エラリー・クイン のこと – ミステリへのお誘いです

推理小説、というものがいつから始まったか、については専門家の間でもいろいろと議論があるようだ。ま、アマチュア読者であれば、通説どおり(先日菅原君が乱読報告の中で書いたように)、エドガー・アラン・ポオの モルグ街の殺人 だというあたりで十分だが、このジャンルの作品が広い範囲の読者層に浸透しはじめたのが1920年代、大戦前、西欧社会が新興国アメリカを迎え入れて穏やかに機能していた時代のことだ。この初期の作品は (誰が犯人か) の追求に徹していて、Who’s done it ? 派、日本ではそのままカタカナ読みをして フーダニット、作品と呼ばれるものだった。この流れは推理小説が無視できないものに成熟してくると、だれが、というよりもその殺人はどうやっておこなわれたのか、How’ s done it. ハウダニット 論理、つまり奇想天外な殺人方法を競いあう結果になってしまった。やがて、その反動として現実社会とのつながりを無視できない、犯罪の後ろにある現実とのせめぎあいを語るほうに移って行き、Why done it  ホワイダニットと呼ばれる作品が増えていく。それが文体も初期の、ハイブラウな文体から直截的な、簡潔な文体で語られるようになり、現在のハードボイルド と呼ばれる作風に変わってきた。

1920年から30年代へかけて、いわば推理小説の黄金時代、と呼ばれる頃の作品は主流は当然ながらフーダニット思考のものであって、英国ではクリスティ、クロフツ、チェスタートン、メイソン、そのほか有名人や純文学者が手掛けたものなど、現在まで読み継がれる作家が並ぶ。かたや当時新興国であったアメリカでは、文化圏はニューヨークを中心とする東海岸であった。そこで開花したアメリカ版推理小説の代表格が,ハウダニット論理を中核に据えたヴァン・ダイン,ディクスン・カー、それからエラリー・クインなどだった。高校時代、菅原にそそのかされてこのあたりの名作は一応読んだし、エラリー・クインもその中に当然入っていた。

識者の推理小説作品に対する評価はいろいろあるが、ベストといわれる中にいつも顔を出すのがクイーンの Yの悲劇 だが、それと合わせて彼の代表作とされるのが、題名に国名を使った9冊で、国名シリーズ、とよばれる。”ローマ帽の秘密” でイタリアをタイトルにとりこみ、以後、”オランダ靴“ ”アメリカ銃” ”フランス白粉” “チャイナオレンジ” ”スペイン岬” ”シャム双子“ ”エジプト十字架” ”ギリシャ棺” といずれもタイトルが国名と MYSTERY という単語で統一されている。このシリーズに対抗したクイーンの好敵手、ヴァン・ダインはその12冊の作品のタイトルを 例えば  The Bishop Murder Case” (邦題 僧正殺人事件)というようにすべて murder case とするなど、対抗心をあらわにしてクインと争った。この二人の作品に共通する要素は、あきらかにクリスティのように真っ向からなぞに挑むだけの作風に,how’s  done it 的な要素が目立ち、さらにあたかもイギリスに対して新興国の知識階級の意地を張るかのように、衒学趣味が濃厚に加わっている。特にダインの作品は著者(匿名で書き始めたが実は高名な文学批評家だった)の主に美術の分野だが、博識・知見をくどくどと述べるので辟易する人が多い。

僕は創元社の文庫だったと思うのだが、国名シリーズはわりに早い段階で読み終えている。今回、改めて原文に挑戦してみたのだが、ほぼ1世紀まえに米国の知識階級の話すことばや生活態度が、現在のアメリカとどれほどかけはなれていたか、を感じながら読んだ。また、国名シリーズでいえば、日本とドイツとなにより英国がその中に含まれていない。シャムすなわちタイなどが入っているのに、である。この国名シリーズ9冊とはべつに、ニッポン樫鳥の秘密 という一冊もあるのだが、これだけは国名シリーズと数えていない。このあたりは当時の世界情勢を暗示しているようでもあり興味深く思った。

