こちらMSS会も健在 !

昨日の同期入社グループに引き続き、今日は ”YHP マネジメントサービス課” 通称MSSの同窓会として2日連続の昼酒となった。以下、報告と回顧。

YHPは創業直後、各種の問題に直面し、徹底したコスト削減という目的のため、それまでに使用していたIBM製会計機と横河電機のコンピュータによる生産管理システムは廃棄され、その責任者であった小生は職を失う羽目になった。その後いろいろな過程を経て、もう一度、自前のEDP (Electronic Data Processing 当時はITという用語は存在していない)を持とうということになり、再度、その任に就いた。自分では二度とやりたくないと思っていたのだが、当時の事情で断ることもかなわず、数人のいわば “同志” と準備作業に入った。

ただ、前回あまりにもハードウエア面に集中してしまった反省もあり、EDP という職場名には断固として反対し、MSSが誕生した。古いファイルでみつけた ”辞令” を掲げておこう。以下にも時代を感じさせるドキュメントである。

”同志” として糾合した安藤滋とか田中新一などとかなりまじめなフィージビリティスタディをやった。その表紙だけかかげておこう。

現状分析。HP本社への報告であるので英文になっている。 すべてマニュアルタイプライターで作成、トレーシングペーパを張り合わせてつくったもの。
こっちは日本側トップの説得用なので日本語。ワープロなどと言うものがなかった時代、3人の中で最も達筆の(故)田中新一が書いたもの。

それでも当初から自前のマシンを持つことは許されず、当時八王子市商工会議所が持っていたシステムセンタへ通ってプログラムテストをやり、本番の運用までまで同社に依頼する状況だった。その後MSSの技術面での実質的リーダーになった藤田、沢田、堀などと言う連中はこの縁からYHPに参加した。考えてみると、中途入社、職種別採用、という当時はかなり禁じ手に近かった入社である。

その後、彼らの活躍、HP本社からの支援もあり、当時IBMが最先端機としていたシステム370の最小規模モデル、370/115を何とか導入してもらった。今の若い人には信じられないだろうが、この最小モデルについていたディスク(当時すでにDASD=Direct Access System Device,なんていう、プロまがいの呼称があった)が75Mバイトある!といって興奮したものである。このシステムはHP自体が汎用(という区分がまだあった時代だ)コンピュータビジネスをはじめたため、そのモデル3000に移行するが、小生は後事を安藤に託してMSSははなれていて、その後のHPスタンダードによるグローバリゼーションには直接かかわっていない。この野心的なプログラム推進のため、社内外から人材が集まり、活気に満ちた、面白い職場として 俺たちのMSS が出来上がった。

前振りが大変長くなった。本日参加できたメンバーの写真を掲げておく。残念の極みであるが草創期の主力だった堀重敏が最近急逝。皆で冥福を祈って黙祷をささげた。

2019MSS会 八王子マロウドインにて

 

 

 

 

 

 

ハッキリ会 健在なり

1961年4月、横河電機は創立以来となる大量採用に踏み切った。高度成長の初期、日本の石油化学・製鐵など重工業の急速な発展を支えたのがいわゆるオートメーション技術であり、そのトップを切ってきた会社は創立以来技術最優先の社是に従って堅実な人的投資をしてきて優秀な技術系学生の確保には熱心であったが、合計18人という事務系学生の採用には当然議論があったと聞いている。この会社に事務系の学生などは不要だ、と広言する役員がいる、などという話もあり、採用された18人の間には、技術屋なにするものぞ、という対抗心が生まれたのは無理もなく、その故とは言わないが堅い、いわば体育会的結束を誇って団結していた。その会をなづけて ハッキリ会という。

それぞれの職場で ”事務系” の存在感発揮に奮闘した仲間も、いままでに鬼籍に入ったもの3名、病床にあるもの5名、などであるが、舟橋利信という絶対的世話役を得て年2回、旧交を温めてきた。今回は出席7名、昔に帰っての歓談を楽しんだ。

 

