オリンピックは終わったーアリサ・リュウの話    (普通部OB 船津於菟彦)

 

冬季オリンピックは終わった。日本は金5個、銀7個、銅12個の計24個のメダルを獲得今までで最大。坂本選手に最終の美で「金メダル」を取らせたかったが、何とアリサ・リュウが素晴らしい演技で金メダル。

逆転の金メダルを獲得したアリサ・リュウ(20、米国)は複雑な中国系アメリカ人。天安門事件の活動がきっかけで米国に政治亡命した中国人の父を持つリュウの生い立ちは複雑で母は匿名の提供者の卵子による“代理母”。4人いる妹、弟も全員が“代理母”でミラノの会場で初めて全員がライブでリュウの演技を見たという。それがリュウの笑顔と金メダルの原動力だったのかもしれない。

そしてリュウの才能を見抜いたのは、天安門事件後に米国へ政治亡命した中国人の父アーサーである。 元々は、結婚していたが離婚し、リュウが生まれる頃は、独り身で「どうしても子供が欲しかった。でも、もう私は40歳だったから」と、“代理母”出産となった理由を説明している。
アーサーは中国南西部の四川省にある人口約200人の山村の出身。重慶の寄宿学校の入学資格を得て、その後、中国の大学で学士号を取得。そこからアメリカへ亡命し、カリフォルニア州立大学ヘイワード校(現カリフォルニア州立大学イーストベイ校)でMBA、カリフォルニア大学ヘイスティングス法科大学院で法学博士号を取得し、弁護士としてキャリアを積んだ。そんな経歴の末にもたらされた「金メダル」。凄いなぁ。

そして日本の「りくりゅう」駄目から奇跡的回復。お兄さんとお姉さんが入れ替わり、励まして奇跡。日本も諦めずにこつこつ経済回復。高市早苗お姉さんに励まされなくても次第に日本の良さが世界に認められてきている。国内で作るのでは無く世界で世界時間・世界人相手にそれに合わせた働き方を次第に覚えてきた。「ガラパゴス」から世界共通に。

やれば出来ますよ。「働き方を時間で語るな。そして世界仕様の働き方へ変化」

東京支社マイクロ同窓会

YHP(横河ヒューレットパッカード、日本hpの前身)はHPの創業者ヒューレットとパッカードの経営思想を日本の風土の中でも実現に努め、製品力とあいまって、最も成功した合弁会社、といわれたこともあった。その中心にあった経営技法はMBWA(Management By Walking Around) と呼ばれ、社員間のインフォーマルなコミュニケーションを基盤としたチームワークであった。編集子がマネジメントの末端に加わった時、管理職の任務は ”Not to do the job, but to get the job done” だ、と叩き込まれた。いろんな職場を経験させてもらったが、この黄金律を曲がりなりにも実現できた、と思ったのは営業部門に転出し、支社のひとつを任された時だった。その間、小生を支えてくれた仲間たちのなかで、いまも親しい時間を共有しているグループの会合を神楽坂で開催した。坂東正康、小野寺務は西国に去り、健在なら 真ん中に座って”俺、ぬる燗!” と言ってるはずの曽山光明、名コンビだった坪内和彦や近野俊郎、なんかの思い出話で夜が更けた。学生時代近くに下宿していた天堀はセンチになったのか、昔をしのぶ、といって坂を下りて行った。

(写真左から麻生洋、楠路夫、浅原弥生、菅野節子、天堀平衛、中司恭、木内和夫)

(天堀)早稲田駅まで歩き 4年間過ごした4畳半の下宿を探しましたが見つかりませんでした。

近くにあった小さな公園は残っていて 60年前の記憶がよみがえりました。

冬草や 強者どもが 夢の跡

 

蔵王へ行ってきました   (HPOB  小田篤子)