読み返してみて思うのだが、このシリーズで、国名すなわちその国との関わり合いが筋の展開に不可欠なのはシャムとエジプトとギリシャだけで、ほかは国名を入れ替えても成り立つストーリーだ。例えば中でも長編の フランス白粉の謎 の場合をとれば、白粉がフランス製でなくとも全く筋に関係しない。このあたり、ひょっとするとクイーン(または出版社か)の巧妙なマーケティング戦略であったかもしれない。話の展開上、上記のような(白粉の話)ことはミステリ物を紹介するときにあってはならないのだが、いずれにせよ、この時期に現れた作品は、現代風の書き方の作品とくらべるとゆったりした気分で読めるのが古典の良さなのだろう。クインの主な作品はほとんどすべて早くから邦訳があり、特に井上勇氏の訳は高く評価されている。ミステリ、というジャンルにまったく興味のない人がほとんどかもしれないが、クイーンの代表作、Yの悲劇 や クリスティなら 読みやすい オリエント急行の殺人 とか そして誰もいなくなった くらいはお読みになることをお勧めしたい。ストーリーはともかく、ハードボイルドといえばまず出てくるレイモンド・チャンドラーの 長いお別れ などは文章あるいはその書き方自体が英語の教材になるとすら言われていることも付け加えておこうか。

 

僕のK2      (44 安田耕太郎)

ヒマラヤの西部カラコルム山脈に聳える世界第2位の高峰。エベーレストより237m低い標高8,611mの山。パキスタンと中国新疆ウイグル自治区の国境に位置するのだが、インドはインド領カシミールのパキスタン占領地に聳えていると主張している。国境紛争を抱え入山が難しい山である。

登頂の難しさでは世界最高峰のエベレストよりも上で、「世界一登ることが難しい山」とも言われる。その理由として、人が住む集落から遠く離れた奥地に存在することによるアプローチの困難さ、エベレストよりも厳しい気候条件、急峻な山容による雪崩、滑落の危険性などが挙げられる。K2登山に関しては一般的なルートでさえ、エベレストのバリエーションルートに匹敵すると言われる。これらの困難さから、14座ある8000メートル峰の中で最後まで残った冬季未登頂峰であったが、2021年1月16日、ネパールの登山隊によって初めて達成された。2012年3月までの時点で登頂者数306人に対し、死亡者数は81人に達し、その時点でのエベレスト登頂者数は5656人、遭難死者数3百数10人。K2は「非情の山」とも呼ばれる。アンナプルナ峰は、登頂者数191人に対して死亡者数61人に達する。 死亡率が高い理由は、エベレストのような商業登山の対象とならず、難度の高いルート、単独ないしアルパイン・スタイル、無酸素による挑戦の比率が高いことにも起因している。ギネスブック公認ダントツぶっちぎりの世界ワースト1は谷川岳。遭難死者数は累計で800名を超えており、谷川岳単独で、ヒマラヤ8千メートル峰で亡くなった人の総数よりも多いのだとか。一ノ倉沢岩壁登山遭難死者によるところが大きい。

山の話から離れて、K2の話をさせてもらおうと思う。僕は日米2つのオーディオ製品メーカーで併せて40年以上働いたが、2社目の米国会社の子会社の一つにロサンゼルス近郊に本社・工場を持つJBL社があった(今でもある!)。主として民生用、業務用、車載用のスピーカーを製造・販売する業界ではそのブランドが知られた会社である。創立は1946年、僕の生誕の年だ。禄を食む手助けをしてくれた会社の一つと生誕年が同じとは奇遇。

山好きの僕はJBLの最高級旗艦(flagship)製品をEverestとK2の名を冠して世界市場展開をしたいと目論んでいた。凝り性マニアが多い日本市場が高級品の商品企画を牽引していたバブル期に至る「Japan as No1」の時代だった。1980年代遂にEverestとK2を市場導入させることに成功。以来、シリーズ製品は幾代を経て今日に至っている。因みに、現在の両製品の小売価格はペア(2本)でそれぞれ4百万円、3百万円、重量一本100kgを超す巨漢である(写真貼付)。バブル期には人気が沸騰して航空便で輸入するほどの狂乱の重厚長大の時代でした。軽薄短小の代表アップル社のiPod登場(2001年)によって市場は様変わりして今日に至っている。