2019年 秋の日帰りW

不順というか異常というべきか、近年まれにみる悪天続きの秋だったが、恒例の日帰りW当日は晴れ、本部への申し込み時点では合計132人(実際には10名前後のキャンセルはあったようだ)、今回の最年長は32年の先輩各位であった。小生は第六班、弘法山コースに参加。リーダーが目下大活躍の伊川君とあって47年の猛者が勢ぞろい。かつて(質はともかく)こういう場には絶対的多数を誇ったわが36年卒・ナンカナイ会も時間の魔物には勝てず、その上今回は常連の翠川・岡・高橋がいずれも直前に都合ができて不参ということで、やや寂しい状況だった。大人数世代の掉尾を飾ったのが関谷君以下のメンバーで、まだまだ現役裸足の活動をしている連中がいるのは立派なものだ。

浅間山の急登 (フォト関谷)

コースは秦野市民に愛されているだけあって整備もよく、楽しい半日を過ごせた。集中地はこれだけの人数を収容するとなると候補地選定も大変だろうと世話役各位には改めて感謝。

弘法山あたり (フォト関谷)

台風の余波もあって、丹沢主脈縦走のパーティだけはコース変更を余儀なくされたということだが、ハードコースを元気に踏破したOB1年生2年生の諸君がそろいのライトブルーのユニフォームで一番最後に到着、KWV伝統の老 (俺たちか!)、壮・青の交歓の場となった。小生も顔なじみになった川上君たちと杯を重ねることができ、社会人第一段階での感想などを聞いて自分の入社直後のありようを思い出した。横河電機(当時はまだ 製作所 だった)創立以来空前絶後といわれた大量採用の年、同期入社の結束は固く来週はまた昼酒の会がある。

世話役の翠川がいなかったせいもあり、解散後のプランもなかったので第一便のバスに乗り、帰宅。実に9時に就寝、6時まで熟睡、結構な一日であった。

 

昨日はお風さまでした(編集注:原文のまま、意味不明。筆者酩酊か?)。お疲れが残っていらっしゃいませんか?皆様のご協力で素晴らしいワンデルングを楽しませて頂きました。またご一緒できる機会を楽しみにしております。    47 伊川

昨日は、快晴に恵まれ楽しい一日を過ごすことができ有難うございました。荒川先輩、岩田先輩の健脚ぶりに自分も2.3年後は同様に歩けるか、心を引き締めてトレーニングやらなければいけないと痛感いたしました。関谷殿、早速写たくさんの写真を有難うございました。 36 深谷

リーダーメールのタイトルのように春のような秋ワンでした。屈強な介護メンバーに守られながら丹沢の一角を歩くという贅沢な一日でした。有難うございました。   36 遠藤

前日の大雨がスッカリ好天に変わり 素晴らしい山行でした。 私も一抹の不安を抱えての参加でしたがやや復活の自信を得た山行で感謝してます。またお元気な大先輩からも まだまだ頑張らねばとパワーを頂きました。
伊川さん 小野田さん 関谷さん 他 幹事の皆様には準備会  何度もの調査行  本当に有難う御座いました。またご一緒させて頂くのをたのしみにしています。
関谷さん 何時もながら 早速の写真 有難う御座いました。 41 下井

秋晴れの中、楽しいハイキングになりました。 なんとか歩けてよかったです。
冠雪した富士山 間近で見れました。
関谷様 富士山はじめ、たくさんの写真ありがとうございます。皆様 ありがとうございました。     42 菅谷

大変お世話になりました。ガイドブックでは初心者向きとありましたが思っていたより楽な山ではありませんでした。

今年の夏の行事の案内では最近高齢化が問題とのことで迷惑をかけないように努力したつもりです。 年々同期の参加者が減りさびしい限りです。来年どうするか今回欠席の友達とも相談の上決めようと思っています。 33 荒川

 

 

”こんな日もありけり” 予録

(10月2日アップの記事について楽しい反応があった.少し前に小泉さんのご投稿がきっかけで高校同窓の関谷君、横河電機時代の親友との3人の楽しい邂逅があったりして、このブログとやらを始めてよかったと思えてくる。今後もこのようなセレンディピティ(?)を期待したいものだ)

(39 堀川義夫)

10月2日付のブログ見ました。びっくりの写真ですね。

①一番左端の彼は名前は忘れましたが、志賀から山田峠に行くときに「のぞき」右の谷へ滑落! 私にとっては強烈に印象に残る場面でした。そのあと、彼の持っていたテントのメインを持たされました。ジャイさんの陰謀だったのでは?

