日平会新年会―普通部同期生各位へお知らせ (29年普通部 船津於菟彦)

(編集子注)

日平(ひびら)会はS29年普通部卒(大学卒業36)同期のうち、一風変わった人間の集まりである。かつて帝劇地下にあった同名の店で集まっていたためこの名前となった(その後日平亭の都合で場所を帝国ホテル内三田倶楽部に変更)。

A-E5クラスの中でもC、D組には曲者がそろっていて(編集子はE組)、がやがやと良き古き普通部生活を謳歌した仲間である(外部の人には理解できないかもしれないが、普通部部歌にはっきりと ”いざよく学び いざよく遊び” と記されている)。

雪が降るとかの予報でしたが、暖かな日和で、正月のとどのつまりで、賀詞交歓会が開催できました。大森・黒川ご夫妻・河野・後藤・佐藤・田中新弥・中司・日高・岡野・高山・田中宏幸さんに船津の13名でワインとハンバーグランチで愉しく懇談致しました。

岡野さんのご提案で普通部卒業65年の集いを開催することとなりました。

日時 2019年6月22日土曜日 正午
場所 明治屋 京橋 モルチェ
クラス責任者
A:岡野・岩瀬
B:田中新弥・日高
C:田村・船津
D:大森・後藤・高山
E:中司・次回 日平会で詳細を決め、クラスごとに連絡をいたします。

船津 於菟彦: funa@1961.jukuin.keio.ac.jp       |
  |      TEL:03-3622-7861  

アサ会2019新年会  (34 平松克彦)

遅くなりましたが今年の新年会の集合写真をおくります。新年会はここ10年ほどは高輪の和彊館で開催してます。

今年の参加者は太田、小泉、桜井、佐成、椎名、城田、妹尾慶子、田中、永野夫妻、西川、西島、林田、平松、藤野、船曳、眞木、松本圭、丸橋、三神、三ッ本、茂手木、矢郷。

妹尾の奥様が参加してくれました。過去に参加してくれた奥様を来年からお誘いしようと思ってます。

妹尾の遺品としてブルーのザックを貰いました。よく一緒に山に行ったザックです。ひょんな事から妹尾が集めたぐい呑み等を沢山もらい受けました。アサ会の新年会で皆さんに貰って頂きました。ジャイの分も取ってあります。機会をみてお渡ししますのでお受け取り下さい。まだ沢山ありますのでスキー合宿にも持っていきます(私はスキーは卒業です。湯治です)。

スキーのない冬 ? (39 堀川義夫)

(復信)

ジャイさん    遠藤さんを忘れていますよ!  私は、クマ夫婦とジェラ達に叱咤激励されながら佐々木大輔さんのガイドツアーを終えました。あと2日間、帯広在住の48年卒の奥村さん宅にお世話になって帰ります。足のモモの筋肉が悲鳴をあげています。

(往信)

第二回目のスキーのない冬を過ごしています。いろいろとやることもあるので、それなりに充実していて無聊ということは感じませんが、やはりどっかに郷愁?があります。同期では深谷もどうやら今シーズンでスキーから卒業するような雰囲気です。さすが一時は隆盛をほこったサンロク軍団も歴史の影に隠れる時代ですかな。残党は浅海と後藤だと思います。せいぜい面倒見てやってください。

”私はマリア・カラス” を観て (34 小泉幾多郎)

昨年12月20日、日影沢で、今年のKWVニューイヤーパーティのチーフを務めた
KOBUIKI(編集注:41年久米行子)が、”私はマリア・カラス” が封切られるので、どうしても観たいと言っていた。その映画自体のことは初耳だったが言われると久しぶりに映画館に足を運ぶ気持ちになった。1月12日、ニューイヤーパーティで、お会いしたので、「あの映画観たよ」と言うと、彼女はそのほかにも、クイーンの「ボヘミアン・ラプソディー」、レディカガの「アリースター誕生」の計3本を観たと言われて驚いた。こちとらはなんと一昨年の2月に「ラ・ラ・ランド」というミュージカル映画を観て以来2年ぶりのことだった。上映館を調べTOHOシネマズららぽーと横浜があったのでバスで約30分、三井不動産が2007年に開設した商業施設の一角で13のスクリーンを有するシネマコンプレックス。先ずは恥ずかしいところをご披露すれば、チケットを購入は自動販売。上映映画の中から選び、やっとの思いでチケット購入。昼食はフードコートと称する方式で、メニューを見ながら指定、支払いを済ませ、そのメニューを店の前に置くとワイヤレスベルを渡されるという仕組みで、ここでも、どぎまぎしてしまった

