現在の外気温マイナス0度、雲が多いですが時折青空ものぞいています。さて、市内昨晩雪が降りました。薄っすらと積もり、アイスバーンも多く非常に危険な道路状況です。
塩カル散布の道路もありますが、ブラックアイスバーンになっていますと滑りますので安全運転第一です!
旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
小生、1月4日ごろからインフルエンザに罹患し(予防接種は受けていたのですが)、発熱はなかったのですが、消化器症状と咳・痰、更に倦怠感が続いてダウンしていました。しなければいけない仕事は何とか出来るのですが、何となくだるくてやる気があまり出ない。恒例のゴルフ大会も初めて欠席しました。やはり昔と違って、体調不良が長引きますね。でもそんな時は無理せず、今まで以上に身体を休ませることにしています。しかし、先週からゴルフもテニスも復活しました。この「徒然」を再開したのも元気になってきた証拠と思ってください。
年齢と共に、病気とは言えないほどだが、起こってくるものに不眠、便秘、夜間頻尿などがあります。特に70~75歳以上の高齢者には不眠が35%以上、便秘は50%以上、夜間頻尿(夜中に2回以上トイレで起きる)は20%あるいはそれ以上あると言われています。
不眠に対しては、睡眠薬を常用している方もおられるでしょうが、一般的な睡眠薬は認知機能を低下させる可能性があり、お勧めできません。しかし最近の新しい睡眠導入物質には生体内にある比較的無害なものもあります。かかりつけの先生と相談し、古い睡眠薬と少しづつチェンジしていくことも必要です。
便秘も大敵です。年齢と共に筋力ばかりでなく腸管の運動能力も落ちてきます。更に沢山お薬を飲んでいる方はそれが便秘につながらないか主治医に相談してください。また食物繊維や水分摂取不足、合併する病気によっても便秘がひどくなります。先日亡くなられたTさんは高齢女性によくあることですが、なかなか便通のことなどは外来でもおっしゃらない方でした。しかし強い便秘があったようで、トイレで長く息んでおられたのかその直後に普段は高くない血圧が急に上昇したようで、脳出血で亡くなられたとのことです。
夜間頻尿は多くの方の悩みの種ですね。不眠の原因にもなります。しかし市販の漢方薬などでは効果のある方は少ないようです。特に、夕食時の中等量以上のお酒や水分の過剰摂取は出来れば避けるべきです。最近、キッセイ薬品からのミニリンメルトというお薬を出した患者さんに著明な夜間頻尿減少効果がありました。ご本人もびっくりされたほどです。但しこれは副作用も多い薬です。主治医とよく相談して使用可能な場合のみ試しに使ってください。
老化は認知障害ばかりでなく、不眠・便秘・夜間頻尿などの形でも忍び寄ってきます。早めの対応が必要です。 食生活の注意・多量の飲酒制限・出来る範囲で身体を動かすこと・月並みだけれど規則正しい生活・細かい体調変化への早めの対応、なんてもう聞き飽きたかな。
月いち高尾、何回目だったか忘れたが、故後藤三郎の友人で参加していた川名君と映画の話になり、それがきっかけで始めてみたこのシリーズも実に300回になった。各位のご協力に感謝である。記念すべき300号ははからずもかつて名作といわれた作品をめぐって、いわば時代観の相違というべきか、この企画はじまって以来の論戦となった。このあたり、企画のレーゾンデートルだろうと信じて満足している。
(42 保屋野)誰かが云っていましたね。「名作とはツマラナイものと心得よ」掲題エーガはその典型でした。
真珠湾前夜のハワイの陸軍中隊を舞台に、兵士へのイジメ等過酷な世界を描いたベストセラーの映画化らしいですが、脚本がイマイチなのか、面白くも無く、感動も無く(テーマが)良く分からないエーガでありました。
ただ、俳優陣は豪華で、ランカスター、モンティー、の男優陣、カー、リードの女優陣は目の保養になりました。しかし、二組の恋愛劇は超陳腐でランカスターとモンティーの魅力を半減させていましたが・・・これがアカデミー作品賞?・・・私の感受性が(老化により)劣化してるせいなのでしょうか・・・70年前に観たら「傑作」と思ったかも?