②その隣(片手をあげている)は岡田正大君で、彼とは都立青山の同期でクラスメイトでもありました。別に、打ち合わせて入部したわけでなく、当時の新人の多さからFCで一緒になるまで、彼が同じワンダーに居たとは知らなかったくらいです。彼は卒後、NHKに入りその後、結構長くイギリスのBBCに出向になり、帰国後は自然界のドキュメンタリー制作に敏腕を発揮し有名プロデューサーになりました。 残念ながら、業者間との交渉事が問題視され、責任を取り退職、その後はわかりません。良い男でした!

③私の右隣は伊藤さんと言いました。直ぐにやめていますので、印象にもあまり残っていなかったのですが、ある日、家内が福井に里帰りし、高校の同窓会に出席したときに、主人が慶應のワンダー出身で、山が大好きなんです。と言う話をしたところ、この伊藤さんが堀川なら知っているということで盛り上がったそうです。家内とは福井の藤島高校でクラスメイトだったわけです。

④2日目のテン場で(少し雪が降っていたと思いますが)ジャイさんが、しきりに杉本さんに明日の天気を聞いていました。杉本さんはしきりにテントの窓を開け、難しい顔をして天気図とにらめっこをしていました。天気図をかける先輩を見てびっくりです。そして杉本さんの予報が翌日、ぴったしだったのにびっくりしました。

このプランは、草津でなく万座に下山したと思いますが・・・?? 一枚の写真からいろいろ思い出せるものですね。楽しみました!!

(37 杉本光祥)

志賀高原越えのFCの写真懐かしく拝見しました。こんな時代もあったのですね。

天気図は手塚さんと気象協会へ通って習得したものです。その後、銀行の山岳会で活躍した時も役立ちましたが、今は携帯のインターネットで見れる時代、進歩したものです。

気象は65才の定年後、予報士の資格を取ろうと勉強しましたが、目が悪くなり、細かい資料が虫眼鏡を使わないと見えなくなり、周りで講習を受講している人を見ても目のいい、ぴちぴちの若い人(特に女性)で、とても老人が取れる資格ではないと断念しました。

先月も老骨に鞭うってマダガスカルへ行ってきましたが、緑内障の進行で、下りの段差が見えず家内に先導してもらう始末で難儀しました。でももうしばらくは山旅を続けたいと思っています。

(37 加藤清治)

10年以上前だと思いますが岡田正大君が突然訪ねてきました。小生がリーダーのプランに彼が参加していたのでで懐かしくなり会いに来たとの事でした。しかし残念ながら彼のことはまったく思い出せませんでした。精神的にかなり参っているようだったので一度メシでも食べながらゆっくり話しをしようと言って別れました。その後何度か連絡をしましたが取ることは出来ませんでした。その件をオカマには話しましたが、貴兄と同じく高校とは知りませんでした。出来たら会いたいですね。   (編集子注: オカマとは39年卒小祝君の愛称)
(39 堀川義夫)
加藤さん
私は高1、2年と同じクラスで、仲良くしていました。
彼の華々しいNHKプロデューサー時代は、はた目から見ても羨ましく、
もともと、ペンギンの生態のドキュメントなど自然派だった彼には最適の
仕事場だったと思います。しかしながら、週刊誌に傲慢プロデュサーなどと
書かれ、彼の人生は一変したのではないでしょうか?
オヤカタに会いに行ったなんてちょっとびっくりです。
私が彼との年賀状のやり取りをしていたのも何時までだったか?
多分、もう、20年以上前のことだったと思います。
従って、彼との連絡のつけようもありません。
彼が元気にしているのを祈るばかりです。

 

秋の苗場単独行 (39 堀川義夫)

何年ぶりかで中央アルプスの縦走をしようかと思い、宝剣小屋に予約し、空木の駒峰ヒュッテを予約しようとしたらもう小屋締めで、小屋泊まりでの縦走は無理になってしまいました。避難小屋利用、またはテント行も考えましたが、今夏の合宿以来体力に今一つ自信が持てないので諦めました。そうこうしている内に、台風の影響で中央本線、中央高速ともに不通で南、中央、北アルプス方面に行くのは面倒になり急遽、新幹線が動いている上越、苗場に行くことにしました。苗場の頂上は、10年ほど前に和田小屋から日帰りピストンで行ったきりで頂上に泊まるのは、何年前だったか記憶にないことです。何時もテントでしたが、最後の時は今はない遊仙閣に泊まり赤湯に下山しました。

