トラディショナル世代から見た大統領選挙   (33 小川義視)

小生は政治学科に在籍し、1957・58年三田で当時萌芽し始めたマスコミュニケーションに興味を持ち、生田先生の「マスコミュケーション論」のゼミに入り、ナチスによる「プロパガンダ」をテーマにした卒論を提出しました。そこでこのブログに「マスメディア」を中心とした視点から今回の大統領選挙についてコメントしてみたいと思います。

先ず世代によるマスメディアの変遷をみますと、「大本営発表、本日…」を知っている我々トラディショナルな80代世代は「新聞」「ラジオ」というメディアで育ちました。続く戦後派と言われたベビーブーマー世代は「新聞」「地上波テレビ」というメディアで育ち、現在最も第一線で活躍しているMTV,ミレニアル世代には「地上波テレビ」に「ケーブルテレビ」「携帯電話」が加わりました。2000年以降に誕生したジェネレーションZ世代は携帯電話を中心にした「SNS」で育ってきております。もはや現代は新聞読まずSNS中心に情報収集するといった時代になってきております。SNSにはTwitterやYouTubeなどがあり、これらは匿名性から気楽に個人が情報を発信できる特徴もあります。従ってフェイクなニュースが氾濫する結果となり、いずれが真実の情報かどうか判断に苦しむ状態になっております。(直近の情報ですとTwitter、Facebookのトップが議会から情報管制の件で追及を受けているようですが・・・)

そこで今回の大統領選挙を見ますと、トランプ大統領は前回の政権奪取と同時にTwitterを駆使し世界中に自らの所信を発信し、テレビはケーブルテレビのFOXを自陣営に取り込み偏った記者会見を行うという姿は皆さんもお馴染みだと思います。フェイクなニュースの氾濫している中で自分に都合の良い情報だけを最大限に利用して世論を捏造しトランプのあの強烈な個性と相俟って、かって経験したことのない混乱した状態に陥れているのが現状だと思います。また今回の投票率の増加についてもSNSの中で行き交う情報戦に興味を抱き一票を投じた人もあったのではないかと思います。

国営放送を持つイギリス、日本などと違って保守の共和党・リベラルの民主党という二大政党制のアメリカでは、メディアが新聞だけの時代から共和か民主か夫々を支持する新聞社を利用して政策を訴え世論を醸成してきました。それがニューヨークタイムスでありワシントンポスト、ウオールストリートジャーナルでした。これらの今まで広告収入だけに頼ってきたメディアがSNSの出現によって大きく影響を受け、大衆からの匿名の偏向した情報をトランプがうまく利用し選挙民を扇動した結果がこの混乱した選挙戦になったと小生は思っております。

大統領指名の1月までまだ予断を許さないような報道も流れており、これらの混乱によって世界最大の国家アメリカが完全に分断された状態になっております。宗教による分断、人種による分断、経済格差による分断など世界でも非常に混迷した現代にあって、世界最大の国家の世論が完全に分断した状態になっていては、国家が情報を管理する中国などと対等に対峙することは到底困難だと思われます。民主国家を標榜してきたアメリカ合衆国がまともな国家になることを死語となった戦中派は願って止みません。

 

 

アメリカはどこへ行くのか? (44 安田耕太郎)

時には蒼っぽく見える正義感を振りかざして、普遍的価値とは、正義とは、自由とは、民主主義とは、世界的秩序とはなど根源的テーマについて、理念と理想を掲げるのがアメリカの長所だと思っていた。今のままでは「古き良きアメリカ」が消えていく危惧を持つ。
戦後70年にわたって世界で得た敬意、リーダーシップを放棄しているようにみえる。残念なことだと思っている。ほぼ50/50に国が分断された選挙結果、さらに民主主義の弱点を見透かしたかのように独裁的国家運営の下、迅速な意思決定でアメリカと西側陣営に挑戦し続ける中国とロシアの動向を踏まえると、アメリカの対応には目が離せない。新大統領(現時点でバイデンが有力)が、国民皆の大統領として職務を果たす旨宣言せざるを得ない難しい舵とりを託されたアメリカと、今回の選挙によって日本は民主主義と社会主義がブレンドされた素晴らしさを再認識させられたが、弱肉強食のルールが暗黙のうちに存在する世界政治・経済と安全保障面でいかにアメリカと付き合っていくのだろうか?

共鳴します   (36 翠川幹夫)

”国民の民度と倫理性によって、社会主義と民主主義を両立させている国。日本はそういう国なのだ”に共鳴。

テレビで見ている限りでは、「駐在していた半世紀前のアメリカと比較して、何という国だろう、ベトナム戦争とアポロ打ち上げを両立させ、必死だった頃のアメリカと何処がどう変わったのだろう?」と感じています。

米国大統領選挙に思うこと

米国大統領選挙が混迷を深くしている。好き嫌いとか事情通の人ならば国際情勢への影響とか、いろいろあるだろうが、所詮は外国の内政問題であり、我々が知ることのない(たとえ知っていても理解できない)かの国の国民の事情があるわけだから、結果に賢明に対処していくしかあるまい。

