本日は好天の銀座三田倶楽部で11名参加で愉しく語り合いました
出席 中司・蓮井・岡野・田村・水木・宮坂・三宅・田中宏幸・佐藤・河
欠席 田中新弥・老田・飯泉・片貝・日高・篠原・高山・亀田さん 8名
連絡無し 吉村・岩瀬・岡部さん
この会の今後について語り合い創設者日高さんが欠席でしたが、ご
矢張り元気なお顔を見ながら「すくっと立とう我が友よ」と語り合
旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
本日は好天の銀座三田倶楽部で11名参加で愉しく語り合いました
出席 中司・蓮井・岡野・田村・水木・宮坂・三宅・田中宏幸・佐藤・河
欠席 田中新弥・老田・飯泉・片貝・日高・篠原・高山・亀田さん 8名
連絡無し 吉村・岩瀬・岡部さん
この会の今後について語り合い創設者日高さんが欠席でしたが、ご
矢張り元気なお顔を見ながら「すくっと立とう我が友よ」と語り合
英国の探偵小説作家、アントニー・バークリーの「最上階の殺人」(原題:Top Storey Murder。翻訳者:藤村裕美、発行:1931年)、「地下室の殺人」(原題:Murder in the Basement。訳者:佐藤弓生、発行:1932年)を読む。いずれも、創元推理文庫。
先ず、バークリーについて簡単に触れておこう。バークリーの本名はA.B.コックス(代表作は、「黒猫になった教授」)だが、他にフランシス・アイルズ(「レディに捧げる殺人物語」。これは、A.ヒッチコックが監督した映画「断崖」の原作)、A.マンモス・プラッツ(「シシリーは消えた」)名義の筆名がある。そのバークリーは、1893年生で、1971年に死去し、例えば、A.クリスティーは、1890年生で、1976年に死去しているから、この二人は、ほぼ同世代であり、所謂、英国の本格探偵小説黄金時代を築いた作家と言うことになる。
本格探偵小説とは、端折って言ってしまえば、殺人が起こり、その犯人を捜すべく、警察、私立探偵が行動を起こし、最後に犯人を逮捕する。しかし、小説だから、その全権は作家が完全に握っており、作家はあの手この手を使って、例えば、ミス・ディクレクション(作家が読者を間違った方向に誘導する)などで、読者を幻惑し、最後まで読者から犯人を秘匿する。犯人が捕まったとしても、最後まで真犯人を秘匿することが出来れば、その作品は高く評価されることになる。だから、探偵小説の出来具合は、作家がその真実について、読者を最後の最後まで如何に騙しおおせるかと言う、それこそ作家の手腕如何に掛かって来るわけだ。
「最上階の殺人」だが、ロンドンの閑静な住宅街、四階建てフラットの最上階で女性の絞殺死体が発見されるところから話しは始まる。現場の状況から警察(スコットランド・ヤードのモーズビー主席警部)は物盗の犯行と断定するが、一方、捜査に同行していた作家のロジャー・シェリンガムは、同じフラットの住人による巧妙な計画殺人と推理する。ここから話しは、専ら、その中に容疑者がいるであろうと思われる住人全員の聞き込みをするシェリンガムを中心に展開され、モーズビーは時たま顔を覗かせる程度だ。従って、読者は(小生も)、シェリンガムに完全に感情移入してしまい、何とか早く犯人を見つけてくれないものかと念ずるばかりとなる。しかし、これは、実は、バークリーが仕掛けた壮大なミス・ディレクション(作家が読者を間違った方向に誘導する)であって、真実はここにはない。
