5月のBS映画「Shine」「
便秘の話です (普通部OB 篠原幸人)
最近、私と同年配の患者さんで、本来の病気の他に「便秘」を訴える方が多くなりました。皆さんの中にも最近多少便秘傾向という方も多いのでは? 一番の原因は昔のようにキチンと毎日仕事に行かないから、生活が不規則になっていることもあるでしょうね。
動物は一般的に12秒ぐらいで排便するそうです。のんびり排便していると敵に襲われるからね。人間は大体50秒ぐらいというデータがあります。のんびりトイレで新聞なんか読んでいる人は別ですが。昔から「早食い・早便は芸のうち」って言いますよね。
人間が何かを食べると 吸収されなかったものは若い人では平均35時間で便として出るそうです。一方、高齢者では70時間ぐらいかかると言われています。高齢者はやはり腸の動きが少し弱っているんでしょうね。食べたものの種類や量にもよるけどね。この時間は運動量や水分量によっても変化しますが。一般的には毎日1回は排便があるのが普通と考えていいでしょう。個人差もあり、2-3日に1回までは許せますが、5日から1週間もため込む人は何らかの対応が必要でしょう。高齢になると直腸まで便が下りて来ていても便意を感じなくなる傾向があります。以前にもこの「徒然」で書いたと思うけれど、定期的にできれば毎日朝食後には便意がなくてもトイレに入る習慣は持っていたほうが良いでしょうね。例え、何も出なくても。最近便秘が気になる方は、普通の医院でも超音波(エコー)を使って簡単に便の移動の状態を調べてくれますよ。
便秘がひどいとどうしても息み(いきみ)がちになります。高齢者の息みは血圧を上昇させで心臓や脳の病気を引き起こしやすくします。熊本県での13年もかけた調査では便秘のひどい人は心臓病や脳卒中になる確率が高く、その主な原因は「いきみ」と考えられるとのことです。
また古くからある漢方薬や浣腸を使い続けるのには批判的な報告が多く、またよく使われるマグネシューム製剤も長期に及ぶと高Mg血症などが生じ心電図に異常が現れることもあります。
食事や生活習慣の改善で軽症の便秘は直るでしょうが、悩んでいる人はかかりつけの先生によく相談してください。
乾杯の歌 (大学クラスメート 飯田武昭)
最近テレビで「世界入りにくい居酒屋」という番組を見ているが、オーストリアのウイーン編やザルツブルグ編の居酒屋で、大声で歌われる乾杯の歌が耳に入って、私の大昔のドイツ駐在時代のことを思い出し、この小稿を記す気になった。番組では日本にいる若いタレント達が≪なんか大声で歌っていますねぇ。大声で歌うのが好きなのですね≫とか何とか合いの手を入れているが、ドイツやオーストリアのドイツ語圏の居酒屋で皆が歌っている歌は先ず一曲≪乾杯の歌―Ein Prosit・・・≫が殆どであることを知っていれば、居酒屋をより楽しめると思う次第だ。
日本では酒席での乾杯は〇〇を祝してとか、皆様のご健勝を祈念してとかで≪カンパイ!!≫となるが、同じようにアメリカでもFor Your Healthとかで≪チアーズCHEERS!!≫となるのが一般的と思う。ドイツ語圏でも同様に≪プロースト PROST!!≫となるが、少し砕けた集まりでは直ぐに≪さあ乾杯だ さあ乾杯だ 皆が集まったこの時に さあ乾杯だ さあ乾杯だ 皆が集まったこの時に 1、2、3、飲み干せ!乾杯!≫という歌が合唱で起こるのが常だ。
ところでドイツには南のミュンヘンには、日本人旅行者にも有名なホッフブロイハウス(Hofbräuhaus)と言う大きなビアホールがある。この名前はホフブロイハウスと言うビール会社の名前をビアホールに冠した物で、日本にひき直したら差し詰めキリンビールハウスとかアサヒビールハウス、サッポロビールハウスといった呼称になる。
私がドイツに居た(1965年と1973~77年)の北のハンブルグには、ツイラータール(ZILLERTAL)という南のホフブロイハウスに似た大型ビアホールがあった。日本からの出張者・来客の殆どはこのビアホールに案内するのが仕来たりの当時だったが、そのホール名が何に由来しているのかは忙しさにかまけて、今日まで調べも聞きもしなかった。ところが、過日にテレビ番組「アルプスSL鉄道の旅」を見ていたら、アルプスを走るSL列車の6鉄道を紹介していた。 6鉄道はそれぞれ 1、ブリエンツ・ロートホルン鉄道(スイス) 2、ブロネイ・シャンピー博物館鉄道(スイス) 3、フルカ山岳蒸気鉄道 4、ツイラータール鉄道(オーストリア) 5、アッヘンゼー鉄道(オーストリア) 6、シャーフベルク鉄道。
