ギボウシは見返り美人か    (41 斉藤孝)

 軽井沢の小さな山野草の庭で擬宝珠(ギボシ)の『見返り美人』から歓待された。

ギボウシは『見返り美人』であると妄想した。

背筋をすっと伸ばし首筋が綺麗だ。まっすぐ伸びた茎は、乙女の細いうなじのようで気品がある。その優美な茎先に筒状の花をいくつもつける。

浮世絵師「菱川師宣」は、女性を美しく見せる演出法として、歩みの途中で後方に視線を送る姿を描いた。「モナリザの微笑」にも匹敵できるような演出である。

乱読報告ファイル (60)花衣ぬぐやまつわる・・わが愛の杉田久女 (普通部OB 菅原勲)

「花衣ぬぐやまつわる・・・」副題:わが愛の杉田久女.。

小生、俳句については一見識もない。では、何故、女性俳人の杉田久女(久が本名。以下、久女)を知ったかと言うと、かねがね愛読している、日経は土曜の夕刊、最終面の「文学周遊」に久女のことが載っていたからだ。それも、彼女の俳句ゆえの話しではなく、彼女に対する毀誉褒貶の評価に、大変、興味をそそられたからに他ならない。

久女は、大蔵省の書記官を父に、鹿児島で1890年に生まれた。その父親の転勤に伴い、沖縄、台湾などで幼少期を過ごし、東京女子高等師範学校(今のお茶の水女子大)付属高等女学校を卒業後、19歳で、東京美術学校(今の東京芸術大学)を卒業し、小倉で美術教師をしていた杉田宇内と結婚する。俳句に慣れ初め出したのは、26歳の時、兄で俳人でもある赤堀月蟾から句を学び、以降、俳誌「ホトトギス」に数多の句を投稿した。

しかし、夫の宇内は、久女が俳句に夢中になることを好まず、一方、彼女には二人の娘の面倒を見る必要があり、しかも、女中がいないとあっては、誠に厳しい生活環境にあった。逆に、そう言う環境にあったからこそ、そこからの一種の逃避手段として、生き甲斐である俳句に徹底的に拘ったとも考えられる。しかし、一方では、「ホトトギス」の同人となりながら、敬愛する師、高浜虚子から、突如として除名されるなど、不幸な運命を辿ることにもなる。やがて、連夜の空襲の中、自身の句稿を抱えて防空壕にうずくまる日々。そして、戦後となり、心のバランスを崩した久女は、精神病院に入院、食糧難にも苛まれ、55歳で鬼籍に入る。彼女の生前に果たせなかった句集の出版は、娘の石昌子に引き継がれ、「杉田久女句集」として、1969年、角川書房から出版された。

確かに、田辺は久女の生き方に寄り添っているが、「尊敬すべき見識と教養を人にも認められながら、それが人と人とをつなぐ親和力にならず、かえって敬遠されていくという不幸」があったと述べている。小生は、久女には一本気なところがあり、加えて、人付き合いに不器用なところがあることから、それらが誤解を招く原因になったのではないかと推測する。例えば、俳句仲間のお宅を訪問し、話し込んで長っ尻となることから、自分から勝手に弁当を持参するなど、結局、以降、出入り禁止となってしまう。

また、松本清張の小説「菊枕」(1953年)、吉屋信子の小説「底のぬけた柄杓 憂愁の俳人たち」(1963年)中の「私の見なかった人(杉田久女)」などで久女を言われもなく貶めているいい加減さが、後年の虚実入り混じった久女像の固定化に大きく影響した面もあろう。中でも吉屋の作品については、田辺は「ありていにいって、半分よたっぱちである」と酷評している。しかし、致命傷となったのは、師匠とも目していた虚子の彼女を狂人扱いにした(彼の著書「国子の手紙」、1948年)、それこそ正に嘘っぱちが人口に膾炙してしまったことが、彼女の句ではなく、久女を遠ざける風潮の源になったのではないか(確かに、久女は、短期間の間に、200通余りの手紙を虚子に送りつけている。しかし、解説を書いた作家の山田詠美は、それらの手紙を読んで、「私は、久女が、それほど、精神に異常をきたしていたとは思えない」と述べている)。だが、田辺のこの「花衣・・・」が彼女の名誉を完全に回復したのは間違いない。これは、小生の全くの憶測だが、虚子は、豪放磊落な人だったようだが、その本心は、久女の溢れんばかりの才能に激しく嫉妬し、我を忘れて嫉んでいたのではないか。それがこう言う彼女を「ホトトギス」の同人から除名し、更に必要以上に貶める発言になったのではないかと思われる。