「地下室の殺人」は、新居に越して来た新婚夫婦がその地下室で掘り出したのが、若い女性の腐乱死体だったことから話しは始まる。しかし、被害者の身元が分からぬことから、上記、モーズビー主席警部は、その身元を詳らかにするために、警察小説であるかのように極めて地道な捜査を展開する。唯一の手掛かりは、被害者が、右の大腿骨を骨折し、その為にプレイトによる治療を受けた女性であることが判明し、その身元調査が行われ、最後の一人が、偶々、上記のシェリンガムが一時期代用教員を務めたことのある学校の教員であったことから、シェリンガムも捜査に乗り出すこととなる。ここで、作家、シェリンガムの代用教員時代の学校の話しが、作中作として披露され、学校内の複雑な人間模様が浮き彫りとなる(これが、なかなか面白い)。被害者が判明し、モーズリーは、その犯人が誰であるか薄々分かって来たが、徹底的な証拠を見い出すことが出来ず、シェリンガムに援助を仰ぐ。最後は、シェリンガムが、全く意外な人物を犯人と断定する。
これで、シェリンガムとモーズリーの直接対決は、ここでは1勝1敗、互角の勝負となったが、例え、名探偵と言われるシェリンガムと言えども間違えることがあると言うことなのだろう。例えば、クリスティーのH.ポワロにしてもJ.マープルにしても、間違えることは絶対になかったのではないか。この辺が、同じ黄金時代を過ごした二人ではあるが、バークリーの独自性が際立っている。
最後に、いずれの作品についても、ボンクラな小生、犯人を割り出すことは出来なかったが、一部の識者が大傑作のように褒めたたえているのにはただただ違和感を覚えた。
(編集子)スガチューの言う通り、世の中のエキスパートとか評論家という人種のセンスは理解しがたいものがある。どっちへ転んだって、要はエンタテインメントなんだから、読んだ本人が面白ければ、それが(少なくともミステリの世界では)傑作なんだと思っている。この2作は小生未読だが、今日時点でいえば、小生が感嘆したのは(実はこの連休に読破する予定だったがまだあと11ページ残っている)、コーネル・ウールリッチのPhantom Lady (翻訳題 幻の女)と、いわゆるエキスパートなら鼻で笑うだろうがクリスティのアクロイド殺人事件で、最後は思わず本を取り落とす(いいすぎかな)ほどのショックを受けたものだった。友人諸君、ミステリの門を叩きたまえ。鬱屈の気分が和らぐぜ。
2011年1月に中司ご夫妻、翠川ご夫妻、川内さん、吉牟田さんのわずか6人で(ジャイさんいわく)「なんとなく」始まった「月いち高尾」は14年の年月をかけて100回大会を迎えた。天候はやや霧がかかっていたが過去最多の35人の参加で意気軒昂に高尾山を巡り頂上で記念の写真を撮影した。
1.日時:令和7年(2025)5月12日(月)
2.コース別の山行記録(敬称略、()内は昭和卒年)
(1)シニアコース(世話人:関谷/伊川)
<参加者(22名)>
船曳孝彦(34)愛子、浅海昭(36)遠藤夫士男(36)鮫島弘吉郎(36)高橋良子(36)中司恭(36)大塚文雄(36)矢部精一(37)多田重紀(39)立川千枝子(39)西澤昌幸(39)武鑓宰(40)相川正汎(41)下村祥介(42)木川達郎(46)関谷誠(47)伊川望(47)田端広道(47)平井利三郎(47)齋藤伸介(63)大場陽子(BWV)
<山行記録>
早朝の雨が懸念されたが、京成「高尾山口」に総勢22名が集合。平均年齢76.5、それも80歳以上が15名と途轍もなく元気なグループが、見るからに元気な遠足の小学生に負けずに集まった。その内、健脚グループ(矢部、多田、武鑓、下村、田端、斎藤伸、大場)の7名が、雨後でぬかるむ6号路琵琶滝コースを山頂へ。その他は、ケーブルで「高尾山」駅へ。一般登山者、それもインバウンドの外国人が少なかった月曜朝のもやに包まれた幻想的な参道を薬王院へ、高尾山の神々・天狗に100回記念達成を感謝した。船曳夫妻、関谷は無理せずにここまでとし、他の皆さんは一般コース、琵琶滝コースの皆さんと山頂で合流、記念撮影におさまった。昼食後、三々五々、下山、懇親会に向かった。
(2)一般コース(世話人:斎藤邦彦)