ツイラータール鉄道(ZILLERTAL-BAHN)は、かって、イエンバッハ駅→マイアホッフェン・イム・ツイラータール駅までの31キロメートルの山岳鉄道であった由。あれから(ハンブルグ勤務時代から)約50年経った今、大ビアホールの名前の由来に行き当たった本人だけに意味があるエピソードだが紹介したくなった。
(編集子)乾杯の歌、となると洋の東西を問わずに名曲が多い。蘊蓄を傾ける人も多いと思うが、小生KWV生活真っ盛りのころ、酒宴となれば数多くの名曲を圧倒して人気のあったのは実はこういうものだったのだ(ただこれは当然、場所と雰囲気を考えてのことで、慶応の学生はこういうものしか知らなかったわけではない、と付け加えた方がよさそうだが)。35年卒、荒木さんの仲間たち、畠山さんとか、酒井さん、森田さんなど、”野郎会” の持ち歌でもあったが、”野郎” 文化の衰退?なのか女性パワーのなせるわざか、知っている人も少なくなったようなのはやはり時代の流れであろうか。
いわく、
ブタが線路を行くよ
向こうから汽車がくるよ
ブタは死ぬのが嫌だから
ブタは線路を避けていくよ
そんなこたあどうだってかまやせぬ
俺たちゃ酒さえあればいい
ずんちゃかちゃかちゃか
ずんちゃかちゃかちゃか
飯田の品位ある投稿の後で申し訳ないが、思い出ついでに、何かと言えば、”俺たち” (まだ早慶戦の夜といえば学帽を被って銀座を歩いていれば、全くの他人のOB方が、(おー、おめえ、塾生か。一杯のませてやるからちょっと来い!)なんて、ただ酒が飲めたころ(嘘ではない、あったのだ、そういう時代が)の話だ。数寄屋橋の水が地下に潜ったころから、しかも、”俺たち” が後輩にただ酒をおごらなければならなくなったころから、こういう文化はなくなってしまった。学生が帽子をかぶらなくなって、塾生の見分けがつかなくなったのが理由だろうか。
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そのころ、銀座でも ”俺たち” の財布で出入りできたのが並木通りの ”ブリック” だった。最近改装してえらく立派になってしまい、俺たちゃ酒さえ、なんて気持ちではどーんと敷居が高くなったのは残念。酒豪だった横山美佐子から何かと言えば説教されたあのテーブル、2階の奥の方にあった、傷だらけの、でかい、分厚い木のテーブル。改装直前に行ったときは残っていて、時間を超えて、俺を迎えてくれた。店のオーナーに心があれば、あの頃の空気をそっと残してくれているのではないか。確かめに行こうか、まだその勇気がないままだ。
乱読報告ファイル (50) クアトロ・ラガッツイ (44 安田耕太郎)
「クアトロ・ラガッツィ」Quattro Ragazzi (イタリア語で4人の少年の意) は若桑みどり著、2003年集英社単行本、2008年文庫本(上・下)が刊行され、文庫本を読んだ。2巻で1,000ページを優に超す読みでがある歴史小説だ。副題「天正少年使節と世界帝国」が付記されている。
著者は西洋美術史が専門の日本人で、20代の時イタリア政府給費留学生としてローマ大学に留学。帰国後東京芸術大(彼女の出身校)教授を経て、千葉大学教授を勤めた美術史学者。彼女の他の著書は読んでいないが、著書リストを観ると、中野京子や原田マハが描いたテーマと類似しているが、いかにも学者が丹念に歴史資料を調べ緻密に歴史を描いた著書が「クアトロ・ラガッツィ」だった。著者は西洋美術専門の日本人でありながらイタリア語に堪能で、日本側の記録だけでなく少年たちが訪れたヴァチカン市国に残されている現地側の記録も紐解いている。日欧それぞれの立場から歴史を紐解く貴重な一冊だと思った。著者は60歳の時、大学を1年間休職し、「東アジアへのキリスト教布教についての第1資料」を探しにローマを訪れ、ヴァチカンの大学図書館で天正少年使節についての多くの文書に出会う。更に5年後の大学退官後、再びローマを訪れ、都合7年がかりで本書を上梓した。小説というより論文といった方が適当だと思った読み物だった。世界史軸から観た中世日本の様子が具体的に描かれていて、非常に読み応えがあった。特に、戦国武将の描写が驚くほど面白い。遣欧少年使節がヨーロッパへ旅立つまでは信長が天下を取る(取った)過程で、彼が世界を観ていたことがほぼ証明されている。著者は、この力作を上肢して4年後、燃え尽きたかのように鬼籍に入った.
