エーガ愛好会 (287) エルドラド  (34 小泉幾多郎)

ハワード・ホークス監督ジョン・ウエイン主演の西部劇三部作のうち。1作目「リオ・ブラボー」は、No.54、3作目「リオ・ロボ」は、No.149にて、ブログに掲載されているが、この2作目「エル・ドラド」は掲載がないので書いてみた。ホークス監督の西部劇の本数は意外と少なく、この三部作のほか「赤い河」と「果てしなき蒼空」の計五本しかない。しかもキャトル・ドライヴ(家畜輸送)を扱った「赤い河」と毛皮猟師の冒険を描いた「果てしなき蒼空」はいわゆる開拓を扱った典型的な西部劇であるのに対し、三部作は土地の所有権と町の支配権をめぐりガンファイターが活躍し、殺し屋の一団に立ち向かう孤独なシェリフとその仲間たちという対決の図式で描いている。この三部作が似たような対決の図式からの安易な焼き直しで、監督が過去の遺産を食いつないでいる等と批判されたりもしているが、西部劇の魅力はマンネリズムに対する快感とする者にとっては魅力でもある。

開巻するとタイトルと共に流れるのは、油絵による西部特有の広大な風景の中、走る牛の大群のロングショットや馬による追跡等キャンバスに描かれた美しい構図。タイトルの中にOriginal Painting by Olaf Wieghorst と記載。ジョン・フォードが愛したフレデリック・レミントンとかチャールズ・ラッセルの流れを汲むデンマーク系の画家オラフ・ウイーグホルスト(1899~1988)が描いたとのこと。この油絵をバックに、ジョージ・アレキサンダーがぶっとい声で雄大な主題歌のメロディを唄う。しかしこの広大なる自然描写の解放された絵が画面に現れるのは、ここだけ。小さな町の極めて限定された空間の中に閉じ込められた状態で進んでいくのは、三部作何れも変わりはない方式。お互いに、プロと認め合った男たちが集まり、より連帯感を深めながら困難を乗り切る。ルールとプライドを堅持しながら、ダイナミックに生き抜いていくのだ。

大筋としては、水源の権利を持つ牧場主ケビン・マクドナルド(R・G・アームストロング)とその権利を狙う新興の牧場主バート・ジェイソン(エドワード・アズナー)の争いに保安官ハラー(ロバート・ミッチャム)はマクドナルドを援助、ジェイソン側は、ネルス・マクロード(クリストファー・ジョージ)等の豪腕ガンマンを雇って対抗。保安官側は、女のことで酒浸りとなり酔払いのその保安官ハラー、豪腕ながら腰に撃たれた弾が残り、痛みと右手に痺れが出るコール(ジョン・ウエイン)、射撃が下手で、ショットガンしか使えないミシシッピー、年寄りのブル(アーサー・ハニカット)、何れも「リオ・ブラボー」での、ディーン・マーチン、ジョン・ウエイン、リッキーネルソン、ウオルター・ブレナンに該当する。最期は、ジェイソン一味がいる酒場に、ハラーが正面から、コール、ミシシッピーが裏から突入、激戦の末、駆け付けたジョーイがジェイソンを射殺するなどして、ジェイソン一味は壊滅。コールとハラーは傷ついた身体を共に松葉杖を突きながらの退場で終幕。

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〈スペイン語〉エルドラド、エル・ドラド、黄金郷 ◆16世紀に宝を求めて探険家 たちが探し回った南アメリカの伝説の地。 el=the、dorado=golden。 〔一般に〕黄金郷 ◆莫大な富またはチャンスを与えてくれる地。

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(編集子)ドク・コイズミ解説に多少補足をさせてもらう。ウエインの老年期に作られた西部劇はこのホークス監督三部作のほか、歴史的事実に立脚した チザム (ヴィクター・マクラグレン監督)とやはり実在したとされる人物にまつわ

クリストファ・ジョージ

る話としてつくられた エルダー兄弟 (ヘンリー・ハサウエイ監督)の2本は、本作について小泉さんが解説しておられる向きとは違って、いわば正統的なつくりの作品である。特にチザムは史実として名高いリンカーン・ウオーを題材にしたもので、この騒動の結果、無法者に転じてしまった若者、有名なビリー・ザ・キッドの青春物語でもあり、小生の好きな作品である。ジョン・チザムはテキサスの牛をカンサスへ運んで財を成した人物だが、有名なチザム・トレイルの開発者でもあり、赤い河 でウエインとモンゴメリ・クリフトがたどった道がそれであるらしい。