田辺は「わが愛の杉田久女」と呼んでいるが、小生は、「我が愛する杉田久女」と呼びたい(山田は、「読みながら、何度も、久女の写真を見返した。彼女は、とても美しい顔をしている」)。

ここで、彼女の代表的と思われる俳句(小生にはそれを評価する術が全くないので、この欄で挙げられている句に止めておく)を列挙しておく。

「花衣ぬぐやまつわるひもいろいろ」。

「鯉を料るに俎せまき師走かな」。

「谺して山ほととぎすほしいまま」。

「朝顔や濁り初めたる市の空」。

以下は、田辺と解説を書いた山田が、最も心ひかれ、愛する句として挙げている。

「甕たのし葡萄の美酒がわき澄める」。

 

杉田 久女(すぎた ひさじょ、1890年明治23年)5月30日 – 1946年昭和21年)1月21日)は、鹿児島県出身の日本俳人[1]。本名は杉田 久(すぎた ひさ)。高浜虚子に師事[1]長谷川かな女竹下しづの女とともに、近代俳句における最初期の女性俳人で、男性に劣らぬ格調の高さと華やかさのある句で知られた。家庭内の不和、師である虚子との確執など、その悲劇的な人生はたびたび小説の素材になった。

 

エーガ愛好会 (337) それでも アラスカ魂 を見ましたよ (HPOB 小田篤子)

皆さんのメールをもとに、とても楽しく観ました。

特に喧嘩の場面!
お酒も溢れめちゃめちゃな酒場、やぎ?もドンドン飛び出すぬかるみの道路での泥だらけの喧嘩。
金鉱の水路でびしょ濡れになる喧嘩…。
俳優たちは大変だったことと思います。
宝田明似のような?ジョージが、彼女の為に作っておいた小屋がとても素敵です。
カーテン、ベッドも可愛いらしく、背景もすばらしい!
前に川が流れ、木々の向こうの山の上には、夜はオーロラが!
このところ話題のアラスカでもゴールド ラッシュがあったのですね。
飯田さんのおっしゃる通り、犬の表情、行動が印象的でした。
先月、Netflixで、実話に基づく「レスキュー·ドッグ·ルビー」を観ました。いたずらをしたり、感動させたりと活躍していました。
知的な綺麗さのジェニー役《キャプシーヌ》はスタイルの良さと名前から、やはりフランスのモデルさんでした。
ヘンリー・ハサウェイは『西部開拓史』や『勇気ある追跡』の監督でもありますね。
(編集子)騒動はあったけど、楽しんでいただいて安堵。殴り合いの壮絶さ、では小泉さんも書いておられる、”スポイラース”、コミカルタッチでは ”黄色いリボン” のヴィクター・マクラグレンを思い出します。
日本映画では僕が見た範囲は限られてますが、裕次郎と二谷英明の “俺は待ってるぜ” のラストの乱闘シーンがよかったかなあ。女性にも乱闘シーンがアピールするんですね。
セーブゲキなら、かの ”シェーン” でのアラン・ラッドとベン・ジョンスンの殴り合いも見ごたえあったなあ。

エーガ愛好会臨時版 アラスカ魂のオソマツ

(編集子)今朝お知らせした ”アラスカ魂” 売り込みの件。ジョニー・ホートンの主題歌についてはおしらせどおり、軽快な、 聴いていて愉快なものであることは間違いないのですが、ストーリーは実はグレゴリー・ペック主演の ”世界を彼の腕に (World in his arms)とごっちゃにしていました。こちらはロシアが誤解から宝庫アラスカをアメリカに叩き売った史実を絡めた、面白い作品です。いやーお恥ずかしい(恥ずかしいので写真もちいさい)。

