種救済団体-全日本クラッシックカメラクラブが毎年銀座で春・秋フィルムで撮影した写真展を開催して参りましたが、今年春から展示場所が麹町のJCIIクラブ25-隣に日本カメラ博物館のあるビルの地下に代わりました。
小生は1926年製とか生まれる以前のカメラで撮影した作品を三点出展しています。使用したカメラは1926年製 Box-Teengor 542  という代物です。

僕とオーディオの縁  (44 安田耕太郎)

ブログ(オーディオシステムとやらについて)を遅ればせながら拝読。僕の名前も登場しているし、「オーディオ」で飯を食ったのも事実なので追稿。
僕はと言えば、40年間以上オーディオ業界で禄を食んだとはいえ、オーディオが好きでこの業界に入った訳でもなく、楽器は何も弾けず、歌はオンチとくれば、この業界に入ったのは間違いだったのか? 2年間に及ぶ世界一周の旅から帰国後、大学6年目で4年生となり東京で再び下宿探し、4年生への再編入手続きなどで忙しく、浦島太郎状態で帰国も遅れたこともあって青田買いの就職戦線には大幅に乗り遅れていて、門戸は狭く、極論すると、どこでも空きがあって引き受けてくれる会社であれば、「お世話になります」といった状況だった。だが、人生を送る上での価値観のパラダイムシフトを旅を通して感じていて、余り深刻には受け止めていなかった。「人間万事塞翁が馬」とも感じていた。そして結果として同じ業界に40数年所属したことになった。
Project Everest DD66000

オーディオと音楽に大きな興味を抱いていてなく飛び込んだ業界だったが、否が応でも音楽を聴く機会(生のコンサートも再生音楽も)が増え、音楽やオーディオの専門的なことまで学ばねばならず、気が付けば次第に音楽を聴くのが大変好きになった、趣味の一つになった。怪我の功名だろうが感謝すべきだと思っている。また、技術屋の知識・能力は持ち合わせてはいないが、新製品計画においては詳しい技術論はさておき、戦略的な製品の方向性・コンセプト面の議論には、それが大変興味深く、積極的に加わり、リードを執って製品

Project K2 S9900

企画に励んだ。山好きが昂じてJBLの高級製品に”Everest”と ”K2” シリーズと銘打って登場させたこともあった(現在も販売されている)。 両シリーズとも’80年代に市場導入し、数年おきにデザイン変更を行って新製品として販売してきた。世界第1位と第2位の高峰2つの山の名を冠したのは僕のアイディアである。

昨今の富士登山は    (41 斎藤孝)

吉田ルートの富士山5合目に立て看板があった。
新しい山岳用語なのか。
世界遺産「富士山」を安全に登るために考えられたキャッチフレーズ。

「弾丸登山」とは、事前に十分な休息を取らず、夜通し登山すること。
徹夜で登り続けると日帰り登山できるという。無謀な登山行為である。
5合目は標高2400mある。そこから山頂(3776m)まで5時間は必要になる。
そして下りでも3時間はかかるだろう。登り下りに8時間は必須。

 それも休みなしだ。欧米の若者達は短パン姿で、日の丸を付けた杖を持ち、ニコニコして山頂を目指した。 落石に注意し、安全に登頂まで行けるように「Good Luck !」と手を振った。

フランスの新首相  (在パリ 平井愛子)

パリはすっかり秋模様です。日本はまだ残暑が厳しいようですので、どうぞご健康にご留意なさってくださいませ。
パラリンピックも日本の選手たちの頑張りは素晴らしいですね。車椅子テニスの世界最年少の金メダル!でも全ての選手のこれまでのただならない執念とエネルギ-に感動です。
ところで、ご存知のようにやっとフランスの首相任命が何とかミッシェル・バルニエ氏、75歳の登場で、左翼の反対デモは勿論パリをはじめフランスのアチコチで昨日今日行われてはいますが、経験豊富な交渉の名人に中道、右派は批判の刃を引っ込めました。極右はまあミッシェル・バルニエは右派ゴリスト、人柄と力量に静観。国民は一体何のための投票だったんだと、投票権カードをカメラの前で焼く人もいました。でも大部分はホッとしたところでしょうか。
マクロンに振り回され、オリンピックの熱で、大統領は自分の不手際には国民の目をくらまし、後は何とかしてくれと投げた感じですね。マクロン大統領としては自分の政策ラインを守ってくれそうな人を選んだという事でしょうか。フランスの国庫は物凄い赤字であることがTVで繰り返し言われている事です。一番政局が難しい時の首相ですね。早速エネルギッシュに組閣に動いています。佇まいが安心感を与える雰囲気でこれは人徳でしょうかね。
(船津)仏蘭西首相はまずまずでしたね。
日本はサテサテとなります。誰か次の首相になるのかサッバリ分からない状況です。野党も纏まるのかどうか。日本の政治も大きく変わらんとしています。「確トラ」もさてさて。日本の報道だとパリ市民はパラリンゾックには余り興味無しとか。日本人大活躍ですね。どんなに本人が苦労されたことか。またご両親とか周りの方の支援も凄いモノだと思います。感動的でした。****************************************************************************