この チザム では、今回の エルドラド で敵役だったクリストファ・ジョージが保安官での敵役、として登場するが、エルドラドでは憎めない役つくりだったが、徹底した冷血漢として描かれているのが面白い。テレビ映画全盛のころ、シリーズものでよく見た ラットパトロールの主演だったことも懐かしい。

エルドラドでミシシッピを演じたのはジェイムズ・カーン、また小泉さんは触れておられないがウエインの恋人役モーディを演じたのはシヤ‐リー・ホルト。小生の好みのタイプなんだな、これが。

それと最後にジェイソンを射殺するジョーイはマクドナルドの娘で、話の冒頭、誤ってウエインを撃ってしまい、ウエインはそれが原因で時々激痛に悩まされる、という筋になっていて、これがストーリーの中でキーになる、という筋書きになっている。

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ラベンダーとワインの一日    (41 斉藤孝)

10月末、秋の鵠沼は暖かだ。

マンションの小さな庭でペンキ塗り作業に一日を過ごした。来年2月初冬に開催する「ラベンダー祭り」の支度のためだ。

ペンキの色合いは、灰色と黒、そして僅かな白とブルーの配色にこだわった。

爽やかなラベンダーの紫の色に合わせた。舞台は整った。友人から頂戴したカリフォルニア・ナパの赤ワイン「Joseph Carr」を開けた。カベルネソーヴィニヨン2019年と記されていた。実にまろやかで美味い。ワインの香りが口に広がる。レースラベンダーの香りと調和した。

まだ紫の蕾は小さく可愛らしいが、後2カ月もすれぱうっそうと茂るだろう。もう一杯だけで「Joseph Carr」は我慢しておこう。

 

月いち高尾 番外編   (47 関谷誠)

猛暑だったこの夏がやっと峠を越えた10月23日、楽しみにしていたKWV三田会主催の「秋の日帰りワンデルング」が、残念ながら、悪天予報で中止となってしまった。

読書だ、食欲だ、スポーツだと何やかんやの秋、天気がなかなか安定しない今日この頃、身体を満足に動かせないムズムズ・ウズウズ状態が続いていた。唯一の楽しみは海の向こうでの大谷・ドジャーズとジャッジ・ヤンキース対決だった(ジャイアンツが出れなかった日本シリーズは論外!)。そんな中継の合間、NHK昼の天気予報で10月31日(木)は全国的に好天、その後の連休はまた雨との予報。早速、WEBで高尾山の天気予報を検索したら、正にピンポイントでの登山日和。思い立ったら吉日、番外編「月いち高尾」の誘いをメンバーにかけたところ、中司ジャイさん(S36)、堀川さん(S39)、吉田ズンロクさん(S44)、村上さん(S46)が京王・高尾山口に集結。ジャイさん・堀川さんはケーブルで山頂へ、若手!3人は稲荷山コースで。山頂からは霊峰富士を拝めた。恵まれた好天下、紅葉には未だ早いものの、山頂は、遠足の学童、諸々の言語が飛び交うインバウンドの観光客で賑わっていた。昼食を薬王院大本坊の精進料理(蕎麦)をとのグッドな提案があり、覗いたところ、予約のみとの事で止む無く下山。ケーブルの清滝駅近くの蕎麦屋に入った直後、「月いち高尾」一般コースの下見で「日連アルプス縦走コース」を単独行していた斎藤世話人(S51)から、「天狗」で飲んでいるとの一報が入り、早々に切り上げ、合流。

「月いち高尾」の歴代世話人代表が、たまたま、揃った事もあり、来春の実施が予想される第100回記念「月いち高尾」の企画案を肴に懇親。秋晴れの下、運動・食欲の秋を満喫した一日でした。

時の流れ ー 俺の10月31日

昨日、”月いち高尾” の番外編、ということで企画された散策行に参加してきた。ここのところ、人様並みに足元が怪しくなってきているので、安全第一のゆっくり旅だったが、付き合ってくれた堀川君と会話を楽しみながら7月の上高地以来久しぶりの快感を味わってきた。この企画の主目的であった、紅葉は酷暑の影響と予測はしていたもののまったく見当たらなかったが恒例の二次会も小人数ながら楽しい時間だった。

この日は10月31日だった。

小生が38年間のサラリーマン生活にピリオドを打ったのが1999年のこの日だから、ちょうど25年経過した。25年、といえば四半世紀である。”四半世紀” と言ってみると改めて一種の感慨が沸く。歴史を紐解けば一国の運命が定まってしまうに十分な時間である。親しい友人の中には自身の健康はもとより、家族の問題とか経済事情とか、不運に遭遇した仲間も数多いなかで、自分はこの時間、意義ある過ごし方をしてきただろうか。