14日から蔵王、裏磐梯へ行き18日に戻って来ました。
昨年夫の勘違い?で、八甲田方面に行ったため、今年は、以前から私の希望していた、[蔵王樹氷雪上車ナイトツアー]に出かけて来ました。樹氷は世界的にも珍しいため、予約競争が激しく、慣れない夜中開始の予約などは、なかなか取れませんでした。
昼間はケーブル等乗り継いで頂上に行くことにしたのですが、最初の50人乗り位のゴンドラには長〜い列が!
列の途中に、ディズニーランドのファストパスのように予約者が入ってしまうので3時間近く並びました!
逆に予約できた17時のナイトツアーの際には、下りの長いゴンドラの列を尻目に、さっと乗ることができ助かりましたが。昼と夜共に綺麗な樹氷に、並んだ苦労も忘れました。
やはりアジア系の旅行者が多いですね。列には我々のような老夫婦は見かけませんでしたが、好天の日が続き助かりました。
(42 下村) ご夫婦そろっていつも活動的ですね。理想的で素晴らしいシニアご夫婦に乾杯!! 金賞ものです。
(編集子)スキー歴は長いのだが、初めてスキーを履いたのが赤倉だったこと、大学時代にスキーに関しては兄貴分で頭の上がらなかった翠川幹夫のホームグラウンドが燕だったせいで、まず7割方は妙高エリアが主戦場だった。東北はKWV時代の合宿が五色温泉(いまはもう廃業したはずだが)だったりしたこともあったが、蔵王はほんの数回しか行っていない。いつだったか正確に記憶はないが、かのトニー・ザイラーが来日してスキー映画を撮る企画に若き日の加山雄三がバイプレーヤ―で出演する、ということがあった。その時、たまたま35年卒の徳生さんなんかと現地に居合わせ(たしかスキーリーダー養成プラン)、寒い中で加山の滑りをみたことがある。残念だがザイラーを見ることはなかった。このほかに数回、同期の岡秀雄の設営で行ってはいるのだが、どうも毎回、天候が悪かったので、小生の蔵王の印象はいいものではない。

冬季オリンピックのこと   (44 安田耕太郎)

歴代最多数メダル獲得、日本にとって上出来のアチーブメント。本文を書いている時点で不明な坂本花織と高木美穂に有終の美を金メダルで飾って貰いたい。それにしても欧米の強豪国に伍して、日本の活躍は嬉しい驚き!スノーボード種目では今や世界で最強。クロスカントリースキーのノルウェーに迫る勢いだ。20歳前後の若者アスリートの才能・プレッシャーに打ち克つ心技体・競技後の対応は捨てたものではない日本にとって将来の希望を感じさせられます。経済面・文化面・政治面・国際外交面でもそうであればと願わずにはおれません。

今年の冬季五輪を過去2つの五輪と比較します。参加国・地域数、参加者、競技数の面で。

1. 猪谷千春が日本最初のメダルを獲った1956年コルチナダンペッツオ:
参加国・地域数32
参加人数820人
競技種目数:
4競技24種目
因みにアルペンスキー3冠のトニー・ザイラーは2位との差、滑降3.5秒、大回転6秒、回転4秒。まるで中学生・高校生してのよう。その後、仏のジャン・クロード・キリー三冠、スエーデンのインゲマル・ステンマルクの大回転・回転席巻以降、超絶スキーヤーは輩出されず拮抗して、1秒以下の差で鎬を削っています。今後、三冠王は勿論複数2種目制覇スキーヤーは現れないでしょう。1970年代はスエーデン人の2人、ステンマルクとテニスのビョルン・ボルグが世界にスポーツ界で際立ちました。

(長野オリンピックで魂のジャンプを見せた原田雅彦。最後のジャンプ中継でアナウンサの ”原田、立ち上がれ、立つんだ、立ってくれ、原田!” という絶叫が記憶に残る。

2.  1998年長野オリンピック:
冬季五輪開催地のうち最南で、最も低緯度地。
参加国・地域数72
参加人数
2,302人(男子1,488人、女子814人)
競技種目数
7競技68種目
金銀銅メダル総数204

3. 2026年ミラノ・コルチナダンペッツオ:
8競技116種目
参加国・地域数93
参加人数3500人
金銀銅総数:348
(長野五輪より7割、144個増加)。日本現在(2/18終了時点)獲得メダル総数22、ノルウエー、イタリア、アメリカに次ぎ第4位。25個位まで行くと思うが、競技種目総数増加が大きく寄与している。特にスノボ系種目の貢献が大きい。トニーザイラー・猪谷千春の1956年五輪の競技総数24の実に5倍弱(116)に増えている。