また現在深まるばかりの国民間の溝が埋まるのか、14歳の少女まで銃で武装させる結果になる憲法とはいったいなんなのか、といった選挙後の米国の在り方は、外国の内政事情だけではありえない。今までわれわれが規範としてきた民主主義、というものが崩壊してしまうという危険が現実味を帯びる。選挙戦の間に出てきた論調の中に、たとえば、民主党が勝てばアメリカは社会主義になってしまう、,というように、あたかも社会主義はあってはならない、というような曲解と合わせて、背筋が寒くなるような展開である。

われわれは60年代の日米安保改定騒動やベトナム戦争の是非の激論、経済成長の加速に伴う公害問題、相次ぐ天災、大規模な汚職、などわが国を揺るがす事件を経験してきた。しかし未曾有の危機にあっても、現在のアメリカで起きているような暴動や略奪や選挙への暴力介入などということは決して起きなかった。一方、もちろんまだまだ不備はあるものの国民皆保険制度が定着したし、頭でっかちの経営学者先生がいろいろ議論をしても、なお、企業は雇用の安定を第一に考える。今回の経済危機にあっても、大企業の多くはまず役員の報酬減額があって、それから給与削減、自主退職、他社への一時的退避、などの方策によって米国ならただちに起きる従業員解雇は最後まで回避しようとしている。

このような日本人がある意味では誇るべき行動や現象を、米国民は社会主義,と考えてしまうのではないか。彼らが唱える米国の民主主義、とは第一に個人に対する機会の平等であり、その先は個人の能力次第、という理想主義でもある。そのこと自体は素晴らしいが、結果の平等、ということはないがしろにされる.というよりむしろ軽蔑さえさることが多い。しかしここには個人がただ一人存在するのではなく、あくまで社会の一部である、という視点が欠落している。彼らからすれば、日本人が幼少のころから教え込まれる、他人に迷惑をかけない、という倫理の基礎が希薄である。東日本大震災の救助に駆けつけてくれた米国の司令官は、援助物資の運送に協力した地元民の統制、冷静さ、暴動や略奪行為等起きえない社会の在り方に衝撃を受けた、と言ったそうだが、BLMという社会正義への行動が次の瞬間に略奪に転じてしまうかの国の在り方は何なのだろうか。

我々は小学校時代に給食という制度を通じて米国国民の在り方に接し,アメリカンドリームにあこがれてきた。そして日本の民主主義は幼稚である、と教えられ、以後、官民通じて、その実現への努力をしてきたのではなかったか。何年前になるか、話題になった本 歴史の終わり でフランシス福山は民主主義と資本主義の勝利を宣言した。あの熱気はどこへ行ったのだろうか。

一方、僕らは程度の差こそあれ、マルクス主義から無縁で過ごしてきたわけではない。だが現実の前に、というか社会主義共産主義を論じる人たちの行き過ぎた教条主義のまえに社会主義国家というものは専制なくしては実現しないものだ、と考えるようになっていた。之もある意味では福山の論調を支えていたのではないか。

だが、今のアメリカの現実、他方、いかに苦しくても雇用を守ろうとする多くの企業の在り方などを見ると、我が国日本は結果として世界で初めて、人権、自由、社会正義、といった倫理を資本主義、民主主義と共存させている国なのではないか、と思えてきた。地球規模の環境問題や安全保障などといった、それこそグローバリズムが基礎となるこれからの世界で専制主義によらず国民の民度と倫理性によって、社会主義と民主主義を両立させている国。日本はそういう国なのだ、と思わないか?

(36 翠川)
”国民の民度と倫理性によって、社会主義と民主主義を両立させている国。日本はそういう国なのだ”に共鳴。

テレビで見ている限りでは、「駐在していた半世紀前のアメリカと比較して、何という国だろう、ベトナム戦争とアポロ打ち上げを両立させ、必死だった頃のアメリカと何処がどう変わったのだろう?」と感じています。

 

学術会議騒動について  (44 安田耕太郎)

学術会議の設立は昭和24年。行政、産業及び国民生活に科学を反映、浸透させることを目的として、内閣総理大臣の所轄の下、政府から独立して職務を行う「特別な機関」として設立された。職務は以下の2つ。1.科学に関する重要事項を審議し、その実現を図ること。
2.科学に関する研究の連絡を図り、その能率を向上させること。

非常にあいまい且つ抽象的であり、実践的・具体的な職務は一般人には理解しがたい。日本学術会議の役割は、主に以下の4つであると規定されているる。

1.政府に対する政策提言

2.国際的な活動
3.科学者間ネットワークの構築
4.科学の役割についての世論啓発第二次世界大戦後すぐに設立された理由と目的は、明らかに敗戦後の日本を立て直し、将来の発展と成長を目指し、国内の知能を総動員していわばオールキャストで目的を果たす役割を担ったのである。1990年頃バブル経済の破綻で戦後、成長拡大し続けた経済も天辺を打ち、その後は今日に至るまで30年間、沈滞と低迷の時期の真っただ中をうろついている。その責任の一端は日本学術会議にもあると認める謙虚さを望みたい。