ここ10年間で、世界の音楽市場は急激にストリーミング(インターネットを介した動画配信や音楽配信に用いられる配信方式)へとシフトし、特にコロナ禍での一時的な打撃からV字回復を遂げました。2023年のデータによると、世界全体の音楽収益の67.3%はストリーミングによるものである。一方で、フィジカルメディア(CDやレコードなど)は17.8%を占めているが減少傾向にある。

世界全体としては、デジタル音楽が主流となりつつあるが、日本の音楽市場はやや異なる。日本では、CDやLPレコードなどのフィジカルメディアが依然として市場の65.5%を占めており 、これは世界でも異例の高い割合である。2022年と比較してもわずか0.3%の減少に留まっていて、依然としてフィジカルが強いことがわかる。日本の音楽市場はアメリカに次いで世界第2位の規模なのだ。

K2未踏ルートからの登頂挑戦のNHK BS放映を観ながら、僕のK2を懐かしく想い出す。

 

 

 

 

エーガ愛好会 (314) ヴェラクルス 

(42 保屋野伸)今日、1時10分ごろ、何気なくチャンネルをNHK・BSPに合わせたら「ヴェラクルス」が放映されていて、(この映画はもう3回ほど観てるので今回はスルーする予定でしたが、)ゲーリー・クーパーとバート・ランカスターの競演、そして、ストーリーの面白い展開に最後まで観てしまいました。

この映画は、メキシコ独立戦争を背景に、政府軍の金塊(300万ドル)を巡る諸攻防がテーマなのですが、政府軍と反乱軍とのすさまじい戦闘シーンは圧巻でまた、金塊を独占しようとするランカスターとそれを阻止しようとするクーパーが決闘するラストシーンも見応え十分でした。なお、このエーガは、すべてメキシコでロケされたということですが、メキシコの遺跡等の風景やメキシコ音楽でのダンスシーンも楽しめました。

西部劇には少々ガッカリさせられる映画が多い中、この映画は「大いなる西部」と並ぶ傑作西部劇ではないでしょうか。最後に「地上より永遠に」で、(サラリーマンみたいな役柄の)ランカスターにガッカリしましたが、今回のランカスターの魅力・存在感は、少々地味目のクーパーをはるかに勝っていたと思います.。ちなみに、上映時、ランカスター;41才 クーパー;53才

(34 小泉幾多郎)「ヴェラクルス1954」は、1866年メキシコでの大金をめぐる男同士の友情と裏切りのドラマ。バート・ランカスターが、ハロルド・ヘクトと共に、独立プロダクションを作って発表した第1回作品「アパッチ1954」に次ぐ第2作。今回は自身のほかに、三顧の礼を尽くすことでゲーリー・クーパーと言う大物を連れ出し、ランカスターはアクロバティックなアクションで豪快に暴れ回る怪物的演技で、いいとこ取りも圧巻だが、人生の年輪を感じさせるクーパーの人間味溢れる存在感が、物語に深い奥行きをもたらしている。ふてぶてしいランカスターの手下になるアーネスト・ボーグナイン、チャールス・ブロンソン、ジャック・イーラムの若かりし顔触れもよければ、当時のメキシコ政府側のマクシミリアン皇帝(ジョージ・マックレディ)、デ・ラボルデェ侯爵(シーザー・ロメロ)、革命軍将軍アギュラア(モリス・アンクロム)のほか、女優陣はマリイ・デュヴァル伯爵令嬢(デニス・ダーセル)。革命軍に味方するニナ(サリタ・モンティール)。前者は、フランスのミスカメラ、フランス一の美人、後者は当時スペインとメキシコで最も人気のあった若いスタアで、二人とも魅力たっぷり。キャストの素晴らしさと共に、全編メキシコの現地ロケーションで行われ、3か月かけて、クエルナヴァカ谷(Cuernavaca Valley )の他に、かってのマクシミリアン皇帝の宮殿であり、現在では国家的な社殿となっているチャプルテベック宮殿(Castillo di Chapultepec)の内部での撮影も行われた。メキシコ革命やメキシコ人を中心に持ってきたこと、それまでなかったことで、1960年以降のマカロニウエスタンに受け継がれたと言えるのではないか。