<参加者(10名)>
安田耕太郎(44)吉田俊六(44)村上裕治(46)福本高雄(47)福良俊郎(48)五十嵐隆(51)保田実(51)斎藤邦彦(51)羽田野洋子(51)鈴木一史(60)
<山行記録>
高尾駅北口バス乗り場10:12⇒(バス7分)⇒10:19蛇滝口バス停⇒(1時間)⇒
11:20展望台11:30⇒(4号路吊橋経由50分)⇒12:20高尾山頂上
第100回記念ということもあり 今まであまり使っていないコースを選び、先日調査行をして下さった村上さんを先頭に朝霧の中、出発しました。蛇滝口から霊験あらたかな水行道場を経て高尾山屈指の急登を浄心門近くまで登り、4号路の名所である吊橋「みやま橋」を渡って頂上直下の公衆トイレ横に突き上げた。頂上にはすでにシニア組の半数が到着しており6号路組の到着を待って山頂標識の周りで記念撮影.。100回記念として関谷さんが作った小旗や写真撮影用パネルの百回の文字を見て周囲の登山客から祝福の歓声が上がった。
(3)懇親会
<参加者:上記の山行組に加え次のふたりが参加>
中司八惠子(36)浅野三郎(44)
<懇親会の模様>
今回は堀川さんの仕事仲間だった白川さんが経営するガーデンテラスレストランの「TOUMAI(トウマイ)」を利用した。まずは庭に出て記念パネルを掲げての記念撮影を行った後、ジャイさんからの差し入れのワインを開けて乾杯。ドテさんから入部70周年の思い出を伺い、創成期メンバーの中心だったジャイさんから「なんとなく」始まった経緯をお話しいただいた。ご本人は「なぜ?いつから?こんなに賑やかになったのだろう?」と訝しがっておられましたが、おそらく堀川さん(残念ながら今回は欠席)のお力が大きいのではということだった。現幹事の関谷さん、伊川さんからもお話を頂戴し次回以降は世話役を斎藤邦彦、齋藤伸介が引き継ぐということで会のより一層の発展を図ることとなった。
<関谷より> 2017年12月、高尾山で忘年BBQを三陸直送の生カキ・アヒージョを堪能する集まりがあると、堀川さんに声を掛けられたのが切っ掛けで、山口県防府市在ながら、機会あらば「月いち高尾」に参加し始めたのが運の尽き、2021年末、堀川さんを始めとする世話人に懇親会後に呼び止められ、「来年からお前に任す」との一言。遠方在住ながら、諸先輩には抗し切れず、2022年1月から世話人代表を務めさせていただき、何とか、節目の100回目まで世話人として微力を尽くしたが、これはひとえに同期の伊川さんと51年卒の斎藤さんの力強い協力とメンバーの皆さんのご理解によるものと感謝。。ここにきて、思わぬ病魔に襲われてしまったが、早々に、皆さんと「月いち高尾」で汗をかき、「天狗」にてキンキンに冷えた生での一杯を楽しみに療養に頑張る覚悟。ありがとうございました。
(編集子)気がつけば100回だった、というのが正直な感想だった。37年の矢部君は比較的新しいメンバーだが、彼が細田小屋で昼飯のとき、 ”ジャイさん、これで何回目?” と言い出したのがきっかけだった。ヤッパは現役時代から突飛もない発想をする男(それとどういうわけかゴルフだけは妙にうまくなった)だったが、今回はその突飛さに感謝。
同期での集まりにどこから聞きつけたのか、38年の町井かをるが参加したのが8回目、39年の堀川義夫が10回目で、それ以降、五月雨的に同期生以外の参加が始まり、極めて自然に今の卒業年度を超えた行事になった。世の中に三田会という組織はたくさんあるが、その中で年度を超えての濃密な交遊があるのは我々だけだ、と言い切ってもいいかもしれない。小生が総務(今でいう部長?)になった年が創立25周年で、そのときはじめて、OBとのお付き合いを経験した。そのとき、同期の感激屋の田中新弥は ”我々は太い絆で結ばれている” と表現したものだが、その後、OB会という組織がそれ自体で意味を持つことはなかった。今回の成果がでたのは、34年卒の妹尾さんが築かれた路線があったからこそ、自分でいえば孫にあたる世代の諸君とあたかも同期生のような気持ちで接することができたのだとつくづく感じる。