(44 安田)外連味の無い160kmストレート、外角低めのストライクの感じです。僕も保屋野さんほど辛口ではないですが、似たり寄ったりです。
小津安二郎の「東京物語」を最初観た時、”なんでこの映画が世界的に賞賛されるのか?” と訝しがったものです。絶賛するドイツの監督ヴィム・ヴェンダース(Wim Wenders) をあまり理解来ませんでした。「地上より永遠に」も同じようなもので、僕のような素人凡人にはその素晴らしさが理解できない極上の代物なのかと思ったものです。ランカスターとカーの波打ち際のラヴシーンは、’50年代当時としては、発想といい、舞台のユニークさといい、2大スターの絡み合いといい、語り草になっていますね。「慕情」のウイリアム・ホールデンとジェニファー・ジョーンズの海岸べりのラブシーンは、もしかすると「地上より永遠に」にヒントを得たのかも?
(HPOB 金藤)「地上より永遠に 」 観ました。 お二人と全く同じ感想です。 出演者にモンゴメリー・クリフトの名前があったのでわざわざ観たのですが・・・プンプン
(編集子)このことについては、まさに年齢のギャップを感じます。
’(保屋野)これまでも、賛否分れた「名作」が多くありましたね。記憶にあるのが、「道」」「パペットの晩餐会」「市民ケーン」「我が谷は緑なりき」「レベッカ」・・・各自の感受性や好み及びこれらを観た年齢等も影響してるのでしょう。評価が分かれるのは当然で、これも「エーガ愛好会」の良さなのでしょうね。満場一致、というのは、「ローマの休日」「大いなる西部」「サウンド・オブ・ミュージック」・・・大傑作と評価の高い「第三の男」や「荒野の決闘」でもイマイチという変人(私?)がいましたね
(普通部OB 船津)中司さん、同感!何か皆様がボロ映画と酷評して居るのに違和感を感じていました。
(33 小川) あらためてプライム・ビデオで観ました。
「バルセロナで豆腐屋になった」定年後の「一身二生」奮闘記(著者:清水建宇、岩波新書、2025年)を読む。
一身二生(イッシン ニショウ)とは、聴きなれない言葉だが、著者によると、この出典は福沢諭吉の「文明論之概略」(1875年)に出て来る言葉のようだ。「方今我国の洋学者流、その前年は悉皆漢書生ならざるはなし、・・・恰も一身にして二年を経るが如く、一人にして両身あるが如し」。(著者:このところの我が国の洋学者たちは、ことごとく以前は漢学を学んでいた人たちである。まるで一つのからだで二つの人生を生きるかのように、一人のなかに二人いるかのように)。こりゃー、まるでR.L.スティヴンソンの「ジキル博士とハイド氏」(1886年)じゃないか(だが、こっちは二重人格か)。小生も、昔、同じ岩波新書(1986年)で、丸山眞男の(「文明論之概略」を読むの上・中・下巻)を読んだ記憶があるが、誠にお粗末ながら、その内容は全く覚えていない。いや、もしかしたらどうにも手に負えなくて上巻の半ばあたりで途中棄権していたのかもしれない。
実は、朝日新聞の記者だった著者が、定年後、バルセロナで豆腐屋になると最終的に決意したのは、伊能忠敬の生涯に触れてからだ(小生、まだ読んでいないが、伊能については、井上ひさしの「四千万歩の歩み」(1990年)、太田敏明の「一身二生」(2018年)などがある)。
千葉の佐原村の大地主であり、広範囲に酒から廻船業までを営む伊能家に見込まれ婿養子になった伊能は、49歳で隠居する時の伊能家の財産を30万両、今の貨幣価値でおよそ75億円にも増やしていたと言われており、極めて有能な事業家として前半生を終えている。以降の後半生は、皆さんご存知のように、16年間で通算10回の測量を行い(4回までは自腹を切って負担)、日本全国を徒歩で調べ、その地図を作製した。当時の平均寿命は40代半ばとみられているが、73歳まで生きている。つまり、伊能は、一身二生そのものを体現しているわけだ。
さて、著者は、一身二生を実現するに当たって、その移住先をバルセロナに決めたわけだが、その決め手となったのは、取材で世界各地を訪れた経験から、唯一、アジアから来た異国人を奇異の目で見られなかったのがバルセロナであったことだ(著者の本音は、終日、拝めるA.ガウディのサクラダファミリアにあったのではないか)。また、移住であれば、何年も暮らすことになる。ところが、バルセロナの豆腐は中国製らしく日本のものとは全く違う代物で、例えば、冷ややっこや湯豆腐で食べることなど出来ない。そして、豆腐大好き人間である著者が何年もそれを食べるのを我慢することも出来ない。さすれば自分で作るしかない、ということで、バルセロナに日本の豆腐屋が誕生することになるわけだ。