10月16日(水)晴れ

朝の新幹線で越後湯沢⇒バスで二居へ⇒始発の田代ロープウエイで山頂へ。9時10分着。本当に便利になったものと感心です。素晴らしい。山頂付近はドラゴンドラで来た観光客で大賑わい。そういえば去年の同時期に我々絆会の古希の記念旅行で来ましたっけ。天気は良いのですが、この付近紅葉は未だで観光客は少しかわいそう! 更に観光リフトを利用して標高1500m辺りまで一気に行けます。9時45分歩行開始、しばらく、スキーゲレンデの中を歩き、標高1600付近から山道に入ります。何度も来ていますが、この道は初めて、和田小屋からのルートに比べ、解放感はないものの人が少なくちょっとクマが怖いけど、快適な登りで紅葉も段々良くなりゆっくりと3時間弱で神楽ケ峰到着。そのまま雷清水に下り昼飯です。

雷清水を後に頂上への急登です。悲しいかな結構てごわくコースタイム50分のところ写真を撮っていたせいもありますが、1時間以上掛ってしまいました。平成24年に木道が整備され歩き易くなっては居るのですが、悲しいかな歳をとるにつれ急登は応えます。でもまあ何とか頂上にたどり着きました。昨夜の星空を期待しましたが、どちらかと言うと雨模様で見ることは出来ませんでしたが、今朝は素晴らしい日の出を見ることが出来ました。池塘も綺麗です。

 

10月17日 (木)晴

今日は初めて秋山郷へ下ることにしました。苗場山頂の広さを感じながら、池塘の景色を楽しみながら、一人ゆっくり旅です。

 

幾つかある秋山郷への下山ルートの小赤沢ルートを下りました。これは栄村の観光協会の台風後の登山道の確認が出来ていないのでと言うアドバイスです。池塘地帯を過ぎると下降も急になりしかも石がごろごろしていて歩きにくいし、昨夜の雨の影響で滑る。でも何とかコースタイム通りに3合目の林道の終点にたどり着きましたが、ここから小赤沢集落まで登山道で1時間10分ですが、これも未確認のため林道を歩くように言われ、コンクリートの林道を1時間30分歩かされました。少しハードな縦走用山靴でしたので、これはきつかった!タクシーを呼べばよかったと後悔しましたが・・・後の祭りです。やっとの思いで小赤沢の楽養館と言う日帰り温泉に到着。鉄分の多い自噴の温泉で、疲れを癒してくれました。珍しい温泉です。機会があれば行かれることをお勧めします。

翌日永年登りたいと思っていた鳥甲山を目指していましたが、これも観光協会から登らないでくださいとのことで、やむなく諦め切明温泉の雄川閣と言う旅館に投宿です。川原を掘って温泉に入ることができるところです。これも台風の影響で水かさが多く、実行不能で野天風呂で我慢。内湯もなかなかでした。夕食は自慢のジビエということで鹿、イノシシ、クマの肉のしゃぶしゃぶ、そしてイワナの骨酒と言うメニューで旨かった! 特にクマのしゃぶしゃぶは初めてでしたが、適度に歯ごたえがあり。肉のコクもあり旨かったですね。ぜひお試しあれ!

この秋山郷、栄村は誘客のため色々と工夫しています。オンデマンド交通と称して、村内の送迎タクシーは格安、小赤沢から切明温泉まで20分ほどタクシーに乗って足った300円。極め付きは翌日の越後湯沢まで私一人を無料で送ってくれました。旅館のサービスでなく村のサービスだそうでありがたいことです。

10月18日(金)

朝10時にオンデマンド交通で越後湯沢まで送ってもらい「しんばし」で旨い酒とそばを食べて帰宅の途に。4時には自宅到着。ちょっと、鳥甲に行けなかったのは残念でしたが、良い山旅でした。

10月23日の富士山―白富士と黒富士 (34 小泉幾多郎)

気のせいかも知れないが、10月5日久しぶりにお目にかかった富士山は、黒富
士。それから18日後の今日10月23日に見た富士山は、雪化粧の白富士。今年の富士山の初冠雪は、平年より22日、昨年より26日も遅いとのこと。台風19号の災禍がなければ、今日23日、快晴の生籐山からの初冠雪の富士山を望めた筈だが残念でした。

小泉さん:面白いもので、この写真を撮られた数時間後、高尾山では小生が同じ方向に眼をこらしていたわけですね。撮影場所はどちらですか?

