昨日は水道管工事で13時〜17時まで断水。ならば、トム・
立川で映画館横を素通りし、昭和記念公園に行ってしまいました!

気分改めて明日は雨とか言うので最後?の錦糸公園花見 八重桜が満開。ピンク色です。染井吉野も風で花吹雪すると茎がピ
旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
同期14名での掲題ミニ合宿(4/9・10)は天気も良く、新幹線+レンタカーでの「早春の福島」を堪能しました。(幹事はDr河瀬とシモさん)
① 9日の花見山公園(1時間トレッキング)では、満開の桜と菜の花、サンシュ、モモ、レンギョウ等各種の「花の絶景」を楽しみました。(写真添付)
② 10日の会津、喜多方は、桜はまだ早かったのですが、鶴ヶ城や(蔵の街)喜多方の(酒蔵等)散策を楽しみました。
③ 宿泊は東山温泉のリゾートホテル、「東鳳」で温泉も料理(バイキング)も十分満足できるものでした。最後に、平均年齢80才を超す14名(男7名、女7名)がドタキャンもなく全員2日間無事クリアできたのが何よりでした。
副題:思い出のアメリカ映画。著者:川本三郎、発行:晶文社、2000年。
川本は1944年生まれだから、小生とは6歳の違いがある。でも、以下のように見ている映画がほぼ重なっているから、1960年では川本16歳、小生22歳。川本がませていたのか、小生がボンクラなのか。その理由は、両方だろう。
彼は、この本が発行された2000年当時、あとがきでこのように述べている。「50年代から60年代にかけてのハリウッド映画は、いまよりずっと面白かったと思う」。その時代のアメリカ映画を語っているのがこの本で、ちょっと長いが、以下、全部で52本。ただし、例えば、「オクラホマ」、「ワーロック」、「許されざる者」など文中だけで言及している映画もあるが、余りにも煩雑になるので目次で示されている映画だけに限った。また、彼は、十代の映画少年にとって劇場プログラムは宝物だった、とプログラムを絶賛している。
ただし、彼はロードショーばかりを見ていたわけではなく、その値段が150円だった頃のことを回想して述べているのであり、ロードショーは勿論、二番館、三番館でも映画を楽しんでいる。なかでも、彼の大好物は西部劇で、作家の逢坂剛と西部劇について対談している本もある「大いなる西部劇」(新書館。2005年)。ただし、彼の好みは、例えば、監督はジョン・フォードではなく、同じジョンでも、「ゴーストタウンの決闘」、「OK牧場の決斗」、「ガンヒルの決斗」などのジョン・スタージェスであり、俳優はジョン・ウェインではなく、同じ「リオ・ブラボー」に出ていたリッキー・ネルソンと言った具合なのだから、そのねじ曲がり具合は尋常ではない。それを象徴しているのが、この本が、西部劇で始まり、西部劇で終わっていることだ。小生は見ていないが、冒頭の「拳銃王」(The Gunfighter。1950年)を「異色の西部劇」と呼んでいるが、何故なら、グレゴリー・ペック演ずる主人公がガンマンを止めたがっているガンマンと言う設定なのだ。また、とりを務める「ハッド」(Hud。1963年)を、川本は「西部の夢の終り」と名付けている。テキサスを舞台に、ポール・ニューマン(主人公のハッド)が出演しているのだが、全体にたそがれの西部という寂しい雰囲気にひたされていると言う。しかし、この類の西部劇を、川本は好んでいるようだが、小生は、イジケテいるからイジケタ西部劇と呼びたい。
いずれにしても、こう言った1950/60年代の映画が連なって来ると、こう言う類いの本の一番イケナイところは、見たくなる映画がゴマンと出て来ることだ。当時を思い出して懐かしさが込み上げて来るのは、年寄りとしては、致し方ないだろう。特に、中でも、「ハリーの災難」、「成功の甘き香り」、「十二人の怒れる男」、「渚にて」、「アラバマ物語」など。
蛇足だが、1960年当時の初任給を10000円とすると、150円の出費は可なり痛い。でも、一般大衆にとっての娯楽は、まだテレビではなく、その殆どが映画だった。従って、映画館で映画を見物する人口も、その後、テレビ、ビデオなど映画館以外での選択肢が大幅に増えたことにより、1960年の10億人以上から2012年の1億5000万人へとこの間殆ど1/10にまで激減してしまった、と伝えられている。
目次で取り上げられた52作品(太字は、小生が見た映画30本、*は西部劇13本)。 (編集子が見たものは g を付けてみた。スガチューにはやはり敵わないことがわかるのは一目瞭然)