著者は、2007年、秋、停年退職し、その後、日本で、スペイン学校に通い、豆腐屋で修業し、中古の製造機械、道具などを購入し、バルセロナで店の物件を探し、改装工事を発注し、労働居住ビザ取得の手続きを進めるなどなど。そんな準備のためにかれこれ3年も掛かって、2010年4月、62歳の時に、晴れてバルセロナに豆腐屋を開くことになる。
豆腐の製造は著者の責任だが、売り場を預かるのは奥さんだ(著者はカミサンと呼んでいるが)。ところが、ほぼ10年後の2020年、何事にも蛮勇を振るって頼りにして来た奥さんの乳癌が再発、転移したことから、治療に専念するため二人で日本に帰国することになった。
その結果、バルセロナの豆腐屋は他の日本人に引き継いで貰うことなり、後日談だが、著者によると、この豆腐屋は、その後、益々発展しているようだ。しかし、それに引き換え、悲しいことに奥さんは亡くなってしまう。
「おわりに」で述べているように、著者は、一身二生するためには、用意周到が必須条件である冒険者の心得が足りなかったと反省する。例えば、バルセロナの豆腐事情すらよく調べず、アジアからの輸入品やドイツ、スペイン製が沢山出回っていることも知らず、突進し、お客の動向をつかめず、多くの人を雇って資金繰りで苦しんだ、などなど。しかし、一方、その冒険の甲斐もあった。新たに大勢の友人を得、沢山の事を教えられ、学び、喜びを分かち合うことが出来た。「心穏やかな日常」は手放したが、それに勝るとも劣らない「宝物」を貰ったのだ。
(HPOB 小田篤子)私の読みたい本のメモにも載せていた、「バルセロナで豆腐屋になった」
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一身にして二生を経る 森岡清美(成城大学名誉教授)
「一身にして二生を経るが如し」とは、福沢諭吉(1835-1901)が『文明論之概略』(1875)の緒言で漏らした述懐である。二生とは二つの生涯のこと、今生と後生あるいは前生と今生をいう。前生はこの世に誕生する前の生、後生は死後の生であるから、現在の一身では今生だけしか経験できないところ、前生と今生の二生をこの一身で経験するような人生であると、諭吉は述懐したのである。彼は中津藩士の家に生まれ、蘭・英両語学力で幕臣として出世コースに乗ったが、明治維新以後は仕官せず、慶応義塾を創立して日本の教育・言論・思想に大きな影響を与えた。維新後を今生と把握すれば、それ以前は前生というべき落差のあることを、60歳を超えた晩年の回顧ではなく、早くも40歳で実感していることも注目に値しよう。
ホットウイスキートウデイ (Hot Whisky Today)
お好みのウイスキー30ml(濃さはお好みで)
角砂糖1個 または同じくらいの量の砂糖 又はハチミツ
レモンスライス1枚
クローブ2、3個(レモンスライスに差し込む)
上記の材料を耐熱グラス またはコーヒーカップなどに入れ、熱いお湯を注ぐ。
ス子ットランドでは風邪を引いたときに飲まれるほど、
(編集子)小生が風邪気味の夜愛用してきているミックスはこういう名前で呼ばれると知って満足。ただしクローブ、なんて高級なものは入れてない。
(風邪がひどいときはこれを飲んだあと、布団を重ね、部屋をガンガン暖めてパジャマがびっしょりになるくらい汗をかくのがいい。もっともこの療法は体力も消耗するので、最近はやっていないが)
KWV44年卒閑人会恒例の七福神巡りの報告があり、昔懐かしさ
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過去2000~2020年にお参りした七福神を羅列すると、日本
怪獣ゴジラは立ち上がり吠えていた。真っ白な雪のコジラである。雪の闇夜で樹氷の恐竜の群れにとり囲まれた。そこは雪の蔵王にある樹氷のジュラシックパークである。