冬季五輪開催地について私見:
リレハンメル、スコーバレー、インスブルック、サッポロ、コルチナダンペッツオなどを良として、北京・ソチ・平昌など雪・氷・冬のスポーツの祭典をイメージし難い開催地は避けるべきかと思う。アイスホッケー、カーリング、スピード・フィギュアスケートなど室内競技は兎も角、冬季五輪の華アルペン・クロスカントリースキー、ジャンプ、スノボなどの競技会場は周りも冬のスポーツの相応しい雪に覆われた場所であって欲しい。2030年次期冬季五輪会場はフランスアルプスのオーヴェルニュ・ローヌ・アルプとのこと。近い都市はリヨン、グルノーブル。今年のミラノ・コルチナダンペッツオに近い環境だと予想出来る。怖いのは温暖化による雪不足。第一回冬季五輪の開催地シャモニーより随分南に位置しており、暖冬でないことを願うのみ。

 

26年2月 月いち高尾    (51 斎藤邦彦)

今回の一般コースは冬晴れの生藤山から冠雪の富士山を展望するという計画でした。生藤山は「月いち高尾」では今までに4回計画して1度しか登頂できていない「鬼門」とされ、今回も創始者のジャイさんから「生藤山が消燈山にならないように!」と揶揄されながら企画したコースでした。

前日も翌日も素晴らしい晴天で「なぜこの日だけがみぞれが降ったのか」不思議な天候のなか、早々に行先を高尾山に変更しての山行でした。結果的には普段より登山客が少ない高尾山の山頂で久しぶりに全員揃って記念写真に納まることができ、楽しい一日でした。

1.日時:令和8年(2026)2月17日(火)

2.コース別の山行記録(敬称略、()内は昭和卒年)

(1)シニアコース

<参加者 8名  記録者:村上裕治>

鮫島弘吉郎(36)大塚文雄(36)遠藤夫士男(36)岡沢晴彦(39)藍原瑞明(40)吉田俊六(44)村上裕治(46)平井利三郎(47)

今回は、「ロープウェイパーティー」「高尾梅園パーティー」「萩原作業道パーティー」の3つのパーティーに分散し、天狗集中とした。

<山行記録>

上り1h35m 下り1h7m 合計2h42m 登り 463m 下り 428m

高尾山口駅9:41 ⇒(1時間37分)⇒11:18高尾山(昼食)12:02⇒(1時間30分)⇒ 日影バス停 13:43

稲荷山コース 前日から降雪だったが路面の雪は、少なかった。頂上 前夜からの雪のためか登山者は少なかった。

萩原作業道 頂上西石階段及び5号路北半分が伐採工事のため通行できず。う回路(5号路南部分)を選択し、モミジ平北側道を歩く。大垂水峠分岐から、萩原作業道上部口に入る。ここからは、人に会うこともなく萩原作業道口下まで一気に下る。日影林道も雪はなく、日影バス停まで歩いた。

<工事予定>

山頂周囲一部通行止め 2/16-21                     4号路通行止め    2/19-20

<ヤマレコ>記録ID:9300023 (高尾山 萩原作業道)でアップしました。

(2)一般コース(世話人:斎藤邦彦、齋藤伸介)

<参加者(9名)>

安田耕太郎(44) 福本高雄(47)水町敬(47)五十嵐隆(51)斎藤邦彦(51)桑原克己(52) 後藤眞(59)  齋藤伸介(63)大場陽子(BWV)

<山行記録>

上野原駅8:30⇒(JR+京王線)⇒高尾山口駅9:30⇒(45分)⇒10:15稲荷山10:30⇒(45分)⇒11:15高尾山頂12:00⇒(30分)⇒ケーブル山頂駅12:30⇒(1時間)⇒13:30高尾山口駅

午前8時過ぎに全員がJR上野原駅に集合。天気予報では午前中の早い時間に雨は上がると言っていたが氷雨はみぞれに代わり、しとしとと降り続き止みそうもない。乗車予定のバスの発車前に計画を変更し高尾山に行先を変更することとした。

