英語力の話   (37 宍倉勝)

”Circle Be Unbroken”に掲載された大塚(フミ)さんが自身の英語力維持に努力
している事知りました。私自身も、特に会話力維持に努めていますが、特別な機会があるわけでなく、私の維持方法は、街で出会う外人に積極的に近づき”May I speak to you” “May I disturb you”と声掛けして会話を始めます。
特に乗り物の中では絶好の機会です。
先ずは”お国は””日本に来た目的は”で会話をスタートさせます。
声掛けした外国人のほぼ100%、会話時間の長短はありますが、こちらからの呼び掛けに応じてくれます。
特に私が商社勤務時に訪問した国(約20国程))からの旅行者であれば、その国の特に印象に残った事を思い出し、会話の中に織り込むと会話が一層盛り上がります。
(44 安田)

我々後期高齢者にとっての英語力は、勿論、TOEICやTOEFLや英検試験の得点高低で推し測る技術論とでも呼ぶハード面の力と、技術的にそこそこ熟すことが出来れば、多分もっと大切なのは、ソフト面とでも呼ぶことができる、話題の広さや深さと相手との対話の間合いを上手く取ることができる力ではないかと思っている。言語能力には本質的に関係ない個人としての魅力度と成熟度と云っても良いかも知れない。話題については、宍倉さんご指摘の相手の国々を訪れた経験は大きなアドヴァンテージとなるのは言うまでもない。更に文化・芸術・スポーツ・映画・料理・歴史・旅・趣味・・・などの知見が相手との対話を豊かに弾ませるのは間違いない。例えば、2時間を超すような食事の場における対話力は英語の技術力論だけでは測れないもっと奥深い人間の幅とでも呼ぶ何かがあると思っている。勿論、ハードとソフトを両方兼ね備えていれば鬼に金棒であるのは間違いない。ハード面の上達は歳をとるに従いより困難になり、使わなけらば劣化するのは確実でしょう。
傘寿を超えられた宍倉さんの日常生活において会話力維持の努力を街で出会う外人に積極的にオープンに話しかけることで実行されておられる姿勢には頭が下がるのみです。ほぼ100%の確率で呼び掛けに応じてくれるというのは嬉しい驚きです。宍倉さんの物腰の良さと呼び掛け時の巧みさがそうさせているに違いないと思っています。そのままを真似は出来ませんが、見習うべき生き方の一つだと肝に銘じさせて頂きました。

景信山と尾崎喜八

山歩き、という事についての文章には心惹かれるものが沢山ある。各々の好みによって、激しい登山登攀記録、登山と人生観、エッセイやら詩まで、多くの傑作と呼ばれる文章がある。小生は現役の登山家の文章のなかでは ”北八ツ彷徨” を第一に挙げる者の一人だが、もう一人、我々に先立つジェネレーションの一人、尾崎喜八の文章に強く惹かれるものを感じる。中でも有名な たてしなの歌が好きだ。

君の土地。それは無数の輻射谷に刻まれて八方に足を延ばした、やはり火山そのもの肢体の上の耕地であろうか.。或いはもっと古く、埋積し、隆起した太古の湖底の開析平野と、その水田に、今、晩夏の風が青々と吹きわたる河岸段丘のきざはしであろうか。

とはじまるこのエッセイには、信州の山々とそこに住む人たちの生きざまに限りない愛情を抱いた詩人の感性が満ち溢れている。”北八ツ彷徨”がまさに現代人のある種の疎外感を感じさせるのに対し、良き古き時代を満喫できたエリートの満足感とでもいうべきものだろうか。

連休、他に何もプランを持たないまま、八ヶ岳南麓の晩春を久しぶりに味わいながら、何となくページを開いた尾崎の ”山の絵本” に、景信山のことが書かれているのにひかれた。月いち高尾、で何度となく歩いている旅が、”古き良き時代” はどうだったのか、などと感じるよすがになるかと思い、尾崎喜八 ”山の絵本” (日本山岳名著全集)から、”山日記から” の該当部分を拾ったものを紹介しておく。次回、このルートをたどる際に思い出してもらえると嬉しい。