日本学術会議が担った役割は設立から40年を経たバブル経済崩壊の頃までにほぼ終焉しているにではと推察している。いわば「大きな政府」時代の大きな組織が遺物化したのが現在の日本学術会議の姿ではないだろうか。延命と権力維持を二つの柱として存立している官僚組織の姿を見る思いがする。構成メンバーにとっての経済的利益は引退後の年金収入を含めて抗し難い面もあろう。70年経た組織が硬直化し、官僚化するのは避けられない。

国民の税金を財源として運営され、その役割・効果・責任・権限・成果の詳細は知る由もないが、それらが曖昧だとすれば、その存在はもはや許容すべきではないと考えている。優秀かつ目的意識も高い各構成メンバーなりメンバーから構成されるグループ(と、信じたいが)は、彼ら独自に(日本学術会議の枠外で)自由に意見なりを発表する機会も手段も場も与えられているはずである。自ら能動的に行動すれば可能であろう。自由の侵害などと主張するのはお門違いである。政治イデオロギーの信念を盾に研究分野を勝手に選別したり、拒否するのは税金で運営されている機関としてはもってのほかである。

矮小な問題としては菅首相は6人の任命を見合わせた理由をもっと論理的に返答をすべきであったろう。しかし、もっと重要な根本的問題は、日本学術会議の存在意義についての抜本的な検討であろう。首相はもはや積極的な存続理由は見いだせていないのではと推察します。但し、その大きな問題を論議することの政治的深刻さを考えれば、のらりくらりと昼行燈に徹するのが賢明だと政治的に判断していると推測している。

日本学術会議に設立当時期待された役割と効能は、日進月歩で変化する科学分野と複雑で流動的な世界情勢に対応する為、複数の専門的シンクタンクを利用して流動的にフットワーク軽く柔軟に対処する必要があるだろう

日本の健全な生存と発展には、今や国内の内輪同士のもめごとにかまけている余裕などなく、世界に伍していけるシステムと能力を備える必要がある。コロナ禍によって露呈したデジタル分野の後進性と脆弱性だけは科学分野では御免被りたい。真に国の総力を挙げて効率的に運用できる仕組みが早急に構築されることを強く望む。政府の正しく強いリーダーシップと、果断にして迅速な意思決定と運用がカギを握っている。優柔不断で適正能力不足の政府では国民が不幸にされるだけである。

”白人ナショナリズム - アメリカを揺るがす文化的反動” について 

大統領選挙目前にいろんな情報が入り乱れる昨今だが、米国で起きている社会的な動きから国際関係が変動するかもしれない、ということを考えさせる本書を読んだ。著者渡辺靖氏はアメリカ研究の専門家で、招かれて義塾SFCの教授をしている人である。編集子が曲がりなりにも提出した卒業論文の主要な論点が米国社会の思想潮流でもあったので、興味をもって読了した。中公新書 800円。

2019年4月20日付け本稿で、同氏の ”リバタリアニズム” について書き、カリフォルニア在住の五十嵐恵美から、現地での反応について情報をもらった(5月15日付け本稿)。今回、同じ著者が書いた表記の本を通読したが、正直、リバタリアニズムなる動きよりもはるかに現実的な問題として衝撃を受けた。

リバタリアニズムは個人の自由と経済活動の自由を最重視する考え方で、結果として経済的側面では保守、社会的にはリベラルな性格を持つと定義され、現在の仕組みで言えば共和党と民主党双方に共通する性格を持つ。この真逆に位置するのが、個人的にも経済的にも自由度が低く、個人よりも国家の利益を優先する権威主義ということになり、現存する共和党対民主党、という立ち位置はこの中間にある。権威主義、とは国家主義、宗教主義、共同体主義、人種主義などいろいろな思想が入り乱れるが、結果としていままでの米国において主流となったことはないし、米国人の大半にとって忌むべきもの、不当なものと考えられてきた。それは彼らが常に誇りとしてきた建国の思想であり、FREE COUNTRY という一言が世界中の人々にこの国に対するあこがれを抱かせてきた。日本人の多くも、その理想を追求する国に、模範として敬意を払ってきたように思う。現実に我々が憧れ、尊敬してきたアメリカという国の形は1950-60年後半あたりまでの、ケネディが磨き上げた国のイメージだったし、米国人の多くも同じ感覚を持っているようだ。そこにはに移民によって成り立つこの国が数多くの障害を乗り越えても、”建国の思想” を守り続けていくはずだ、という確信があった。

上記の考え方を整理したノーラン・チャートといわれる図

本書でいう白人ナショナリズム、という動きはこのイメージを完全に破壊してしまうものだし、その動きには現在のトランプ政権の在り方と重なる部分が多いのだ。リバタリアニズムまでは数多くある人間主義のひとつであり、ユートピア思想であって、それが現実の社会になるということは(主張している人を含めて)考えにくかったので、アカデミズムの場での話、と思っていられたのだが本書のフィールドワークが語るものが現実化していくという可能性は誠に不気味だ。