Giさん: 高尾山近況報告ご苦労様でした。好天に誘われ出掛けるなんて元気なる証拠です。 富士の展望、わがマンションのベランダからです。

 

 

 

高尾山現状調査報告

今日に予定されていた ”月いち高尾” 月例の生藤山行は現地の情報が芳しくなく、またまた中止になった。こうなると意地になるのか、因縁があるとあきらめるか、堀川君の判断も見もの?だが、なんということか、当日はこの秋初めての快晴、無風。鮫島から小下沢崩壊の情報もあったし、高尾山現状調査をしようと思い立った。体操教室とやらへでかけたオヤエの後を追って、10時、自宅発。帰着15時、歩行歩数 11,406歩、7.2キロ、とアイフォーンは記録している。

以下、報告。

ケーブル清滝駅まえにまずこの立て看板がある。ただよく見ると10月23日に何だかよくわからないが終了予定、とある。これが何を指すのか、不明だが、なにしろ山頂付近に住人(薬王院の僧侶たちもふくめて)の生活物資を運ぶ道だから優先順位は高かろう。駅前の案内所の話では,簡単に言えば沢沿いの道、つまり6号(琵琶滝)、蛇滝道、日影沢、イロハの森、は通れない。上へ登るのは稲荷尾根を行くかケーブルしかない (この日リフトも休業)。

また里のほうも大変なところが多く、高尾ー小仏間のバスもまだ生活者優先の運行で、不定期ということ。尾根筋は大丈夫なので小仏へ出るのは問題ないが、そこから下る道がなく、戻るしかないですよ、ということであった。下り道をどうするか、稲荷尾根ならよさそうだが、先回の月いちでの 吉牟田の悲劇? など思い出し、どうするか、ままよ、歩きながら考えようととりあえずケーブルに乗った。改札で往復にするかどうか聞かれて、つい往復を買ってしまったのはすでに結論が出ていたということかもしれないが。

テレビの番組では薬王院前の寄付者の立て看板 (北島三郎 十万本、というのから始まるやつ)がたおれていたが、今日は完全に修復されていて、薬王院から山頂までは全く問題なし。この間、いつもは当然のように女坂をあがるのだが、気が向いて男坂を上ってみて、階段が108段あるのを発見した。例の百八つ、ということにからんでいるのだろうか。いずれにせよ、山頂ルートまで、階段の連続だったのを忘れていてひどい目にあった。

山頂広場もテレビの画面では中へ入れない状態、となっていて、陣馬側にがけ崩れでもあるかのようなアナウンスがあったが、問題なし。いつも通りのにぎやかさだった。残念だが着いた時には富士山はすでに雲に隠れいていた。通りがかりのおばさん連の話では、9時半にはすごくきれいに見えた、ということだが。

ここから細田小屋の六差路のコルへ降り、稲荷尾根のことはすっかりわすれてそのまま4号路を目指したが、このルートはかなりひどくやられたようだ。特につり橋の前後、やはり沢沿いが荒れていた。

路沿いにあちこちに注意を促す標識があり、主に倒木についての記載が多かった。何年か前、やはり台風の直後に主稜線を歩いたとき、倒木に閉口したことがあったが、あの時は水害というよりも風害だったようだ。今回の倒木は沢筋だから風というよりもあふれた水による被害なのだろう。蛇滝ルートは2回あるいたことがあるが、旧甲州街道のバス停からほぼまっすぐ?によじ登るという感じの沢筋だったから、被害の程度もひどいのではないかと想像する。1号路は登り口は閉鎖されていて(写真前掲)ケーブルカーの終点では、降りても左(山頂方面)へ行くこと、右(1号路方面)には行けませんとアナウンスしていたところをみると路面の破壊具合が相当なものではないかと思われる。

帰りのケーブルカーにはたまたま工事関係者と思われる人が乗り合わせていて、心配そうに窓から観察をしていた。運行そのものは継続できたのだからそれほどの問題はなかったのかもしれないが、窓から法面の不安定な具合も散見された。