物語は、ベンジャミン・トレイン(クーパー)がジョー・エリン(ランカスター)から馬を買ったが、その馬が軍隊から盗んだものだったため、トレインは後を追って来たエリンもろとも軍隊の追撃を受けたが、二人ともメキシコ革命に応じて、報酬の多い軍隊に入ろうとしてこの土地に来たのだった。最初は皇帝側のデ・ラボルデエル侯爵に雇われる交渉を始めたが、革命軍のアギュラア将軍からも誘われる。この時の革命軍が取り囲む、そのエキストラだろうが人数の多さには驚かされた。初めは皇帝側に着くと1台の馬車に隠された黄金を発見し、トレインとエリンは、その現場を見たマリイ・ヂュヴァル伯爵令嬢も加わって、黄金の山分けを取り決めた。しかし侯爵が立ち聞きし、途中令嬢を捕虜にし、カネを持って逃げた。脱出を知ったエリンは、後を追い侯爵を殺し、金を奪った。一方トレインは、革命軍に加わったニーナの「あの金はメキシコの民衆のものだ」という言葉にも目覚め、ヴェラクルス要塞の突破に先駆けし、金を独り占めにしようとするエリンをなじり決闘となり、トレインの早業がエリンを倒し、エリンの拳銃を思い切り蹴飛ばすのだった。最終的には、友情の絆を断ち切った、悪を制する正義の行為だったが、得難い友に、自ら手を下した自責の念は消えない。

(編集子)この一本で日本に知られるようになったヴェラクルスについて、ウイキペディアの解説をあげておく。メキシコをめぐっての西部劇はほかにもいろいろある。国境をなすリオグランデのあたりは例えばフォードの騎兵隊ものでもおなじみである。多くの場合は西部を追われたワルが逃げ込むという設定が多いが、有名なジャズナンバー South of the Border  の歌詞にもあるように、一種のあこがれの地でもあったようだ(アメリカ人が作曲したアロハオエがハワイを楽園として作り上げてしまったのも同じようなことだろう)。西部劇がいろいろあってもメキシコという国がに持っている古い文化への挽歌、というロマンスはない。保屋野君はランカスターには厳しい評価だが、難しい議論はさておいて、この作品が作り上げた二人のガンマンの対決、という定番としては 駅馬車 のラストとともに傑作だと思うのだが。

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先回小泉さんが触れられた ローンレンジャー物の一つ、どれだったか思い出せないがメキシコの貧民を食い物にする悪漢に挑む男がメキシコに上陸するオープニングもこのような港町だった。

The name Veracruz (originally Vera Cruz), derives from the Latin Vera Crux (True Cross). Having established the settlement of Villa Rica (Rich Village) on Good Friday, 22 April 1519, Cortés dedicated the place to the True Cross as an offering.

 

乱読報告ファイル (35)吾妻おもかげ    (普通部OB 菅原勲)

「吾妻おもかげ」(著者:梶よう子。発行:KADOKAWA、2021年)。

切手の収集に夢中になっていた頃だから、もうかれこれ70年以上も前の話しになる。当時、額面5円の記念切手で(現在、中古市場での買い取り価格は6000円前後にもなるそうだ)、珍しく縦長のものがあった。しかも、その図柄が、子供心にも、何やら艶めかしい。そう、それが、有名な「見返り美人図」だ(当時はそんな題名とは知る由もない)。その絵師、浮世絵を確立し、浮世絵の祖と謳われた菱川師宣(師宣なんて偉そうな名前だと、足利尊氏に側近として仕えていた武将、高師直を思い出し、思わず師宣も武士の出身ではないかと勘違いした)が、この著書の主人公だ。なお、浮世絵とは、実際の世の中が憂さに満ちており、それを晴らすために浮き浮きすると言う意味で浮世と呼んだと言われており、そんな絵が浮世絵と呼ばれるようになった。