我々は贔屓の引き倒しだと思うのだが、黒人への差別などが我々の尊敬する良き米国に対する挑戦だと決めつけてしまう。ケネディの方針に従ってはじまった、人種差別をなくせ、という国家施策がまず、黒人市民への差別の撤廃を目的とするEQUAL OPPORTUNITY という形で始まり、のちに対象が性差別とかそのほかの障壁をなくす、という目的で DIVERSITY というよりポジティブが名称で推進された。ここまではよかったのだが、その流れの中に POLITICAL CORRECTNESS (PC) という動きが主流を占めるようになった。すなわち、DIVERSITY の主張に反することを言ったりしたりすることが反社会的であり、時には訴訟の対象になったりするようになっていく。たとえば議長、という単語がCHAIRMAN だったのが男女差別になるとして CHAIRPERSON といわなければならない、というようなことで、枚挙にいとまがないほど PC の影響は大きい。もちろん、その結果が非白人、女性などの地位向上に役立ったことは評価されるべきだが、この動きによって、特に人種でいえば非白人の行動はたとえ現存する社会や慣習に逆らうものでも是認されることが増えたのに、白人側がそれに反したり抵抗することは反社会的だとされる風潮が増えてきてしまった。

著者がこの調査をしている間にあった、いくつもある関係団体のうち、代表的なアメリカンルネサンス誌の主宰者ジャレド・テイラーとの会話が記されている。

もし日本に外国人が数百万単位で入ってきたら、日本人は違和感を覚えませんか? それに異議をとなえたとき、”日本人至上主義者” や ”人種差別主義者”というレッテルを張られたらどう思いますか? ”白人は嫌いだ” と公言してもさほど批判されないのに、私たちが”ヒスパニックは嫌いだ”というと ”白人至上主義者”と批判されるのです・・・・黒人の命は大切(Black lives matter) ですが、白人の命は大切 (White lives matter) でもあります。

この団体のように、行き過ぎたPCに反発するがいわば温和路線の団体はいくつもあるとのことだが、彼らをナショナリストと呼ぶのは言い過ぎだろう。ただ、反PCの運動がさらに進むと白人優位を堂々とに主張する動きが出てくるし、かつての反黒人団体クー・クルックス・クランの系列に入るような運動も増加しているようだ。どのような団体がどのような主張をしているのかをここで繰り返すことはしないが、その究極にははっきりとアメリカは白人の国であり、その背後には建国以来の歴史とか、明快に人種間には科学的に立証される優劣の差がある(アジア人種が最も優秀でその次が白人、それからアフリカ系人種となるのだそうだ)などという論議が展開される。上記テイラーは若い頃は熱心なリベラルで平和部隊に参加していたが、コートジボワールへ派遣されたとき、そのあまりにもひどい困窮ぶりに驚いていたら、現地の大学生が当たり前です、コートジボアールは白人がいたからこそ発展したのです、と言ったそうである。

さらに冷厳な事実として、2040年代には米国国民の多数が非白人、特にヒスパニックにとってかわられる、ということ(南西部ではすでに起きている)がこの動きに拍車をかけるのは間違いない。また、先走りすれば今回のコロナ問題によって引き起こされた社会不安がグローバリズムへの批判となり、さらには此の米国経済の中心に当たる部分がユダヤ系に握られているという不満など、我々日本人には理解しがたい社会構造もまた、大規模な変動の素地でもある、と著者は指摘する。

ここまでくると、現在米国で澎湃として起きている社会現象は単なる反PCというレベルではなく、明らかにナショナリズム、と言っていいもののようだ。これら白人ナショナリズムに好意を持つ人の多くが現在のトランプ政治の支持者であることは今秋の選挙にどこまで反映されるのだろうか。今まで我々はいわば自動的にトランプ政治に批判的であり、民主党政権の復権を期待してきたように思い、コロナ騒動にともなう現政権のエラーの数々がその期待を裏書きするように思ってきた。国際政治がらみからの考察ももちろんだが、かの国で起きているこの社会的、文化的変動がどう響くのか、予断を許さない状況であるようだ。

自粛ムードで有り余る時間に、ぜひこの本を読まれることをお勧めしたい。

 