時間は冷酷なもので、小生もいきがっては見ても足の衰えは隠せない。かの長嶋茂雄の有名な挨拶をかりれば、”気力体力ともに限界を知り、バットを置く” けれども、 ”わが月いち高尾は永遠に不滅でーす!” という日も遠くはあるまい。新幹事以下、各兄のご健闘を祈るや切、であろうか。
980年5月、WHOにより、世界根絶宣言が出された、と8日の新聞に一面広告が載っていました。又また偶然に、植松三十里さんの本「鹿鳴館の花は散らず」
山の好きな人には本の好きな人、また、みずから名文をつづる人も多い。小生の勝手な解釈だが、日本にアルピニズムというものが紹介されたとき、それを実践できたのは当時の上流階級のひとたちであり、インテリ層で、登山という行為のなかになにかスピリチュアルなものを求める人も多かったからではないか。なかでも名著、と呼ばれる本も数々あって、読者を魅了する文章も枚挙にいとまがない。小生にもいくつか、繰り返し読んできた本―というか文章ーがある。尾崎喜八 ”たてしなの歌”、加藤泰三 ”霧の山稜”、山口耀久(あきひさ) ”北八ツ彷徨” である。
加藤の本は戦前の山好きの人たちをユーモラスに描き、尾崎の本は我々を取り巻く自然の豊かさと人とのかかわりを流麗な文章でつなぎ、自分もこういう目を持ちたいと思わせる,流れるような名文である。かたや山口の本は彼のクライマーとしての輝かしい山暦からも想像できるが、現実を鋭い目で見通して人をはっとさせる文節が随所に出てくる。
僕は大学卒業後、仲間たちとゆかいな山歩きを数年続けた後、お互い家庭や仕事に追われ、日程の都合がつかなくなってからの数年は、単独行というほど大げさではないが一人で歩くことが多くなり、そのゲビートとして選んだのが北八ツだった。本稿でも21年10月29日に ”とりこにい抄 (13)中山峠 に一度、このあたりのことを書いているが、その間にこの本に行き当たって以来、繰り返し読むことになり、文中にたびたび登場する高見石小屋にも幾たびか投宿してそのゆったりとした雰囲気にひたった。KWVで1年下にいた故村井純一郎はこの小屋の常連で、彼の紹介で常連客やオーナーのSさんからいろんな話も聞いたしものだった。その後、残念ながらSさんは事業から手を引かれて経営者が変わってしまい、、あの ”高見石” の、何とも言えない居心地はなくなって、ごくありふれた、 ”小屋が岳” の、風格のない、単なるビジネス施設の一つになってしまったのは何とも悔しい。
高見石を南の高みとする静謐な、時として人のセンチメントに訴える北八ツの森の旅を書いた ”北八ツ彷徨” のなかの文章で、小生に強烈な印象をあたえ、何かと言えば繰り返し読んでいる一節を、今回また再読してまた、 ”今” の自分の胸に響くものがあった。 落葉松峠 という一文で、著者の晩秋のある日の経験を書いたものだ。
・・・・・その峠はコースからも離れていて、わざわざ寄ってみようという気など起きないところだし、そこでおもいがけずひとつの出来事に出会わなかったら、それは無名の峠にすぎなかったのに・・・熊笹の多い落葉松林をのぼっていくと、反対側を吹き抜ける風のために、静止した落葉松林がいっせいに動いた、・・・・と山口さんは書く。そして、
小広い平地になってひらけたその峠は、風と雪と、乱れ飛ぶ落葉松の落ち葉の、すざまじい狂乱の舞台だった。風に吹き払われる金色の落葉松の葉が、舞い狂う雪と一緒にいちめんに空を飛び散っていた。滅びるものは滅びなければならぬ。一切の執着を絶て!