フランシスコ・ザビエルが来日した(1549年)から3年後、27歳のポルトガル人船長で医師ルイス・デ・アルメイダが貿易で儲けようと来日したところから始まる。彼はイエズス会に入り、約30年間滞在して日本で亡くなった。16世紀の大航海時代、キリスト教の世界布教に伴い、色々な国籍の宣教師が日本にもやって来た。戦国時代の時代背景や布教の状況を、資料を引用しながら詳しく解説。天正遣欧使節の少年たちが登場するのは上巻の430ページで、日本で布教が成功した絶頂期だった。イエズス会の宣教師たちが日本人や日本の風習や生活様式をどう感じたかを綴った手紙も興味深い。戦国時代の日本とヨーロッパの出会いが、生涯ヨーロッパに触れ続けた日本人の研究者という視点で深く描かれている。宣教師という日本最初の外国人来訪者(特に西欧人)が日本をどう観察し、ファン(信者)を増やし、どこで失敗したかが見えてくる。原田マハの「風神雷神」以来の興味を深堀りできた本だった。
本のタイトルから想起される煌めく天正使節団の記録とは一線を画し、戦国時代が終焉する時代の日本と当時日本が名付けた南蛮の2国ポルトガルとスペインが興って世界帝国を築いていく時期のヨーロッパを綿密に綴った日本のキリスト教布教史だ。偏見ではあろうが、僕は、ポルトガル・スペイン両国はキリスト教布教を先兵として布教する国々をキリスト教シンパにしながら、並行して軍事的・政治的に征服して植民地化する戦略を遂行するのが、中南米で成功したように、彼らの常套手段ではないかという先入観を持っていた。両国やカソリックの国イタリアには植民地化の意図はなく、少年使節の遣欧に中心的な役割を果たした開明的なイエズス会のヴァリニャーノはヨーロッパとは異なる高度な文化を日本に認め、時のキリシタン大名に日本人信徒をヨーロッパに派遣する計画を持ちかける。イエズス会は布教が征服者的で王国本位、ポルトガルやスペインに傾き過ぎることを抑制する為、イタリア人のヴァリニャーノをアジアの「巡察師」に任命。ルネサンス・イタリア人の巡察師ヴァリニャーノは日本人に古代ギリシャ、ローマ的な知性を観る。セミナリオや印刷所まで作り「初穂」となる少年たちを教皇に引き合わせたいと考えた。少年使節団派遣を実現させた最大の功労者の一人だ。
宣教師ザビエルが日本に来てから僅か10年で人口の3%を超える30万の信者を得た事実や、宣教師たちは予算が限られる中で大名をターゲットにして貿易による利益をちらつかせながら効率的に信者を増やしたこと、4人の少年は生まれながらに洗礼を受けて改宗していない「初穂」(はつほ)であったことも選抜の条件であったこと、日本での布教の成果として4人の家柄も重要であったこと、何と2年以上要してヨーロッパ最初の国ポルトガルに着いたことなど大変興味深い。
鎖国、キリスト教禁教前の世界史上に一瞬の光彩を放った四人の日本人少年使節の運命と8年に及ぶヨーロッパ往復の航海と滞欧の様子を描くと同時に、少年使節が派遣されるに至った時代背景を、宗教を絡めた覇権争いの最中のイエズス会の布教活動を中心に綴る巡察師ヴァリニャーノの奮闘、信長の絶頂期が日本キリスト教の絶頂期、そして布教の成果を立証し資金を獲得する為、次代を担う邦人司祭育成を目的として少年使節を派遣するに至った背景など、イタリアで膨大な原資料を渉猟し実在感ある人物像を描いている。
上巻570ページで漸くスペインに到着。日本の長崎を発って(1582年2月)、2年半後の1584年8リスボン到着、ローマにて1585年3月ローマ教皇に謁見。1585年6月ローマを出発、1586年4月リスボンを出港、帰路に就く。マカオやゴヤに長く滞在、1590年長崎に帰還。秀吉1587年に伴天連追放令を発布。