高尾山口の駅前に着くとすでにそこにはシニアコースのメンバーが到着していて怪訝な表情で迎えられる。高尾山口駅前で「仕切り直して」登山を再開する。うっすら雪が積もりやや足元が悪いので稲荷山コースを選択した。みぞれは小雪に代わりちらほらと舞い続ける。コースタイム通り1時間30分で頂上に到着、シニアコースと合流し全員そろって昼食を取り、山頂標識前で記念写真を撮影する。

下りは「萩原新道コース」「1号路」「ケーブルコース」に分かれて天狗飯店を目指した。

(3)懇親会

<懇親会の模様>奥高尾の観梅コースを歩いた相川正汎さん(41)猪俣博康さん(43)も懇親会から参加し、にぎやかな懇親会となりました。奥高尾の梅の開花はまだしばらくかかりそうなので3月の会に期待が持たれます。

いつものように谷合さんのご好意で天狗飯店を貸切りにしていただき、ゆったりと懇親を楽しむことができました。今回初参加は桑原さんでしたが、初参加恒例の歌唱として「古びしわが山の小屋」を選び、併せて小屋の様子を報告してもらいました。日本海側は記録的な豪雪ですが浅貝だけはあまり降ってないとのことです。

(4)フォトアルバムは以下のURLからご覧ください。

https://photos.app.goo.gl/Hiip8R45y

4号路通行止め    2/19-20
<ヤマレコ>
記録ID:9300023 (高尾山 萩原作業道)でアップしました。

(2)一般コース(世話人:斎藤邦彦、齋藤伸介)
<参加者(9名)>
安田耕太郎(44) 福本高雄(47)水町敬(47)五十嵐隆(51)斎藤邦彦(51)桑原克己(52) 後藤眞(59) 齋藤伸介(63)大場陽子(BWV)

<山行記録>
上野原駅8:30⇒(JR+京王線)⇒高尾山口駅9:30⇒(45分)⇒10:15稲荷山10:30⇒(45分)⇒11:15高尾山頂12:00⇒(30分)⇒ケーブル山頂駅12:30⇒(1時間)⇒13:30高尾山口駅

午前8時過ぎに全員がJR上野原駅に集合。天気予報では午前中の早い時間に雨は上がると言っていたが氷雨はみぞれに代わり、しとしとと降り続き止みそうもない。
乗車予定のバスの発車前に計画を変更し高尾山に行先を変更することとした。
高尾山口の駅前に着くとすでにそこにはシニアコースのメンバーが到着していて怪訝な表情で迎えられる。

高尾山口駅前で「仕切り直して」登山を再開する。うっすら雪が積もりやや足元が悪いので稲荷山コースを選択した。みぞれは小雪に代わりちらほらと舞い続ける。
コースタイム通り1時間30分で頂上に到着、シニアコースと合流し全員そろって昼食を取り、山頂標識前で記念写真を撮影する。

下りは「萩原新道コース」「1号路」「ケーブルコース」に分かれて天狗飯店を目指した。

(3)懇親会
<懇親会の模様>
奥高尾の観梅コースを歩いた相川正汎さん(41)猪俣博康さん(43)も懇親会から参加し、にぎやかな懇親会となりました。奥高尾の梅の開花はまだしばらくかかりそうなので3月の会に期待が持たれます。
いつものように谷合さんのご好意で天狗飯店を貸切りにしていただき、ゆったりと懇親を楽しむことができました。今回初参加は桑原さんでしたが、初参加恒例の歌唱として「古びしわが山の小屋」を選び、併せて小屋の様子を報告してもらいました。
日本海側は記録的な豪雪ですが浅貝だけはあまり降ってないとのことです。

(4)フォトアルバムは以下のURLからご覧ください。
https://photos.app.goo.gl/Hiip8R45y8mD1U1C8
(期間限定でのアップですので必要な写真はダウンロードして下さい。)