ミシェル・バルニエは、フランスの右派政治家。2024年よりフランスの首相を務める。バルニエの首相就任後、BBCはバルニエをシャルル・ド・ゴールの思想を受け継ぐ保守派支持者の一人であると表現している。
生まれ: 1951年1月9日 (年齢 73歳)
現職: フランスの首相 2024年から
政党: 共和党
学歴: ESCP Business School (1972年)

ショパンとサンドのはなし  (HPOB 小田篤子)

先日読んでいたミステリー本に、ドラクロワの1838年の絵画『フレデリック・ショパン』を題材にした物が載っていました。ドラクロワの友人であった12歳年下のショパンがピアノを弾いていて、その横に恋人のジョルジュ·サンドが描かれている肖像画です。

翌年、1839年にショパンは結核の病状が悪い中、サンドと、寒い雨季のスペイン、マヨルカ島へ行き、《雨だれ》を作曲。
ショパンとサンドは1847年に別れ、ショパンは1849年に、サンドは1863年に、ドラクロワは1876年に亡くなります。ドラクロワの死後、アトリエから二つに切られた絵が発見されます。
この本では、X線に通すと…共にフランス語のサンドの字で…
✩サンドの部分には『雨音は永遠に』
✩ショパンの部分には『私達の愛とともに』
と浮かびあがってくる…となっていますが、1863〜73年頃に切離されたようです。
現在は、サンドの方の絵はコペンハーゲンの美術館に、ショパンの方はルーヴルにあるそうですが、真実は?以前、平井さんがドラクロワの壁画や、絵画を色々紹介してくださったのを思い出しました。

(余計なことかもしれないがググった結果を載せておきます)

結婚歴があり2人の子供もあったジョルジュ・サンドは、当時としては画期的にも、作家として「働く女性」でした。にもかかわらず、ジョルジュ・サンドは驚くほど家政や子供の世話が大好きであったそうです。7歳年下のショパンとの恋も、ジョルジュ・サンドの母性から発したのではという説もあるほど。天才ショパンの命を縮めたという悪評までうまれたジョルジュ・サンドとの恋ですが、この恋はさまざまな波乱を乗り越えて、なんと9年も続きます。

その間、『雨だれ』『バラード第2番』『軍隊ポロネーズ』『舟歌』『幻想曲』など、私たちの耳になじんでいる代表作が次々に生まれました。愛らしい『小犬のワルツ』は、ジョルジュ・サンドが飼っていた小犬の動きを描写したとも伝えられる作品で、2人の幸せな恋の姿の象徴ともいえるでしょう。しかし、別れはその直後にやってきました。ジョルジュ・サンドの子供たちとショパンとの関係が悪化、ジョルジュ自身ともうまくいかなくなったショパンは彼女のもとを離れることになったのです。

(編集子)小生は行っていないが、わがパートナーはだいぶ以前になるが親友と二人スペインに旅し,マヨルカでショパンとサンドの旧跡を訪ね、ショパンが使っていたピアノも見てきたようだ。ま、こーゆーところはセーブにはないわな。ビリー・ザ・キッドの使ってた銃、なんてのはどっかにあるんだろうが。

 

たかが塩焼のことだけではない話

(話の始まり)

(41 斎藤孝ブログ記事)
………..夕食の献立の話だった。三匹の若鮎を買ってきた。天然物は高いので養殖物で我慢した。大型のよく肥えた鮎だった。こんがりと炭火焼にする。子供の頃、72年前に富山の神通川で友釣りしたことを懐かしんだ。

おとりの鮎は買ったものだった。生きているから慎重に尾に針を付けた。おとりのメス鮎に若鮎が群がってくる。恋の縄張り根性を熟知した鮎の釣り方。流れも速いからなかなか難しい。竿さばきをすること1時間。竿がしなり重くなった。釣れたぞ~~~(唸る)

