“小屋” というところ

”小屋“ という名詞はだれでも使う単語であるが、多くの場合は背後に ’小さい” とか  ”貧弱な“ といった、どちらかといえばネガティヴなイメージを持つ。日本の住宅事情を自虐的に示した ”ウサギ小屋“ などが思い浮かぶ。 しかしこれに ”山“ という接頭語をつけると、そのイメージは一転して、何となくロマンチックな響きを持つ。それはその後ろに ”旅“ が意識されるからだろう。

KWVでの4年間、僕が泊めてもらった ”山小屋“ はそれほど多くはない。これは小屋、よりも苦労して運んだテントこそモノホンだ、という思い込みがあったからだと思う.。これは僕一人の勝手な理屈なのだが、登山という行為の一部としてよりも、そこで過ごす時間が自分が抱く ”wanderun” のフィーリングに会う場所であれば、小さい小屋であれ豪華なホテルであれ、それが自分の “小屋” として記憶に残るものになっているように思えるのだ。

山を愛する人なら、一度は仲間たちと占有できる小屋が欲しい、と思ったことがあるに違いない。そういう意味で、KWVの仲間にとって ”小屋“ とは新潟と群馬を分ける三国峠の先にある、”浅貝(部落の名前)のKWV山荘“ である。”浅貝の小屋“ はKWVの先輩の皆さんが抱いてこられた思いを結実させたものだ。多くの先輩方の支援のもとに、僕はといえば2年生部員という中堅どころであった時期、総務(今の現役の間では部長、というらしいが、つまり運動部でいえばキャプテン)だった妹尾先輩の強力なリーダーシップと、すでに社会で活躍しておられた先輩方の支援によって完成した、ある意味、当時の僕らにとっては神聖な場所でもあった。完成後、上越国境の山歩きのベースとしてはもちろん”小屋で過ごす仲間との時間“ を満喫する場所であり、卒業後は暮れから正月にかけての ”越年”はかけがえのな行事であったし、同期の卒業後の ”夏合宿” の場でもあり続けた。

卒業翌年の5月連休、同期生の好漢児玉博が上越国境縦走の途次、悪天のため無念の遭難死をとげた。その後、児玉家から令息の想い出として何か意義あることに使ってほしい、として資金のご提供があった。現場に何かの慰霊碑でも、というご意向だったのだが、我々は遭難の悲劇を繰り返させないためにという熱意を持って、ほぼ半年にわたって休日ごとに有志で材料を運び上げ、完成後は ”越路避難小屋“ として広く一般登山者に親しまれることになる小屋(というには余り小さかったが)を遭難現場にちかい縦走路沿いに建てた。その後、地元の要望もあって現在は場所も変更されてしまったが僕ら建設に微力を尽くした仲間の間では今なお、”俺たちの小屋” の熱い記憶として残っている。この ”小屋” にかかげておいた由来を書いたプレートは確か山荘にあるはずだ。

僕が米国勤務などで浅貝から離れていた間に開業した “豊島ロッジ”は、社会人生活になれたわれわれにとって、”浅貝小屋“ とはまた違った、いわば ”大人の小屋“ として親しまれた。地元出身のオーナー豊島さんのおおらかな人柄が醸しだす、一種独特の雰囲気にひかれて足しげく通ったものだ。苗場と三国峠を一望にできたガラス張りの部屋での時間(35年卒の徳生先輩はこれを ennui アンニュイ と表現された。まさに言い得て妙、であった)は、スキー場に出ることがばかばかしくなるような、そういう時間であった。

就職した先でお世話になった先輩から紹介されて、八方尾根山麓の ”白い小屋“ へ行ったのも同じころだった。創業者の大野さんは著名なクライマーであり、夫人の榧(かや)さんは著名な熊谷画伯を父に持つ芸術家で、センスにあふれた、ロマンチックな小屋のつくりや、昔からある”八方のスキー宿“ というイメージからかけはなれた、シックな雰囲気には完全にとりこになってしまい、スキーシーズンは苗場か八方で決まり、というのがしばらく続いた。

スキー、といえば現役時代からお世話になったのが妙高高原は燕温泉スキー場にあった、”燕ハイランドロッジ“ だ。同期の翠川幹夫の父上は古くからのスキー愛好家で、若いころ通っておられた燕温泉の岩戸屋旅館に出資され、赤倉から燕へ抜ける林の中に、瀟洒なロッジを建設された。その創業の冬、翠川に招かれて、”雑用をする“ という口実で同期の飯田昌保と二人で滞在させてもらった。その後も卒業まで、何回も ”手伝い“ と称して泊めてもらった。当時まだ 田口、という名前だった妙高高原駅まで荷物を取りに行き、翠川と二人、荷物を担いでゲレンデの真ん中をシールでこれ見よがしに歩いたり、客の初心者にスキーの履き方を教えたり、挙句の果て、赤倉との間で雪崩に巻き込まれたり、いろんな思い出がある。僕が曲がりなりにもSAJ1級のバッジをもらったのも燕であった。

