推理小説、というものがいつから始まったか、については専門家の間でもいろいろと議論があるようだ。ま、アマチュア読者であれば、通説どおり(先日菅原君が乱読報告の中で書いたように)、エドガー・アラン・ポオの モルグ街の殺人 だというあたりで十分だが、このジャンルの作品が広い範囲の読者層に浸透しはじめたのが1920年代、大戦前、西欧社会が新興国アメリカを迎え入れて穏やかに機能していた時代のことだ。この初期の作品は (誰が犯人か) の追求に徹していて、Who’s done it ? 派、日本ではそのままカタカナ読みをして フーダニット、作品と呼ばれるものだった。この流れは推理小説が無視できないものに成熟してくると、だれが、というよりもその殺人はどうやっておこなわれたのか、How’ s done it. ハウダニット 論理、つまり奇想天外な殺人方法を競いあう結果になってしまった。やがて、その反動として現実社会とのつながりを無視できない、犯罪の後ろにある現実とのせめぎあいを語るほうに移って行き、Why done it ホワイダニットと呼ばれる作品が増えていく。それが文体も初期の、ハイブラウな文体から直截的な、簡潔な文体で語られるようになり、現在のハードボイルド と呼ばれる作風に変わってきた。
1920年から30年代へかけて、いわば推理小説の黄金時代、と呼ばれる頃の作品は主流は当然ながらフーダニット思考のものであって、英国ではクリスティ、クロフツ、チェスタートン、メイソン、そのほか有名人や純文学者が手掛けたものなど、現在まで読み継がれる作家が並ぶ。かたや当時新興国であったアメリカでは、文化圏はニューヨークを中心とする東海岸であった。そこで開花したアメリカ版推理小説の代表格が,ハウダニット論理を中核に据えたヴァン・ダイン,ディクスン・カー、それからエラリー・クインなどだった。高校時代、菅原にそそのかされてこのあたりの名作は一応読んだし、エラリー・クインもその中に当然入っていた。
識者の推理小説作品に対する評価はいろいろあるが、ベストといわれる中にいつも顔を出すのがクイーンの Yの悲劇 だが、それと合わせて彼の代表作とされるのが、題名に国名を使った9冊で、国名シリーズ、とよばれる。”ローマ帽の秘密” でイタリアをタイトルにとりこみ、以後、”オランダ靴“ ”アメリカ銃” ”フランス白粉” “チャイナオレンジ” ”スペイン岬” ”シャム双子“ ”エジプト十字架” ”ギリシャ棺” といずれもタイトルが国名と MYSTERY という単語で統一されている。このシリーズに対抗したクイーンの好敵手、ヴァン・ダインはその12冊の作品のタイトルを 例えば The Bishop Murder Case” (邦題 僧正殺人事件)というようにすべて murder case とするなど、対抗心をあらわにしてクインと争った。この二人の作品に共通する要素は、あきらかにクリスティのように真っ向からなぞに挑むだけの作風に,how’s done it 的な要素が目立ち、さらにあたかもイギリスに対して新興国の知識階級の意地を張るかのように、衒学趣味が濃厚に加わっている。特にダインの作品は著者(匿名で書き始めたが実は高名な文学批評家だった)の主に美術の分野だが、博識・知見をくどくどと述べるので辟易する人が多い。
僕は創元社の文庫だったと思うのだが、国名シリーズはわりに早い段階で読み終えている。今回、改めて原文に挑戦してみたのだが、ほぼ1世紀まえに米国の知識階級の話すことばや生活態度が、現在のアメリカとどれほどかけはなれていたか、を感じながら読んだ。また、国名シリーズでいえば、日本とドイツとなにより英国がその中に含まれていない。シャムすなわちタイなどが入っているのに、である。この国名シリーズ9冊とはべつに、ニッポン樫鳥の秘密 という一冊もあるのだが、これだけは国名シリーズと数えていない。このあたりは当時の世界情勢を暗示しているようでもあり興味深く思った。
読み返してみて思うのだが、このシリーズで、国名すなわちその国との関わり合いが筋の展開に不可欠なのはシャムとエジプトとギリシャだけで、ほかは国名を入れ替えても成り立つストーリーだ。例えば中でも長編の フランス白粉の謎 の場合をとれば、白粉がフランス製でなくとも全く筋に関係しない。このあたり、ひょっとするとクイーン(または出版社か)の巧妙なマーケティング戦略であったかもしれない。話の展開上、上記のような(白粉の話)ことはミステリ物を紹介するときにあってはならないのだが、いずれにせよ、この時期に現れた作品は、現代風の書き方の作品とくらべるとゆったりした気分で読めるのが古典の良さなのだろう。クインの主な作品はほとんどすべて早くから邦訳があり、特に井上勇氏の訳は高く評価されている。ミステリ、というジャンルにまったく興味のない人がほとんどかもしれないが、クイーンの代表作、Yの悲劇 や クリスティなら 読みやすい オリエント急行の殺人 とか そして誰もいなくなった くらいはお読みになることをお勧めしたい。ストーリーはともかく、ハードボイルドといえばまず出てくるレイモンド・チャンドラーの 長いお別れ などは文章あるいはその書き方自体が英語の教材になるとすら言われていることも付け加えておこうか。