ぴちぴちした若鮎は友釣りに騙されたのだ。爺様宅で「鮎の塩焼き」にした。ほんのりと苦味ある若肌。美味かった。庭のギボウシは満開だ。そしてシュウカイドウも真っ赤な花を付けてくれた。

「鮎の塩焼き」から「愛の塩焼き」へと変わった。

(42 河瀬斌)15年前の夏に友人たちと立山観光と「おわら」を見にゆきました。その後五箇山に行った帰り、神通川沿いの「鮎や」という料理屋に入り、鮎を注文したところ、東京の様にたった一匹皿に乗っているのでなく、大皿に塩焼きした若鮎が山盛り出たのでびっくりしました(写真)。若鮎なので頭ごと食べたその美味しさが忘れられず、7年ほど前にその店を再度訪れましたが味は変わりませんでした。 その後自宅でも味わえるかと、取り寄せましたが、残念ながら焼きたての味とは比べ物になりませんでした。 カメさんはその近くの富山生まれですから、その店を知っているでしょうか?

(斎藤)鮎や」は庄川峡の近くにあります。富山でなくて隣町、高岡の近くです。これも超有名な鮎料理。カメは残念ながら行ったことなし。河瀬さんは、お金持ちなので大皿の鮎の塩焼きを注文した。羨ましい。これこそ本物、天然鮎ですね。ただし神通川のものではありませんよ。

神通川は飛騨では高原川となり、その支流の蒲田川は笠ケ岳と槍ヶ岳を源流とする。余談ですが、富山市は神通川と常願寺川に挟まれています。常願寺川の源流は「称名の滝」。地鉄(富山地方鉄道)の有峰口から入ると、「亀谷温泉」があります。亀谷一族の発祥の地です。これこそカメの本当の故郷。「Turtule Valley」、先祖は地侍あるいは山賊だった。越中は戦国期に一向宗が多く、治めにくい。

前田家以前の佐々成政は大変苦労した。成政は称名の滝沿いに弥陀ヶ原に行き「一の越」を越えて信濃に逃げたそうです。成政にちなみ「サラサラ峠」ともいう。カメは小学校5年生まで富山市の爺様宅で暮らしたので、カメのルーツにこだわっていました。貧乏人の誇りは怪しげなルーツだけ。

カメの「鮎の塩焼き」は神通川のものであり亀谷の川で育ったものだけです。

(44 安田)聞くだけで、見るだけで涎が無意識に垂れるほどの美味しそうな鮎塩焼きです。羨ましい限り。岐阜県長良川の上流、”郡上おどり”で知られた郡上八幡を訪れたことがあり、簗で捕獲された新鮮な鮎を食したことが一度ありました。もう味を覚えていませんが、絶品だった記憶は残っています。

(42 下村)カメさん、安田さん、河瀬さん。 皆さん趣味というか興味の世界が広いというか、とにかく多彩。 絶対ボケませんね。

(36 浅海)お2人の言葉遊びについて行くつもりはありませんが河瀬さんの「鮎や」の若鮎塩焼の大皿盛りいかにも旨そうだなあ。是非鮎やに行ってみたいと思えてなりません。こんな鮎の塩焼の大皿盛り今でもいただけるのかな。是非神通川行きを考えます。

大昔琵琶湖の北西岸に注ぐ確か広瀬川とか言う川で釣りたての若鮎を嫌というほど沢山食べさせてもらった記憶がありますが鮎やのように 旨そうだなあ、冷で一杯飲みたいなあ と思う「鮎の塩焼き」ではりませんでした。鮎やに負けない美味しい鮎の塩焼きを食べさせる店近場に無いかなあ。。。