今までごまかし続けてきてまともに歩いたことの少ない階段道を男坂から始まって忠実に上り詰めたので結構応えたアルバイトだった。ケーブルを降りて高尾山口駅直結のイタ飯や(ふもとや)でペペロンチーノとシャルドネとしゃれこんだが、窓から見える本来なら清流であるはずの流れが水量がえらく多く、ミルクコーヒーのように濁っているのが今回の災難をあらわしているようだった。

外国語を学ぶということ 1

普通部1年で英語に触れ、大学で英語会のメンバーであった兄の影響で英語だけはまじめに勉強した。幸運だったのは2年次の担当が英語会で兄の先輩、厳しい指導で有名な人だったことだ。夏休み,”北村さんの宿題”と言って恐怖の的だった猛烈な数の和文英訳にまじめに取り組んだのが僕の英語の原点になった。

社会に出て、勤務先の横河電機がヒューレット・パッカード社との合弁会社(YHP)を設立、僕も移籍メンバーのひとりに入れてもらえた。1960年代はじめ、まだまだ ”アメリカ” がはるかに遠い存在だったころ、HPというたぐいまれな理想郷のような会社に縁を持った、ということが僕の社会人生活を決定し,同時にまた英語を勉強する気にしてくれた。その後も幸運が重なり、67年にはHP本社での勤務を命ぜられ、1年足らずのアメリカ生活だったが、”俺の英語でもなんとかなる”という自信は持つことができた。

こういう一連の予想しなかった展開の結果、英語でアメリカ人と喧嘩をする立場になったのが上級管理職になった80年代からだった。当時、いわゆる ”外資系” 会社では、外国で大学を出た日本人を採用して重要ポジションを与えるのが常識だったが、YHPでは1000人を超える規模になっても、この種の”英語屋”は存在しなかった。その後、HPのほうで、”日本語ができる”という理由で米国で教育を受けた日本人や日本びいきの米人を何人か派遣してきたが、僕のいた時代に限れば、それがまともな成果をだした例はない。”言葉ができる”ということと、成果を出す、ということは全く違うのだという、当たり前のことなのだが。

引退したあとも外国人とコミュニケートしたい、という気持ちがあり、英語のレベルを少しでもあげようと、小説の類は翻訳では一切読まないことにした。しかし会社を離れると実際に会話をする機会は皆無に近い。英会話教室をいくつか試したが、現在は個人レッスン専門のところに通い、その日その日の気分で話題を選んで会話をする。もちろん、しょっちゅう詰まってしまうが、 ”コミュニケートしている” という実感はある。その過程でつくづく実感することは、文化・伝統・社会常識の違いをどうやって伝えるのか、その難しさである。

最近は、”日本文化を英語でどう伝えるか” といったたぐいの本には事欠かない。こういう本はたしかに便利だが、日本で常識化していることや抽象的な議論に必要な概念の会話になるとまず役に立たない。先日も、基本的な日本語なら問題ない米人のインストラクタと、”よろしくおねがいします” とはどういうことか、という議論になった。さんざん議論したが正解はみつからない。”お陰様で” とか、”いただきます” などもその例である。インストラクタのひとりに純日本人だがカナダ生活が長かった、という女性がいるが、彼女にしても適切な答えはなかった。言語に対応性がないというより、文化に共通項がない、極論すれば絶対的に正しい翻訳は成立しえない、ということなのだ。

YHP時代親しくしていた同僚に米国との二重国籍をもっていた男がいた。勿論完全なバイリンガルである。彼にはいろんなことを教わったが、なかでも覚えているのが、”ジャイよ、そこをなんとか、ってえ日本語は絶対に翻訳できないよ” といわれたことだ。こういわなければならない状況は、論理的には不可能であることがわかっていても、義理とか温情とか、非論理的な反応を期待して無理を通そうという時である。論理的にできないことをなんとかする、という発想自体、西欧の社会にはあり得ない。よって対応する言葉なんかあり得ない、というのだ。これはその後、僕の英語(外国語)を学ぶ時の戒めになっている。

先日の新聞に今を時めくAI翻訳が、大阪の御堂筋、という単語をミドーマッスルと訳した、ということが載っていた。僕も人工翻訳に興味を持ったことがある。数えて30年も昔。当時すでにAIということが華々しく話題になっていた。その30年がたっても、”筋” は ”筋肉” であり、よってマッスル, なのである。人生そんなに楽じゃやねえんだよ、と言ってやりたい一種の快感をもってこの記事を読んだ。外国語を学ぶ、ということは言葉の問題ではないんだ、ということを違う角度から考えさせられた一件だった。