(編集子)そうでないことを祈っていたが 生藤山すなわち消燈山、のジンクスはまたまた起きたようだ。次回、これを破るのはいつ?そういう小生も当日不調のため欠席してしまったので大きいことは言えないが。リポートによれば、また新しいメンバーの参加があった由、嬉しい限りだ。

(52 桑原)先日は、楽しい高尾山山行、有り難うございました。お陰様で、久しぶりに素敵な山行を楽しめました。また、沢山の写真ありがとうございます。記念・思い出になります。

 

 

匂いが分かったらキミも一安心     (普通部OB 篠原幸人)

病院で、診察かばんを持って歩いている医師を見かけたことはありませんか? 聴診器はポケットにも入るし、首からぶら下げても歩けます。但し、患者さんの脳や神経系(精神系ではありません)の異常をチェックするのに使用される打腱器(膝の下などを叩いて反射を見る道具)や眼底鏡、感覚低下を調べる筆やルーレットなどは可なりかさばるので、それらの道具をよく使う脳神経外科や脳神経内科の医師の多くは自分専用の道具を診察かばんに入れて持ち歩いていることが多いのです。

私も病院内では常時この鞄を持って歩いているのですが、私の場合ははその他に少量のコーヒー粉の入った小さなガラス瓶も入れています。

疲れた時に休憩でコーヒーを飲むためかって? 違います。診察の時に患者さんに目をつぶってもらい、鼻の穴の近くに蓋をあけたこの瓶を近づけて、何の匂いかを当ててもらうためです。だから時々新しいコーヒー粉に入れ替えることも必要です。古くなって匂いの消えた粉では検査にならないからね。

何故そんな事を調べるかって? 無論、鼻炎や花粉症、副鼻腔炎(俗に言う蓄膿症)の人は例外ですが、アルツハイマー病(認知症)やパーキンソン病では極く早期からこの匂いを嗅ぐ能力(嗅覚といいます)が落ちていることが多いのです。

皆さん、毎朝コーヒーの匂いを満喫して、少なくとも脳はまだ健康に生きているらしい喜びを満喫してください。また、今日から折に触れて、物の匂いをかいで回りましょう。

もっとも、台所であまりうろうろして物の匂いを嗅ぎまわっていると、邪魔者扱いされるか、手伝いに来たと誤解されるからご注意を!!

(編集子)ブランドにうるさい連中に馬鹿にされるけど、小生はドトールの店頭売りの粉を挽いてもらい我流で入れたものを飲んでる。カウンタで挽き方を聞かれるのが面倒(コーヒーメーカーの穴の数で香りが違いますから、って店員さんはもっともらしく言うけど、わかるわけはねえ、と思ってる―この辺、篠原ドクのご意見もあろうか?)なので、いつも8番!ともっともらしく言うことにしてる。8っていう数字が好きなだけで他に理由なんか、ない。ただ、まだ香りはするからドクのお世話にはかからなくて済みそうだ。

 

 

 

真っ白な北岳がうれしい朝です   (グリンビラ総合管理HPより転載)

現在の外気温4度、快晴の朝となっております。この時期らしからぬ暖かさで、体調崩しやすいので手洗いうがいをしっかりして、現場まわりしたいとおもいます。

先週から花粉の飛散が始まった様で、鼻水や目のかゆみが出始めました。今年は花粉の飛散量がかなり多い予報なので…薬は飲んでいますが、症状が出始めると止まらなくなるんですよねぇ…

山行ノートから (1)   (55 宮城裕之)