師宣は1618年(1630/31年と言う説もあるらしい)の生まれだから、江戸時代もその初期と言って良い。因みに、同じ浮世絵師と言っても、富嶽三十六景などで有名な葛飾北斎は1760年の生まれだから、師宣が活躍した時期は、北斎に先立つこと一世紀以上も前のことになる。

確かに、「見返り美人図」(肉筆の浮世絵)の図柄も一見の価値はある。それはただのありきたりの美人図ではなく、その美人が見返ったところを描いており、師宣らしい独自性が溢れているからだ。そして、その見返り美人が着ている着物の縫箔(着物を刺繍と金、銀の箔で飾る)の出来具合も誠に素晴らしい。それもその筈、師宣の父は、安房(今の千葉)で、漁師ではなく、縫箔師をやっていたからだ。縫箔とは言ってもその元になる図柄が描けなければ、何事も前に進めないのは言うまでもない。そう言った環境で育まれたわけで、師宣には、絵を描く素地が充分にあったことになる。つまり、特に師匠もいない全くの独学だったわけで、軽々しくは言えないが、一種の天才と見做しても差し支えなかろう。そうであるが故に、浮世絵の祖とまで言われるまでになったわけだ。

当時、幕府お抱え絵師として一世を風靡していた狩野一派の弟子にバカにされ、それが肥しとなって、独自の版本を編み出し、師宣の絵は競って贖われ、名前だけで売れるまでになった。ところが頂点に立つとそこに安住してしまうものなのか、菱川派を作ってしまう羽目に陥ってしまうことになる。

「見返り美人図」のモデルは、これと言って特定できるものはないと伝えられているが、 艶めかしく感じたのも道理で、描かれているのはその辺にいる素人ではなく、小生は勝手に、師宣が足しげく通った吉原の遊女ではないかと推測している。そして、話しは、その吉原通いから始まることになる。

ところが、何時まで経っても肝心要の「見返り美人図」の話しが出て来ない。と思っていたら、最後の頁になって、師宣が65歳で鬼籍に入ったのち、二人の息子が画室を片付けていた際、やっと、今まで見たことのない美人画を見つける、と言う落ちが付いている。従って、正確な作成年月は不明で、大まかに17世紀(1600年代)となっている。

最初から最後まで、それこそ終始、「見返り美人図」の話しになってしまったが、所詮、艶めかしい見返り美人に惚れ込んでしまっては、万事休す。

最後に、題名「吾妻おもかげ」について、吾妻(あづま)とは我が妻のことであり、おもかげとはまぼろし、幻影のことだから、我が妻のまぼろしと言ったところだろう。ただ、その意味するところと、この著書の内容とは、余りにも隔たっていてどうにもピント来ない。また、中島みゆきに「見返り美人」があるが、歌詞も歌もナンダカナー。

(梶洋子)東京都生れ。フリーライターとして活動するかたわら小説を執筆。2005(平成17)年「い草の花」で九州さが大衆文学賞を受賞。2008年「一朝の夢」で松本清張賞を受賞。2016年『ヨイ豊』で直木賞候補、同年、同作で歴史時代作家クラブ賞作品賞受賞。2023(令和5)年『広重ぶるう』で新田次郎文学賞受賞。著書に、「みとや・お瑛仕入帖」「朝顔同心」「御薬園同心 水上草介」「ことり屋おけい探鳥双紙」「とむらい屋颯太」などのシリーズ諸作、『立身いたしたく候』『葵の月』『北斎まんだら』『赤い風』『我、鉄路を拓かん』『雨露』ほか多数。

 

 

 

エミール・ガレ     (普通部OB 船津於菟彦)

今、六本木ミッドタウン サントリー美術館で素晴らしいガレの数々の作品が展示されているので拝見に参りました。
サラリーマン時代は半ドンの土曜の午後は大手町ビルから近くにあった旧パレスホテルの別館の事務所棟に「サントリー美術館」があり良く訪ねました。その後赤坂へ移り現在のミッドタウンへ。こじんまりした品のある美術館で好きです。

