乱読報告ファイル (70) バルセロナで豆腐屋になった   (普通部OB 菅原勲)

「バルセロナで豆腐屋になった」定年後の「一身二生」奮闘記(著者:清水建宇、岩波新書、2025年)を読む。

一身二生(イッシン ニショウ)とは、聴きなれない言葉だが、著者によると、この出典は福沢諭吉の「文明論之概略」(1875年)に出て来る言葉のようだ。「方今我国の洋学者流、その前年は悉皆漢書生ならざるはなし、・・・恰も一身にして二年を経るが如く、一人にして両身あるが如し」。(著者:このところの我が国の洋学者たちは、ことごとく以前は漢学を学んでいた人たちである。まるで一つのからだで二つの人生を生きるかのように、一人のなかに二人いるかのように)。こりゃー、まるでR.L.スティヴンソンの「ジキル博士とハイド氏」(1886年)じゃないか(だが、こっちは二重人格か)。小生も、昔、同じ岩波新書(1986年)で、丸山眞男の(「文明論之概略」を読むの上・中・下巻)を読んだ記憶があるが、誠にお粗末ながら、その内容は全く覚えていない。いや、もしかしたらどうにも手に負えなくて上巻の半ばあたりで途中棄権していたのかもしれない。

実は、朝日新聞の記者だった著者が、定年後、バルセロナで豆腐屋になると最終的に決意したのは、伊能忠敬の生涯に触れてからだ(小生、まだ読んでいないが、伊能については、井上ひさしの「四千万歩の歩み」(1990年)、太田敏明の「一身二生」(2018年)などがある)。

千葉の佐原村の大地主であり、広範囲に酒から廻船業までを営む伊能家に見込まれ婿養子になった伊能は、49歳で隠居する時の伊能家の財産を30万両、今の貨幣価値でおよそ75億円にも増やしていたと言われており、極めて有能な事業家として前半生を終えている。以降の後半生は、皆さんご存知のように、16年間で通算10回の測量を行い(4回までは自腹を切って負担)、日本全国を徒歩で調べ、その地図を作製した。当時の平均寿命は40代半ばとみられているが、73歳まで生きている。つまり、伊能は、一身二生そのものを体現しているわけだ。

さて、著者は、一身二生を実現するに当たって、その移住先をバルセロナに決めたわけだが、その決め手となったのは、取材で世界各地を訪れた経験から、唯一、アジアから来た異国人を奇異の目で見られなかったのがバルセロナであったことだ(著者の本音は、終日、拝めるA.ガウディのサクラダファミリアにあったのではないか)。また、移住であれば、何年も暮らすことになる。ところが、バルセロナの豆腐は中国製らしく日本のものとは全く違う代物で、例えば、冷ややっこや湯豆腐で食べることなど出来ない。そして、豆腐大好き人間である著者が何年もそれを食べるのを我慢することも出来ない。さすれば自分で作るしかない、ということで、バルセロナに日本の豆腐屋が誕生することになるわけだ。

著者は、2007年、秋、停年退職し、その後、日本で、スペイン学校に通い、豆腐屋で修業し、中古の製造機械、道具などを購入し、バルセロナで店の物件を探し、改装工事を発注し、労働居住ビザ取得の手続きを進めるなどなど。そんな準備のためにかれこれ3年も掛かって、2010年4月、62歳の時に、晴れてバルセロナに豆腐屋を開くことになる。

豆腐の製造は著者の責任だが、売り場を預かるのは奥さんだ(著者はカミサンと呼んでいるが)。ところが、ほぼ10年後の2020年、何事にも蛮勇を振るって頼りにして来た奥さんの乳癌が再発、転移したことから、治療に専念するため二人で日本に帰国することになった。

その結果、バルセロナの豆腐屋は他の日本人に引き継いで貰うことなり、後日談だが、著者によると、この豆腐屋は、その後、益々発展しているようだ。しかし、それに引き換え、悲しいことに奥さんは亡くなってしまう。

「おわりに」で述べているように、著者は、一身二生するためには、用意周到が必須条件である冒険者の心得が足りなかったと反省する。例えば、バルセロナの豆腐事情すらよく調べず、アジアからの輸入品やドイツ、スペイン製が沢山出回っていることも知らず、突進し、お客の動向をつかめず、多くの人を雇って資金繰りで苦しんだ、などなど。しかし、一方、その冒険の甲斐もあった。新たに大勢の友人を得、沢山の事を教えられ、学び、喜びを分かち合うことが出来た。「心穏やかな日常」は手放したが、それに勝るとも劣らない「宝物」を貰ったのだ。

(HPOB 小田篤子)私の読みたい本のメモにも載せていた、「バルセロナで豆腐屋になった」の感想読ませて頂きました。

海外のお豆腐は、甘かったり、硬かったりしますが、その地の人の好みもあり、開業するまでの経緯を知りたいと思いました。東京タワーの下にもある「とうふ屋うかい」が我が家から近い所にあり、時々利用しています。ちょうど我々の年齢にはお豆腐料理は食べやすくて良いですね。
✩私も見たいと思っていた《蔵王の樹氷》に斎藤カメさんご夫妻が先頃行っていらしたようですが、夫の勘違い?もあり、我々は八甲田の樹氷や函館に来月行くことになりました。
函館では、本「レイモンさんのハムはボヘミアの味」のレイモンハウス(歴史展示館)に行く予定です。
こちらはボヘミア(カールスバート)生まれのカール·レイモンさんが北欧、ドイツ、パリ、アメリカ、日本、カムチャッカ等を経て、函館で勝田旅館の娘と巡り会います。
駆け落ちのように結婚し、祖国や満州、北海道等で色々な悲しい出来事を体験し、最後は函館でソーセージ作りで成功する…というジェットコースタードラマのような実話です。

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一身にして二生を経る  森岡清美(成城大学名誉教授)

 「一身にして二生を経るが如し」とは、福沢諭吉(1835-1901)が『文明論之概略』(1875)の緒言で漏らした述懐である。二生とは二つの生涯のこと、今生と後生あるいは前生と今生をいう。前生はこの世に誕生する前の生、後生は死後の生であるから、現在の一身では今生だけしか経験できないところ、前生と今生の二生をこの一身で経験するような人生であると、諭吉は述懐したのである。彼は中津藩士の家に生まれ、蘭・英両語学力で幕臣として出世コースに乗ったが、明治維新以後は仕官せず、慶応義塾を創立して日本の教育・言論・思想に大きな影響を与えた。維新後を今生と把握すれば、それ以前は前生というべき落差のあることを、60歳を超えた晩年の回顧ではなく、早くも40歳で実感していることも注目に値しよう。