25年前の11月1日、自分がどんな気持ちで朝を迎えたのだったかという記憶もすでにない。その後数年間は、当時はまだ少数派だった ”外資系会社勤務” で得たものを意義あるものにしたいと、同期で同じことを考えていた後藤三郎と本を出版したり、某米国企業の日本での事業開発の支援にたずさわったり、会社時代の友人がはじめた介護事業をてつだったり、そのためには自分の英語力をもっと確かなものにしようと改めてスクーリングを受けててみたり、いろんなことをやった。その結果がどうなったか、自分で評価する立場にはないし、そういう意味ではもう一つ、物足りなさを感じるのだが、ただ確実にいえることは ”企業人生活” というものを去った後の時間に、よき友を持った、ということのありがたさが改めて感じられたことだった。KWVの仲間や、学生時代にさかのぼる友人たち、”Most admired company”  ヒューレット・パッカードの隆盛時代にいあわせたことで得た友情、そういうものがあったからこそ、この ”四半世紀” があった。そんなことをかみしめた日でもあった気がする。

次回の ”月いち” はどんな日になるだろうか。

 

 

1994年のガンダーラ訪問を思い出した  (41 斎藤孝)


パキスタン北西部で栄えたガンダーラの仏教遺跡を巡る旅だった。ペシャワルから北方にカイバー峠を眺めた。あの峠を越えればアフガニスタンに入国できる。そこには憧れのバーミアンの大仏遺跡がある。

バーミヤン渓谷には多くの石窟があり、バクトリア様式の貴重な仏教美術を見ることが出来るだろう。その周辺に住むハザラ人は風貌が日本人とよく似ている。コーカサス系パシュトゥン人と違うモンゴロイド系の顔なのだ。是非とも会ってみたい。失われたジンギスカンの落ち武者の子孫ではないか・・・。
あの頃のアフガニスタンは1989年のソビエット軍の完全撤退後で内戦状態なので入国できなかった。

2021年8月末にアメリカ軍は完全撤退した。まるでサイゴンの陥落のような惨めな脱出劇だった。歴史を振り返ると、1989年にソビエット軍は完全撤退している。さらに1919年にはイギリス軍も完全撤退している。
これをタリバンは「ジハード」(聖戦)による勝利と称している。アフガニスタン人の不屈の独立心は粘り強い。タリバンがどの様に政権を維持していくのか、女性の地位や人権問題などで非常に危惧されるが、それはアフガン人自身で解決する歴史的問題といえるだろう。ただ哀れな難民だけは世界中で速やかに優しく受け入れていこう。
イスラム世界で西欧化を試みた国々はトルコ以外、例えばイラン、シリアそしてアフガニスタンなどで大失敗した。私の友人達は西欧化イスラム国から逃げ出した難民ばかりである。

ガンダーラは仏教徒の平和郷
 イスラム以前のアフガニスタンはガンダーラの中心地として栄え た仏教徒の平和郷だった。
サクラメントには多くのイラン人も住んでいるが、彼らはパーレビ国王時代のペルシャ難民の子孫である。狂信的なシーア派の現在のイラン人とは異なる。全米にはシリア出身の人々も活躍している。多くはキリスト教徒(マロン派)やアラウィ教徒もいる。彼らは「ジハード」とは無縁で平和な民なのだ。 サクラメントは世界中の難民を大切にしてくれる進歩的な町である。カリフォルニア大学デービス校でSEとして勤務するペルシャ人の友人「ジャヒーン」、女性事務の「リラ」はシリア出身だった。「リラ」は母国シリアのパルミラ遺跡を誇らしげに語ってくれた。1993年に私がシリアを訪れた時の記録。
(写真右 バーミアンの大仏立像 タリバンに破壊される以前)

英雄サラディンの慈愛心
アメリカ合衆国は難民大国でもある。これまでベトナム難民を多数受け入れてきた。今では祖国に帰りベトナム経済の立役者になっている。アフガン難民も多数受け入れて彼らの生活を支援していくだろう。やがて帰還してアフガニスタンの発展に尽力することを祈りたい。イスラム世界の人々よ願わくば、13世紀の英雄「サラディン」のような多様性と異教徒との共存を尊ぶ寛大な心を抱いてほしい。

会津の秋 (普通部OB 船津於菟彦)