“襲われた幌馬車” と 麻生発言

”襲われた幌馬車” は懐かしき西部劇のひとつで一昨日、BS3番での放映があった。まず、小泉幾多郎西部劇論から。

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 6月5日西部劇「襲われた幌馬車」が放映されたことでの感想。
1956年製作。大分昔に観たので殆んど忘れていた。リチャード・ウイドマーク主演。「悪の花園」「ゴーストタウンの決闘」「ワーロック」等、ゲーリ-・クーパー、ロバート・テイラー、ヘンリー・フォンダという名だたる俳優との共演で損な役回りが多かったが、これは「六番目の男(1956)ジョンスタージェス監督作品」と同様、完全なる主演者なので気持ちよさそうに演じていた。 冒頭、ライフル銃を構えたウイドマークが、川越しに狙いをつけ、一人を射殺する。その後3人と打ち合い、二人を殺す。連中の胸にバッチが見える。悪役ウイドマークかと思いきや、後で判るのだが、コマンチ族インディアンの妻と子を殺された
敵を討ったのだった。しかし最後の一人に捕まり、縛られたまま馬で引っ張られる等残虐行為を受けるが、モルモン教徒らしき幌馬車の一団と同行することになる。胸バッチの残虐行為は同行してもやまず、それがコマンチと勘違いしたのか、コマンチと同居してきたからなのか、よくわからなかったが、最近白人警察官が黒人を地面に押さえつけて殺害という事件を彷彿とさせた。
幌馬車を率いるリーダーの先妻がインディアンでその娘と白人の後妻の娘との葛藤とかもあり、人種問題も提起される。監督はあの歴史上はじめてインディアン側から描いた西部劇と言われた「折れた矢」の監督デルマー・デイヴィスである。その後アパッチ族の攻撃をウイドマークの戦略で無事切り抜け、最後は軍事裁判での将軍による大岡裁定で、めでたしめでたし。 ウイドマークのインディアンに似た風貌で、出来る限りセリフの少ない、またストイックな流れるようなアクション等主人公にぴったりと合ったこと、ロケ地が、アリゾナ州セドナのオーククリーク渓谷で、カセドラルロックといわれる聳え立つ赤い絶壁の岩山等がいつも背景に眺めることが出来、楽しむことが出来た
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小泉論評にもあるが、この映画で人種差別の問題が提起された。よくあるテーマなのだが、編集子が特に興味を持ったのは、小泉さんが ”大岡裁き” とかかれている裁判でのウイドマークの発言である。裁判長のもと将軍が、たぶん、経験の浅い将校に率いられた陸軍の小部隊がウイドマークの活躍で救われたことに対して恩義もあったのだろう、殺人の動機について、斟酌したいという気持ちを示したのに対し、ウイドマークはあえて自分ははっきり意識して、冷血に(cold  blooded) 殺人をしたのだから、縛り首で結構だ、と明言する。驚いた将軍との間で展開された議論で、ウイドマークは 将軍は南北戦争で大勢の敵を cold blooded で殺したではないか、と詰問する。将軍はそれは同胞を守るためだったのだ、だから合法だ、と答えるのだが、同胞とは何か、それは南軍、北軍などと言う前に同じアメリカ人のことではないのか。そのアメリカ人にコマンチ族ははいらないのか。法とは何だ。白人に法があるようにコマンチにも法がある。自分たちが勝手に作った法律だけを言うのは間違っているではないか。この展開に将軍も困ってしまい、結果としてウイドマークを彼に好意を持つ女性と彼を慕う少年に預ける、ということでハピーエンドになるのである。
映画の背景としてその将軍が南北戦争に参戦していたということになっているのだから、1867-8年、日本で言えば明治維新のころの話だろう。それから150年以上、4世代くらいまえのことだが、いまなお、米国は人種差別問題で解決を見いだせていないようだ。これはこのまま、単一民族、単一文化の日本ではどうしても理解できない歴史の汚点として残っていくのか。
そこへ今、全米で問題になっている暴力事件である。これのきっかけとなった警官の行為は、たぶん白人相手ならしなかっただろうと思っていたのだが、その後いくつかのニューズ画面で、白人の老人や女性に対して警官が警棒で女性を殴る、デモを利用した商店の略奪が黒人だけの犯行ではない、など、日本では想像もできない行為が報道されるのを見ると、これは単に人種差別だけの問題ではなく、アメリカ人全体の成熟度、一言でいえば民度、の問題なのではないかと思わざるを得ない。
民度、という単語の専門的な定義は知らないが、ここでは生活水準とか、教育程度だけの問題だけではない、個人と社会とのかかわりあいを含んで使っている。つまり、自己の尊厳、ということと同じ次元で、公徳心、公共精神、おもいやり、といったことだ。このことを先日、英会話のレッスンで説明したら、英国人のインストラクタはそれを SOCIAL OBEDIENCE という用語で理解した。その時はなるほど、と思ったのだが、OBEDIENCE には服従とか、何か強制されている、というニュアンスがある。これに加えて彼は、日本社会の根本にある SHAME という感覚、”恥の文化”( “菊と刀” のルース・ベネディクトがこう名づけたように覚えているが定かではない)が機能しているからだ、と言う。
たしかにわれわれは ”人様に迷惑をかけるのは恥” というしつけを、学校教育よりも早くから、家庭のなかでされてきた(少なくとも昭和人には。話が飛ぶが、昨今はこういうことまで学校の責任だとする風潮があるのは誠に残念)。この伏線が、たとえば東日本大震災の時にはいかんなく発揮されて、前回もどこかで触れたと思うが、救援にかけつけてくれた米軍指揮官を感動させたし、なによりもそれが顕著に表れたのが、今回のコロナ騒動での国民全体の行動だったと思うのだ。
例によって”日本モデル” には安倍首相の政治宣伝らしきニオイが漂っているのはたしかであるが、少なくとも今までは日本でのコロナ封じ込めの成功が欧州の人には理解できず、なにか統計上の問題があるのではとか単なる幸運なのだという論議が盛んである。山中博士のいうファクターエックスが特定できるのを僕らは待つしかないが、一つだけ確かなのは今回の騒動が科学的問題であると同時に社会の成熟度の問題でもあるということだ。”マスクをする“ ことが、発生はともかく蔓延を防ぐために有効なのは、懐疑的だったWHOも認めたようだが,”する” ”しない” は科学上の課題ではなく、個人の公共意識の問題である。ロックダウンもせず(もっともできなかったのは憲法上の問題でもあるようだが)、個人の意識と自制に頼った今回の政府対策が効果を上げたのは、何といっても、そういう意味での日本人、日本社会の民度の高さを立証したのだと思ってきた。
”日本モデル” があやしいものなのでは、あるいは単なる幸運なので、政府の対応が功を奏したのではない、もっと(また例によって)欧米のような科学的対応をしなければならない”という論調がある。原因追及のために世界と強調していくのはもちろんんそうあるべきだが、例えば、昨日報道されたフランスの例にあるように、”人混みを避ける“ ”マスクをするのが効果的だ” と公的に認めてもなおかつ、実行しない人間が多すぎるため、外出証明書の携帯とか、高額な罰金とか、そういうものがないと実行がむずかしい、という現実は一体何なんだろうか。”欧州のように” 論者がその文化の中心と崇め奉るフランスはパリの現実はどう考えたらいいのか。いくらワインの銘柄にくわしくともソルボンヌを出ていようとも、”人様に迷惑をかけない” 意識がなければ現実の社会で正義は成立しない。そういう意味で今回のコロナ対応の多くは、 ”恥の文化” であろうと SOCIAL OBEDIENCEだろうとかまわないが、日本の民度の高さ、文化の表れとして評価すべきものだと信じてきた。
そこへ、数日前の読売新聞は麻生副首相の発言として、”外国から日本だけ特別な薬を持ってるんじゃないか” などという問い合わせがある。それに対して日本の民度の高さのためだ、と言ってやったらその後そういう話はなくなった” という報道があった。小生、このおじさんはどうも好感が持てない政治家のひとりなのだが、今回の発言に限っては、タロー,よく言ってくれた、という感じを持った。だからといって現政権がいい、と言ってるわけじゃないんだが。

