訃報

ここの所、親しかった友人やら先輩の訃報が多い。自分自身の終焉も遠くはない年齢になってみると余計に敏感になっているのだろうか。

本稿でも何回か触れた愛読書のひとつ、北方謙三の ”ブラディドール” シリーズ全10冊の終わりの方で、主人公が親友を亡くす場面がある。その時、主人公が自分に言い聞かせるようにいうセリフが小生にこの ”別れ” について唯一納得できる解答のように思える。

”俺たちにできるのはあいつを覚えていてやることだけさ”

葬儀に列席すると,納棺の前の ”故人と最後のご対面” という儀式、小生はこれが好きではない。故人との付き合いが深いほど、その思い出がデスマスクを見ることによって薄れてしまうのが耐えられないからだ。

Mがなくなったのは時悪しくコロナの最盛期で、多くの場合葬儀自体が難しく、遺族も弔問客への伝染をおもんばかって会葬を制限してしまうことが多かった。普通部時代からの親友Kの場合もそうだったが、Mの一番の友達だ、と思っている自分にもご遺族のご意向で葬儀への出席はかなわなかった。

翌日、夫人から奴のご遺体が自宅にあるから、来てほしい、と電話があった。タクシーを飛ばせば30分とかからないのだが、俺は行かなかった。死に顔を見てやる、というのは確かに儀礼として正しいことだろうが、そのことで奴を ”覚えていてやる” ことを妨げるのが怖かったからだ。俺にとって、Mとの別れになった、雨模様の日蔭沢での、あの、見慣れた顔、それが脳裏から消えてしまうのが怖かったのだ。

たぶん、夫人は不快に思われただろう。今まで言い訳はしていないが。