全日本クラッシックカメラ撮影会は福島方面に。先ず南会津の塔のへつりへ。ここは「へつり」は、会津地方の方言で「険しい断崖」を意味しています。その名の通り、人が歩いて通れるほどの幅で岩壁が浸食されており、その岩壁が塔のように並んでいることから「塔のへつり」と呼ばれるようになりましたとか。紅葉の時が良いようです。そして下野街道の宿場町で偶然開発から取り残されそのままの形で宿場町が残って居ます。道幅は思っているより廣いです。江戸時代における会津西街道(別称:下野街道)の「半農半宿」の宿場の呼称。明治期の鉄道開通に伴って宿場としての地位を失ったが、茅葺屋根の民家が街道沿いに建ち並ぶ、観光地名として現在も受け継がれている。1981年(昭和56年)に重要伝統的建造物群保存地区として選定され、福島県を代表する観光地の1つとなっている。ウィークデーなのに結構な人が来ていて静かな宿場の撮影は出来ない。

宿は只見川沿いに在る柳津温泉内田屋宿泊。福満虚空菩薩・圓藏寺の門前にあります。圓藏寺は大同2年(807)に徳一大師によって開創され、御本尊の福満虚空藏菩薩は弘法大師の作と伝えられます。日本三大虚空蔵菩薩の一つに数えられ、丑寅年生まれの守り本尊として知られています何がメデタイ86歳の寅年は29日早朝から急な階段を息を切らして登り詣でて参りました。これで人生100歳時代を謳歌していきますね。

 

野球道の誕生   (HPOB 菅井康二)

野球はスポーツの一つである。

スポーツ(sport)の語源は、ラテン語の「deportare(デポルターレ)」という単語だと言われています。「deportare」は「ある物をある場所から他の場所に移す」という意味があり、そこから派生して「心の重い、嫌な、塞いだ状態をそうでない状態に移す」という意味になったようで、「気晴らしをする」、「楽しむ」、「遊ぶ」などを意味していたそうです。「たかが遊び(気晴らし)にそんなにマジになるなんて、粋じゃないよね!」ということではないかと?

このたかが遊びの「Baseball」に武道の精神を注入し換骨奪胎して、一球入魂の「野球道」に仕立てあげたのが我らが仇敵である早稲田であります.わが国の野球界を強力に支配している「野球道」に対するアンチテーゼとして、早慶六連戦を青年監督として指揮した前田祐吉氏が掲げたのが「Enjoy Baseball」だと言えます。

福澤先生が、塾体育会発足の翌年である明治26(1893)年3月23日付『時事新報』に、「体育の目的を忘るゝ勿れ」という記事を書いています。それを現代文に要約すると以下のような内容です。

教育は知識だけでなく運動による身体の発達も大切であり、学生が体育を重んじる風潮があることは良いことではあるが、体育本来の目的を常に忘れないでいてほしい。身体の錬磨は病気の無い強い体を作り、精神もまた活発爽快となる。心身ともに健康であれば社会すべての困難を乗り越えて行動できるようになるが、これは「立身出世の一手段」に過ぎないのであって、体育を人生の目的としてしまうことは、目的と手段を混同してしまっていると言わざるを得ない。

個人的な曲解かもしれませんが、この「体育の目的を忘るゝ勿れ」と「Enjoy Baseball」は地下水脈で繋がっていると信じております。

(編集子)そういえば現役時代、いろんな機会に繰り返されたのが ”ワンダーフォーゲルとはなにか?” ”山岳部とどう違うの?” という議論だった。僕らは吉田晴彦先輩が説かれた、ドイツでの Wandervogel (ウムラウトがないが)という思想が根底に抜きがたくあった。現実的にワンデルングがマウンテンクライミングになっているという現実とか、山登り、という技術論を離れて、純粋に、いわば正統的というか吉田流というか、そういう活動をしたい、と入ってくる新入部員も多くいて、そういう下級生をどう扱うのか、などといった議論もあった。

翻って現在の現役の活動を見ていると、どうも我々が悩んだ本質論は全くなくなってしまって、単純に Because it is there, というか、自分たちの山登り、それでいいのだ、と割り切っているように見える。そうなってくると、ワンダーフォーゲル、という部名自体が単なる屋号に過ぎなくなってくる。

目的を忘るる勿れ、と enjoy KWV  というのはそれでもどこかでつながり得るのだろうか?