(安田)日本で公開された直後に映画館で観ました。65年前の昔です。同時期にジョン・ウエイン主演の「アラモ」(1960年公開)も観ましたが、どっちが先だったか覚えていません。アラモは歴史にも知られたそのストーリーをおおよそ覚えていますが、「アラスカ魂」は主題曲の印象が強烈で忘れ難いのだが、ストーリーは殆ど覚えていません。マッチョのウエインらしからぬコメディ調だったのは微かに覚えています。再々見して、小泉さんの名解説の内、特に次の部分がこの映画の本質を突いていると思います。

≪冒頭のジョニー・ホートンによる主題歌North to Alaskaのメロディは懐かしく、歌詞が物語を説明して呉れている。監督はヘンリー・ハサウエイ、この監督の西部劇何本観ただろう。冒険活劇やさまざまのジャンルの映画、どれをとってもつまらない映画は皆無。監督作品の多さは職人監督と悪口を言われたこともあるが、職人こそが、映画の面白さを提供して呉れる。その点では「カサブランカ」を作ったマイケル・カーティスと双璧と言える≫

ところで、この映画のジョン・ウエイン、キャプシーヌ、シュチュワート・グレンジャーに続く、第4の主演者はワンちゃんだと思います。犬種が分からないのですが、西部劇には時々出てくるテリア系の犬と思いますが、何せ、主役のセリフや動きに反応して可愛らしい限りです。

(飯田)映画のタイトルを間違えたと言われますが、この ”世界を彼の腕に (World in his arms)“こそ、隠れた2流映画の名作ではないかと私はジャイ大兄の記憶力に脱帽します。この映画は私の記憶の限りにおいてテレビでは放映されたことは近年無い筈です。それを覚えておられる記憶力、この種の驚きこれまでも時々あるのですが脱帽です。この映画を自分は観たか観てないのか記憶の外にある映画です。

グレゴリー・ペックが「頭上の敵機」や「キリマンジェロの雪」の後、「ローマの休日」の前に撮った映画の筈です。

(小川)今録画見てる、これはこれで面白いよ!

(小泉) ジョン・ウエインが、英国の美男スチュアート・グレンジャーと仏国の美女キャプシーヌと共演した珍しくもコミカルな西部劇。5年前放映されたときに書いた感想ですが、其の侭送らせていただきます。

ゴールドラッシュ華やかな頃のアラスカ。シアトルから来たジョン・ウエインはスチュアート・グレンジャーとフェビアンの兄弟と一山あて、ウエインは一旦シアトルへ帰り、グレンジャーを裏切ったフィアンセの身代わりバーで知り合ったキャプシーヌを連れて帰る。ここからキャプシーヌをめぐるウエインとグレンジャーの鞘当てやら、金鉱をめぐる詐欺師アーニー・コバックスとの争い等を呑気なテンポでコミカルに描く。冒頭のジョニー・ホートンによる主題歌North to Alaskaのメロディは懐かしく、歌詞が物語を説明して呉れている。ジョン・ウエインとしては、コミカルな役を熱演している。ジョン・フォードの「静かなる男1952」、フォードの作風を受け継いだと言われるA・V・マクラグレンの「マクリントック1963」でコミカルな味を出してはいたが、これは全出演作の中で、異色の地位を占めるのではないか。ウエインがグレンジャーのために連れてきたキャプシーヌを愛し始めてきた場面、グレンジャーとキャプシーヌが小屋の中、ウエインは気が気でないが、入るわけにもいかず、地団駄踏む場面は、ウエインらしからぬコメディアンと化したのだった。西部劇としては珍しく、銃で人を殺す場面にお目にかからず、何かあると喧嘩!喧嘩を始めると、周りの野次馬まで触発、喧嘩もコメディとして不可欠な要素なのだ。その喧嘩の場面場面、倒れ方から、倒れることによって壊れるものものには種々の工夫が凝らされていた。