映画「私は、マリア・カラス」はトム・ヴォルフという若干33歳が監督する初長編で、カラスの生涯を描くドキュメンタリー映画。原名は、Maria by Callasの通り、監督が3年間に亘り、カラスの関係者を訪ね歩き、数多くの人や資料を尋ねたが、最終的にはカラス自身の未完の自叙伝や、未公開の手紙、プライベートな映像や音源といった彼女自身の言葉と歌で構成されたドキュメンタリーである。始まると直ぐ、カラスがインタビューで、「マリアと生きるには、カラスの
名が重すぎるの」と打ち明けると直ぐに”蝶々夫人”で、着物姿でアリア「なんて美しい空」を歌うが、8ミリで撮ったプライベートフィルムだと認識できるように、わざとフレームが写ったままになっている。カラスの音声と場面とは合わず、何となく居心地が悪いが、次からの有名なアリア、ノルマの「清らかな女神よ」、椿姫の「さようなら、過ぎ去った日々よ」、カルメンの「恋は野の鳥」等々は口と音声が合致している。TVやレコードで聴く音とこのプレミア室での素晴らしい音響で聴くのでは大違い。60年前の録音が、これほどまでに鼓膜と胸を震わせるものか。

演奏会以外の場面、インタビューやプライベートな動きの中でも、バックにカラ
スの歌声が心地よく鳴り響く。なかには、澄んだ美しい声とは合致せず、濁りのある声だなどと悪口を言った評論家もいたが、この中で聴いているカラスの声は音域の広さや圧倒的な存在感を示してくれるのだった。しかもカラスの素顔、表情など優雅さや凄み、内からにじみ出る悲しさといったものを映像に結びつけて呉れているのは、監督がファッション広告などを手掛けていたことが要因かも知れない。インタビューやカラスの手紙や独白は「永遠のマリアカラス」でマリアカラスそのものを演じたファニー・アルダンが命を吹き込むように朗読し、カラスの声とも違和感なくカラス自身の魂の叫びとも聞こえる。

また、カラス生涯での大きな事件としては、1958年のローマ歌劇場でのノルマの舞台を一幕だけ歌って降板したこと、1959年ギリシャ海運王アリストテレス・オナシスとの恋物語、1969年映画王女メディアへの出演、1973年からカラス復帰ツアーとしてのヨーロッパからアメリカ、アジアを回り最後に日本で終わるフェアウェルコンサートなどが出てくる。いずれもが、カラス自身の書き残された記録だけからの主張だけに、すべてが真実ではないかもしれない。1958年のローマ、激しいバッシングに対し、リハーサル中に喉を壊し声が出なくなったというが本当にそれだけが原因か、他の理由がなかったのか。1959年のオナシスとの恋愛に時間を割いているが、カラス自身によれば、オナシスに対し純粋に人を愛する心を持っていたということになるが、単なる愛だけのものだったのかは疑問。
オナシスとジャックリーヌとの結婚ののち失意の後、パゾリーニ監督による映画メディアへ女優として主演。その後、歌手としての道を忘れられず、テノール歌手ジュゼッペ・ディ・ステファーノとのフェアウエルコンサートと称し歌手として最後の舞台は終わるが、失意の時に手を伸ばしてくれたやさしい男性に巡り合ったことが、恋愛感情を抱く関係になってしまうのではないか。カラスの才能に最初に気付いた母親により歌手になる運命にを植え付けられ、一世一代の歌手に登り詰め、名声を勝ち得たカラス。その全盛期は10年足らずで終わったが、「私の自叙伝は歌の中に綴られている」と本人が語るように、いまだ歌の中に生き続けている。女性の抱くあらゆる感情、心の動きを声と歌で表現することが出来た世紀の名歌手。

映画は巻頭での蝶々夫人のアリアから最後は日本での演奏会が、フェアウエルコンサートとして最後になったが、そのアンコールで、有名なアリア、ジャンヌスキッキから「私のお父さん」を歌いますの声に観客の万雷の拍手が鳴り響く。そのアンコールはなかなか出て来ない。最後の最後に画面に記録される背景に「私のお父さん」が歌われる。幕開けの蝶々夫人のアリアから日本でのフェアウエルコンサートでの最後の舞台まで。トム・ヴォルフ監督は何か日本への思い入れがあったのだろうか。