二年の歳月を経てヨーロッパに達したラテン語を話す東洋の聡明な四人の少年は、スペイン、イタリア各地で歓待され、教皇グレゴリオ十三世との謁見を果たす。しかし、栄光と共に帰国した彼らを待ち受けていたのは、使節を派遣した権力者たちの死とキリシタンへの未曽有の迫害であった。日本を発った1582年2月以降、帰国する1590年までの期間には、「本能寺の変」で時の権力者信長の死、秀吉への権力移行、秀吉による伴天連追放令発布、1591年4人はイエズス会に入会、1597年秀吉。宣教師と信者の死刑を命ずる、その年秀吉没、1600年関ケ原の合戦、1603年徳川家康、征夷大将軍に任ぜられ江戸に幕府を開く・・・など巨大な歴史の波に翻弄されながら鮮烈に生きた少年たちを通して、日本の姿を浮き彫りにした。
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伊東マンショ:使節団の首席正使。大友宗麟の名代として選ばれる。日向国(現宮崎県西都市)出身。帰国後1591年、京都聚楽第で秀吉と謁見。仕官を勧められるも司祭になるため断った。その後、司祭への道を進むため、天草のコレジョ(聖職者育成の神学校)で勉学、イエズス会に入会、1601年マカオのコレジョに移る。この時点で千々石ミゲルは退会。1608年、原マルチノ、中浦ジュリアンと共に司祭に叙階された。その後、豊前小倉(安田の出身地)を拠点に活動したが、領主細川忠興によって追放され、中津へ、更に追われて長崎へ移った。長崎のコレジョで教えていたが1612年、病没。享年43。
千々石(ちぢわ)ミゲル: 肥前国窯蓋城(かまぶたじょう)- 現長崎県雲仙市 ― 領主の子。肥前国領主・大村純前の甥。天正遣欧使節の派遣された4人の少年たちの中で唯一棄教した。巡察師、ヴァリニャーノは既にキリシタン大名であった大村氏と有馬氏に接近し、カソリック総本山のあるローマに使節団を送りたい旨提案。ミゲルも4人の中の一人として選ばれ渡欧。帰国後、コレジョでの勉学に勤しんだが、ヨーロッパ見聞の際にキリスト教徒による奴隷制度に不快感を表明するなど、キリスト教への疑問を隠さない様子がみられた。1601年、棄教を宣言し、イエズス会から除名処分を受ける。同時に洗礼名ミゲルを棄てる。仕えた主君に対して「日本に於けるキリスト教布教は異国の侵入を目的としたものである」と述べ、主君の棄教を後押しした。遣欧使節団4人の中でミゲルが反キリストに転じたことは、宣教師たちの威信を失わせた。晩年については謎だが、藩内で恨みを買い、弔われたとの見方がある。
中浦ジュリアン:肥前国彼杵郡(現・長崎県西海市)出身。肥前国中浦城の城主の息子。予定されていたローマ教皇謁見前に三日熱(マラリア)に罹り、高熱で宿舎に病臥。教皇との謁見は3人で行われたが、教皇はジュリアン独りと謁見し、優しく病気のジュリアンを労わった。教皇はこの謁見から一週間後、病を発症し、半月後に帰天した。帰国後、20長期間に亘りキリシタン禁教と弾圧下で潜伏して布教活動をしていた中浦神父はついに小倉で捕縛され、長崎に送られて拷問により棄教を迫られたが、頑なに拒否した。中浦は、ローマ滞在中に受けた教皇側の温かい対応ともてなしが彼のキリスト教布教の決意を強固なものにし、教皇やキリスト教に対して深い崇敬の念を抱くことになり、後の殉教に至ったとされている。帰国後、コレジョや教会に務め、1601年に彼と伊東マンショの2人はマカオに3年間留学した後、長崎のセミナリオで教える。1608年、ジュリアン、マンショ、原マルチノの3人は司祭に叙階された。1614年、多数の宣教師や信徒がマカオとマニラに追放され、原マルチノはマカオに流刑された。ジュリアンは禁教令に叛いて国内に残り、潜伏して布教を続けた。天草、肥後、筑前、筑後や豊前でも布教を行った。小倉で捕縛され、長崎に送られ棄教を拒絶した後、穴吊るしの刑という惨刑に処せられた。享年65。殉教から374年が経った2007年、ローマ教皇ベネディクト16世は、ジュリアンを福者に列することを発表され、2008年長崎で他の187人と共に列福式が行われた。4人の遣欧使節の一員で福者に列福したのはジュリアンだけである。