左から串田孫一、尾崎喜八、川田禎

 

 

(尾崎喜八 山の絵本 より抜粋)

高尾山は余り雑踏し過ぎるという人に、私はその奥の景信山をすすめたい。古い小仏峠を中心にして、春は花も多いし蝶も多く、またその眺めの雄大なことは道の楽なのに反比例している。

浅川駅前から高尾山行きの電車へ乗ると次の停留所が小名路、小仏峠への追分である。右に中央線の線路を、左に黒木立の高尾山を見ながら、糸繰器械の音のする農村から農村へ、一理ばかりをぶらぶら歩くのである。これは昔の甲州街道で、往手にはもう景信山と小仏峠をつなぐ緩やかな山稜線が空をかぎっている。

高尾山蛇滝口への道を左に見て、やがて小下沢の現れるところで線路を歩いて斜め向こうへ渡ると、もう小仏の部落。地質学でいわゆる小仏層の石が、まるで石炭を敷いたように線路に沿って散らばっている。ミツマタの薄黄の花が咲き、つま先上がりの路の右側に段々になって農家がならび、その左側を小仏川のささやかな水の流れるこの村で、どうしてもシャッターを切らずにはいられないだろう。

村外れから線路は小仏トンネルへもぐり込む。人はその上を歩いて行く。やがて景信山への登り口を示す道標が小径の右に立っている。そこで一休みして、右手五六段で無くなってしなう石段から登りになるのである。まっすぐに行けばもちろん峠道。しかしこれは帰路に選んだ方がいい。

息を切らせる登りが約十分間位つづくが、それからは雑木のまばらに生えた尾根をのんびりと登るのである、左手は谷を越して小仏峠のたるみが、その掛茶屋と一緒にてをとるように見える。右手遥かに多摩丘陵や武蔵野の一角が春霞をまとってせり上がる。如何にも春の山路の感じである。

これを登りきると一寸した平へ出る。そのすぐ左に立っているのが景信山である。以前に息を弾ませながら真直ぐに登ったものが、今では電光形の路がうまくつけてあるから、急がずに登れば楽なものである。忽ち頂上。その頂上の平地には近頃景信小屋という相当な小屋が出来て、食物や飲料なども売っている。眺望はこの付近で最もすばらしい。

先ず西にはこの山から始まって相州、武州、甲州に跨る国境山脈が、縦に蜿蜒とうねっている。その奥には三頭山、権現山などの大塊を前にして、山膚の青磁に白雪の象嵌をほどこした大菩薩連嶺の長壁が、むしろ優美に夢のように横たわる。その左手笹子峠から三峠山へつづく一線の上には南アルプスの白金の山々がぴかぴか光る。富士は元より偉大だ。富士はまるで抱きかかえることができるほどに大きくかつ近い。富士の左には道志の山々の紛糾を前にして、丹沢山塊がその大鵬の翼を張っている。一転して北は馬頭刈から大岳山・御前山へと延びる一連。中でも大岳山の姿は豪壮だ。その左手奥には秩父の雲取山が、これも雪の縞をつけて頭をもたげる。もっともっと遠く北東の地平には日光や那須の連山。また東には平野の青い霞の上に紫の筑波。春は悠々として天に浮雲。草上に身を倒してこの無限の空を見つめるのはいい。

小仏峠へはこの頂上から南へ向かう尾根をだらだら降るのである。植物や昆虫採集はここからはじまる。一日には極めて楽な行程である。

エーガ愛好会 (264) 続荒野の用心棒  (34 小泉幾多郎)