「拳銃王」*
「ハーヴェイ」
「真昼の決闘」* g
「裸の拍車」 g
「シェーン」* g
「悪魔をやっつけろ」
「大アマゾンの半漁人」
「ケイン号の反乱」 g
「裸足の伯爵夫人」 g
「雨の朝巴里に死す」
「ヴェラクルス」* g
「星のない男」* g
「情事の終り」
「東京暗黒街・竹の家」
「エデンの東」 g
「七年目の浮気」
「海底二万哩」
「マーティー」
「ハリーの災難」 g
「ピクニック」 g
「山」
「禁断の惑星」
「必殺の一弾」*
「友情ある説得」*
「翼よ!あれが巴里の灯だ」g
「めぐり逢い」
「成功の甘き香り」
「戦場にかける橋」 g
「青春物語」
「情婦」 g
「若き獅子たち」
「ゴーストタウンの決闘」* g
「愛する時と死する時」
「手錠のま脱獄」
「大いなる西部」* g
「大戦争」
「月夜の出来事」
「旅路」
「走り来る人々」
「十二人の怒れる男」
「ガンヒルの決斗」* g
「或る殺人」
「夜を楽しく」
「渚にて」
「スージー・ウォンの世界」
「荒野の七人」* g
「アラバマ物語」
「ハッド」*
人間年を取るにつれてそれまでは気にも留めなかったことがいろいろ気にかかるものらしい。本稿でも何回か、若い人たちの間で使われる、いわば現代語、について書いたことがあるが、今回は コミュニケーション という英語(ま、準日本語と言っていいのかもしれないが)についてのいちゃもんである。
先日、巨人戦の実況をみていた時、回のあいまのベンチの映像を見て、解説者が文脈はよく覚えていないのだが、投手とコーチが何やら話し合っている画像につて、”・・・・・こういう風な場面に経験の深いコーチとコミュニケーションをとることが非常に重要である” 云々としゃべっていた。言おうとすることはわかるのだが、なんでこんな場合にコミュニケーション、なんていう言葉をつかうのか、いつもながら違和感があった。 ”よく話し合う” とか、”意見を聞いてみる”などといったほうが自然ではないのか。なにか コミュニケーション ということのほうが程度が高いとか、そんな程度のことなのだろうが、こういう場面によく出くわす。僕がサラリーマン人生、まあまあ人並みにこなせたのは、なんといっても早い時期にこのコミュニケーション、というものの真のあり方を叩き込まれ、武骨に実践してきたからだと思っているので、そのことについて感想を書く(関係ないが、先日、KWVOB会の竹原君から、小生の愚痴話をなんと ”天下のご意見番” と持ち上げてもらった。気恥しいけれどもそんなことになればこのブログもやっている価値があろうかというものだ)。
僕が就職をまじめに考えていた時期は、まだまだ経営といえばアメリカのほうが優れていて日本は遅れているのだ、というような風潮が支配的だったし、なんだかMBAなんてのがいるらしい、どっかで講習を受けた方がいいんだろうか、なんて時代だった。その頃、日本経営の問題点は、物事が論理的に解決されない、万事人間関係やありていに言えば親分子分仁義で決まってしまうことが多い。これは直ちにアメリカのようにきちんとしたフォーマルなコミュニケーションで論理的に解決するようにしなければならないのだ、という空気が支配的だった。小生は新聞記者になる、という夢に見切りをつけてからは、サラリーマンならどこでも同じだろう、位にしか考えずに家族的社風、ということで会社を選んだので、職場の雰囲気にせよ意思決定プロセスにせよ、そんなもんだろう、位で納得していたものだ。だから2年経って新進アメリカ企業として評価の高かったヒューレットパッカードとの合弁会社に移籍が決まった時は学生時代に理解していた、フォーマルコミュニケーションに基づいた論理一点張りの会社になるのだろうと思い込んでいた。ところが、移籍して間もなく、親会社から派遣されてきたマネジメントチーム(ま、占領軍司令部みたいなもんだったな)から、”この会社ではインフォーマルコミュニケーションを重視するのだ” と言われたときはただひたすらにびっくりしたものだった。これは会社の二人の創立者、ウイリアム・ヒューレットとデヴィッド・パッカードが卓越した技術者であると同時に事業を成すのは人間であり、お互いの信頼だ、という思想というか信念の持ち主であったからだ。