蔵王の樹氷原はライトアップされた幻想的な大自然の美術館になった。暗黒の雪原に真っ白な巨大な肖像が次々と現れていく。大魔神は繊細なガラス細工の鎧を着ていた。お洒落な伊達武者。
蔵王の守護神である樹氷巨人「スノーモンスター」だった。
老夫婦は冷蔵庫を探索するような極限の寒さの中、南極越冬隊の姿になりふるえながら樹氷アートを楽しんだ。樹氷は世界的にも珍しい気象現象であるという。シベリア大陸からの季節風が蔵王連峰にぶつかり、多量の過冷却水滴と雪が常緑針葉樹のアオモリトドマツに長時間吹きつけることで生まれる。大きくなった樹氷は「スノーモンスター」と呼ばれるが、「ゴジラ」にそっくりだった。
カラフルな光に照らされ、漆黒の闇の中に浮き上がる樹氷の姿は、ファンタジーの世界に迷い込んだようだ。キャタピラ付き雪上車「ナイトクルーザー号」は、ライトアップされた樹氷群を雪煙を上げながら登っていく。樹氷が造り出した幻想的な大自然のアートを堪能した。蔵王は樹氷の芸術家だった。
「樹氷のビーナス」と「樹氷の微笑」は発見出来なかったが、蔵王温泉の湯と地酒ホットワインで満足できた。
(42 河瀬)スノーモンスターパークの写真。光の陰影が素晴らしい。
まったくの偶然から外資系会社でサラリーマン生活を終え、その結果、曲りなりも英語に親しみ、アメリカ(より正確に言えばその西部地域)の文化を知ることができた。かの国がいくら日本に近いといっても、こういう経験を持つ人は、たとえば若くして留学するとか、家族が米国にいたとかの例外を除けば、まだまだ少ない。一部の人が信じているように,英語がわかれば人間の格があがったような論説には組しないが、とにかく退職後もそのレベルを維持しようと、いろんなことをやってみた結果、読書マニアである自分にとって一番親しみやすいのが趣味のミステリを中心とした小説を読むことが性に合っているとわかったので、ポケットブックの乱読を続けてきた(こうなるとアマゾンはありがたい)。推理小説発祥の地英国の古典的作家たち、その影響を受けてニューヨークを中心とする地域でアメリカ推理小説が勃興し、それの発展というか反作用的に生まれたいわゆるアメリカンハードボイルド、いろいろつまみ食いして毎日を楽しんでいる。
僕はもちろん言語学者でも専門家でもないが、素人なりに、英国発のものと米国産のものの英語、が違うものなのだ、ということがわかりだした。もちろん国にかかわらず、1920年代の英語が21世紀の今日と違うのは当たり前なのだが、ミステリの女王アガサ・クリスティの登場人物の会話や、同じころNYで書かれたエラリー・クインの英語と、現代のHBやスリラー、たとえば本稿で小泉さんが取り上げられたリー・チャイルドなんかの文章には大きな違いがある。第一、現代ものには、辞書を引かなければ見当もつかない難解語、big word はまず出てこない。はばかりながらサラリーマン卒業後取得した英検一級必須のボキャブラリーでまず十分なのだが、今挑戦しているクイーン国名シリーズなんかには、およそ想像もつかない単語だの、フランス語だの、時にはラテン語なんかがしょっちゅう出てきて、それが当時の知識階級の会話なんだ、と改めて時の流れを知る羽目になる。
そんなことを背景に現時点では小生の余命との競争なのだが今やっている ポケットブック20万ページ読破(10万は昨年突破)は夢でもあり大げさに言えば生きがいである。しかしそれなりに何年学んでいても、判然としない、よく間違えるのが、依然として単数、複数の用法だ。日本語との懸隔、は大きいのだが、それでもドイツ語だイタリー語ださらにはフランス語なんてのに比べればまだ楽なのは体験済みなんだが。
カリフォルニアにいたころ、高速道路をがたがたの、確かフォードだったと思うが、壊れかけたやつを自分で手入れすることを趣味にしているらしい若者の後ろについたことがある。バンパーのひしゃげた後に何か書いてある。ちかづいてみたら、MY ANOTHER CAR IS PORSCHE とあった。思わず吹き出してしまい、持ち主のセンスに感心した。この時、ANOTHER という単語が OTHER だったらどんなことになるか、考えてみた。another は明確に もうひとつの という意味だ、と辞書にあるから、彼は車を2台持っていることを意味するんだろう。だから Porsche でいい。もし3台もっていたら another とはいえないから、other というんだろうな。そうすると その2台ともポルシェなら MY OTHER CARS ARE PORSCHES と書くんだろうか。ポルシェ、なんていう固有名詞も複数形にするんだろうか。このあたりがどうもすっきりしなかった。