アラスカを舞台とした西部劇「スポイラース1942」の姉妹編でもあり、前年作られた「リオ・ブラボー1959」も意識していたかも。監督はヘンリー・ハサウエイ、この監督の西部劇何本観ただろう。冒険活劇やさまざまのジャンルの映画、どれをとってもつまらない映画は皆無。監督作品の多さは職人監督と悪口を言われたこともあるが、職人こそが、映画の面白さを提供して呉れる。その点では「カサブランカ」を作ったマイケル・カーティスと双璧と言える。

ジョニー・ホートン英語John LaGale Horton、1925年4月30日-1960年11月5日)は、アメリカカントリーミュージックホンキートンクロカビリー歌手ミュージシャンであった。

(編集子)”世界を彼の腕に” DVDはアマゾンにありました! これを買ってればこんな間違いはしなかったのに。遅まきながらちと高いけど買います。

エーガのあとはカクテルなどいかが   (バー アンノウン オーナー川島恭子)

image0.jpeg水色のカクテルは、ブルーマルガリータです。
テキーラ40ml
レモンかライムを絞ったもの15ml   ブルーキュラソー5ml
シェイクする
☆グラスのふちをレモン等で濡らして塩をつける
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🤎今期初めての 梨のカクテル🤎
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梨のフローズンカクテル
梨1/3
クラッシュアイス1/2カップ(氷を布巾にくるみ ビニール袋に入れ すりこぎ等 硬いもので砕く)
梨のリキュール10ml
ウォッカ20ml〜30ml
ブレンダーで滑らかにする。
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桃のカクテルは、ベネチアのハリーズバー発祥の 🔸ベリーニ🔸が有名です。カルパッチョ発祥の店でもあります。(牛肉のカルパッチョ)
今でも観光客は ベリーニとカルパッチョをオーダーすると ハリーズバーに行った方からお聞きしました。
ベリーニ
桃1/2
シャンパン(スパークリングワイン)20ml〜30mlぐらいをブレンダーでピューレ状にする
桃のピューレをグラスに入れ 少しづつシャンパンを混ぜながら注ぐ(かなり泡が出るので気をつけて注ぐ)
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※桃は変色が早いので手早く作る)
こんなに暑い夏が続くのは初めてですね!
先月は、人生初めの夏バテで 体調を崩したので、今月は週休3日にして のんびりと営業しています。

訃報

ここの所、親しかった友人やら先輩の訃報が多い。自分自身の終焉も遠くはない年齢になってみると余計に敏感になっているのだろうか。

本稿でも何回か触れた愛読書のひとつ、北方謙三の ”ブラディドール” シリーズ全10冊の終わりの方で、主人公が親友を亡くす場面がある。その時、主人公が自分に言い聞かせるようにいうセリフが小生にこの ”別れ” について唯一納得できる解答のように思える。

”俺たちにできるのはあいつを覚えていてやることだけさ”

葬儀に列席すると,納棺の前の ”故人と最後のご対面” という儀式、小生はこれが好きではない。故人との付き合いが深いほど、その思い出がデスマスクを見ることによって薄れてしまうのが耐えられないからだ。

Mがなくなったのは時悪しくコロナの最盛期で、多くの場合葬儀自体が難しく、遺族も弔問客への伝染をおもんばかって会葬を制限してしまうことが多かった。普通部時代からの親友Kの場合もそうだったが、Mの一番の友達だ、と思っている自分にもご遺族のご意向で葬儀への出席はかなわなかった。

翌日、夫人から奴のご遺体が自宅にあるから、来てほしい、と電話があった。タクシーを飛ばせば30分とかからないのだが、俺は行かなかった。死に顔を見てやる、というのは確かに儀礼として正しいことだろうが、そのことで奴を ”覚えていてやる” ことを妨げるのが怖かったからだ。俺にとって、Mとの別れになった、雨模様の日蔭沢での、あの、見慣れた顔、それが脳裏から消えてしまうのが怖かったのだ。