諏訪湖畔には北沢美術館のガレのコレクションが凄いですが、今回は大半がサントリー美術館所有の物で総て撮影可でした。こんなにガレを持って居るとは知りませんでした。
エミール・ガレ(1846–1904)はフランス北東部ロレーヌ地方の古都ナンシーで、父が営む高級ガラス・陶磁器の製造卸販売業を引き継ぎ、ガラス、陶器、家具において独自の世界観を展開し、輝かしい成功を収めました。
ナンシーの名士として知られる一方、ガレ・ブランドの名を世に知らしめ、彼を国際的な成功へと導いたのは、芸術性に溢れ、豊かな顧客が集う首都パリでした。父の代からその製造は故郷ナンシーを中心に行われましたが、ガレ社の製品はパリのショールームに展示され、受託代理人等を通して富裕層に販売されたのです。1878年、1889年、1900年には国際的な大舞台となるパリ万国博覧会で新作を発表し、特に1889年の万博以降は社交界とも繋がりを深めました。しかし、その成功によってもたらされた社会的ジレンマや重圧は想像を絶するものだったと言い、1900年の万博のわずか4年後、白血病のためこの世を去りました。

ガレの没後120年を記念する本展覧会では、ガレの地位を築いたパリとの関係に焦点を当て、彼の創造性の展開を顧みます。フランスのパリ装飾美術館から万博出品作をはじめとした伝来の明らかな優品が多数出品されるほか、近年サントリー美術館に収蔵されたパリでガレの代理店を営んだデグペルス家伝来資料を初公開します。ガレとパリとの関係性を雄弁に物語る、ガラス、陶器、家具、そしてガレ自筆文書などの資料類、計110件を通じて、青年期から最晩年に至るまでのガレの豊かな芸術世界がサントリー美術館で今展示されています。素晴らしい物ばかりです

真の意味で輝かしい成功を収めたのは1889年のパリ万博でした。ガラスに対する科学的な研究を重ね、新たな素材と技法を開発し、およそガラス作品300点、陶器200点、家具17点という膨大な出品作品と2つのパヴィリオンを準備したガレは、ガラス部門でグランプリ、陶器部門で金賞、1886年に着手したばかりの家具部門でも銀賞を獲得し、大成功を収めました。なかでも本万博で発表した黒色ガラスを活用した作品群では、悲しみや生と死、闇、仄暗さなどを表現し、独自の世界の展開に成功しています。 この黒い壺は巴里万博で好評だった物です。

今日「ジャポニスム」と呼ばれるこうした現象は、「アール・ヌーヴォー」の旗手、ガレの作品にも表れている。色とりどりの草花が咲き乱れ、バッタやトンボが飛び交う独特の作品世界。その背景には、日本の美学に注がれたガレの熱いまなざしがあった。お皿も伊万里焼の影響を承けていますね。鯉を大胆にあしらったガラス製の花器「鯉」。これは葛飾北斎の『北斎漫画』からモティーフを転用して作られたものだ。ガレがいかに北斎に刺激されたか。

ガレにとって国際デビューの機会となった1878年のパリ万博では、ジャポニスム・ブームを反映した作品や、淡い水色の「月光色ガラス」を発表し、大きな反響を呼びました。こちらの鯉は北斎漫画からの転用と言われています。そしてガラス細工以外にも陶器・家具にまでその美意識は注がれています。陶器もお皿も素晴らしいです。そして家具の繊細なカーブは矢張りジャポニズムの影響が強いですね。サントリー美術館からの帰りは必ず同じフロアーに在る大天蓋の見えるカフェで下の人の行き来を観ながら「美の余韻」に慕っています。ボーッと。

 

アサ会だって元気なんだから!  (34 真木弓子)

本来若いころのアサ会は良く食べ、良く飲み、良く登る だけのただ元気だけの総勢30名近い年代でしたが 今や、10名に満たない仲間で、集まっております。
昨年は春のお花見、夏の暑気払い、冬の忘年会 と3回会合を開催しましたが、今年は春の会合を4月~5月に開催予定です。
奥様のご同伴のお陰で花は自前で済みますから、[すべて世は事も無し]  !

