東京支社マイクロ同窓会記事拝見しました。大先輩の皆様、お元気そうでなによりです。 今週、一八会有志に浅原さん、菅野さんも合流いただき> 岡部豊のお墓参りに行く予定です。
上記岡部君の墓参後の食事会(四谷三丁目の中華店)の様子です:
後列:(左から)松本、瀧谷、小関
中列:竹内、相生、東、青井、鈴木敬二
前列:菅野さん、浅原さん、中山、福澤
(編集子)ウイリアム・ヒューレットがスタンフォード大学時代特許を取った技術を商業化して、親友のデヴィッド・パッカードと二人で起こしたヒューッレット・パッカードはその後、産業機器メーカーとして、電子測定機器の分野で(こ
れは現代のアラビアンナイトだ!)とまで言われた急成長を遂げる。70年代ころから実用化されたミニコンピュータによって計測の自動化に乗り出し、しばらくは先発メーカー製品のOEM化でノウハウを得て、自社で自動計測目的に特化したミニコンを開発し、コンピュータメーカとして注目されるようになったが、当時、事務処理分野での絶対的王者であったIBMの大型機(メインフレームと呼ぶようになっていた)に対し、(小回りの利く、ユーザ本位設計のミニコンをその頃から実用化され始めた通信網にのせて処理を分散化する)という新しいアイデアで一般事務処理分野に事業を拡げた。米国・欧州で成果を上げて日本市場へ乗り込んできたのが80年代初頭である。
世界を制覇したIBMですら日本メーカーの優位を崩せないというのだから、まさか、日本でショーバイするたあ言うめえよ、と思っていた編集子になんとこの挑戦、と言えば聞こえはいいが、誰がどう考えてもむちゃくちゃな任務が回ってきたのが1981年。hp社の製品力とネームヴァリューで楽なショーバイに慣れ親しんでいる当時の風土に、こんな役を引き受けるもの好きはいない。これはそれまでの採用―人事の慣習では人員の手当てすらおぼつかない。ここは乾坤一擲、メンタル、フィジカル双方、打たれ強く根性一番のメンバーを採用してくれることを任務遂行の条件として認めてもらい、この条件に合致する人材が多いはずの、大学体育会出身者に焦点を当てて採用活動を強行した。その結果、一時に18人(当初は少なくとも20人、と主張したのだが)の “ノンエンジニア、体育会経験” という、それまでのYHPでは採用の対象にさえされなかった人材がそろった。このグループの、根性第一イズムこそが日本におけるhp社の汎用コンピュータ市場開発を成し遂げたのは紛れもない事実である。
新人がカタログ持ってくだけで客が買ってくれる、と言われた当時の最先端製品であったスペクトラムアナライザなどは2台も売ればセールスノルマ(クオー
タ、と言った)が達成されてしまうというのに、引き合いから成約まで、うまくいって1年半はかかる汎用システムHP3000 にとりくみ、後輩たちの後塵を拝し、ある時は蔑称すらあびながらただひたすらに編集子を支えてくれた18人は同時に東京支社のメンバーでもあった(東の記事にある岡部豊はSEとして仲間からも顧客からも絶対の信用を勝ち得た、温厚な紳士だった)。
小生にとってはいわば第二の青春でもあった、怒濤のような月日を改めて思い出す写真をアップさせてもらう。


















