いろいろな見方があるのは確かだが、このような問題の背後にはいわゆるグローバリゼーションという世界的潮流があるのではないか。
このグローバリゼーションが引き起こした各国大衆の反応がポピュリズム、ひいてはナショナリズムといわれ、現在の不安定の要因だとされる。ナショナリズムとは愛国心と民族意識の高まりであるという。愛国心のほうは理解できるが、民族意識とはなんだろうか。教科書によれば、民族、という意識は人種とは違う。19世紀以降、帝国主義の高まりによって、西欧から中東までの地域には、人種文化を無視した理由によって国境が敷かれ、一つの国に複数の人種がせめぎあう結果を生んだ。ここで国籍と人種とは別に”民族“という意識がうまれる。ある国の中に民族、という意識が生まれるとそれは偏狭な同族意識になりやすく、それが支配階級に対抗する動機となり、ポピュリズムを生むというのだ。講義で見たビデオの中に日本をとりあげたものがあった。上記の議論を前提とし、日本もまた強烈なナショナリズムに傾いている、という、はやりの言葉で言えばフェイクニューズの類で、出席者の間でも失笑を買うようなものだったが、この時点ですでに300万を超える視聴があったというのだから多少不安にもなる。
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だが、ここまでの議論とは別に、僕が特に考え込んだことがあった。それは “とうとう、世界が大衆社会化したな” という一種の諦観である。
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70年代から80年代、繁栄を続ける西欧社会であらためて ”人間の疎外“ という現象が意識され始めた。機械文明の下でひとびとは自分の意識や良心といった個人の存在を失い、独裁者とか特定の組織の主張が宣伝・広告などのマスコミを通じて大衆を支配していくようになる。その好例がヒトラーとナチズムの支配だったという議論があった。僕が高校時代に遭遇したフロムの ”自由からの逃走“ はまさにそのような本だった。このころの議論が指示した方向はもちろんいろいろあるが、共通して指摘されたのは、ナチズムの史実が示したようにプロパガンダの悪影響であり、それに加担したマスコミの問題だった。そして将来、個人、という単位は消滅し、だれがどこで発しているかわからない、”大衆“の力に左右されていく。近代社会を支えてきた人間の尊厳という概念すら”Mass”の中に埋没してしまうだろうという悲観論、一般に“大衆社会論”と呼ばれた思想が出てきた(ワンダー生活の隙間で、何とかゼミだけは人並みに出ていた僕はこの関係の本だけはフロムの主著 ”Sane Society” を中心に多少なりとも読み込み、卒論も何とか認めてもらえた)。
しかしここまでの議論には、まだ救いがある。マスコミ自体の理性とか自浄作用とかいったものにも期待ができたからである。しかし当時はインターネットという魔物がまだ存在しなかった。個人が組織や社会と接点を持つ能力にはまだ技術的な限界があったし、良心的・理性的な第三者もマスコミを通じて介在できた。しかしSNSというものが登場し、スマートフォーンが常識になった現在、一切の干渉なしに個人は未知の他人に直接、情報なり意見なりを伝達できる。もちろんそのことによる利点は数多くあるが、逆に言えば、個人はマスコミという手段を必要としなくなりつつある。アメリカの大統領がツイッターを使えば自分の主張を日常の言葉で、感情もあらわに各個人に押し付けることが可能になった。フィリピンの大統領は自分が擁護すべき法律を無視して究極的暴力に訴えて大衆の支持を得た。もしかの国に、ワシントンポストか(わが国では悪名高いが)朝日新聞でもあったら、その結果はもう少し理性的なものになったかもしれない。
トランプ現象を単なる選挙手段の巧拙と考えるのはまちがいなのではないか。ポピュリズムのすぐ次には、まさに大衆社会というより大きな、後戻りできない地球規模の混乱が待っているのではないか、というのが僕の感想である。
久しぶりにじっくりと考え込む機会を今回の講義は提供してくれた。先輩の気まぐれに付き合ってくれた安田君に改めて感謝をしたい。