”政府対応” 記事について  (37 菅谷国雄)

新型コロナウイルスの来襲で世の中すっかりおかしくなってしまった。今まで経験したことがないウイルスの蔓延に、政府も慌てふためき、場当たり的な対応策に追われている。特に非常事態宣言と差し替えに出された「国民一人当たり10万円支給」の政策に、国会も満場一致、マスコミも異論を唱えず、国民は「早くよこせ」の大合唱である。当初案の「困窮者優先・30万円支給」はどこかに吹っ飛んでいる。お上が、国民に飴玉を与えてご機嫌を取る選挙目当ての政策に誰もが気付いていながら声を出す者が居ない。リーダーや国会議員を選ぶ選挙制度にも大いに問題がある。与党も野党もこの飴玉探しにやっきとなり、マスコミもこれを煽ることに終始している。世界的ポピュリズムの蔓延に、我が国の民主主義も危ない橋を渡ろうとしている。国民が国を信用しなければ、国も国民を信用しない。愚民政策は恐ろしいことだ。

明治の民主主義の揺籃期に、その困難さに気付いていたのは福澤諭吉であった。個人の自立、智徳の向上、国を支える気概なくして真の民主主義は育たない、デモクラシイーはそれぞれの心の内から崩れていく、このことに最初に気付いた思想家は福澤諭吉であったと、小林秀雄も「考えるヒント」に書いている。

今、もしこのコロナ禍に先生がご健在であったなら、時事新報にどんな社説を述べたのだろうか。

かってウィンストン・チャーチルは「民主主義は最悪の政治形態だ、ただしこれまで試されて来た全ての形態を別にすれば」と述べたが、コロナ後の世界がどの様な方向に進むのか、民主主義が危ない橋を渡ったその先を、誰が描くのだろうか。80歳の老人も刮目し黙っていることは許されない。

チャーチルの名言「現在我々は悪い時期を通過している。良くなるまでおそらく現在よりも悪くなるだろう。しかし忍耐し我慢しさえすれば、やがて良くなることを、我々は全く疑わない」、未だこうした希望を訴える国やリーダーが世界中に少しでも残っているなら、わが国も進んでその仲間に入りたいものだ。

改めて今の愚民政策憂うる!

10万円が出て、自粛中のパチンコ屋に行列が出来ないことを祈りつつ・・・  

(編集子注)ご指摘の問題点、このあたりは全く日本の政治の遅れとはいいませんが、何よりも不甲斐ない野党のために二大政党制が定着しないことが問題だと思うのですがいかが。このことだけについては、”ほかの国はできているのに日本は?”という感覚に賛成です。

         

ネリカンからの手紙―ポピュリズム論議に付け加えて

新しい年になった。昨年末に起きた韓国海軍のお笑い種級の事件も考えてみるとこれから何かの発火点になるかもしれない。戦争もなく、治安も良好だった、というのが平成時代に対する国民の意識だということだが(NHK世論調査)、かつて大正デモクラシーと言われた平和の後に何が起きたかと考えてみると想像もつかないことが起きるかもしれない。しかし核のバランスの上に成り立っている現在の緊張がすぐさま戦火になる、というよりも、イデオロギーの如何を問わず起きているポピュリズム―大衆社会化ー個人の喪失、という流れは断ちがたいものになるのだろう。年の初め、昨年安田君との論議から始まったこのシリーズのまとめをしておきたい。