昨年、台風来襲により急遽中止としたブナ立て尾根~読売新道~黒部湖をリベンジしました。天気は好天続きで、北アルプスの天水頼りの山小屋は、水不足となり、水の販売制限が1L/人、水のペットボトルは売り切れとなり、標高差1500mのブナ立て尾根は、水を5L担いで上がることになりました。裏銀座コースは好天が続くと予測されたため、昨年に比べて登山者多く、多くの登山者と話ができました。烏帽子岳~水晶岳までの稜線上からは、右側に、水晶岳~赤牛岳~読売新道のルートがよく見えて、また左側には、燕岳~槍ヶ岳までの表銀座の稜線がよく見えました。早朝はガスっていましたが、日の出とともに360度の大展望が続き、素晴らしい展望でした。3日目に水晶小屋から水晶岳・赤牛岳~読売新道を歩きましたが、前日良く見えた、歩きやすそうな稜線は、歩いてみると起伏が大きく思いのほか時間がかかりました。水晶岳~赤牛岳は大岩がゴロゴロして歩きづらく、読売新道は樹林帯に入る以前は、ザレ場・大岩ゴロゴロが続き、樹林帯に入ると太陽に照らされなくなり涼しくなりましたが、小さな岩や大木の根が湿気によりコケが生えて滑りやすく、何度か転倒して足を痛めました。読売新道は上りが少なく、ひたすら下る一方なので、コースタイム5時間のため、休憩時間を入れて4時間は切れるかと思っていましたが、意外に時間を要して、休憩時間を入れて5時間でした(実働は3時間30分)。奥黒部ヒュッテ~平の渡しまでは、早朝通過のためヘッドランプを付けての行動となりました。はしご・ザレ場の連続で、雪崩により壊れている箇所が3か所あり、下を流れる水の轟音が響きスリル満点でした。6月に68歳単独行の男性が落下し、亡くなったとのことで、緊張しながらの通過となりました。朝一番の渡し舟がAM6時出発であるため、3時起床、3時40分に奥黒部ヒュッテテントサイトを出発し、何とか1時間50分で平らの渡しに5:30到着。(船は6時15分発)黒部湖を横断する船は関西電力が無償で運航しているようで感謝です。平の渡し~ロッジクロヨンは、意外にも登り下りが多く、またハシゴ・ザレ場の連続で、こちらも3か所ほどは雪崩により崩れていました。黒部ダムまで来ると観光客が多く、ダムの上からは、はるか遠くに赤牛岳山頂が見えて感激でした。

(行動概要);七倉山荘~ブナ立て尾根~烏帽子小屋~水晶岳~赤牛岳~読売新道~黒部湖
7月30日(水); 自宅~(長谷川ピックアップ)→(上信越道)→麻績IC→信濃大町駅前ルートインホテル(泊)  車移動(280km;4時間)
7月31日(木); 宿泊先→信濃大町駅前~(裏銀座バス)~七倉山荘~(タクシー)~高瀬ダム⇒ブナ立て尾根登山口⇒烏帽子小屋⇒烏帽子岳⇒烏帽子小屋テントサイト(泊);
歩行距離(13km);コースタイム7時間10分(休憩時間2時間含む) 上り(1957m)・下り(492m)
8月1日(金):⇒烏帽子小屋テントサイト⇒三ツ岳⇒野口五郎岳⇒真砂岳⇒東沢乗越⇒水晶小屋(泊)
歩行距離(8.7km);コースタイム6時間31分(休憩時間1時間44分含む) 上り(837m)/下り(454m)
8月2日(土): 水晶小屋⇒水晶岳⇒温泉沢の頭⇒赤牛岳⇒奥黒部ヒュッテテントサイト(泊)
歩行距離(11.2km);コースタイム10時間45分(休憩時間3時間51分含む) 上り(436m)/下り(1836m)
8月3日(日) 奥黒部ヒュッテ⇒平ノ渡し場⇒ロッジクロヨン⇒黒部ダム→扇沢→信濃大町駅~
(車ピックアップ)~(大町温泉薬師の湯)→自宅;車移動(300km; 6時間30分)
歩行距離(15.1km);コースタイム7時間39分(休憩時間2時間16分含む) 登り1242m/下り1281m

(編集子)先に台湾遠征の記録を紹介したが、現役並みのアクティビティをキープしているグループの記録を紹介させてもらうことにした。その第一号である。聞くところでは5月にはまた、旧友を糾合してアルプス再踏破を計画しているとのこと。Boys, go for broke !