2019初W 月一高尾報告 (39 堀川義夫)

 

山頂からの富士遠望

2019年の初の月いち高尾は暖かな晴天に恵まれ、歩いても汗をかかない程度で何とも心地よい高尾を楽しむことができました。例によって10時に高尾登山口に集合定番の稲荷コースと楽々組は大垂水峠までバスで行きました。

日 時 2019年1月17日(木)

楽々組    船曳夫妻、小泉、平松、椎名、中川、堀川 7名

稲荷山コース 遠藤、吉牟田、高橋、翠川、中司、町井、三嶋、蔦谷、武鑓、浅野、伊川、岡沢 12名

楽々組は大弛峠までバスを利用、楽々コースの名にふさわしく、山の裾をまくコースで最後の高尾山頂上への登り以外は、ほとんど登りを感じないゆったりしたトレッキングを楽しみました。汗もかくでもなく日差しが穏やかで問題はなかったのですが、登りが少ない分距離があったためでしょうか、12時10分に頂上に着きました。

4号路を行く

本隊は日当たりの悪い6号路(びわ滝コース)でなく 真冬の定番コース 尾根道歩きの稲荷山コースを歩きました。10時高尾山口駅発 いつもの12時に細田小屋に着くペースで歩きます。今日は本当に天気よく 途中で暑くなり 衣服の着脱のための小休止何回か 鼻かみの小休止。10時52分 東屋着 休憩11時発 頂上直下の四差路で 私含め3名は右折し1号路経由頂上へ。残り9名の元気組は 直登を選択。11時55分に頂上着。 楽々組も 以外に(失礼)早く 12時4分着でした。

山頂にて集合写真

細田小屋が休業だったため、久しぶりに昼食は山頂の三角点周辺で暖かな日差しの中で昼食をとり、全員で人気の少ない4号路を利用し、

4号路つり橋

みやまつり橋を経由して蛇滝への下山路へ。途中何人かはケーブル利用、1号路利用で下山しましたが、全員元気に蛇滝口バス停着。バスで高尾北口に行きこれまた定番のてんぐ飯店で打ち上げ15名が参加しました。

翠川いわく:

今日は今年初めての「月イチ高尾山」をご一緒させて頂きありがとうございました。久々に「ひたすら登る」高尾山も最後の登りは結構息が切れましたが、「こんな調子で長く続けられたら」と改めて感じました。
生憎の「この時期らしい」天候で頂上からの富士山も撮影の面からはイマイチでしたが「新春の富士」は矢張り良いものですね。
また次回もよろしくお願いします。

天狗飯店にて新年を祝う

ひとりぼっちの山荘です (41 田中透)

明けましておめでとうございます❗️
平成1月、雪の中の三國山荘です。
塾旗がカッコ良く翻って自然に囲まれてとても似合ってます。
たった独りの小舎番は気分最高ですね。山荘ライフの醍醐味は冬の中でしか味わえないと思います!
今日はこれから、マサボンや、島君、金子君達が食料、お酒持って入荘予定です。楽しい夜になりそうですね!
仲間が小舎に集まって一緒に過ごす夜なんて最高の人生だと思います!
KWVが青春をまだまだこさえてくれている有り難さを感じています!
三國山荘からの便りでした。
S41 田中透より

2019年度ニューイヤーズパーティ

亀井先輩のご発声で乾杯!

1月12日、今年度のNYPが恒例通り、芝パークホテルで開催された。30年卒宮本・坪田先輩らの主宰されていたシニアワンダラーズの会とOB会公式行事とを合わせて行われるようになった新年会で、すっかり暦年行事として定着したが、今回は24年卒溝口先輩のご出席を得て、”OB会1年生”を任じる30年卒の川上君まで、年齢差は実に70歳、ありていにいえば曽祖父から孫の年代まで、合計128名(うち2名は現役)という大規模な集まりになった。