最早そこに、悔いも迷いも、ためらいもなかった。すべてがただ急いでいた。ひとつの絢爛を完成して滅びの身支度を終えた自然が、ひとつの季節の移りをまっしぐらに急いでいた。
小学生の時から、いわば本の虫で、山に関する本もただやたらに読んできたが、この文節ほど、自分の心にしみわたったものは数少ない。畏友山川陽一は山口さんと親しく、彼の紹介で夕食をともにしたことがあった。そのとき、この落葉松峠がどこなのか、聞いてみたが、本人も忘れました、と笑っておられた。今考えてみると、他人には語りつくせない、なにかを感じられた場所だったのだろう。そして何回目かに読み直してみて、自分もまた、山口さんがこの無名の峠でいだかれた感動を理解できる時をむかえているのだ、と感じる。
久しぶりにその八ヶ岳の麓に来た。近所をあるいてみると、まさに百花繚乱、という初夏だ。落葉松峠はどんな夏を迎えようとしているのだろうか。
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専門医は「物忘れ」を訴えてきた患者さんにどんなことを調べる?
最近、テレビでの「MCI」のコマーシャルのせいもあり、外来に家族に連れられて「物忘れ」を訴えられて来られる方がますます増えています。「MCIって」と思われた貴方! 今までこの駄文を読まれたことはないですか??
物忘れがある場合は 大体 精神科医か脳神経内科医を受診される方が多いようです。その2つの科が認知症治療の大半を担っているのが本邦の現状です。脳神経外科医は頭の手術が専門ですし(お年を召してもう手術を諦められた方は別としても)、一般の内科の先生方は認知症の診断と治療に関しては、十分な知識をお持ちでないことも多いからです(若しこれをお読みの一般内科や脳外科の先生が居られたらごめんなさい。でもこの考えは例外を除いては 間違っていませんよね?)。
これらの専門医のところではまず詳しく症状の経過、何時から気になる症状があるか、いままでどんな病気をしたか、お酒は? タバコは? 便通は? 夜、何回トイレに起きるか? 今服用している薬は? などなどをしつこく訊かれるでしょう。その点を省略される病院があったら、転院されることをお勧めします。
問診がすんだら、肝硬変とか腎機能低下、甲状腺機能低下などでも認知症様の症状が出るし、合併症治療も必要ですから、一般的な採血・検尿は必須です。最近撮っていなければ胸のレントゲン、心房細動や心不全のチェックもやりたいですね。持続性の心房細動(心臓がバラバラに打つ病気)は認知症の大きな誘発因子であることは最近沢山の報告があります(知らない医者もおられますが)。
同時に行うのは、頭部のMRIと脳血流検査。MRIが取れない人はCTで代用しますが、CTはMRIより感度ははるかに落ちます。やらないよりマシという程度。 脳血流検査で血流低下があれば、その部位に注目。低下のパターンにより認知症があってもその原因が異なります。当然、治療法も多少異なります。
次にこれも必須なのは、神経心理テストとも呼ばれる検査。キチンとした病院ならば医師自身か専門の技師さんが行ってくれます。MMSEとかCDRと言われる検査です。MMSEは万国共通のテストで、100から7を何回も引かされたり、物の名前を3つ言われて3分後にまた訊かれたり、絵を描かされたり、可なり屈辱的と思われる方もいるかもしれません。まあ我慢、我慢。検査中に怒ったりすると、症状の一つに加えられたりするからご注意を。この検査は30点満点です。最低、27-28点はとって欲しいな。30点が理想だけれど。 CDRはパートナーとか本人をよく知るご家族からも様子を訊く検査で、これが行われないと現段階では最新の治療は原則受けられません。どなたか身近な方に一緒に行っていただく必要があります。普段から 自宅では「いい子」でいる必要がありそうですね。
これらの検査を全て総合して主治医は病気か否か、認知症があるならその程度と診断名(原因)および治療方針を考えます。ただ認知症かあるか否かだけの診断なら、頭が痛いと言ってきた患者さんに、「それは頭痛ですね」と医者が言うようなものです。キッチリ認知症の有無のみならず、その原因を推測して、さらに生活指導や治療方針を考えてくれるのが本当の専門医なのです。
白衣を着ていれば、誰でも信用してしまう時代は終わりました。
中華文明が描く未来 高速道路には大型バスから普通車まで電気自動車(EV)が多く走っている。車両のエンジン音は実に静かな大通りである。整然とした街並みが続くが、どこでも騒音が聞こえる。人々の会話と罵声のせいだ。耳障りな発音は中国語独特なイントネーションの高い発声によるものだろう。