原マルチノ:使節団の副使。少年4人の中では最年少。語学に長けローマからの帰途のゴアでラテン語の演説を行い有名になる。肥前国、現・長崎県波佐見市出身。両親ともキリシタンで使節団の一員に選ばれた。1614年。江戸幕府によるキリシタン追放令を受け、マカオに出国。それまでの時期、日本人司祭では最も知られた存在だった。1629年死去。享年60。遺骸はマカオ大聖堂の地下に生涯の師ヴァリニャーノと共に葬られている。
了
エーガ愛好会 (327) 荒野のガンマン (34 小泉幾多郎)
「荒野のガンマン1961」は、西部劇に新生面を開き、独特の映
西部劇たる男の主人公は、名前からして常識的な西部劇世界を拒否する逆転世界を(モーリン・オハラ)が知り合うことに
男3人は食うことの一番の手軽な方
タークも同行するも、ビリーのキットに対する暴力的扱いによる対イエローとキットの二人だけの旅へ。途中、アパッチの酔いどれの大騒
子供の遺体だけの運びとは信じないタークとビリーが再びやって来て対決
最後にモーリン・オハラの歌が鳴り響く・・・軍隊を作るんだ、先
(飯田)この映画は10数年前にも当時の衛星映画劇場で観ていますが、ニューシネマと呼ばれた製作スタイルのサム・ペキンパー初の映画監督作品です。
主演はジャイ大兄のお好きなモーリン・オハラを中心に、ブライアン・キース、スティーブ・コクラン、チル・ウイリスの荒くれ3人男が、いわくありげの役を演じます。全編を流れるソロ・ギターの調べと大きなサボテンの生えた砂漠地帯がメキシコとの国境に近い雰囲気を高めています。
モーリン・オハラはジョン・フォード作品の「わが谷は緑なりき」(1941年)、「リオグランデの砦」(1950年)、「静かなる男」(1952年)、「長い灰色の線」(1955年)、「荒鷲の翼」(1956年)と全ての作品を私も好きですが、ジョン・フォードを離れてのこの作品「荒野のガンマン」での彼女の評価はどうなのでしょうか? 私は映画のストーリーはあまり好かないですが(特に最愛の幼い息子を殺された母親が、その射手を好きになるという展開などに無理があり)、モーリン・オハラ自身の容姿や演技は十分良かったと思っています。
(編集子)自分の初恋―というのか、例えば小学校で隣のハナコちゃんて、いたよな、位の昔をふと思い出して、わざわざ昔の場所を尋ねてみて、そのハナコがなんと泣きわめく子供を背中に背負ってとぼとぼ歩いているの見つける、なんて話はよくある。エーガの例ならばさしずめ 舞踏会の手帖、だろうか。飯田から(モーリン・オハラだぜ)とわざわざ知らせてもらって、録画しておいたものを見た。率直な感想は、これは俺にとっては ”舞踏会の手帖” だった。結論を言えば、オハラはやはりフォード作品でなければならない、ということだった。
飯田解説によればこれはかの アメリカンニューシネマに数えられる作品なのだという。この一連の作品のテーマや製作技法などというものについて語る資格は僕にはない。またそのカテゴリだとされる作品についても、見たのは限られている。そのなかで、本稿にも何回か書いたが、僕に衝撃を与えたのは バニシングポイント だった。ニューシネマ群の共通のテーマが(当時の)現代アメリカ文化に対する反抗であり、その結果がもたらす不条理感である、とすれば、この作品のもつ雰囲気は絶対的なものとして記憶にある。
それではこの作品(いつもはわき役でしか見ないブライアン・キースを見て驚いた)が、このニューシネマ的な感覚で作られていたのか、と言えばそうは思えない。バニシングポイントの衝撃的なラスト、絶対的な死に向かって夕陽の中を爆走するジーン・バリーの顔に浮かんでいた微笑、そういう衝撃もない。西部劇が持つべき要素(と僕は思うのだが)である善悪を超越した爽快感、もなかったし、娯楽性も感じなかった。
どうも今朝は寝起きがよくなかった気がする。飯田兄、申し訳ない。
ありがとう、背番号 3
東西文明が交差する十字路 (41 斉藤孝)
深い白雲が包み込み荘厳な雪山の白と一体になっていた。ここが憧れたパミール高原なのか、 興奮 !!