今年は鏡割りが登場。年男女が盛大に新年を祝った

実行担当の親睦委員会メンバーや女性として初めてこの会を取り仕切ったCLの久米行子君、司会者としておなじみの54年卒石倉周一郎君、ほか多くの関係者に感謝したい。

久米CL開会宣言

挨拶に立たれた27年卒亀井先輩は塾評議員から引退されたことを報告され、”数多くの三田会のなかでもベストテンに入る素晴らしい会であることに自信を持て”と結ばれた。

たしかに会員数などでいえば、大企業や地方組織で我々よりも大規模な会はたくさんあるだろうが、行事への参加とか、年台を越えた ”われらケイオー” の、福沢以来の ”社中” 精神の意義がこれほど濃密な会合はあまりないだろう。今後とも、”若手” の参加が増えていくことを期待しよう。

年代別出席者人数と全体に対する割合は20年代が5名で4%、以下30年代45名35%、40年代57名44%、50年代17名37%、60年代17名で13%となった。平成年代は今回は川上君のみだったが、次回からはもっとにぎやかになるだろう。現役からは部長の中川直輝、山荘の武藤遼、両君。

このあとはスキー合宿、春の日帰りプラン、と行事が続く。活発な各位の参加があることだろう。

締めのエール、今年は遠路かけつけた山田君(S49)が担当

グレープフルーツがなったよ! (五十嵐智・亀岡愛一郎)

(亀岡自慢のキンカン)

思いもかけず、編集子小学校(大田区立赤松小学校)時代の恩師、五十嵐先生からお便りを頂戴した。プライベートなことではあるけれど、とてもほんわかとした、暖かいやりとりをしたので、先生とこれで70年近く交友している友人との往復メールを、ご了承を得て紹介する。先生力作のグレープルーツの写真そのものはまだ頂戴していないが、同好の士というか園芸フリークの方から先生へのアドバイスでも頂ければ望外の幸せである(なお、五十嵐学級のクラス会はまだつづいていて、傘寿を迎えての小学校仲間との付き合いはまた格別に感じる。先生は卒寿を越えられてなお年齢を感じさせず、まさに矍鑠、いまだに愛車を駆って元気でおられる。まさにわれわれの理想の姿というべきか)。

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(五十嵐―中司)

恭君がアメリカにいるときに、親孝行で、大森のお母さんへグレープフルーツを送りましたときお母さんが私に恭君の気持ちを汲んで、少しおすそ分けしてくださいましたが、とてもおいしかったので、思わすその種を一粒庭に埋めたところ、40年近く経った昨年秋頃二つほど、実を付けました。まさに奇跡です。大きさはテニスのボール位になっています。軟らかくなったら、取って食べてみようと毎日、眺めて居ます。味をみたらまたメールします。

(中司―五十嵐、亀岡)

メールを読ませていただき、一瞬、あっけにとられたというか、呆然としたというか、正に信じられない思いにとらわれ、無性に嬉しくなりました。ワイフにも見せましたが、二人ともこの事実を覚えていません。たしかに当時、アメリカで生活するということそのものが非日常的でしたし、グレープフルーツも珍しかったですものね。しかしほぼ半世紀たって命が芽生えるということ、感激です。美味しい実がなることをひたすら祈る気持ちです。

(亀岡―五十嵐、中司)

今日 午前中は今春初めての絵の教室に出席、帰宅し昼食後PCを開いたら先生と中司さんのメ-ルのやりとり 転送で入ってました。グレ-プフル-ツ約40年で結実との事 庭いじり好きの家内に話しました。

30年前 入間の家を新築、移転した際家内の友人がすでに実が少しついたキンカンの苗木をお祝いに頂きましたがその後 木はすくすく成長しましたが実は全く付かなかったのに一昨年から急に付き始め昨年秋は大豊作!柑橘類は「バカなり」と言って忘れた頃になりだすとの事です。家内は「キンカンジャム」を沢山作ってくれました。お昼 パンに塗ってます。美味しいですよ。先生の家の「中司さんのグレ-プフル-ツ」も今年の秋からはきっと沢山 実を付けますよ。

(五十嵐―亀岡、中司)

亀岡家のキンカンは苗木から30年かかり、私の家のグレープフルーツは種からだったので、40年もかかったのですね。家の柚木も30年以上経ってから、今年1個だけ実を付けました。家内が「譲る馬鹿30年ね」と言って笑いました。
40年前に亀岡君から頂いた「金木犀」は10月になると必ず「香り豊かな花」を樹いっぱいに咲かせます。それが終わると、「山茶花の花」が咲き始めます。年越した今日もその美しい「花」を咲かせています。改めて、亀岡君にお礼申し上げます。我が家の庭には、孫の「桃子」が生まれたとき、記念に植えた桃の木や「洋祐」が生まれた時のさくらんぼの木があり、梅酒を造る「梅の木」も毎年実がなります。加えてグレープフルーツ、我乍ら欲深だなと思っています。