マカロニウエスタンは、監督セルジオ・レオーネ、主演クリント・イーストウッドの「荒野の用心棒Per Un Pugno Di Dollari 1964」の登場で一大センセーションを巻き起こした。原名は「一握りのドルのために」だが、黒沢明の「心棒」をリメイクしていたことから、日本公開時に「荒野の用心棒」と名付けられた。この映画も流れ者と敵対する集団との争いという「用心棒」と似た物語ということから、邦題は「続荒野の用心棒」と命名されたが、「荒野の用心棒」とは関係なく、同監督主演の正式な続編は「夕陽のガンマン」「続夕陽のガンマン」とタイトルが代えられた。
続荒野の用心棒Django1966」は監督セルジオ・コルブッチ、主演フランコ・ネロで、純粋イタリア産ヒーローとして、ジャンゴ=フランコ・ネロを生み出した。そのジャンゴ役は大当たりとなり、その後国際舞台に飛び出し、「天地創造1966」「キャメロット1967」「怪奇な恋の物語1968」ナバロンの嵐1978」等に出演。しかしフランコ・ネロが扮したジャンゴは後年1987年の「ジャンゴ灼熱の戦場」だけで、トーマス・ミリアン、アンソニー・ステファン、テレンス・ヒルといった他の俳優が次々に勝手にジャンゴを演じてきたのだった。

 オープニングは棺桶を引きずりながら、テーマ曲ジャンゴをバックに泥の荒野を歩くシーンから始まる。ジャンゴ―から始まる曲が、耳に心地よい。Luis Enriquez Bacalov作曲、Rocky Roberto唄。メキシコ国境に近い宿場町では、人種的偏見を持つ元南軍のジャクソン少佐(エドワルド・ファヤルト)とメキシコ独立運動の闘士ロドリゲス将軍(ホセ・ポダロ)の一味同志が対立しているが、その部下たちに相次いで危害を加えられようとされる混血娘マリア(ロレダーナ・ヌシアク)を救ったことから、ジャンゴはマリアとナタニエーレ(アンベル・アルバレス)経営の酒場で休むことになる。ナタニエーレに無理難題を押しつけるジャクソン少佐一味と早撃ちのジャンゴと揉めたことから、40人の部下を引き連れたジャクソン少佐とジャンゴが争うことになり、棺桶に隠し持っていたガトリング機関銃で、ジャクソン一味の大部分を殺してしまう。

その後の凄惨なバイオレンス描写も凄い。ロドリゲス将軍がジャクソン少佐の手下の耳を切り落としたりする。一方ロドリゲス将軍とジャンゴはメキシコ政府軍営倉に大量の黄金があることが判明、黄金を折半することで襲撃に成功。しか
しロドリゲスの折半の約束が怪しく、ジャンゴは黄金を棺に詰め、マリアと共に逃げたものの、底なし沼付近で、馬車が傾き、黄金は底なし沼に落ちてしまう。ロドリゲスの軍隊に捕まったジャンゴは、馬の踵でジャンゴの両手は二度と銃を握れぬように、粉々に踏み潰されてしまうが、反乱軍はジャクソンと政府軍に待ち伏せされ皆殺しにされてしまった。ジャクソン少佐とその部下5人は、恨みをこめて、墓場に籠る手が動かないジャンゴを殺しに来るが、動かないと思われたャンゴの手が、墓標でピストルを支え、撃鉄を利用してのジャンゴの執念の戦いに敗れたのは信じられないことにジャクソン少佐の方だった。ジャンゴ執念の勝利。オープニングと同じジャンゴのテーマが流れ、満身創痍のジャンゴが、十字架に引っ掛けられた赤く血で染まったピストルを振り返りながら去って行くシーンで終わる。

(編集子)ジャンゴが棺桶に入れていた ”機関銃”。当時というか西部開拓時代の末期に登場したガトリング砲は グレゴリーペックの 勇者のみ (だったと思うが)で初めて登場した。しかしこれは大型の ”砲”で、とても棺桶で運べるものではないように思える。その後、この ”砲” は一人で持ち運べる “銃” になり、マキシムとかブローニング製のものに置き換わっていったはずで、このタイプになると、ガトリングのように銃身を回転させるものではない。ジャンゴがぶっ放すのは、一人で持ち運べてしかも銃口が一つではない、というのはやはりこれまたマカロニの発明品のように思えるけどなあ。

民法改正についての一一考 (普通部OB 船津於菟彦)

