外国語を学ぶということ 1

普通部1年で英語に触れ、大学で英語会のメンバーであった兄の影響で英語だけはまじめに勉強した。幸運だったのは2年次の担当が英語会で兄の先輩、厳しい指導で有名な人だったことだ。夏休み,”北村さんの宿題”と言って恐怖の的だった猛烈な数の和文英訳にまじめに取り組んだのが僕の英語の原点になった。

社会に出て、勤務先の横河電機がヒューレット・パッカード社との合弁会社(YHP)を設立、僕も移籍メンバーのひとりに入れてもらえた。1960年代はじめ、まだまだ ”アメリカ” がはるかに遠い存在だったころ、HPというたぐいまれな理想郷のような会社に縁を持った、ということが僕の社会人生活を決定し,同時にまた英語を勉強する気にしてくれた。その後も幸運が重なり、67年にはHP本社での勤務を命ぜられ、1年足らずのアメリカ生活だったが、”俺の英語でもなんとかなる”という自信は持つことができた。

こういう一連の予想しなかった展開の結果、英語でアメリカ人と喧嘩をする立場になったのが上級管理職になった80年代からだった。当時、いわゆる ”外資系” 会社では、外国で大学を出た日本人を採用して重要ポジションを与えるのが常識だったが、YHPでは1000人を超える規模になっても、この種の”英語屋”は存在しなかった。その後、HPのほうで、”日本語ができる”という理由で米国で教育を受けた日本人や日本びいきの米人を何人か派遣してきたが、僕のいた時代に限れば、それがまともな成果をだした例はない。”言葉ができる”ということと、成果を出す、ということは全く違うのだという、当たり前のことなのだが。

引退したあとも外国人とコミュニケートしたい、という気持ちがあり、英語のレベルを少しでもあげようと、小説の類は翻訳では一切読まないことにした。しかし会社を離れると実際に会話をする機会は皆無に近い。英会話教室をいくつか試したが、現在は個人レッスン専門のところに通い、その日その日の気分で話題を選んで会話をする。もちろん、しょっちゅう詰まってしまうが、 ”コミュニケートしている” という実感はある。その過程でつくづく実感することは、文化・伝統・社会常識の違いをどうやって伝えるのか、その難しさである。

最近は、”日本文化を英語でどう伝えるか” といったたぐいの本には事欠かない。こういう本はたしかに便利だが、日本で常識化していることや抽象的な議論に必要な概念の会話になるとまず役に立たない。先日も、基本的な日本語なら問題ない米人のインストラクタと、”よろしくおねがいします” とはどういうことか、という議論になった。さんざん議論したが正解はみつからない。”お陰様で” とか、”いただきます” などもその例である。インストラクタのひとりに純日本人だがカナダ生活が長かった、という女性がいるが、彼女にしても適切な答えはなかった。言語に対応性がないというより、文化に共通項がない、極論すれば絶対的に正しい翻訳は成立しえない、ということなのだ。

YHP時代親しくしていた同僚に米国との二重国籍をもっていた男がいた。勿論完全なバイリンガルである。彼にはいろんなことを教わったが、なかでも覚えているのが、”ジャイよ、そこをなんとか、ってえ日本語は絶対に翻訳できないよ” といわれたことだ。こういわなければならない状況は、論理的には不可能であることがわかっていても、義理とか温情とか、非論理的な反応を期待して無理を通そうという時である。論理的にできないことをなんとかする、という発想自体、西欧の社会にはあり得ない。よって対応する言葉なんかあり得ない、というのだ。これはその後、僕の英語(外国語)を学ぶ時の戒めになっている。

先日の新聞に今を時めくAI翻訳が、大阪の御堂筋、という単語をミドーマッスルと訳した、ということが載っていた。僕も人工翻訳に興味を持ったことがある。数えて30年も昔。当時すでにAIということが華々しく話題になっていた。その30年がたっても、”筋” は ”筋肉” であり、よってマッスル, なのである。人生そんなに楽じゃやねえんだよ、と言ってやりたい一種の快感をもってこの記事を読んだ。外国語を学ぶ、ということは言葉の問題ではないんだ、ということを違う角度から考えさせられた一件だった。