たぶん、夫人は不快に思われただろう。今まで言い訳はしていないが。

 

エーガ愛好会 (336) 国宝    (44  安田耕太郎)

3ヶ月ほど前に教皇の死、次期教皇の選挙と時期をいつにするように映画「教皇選挙」が上映された。 複雑な「根比べ」を要する選挙はコンクラーヴェ(concalve)と呼ばれ話題となり、劇場にて興味深く鑑賞した。鑑賞録をブログに投稿したかと思う。その後、間もなくして公開された映画「国宝」は久方振りに大人気を博した日本映画の大作で前評判が頗るよく映画館に足を運んだ。予約席を確保するのに1週間以上を要して、前人気を裏付ける盛況ぶりであった。

任侠の世界に生まれた喜久雄(吉沢亮)は15歳の時、父親を抗争で亡くし、天涯孤独となる。喜久雄の天性の才能を見抜いた上方歌舞伎の名門の当主花井半二郎(渡辺謙)は喜久雄を引き取り、喜久雄は思いがけず歌舞伎の世界に飛び込むことに。花井家には喜久雄とほぼ同世代の花井の跡取り息子・俊介(横浜流星)がおり、二人は兄弟のように育てられ、親友としてお互いに高め合い、芸に青春を捧げて成長していく。だが、厳しい芸と伝統と血統を重んじる歌舞伎世界では二人はライバルとして宿命づけられ、やがて二人は運命の綾に翻弄されていくことになる。

喜久雄役の吉沢亮は2021年のNHK大河ドラマ「晴天を衝け」で主役の渋沢栄一を、親友だがライバルとなる俊介役の横浜流星は今年度の大河ドラマ「べらぼう」で主役の蔦屋重三郎を演じ、当代きっての旬な人気若手俳優が主役と相手役として映画に於いて芸と存在感を競っている。歌舞伎の芸に青春を捧げ切磋琢磨して成人して暫く経ったあるお日、名門の歌舞伎役者である当主花井半二郎が事故で入院する。病室で半二郎は代役に花井の跡取りであるはずの息子の俊介でなく、喜久雄を指名する。血縁より芸を選んだ歌舞伎の世界では稀有な半二郎の判断に驚愕し、呆然とする二人。二人の運命は大きく揺るがされていく。

映画「国宝」は公開からわずか31日(5月末)で観客動員数319萬人。興行収入45億円を突破し、まさに空前の社会現象となっている。封切られて3ヶ月以上経つが、依然として上映されている。

歌舞伎は東銀座の歌舞伎座に数度足を運んで観たことがあるが、素人の域を出ない門外漢。映画を観て、先ず驚いたのはインターミッションなしに3時間ぶっ通しであること。映画館で観た映画の長編大作でインターミッションがあったのは、ずいぶん昔の「ベンハー」「十戒」「七人の侍」「赤ひげ」「黒部の太陽」などがあったが、最近3時間の長編を休憩なしで上映する映画はないと記憶する。3時間があっという間に過ぎるほど引き込まれたのは面白かったからに他ならなかったからだろう。映画の題名「国宝」は、名前の通り仰々しい大向こうを唸らせねばならない宿命を負った映画でなくてはならない、とは思う。それほどの映画なのであろうか?観終わってから考えたが、正直よくわからない。人間国宝は、芸能と工芸技術の2つの分野があり、2023年10月までに認定された芸能分野の人間国宝は、死去された者を含めて述べ203名。内、歌舞伎分野では25名。生存する歌舞伎人間国宝は、① 七代目「尾上菊五郎」(妻は富司純子、長女の寺島しのぶが映画「国宝」に渡辺謙演じる花井半二郎役の妻の役で出演している。なかなかの名演だった)、② 十五代目「片岡仁左衛門」、③ 五代目「坂東玉三郎」(女形役者)の3名のみ。これ程の希少価値があるのが人間国宝だが、それに値する映画だったのか、出演者の演技だったのか、監督の演出だったのか、舞台装置・衣装だったのか・・・、正直よくわからない。二度目を観に行くことを思案中である。