今日の朝ドラ「寅に翼」は離婚後の親権についてだった。今国会で共同親権など民法改正について議論されている。離婚後の子供の幸せは——。

母が父と同じように子に対して親権者と呼 ばれる地位を得るようになったのは、西洋の 歴史においてもそう古いことではない。父権 から母を含む親権へと初めて改められたのは 1900年から施行されたドイツ民法においてであった。しかも、母が父と同じ権利を行使で きるようになったのは、20世紀に入ってしば らく経ってからのことである。

旧民法は、親権について、人事編第 9 章「親權」第 1 節 子ノ身上ニ對スル權第149条に、 「親權ハ父之ヲ行フ 父死亡シ又ハ親權ヲ行 フ能ハサルトキハ母之ヲ行フ 父又ハ母其家 ヲ去リタルトキハ親權ヲ行フコトヲ得ス」修正案第890条「未成年ノ子ハ其家 ニ在ル父ノ親権ニ服ス」は旧民法人事編第149 条「親権ハ父之ヲ行フ」に修正を加えたもの であった。

現行法では、明治民法が母の親権に加えた制限を一掃し、共同行使の不適当な場合に父 母のいずれを親権者とすべきかの決定は、明治民法のように「家」を標準とせずに、専ら 子の福祉を基準として定むべきものとされた のである。

現行法 第818条 1 項第818条 3 項「成年に達しない子は父母の 親権に服する」 「親権は、父母の婚姻中は、 父母が共同してこれを行う。 但し、父母の一方が親権を行 うことができないときは、他 の一方が、これを行う。」フランスでは1970年法により、親権 概念が「父の権力」から「親の権威」へと用語が変更され、ドイツでは1979年の配慮権法 により、「親権」に代わり「親の配慮」とい う用語が導入された。また、イギリスでは、 子に関する親の法的地位が後見であったのを、 1989年法により、「親責任」という概念を導 入した。

戦後公表さ れた統計では、当初は夫を親権者として離婚 する場合が過半数を占めてきたが、1966年(昭和41年)に妻を親権者として離婚する場 合が過半数を占めて逆転して以降、現在に至 るまで年々その件数は増加し、最近では約 8 割に達している。そして、この離婚母子世帯 の経済状態は、著しく低く、その原因の 1 つ に離婚後の非親権者の父から子どもへの養育 費の支払が滞りがちであるという事実がある。親権法改正の基本指針 の 1 つとして、離婚後の両親の「共同親権」の原則化を提案している。

明治時代
家父長制のもと婚姻中も離婚後も「親権」は父親
戦後
個人の尊厳と男女平等の理念から婚姻中は「共同親権」
離婚後は子と暮らす方が単独で親権を持つべきとし「単独親権」に2000年ごろ子どもに会えない別居親たちによる「離婚後共同親権」を求める。

改正案は今の国会で成立し、2年後の2026年までに施行される見通しだが、DVや虐待が続くことへの懸念が根強いことから、参議院でも、運用上の課題などをめぐって議論が行われる。両方の同意が無いと子供は修学旅行にも行けないかも知れないとか、父母は離婚しているが子どもに対する親権は双方とも有しているため、子どもに対する教育方針が異なることがあり得る。色々危惧あり。一番に考えなくてはならないのは、子どもの利益だが、共同親権の制度導入が、子どもにとってベストであるかどうか考える余地はありそうだ。

共同親権のメリットについては、親権を有することから子育てに関わり続けるため養育費が支払われやすくなることや、面会交流がスムーズに行われやすくなる等、考えられる。本来、離婚しても、親と子どもの関係は変わらず、親が子どもを気にかけて、子どもの養育をしっかりと行ってきていれば、単独親権か共同親権かという問題は起こらなかったのではないだろうか。共同親権で解決できるのかしら。基本は子供の幸せのはずだが。

 

 

近くて遠い異国チマチョゴリ歓迎 (41 齋藤孝)

 