文法書というものが大嫌いな性格なので、それっきり疑問も消えてしまっていたのだが、帰国後の会社で、セールス担当者に1台ずつクルマを持たせる、という方針ができた。今では当たり前のことだが、当時としてはこんな待遇をしている会社はそうはなかったのだ。このあたりはいわば進駐軍としてアメリカ本社の威光をバックにした米人マネージャだからできたことだった。それはともかく、彼の話を聞いていたら、We purchase 20 Toyotas と言っている。そうか、それならあの時の答えは MY OTHER CARS ARE PORSCHES だったんだ、とうなずいた。その間に考えてみたら3年かかって違和感がなくなった。もっともあの青年のひしゃげたバンパーにそんな長い文章が書けたかどうかは別だが。
この間、テレビの番組でだいぶ古いんだがポール・ニューマン主演の 動く標的 というのをやっていた。何度目かになるのだが、愛読書#1のロス・マクドナルドの代表作、とっくりとみた。主演のニューマンは過去に不幸な結婚をして現在独身、という設定なのだが、悪党どもに追い詰められて逃げ場がなくなり、元妻の家に転がり込む。まだ気持ちが整理されていない彼女はそれでも翌朝には昔通りの朝食を作って待つ。別室から起きてきたポールはそのまま、また街へ飛び出して行ってしまう。ドアが閉まった後、彼女は作ってあった二皿のベーコンエッグにフォークを何度も突き刺してため息をつきながらすべて捨てる。このあたりの描写が実にこころにひびくのだが、アメリカ西部のしきたり通り、その皿の上に卵は2個、焼かれていた。この時の料理はさて、Bacon and egg なのか Bacon and eggs なのか。卵が2こあるから eggsは納得しても、ベーコンだって明らかに2枚はある。それでも bacons にはならないのか。
先週、孫をふたりつれて、なじみのバーへ行った。大学生なり立て、社会人なり立ての二人に、大人の雰囲気の感じられるバー、というものを教えたかったからだ。バーテンを趣味としてやっている(本業はさる大手会社の中堅エンジニアなんだがこういう時はバーの向こう側に立つのが趣味、という快男児である)S君は同時にバー業界の専門資格の持ち主でもある。ここでそうだ、on the rock なのか on the rocks なのか、確かめてみようと思っていたのだが孫に付き合って、ジントニック (ス、がいるのか?なんては考えなかったが)などに酔いしれてすっかり忘れてしまった。ま、三世代家族でバーのスツールにすわれるのは日本ひろしといえどもそうはいないだろうから、ま、いいとするか。
(バー ”アンノウン” オーナー 川島恭子) ご質問のオンザロックは、英語ではOn the Rocks と表記されます。元々は複数の氷を岩に見たてたのが理由です。今は丸氷を使うことが多いのと、
ノンフィクション、「力動山 未亡人」(著者:細田昌志、小学館出版、2024年)、「力道山」(著者:斎藤文彦、岩波新書、2024年)を読む。
力道山([相撲とは、力の道なり]がその名前の由来)は、戦後の一時期、正に日本の英雄だった。しかし、その力道山(本名:百田光浩)とは、一体、何者だったのだろうか。以下、小生の思い出と共に、その読後感を述べることとする。
日本では、戦後の1949年、中間子の存在を予言した湯川秀樹がノーベル物理学賞を授与されたが、当時、11歳の小生を含め、殆どの人にとってその本当の価値が分かるわけがない。一方、勝ち負けがはっきりして分かり易いスポーツの面では、以下の様に惨憺たる有様だった。同じ1949年、日本のプロ野球は、米国のマイナー・リーグに属するサンフランシスコ・シールズに0勝6敗と完膚なきまでに叩きのめされ、戦前、五輪三連覇を成し遂げた陸上の男子三段跳では、1952年ヘルシンキ五輪で、1936年、田島直人が出した世界記録16m00を実に1m以上も下回る14m 台で6位と惨敗し、それまで数々の世界記録を打ち立てていた水泳の古橋広之進が男子400m自由形でビリッケツに終わるなど、全く意気の上がらない状況だった。