 

 

頂上で揺れていた花    (44 安田耕太郎)

Screenshot

仙丈ケ岳山頂で烈風にも負けず寒さにも負けず、岩肌に逞しく健気に咲いていた「高山植物 ミヤママンネングサ 」(深山万年草)です。保屋野さんのウエア黄色と同じ。他2人は青と赤、まるで交通信号機のトリオでした。

(金藤)

お帰りなさい。 スーパー介添人⁈お若い光輝さんが同行されて、留守宅の皆さまも心強く思われたことでしょうね。

高山植物ミヤママンネングサは知りませんでしたが、うちには下界のマンネングサが咲いています。随分前に実家から持ってきた鉢に一緒に入って来たのですが、今でも場所を変えて咲き続けています。

外は暗くなってしまい写真は撮れませんので、ネットにあった画像をコピーしました。 多肉植物 のベンケイソウ科マンネングサ属です。 葉の数は下界のマンネングサの方が多く、花と花茎も違うようですね。

 

エ―ガ愛好会(335) 懐かしの名作2本   (大学クラスメート 飯田武昭)

クロード・ルルーシュ監督の映画2本,来年(2026年)2月から始まる第25回冬季オリンピック・ミラノ・コルチナダンペッツオ大会を前に、過去のオリンピックを描いた映画「白い恋人たち」と、併せて同じ監督のヒット作「男と女」を再見した。

「男と女(Un homme et une femme)」(1966年)はパリに住む元F1レーサーの男性(ジャン=ルイ・トランティニアン)と元演出助手の女性(アヌーク・エーメ)が、それぞれの子供をパリ郊外のドウヴィルの寄宿学校に預けながら、毎週のようにパリから子供に会いに行く間に、パリ行きの列車に乗り遅れた女性を男性が車で送ったことをきっかけに交際が始まるところから物語は始まる。この映画も後述の「白い恋人たち」と同様に、セリフは極くわずかに押え、映像で観ている観客に感情の起伏を想像させる手法で物語は進行する。二人の子供が仲良く無邪気に遊ぶ姿、犬を散歩に連れ歩く老人のシルエットが海浜や海沿いのプロムナードに映し出されるシーンなども、観る人の感情を感傷に引き込む代表的シーン。ストーリーは男女それぞれの相方が過去に事故などで他界したシーンが再現せれる以外は単純だが、この映画の印象を強くしたのは、主演のトランティニアンとアヌーク・エーメエの魅力と更には大ヒットしたダバダバダ・ダで始まるメランコリックなフランシス・レイ作曲の主題曲の効果があったことは間違いない。

「白い恋人たち(13 Jours en France)」(1968年)は、第10回冬季オリンピック・グルノーブル大会を描いた映画であるが、大会競技の記録ではなく、競技の映像に加え、会場整備の人達や警備の人達、或いはマスコミの舞台裏を映すことで、大会の雰囲気や関わった人々の苦労や喜びや怪我人の救助や痛みを、映画を観る観客に想像させる手法で貫いている。全編を通じてセリフは無く、有名になったフランシス・レイの音楽が時に流れることで印象は倍加する。主役は居ないが、この大会のヒーローは間違いなくフランスが誇るアルペン・スキー競技の王者、ジャン=クロード・キリーである。映像ではキリーの滑降シーンの完全収録、大回転及び回転シーンもそれぞれに準備段階から収録されている。特に大回転は吹雪の中で競技は行われるので、各選手が旗門通過をイメージして準備するシーンが印象的。或いはボブスレーの危険と隣り合わせのドキュメント・シーンや怪我をした選手の救急隊の活動シーンなど、当時の冬季オリンピック種目がスキーのスピードと距離中心の種目であったことを改めて思い起こさせる映像だ。近年の冬季オリンピック競技種目はスノーボード、モーグルやハーフパイプ、それにカーリングと瞬間の技を競う競技や頭脳競技が増えて、本来のスピードと距離を競う競技が薄れて見える時代になったのは極めて寂しいと個人的には思う。