桜の宴も終わり、寂しくなりました。花の命は短くて・・・、潔く散る人生は憧れですが、まだ私は欲深く生臭いです。

お隣、近くて遠い異国に行って来ました。初体験の旅でした。あちらの女性から「チマチョゴリ」を着けて抱き付かれました。日韓は仲良くしたいと強く実感しました。

24年4月 月いち高尾 報告   (47 関谷誠  51 齋藤邦彦)

2024年3回目の「月いち高尾」を4月19日(金)に実施。

3月29日に予定していた花見「月いち高尾」は、ピンポイントでの雨天、それも「春の嵐」の様な悪天が予報され、早々に、中止を決定。神のお告げだったか!桜の開花が、今年は、例年より遅く、結果良しだった。 そのリベンジとして、「春の花々を探訪する山歩き」をテーマに、一般コースは、ワンダーの「牧野富太郎」こと、吉田ズン六博士(S44)の簡易スピカ―を駆使した解説付きで実施。

シニア・グループは、多くの小学生、高校生、外国人それに御多分に漏れず高齢者グループでごった返す「高尾山口」に集合。定番のケーブル利用と琵琶滝コースに分かれ、春と云うか初夏の様な気候の下での「月いち高尾」を満喫した。

 

1.シニア・コース

(1)参加者10名: S36/中司、遠藤、大塚、高橋、 S37/矢部、 S39/岡沢、S41/相川、 S48/福良、 S47/伊川、関谷

(2)10;15「清滝」ケーブル駅 ⇒  ① ケーブル利用 (中司、大塚、高橋、相川、福良、伊川)  ②琵琶滝コース (遠藤、矢部、岡沢、関谷)⇒ 11:45 もみじ台「細田小屋」 ⇒ 12:30 4号路経由 ⇒ 14:00ケーブル「高尾山駅」下山」」

(3)琵琶滝コースでは、10~11歳の小学生のグループと、「何歳だと思う? 86だぞ」と自慢!しながら、抜きつ抜かれつ、沢沿いの草花をそれなりに鑑賞しながら登った。高尾山山頂での混雑を予想し、両グループ共に、山頂を迂回し、もみじ台の「細田小屋」で集合。「細田小屋」の名物「なめこ汁」を味わいながらの昼食。下山もピークを迂回して4号路の「つり橋」経由、木の根に躓いた某氏は、すれ違った外国人家族に助けられる一幕もあり、国際交流も図りながら、和気あいあいとケーブル駅に到着。高尾の「天狗飯店」になだれ込んだ楽しい「月いち高尾」だった。 (文責: 関谷誠)

2.一般コース(日影⇒日影林道⇒小仏城山⇒一丁平園地⇒高尾山)

(1)具体的行程   (アクセス)高尾駅北口バス停9:12⇒9:25日影バス停

日影バス停9:35⇒(日影林道)⇒11:30小仏城山(昼食)12:00⇒12:30一丁平園地⇒13:30稲荷山13:45⇒14:20高尾山口
(2)参加者19名(敬称略()内は昭和の卒年)

(39)堀川義夫 (40)武鑓宰(42)保屋野伸(43)猪俣博康(44)安田耕太郎、吉田俊六(45)徳尾和彦(46)村上裕治 (47)平井利三郎、水町敬、福本高雄(50)丸満隆司、家徳洋一、実方義宣、岡田隆喜(51)五十嵐隆、斎藤邦彦(63)斎藤伸介(BWV)大場陽子

(3)行程概要

高尾駅北口から小仏行きのバスは早い時間から50人を超える長蛇の列。集合時間が早かったので全員が問題なくバスに乗って出発する。天候は晴れ、気温20度と絶好のコンデションのなか、吉田さんの説明を聞きつつ周囲の花を探しながら歩く。歩き始めからすぐに「ニリンソウ(二輪草)」「ラショウモンカズラ(羅生門鬘)」「ヤマブキ(山吹)」「シャガ(射干)」などに出会うことが出来た。

スミレは何種類か見つけることができたがお目当ての「高尾スミレ」は花が終わっており独特の葉の形を教えてもらうことに留まった。このほか、マムシグサと総称される「コウライテンナンショウ(高麗天南星)」や清楚な「ヒトリシズカ(一人静)」なども散見された。

