(菅原)本日の日経朝刊の一面に「失速ドイツ 原発訣別の誤算」と言う記事が載っていた。加えて、フォルクスワーゲンの人員削減、工場閉鎖など、どうも大変なことが山積みになっており、ショルツ首相は四苦八苦しているようだ。小生、ドイツ学(?)の専門家ではないが、ドイツが現在抱えている問題の殆どは、実は、A.メルケルが残したものだと思っている(メルケルが旧東ドイツ出身だったため、ロシア、中国と仲良くし過ぎたと言う穿った説もあった)ショルツはそのシリヌグイをさせられているんだろう、と、小生は思っているのだが、ドイツ滞在が長かった飯田兄のお考えを聞きたい。
(飯田)メルケル政権の功罪の罪の面では前政権シュレーダー首相の改革により経済成長が波に乗り、メルケルがこれを後押しする政策を取って、ドイツが立派な輸出大国に生まれ変わった結果、大胆な改革を断行するための資源を手にしていたのに内外ともに動かなかった点だと思う。
メルケルは閣僚時代から真面目で仕事熱心、しかも賢く有能だという定評があった。朝早くから仕事を始め書類に丹念に目を通し会議で人の意見を良く聞き目の前の課題を着実に解決していく。それなのに改革が断行できないのはビジョンがなかったからだろうと思う。
改革を主導するには「社会や国がかくあるべし」というビジョンが必要なのに、それが無く調整役としての才能に徹してEU分裂危機やユーロ危機を乗り越え、ドイツを安定させた功績を残すにとどまった。
フランスではマクロンが「欧州主権」という野心的な目標を掲げ大統領になった時も、メルケルは彼とは個人的にウマが合うとされるし、協力しようと思えばいくらでもできたが乗らなかった。フランスがいくら旗を振っても財布を握るドイツが動かなければ物事は進まない。EUは変わらなかったのだ。
思うにメルケルの最大の失敗はシリア内戦などの難民受け入れ問題で100万人規模を受け入れる案の主導的立場を取った2015年頃のことではないか。私が生活していた頃の西ドイツでもイタリア、ギリシャ、イラン辺りからの移民が沢山、土木建設業に従事していたが、その頃は黒人は全くと言っていいほど街中には見られなかった。しかし、2000年代になってからの私的な旅行時にはハンブルグにさえ多くの黒人が働いていて、驚いた記憶がある。
第2次大戦後のドイツは東西分裂後の西ドイツBundesrepublik Deutschland)は、中道右派と左派の首相が入れ替わり立ち代わりに誕生して政策運営をしてきた。アデナウワー(CDU-中道右派)、ブラント(SPD^中道左派)、シュミット(SPD)、コール(CDU)、シュレーダー(SPD)、メルメル(CDU)、シュルツ(SPD)と。こういう変化を考えると、私が東西分裂の西ドイツに居た頃(1964年の1年間と1973~77年の4年間)の感覚で、現在のドイツを評論するのは感覚がずれている恐れが多いので差し控える。
例えば、自動車業界だけでも、1964年にはAUDIは未だ無く、Auto-Union-DKWと言う車種が走っていたが、その会社がAUDIとなって誕生していた。Ford Taunusと言うドイツ・フォード社の車種も964年には人気があった。当時の西ドイツは主力の鉄鋼・自動車・化学工業が極めて健全な戦後回復期だったと今になって感じるところがあり、化学業界は第2次大戦前の財閥の所謂イー・ゲー・ファルベン(!.G.Farben)が、3分割されたバイエル(BAYER),ヘキスト( HO”CHST),ビー・エー・エス・エフ( BASF)の3社が業界を牛耳っていたが、現在はその面影もなく産業構造が変わってしまっている、という具合なのだ。
1973年時代にハンブルグで家族ぐるみで親しくしていた日本人夫妻(夫はクオーター・ドイツ人)がその時以来ハンブルグに住んでいて、今秋に日本にやっと帰国してきた友人から聞けるドイツ人の感覚を一度聞いてみたいと思っている。
(菅原)そうか、メルケルの最大のチョンボは、大量の移民の受け入れか。これでドイツは大分変ったんでしょう。多様性なんて誰が言い出したんでしょう。左巻きの連中か。
(編集子)足掛け2年くらい、ドイツ語初歩の習得をしたいと思い、ネットで探したドイツ人の個人レッスンを受けた。30歳後半で米国での生活も経験し、日本人と結婚したという現代風の若者だったが、飯田君が指摘した移民の急増がドイツ文化を混乱させている、という実情を例を挙げて話してくれた。理想論として反対はできないが、正直言えば迷惑だ、という感覚だった。日本でも昨今、外国人による犯罪の多発が問題化している。欧州のように他国と隣接する長い歴史があるところでも起きる社会現象が日本で引き起こす問題ははるかに深刻になるのではないか。