ジャン=クロード・キリーはこの大会で滑降、大回転、回転のアルペン種目で3冠王を達成し、第7回コルチナ・ダンペッツオ大会(1956年)のトニー・ザイラーの3冠以来、2人目の快挙を達成し、この記録は今日まで破られていない。因みに、キリーは1943年生まれの81歳で、現在もなお健在。クロード・ルルーシュ監督は1937年パリ生まれ(ユダヤ系アルジェリア人)で87歳とこちらも健在。

「白い恋人たち」は「男と女」で成功したルルーシュ監督の名を世に知らしめた次作ではあったが、シャルル・ド・ゴール大統領(この映画でも開会式に現れる)に対する新左翼グループの5月革命なる運動が活発化し、カンヌ・フェスティバル(カンヌ映画祭)が中止になるなどで当時のフランス本国では、さほどの脚光を浴びる機会が無かった。クロード・ルルーシュ監督は、その後に「愛と哀しみのボレロ Les Uns et les Autres」 (1981)がヒット作としてあるが、この映画を私は観ていない。だがこの映画の解説のよると登場人物のモデルになっているのが、ルドルフ・ヌレエフ、ヘルベルト・フォン・カラヤン、エディット・ピアフ、グレン・ミラーと各界の大御所ばかりなので、機会があれば是非観たいと思っている。

フランシス・レイ(フランシス・レ)(Francis Lai、1932年4月26日 – 2018年11月7日(死去判明日であり正確な逝去日は不明)[1])は、フランスニース出身の作曲家。イタリア系のフランス人。少年期からアコーディオンなどを奏でていた。16歳の時、ニースからパリに上京し、テルトル広場界隈にいた。のちアコーディオン奏者から作曲家に転身。フランスの香り漂うシャンソン風な哀愁を感じさせるメロディーに特徴があり、日本でも親しまれた。多くの映画音楽作曲。特にクロード・ルルーシュ監督とのコンビによる作品はよく知られている[1]

(編集子)フィルムのほうはさておき、フランシス・レイのたおやかな曲、とくに ”白い恋人たち” は大学卒業後、スキーにのめりこんでいたころに聞き、それ以来、小生の愛好曲ナンバーワン、であり続けている。特に初めてアメリカの土を踏みシリコンバレーの端っこの2軒長屋に落ち着いたその冬、まだ運転にも慣れておらず、まして冬道だ、安全第一、と近場をさがした。同じ時期、現地のマイクロウエーヴ事業部に工作技術向上のために駐在していた、若手社員坂本澄雄君に付き添ってもらって Soda Springs という小さなスキー場へ出かけた。カリフォルニアには著名なスキー場がたくさんあるが,シエラネヴァダのすそ野にあるかわいらしい家族向けの場所だった。

Soda Springs is located 3 miles (4.8 km) west of Donner Pass.[4] The population was 94 at the 2020 census.
The Soda Springs Mountain Resort is located just off Highway 80 near the Donner Summit.
そしてそのゲレンデで流れていたのが、 “from Grenoble,France…..”というアナウンスで始まる、オリンピック実況放送だった。僕らがスキーに嚙みつかれたのはなんといっても ”黒い稲妻” トニー・ザイラーの活躍だったが、その彼に続いたのがこの大会での三冠王キリーだ。その後、ヒューレット・パッカードが欧州の生産拠点としたのがグルノーブルで、いつかここへ出張することもあろうかと夢想したりしたものだった。

それからしばらくして、本稿で飯田が書いている映画ができ、主題歌ができた。それ以来、”白い恋人たち” はあの小さなスキー場でのおだやかな夕方と、限られた時間ではあったが、今なお心温まる ”古き、良きアメリカ” の黄昏を味わうことになった滞在を思い出させる、 ”俺のテーマソング” として、もうひとつ、フランシス・レイの技巧とは好対照、素朴なカントリークラシック、Red River Valley  とともに、いつもそばにある。

猛暑のみぎり、まったく時季外れの話題ではあろうが、これを取り上げてくれた飯田に感謝する。