卒業後も続けてきた山歩きは、仲間にもいろいろな事情が起き、かたや娘を持つ身になって、パートナーは家を空けることができないので単独行を余儀なくされたが、その数年のあいだ通っていた北八ツで、麦草峠に至る縦走路にあった高見石小屋には何回かお世話になった。これは無念にも病を得て早逝してしまった37年卒ジュンこと村井純一郎の勧めで初めて泊り、その後僕の愛読書になった名著 ”北八つ彷徨“ の影響もあって、何回か泊めてもらった。ロマンチストで愛書家だった村井好みの、またオーナーのSさんの心遣いあれふる、実に感じのいい小屋だった。11月半ば,冬支度の最中だったここで、Sさんとストーヴを囲んで過ごした一夜の思い出は忘れられない。

そうこうしている間に、サラリーマン生活を終える日が来て、以前からあたためていた自分の小屋、を作る決意をした。”別荘”という名前がどうもしっくりこないまま、考えてみたらほぼ20年、今では北杜、なんてもっともらしい名前になったが、南八ヶ岳の南端、小淵沢の小さな別荘地に退職金をはたいて建てた ”小屋“ での生活は、旅の間の一夜を過ごした感覚をどこかに感じながら時間が過ぎていく、かけがえのない止まり木的な存在になっている。

この ”自分の小屋“ で周りを囲むミズナラの林を眺めていると、現役時代にはなかった時間の感覚にひたってしまう。戦前からある蓼科とか、野辺山から小海線沿いに開発された高級別荘地とは違って、われわれ ”サラリーマン卒業生” クラス“ の人たちがいわばひっそりと第二の人生を模索する、そんな感じのある場所で、何年か通ううちに周りの人たちとのあいだに心地いい仲間意識ができてきた、深い森のフィトンチッドに満ち溢れるいい場所であり、とにかく、静かな、風の音くらいしか聞こえてこない時間に、あらためて “人生は旅なのだ” と思い、これが俺の小屋なのだ、と感じる時間が経過していく。

しかし、時間、とは冷酷なものでもある。あれだけ通い詰めていた豊島ロッジは事情があって閉館してしまい、僕自身は行ったことがないが経験者によれば、後身は効率第一の、味気ないありきたりのスキー宿になってしまったようだし、高見石小屋も創業者のSさんが、部外者にはわからないが複雑な事情に巻き込まれてオーナーを降りてしまったあとは、ここもまた、”小屋が岳” 群の、一連の営業小屋になってしまった。一度、麦草峠へ遊びに行って足を延ばしたことがあるが、あの頃の雰囲気は望むべくもない。”白い小屋” は事業者としても成功した大野さんのプラン通り、拡張もされ施設もモダンなものになって、同期の連中と何度か訪れていい時間を過ごしたのだが、大野さんご逝去のあとは訪れる気も起きず、もう5年もたってしまった。ハイランドロッジもその人柄で誰にも好かれたオーナー経営者で岩戸屋旅館の次男坊、通称 ”ろくちゃん” こと宮沢英雄さんが病に倒れられた後は足が遠のいたままだ。赤倉に通った古いスキー仲間の間では、”燕” は上級者のいくところだというイメージがあって、あの辺りでは僕ら世代のスキーヤーには別格な場所だった ”燕” が由緒あったスキー場を閉鎖してしまった現在、経営環境も悪化してしまったのではないか、という気もする。取り越し苦労ならいいのだが。

わが 浅貝の小屋、はどうか。何度かの改築を経て、現在は僕らの抱く、”けむい小屋でも黄金の御殿” ではなく、近代的な設備を持つ施設になったし、現役諸君の間ではそれなりの浅貝生活があるようだ。しかし僕個人にとっては、いわば民宿並みになってしまったこの近代化、がしっくりこない。これは施設の問題ではなく、あの ”小屋の時間” がもう戻っては来ないという、当たり前のことがなお受け止められていないし,”トヨシマのおじさんおばさん” のいない浅貝部落そのものがどっかへ行ってしまった、ということなのだろう。そんなセンチメンタルな気分のまま、一昨年の山荘祭へ参加した時、(長い間ありがとう)という感謝を込めて、国道から苗場の山稜を、惜別の思いをこめて眺めてきた。多分、もう浅貝、をおとずれることはないだろう。

10月になった。すこしばかり早い紅葉を楽しみに、来月には小淵沢へ行こうと思っている。