小生自身体験したのだが、初めてヒューレットと話をする機会にえらく緊張して ”Mister Hewlett…” と呼んだら、 ”Mister Hewlett is my father. I’m Bill” と言われたものだ。これに倣って、会社ではお互いを呼ぶのに一切肩書を使うことをせず、課長だろうが部長だろうがつねに ”鈴木さん“”田中さん” と呼び合うことになった。このことが真の意味でのコミュニケーション、という土台を築き上げたのはまちがいない。当時の生産現場は中学出たての少女たちがずらりと並ぶ、典型的なシーンであったが、そのラインの中から、”ジャイさあん、ちょっとおしえて!”なんて声がかかったり、社長の横河さんが月末の出荷時期になると搬送場へ現われて、”俺にも箱詰めぐらいやらせろ”と冗談をいったりという、僕にとってみれば浅貝の小屋の雰囲気のような一体感があった職場だったのだ。(僕は当然ながらジャイ、ジャイさん、であり、英文では Gi Nakatsukasa とサインしたから、HP社取締役会議事録のどこかに Gi という名前が、例えば President Shozo Yokogawa や、もしかすると David Packard 、などと並んで残っているはずである)。こういう全体としてのコミュニケーションを前提として、マネジメントは目的を示し、職員はそれに向かって自発的に動く、というのがこの会社の基本原理であった。技術という面ではもちろん世界水準を行く優良企業ではあったが、この経営思想と実践とがHPという企業の真価だったのだ。
話が少しずれた。言おうとしたのは、今気軽につかわれるようになった、コミュニケーション、とはなにか、ということだ。”Bill and Dave” の哲学で貫かれていた時代(とわざわざいうのは、同じ名前の会社はいまも存在するが。その実態は今では全く違った企業文化の企業に変わってしまったからだ)のHP社にいあわせ、そこで教わった定義は言葉だけでなく表情や感情や身振り手振りやそういうものすべてを通じて人と分かり合うこと、というものだった。だから、単なる情報が伝達されたからコミュニケーションが成立するものではない、ということを言いたいのだ。 ”詳しくはホームページを見てください” といえば ”コミュニケーションはとれる” のか。。
IT技術の展開によって、いろんなメディア(媒体という意味だ)が登場し、情報を正確に速く伝える、という部分は確かに出来上がった。しかしそれだけでは真の意味のコミュニケーションが成立したとは絶対に言えない。資料情報の伝達だけでなく、人間同士の間にのみ存在し感知し理解できるなにかが伝わって初めてコミュニケーションが成立したといえる。ホームページというのは確かに優れた情報伝達の手段ではある。しかしまず第一にそれが成立するには情報の受け手が自分でアクセスするというアクションがなければ絶対に機能しない。送り手の方がどうしても先方に、確実に、送りての感情もふくめて、とどいてほしい、という立場にあるのなら、ホームページに載せました、というのでは完結できないのだ。だから、”ホームページにのせました”というだけですませられないものが、いかにIT技術が発展した社会にあっても存在するはずだ。
本気で ”コミュニケーションをとる” つもりであるならば、” それにはそれだけの含みがあり意味があるのであって、ホームページにのせたからすむ、ということではないものがあるはずなのだ。
3月予定の行程が4月に変更になったので桜が終わってしまうのではと心配していたが、花冷えで花は散らず結果的には最高のタイミングとなった。両コースとも快晴の天候のもと、満開の桜花と青空のコラボの下での散策を存分に楽しむ素晴らしい春の一日だった。
2.行動報告(敬称略)
(1)シニアコース:滝山城址公園
<参加者16名>中司恭(36) 鮫島弘吉郎(36)遠藤不士男(36) 高橋良子(36) 矢部精一(37)三嶋睦夫(39)西澤昌幸(39) 立川千枝子(39)多田重紀(39)藍原瑞明(40) 相川正汎(41) 猪俣博康(43)村上裕治(46)平井利三郎(47)伊川望(47)
<山行報告>
「月いち高尾」の会にとって土地勘のない八王子だったが全員が時間前に無事集合し予定通り10時5分のバスにて滝山城址へ向かう。
穏やかな天気と花を愛でながら三の丸、中の丸、本丸に。中の丸は桜が満開、眼下の多摩川、昭島(福生?拝島?)の街並みを眺めながら昼食を摂る。ここは百名城に選ばれるだけあって地形を生かした城づくりは素人目にも見事で張り廻らされた空堀も綺麗に復元・整備されていた。訪れる人も少なく、のんびり散策するには絶好のスポット!