(中司―五十嵐)

昨日、お葉書頂戴してご返事しようかと思っていたところです。わざわざありがとうございました。母の37回忌ということも、お知らせいただくまで全く気が付きませんでした。不肖の子供で申し訳ありません。

実は先週、大学の部の同期会があり、その席でひとりが ”ジャイ(慶応ではずっとこのあだ名でよばれていました)のお母さんは実に美人ですごくいい人だった”という話を突然はじめ、もちろん同席した仲間25人全部が母を見知っている
わけもなく、話が進むにつれて大笑いで終わったという事件?がありました。その直後に先生からのお便りを頂戴したことになります。暮れにワイフと二人して墓参りをしたばかりでしたし、なんだか妙な気持ちであります。
でも、このグレープルーツの話は本当にほんのりとしていい話ですので、亀岡の快諾も得ましたので、一部、小生の”ブログ”に紹介させていただきます。
改めて、ありがとうございました。いよいよ寒さ本番です。ご自愛いただきますように。

兼高かおるの訃報に接して (44 安田耕太郎)

TBS放映の「兼高かおる世界の旅」は、1960〜70年代よく観た好きな番組であった。学生時代に2年間休学して世界一周貧乏旅行をしたが(1968 – 70)、その決行をドライブした原動力の一つがこの番組であった。他に二冊の本からも影響を受けた。小田実著「何でもみてやろう」(1961)と五木寛之著「青年は荒野をめざす」(1967)。これら三つは全て外国を舞台にした旅行体験談と体験に基づく小説であった。海外旅行一般渡航者の外貨持ち出し額限度が米500ドル(360円/1ドル)であった当時、海外旅行は現実的でない夢のような存在であった。兼高かおるは日印混血の洗練された気品ある女性で、彼女の旅行体験番組に「いつか海外を旅してみたい」と魅了された。
世界旅行の最中メキシコはユカタン半島を旅していて、州都メリダを訪れた。とある現地のおじさんに市内の大学病院に連れて行かれた。会わせたい人がいる、が理由であった。
出て来た白衣を着た威厳に満ちた老人はドクトル・ヴィラヌエヴァ(Villa Nueva – 日本語では新村さんだ) と言った。彼はその病院の院長で、1919年当地にて、勤務していたニューヨークのロックフェラー医学研究所から派遣されて黄熱病研究に従事していた野口英世の助手をしていたとのこと。今からちょうど100年前。遭遇したのが1968年。野口後49年目であった。訪れる日本人など殆どいないメキシコ地方都市、懐かしい想いが強く日本人であれば誰でも、という感じで連れて行かれ、歓待されたのである。会った時ドクトルは多分70歳くらい、野口に仕えていたのが20歳前後ではなかったか。当時野口は42歳。
世界旅行から帰国後、「兼高かおる世界の旅」を観ていてビックリ。ドクトル・ヴィラ・ヌエヴァを訪ねた兼高かおると二人で歓談しているではないか!二年前に会ったばかりのドクトルと。現地では有名人であり、ノーベル賞候補に三度もなった野口英世の助手をしていたことも当然知っての取材撮影であったのだ。ついでながら、野口英世はメリダ滞在から9年後、研究で訪れていたガーナのアクラで研究テーマの黄熱病に罹り客死した、51歳。

メキシコから南下してエクアドルのアンデス山中 赤道記念碑を訪れた際、訪問者サイン名簿に兼高かおるの名前を見つけた。ほぼ同時期の偶然であった。

赤道記念碑 (Ciudad Mitad del Mundo –  スペイン語で世界の真ん中の意)

ナンカナイ会 2019新年会 (36 翠川幹夫)

晴れ空ではありましたが結構寒い「ナンカナイ会新年会」でした。

今年も皆で「タウンウォーク」や主が交代した「新・月イチ高尾山」で楽しく過ごせることを願っています。

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今回の出席は26名、実働人数からすると62%を超える出席率であった。新年会、夏の集まりを設営してくれている翠川・安東・横山トリオの努力にはただ感謝である。