(編集子)34年卒の先輩方は我々入部の時は活動の主軸、”鬼の三年生” だった。そのパワーで、それまでなかなか前進できなかった山荘建設を見事に成し遂げられた。部生活の中心となった、この山荘の所在地の浅貝部落には一方ならぬ愛情をお持ちで、同期会も韻を踏んで アサ会、と命名されている。

同期会に名前を付ける伝統というか慣習がいつから始まったのかは知らないが、我々が入部した時の4年生はS33年,を漢字読みにして “賛山会”、という優雅な命名。アサ会の次すなわち僕らと一番親しかった34年には女子が一人もいなかった。これをひがんだのか誇りとされたのか不明だが、”野郎会”として有名。われわれは万事百家争鳴、結果、なりゆきを貴ぶ雰囲気で過ごしたので、名前は故美濃島孝俊が最後の五色合宿あけで二日酔いの翌朝、投げやり的に提案した、”ナンカナイ会” に落ち着いた。今となってみると名は体を表すというか、結構みんな気に入っているようだ。

37年組は賛山会にならって、37を訓読みにし、皆、という意味をあらわす みなと読み、みんな若い=みなわ会、とこれはいい発想で命名。以下、高みへ登り続けようという意気をしめした登望会、仲間の絆を、という意味での 絆会、などなど、それぞれの代のあり方にふさわしい名称が続いている。野郎会、で思い出したが、世の中の有為転変というかなんというか、今年の現役は(僕らの時代の用語でいえば)総務、山荘という要職は二人とも女性で、はたまた理系の学生というではないか(女子がいない、という反発か諦観か、男子だけに終わった50年はこのあたりの事情には多くを語らない。一度笹田の主張も聞いてみたいと思うのだが)。

僕らの時代、大勢を占めていた法文系の間では就職になると(3年間の授業でとった”A”の数)、なんかが話題の中心になったもので(河合をはじめ40年卒の連中が一番乗り気になる思い出話だ)、勉学重視の四谷(医学部)や小金井(工学部)の部員は影が薄かった。

世の中は三日見ぬ間の桜かな、であろうか。そとは雪、そうはいかぬ、か。

 

 

二本の樹

朝飯前に30分くらい歩くのを日課にしているのだが、今朝は先日、本稿に書いてくれた飯田君の梅の話があって、今まで前を通っても気に留めていなかった、ある家の梅の老木に気をひかれた。僕の家のある地域は古くから金子と呼ばれていて、江戸時代には結構栄えていたところらしい。京王電鉄が不動産に事業を拡げた初期のころ、このあたりを住宅街として整理し、駅名も現在のつつじが丘、と変えた歴史がある。この家はその中でもわりに最近開発されたエリアなのだが、昔からあったこの老木はそのまま残るようなゾーニングをしたのだろう。樹齢がどのくらいなのか、素人にはわからないが、ひょっとしたら江戸の空の下でもあでやかに咲いていたのかもしれない。わけもなく、なんとなくうれしくなってしまった。

この家を過ぎてすぐ、道は甲州街道に出る。家へ帰るにはこれを右折するのだが、そこを数十メートルあるくと銀杏の大木がある。秋には実に見事な黄金色になる古木で、調布市指定の記念樹になっていた。それがほんの少し前、無残に枝が切り払われてしまった。この樹は往時の金子集落に,何代かにわたって酒の販売店を営んでいる旧家の庭先にある。店番をしている奥さんにきいてみたところ、周囲で落ち葉が大変だというクレームがあって、市が枝を払ってしまったのだというのだが、市が保存を申し出て、天然記念物に指定するまでのことをして、傍には 金子の大銀杏、という看板までたてていた樹なのだから、まさかそれだけの理由ではあるまい。なにか専門的な理由があるのだろうし、やがてまた、もとの、いわば江戸時代から続いてきた見事な姿になるだろう。しかしどう考えても僕の目の黒い間に、あの見事な姿が戻ることはあり得ない。

この樹を挟んで甲州街道に面したマンションに、先週3歳をむかえたひ孫が住んでいる。彼が物心ついて、あの樹はなあに、と尋ねる日も遠くはあるまい。なんだか、歴史の一コマの作られ方を体験した、というか、妙な気分になってしまった早春の朝だった。