 

 

尾道への小旅行  (大学クラスメート 飯田武昭)

ワールドシリーズまでの僅かな期間を使って尾道(広島県)に2泊3日で行ってきました。ツーリングやサイクリングで尾道から四国の今治までの≪しまなみ海道≫が人気ですが、車の免許証も自転車も放棄した今となって、昔は漁業で栄えた尾道へ出かけた今回の旅の目的は、何となく気になっていた街という程度のものでした。

とは言え、瀬戸内の海岸線に迫る小高い山(千光寺山)の頂上にロープウエイで登り、四国を臨む島並の景色を堪能し、徒歩で下る≪文学の小道≫には岩石に刻まれた芭蕉や林芙美子の句碑が見られ、志賀直哉旧居もある急坂を転げるように下りて、海岸線に続く昭和一桁の面影さえある商店街を小一時間歩くだけで、日常とは違った穏やかな気持ちが味わえました。

取り分け楽しめたのは2つの美術館で、一つはフェリーで出かけた生口島(瀬戸田)にあるこの島で生まれ育った平山郁夫美術館で「敦煌月光」などの名画をゆっくりと鑑賞できました。もう一つは、なかた美術館が所蔵するフランス現代美術家ポール・アイズピリ(1919~2016)とピエール・クリスタン(1932~)のそれぞれ10点程とユトリロ、シャガール、ピカソなどの数点の絵画です。

私事ですが、私がドイツに駐在していた1970年代に出張で度々出かけたパリのオペラ座近くの画廊で偶々見かけたアイズピリの絵画の色調が大変気に入り、その後もパリに出張の度に画廊に立ち寄った画家の絵で、日本ではためなが画廊(東
京・銀座&大阪・京橋)が可なりの数を所蔵していてよく観に行きます。なかた美術館は瀟洒な建物ですが、部屋ごとに小さな階段で段差を付けるなど観賞し易い環境で美しい内庭を臨みながらケーキセットを頂くゆたりした時間が何とも良かったです。この日は午前9時半頃から昼前まで、我々二人だけという閑散振りも珍しい時空間でした。

もう一つ、尾道ではうっかりすると毎食のように尾道ラーメンを食べる羽目になることがあると感じました。それに気付いた私たちは、ランチに尾道ラーメン、浪漫珈琲店でピッザア、ホテル・レストランでかつカレー、夕食は尾道WARFで魚料理、割烹料理でおばんざいと海鮮丼を味わうことが出来ましたが、うっかりすると多くの店が曜日によって閉まっていたり休業していたりで、やたらに多い尾道ラーメン店が時に並んで待っている状況でした。

スナップ写真を添付しますのでご笑覧ください。浪漫珈琲店の窓越しの1枚は映画のラストシーンに使えるかな~?と思ってシャッターを切りました。(保屋野)相変わらずの活発な行動、良い旅をされたと思います。素敵な写真ありがとうございます。
尾道は20年ほど前に行きましたが、千光寺からの「尾道水道」は絶景ですね。
また私は、千光寺から尾道水道に連なる民家の瓦の美しさに感動した記憶もあります。
しまなみ海道の「平山郁夫美術館」も行きましたが、一度行きたかった刀剣で有名な「大山祇(おおやまずみ)神社」も良かった記憶があります。 

(安田)いつもお元気でご旅行に勤しまれる飯田さんは、お手本のような方です。訪問記と素敵な写真ありがとうございます。

山陽新幹線がまだ開通していない‘60年代、出身地の九州と東京間を国鉄の在来線を利用して往復していました。尾道は幾度となく通過したのですが、立ち寄ったことがないのを悔いています。列車の中から, 山が迫り瀬戸内海を望む風光明媚な風景を眺めていました。比較的最近BSで放映された映画「東京物語」「放浪記」でも尾道の風情が感じられて、ほっとさせられました。美術館など見どころ満載ですね。

(編集子)平山郁夫美術館は北杜市、JR小海線甲斐小泉駅に隣接して建てられています。美術館などあまり行かないのですが、文中にある小アジア滞在中の作品はなんとなく広々とした気持ちになれるので、何度か行っています。拙宅から徒歩で15分くらいで行けます。

 

 

 

セリーグ来年の盗塁王はだれか?  (36 大塚文雄)

10月16日付「盗塁王の近本ですが、19個で最多?」というジャイの投げかけを読みました。パリーグの盗塁王は周東選手で41、2位32、3位29, 4位20です。近本選手は3年連続の盗塁王ですが、回数は30,28,19と毎年減少していて、2位も24,20,16とやはり減少しています。つまり盗塁回数も成功回数も減っています。