歩くペースの調整が難しく「花をじっくり観察するグループ」と「先を急ぐグループ」に分かれてしまい小仏城山到着に時間差が生じたため城山の頂上で昼食を摂ることとなった。帰路はわずかに残った桜を見上げながら一丁平園地を通過、紅葉台付近で解散し各々好みのルートで高尾山口まで下り「天狗飯店」に向かった。 (文責:斎藤邦彦)

<写真> https://photos.app.goo.gl/68aNcLnn5BrqLgtq8 参照

(BWVOB 冬城陽子)それとは別に、今回の自然観察で見つけた植物の写真の一部を分類してまとめて、名前を付けた写真を作りました。これに関しては別のアルバムを作っています。(ズン六先生、名前間違いなどありましたらこっそり教えてください。訂正致します。)

https://photos.app.goo.gl/iFZDXZWaKUjnyMz96

(46 村上)昨日は、たいへんお世話になりました。「春の小さい花見つけた」をテーマにした楽しい登山でした。
「タカオスミレの群落」を見つけ、感激です。山の新しい楽しみ方を経験し、満足いたしました。

尚、ヤマレコにデータを公開いたしました。

記録ID:6675284
名称:「月いち高尾」日影沢-小仏城山-高尾山-金毘羅尾根-高尾駅
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-6675284.html

(44 吉田)日影林道の植物観察実況放送の試みの機会を賜り、誠にありがとうございました。ナント、s38.…巨星のごときレガシーより「道すがら花に目を奪われ、名前など知らずとも綺麗だな、美しいと感じれば大満足だ、他にあるか?」御意!「心」そこが大切なポイントですよネ。

「この際、1つでも2つでも新しい何かが得られればそれもいいかな?」同行二人?て境地はまだ早いっしょ?もっと多くの方々との道行きを楽しむべし…。
「ちっちゃくて、良く見えない、残念だ」分かります。
「葉付ルーペ」と「補聴器」準必需品です。下ばっかり見ていると、首が痛くなりますから、5か所に1ッか所は目線を上げて木々の枝先などの花々、さらに、空を見上げて頂くのも素晴らしいと思います。

 

女子大の日  (普通部OB 舩津於菟彦)

今日は女子大の日(注:4月20日)。 1901年(明治34年)に日本初の女子大学である日本女子大学校(現在の日本女子大学)が開学した。母も四国から出て来て女子大に入ったが専業主婦で終わった。
NHK朝ドラは「寅に翼」が話題。「虎に翼」は、中国の思想家・韓非子の言葉で「鬼に金棒」と同じく「強い上にもさらに強さが加わる」の意味。この寅さんのモデルは三淵 嘉子(みぶち よしこ、1914年〈大正3年〉11月13日- 1984年〈昭和59年〉5月28日)は、日本初の女性弁護士の1人であり、初の女性判事および家庭裁判所長。

当時女子に唯一法学の門戸を開いていた明治大学専門部女子部法科に入学した。1935年、明治大学法学部に入学。1938年に高等試験司法科試験に合格し、同大学を卒業。1940年に第二東京弁護士会に弁護士登録をしたことで明治大学同窓の中田正子、久米愛と共に日本初の女性弁護士となる。1947年、裁判官採用願いを司法省に提出。司法省民事局局付を経て最高裁判所発足に伴い最高裁民事局局付、家庭局創設に伴い初代の家庭局局付に就任。1972年、新潟家庭裁判所長に任命され、女性として初の家庭裁判所長となる。

我が法学部の担当は米津昭子教授でやはり戦後女性の殆ど居ない慶應義塾の法学部に入られ米津姉妹-双子-としてご卒業に成られ、我らのクラス会に最後まで参加してくれて励ましの言葉を戴いた。米津昭子教授も入学したときは女性用のトイレも無く正に寅に翼の如くの学生生活を経て日本の商法の草分けと成った。そんな恩師の思い出があるので毎日朝ドラを観て居る次第である。