 

エーガ愛好会 (313) ローンレンジャー   (34 小泉幾多郎)

日本では、1958年から、クレイトン・ムーア主演で愛馬シルバーにまたがり、白のテンガロンハット、黒のマスクをトレードマークに、ハイヨーシルバー!の掛け声とともに、ウイリアムテル序曲に乗って活躍した姿が放映されたが「白人嘘つき。インディアン嘘つかない」等のセリフを思い出す。映画化も5度目とのこと。

しかしこの2013年制作の映画は最低の映画を表彰するという34回(2014年)ラジー賞(ゴールデンラズベリー賞)のリメイク・続編・盗作賞を受賞、作品賞、監督賞、脚本賞、主演男優賞を何れもノミネートされている。主演にジョニーデップ、監督ゴア・バービンスキーで、ジュリー・ブラッカイマーが製作した「パイレーツ・オブ・カビリアン」3部作を、其の侭西部劇に落とし込めた作品と言えるが、そのわくわく感とドタバタ感が楽しめた。ということで、ラジー賞受賞にも拘らず期待以上の作品だったことは間違いない。

物語は、サンフランシスコの遊園地で、The Noble Savage in his Natural
Habitatと銘記されたトント(ジョニー・デップ)の銅像が、客の少年に話を聞かせることから始まる。その後過去に遡り、テキサス州コルビーに向かう列車で護送される極悪人ブッチ・キャベンディッシュ(ウイリアム・フィクナー)と一緒に鎖に付けられたトント、法律を学び西部に戻ってきたジョン・リード(アーミー・ハマー)との列車を使ったアイデア満載のアクションシーンが最初の見せ場。キャベンディッシュには逃げられ、ジョンとトントはコルビーへ。ジョンの兄ダン・リード(ジェームス・バッジデール)とその仲間のテキサス・レンジャーズと共にキャベンディッシュを追うが、その連中に待ち伏せされ、一行は全滅。兄の妻レベッカ・リード(ルース・ウイルソン)と息子ダニーまで捕われてしまう。このテキサス・レンジャーが追跡するモニュメントバレーの岩山の群群に溶け合うレンジャーズの面々が噛み合う景観が美しい。

中間では、やや中弛みの感じもしたが、西部劇に求められる渓谷での激突、騎兵隊とコマンチとの戦い、特に前半と後半の列車でのアクションシーンは実に迫力があった。ジョンが馬に乗って屋根から列車へジャンプ。トンネルすれすれに馬で走る、レベッカが下に落とされると其処に馬が。梯子をつかって列車に飛び乗る。鐡道橋を爆破、連結をはずして谷に列車を落とす等々。しかしアクション場面での迫力は感じたものの、もっと奥行きを考えてみると、スッキリしない面も感じた

主人公ジョンは当初、相手を直接殺すことに躊躇していたが、徐々に、法を守るから、直接殺す方向へ。トントは、どうやら過去に、白人とコマンチとの経緯から、コマンチに対し弱みを持っているようだが、この辺スッキリしない。また相変わらず、騎兵隊と先住民とのスッキリしない関係というか、先住民寄留地に平気で鉄道を敷こうという傍若無人さを画面で見ると、そういう時代を経て来たのだということが判る

(編集子)曜日まで覚えていないが、サンセット77、拳銃銃無宿、ライフルマン、ララミー牧場、ペリーメイスン、コンバット、ローハイド、などなどに午後8時になればV9継続中のジャイアンツ。いい時代にテレビ全盛を迎えたものだった。付け加えれば巨人戦中継は ”解説 中澤不二雄、実況越智正典” と決まっていたものだ。そういう時代

 

のレギュラー番組の一つが ”ウイリアム・テル序曲にのったローンレンジャー”、の話だ。歳月、人を待たず。

ここのところ、テレビはもっぱら、あの頃 プラスワン、位の時代の刑事ドラマに決め打ちしている。すでに境をことにした名優たちの若いころが現代に見えてきて、ふっと気が付いている自分がいる。これが洋画だとそういう感情はわかないのが不思議だ。