インターネットで過去データを調べたりAIと話しあったことの一部を、昔野球少年だった方々と共有したいと思います。目次は次の通りです。

  1. 近年の盗塁状況と近本選手
  2. AIと会話して自分の知識や調べたことを確認した
  3. 2025年セリーグ盗塁王予測

1.近年のセ・パ両リーグの盗塁事情と近本選手

まず、プロ野球全体の盗塁状況をセ・パ別にみて、比較してみた。

セリーグは総盗塁数と盗塁成功数に大きな変動はないけれど、2024年の成功率が2パーセンテージポイント低くなった。パリーグの総盗塁数は例年とほぼ同じで、盗塁成功率が2パーセンテージポイント高くなった。
セとパで盗塁成功率に大きな違いはないが、盗塁総数と成功数はパリーグがセリーグより25%ほど多い。

近本選手の過去6年間の成績を見ると2021年以外は盗塁王で、2022から2024年まで3年連続して盗塁王。しかし、盗塁成功率が悪化している。原因として、30歳になって衰えが始まった、体調不良、成功率の悪化で球団方針として盗塁制限をしているなどが考えられるが、ハッキリとは分からない。とはいえ、30歳になって衰えが始まったのは間違いないと思う。ちなみに、近本選手は攻守走揃った好選手で、大好きな選手です。来シーズンのCome backを期待しています。

出所:日本プロ野球機構
盗塁成功盗塁失敗総盗塁数成功率
2024年34218152365%
2023年33617951565%
2022年38419257667%
2021年40820160967%
2020年36217954167%
セ合計1,8329322,76466%
セ平均36618655366%
盗塁成功盗塁失敗総盗塁数成功率
2024年47819166971%
2023年45520866369%
2022年53227080266%
2021年45520766269%
2020年51319670972%
パ合計2,4331,0723,50569%
パ平均48721470169%
12球団合計4,2652,0046,26968%
12球団平均853401125468%

 

近本選手盗塁成功盗塁失敗盗塁総数成功率出塁
回数
20241992868%204
20232833190%215
20223053586%185
20212172877%251
20203183979%197
201936155171%220
合計1654721278%1,272

2.AIと盗塁について会話をした

AIと盗塁について会話をしました。AIもなかなかの野球通で、質問さえしてきました。お読みください。

自分(質問者)

近本選手の盗塁数は19でしたが、盗塁王になりました。

Copilot(AI)

盗塁王になるには少し多い数が必要かもしれません。盗塁王の基準はチームごとに異なることがありますが、通常は20以上の盗塁が多いです。

質問者

選手全体でも盗塁数は低いのでしょうか?

AI

2024年のNPBシーズンでは、他の選手の盗塁数が20前後の選手が多く、19盗塁で盗塁王になるのは十分に立派な成績です。他の選手の盗塁数についてもっと知りたいですか?それともの他の選手についても興味がありますか?

質問者

プロ野球全体に盗塁対策が上手くなったのでしょうか?

AI

最近のプロ野球では、盗塁対策が確かに進化していますね。特に、投手の投球動作や捕手のリードの技術が向上しているため、盗塁の成功率が低下しています。また、データ分析を活用して、選手の動きをより正確に読むことができるようになっています。盗塁の成功率が低下しているのは、チーム全体の防御力が向上している証拠とも言えます。あなたは盗塁についてどう思いますか?

質問者

野球選手の総合能力を示すものと思います

AI

その通りですね。盗塁だけでなく、打撃力や守備力も総合的に評価されます。例えば、打率、出塁率、OPS(出塁率+長打率)などのデータが選手の総合的な能力を示すのに役立ちます。

もし他の選手やデータについて知りたいことがあれば、教えてくださいね!

質問者

プロ野球の華は盗塁です。盗塁にはベンチ采配までも含んで攻守ともに多くの人が関係するからです。

AI

まさにその通りです!盗塁は試合の流れを劇的に変えることができ、観客を熱狂させます。ベンチの采配や選手の瞬時の判断、そして守備側の対応までもが絡み合う、一瞬のドラマですよね。

盗塁のスリルや駆け引きに魅了されるのは、野球の醍醐味の一つです。他にも野球のどんな部分に魅力を感じますか?

質問者

今日は19の近本選手が盗塁王になる背景をしらべました。十分ご支援をいただきありがとうございます。

AI

どういたしまして!近本選手の活躍について調べるのは楽しかったです。野球のスリルと戦略を共有できて嬉しいです。いつでも質問やお話があれば、ぜひどうぞ。引き続き素晴らしい一日を!