高齢になりパミール高原まで登って来られて感謝した。老眼にしっかりとその姿を残しておこう。
地図座標をパミール高原の中心に置いてみた。なるほど中央アジアの屋根に違いない。 中学生時代から熱中してきた西域の地名が続々と浮かんできた。
北にカザフステップとウラル山脈、その下にアラル海とシルダリアとアムダリア。右から天山山脈と崑崙山脈が迫って来る。
二つの山脈に挟まれるタクラマカン砂漠。その下にはカラコルム山脈とヒマラヤ山脈が広がる。その彼方はインド大陸に続く。
西に目を向けると、カスピ海がありイラン高原にザクロス山脈とその北にカフカス山脈が連なる。 そしてティグリス川とユーフラテス川に挟まれたメソポタミア。その西はアナトリア高原である。
パミール高原は7000m級の霊峰に囲まれた広大な高原である。険しい山々の隙間は深い渓谷になっていて人の往来は可能だった。
ソビエト連邦時代にコム二ズム峰(共産主義峰)と呼ばれた標高7495mのイスモイル・ソモニ峰は現在はタジキスタンの領土である。
中国領土には7719mの最高峰コングールとムスタグアタ山がある。カラコルム山脈のカシミールには名峰「K2」(標高8611 m)がある。
「カラクリ湖」
カシュガルからのバスは高山病を警戒しながら穏やかな速度で徐々に高度を上げていった。 この道はクンジュラブ峠(4733m)を越えてパキスタンのフンザへと通じている。その先のカラコルム街道からガンダーラ地方に入る。
インドで誕生した仏教は、最初は単なる人の生き方を説く説法に過ぎなかったが、 パミール高原でペルシャのゾロアスター教やマニ教の教えと交わることで経典が整えられて仏教という宗教になった。
ガンダーラの仏像のお顔はペルシャ人やローマ人とソックリなのだ。仏教は実にオープンで様々な思想と宗教を取り込んでいった。
パミール高原は東西文明が交差する十字路だった。
物語『西遊記』はパミール高原を舞台している。孫悟空は石から生まれた猿で、強力な力を持っている。 三蔵法師は仏教の経典を求めて旅に出て猪八戒や沙悟浄といった弟子を得て、妖怪たちと戦いながら天竺を目指す。
そのモデルとなった『大唐西域記』は唐の時代に中国からインドへ渡り仏教の経典を持ち帰った玄奘三蔵の長年の旅を記したものである。
カラクリ湖は標高標高3600mの所にある。紺碧の水面に天空の峰々を写しこんでいた。 ウイグル語で「カラクリ」は「黒い海」を意味するという。「カラ」はトルコ系言語でも多く使われている。 「カラコルム」や「カラキタイ」、そしてアナトリアとロシアやバルカン半島、コーカサスに位置する「黒海」(Black Sea)。 もしかして「カラクリ」と呼ばれたのではなかろうか。正式には「カラデニズ」(Kara Deniz)と呼ばれる。ウイグル語もトルコ系。 中央アジアからアナトリアまで壮大なトルコ系民族の世界が広がる。
皐月から水無月へ (普通部OB 船津於菟彦)
今年もいよいよ梅雨の水無月がやって来ましたね。また猛暑到来か
そんな水無月はトランプの狂気とプーチンの拡大策がどう成ってい
『特別軍事作戦』の参加者
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昭和20年(1945)5月24日は、東京の山の手地域と空襲で
横浜大空襲は1945年5月29日,午前9時20分ごろ、米軍のB29爆撃機517機がP51戦闘機
一方欧州では5月8日は、第2次世界大戦終結記念日です。
最初のドイツ降伏文書は1945年5月7日2時41分、フランス
ドイツのヴィルヘルム・カイテル元帥が5月8日、ベルリンで全面
1945年8月14日、日本政府は連合国に対してポツダム宣言を

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平和っていいなぁ。80年間戦死者ひとりもで無いし戦争の無い日
あぢさいや一かたまりの露の音 正岡子規
紫陽花の藍きはまると見る日かな 中村汀女
紫陽花や人見る犬の怜悧な目 星野立子
飽くほどの平和おそろし 七変化 伊丹三樹彦