 

ミラノ・コルチナの快挙を聞きながら横丁老人の与太

衆院選と並行する形で耳目を集めているミラノオリンピック。イタリアと言えば西欧文化の中核であって、我々日本人にも現地を訪れたかどうかは別に、なじみのある国だし、街へ出ればピッザにスパゲティにとイタリア発祥のメニューが今や日本人の食文化の一部になっているほど、親しい感じのする国である。

そこで行われているオリンピック、なによりそのコルチナダンペッツオ、という地名に親しみがあるのは、かの猪谷千春選手の日本人初の銀メダル、というのが僕らの年代の反応だからだ。学生時代、35年卒の森永さんは当時松屋百貨店に勤務しておられた慶応OBのスキーの名手丸林先輩と知己の中で、松屋の応援があったのだろうが仲間内で丸林さんを囲むスキーバス、という夢みたいな企画をたててくれ、小生もそのお相伴にあずかって志賀丸池で二泊させてもらったことがある。このプランに、実に猪谷千春さんとなんと杉山進さん、当時の日本を代表する、へっぽこスキーヤには雲の上の人たちが参加され一緒に滑ってもらったことがあった。猪谷さんは温厚なジェントルマン、という表現がぴったりする方だった。当時まだ、(ウエ―デルンはどうすりゃできるのか)なんて言っていたくらいの小生をご覧になって、紳士らしく一つくらいは言ってやろう、と思われたのだろう、猪谷さんから、(うん、あなたのボーゲンはなかなかいいよ)と言ってもらったものだ。このプランで、使っていたザックに猪谷さん、杉山さんのサインをもらって後生大事にしていたのだが、理由は覚えていないが後輩に持っていかれてしまった。37年の八野だったか、もしかすると39年の堀川だったか相川だと思うんだが覚えていない。該当者がいれば教えてくれ(返せたあ言わないから)。

さて先日の朗報、女子ビッグエアでの快挙に関係がある与太話だ。スキーを長年やっても、丸池のAコースだの八方尾根は名木山の急斜面なんかでふうふう言っていた程度の小生に、スキーではないにせよ同じ雪の上でこのような神業を論じる資格があるわけはない。ただただ、彼女たちの神業に呆然としながら、拍手、感激しながらつまらんことに気を奪われた。何か。入賞した選手たちの名前のことだ。

村瀬心椛、金メダルおめでとう! という気もちはもちろんあるんだが、新聞記事で名前を見た時、その名前を読むのに苦労した。椛をかんばの木、と読むのは調べて分かったが、この名前を ”ここも” と読むのは思いつかない。それとチームメートが 鈴木萌萌、でこれをもも、と読むのも難しい。さらに深田茉莉、これは確かにどっかで見た名前だけど、次の岩淵麗楽はれいら。年齢から推察するに彼女たちの名前をお考えになったご両親は小生の子供と同年齢なのだろうと推察する。そりゃあんたの子供ならそうだろ、だから何さ、一緒にしないでよ、という反論は想定のうえでいわせてもらえば、最近の若い人たちの名前には、どういったらいいのか、(!)と考えてしまうことが多々ある。

編集子大田区立赤松小学校6年生の昔、ほのかな思いを寄せていたのは5年生3組のひろこちゃん(正式には浅野姓で、今を時めく同姓同名綴りもおなじ花形女優が登場した時には―あったりまえだろ、かんけえねえがー、なんだかキュンとしたもんだ)、だったし、親戚友人並べてみても女性陣はまずなんとか子ちゃん・さんがほとんどなので、この種のキラキラネームにはなじめない。しいて言えば、会社時代、名コンビといわれた秘書がやよいさんだった、くらいだ。かたや、昭和末期から平成の、なんといっていいか、昭和元禄2.0ともいうべき一種の平穏の中で青春を送った姪たちに言わせると、“子” が付くと何やらやんごとなき血筋を思わせることがあって、いかにも古めかしい、という風潮があるんだそうだ。それに、私っ達、苗字がなんたって 司 だもんね、と自分もそのやんごとなき血筋と思われたかとほのめかすのだが、本人がやんごとなき血筋には程遠い、かの竹下通りなどを徘徊していた実情を知る叔父には信じがたい。同じナカツカサでも、中務姓はたしかに貴族系らしいが、中司姓は平家一門の雑兵だそうで、多くが壇ノ浦の海に沈んだ。その生き残りの人たちが住み着いたのが今でいえば広島、山口あたりなんだと祖母から聞いたことがある(彼女も山口県出身)。今度の維新幹事長がどうなのか、聞いてみたい気もするが、ま、とにかく、名前って、もっとわかりやすくって書きやすい(ご本人が一生書き続けるもんだからね)方がいいんじゃねえの、とは思うし、PCの漢字変換もめんどくさいんだが。