米国を抜き世界一
近代都市に進化した北京を訪れた。なんと50年振りである。あの頃、真夏の夜、北京はどこも暗く古臭い匂いがした街だった。指定されたホテルは冷房も無く寝苦しかった記憶がある。薄暗い廊下の片隅で服務員と呼ぶ女性が外国人宿泊客を監視していた。あれから半世紀、中国は驚異的な発展を遂げて世界の強国になり自信満々である。まもなく米国を抜き世界一になるだろう。中華千年の夢は正夢になるだろうか・・・・。
「自由からの逃走」
北京駅の近くにあるビル屋上から北京市中心の高層ビル群を眺めた。1958年の建国十周年に建設された北京駅には群衆が溢れていた。50年前は個人で電話を所有することができなかった貧しい人民は、公衆電話に長い列を作っていた。現代中国はスマホ時代になっている。どこでもQRコードによる身分証明や外人にはパスポートの提示が求められる。厳しい統制と管理にITが活用されている。やがてAIによりあらゆる分野の隅々まで制御されていくだろう。監視カメラは至る所に見られた。
老後は健康と安心そして見守り介護による監視。自由があり過ぎて不安になってきた。「自由からの逃走」ふと考える。
アヘン戦争の屈辱 習近平主席は、アヘン戦争の屈辱を今でも語るそうだ。その敗北により1842年の南京条約が結ばれイギリス帝国主義による侵略は始まった。
卑怯にもアヘン密売を理由にして「香港」を奪われて多額の賠償金まで支払った。弱体化した清朝末期になると西欧列国から侵略の餌食になった。
日本も帝国主義諸国に加担し1919年には山東省・青島に拠点を確保。
私は1942年に青島で生まれた。私の父は軍人でなく製薬会社の社員だった。「青島」の想い出は、ドイツ風のお洒落な街並みであったこと。そして後になり青島ビールの味を知り、青島生まれであることを誇りにして来た。中国は第二の故郷として郷愁と憧れの国である。
秦帝国の復活 秦の始皇帝は紀元前221年頃に中国初の皇帝になった。秦朝の誕生である。20世紀の毛沢東による中華人民共和国の誕生はまるで秦帝国の復活のように思えた。10年前に西安で始皇帝陵の「兵馬俑」を見物したことがあった。約8,000体の「兵馬俑」があり、どれ一つとして同じ顔をしたものはなかった。始皇帝麾下の軍人を写したものである。兵馬俑の軍団は世界を威圧していた。現代の中国はこんな無謀な思想を信じないことを期待したい。
「万里の長城」 ドナルド・トランプはメキシコ国境に「万里の長城」を築くと演説して、米国大統領に当選した。トランプと始皇帝は洞吹き仲間である。トランプは裸の王様で憎めないコメディアン。始皇帝は偉大な歴史クリエイター。
「万里の長城」は宇宙から肉眼で見える唯一の建造物とされるが中国宇宙船からは確認できなかった。笑い話である。
「万里の長城」は秦時代の始皇帝が最初に発案し、紀元前3世紀頃から明時代に本格的に整備され17世紀に完成した。 長さは東の「山海関」から西の「嘉峪関」まで総延長は約6000kmで、北海道から沖縄まで日本列島の距離に等しい。 「万里の長城」は異民族から中国を防衛するという重要なシンボルであった。軍事強国になった中国にとり無用の長物、歴史的遺跡になった。
故宮と紫禁城 映画『ラストエンペラー』(ベルナルド・ベルトルッチ監督1987年)は「紫禁城」が舞台だった。清朝最後の皇帝である「愛新覚羅溥儀」の波乱に満ちた生涯を描いていた。幼少期の溥儀が皇帝として即位し、紫禁城での孤独な生活を送るところから始まる。その後、溥儀は清朝の崩壊とともに権力を失い、満州国の傀儡皇帝として再び権力を手に入れたが、最終的には日本の敗北と共に捕虜となり、共産主義中国の下で再教育を受ける。映画の最後では、溥儀がかつての権力者から一介の市民として生きる姿が描かれ、溥儀の波乱に満ちた人生が締めくくられる。 音楽は坂本龍一が担当していた。
天安門広場
天安門広場に立つと真っ先に目に入るのは、大きな毛沢東の肖像と左右の二つのスローガン「中華人民共和国万歳」と「世界人民大団結万歳」である。建国の父、毛沢東は自信満々であろう。人民解放軍を名乗りゲリラ戦から内戦と抗日戦を戦い続けた綿入れの人民服と帽子は今では古き良き時代の思い出になった。
私の幼少期、1942年の青島は平和な町であったが中国人から「パーロ・ライライ」というコトバをよく耳にした。「八路軍」が来るという希望に満ちたコトバだった。「八路軍」とは中国人民解放軍の初期の名前だった。中国は自信満々の強権国家になったが、「中華千年の夢」は泰平である。大切にしてもらいたい。世界の平和に積極的に貢献してほしい。中国人民の優しい人柄は大好きだ。
「青島ビール」を仲良く一緒に飲み、平和を語り合おう !!