本丸で雲行きが怪しくなり一目散でバス停に、雨にも降られず楽しいハイキングだった。
(2)一般コース:城山かたくりの里から草戸山
<参加者14名>久米行子(41) 保屋野伸(42) 菅谷敬臣(42)安田耕太郎(42)吉田俊六(44)水町敬(47) 福本高雄(47) 佐藤充良(48)福良俊郎(48)五十嵐隆(51)羽田野洋子(51)斎藤邦彦(51) 後藤眞(59) 大場陽子(BWV)
<コースタイム等>
橋本駅北口8:22⇒(三ケ木行きバス約20分)⇒城山総合事務所前8:40⇒(ロード30分)⇒9:10城山かたくりの里10:30⇒(40分)⇒11:10龍籠山展望台11:20⇒(40分)⇒12:00草戸山12:30⇒(30分)⇒13:00梅ノ木平⇒(30分)⇒13:30高尾山口
3/20から4/20まで一般開放されている「城山かたくりの里」では、かたくりのピークは3月下旬に終わっており代わりに黄色いかたくりが咲き始めていた。逆に時期を遅らせたことが幸いして各種の桜や花桃、三つ葉ツツジ、ボケ、ヤマブキが文字通り百花繚乱と咲き誇っているのを見ることが出来た。
ここでは珍しい高山植物も多く見られチングルマ、エーデルワイス、ショウジョウバカマ、ヒトリシズカ、エンレイソウなどが育てられていた。(高い山に行かなくてもここで見ることが出来る。)
晴天に恵まれ金比羅宮のある龍籠山(タツコヤマ)の展望台からは都心の景色を見渡すことが出来、遠くはスカイツリーや横浜の展望を楽しんだ。桜の花が満開の城山湖の堰堤を過ぎ、草戸山に上がって眺望を愛でながら昼食を摂ったが老朽化した頂上の松見平休憩所の小舎は撤去されて何も残っていなかった。昼食後は梅ノ木平までニリンソウの咲く道を一気に下ったが、高尾の奥座敷と言われる「うかい竹邸(昨年11月末に閉店)」の取り壊し工事がかなり進んでいた。下山後、梅ノ木平の「かたくりの邸」に立ち寄ったが、かたくりの花は終わりに近くわずかに残っているだけだった。ここから国道20号線甲州街道を帰路に着いた。このコースは橋本駅の近くから草戸山を越えて高尾山口駅まで延々と歩く行程だったが、最先輩のコブキさんを始めメンバーは健脚揃いで予定よりかなり早く高尾山口駅に到着することが出来た。
両コースの参加者から合わせて25人のメンバーが懇親会に集まり賑やかな歓談となった。両コースとも桜の花が満開だったので花の美しさをはじめ春の息吹を感じる話題に終始した。今回は特に次回の第100回記念の開催について意見の交換を行った。
世の中は、寅の「Kanzei」の一言で、てんやわんやの大騒ぎ。
でも、外に出れば、桜は満開。しかし、ちょっと変だぞ。知人は、白くて気持ち悪いと言う。小生も、白いと思う。本来は、もっと鮮やかなピンクだったのではないか。知人は、お前と同じように、桜にもScrap & Build(小生に、Buildは当て嵌まらない)が必要だと。さて、本当に、何故、白くなったんでしょうか?