ここまで書いて気が付いた。俺は何を言いたかったんだろ。はたまた、昭和は遠くなりにけり、と結ぶんかなあ。これから登場するあのアユム君、当たりの名前は読みやすいしご両親が彼に期待したことも想像できる。ま、カンケ‐ねえけど、しっかり飛んでくれよな。

(普通部OB 田村耕一郎)1956年、猪谷千春選手のコルチナでの入賞は日本を明るくしてくれた大快挙と、興奮し感激しました。そしてダートマス大学という名門大学の名を知りました。70年たち、若い人のスノーボードでは日本大国との活躍は凄いですね。連日嬉しいニュースが続き、政治選挙ニュースを吹き飛ばし感謝です。

猪谷さんが2位だった伝説のレース、1位はかのトニー・ザイラーだった。写真は飯田武昭君のご提供による。このレースを伝えたある記事は、(この日本人は猫のように滑り降りていった)と書いていたそうだ。また、黒い稲妻 を見たくなった。

(HPOB 小田篤子)以前メールに載せたことがあるかと思いますが、夫の知り合いのオーストリア在住の日本人女性(旅行コーディネーター)のご主人(オーストリア人)は古くから続く写真館を営んでいました。部屋には業務用のジャバラの写真機が飾ってありました。猪谷さんは、飯田さんのメールにありました、トニー・ザイラーについで銀メダルになったことで、オーストリアでは大歓迎されたようです。その知り合いの写真館の方が昔撮った、サイン入り猪谷千春さんの写真を、猪谷さんに届けて欲しいと言い、夫は、志賀高原の杉山進スキースクールに昔入っていたことから、杉山進さんにお願いしました。その後連絡はきていないようですが…

エーガ愛好会 (358) ダウントン・アビー・グランドフィナーレ (34 小泉幾多郎)

TV放映のエーガは観ているが、映画館での鑑賞は何年振りか。「ダウントン・アビー」TV版は、シーズン1の1912年から、1925年のシーズン6シリーズ52作が制作され、その間、映画が2作制作されている。その第1作(2020.1.19)は映画館で観ている。その後TV放映エーガは観ているが、映画館での鑑賞は、何年振りか記憶にない。この映画第1作については、2020年2月12日に新春映画三昧と称し、ブログに掲載されたが、「ダウントン・アビー」は貴族とその使用人との15年史を変わりゆく価値観と人生の集大成として、貴族文化の終わりと現代へ続く最終章が描かれた。TVでは、1912年から1925年に至る、シーズン6シリーズ、52話が制作された。この映画第1作は1927年ダウントン・アビーに国王夫妻が滞在する一報が、冒頭、蒸気機関車で通知されるが、TV版第1作の冒頭で、ダウンタウンの相続人がタイタニック沈没で死亡したことを通知することから始まる壮大な物語の始まりと対を成すものだった。

映画第2作新たなる時代へは、2022年にパリ在住の平井さんから紹介があり、1928年以降の屋敷の維持費用の工面に頭を悩ませる物語リが描かれたとのことだが、TV放映を期待して観ない儘、その後TV放映なき儘に(Wowowでは放映したらしい)見逃してしまった。

映画第3作は1930年代となり、屋敷が次世代へ託される時代に、娘メアリーは、離婚に晒されながら、貴族と使用人たちの新しい門出へ決着を付けられて行く。貴族文化に終わりを告げながらも終結を迎えるのだった。ダウントンの屋敷が次世代へと託されることになるが、父ロバーツから娘メアリーが経営者としての自立を、また使用人たちにも新たな門出が訪れる。ドラマティックな愛憎劇もあったが、ロケーションンの美しさ、衣裳の美しさ等ロケーションの美しさも楽しませてくれた。TVシリーズ完結から4年後2019年劇映画第1作、2022年第2作、2025年第3作と楽しませてくれた。