女性の社会進出が叫ばれている、日本の国会議員の衆議院10.3%参議院26.7%両院では16.0%。女性議員の割合、日本は166位 世界平均は倍増25%。会社も今でこそ一般職として男女平等に採用しているけれど、我々の頃は「お茶くみ掛り、平等では無かった。何故そうなのか。どうやら本当の「民主主義」が日本全土国民全体にねずいていないのではないか 。

戦後GHQ-米国-により無理矢理押し込まれた民主主義が浸透しなかったと言うか日本人のモノの考え方に即した民主主義教育ではなかったのではないか。やはり日本独自小学校からの教育を。
西欧を憧れるのでは無く、伊藤塾長が読売新聞論壇で書かれたように「好きな科目や趣味が追求できる」「そのことが尊敬される」「得意の分野を互いに教え合う」「自ら問いを生み出し自ら解いていくことのできる人の育成」の教育が必要なはないか。

マァ補選の結果とか自民党の今後により大きく世も変わっていくかも知れません。是からの日本は人口問題・エネルギー問題が迫ってくる難問ですね。学者の予想では江戸時代の3千万人の人口になるので市内かとも—–ホントかなぁ。

 

(編集子)いろんな ”日” があるもんだ。新聞に載っていたが、この日、4月20日の20、を ”ツー・ゼロ” と詠ませて よーつーぜろ (腰痛ゼロ)というのもあるんだそうだ。どっかの薬品メーカーか健康器具会社の発明だろうが、参ったね。

英語力、のこと (36 大塚文雄)

何年ぶりかの山歩きで今日は肉体的にも精神的にもとても疲れた。伊川・関谷両巨頭がシニア・コースにおられるのは「危なっかしい先輩がいる」ためであることもよく分かった。

Because it is thereを拝読。改めてMany of Congratulations!

「自分の英語力が改善したのか、とおおもとの議論に立ち返ってみるのだが、ここ数年、第一英語を使う機会などはほとんどなかったから、どう考えても結論は出ない。」の部分だけれど、

Dublin School of Englishから「英語教師資格」をもらった時の特訓と自分の体験から、集中して英語の本を読めば必ず英語力は向上」しています。Dublin School of Englishでも、「英語(に限らず外国語)を身に着けるためには英語浸けになるのが一番で、それを生徒に教えて習慣にさせなさい」ということ、また、”言語は文化だから、個々の単語やIdiomを覚えることも必要だけれど、”それは断片的な知識の英語であって文化としての英語ではないから、本当の意味をつかめない」という事だった。

折角身についた英語力を落としたくないので、私はBSTVの第二音声が英語の時は、できるだけそれを聞くようにしている。一番多く聞くのは、大谷君を始めとするMLB。MLBがoff seasonの時はWOWOWでNBA(米国バスケットボール)。テニスの4大大会は必ずみる。ルールを良く知っているスポーツなので殆ど理解できるし、分からないときは米国英語に浸っていると割り切っている。

次は映画。ただし、よほど集中していないとストーリーについていけない。

最後は、NHKの夜の地デジニュース。日本人にも分かりやすい英語だし、旬の日本語の英語も学べるからこれはこれで意義があると思っている。

(編集子)語学のことを離れても、もともと ”人の言うことを聞く” よりも、”俺の言うことを聞かせる” ことが好きだった自分の性格上、しいて言えば、リスニング能力よりもスピーキング能力の方に重きを置いてきた小生では悔しいがフミには太刀打ちできない。テレビも英語で見ることもあるが、ほぼ満足に理解できる(言語が、だ。念のため)のはドナルド・トランプのスピーチくらいだろうか。彼の経歴にはいかがわしいところも多いけれど。

チューリップ  (42 保屋野伸)

昨日、昭和記念公園でチューリップ花見をしました。もう遅いと思ったのですが、添付写真の通り奇麗に咲いていました。

このチューリップ畑は、オランダ「キューケンホフ公園」の前園長が修景等の設計を行いまさに「ミニ・キューケンホフ」と云っても過言ではない美しい花園です。

中央を流れる清流と(青い)ムスカリとのコラボも素晴らしい。なお、「花の丘」に咲く「ネモフィラ」はまだ四分咲でイマイチでした。                             目の保養になった16000歩の散歩でした。