 

 

スナック ジジ

銀座の灯が青春の象徴だったという人間は沢山いるだろう。町並みは変わり、“いちこし” も ”ジュリアン・ソレル” も ”スイス” もなくなってしまったとはいえ、今なお古き良き時代の思い出はわれわれとともにある。

その銀座に住吉康子が店を持ったのは1983年6月9日、名前は スナック・ジジ。女子高時代演劇部にいた彼女が演じた役の名前がそのままニックネームとなり、友人たちの間では本名をとっさに思い出せないのがいるほど、親しまれた名前であった。

この店の誕生には、1年上の ”マックス” こと畠山先輩の強い勧めがあった。彼女はこれに先立って、友人に請われ横浜、都橋の近くで ”こけし” というスナックをマネージしていたことがある。ヨコハマ、というきらびやかなイメージとはかけはなれた、どちらかと言えばうら寂しい一角だったが、六郷沿いに住んでいた小林章悟が私設応援団長的にひろくワンダー仲間によびかけ、仲間が集うこともたびたびで、荒木ショッペイ夫妻もよく訪れていた。ここへ来た畠山が、”ジジ、おまえ、銀座に出ろ”と強く勧めたのだという。

住吉はいろいろな」友人を通じて、塾体育会のOBたちに知己が多く、そのひとりだった野球部OBの増田先輩(1957年卒)からの紹介で、ホテル日航に近いあの店の権利を得て、スナックとして開業した。バーテンも置かないから、当然カクテルなどというものとは無縁、カウンター1本しかないせせこましい造り、住吉本人だって世にいう ”銀座マダム” とはかけはなれて不愛想。それでも、ここは開業以来、それもどちらかと言えば ”体育会(この場合は」KWVも含めてだが)OB” の、何とも居心地抜群の、理想の止まり木でありつづけた。

何しろ、店の場所がよかった。都心オフィス勤めの人間にして見れば、”帰りがけに銀座でちょっと飲む” プライドを持つことができたし、古びたドアを開けて入れば、先ず5割の確率でワンダー仲間がいた。あれ、今日は誰もいないか、と思って奥を見れば、何年何十年ぶりかで見る高校、中学時代の仲間が、これまた5割くらいのヒットレートでにやにやしているという、まさに ”おれたちケイオー” の場所だったのだ。

KWVで同期以外の常連、といっても枚挙にいとまがないが、なんといっても2年上の三ツ本和彦がダントツだったのは、先ず誰もが納得する事実だろうし、後輩連では41年の田中透、佐川久義、44年の浅野三郎、45年の島哲郎などの名が浮かぶ。同期の仲間は当然としても、後輩年代でも ”じゃ、ジジで” と云うのが決まりだったのだ。

われわれの ”部室” であった ”スナック ジジ” は、2009年3月31日、その ”銀座の灯” を落とした。

 

(36年卒同期文集 ナンカナイ会 その ”ふみあと” から転載)

 

”ビジネスコンピュータ” のころ

1980年代。インターネットも標準OSも存在せず、コンピュータメーカの力量が ”どれだけ他と違うハードウエアを作るか” で測られていた時代。科学技術計算用と事務用途用と性格の違ったマシンが存在していた時代。日本ではその市場の在り方の故にIBMですら苦戦を強いられていたとき、ヒューレットパッカードはそれまでの戦略を大転換し、”ビジネス” 市場向けの製品を投入した。

くりかえすがかのIBMでも優位に立つことのできなかった混戦に、その分野での無名の新参が、しかも ”日本語をしゃべれない” コンピュータを投入したのだ。予想されたとはいえ、絶望的な戦いを強いられたのが ”ビジネスコンピュータ部” だった。その ”HPのガダルカナル” を生き抜き、とにもかくにもシステム事業を存続させ、現在の ”コンピュータメーカとしてのHP” にバトンタッチまで持ち込んだ、という強烈な自負を持ち続けている仲間がいる。その中の何人かが旧交を温めた一夕。これをきっかけに昔の仲間を糾合したいと語り合った。今後の再会をまた改めて企画したく、参加希望者の連絡を待つ。

左から染谷、藤田、麻生、浅原、菅井、中司