昨年末、40年の益田君からメールをもらった。彼とはスキー合宿を通じて知り合い(それまでは顔を知っている程度だったが)、お互い、ミステリや冒険小説が好きだとわかり、しばしば、意見や情報を交換するようになった。今回はジェイフリー・ディーバーの作品に登場する人物についてのだが、メールを転載する。

リンカーン ライムが黒人だったとは?(まだ存命だと思いますのでだったとは失言) 先日チャンネルを回してましたら、気が利いたと思われる映画の画面に出くわしました。黒人がベッドに寝てました。その会話で、リンカーンライム云々と聞き、まさかと、目と耳を疑った次第。

我々日本人からしますと、黒人か白人かは、男性についてはそれほど意識しないのではないでしょうか?それに拘った物語は無論別です。しかし白人のつもりで読んでましたので、仮に黒人と知ってましたら、物語の根幹から変わる事はないとは思いますが、会話につきましても、違った、感じ方、味わい方が出来たかもしれません。

 彼の興味は、同じ英語であるのに白人と黒人とでは発音や話し方が違うが、それが翻訳された状況ではわからない。もし原語で読んだらその違いがわかるだろうか、ということであった。もちろん僕程度の知識ではわからない、というのが答えなのだが、ここで引用させてもらったのは別の目的だ。

彼が言うように、つまりわれわれからすれば白人も黒人もひとくくりにすれば“ガイジン”であり、常に単一民族である ”日本人“対”非日本人“ という意識しかない。前回でふれた ”民族意識“ といったものは言ってみれば持ちようがない国であり、それは別の言い方をすれば、日本人である限り、その間には以心伝心とか、”わび・さび”とか、”おめえ、それをいっちゃあおしめえよ” というような、前提なしのコミュニケーションが成立していて、それを前提として社会制度や文化が成り立っている、すくなくとも成り立ってきた。フランス啓蒙時代以降、つねに ”理”が先行する西欧社会人には理解不可能な、われわれからすればこの国にのみ存在する”居心地よさ“は、僕が予想する ”大衆社会“ の到来によって変わってしまうのだろうか。

昨年11月26日の読売新聞に、ゴリラ野外研究の世界的権威、京都大学の山極寿一氏の話が対談形式で紹介された。山極教授は大略、次のように述べておられる。

生物の進化というのはネットワークという文脈で議論できる。ゴリラやチンパンジーは身体的な接触によってネットワークを作っている。したがって集団から物理的に離れてしまえば関係性は完全に断絶する。しかし人間は言葉というもの、それによって事物を抽象化する能力を手に入れ、それによってネットワークを発展させることで現代の社会を構築することができた。

しかし現代は距離や時間に関係なく世界規模で情報が伝達される時代であり、情報がどこまで伝達されるのか分からなくなってしまっている。同時にそのため、リアルなものから離れ、個々のものの個別性を意識する機会が減る。つまり現実を脳の中に投影したモデルを現実と思い、幻想を見るようになってしまった。

この対談の目的はべつのところにあるのだが、教授の指摘された問題こそ、“大衆社会”のもたらす根源的な問題なように思われ、今回の報告に付け加えた。

益田君の(引用されるのにご本人は迷惑かもしれないが)メールがきっかけで、日本人が共有する”以心伝心”的な一体感がこの世界的な変化のもとで、そのまま”大衆社会“のネガティブに変わってしまうのか、あるいは逆に(個人価値を至上の価値とする西欧文化には存在しにくい)一体感を持ち続け、将来にわたって”日本文化“を継承し得るのか、という問題を改めて感じた。益田君はまた別のメールで次のように書いてきた。正直なところ、僕の意見でもあるのだが。

ポピュリズムに関しましては、我々日本人に取りましては、主にヨーロッパ史においての紙の上で理解しているだけのように感じます。司馬遼太郎がいろんなところで言っていますが、日本が島国で良かった、鎖国して良かった、単一民族で良かったと。

今年もよろしくお願いいたします。

 