(編集子)下村君の感想に同調。日本って平和な国だよなあ。
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ウイキペディアにいわく:
 神通川は、その源を岐阜県高山市の川上岳(標高1,626m)に発し、岐阜県内では宮川と呼ばれ、川上川、大八賀川、小鳥川等を合わせて北流し、岐阜、富山県境で高原(たかはら)川を合わせ、富山県に入り神通川と名称を改め、神通峡を流下し、平野部に出て、井田川、熊野川を合わせて日本海に注ぐ、幹川流路延長120km、流域面積2,720km2の一級河川です。
神通川流域は、富山、岐阜両県にまたがり、富山県の県都である富山市、南砺市、岐阜県の高山市、飛騨市の4市からなっています。
沿川及び氾濫域には、平成27年に開通した北陸新幹線をはじめ、あいの風とやま鉄道、JR高山本線、北陸自動車道、東海北陸自動車道、一般国道8号、41号等や国際空港の富山空港及び国際拠点港湾の伏木富山港(富山港)の基幹交通ネットワークが整備され、中部縦貫自動車道が整備中である等、交通の要衝となっています。また、富山平野では水稲の生産が盛んなほか、都市基盤の再構築が進む富山市街地や国内外の観光客で賑わう飛騨高山を擁し、富山城や高山の古い町並み、越中八尾のおわら等の歴史的・文化的資源にも恵まれ、古くからこの地域の社会・経済・文化の基盤を成しています。さらに、豊かな水の流れを利用した水力発電地帯としても知られており、中部山岳国立公園、宇津江四十八滝県立自然公園や神通峡県定公園等の優れた自然環境が数多く残されています。
(もうひとつの 神通 のこと)
昭和17年(1942)7月2日、アメリカ軍はソロモン諸島を足がかりとした反抗作戦を発動。8月7日に大挙ガダルカナル島に上陸し、その後約半年に渡る死闘を演じた。ガダルカナル島をめぐる死闘に終止符が打たれた後、戦場はソロモン諸島西部へと移った。  これに対し日本軍は、航空機と水雷戦隊による反撃を行った。そして5日の夜には兵員2400名、物資約180tを載せた7隻の駆逐艦と支援の駆逐艦3隻が、ニュージョージア島の北西に浮かぶコロンバンガラ島に向かった。  7月12日22時35分、米海軍36.1任務群の索敵機が日本艦隊を発見。日本側の布陣は旗艦が軽巡「神通(じんつう)」、それに駆逐艦「清波(きよなみ)」「三日月」「浜風」「雪風」「夕暮」、輸送隊として駆逐艦「皐月(さつき)」「水無月(みなづき)」「夕凪」「松風」が参加、というものであった。

戦いが始まってすぐ、サーチライトによる照準射撃を行っていた旗艦神通が集中放火を浴び、艦橋に砲弾が直撃して司令官の伊崎少将が戦死する。それでも神通は主砲を撃ち続け、7本の魚雷も発射。ところが米駆逐艦が放った魚雷が命中し、船体が真っ二つに分断された。後部は瞬時に沈んだが、前部は沈まなかったので、残された一番砲塔のみで戦い続けた。

開始直後に集中攻撃を受け、大爆発を起こしつつも船体前部のみで2時間以上も戦い続けた神通の最期は、どんなものであったか誰も知らない。早朝に駆逐艦皐月と水無月が捜索に向かったが、艦影はおろか一人の生存者も発見できなかったのである。

乱読報告ファイル (60) 赤と青のガウン ほか (大学時代クラスメート 飯田武昭)

直近に読んだ「赤と青のガウン」(オックッスフォード留学記)/彬子女王著は面白かった。女性皇族の著者が、その「帯」で書いているように、≪生まれて初めて一人で街を歩いたのは、日本ではなくオックスフォードだった≫その体験記であり、女性皇子として初の博士号取得までの瑞々しい筆致で綴られた留学の日々が読みやすい文体も加わって、一気に読み終えた。人との出会いが如何に大切か、その出会いを生かすも殺すも本人次第と私は日頃から思っているが、その点でも正に、この著者はその出会いを100%生かして生きて来た感がする。

私の個人的な経験では昭和38年(1963年)から1年間、会社から海外語学研修生として当時の西ドイツに着地し、先ずはゲーテ・インスティテュートの南独のローテンブルグ校でドイツ人夫妻の家に寄宿してドイツ人講師から日常会話が不自由ない程度までの授業を3カ月間受けたとことから始まった、その後の海外事業所勤務の経験と幾分か重なり、外国人との初顔合せ場面の描写などに特に興趣が募った。

学生時代に流行ったアガサ・クリスティやエラリー・クイン、クロフツなどの推理小説を読むには読んだが、映画「オリエント急行殺人事件」などを観ると、2時間で観られる映画の方が手っ取り早くて良いと思ったりしたもんだ。 ただ、母親が大変に書物好きで、自宅には『智恵子抄』、「岡本かの子の記」などが日常的にテレビ横の小さな本立てに差してあって、特に「万葉集」には詳しく、戦前・戦後の激動の時代に生きながら、読書仲間で行く「万葉集の旅」には、毎年、本当に楽しみにして出かけていた。私は自宅の文学全集から「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」など、文学小説を読み始めては止めの繰り返し。でもヘルマン・ヘッセの「車輪の下」などは比較的短編でもあり読み終えていた。