3.2025年セリーグ盗塁王予測

2024年実績分析から次の選手が候補です。

第一候補 DNA 梶原選手 理由:出場数が限られているのに盗塁成功率が高く

16盗塁している。打率も高い(292)。課題:もっと試合に出る。40も可能か。

第二候補 阪神 近本選手 老けこむ年ではない。Come back期待。

(参考:出塁総数 近本238,梶原113で盗塁数は19対16)

第三候補 広島 羽月選手 代走(らしい)として成功率高い。課題:打率向上

(注:代走選手が盗塁王になった例は見つからなかった)

 

ダークホースDNA 牧選手 11盗塁・成功率も高い。主力選手として盗塁制限?

ダークホース 巨人 オコエ選手。盗塁成功率高い。課題:打撃安定。

なお、出塁総数=安打数+四球数+死球数 です。ピンチランナー(代走選手)を別にすると、盗塁には自らの力で出塁しなければならない。

2024年度セ・リーグ打撃個人成績 盗塁ランキング
選手名  打率盗塁
出塁
総数
対出塁総数
盗塁成功率
盗塁成功率

(=盗塁数÷盗塁回数)

近本 光司0.285192388.0%67.9%
梶原 昂希0.2921611314.2%88.9%
羽月 隆太郎0.227126200.0%63.2%
秀悟0.294111995.5%100.0%
並木 秀尊0.233101190.9%100.0%
岩田 幸宏0.228103826.3%100.0%
森 敬斗0.25186113.1%57.1%
重信 慎之介0.06764150.0%85.7%
島田 海吏0.27553315.2%62.5%
植田 海0.27343133.3%80.0%
オコエ 瑠偉 巨0.2614468.7%100.0%
赤羽 由紘0.24141625.0%100.0%
増田 大輝0.24757.1%80.0%
宇草 孔基0.24232213.6%75.0%
立岡 宗一郎0.21433010.0%60.0%
大盛 穂0.2262922.2%66.7%
神里 和毅0.132540.0%100.0%
若林 楽人0.12921118.2%66.7%
北村 拓己0.12521118.2%66.7%
出塁総数=安打+四球+死球

 

乱読報告ファイル (62) 美食家ロッシーニ   (普通部OB 菅原勲)

「美食家ロッシーニ」(著者:水谷 彰良。出版社:春秋社。発行年:2024年)を読む。

著者の水谷は1957年生まれの67歳。音楽・オペラの研究家であり、日本ロッシーニ協会の会長でもある。各種の資料を渉猟した上での原稿で、その参考文献は11頁にも亘っている。

ジョアキーノ・ロッシーニ(1792年生)は「セビーリャの理髪師」(1816年、24歳)で有名なオペラ作曲家。しかし、1829年の「ギヨーム・テル」(ウィリアム・テル)を最後にオペラの筆を折る。この時の台詞が誠にカッコよい、「私の時代は終わった」(本当にこんなことを言ったのかなー)。この時、ロッシーニ38歳だが、鬼籍に入ったのが76歳の1868年。つまり、主にパリでの後半生は、「老いの過ち」と言うちょっとしたピアノ曲とグルメ。この美食が何とも凄まじい、それも、ロッシーニ風と自筆レシピ(料理の作り方や材料を記した指示書)まで残しているのだから、途轍もない意地汚さとしか言いようがない。

例えば、冒頭に、写真付きで掲げられたロッシーニの代表的な創作料理は、

トゥルヌド(牛フィレ肉の心部と隣接する稀少部位)・ロッシーニ。註:フォアグラとトリュフを乗せた、いわゆるステーキ。

トリュフ詰め七面鳥、ロッシーニ風。註:トリュフに加え、栗を詰める。

注入したマカロニ、ロッシーニ風(注入器でフォアグラとトリュフの詰め物をマカロニに注入)。註:つまり、単なる棒であるスパゲッティーと違って、マカロニには穴が開いているから、そこに特殊な注入器を使って、フォアグラとトリュフを詰めるのだから、贅沢も極まれりだ。

鳩、ロッシーニ風。註:これは豚の膀胱の中に鳩肉などを詰める。鳩なんて食えるのかな。

などだが、これらを含め、この本の最後に、40頁にも亘ってロッシーニの料理として50ものレシピが掲げられている。

そして、その意地汚さは、コーヒー、ワイン(無類のワイン通だった)、菓子(小生の全く知らないムスタッチョーリ、ゼッポレ、パネットーネ)、野菜と果物にまで及んでおり、勿論、チーズはゴルゴンゾーラでありリコッタでもある。そして、私邸で食通を唸らせる晩餐会を頻繁に開いていたが、これらの食材を手に入れるために頻繁に手紙のやり取りをしており、その往復書簡が数多く残されている。