(42 河瀬)中国、特に北京の変化は目まぐるしい。昭和の時代には「眠れる獅子」と言われた国が、America first & onlyでなく last & lonelyとなりそうな国を抜き、
(編集子)小生現役の時代が、河瀬兄の言われる ”グローバリゼーション”とやらの最盛期だった。アメリカの優良先進企業、という世間の評判にかけて、小生の勤務先もその具体化というか実行というか、にえらく熱心だった。ま、反対じゃないけど、あんたの言ってるのは globalization じゃなくてcaliforniazation じゃやねえの? なんて思っていて、みんながなびいてる中で白眼視されたもんだ。世界が同じ、なんてこたあり得ない、と思っているのだが。これもまた、天邪鬼のひがみかねえ。
この本の帯に、「借財10万両から蓄財10万両へーわずか7年で財政を建て直した備中松山藩(今の岡山県)の改革」とあったから、てっきり、儒学者である山田方谷(ほうこく)が、どうやって10万両を返済し、どうやって10万両を蓄えたのかが、縷々述べられるものと思っていた。ところが、この本は、羊頭を掲げて狗肉を売る類いの話しではないが、全く違って、何のことはない、返済し終わった後の後日談で、その主題は、正に江戸時代が終わらんとする幕末の動乱期を扱っている。
確かに、当初の思惑とは違った内容となっており、470頁をも超える長丁場となったが、大変、面白かった。松山藩の藩主である板倉勝靜(かつきよ)を江戸幕府の老中に召し出されたが故に、松山藩に降りかかって来る、朝敵の汚名をどのように漱ぐのか。そして、山田方谷を筆頭に時代の波に揉まれながら、懸命に生きる人々を描く、幕末群像劇でもある。
なかでも、極めて印象的だったのが熊田恰(あたか)の生き様だ。鳥羽伏見の戦いでは、藩主板倉勝靜の親衛隊長として大阪に詰め、その後、藩兵157人を率いて海路玉島(現在の岡山県倉敷市)に逃れるものの、朝敵として岡山藩に包囲され、恭順の証として、1868年1月22日、熊田は切腹し(43歳)、藩兵の生命と玉島を戦火から救うこととなった。年寄役200石取りの武士だったが、没後、300石取の家老となり、また、朝敵ではあるが、神となって熊田神社に祀られている。
物語りは、その熊田が山田を襲うところから始まる。何故なら、山田が卑賎の商家の出にもかかわらず、藩の財政を建て直したことにより、異例の昇進を遂げ、藩内の怨嗟の的となっていたことから、「君側の奸は除かねばならん」。しかし、山田を直接知り、その謦咳に接するに及んで、山田の並外れた無私さに敬服し、素直に、山田の用心棒となる。それが、最後の最後、逆に熊田が切腹することになるとは、何とも皮肉な話しではないか。
山田の藩財政を建て直したと言う盛名は、それこそ全国の津々浦々まで鳴り響いており、越後長岡藩の河井継之助、会津藩の秋月悌次郎などが弟子入りのため山田の下にやって来る。
加えて、伊豆の韮山代官、江川太郎左衛門、上州安中藩、新島七五三太(しめた。後の襄)などが登場し、その他に、澤田の架空人物が数多登場するのは言うまでもない。
確かに、江戸城は無血開城された。とは言え、革命には、つきものなのだが、会津の白虎隊しかり、五稜郭の幕府軍しかり、あるいは、この熊田しかりなど、その犠牲になった人々は枚挙に暇がない。そこに悲劇が生まれることになるのは言を俟たない。
最後、山田の詞、「世は移ろい、孤城は春にして、人は変わらぬ今日を迎える」でこの本は終わるのだが、その題名「孤城 春たり」はそこからとったものと思われる。