乱読報告ファイル (49)虫を描く女 (普通部OB 菅原勲)
「虫を描く女(ひと)」[副題:「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯](著者:中野 京子。発行:NHK出版新書、2025年。ただし、2002年に講談社から出版された単行本[情熱の女流「昆虫画家」メーリアン波乱万丈の生涯]の新書復刻版)。
最近、先が余りないことから、本につき、新刊本は購入、古い本は図書館から借用へと、方針を改めた。その宗旨替えから、本屋、その殆どが目黒の有隣堂なのだが、頻繁に訪れて新刊本を漁っている。やっぱり、本は手に取って、パラパラと捲りながら、気に入った本を探すのが最高の喜びであり、最高の愉悦だ。この前も、新書を3冊ばかり購入したが、その中で、表紙の絵に強く惹きつけられた極め付きの本が一冊あった。それが、これからお話しする「虫を描く女」だ。具体的に言えば、パッと見て、表紙にある絵「アメリカンチェリーとモルフォチョウ」(スリナム本/図7。下記を参照)の色彩の極めて鮮やかな事、それだけで購入することにした。これを後から良く眺めて見ると、蝶とかチェリーは勿論のこと、そこに取っついている毛虫についても、極めて微細に描かれており、鮮やかな色彩と相俟って、見るものを感動させる。
「虫を描く女」とは、ドイツで、40ペニッヒ(1987年発行)の切手となり、500マルク(1992年発行)の紙幣となった(ユーロの時代となって、もうなくなってしまったかもしれないが)マリア・ジビーラ・メーリアン(1647年―1717年)だ。小生は、これまで全く知らなかったのだが、近代科学の夜明け前の17世紀、フンボルト、リンネ、ダーウィンなどよりも前に、全くの独学で虫の研究を行い、そのメタモルフォーゼ(変態。例えば、卵➡幼虫➡蛹➡成虫)の概念を絵によって表現した画期的な先駆者なのだ。従って、日本では5000円札の樋口一葉、津田梅子などがお馴染みの人物であるように、メーリアンもドイツでは、紙幣の肖像画となっているグリム兄弟、クララ・シューマンなどと同様、お馴染みの人物となっているのではないだろうか。
父はスイス人、母はオランダ人で、ドイツのフランクフルトに生まれたから、生まれながらにして国際人(コスモポリタン)だったことになる。実際に、そこから、ニュルンベルクを経てオランダのアムステルダムに移住し、52歳にしてオランダの植民地だった南米のスリナムへ、そして、マラリアで死に損なってアムステルダムへ帰国するなど、その動きは正に常人のものではない。
昆虫についての彼女の最大の功績は、当時、虫は腐敗物から自然発生するとのアリストテレスの説が依然として強固に信じられており、例えば、イモ虫と蝶は全くの別物とされていた。ところが、彼女はそれを真正面から否定し、上述のように変態を絵によって表現した。もう一つは、南国産大型昆虫の生態を知りたいがために2年ほど滞在していたスリナムから帰国後、彼女はライフワークとでも呼ぶべき手彩色された72枚の銅板画集「スリナム産昆虫変態図譜」を出版した。それは、日本でも「スリナム産昆虫変態図譜」(1726版)と題して翻訳され、2022年、鳥影社から35,200円で出版されている。高輪図書館で借りようと思ったが、残念ながら、現在、予約を受け付けていない状態だ。
中野のこの著作には、上記、スリナム本からメーリアン独特の絵が数々転載されているが、これをスペイスの関係で紹介出来ないのは甚だ残念だ。もし興味がある方がおられるならば、せめて立ち読みでもして彼女の芸術的とも言うべき絵画をとっくりと眺められてはどうだろうか。そこに表れているのは無味乾燥な虫、花などではなく、例えば、躍動的な蝶であり、何とも可愛らしい毛虫であり(小生、毛虫は毛嫌いしているのだが)、などなど、見る人を飽きさせない。こんな人が、今から400年ほど前、魔女狩りの全盛期である17世紀に生きていたのだ。男女の区別なく「好きこそ物の上手なれ」、を突き詰めて行くと、昆虫学の先駆者、メーリアンとなるのだろう。
(44 安田)先ず興味を惹かれたのは、著者が中野京子だと云うこと。