エーガ愛好会 (263)許されざる者  (34 小泉幾多郎)

 ジョン・ヒューストン監督が初めて試みた唯一の西部劇であり、オードリー・ヘプバーンも初めてで唯一の西部劇出演。開拓時代の必然的現象たる人種的憎悪を取り扱い、白人がインディアンを悪という図式で西部劇を作っていた時代だけに、スッキリしない点も多々あるが、大自然の驚異とインディアンの襲撃に立ち向かう開拓者一家の運命的な苦悩に満ちた物語は一大叙事詩として楽しむことが出来た。

人物の設定とその配役が多士済々。レイチェル(オードリー・ヘプバーン)がメイクアップに工夫を凝らしインディアンの血を引く秘密を持った娘として登場するとぼろぼろの軍服にサーベルを下げた亡霊のような男エイブ・ケルシー(ジョセフ・ワイズマン)が現れる。レイチェルの家族はザカリ―姓で、長男ベン(バート・ランカスター)、次男キャッシュ(オーディ・マーフィ)、三男アンディ(ダグ・マクルーア)、母マチルダ(リリアン・ギッシュ)。夫々が好演だが、ランカスターのいつもより落ち着いた演技、B級西部劇の花形マーフィーが髭を生やし、いつもと違う性格俳優的役を熱演、無声映画の名優リリアンが貫録を示す。

ベンが競技で得たピアノをマチルダが庭で弾く場面が2度あるが、最初がモーツアルトの幻想曲ニ短調k397、西部劇としては珍しい選曲だ。インディアンとの戦い中でも、相手の弾除けのまじない風の楽曲に対抗して弾くのが、同じ幻想曲だが、こちらはハ短調k475。最後はインディアンにより破壊されてしまうが、それを狙い撃つ戦術にも使用。音楽はディミトリ・ティオムキン、未だ歌うテーマ音

楽の派手さはないが、所々に米国民謡やリパブリック讃歌等が聴こえる。そう言えば、その時もマチルダがピアノ伴奏していた。ザカリ―家は隣人のローリング家と付き合い、家長ゼブ(チャールス・ビグフォード)レイチェルに首ったけの長男チャーリー(アルバート・サルミ)、キャッシュに気がある娘ジョージャ(キップ・ハールトン)。両家は会食をして歌を歌う等良い関係になって行く
が、平和は長く続かず嫌なうわさが立ち始める。

亡霊のような男ケルシーが、レイチェルがインディアンの娘だということを暴露したのだ。過去ケルシーはゼブやベンの父と知り合いだった。ケルシーはインディアンに捉われた自分の男の子とベンの父がインディアンとの戦いで連れ帰ったインディアンの娘(レイチェル)とを取り替えてくれるよう頼んだが、ベンの父はあくまで白人の娘として拒否した結果、その息子は殺されてしまったのだった。ケルシーはザカリ―家に執念として付きまとってはいたものの、掴まっていた馬の尻を母マチルダが殴ることによってケルシーは死んでしまう。その後ザカリ―家に立て籠もるベン、アンディ、マチルダ、レイチェルに対し、インディアンが大挙して正面攻撃を仕掛けてきた。必死の抵抗中、家を飛び出していたキャッシュも戻り、何とか守り切る。最後妹を求め、カイオワ族首領ロスト・バード(カルロス・リヴァス)がやって来る。レイチェルは夢中で引き金を引いてい
た。

深めあってきたベンとの愛はインディアンの血縁より強しということか。此処
で、この映画の原作者がアラン・ルメイで、ジョン・フォードの「捜索者」と同じ原作者であり、ジョン・ウエインがインディアンに囚われの身の姪ナタリー・ウッドを奪還するということは、この映画と正反対だったということに気付かされる。

許されざる者とは誰なのか?白人?等と考え出すと難しい問題になるので、小生としては、単純に物語の中に入り込み、割り切ることにして楽しんだ。