それに取って代わって、全く新しいスポーツであるプロレス(プロフェッショナル・レスリング)が、NHKに加えて、テレビが民間に開放されたことと相俟って、爆発的な人気となった。その理由は、言うまでもなく、1954年のプロレスのタッグ・マッチで、日本人である力道山が米国のシャープ兄弟を完膚なきまでに叩きのめしたからだ。つまり、敗戦国の日本が戦勝国の米国をやっつけたわけであり、当時、これほど胸のすくことはなかった(しかし、後に分かったことだが、実態は、朝鮮人とカナダ人、外国人同士の争いだった)。従って、テレビの受像機がまだ極めて珍しかっただけに、例えば、お寺の境内で、それこそ立錐の余地もなくプロレスに見入っていた群衆の中に小生も混じっていた。終わって、気持ちが浄化され(カタルシス)、下駄を踏み鳴らして意気揚々と帰途に就いたものだ。それは学生の小生に限らず、境内にいて高揚したひと全てがそうであって、人口増のボーナスと相俟って、いささかなりともその後の高度経済成長に寄与したのではないだろうか。
さて著書「力道山」だが、左巻きの岩波書店から発行された岩波新書であるだけに、極めて斬新な力道山像が生み出されるものと期待していたが、何の取柄もなく、結果は大失望。これは、購入して損をした数少ない書籍となったのは甚だ残念としか言いようがない。
一方、著書「・・・未亡人」の方は、知らないことばかりだったこともあって、大変、面白く一気呵成に読了した。力動山の未亡人(田中敬子)は1941年6月6日に生まれた。従って、1938年生まれの小生と三つ違いであり、ほぼ同年代を過ごして来たことになる。現在、彼女は存命中で、無聊を託つことから、水道橋は新日本プロレスの「闘魂ショップ」で働いている。
彼女は横浜市で生まれた。少女時代から学業優秀で、高校卒業後、発足間もない日本航空の客室乗務員となった彼女は、誰もが知るスーパースター(力動山)に見初められ、21歳で結婚する。すなわち、正真正銘のシンデレラだ。しかし、力道山はヤクザとの乱闘で、1963年12月15日、刺殺され(つまり、力道山のプロレス人生は光芒一閃、僅か10年ほどで終わってしまう)、その結婚生活はたったの半年で終わり、早くも22歳にして未亡人になってしまう。つまり、借財も含め、力道山の資産を相続することになるのだが、事業意欲誠に旺盛だった力道山が残した負債は都合して30幾円にも達していた。しかし、力道山と違って、彼女は商才に乏しく、辛うじて資産の切り売りで借金を返済し、結局、残ったのは、彼女が住むリキ・マンション(旧リキ・パレス)のみとなってしまう。
その他に、力道山の弟子であるアントニオ猪木とジャイアント馬場の角逐(力道山は、弟子に対しては今で言うパワハラが凄まじかったが、弟子の中では、猪木をアゴと呼んで、一番可愛がっていた)、それと並んで、日本プロレス、新日本プロレスなど、プロレス界の勢力争いなどが述べられているが、小生が最も衝撃を受けたのは、本書の帯にあるように、「戦後日本の闇の深さを際立たせることに成功した、・・・」。つまり、1965年初頭まで、プロレスの興行を取り仕切るのは、広域指定暴力団、東は東声会、西は山口組によって独占され、暴力団の資金源となっていた。力道山が創設した日本プロレス協会の会長が児玉誉士夫、副会長が山口組組長の田岡一雄、東声会会長の町井久之(本名:鄭建永)ではそうならざるを得なかった。
小生にとって力動山は、悪玉(例えば、カナダのシャープ兄弟など)を空手チョップでやっつけるヒーローだった。だが、事前の台本と違って、柔道の木村政彦を本気で叩きのめしてから、プロレスは出来レイスであって、見世物であることが明明白白となり、また、力動山が北朝鮮出身の朝鮮人(金侘洛)であることが明らかになるなど、小生のプロレスに対する興味は完全に消え失せてしまった。
ここまでは半世紀以上前の話しだが、さて、今、そのプロレスはどうなっているのだろうか。
(HPOB 菅井)慶応高校が2008年に46年ぶりに夏の甲子園(
卒業後は三菱商事に就職し、その後スペインのビジネス・
(44 安田)僕はシャープ兄弟 vs 力道山・遠藤幸吉 のタッグマッチ試合を郷里の小倉で試合会場のリング近くで観まし