(中司)BINGO!実は昨日,墓参りに行って、
(44 安田)菅原さん、ジャイさん、流石、菅原さん、目のつけどころが「恐れ入谷の鬼子母神」。自分では答えが解るはずもなく、だらしなくネットを頼りに。できます。
(船津)櫻の種類は沢山在り過ぎで分からない。白かピンクか桜色かさてさ
今眼下の錦糸公園の櫻は満開です。遠くから観るとややピンク色に
しかし、遠くから観るとサクラ色に見えませんか。
マァ3日観ぬかの櫻かな 間もなくハラハラ散っていくことと思います。
調布と世田谷と三鷹がぶつかり合うあたりを仙川が流れている。甲州街道にぶつかるあたりの流れは完全に護岸作業で出来上がっていて味がないが、その分、両岸に菜の花が敷き詰められていて、桜とのハーモニーがしゃれている。深大寺はこの時期、人出が多くて往生するのだがここはのんびりした雰囲気が保たれている気がする。そのせいか、ここの桜は桜の色してるよなあ。
母校横浜平沼高校1年5組当時寒川先生が担当しておられたので、
まあそういうこともあり、1年生のクラスの
た。その都度幹事を決め、2011年の東日本災害と2020年2
ちょっと長くなりますが、過去に、行った場所を
(編集子)我々昭和29年慶応普通部卒業の仲間では少し前に卒業70年の集い、というのを催した。我々の場合は 80周年をどうするか? が話題となった。先輩、ま、平和な日本、と改めて感謝しましょうや。
画集「富嶽三十六景」(編:日野原健司。岩波文庫、2019年)。
北斎の「富嶽三十六景」については、散々言い尽くされているが、ここに、その画集を見たド素人である小生の感想を綴ることとする。ただし、題名は富嶽三十六景となっているが、実際の版画の数は四十六景もあることから、その一々の版画についての話しは省略する。その「富嶽三十六景」だが、これを描き始めたのが、北斎、70歳過ぎからだったと言うから、さすが画狂老人卍の名に相応しい。
その前に、先ず、この本の説明を簡単にしておこう。見開きの2頁を使って、図版を掲載し、その後ろの見開き2頁を使ってその絵の解説をする構成となっている。従って、先ず図版をジックリと眺め、解説を読み、それから、再び図版に戻ることを繰り返して行った。
題名は、富嶽とはなっているが、その富士山だけを描いたものは、たったの三点に過ぎない(「凱風快晴」、「山下白雨」、「諸人登山」)。残りの四十三景は、富士山は単なる点景に過ぎず、言ってみれば刺身のつまにも等しい。北斎が描きたかったのは、富士山にかこつけて、その前景にある情景だろう。人の営み、日常風景。その後景に、ちょこんと富士山を、申し訳程度に配す。だから、富士山自体は皆似たり寄ったりとなっている。また、その殆どの富士山は、太平洋側から見た表富士であり、日本海側から見た、所謂、裏富士は数が極めて限られている(「身延川裏不二」)。
小生が大変気に入っているのは、北斎が描いている様々な人の営みだ。例えば、「神奈川沖裏浪」では、押送船に乗っている者たち、「深川萬年橋下」では、橋を行きかう大勢の人々、「尾州不二見原」では、桶の内側を削っている桶職人、「甲州犬目峠」では、峠道を行く旅人、馬子たち、「武州千住」では、馬を曳く農夫、などなどだ。これらがあって初めて「富嶽三十六景」が成立する。
肉筆浮世絵ではなく、版画だから同じものが複数枚あるわけだが、ここで紹介されている四十六の版画がどの美術館に所属しているかを見ると、米国のメトロポリタン美術館所蔵のものが30点と圧倒的に多く、続いて、太田記念美術館が8点、島根県美術館が5点、すみだ北斎美術館が3点となっている。これだけを見ても、北斎が如何に西洋から極めて高く評価されているかが良くわかる。
小生、実物を上野の展覧会会場で見たが、意外だったのは、その大きさだ。これは版画であるから致し方なかろうが、その絵の大きさは、縦が26.5cm、横が39cm。従って、有名な「神奈川沖浪裏」の波乗り(サーフィン)に絶好の大波(英語のBig Wave)の迫力が余り感じられなかった。意外と小さいなと言うのが第一印象だった。それに加えて、会場の見物人が余りにも多く、全部を観て回るのはほぼ不可能だったので、「富嶽三十六景」だけを見ることにした。それでも、大勢の見物人の頭越しであったことから、ゆったりと見たることは出来なかった。従って、家に帰って、画集を見ながらユックリで我慢してしまうのだが、それでは本当に見たことにはならないだろう。
北斎と来れば、その娘、葛飾応以を忘れるわけには行かない。その展覧会会場のドンジリに葛飾応以の「夜桜美人図」が飾ってあったが、画狂人の娘だけあって、いや、若しかすると、明暗陰影の見事さは、親父を凌いでいるのではないかとの印象すら受けた。その見事さは、仮にレンブラントの絵から影響を受けていたとしても、これは全く応以独自のものであることは言うまでもない。傑作と言われる「吉原格子先之図」の実物は見ていないが、画集によってでも、その見事さは良くわかる。
(普通部OB 船津)富嶽三十六景は今話題の蔦重が版元では無く柳亭種彦『正本製(
菅原さんご指摘のように北斎は海外で認められ日本は反故紙扱いだった。。「ベロ藍」こと輸入化学染料プルシアン・
北斎は83歳から89歳の間に4回、
(44 安田)北斎は生涯で雅(画)号を30回ほど改名したという。「神奈川沖浪裏」