これは余談となるが、その後、山田は、岩倉具視、大久保利通らからその能力を高く評価され、明治政府の会計局(旧大蔵省)への出仕を求められ続けたが、老齢と病、郷学(一種の教育機関)に専念したいことから固辞し続け、明治10年、73歳にして亡くなった。なお、これも全くの余談だが、地元では、山田方谷をNHKの大河ドラマにと言う運動もあるらしい。また、板倉勝靜は、最後の最後まで佐幕を貫き通し、明治5年、特旨によりやっと赦免された。
なお、澤田瞳子には、画家、河鍋暁斎(きょうさい)の娘、暁翠を描き、直木賞を受賞した「星落ちて、なお」があり、これも、また面白かったことを付け加えておく。
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山田 方谷(やまだ ほうこく)は、幕末期の儒家・陽明学者、備中松山藩士。方谷は号。諱は (きゅう)、字は (りんけい)、通称は安五郎。備中聖人、小蕃山と称された[1
昭和の日というのが元々の昭和天皇誕生日(祝)だったと、毎年のように思い出すのは殆どの我々の世代人の感傷的な感覚かも知れない。
思い出す昭和の情景は人それぞれ又、その時々によって違って当たり前だが、今年の昭和の日に偶々思い出したのは新規開店したスーパーの商品棚に並ぶ各種の“飲料水”と“缶ビール”のことだ。私が初めて飛行機で外国へ行ったのは昭和38年(1963年)からの1年間に西ドイツへ滞在した時だった。日本では空気と水とはタダ(無料)で、どこででも飲める物であって、水に金を払って生活するなんて、何たることだと思っている人がほとんどだった。当時、ヨーロッパへ出張に来る日本人とレストランに食事に行くと、注文しないと何も出てこないのを訝って、殆どの人は先ず私に向かって発する言葉は“何故、先ずテーブルに水を持ってきて注文を取らないのか?“という習慣の違いからくる質問だった。理由が理解できた日本人は漸く、飲み物の注文に入ろうとするが、“昼間だから水にしておこうか”となったとする。注文取りに来たフロイライン(Fraulein)又はヘア・オーバー(Herr,Ober)、つまりウエイター又はウエイトレスから、“Mit Gas oder Ohne Gas”と必ず質問が来る。つまり、水(Wasser)は分かったが、“ガス入りかガス無しか“という2者選択をしないとWasser(水)の注文が決まらないのである。日本ではガス入りの水などは当時は殆ど飲まれていないので、説明すると理解した人は、“それでは、ガス無し”とやっと注文が終わる。私に限らず、少々、ドイツ慣れした輩は“Mit Gas”と何となく注文するようになっていた。これらの日本からの来客との会話の中で、必ずと言ってよいほど出てくるのは、“ドイツではビールより、水の方が高いくらい“という話題だった。一般には当時でも航空機内で出されるミネラル・ウオーターはフランス産のEvianが高級でVittel etcはやや落ちるイメージを持ったものだ。
その後60数年後の今日の日本のスーパーマーケットの飲料棚には、ところ狭しと各種ビールとミネラル・ウオーターが目白押しで、先日買って初めて飲んでみた≪新!All FREE(ノンアルコール≫(サントリー)まで入れると、最早、日本でも安いのはビールかミネラル・ウオーターか分らない状態になっている。つまらないことを思い出した昭和の日だった。