ポピュリズムとは何か  まとめ 

前回、安田君は彼の意識を次のように結んだ。
ポピュリズムの台頭はヨーロッパのみならず世界の大きな潮流で、人口数順位で世界の7つの大きな民主主義国家の内、実に5つの国でポピュリストが政権を握っている。即ち、インド、アメリカ、ブラジル、メキシコ、フィリピンで、これらの国の人口は合計で2億人、世界全体76億人の約3割に相当。ヨーロッパでは前述の通り1.7億人がポピュリスト政党政権下に暮らしている。更にヴェネズエラ、左派ポピュリストムンジェイン大統領の韓国を加えると24.5億人がポピュリスト政党政権下に住んでいることになる。ポピュリスト政権国家が発展途上国の中にあるかも知れないし、いずれにしてもポピュリズムの浸透振りは予想以上だ。
ただ、全ての国でポピュリズム或いはポピュリスト政党が増殖し続けているかというと、退潮傾向を示している国もある。唯一の左派ポピュリスト政権政党ギリシャのSyriza党は2015年の得票36%から直近では27%へ、デンマークの右派ポピュリスト政党も21%から17%へ下落、ベルギーでも退潮傾向がある。ブレグジットを牽引したイギリスのファラージ率いるUKIP党も2年前程の勢いはない。2019年前半に実施されるウクライナ、デンマーク、フィンランド、ベルギーの選挙結果待ちであるが、全体としては現在の勢いと強さは概ね維持されると予想される。2020年11月のアメリカ大統領選でトランプが再選されるか否かは世界のポピュリズムの潮流を大きく左右するだろう。ポピュリズム台頭の一要因であった移民・難民問題が小康状態であるし、やはり鍵を握る最大の要因は経済問題であろう。経済は政治と言われる所以である。アメリカ大統領選挙の翌年には安倍首相が任期満了を迎える。日本はどうなって行くのだろうか?
以下、中司の考えを二人の共通意識として本稿をまとめる。

いろいろな見方があるのは確かだが、このような問題の背後にはいわゆるグローバリゼーションという世界的潮流があるのではないか。

このグローバリゼーションが引き起こした各国大衆の反応がポピュリズム、ひいてはナショナリズムといわれ、現在の不安定の要因だとされる。ナショナリズムとは愛国心と民族意識の高まりであるという。愛国心のほうは理解できるが、民族意識とはなんだろうか。教科書によれば、民族、という意識は人種とは違う。19世紀以降、帝国主義の高まりによって、西欧から中東までの地域には、人種文化を無視した理由によって国境が敷かれ、一つの国に複数の人種がせめぎあう結果を生んだ。ここで国籍と人種とは別に”民族“という意識がうまれる。ある国の中に民族、という意識が生まれるとそれは偏狭な同族意識になりやすく、それが支配階級に対抗する動機となり、ポピュリズムを生むというのだ。講義で見たビデオの中に日本をとりあげたものがあった。上記の議論を前提とし、日本もまた強烈なナショナリズムに傾いている、という、はやりの言葉で言えばフェイクニューズの類で、出席者の間でも失笑を買うようなものだったが、この時点ですでに300万を超える視聴があったというのだから多少不安にもなる。

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だが、ここまでの議論とは別に、僕が特に考え込んだことがあった。それは “とうとう、世界が大衆社会化したな” という一種の諦観である。

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大衆社会論のきっかけとなったエリッヒ・フロムの主著

70年代から80年代、繁栄を続ける西欧社会であらためて ”人間の疎外“ という現象が意識され始めた。機械文明の下でひとびとは自分の意識や良心といった個人の存在を失い、独裁者とか特定の組織の主張が宣伝・広告などのマスコミを通じて大衆を支配していくようになる。その好例がヒトラーとナチズムの支配だったという議論があった。僕が高校時代に遭遇したフロムの ”自由からの逃走“ はまさにそのような本だった。このころの議論が指示した方向はもちろんいろいろあるが、共通して指摘されたのは、ナチズムの史実が示したようにプロパガンダの悪影響であり、それに加担したマスコミの問題だった。そして将来、個人、という単位は消滅し、だれがどこで発しているかわからない、”大衆“の力に左右されていく。近代社会を支えてきた人間の尊厳という概念すら”Mass”の中に埋没してしまうだろうという悲観論、一般に“大衆社会論”と呼ばれた思想が出てきた(ワンダー生活の隙間で、何とかゼミだけは人並みに出ていた僕はこの関係の本だけはフロムの主著 ”Sane Society” を中心に多少なりとも読み込み、卒論も何とか認めてもらえた)。

しかしここまでの議論には、まだ救いがある。マスコミ自体の理性とか自浄作用とかいったものにも期待ができたからである。しかし当時はインターネットという魔物がまだ存在しなかった。個人が組織や社会と接点を持つ能力にはまだ技術的な限界があったし、良心的・理性的な第三者もマスコミを通じて介在できた。しかしSNSというものが登場し、スマートフォーンが常識になった現在、一切の干渉なしに個人は未知の他人に直接、情報なり意見なりを伝達できる。もちろんそのことによる利点は数多くあるが、逆に言えば、個人はマスコミという手段を必要としなくなりつつある。アメリカの大統領がツイッターを使えば自分の主張を日常の言葉で、感情もあらわに各個人に押し付けることが可能になった。フィリピンの大統領は自分が擁護すべき法律を無視して究極的暴力に訴えて大衆の支持を得た。もしかの国に、ワシントンポストか(わが国では悪名高いが)朝日新聞でもあったら、その結果はもう少し理性的なものになったかもしれない。

トランプ現象を単なる選挙手段の巧拙と考えるのはまちがいなのではないか。ポピュリズムのすぐ次には、まさに大衆社会というより大きな、後戻りできない地球規模の混乱が待っているのではないか、というのが僕の感想である。

久しぶりにじっくりと考え込む機会を今回の講義は提供してくれた。先輩の気まぐれに付き合ってくれた安田君に改めて感謝をしたい。