テオフィル・ゴーティエと言うフランスの小説家は、「若きフランス」と言う小説の中で、「ロッシーニはものすごく太っていて、この6年間自分の足を見ていない」と述べ、「これが音楽の神ロッシーニと知っていなければ、彼をズボンを穿いたカバと思うだろう」と揶揄している。そりゃーそうだろう、こんなもの毎日食っていたら、腹が突き出て、自分の足も見えなくなるに決まってる。

「赤と黒」などの小説を書いたスタンダールは、「ロッシーニ伝」で「ロッシーニは、ナポレオンに続いて現われた天才だった」と述べているが、ロッシーニ自身は回顧録の類は残さず、日記すら書こうとはしなかった。ただし、数千通にも及ぶ書簡は残されている。

今や、冬は、湯豆腐、夏は、冷ややっこ、胡瓜の酢もみ、茄子の重焼、熱々のご飯に明太子が大変なご馳走と思っている小生からすると、これを見て思わずゲップ、もう一度、ゲップ。東と西、全く違いますね。

ここまで書いて来て思い出したことがある。パリから帰国して15年ほど、「男子、厨房に入らず」の禁を破って、ふた月に一回ほど、主にフランスの家庭料理を作るのに夢中になっていた。取っ掛かりは、海老沢 泰久が書いた大阪・阿倍野に辻調理師専門学校を創設した辻静雄のことを書いた「美味礼賛」。新聞記者だった辻が出来たことなら、無謀にも俺だってと辻が書いた「家庭のフランス料理」(新潮文庫。1985年発行。今は廃版になっているらしい)を参考に、料理じゃないところから始めようと、「ニース風サラダ」から狂気の料理作りが始まった。

今でも覚えているが、そのソースは、3(濃い味)か4(薄味)のエキストラ・ヴァージン・オイルに1のワイン・ヴィネガー(白か赤かは忘れた)、すり潰したアンチョビー(かたくちいわし)、潰した小片のニンニクを混ぜ合わせ、胡椒を振りかけ、これで出来上がり。調合次第では、ロッシーニでさえ舌なめずりする極上のドレッシング。でも、美食家と言う点ではロッシーニの足元にも及ばないので、この辺で打ち止めとする。

(編集子)なんといっても八甲田山中夏合宿、昼飯は飯盒飯に沢の水をぶっかけて、おかずは一人1本配られた乾タラだけ、なんて食生活をしてきた小生には、この種の話題は美術と同様、別世界のトピックである。幸いパートナーは無類の料理好きだから、このレシピ―のいくつかは早晩、実感できるだろうと期待。

料理の名前についてのエピソードは今や国民食になっている スパゲティナポリタン、というのが実は日本発だとか、だいぶ古いが名前だけは知っているシャリアピンが来日したとき、確か帝国ホテルでこしらえた一皿が気に入ったということで、シャリアピンステーキになったとか、そんなことくらいしか知らない。普通部で同じ釜の飯を食ったスガチューとの文化度の違いをまたまた実感する。      小生にとって今まで最高の一皿はといえば、コロラド州山奥のレストランで食べた、”本場” のTボーンステーキくらいだ。それもレア、で注文して半分も食べきれなかったが、皿を下げに来たウエイターが、”you did a pretty good job as a Japanese! ” とほめてくれたのがうれしかった、という程度のことしか思い浮かばない。

しかし同じ飯盒飯で育ったはずのKWV仲間には食品メーカーに就職したことでいっぱしの食通やらワインコノシユアに変身したのが何人もいる。急逝してしまった37年卒の菅谷国雄なんかがいい例だ。同期の山室修(ザンバ)は大手ビール会社に就職、キャリアのなかで直営レストランの社長をつとめた男だが、150周年記念ワンデルングで炎暑の一日の後、なだれ込んだ温泉宿で、指定した銘柄(当然彼の会社のものだ)として出てきたビールを一口のんだだけて怒り出し、宿のマネージャを呼びつけて満座のなかで怒鳴りつけた。向こうは平身低頭で、在庫切れでしたので、と大誤りになったことがあった。同席した10何人かはわけもわからず(へえ、ザンバってえれえんだ!)と感心するだけだった。彼によれば、ビール会社には一口のんだだけでどの工場で醸造したものかを言い当てるプロがいるそうだから世の中は広い。ま、おれは860円(ご当地オーゼキ価格)のチリ大衆ワインくらいで十分だけどな。

シャリアピン・ステーキ:shalyapin steak)とは、牛肉を使ったマリネステーキの一種。1936年(昭和11年)に日本に訪れたオペラ歌手フョードル・シャリアピンの求めに応じて作られた。日本以外の地域ではほとんど知られていない、日本特有のステーキ料理である。