ブラウザ、という、もともとはコンピュータの世界でのプロの使うものだった単語はいつの間にか日常語の仲間入りをしてしまったようだ。browse という単語そのものははこれでも英検1級だ、知ってはいたけれどここまで普遍化するとは想像もできなかった。それは原義が ”漫然と商品を見る” という、自分がよく読んでいた本のジャンルではあまり頻度の高くないものだったからだろう。ただ、エクスワード搭載の辞書で原義の ”2” にあげられている ”立ち読みをする” ということならば話は別だ。というのは、この本に遭遇して、何となく購入した(しまった、というのが実情だが)のはまさに寝苦しい夜を迎えて駅前の本屋で漫然とブラウズしていた結果だからだ。
小生はそこそこの本マニアではあるが、もともと純文学系は高校時代に、大げさに言えば人生の転機、みたいな経験があって、それが引き金で(いっときだったが)世をすねていた時期があり、そこでおさらばをしてしまったので、芥川賞、なんてので話題になった作品なんぞには背を向けてきた.。直木賞、なら多少は縁があるか、位なので、この本の作者も知らなかったし、また作品がそのようなレベルで評価されていたこなどは全く知らなかった。なんで今回読む気になったか、と言えばそれはカバーに池上冬樹が”ハードボイルド(HB)の香りがする、というようなコメントをしていたからだ。池上が同時に日本ではHB作家とカテゴライズされている大沢在昌の HBは惻隠の情である という定義を引いていることも文春文庫930円に投資をする気にさせた理由だが。
HBとはなんぞや、についてはいまさらだが、かつては ”HBとは銃と雨と裸の女がでてくりゃHBさ” と酷評された時代もあった。日本ではHBの本家(僕はこの人の作品は単なるガンマニアの妄想だとおもっていて評価しないのだが)みたいにいわれる大藪晴彦のデビュー作が多分そうさせたのだろう。しかしその原点にはやはり、”ヘミングウエイ風の語りくち” と、まさに大沢の言う ”惻隠の情” がなければなるまい。英語が母国語でない人間には、よほどの力量というか感性がなければ ”ヘミングウエイの文体” がどんなものか、を理解することは難しい。したがって、僕らが読み、感じる、外国人の書いたHBは日本人翻訳者のプロの筆力というか迫力にかかってしまう。何度も繰り返しになるが、そうして読むとなると、たとえば僕の場合、HBのいわば聖典である ”長いお別れ” はやはり村上春訳でなく清水俊二訳でなければならなくなってしまうのだ。
だから、小生は ”日本人が日本語で書いたHB”、にこだわりを持ってきた。北方謙三の ”さらば荒野” シリーズなんかに一度入れ込んだ時期もあったが,そのうち、ぴったりとはまったのが 原寮、という作家だった。ところがこの人は不幸にして急逝してしまった。もちろん大沢をはじめ何人かのHBライターカテゴライズされるひとたちの作品は結構読んでいるが、ここで新たに ”HB風の作品” とその道のコメントを目にすればこの本を見逃すことはできない、と思い込んだわけだ。
長くなったが、この ”枯葉色グッドバイ” だ。結論から言うと、ミステリとしての完成度ではなく、文章というか語り口、が印象に残った。これも池上が書いているように、チャンドラーの正統後継者、とみなされたロス・マクドナルドが作品の舞台に好んで使った、現代の富裕階級の裏にある家庭環境の暗闇というテーマがこの ”枯葉色” にも共通だ、ということもこの本をHBと絡めて読む意味もあるかもしれないが、探偵が初心の女性刑事で、彼女を支援するのが個人的な理由で警察をやめ、代々木公園あたりにホームレスの一人として乾いた日を過ごしているもと敏腕刑事、ということになっていて、この男の暮らしぶりというか気構えというか、その描写そのものがHBの定義を物語っているようにも思える(推理小説である以上、その筋を書くことはできないので、隔靴掻痒、ではあるのだが)。
語り口、というがそれが ”ヘミングウエイ流” という観点にあたるのでは、と思うのは文庫本487ページ、ほぼ100パーセントが(正確な用語かどうか知らないが)、現在形、で書かれている( ”いる” ”ある” ”読む” で書かれ ”いた” “あった” ”読んだ” という文章は僕の数え方がまちがっていなければはじめの数か所にしか出てこない)ことだ。このことが、うまく表現できないのだが、書かれている内容が読む方にある種の一体感をもたらしてくれ、ホームレスの生き方の描写を通じて、”惻隠の情” を感じさせるように思える。いずれにせよ、ミステリとしての筋立てはともかくある種の爽快感を持って読み終えた。
これからしばらく、ミステリかどうかを離れて、樋口有介、という作家を読んでみようか、と思ったのだが、彼もまた病を得て4年前に亡くなっていることを知って暗澹としてしまった。原寮のこともあり、なんともいえない気分である。
(つけたし:原寮、については本稿 2020年12月27日、2021年1月4日付記事で紹介している。