西ドイツでは、当時、ハンブルグに会社の支社はあったのだが、日本からの出張者・旅行者も未だ限られた人数しか来られなかった時代(外貨持出し制限が厳しくUS$500迄)だったが、ハンザ都市ハンブルグからの観光で同じハンザ都市のリューベックへ片道約2時間のドライブで土日の仕事の休暇日に連れて行くことも多かった。リューベックは第2次世界大戦で壊滅的な破壊を受けた街の一つであるが、作家トーマス・マンの生家が復元されて保存されているので、出張者・旅行者には、≪これが「ブッデンブローグ家の人々」などの作家トーマス・マンの生家です≫と説明していた。 この説明は私が最初に西ドイツに行った当時のハンブルグ支社長が、初めてリューベックに案内してくれた時に紹介してくれたセリフを、その後もそのまま使っていた。トーマス・マンは「魔の山」の方が有名だったと思ったが、いずれにせよ「ブッデンブゴーグ家の人々」を読み通した人を、私も含めて未だに一人も出会ったことがない。現地での案内人とは、大体こんなものだと、今でも時々情けなく思い出す。

(保屋野)映画、サックスに続き、文学ですか。その底知れないパワーの源は何でしょうか。前に、私は「美術検定」に関し、船津さんの1%と書きましたが、「読書」に関しては多分菅原さんの0.1%以下ではないでしょうか。たまに行く図書館でも、読むのは、「岳人」「ニュートン」「サイエンス」等の雑誌を拾い読みするぐらいで、超読書家だったというデコちゃんのファンとしては情けないと反省しています。

(金藤)「赤と青のガウン」先週 展覧会に一緒に行った友人が持ち歩いていました。話題になっていたそうですね、今なら文庫本が本屋さんの店頭にあるというので気分転換にと帰りに買って帰りました。 まだ、読みかけの本がありますので読み終えてからになります。

自分で選んだ本ばかり読んでいると同じ作家 同じ系統に偏るので、読む読まないは別にして、時々友人たちと今何を読んでいるのか聞きあっています。

 

 

 

オーディオシステムとやらについて

オーディオで飯を食ってたチビ太、普通部時代から白いガウン着て実験室にいりびたってた変人フナツ、それに医学会の大物まで登場してここ数日間のオーディオ談義がさかんである。いずれその道に詳しいホヤノだの関西の粋人飯田なんかも論議に加わるんだろう。
小生の美術音痴についてはすでに告白の通りだが、それなら音楽はどうか、と言ってみても横丁の老人のツブヤキぐらいのところで、ま、それなりに人並みにいろんなものを聞いては来たけれどもオーディオシステムで再生された音がどうで、タンノイがいいか悪いか、なんて議論に加わるような、プロはだしの耳を持っているわけではない。しかし、一応は第一級アマチュア無線技士であり(このあたり、浅野サブローには黙っていてほしいのだが)多少はデンキの初歩を知っているものとして、せいぜいキロヘルツ界隈のデンキを扱う機器ができないわけはないんであって、とにかくなんか作ろうか、という気を起こしたのが退職してから数年してである。手始めに完全キットを購入して、指示通りに作った2A3 シングルアンプは今、小淵沢のセカンドハウスで使っている。ラジオ技術だったか出典は覚えていないがその道の大家の記事を読み、何度か手紙を出して教えを乞うて作った2号機が上掲の1台である。一応最低の測定器はそろえ、もっともらしいデータもとったりしたもので、現在は自宅のメイン機としてもっぱらわがパートナーの愛用にあずかっている。

その後、息子の結婚記念とかなんとか、雑誌の記事をベースに何台か作ったが、現在、自分のデスクにのっているものになると、もうデータをとったりするのも面倒になり、まともに音が出ればいいや、という程度だが、満足して使っている。当初は昔懐かしいレコードプレーヤを音源にするつもりだったが、レコード自体の入手も難しいし、結局、チビ太に頼んで購入した、一流メーカーのプレーヤーを使用。音源よりもこのほうがはるかに高価かつ高性能で、面倒をかけた彼には申し訳ない気もするが、ここしばらくは使うつもりである。

ここまでくるまでに、6BQ5のプッシュ、とかそのほか何台か作ったが、部屋の大きさからしても大型管プッシュプル、なんてのはデンキの無駄遣い、と知って、6V6シングル、というベーシックなものに落ち着いた。スピーカは家に手を入れたとき細工して本棚に埋め込んでもらったデンオンのペアである。

チビ太には申し訳ないが、ここのところ、一応は好きだと思っているチャイコフスキーもドヴォルザークもほとんど聞いていない。今日も暑い。小林旭の ”北へ” にでもするかい。