デビッドオ―スチンが枯れた      (41 斉藤孝)

豪華な英国バラ「デビッドオースチン」が枯れた。老衰なのか ?

「クイーンエイコ」と名付けて大切に育ててきたのに・・(ショック)。小さな庭は寂しくなった。世界も混沌として情けない状況である。 

「民主主義は錆びついたのか」

錆を落とし磨けば、民主主義は再び輝けるのだろうか・・・。アメリカも日本も世界中の民主主義に対して是非とも元気になってほしい。 

11月末になり中庭のケヤキの葉は黄色くなり小さな庭にも紅葉が始まった。真っ赤なコリウスは炎のように咲き誇っている。名残のバラが一輪、寂しげに咲いている。

枯れたツボミと葉をこまめに取りさる。手首が傷み腰の動きも鈍い。「花咲か爺さん」は枯れ木に花を咲かせたい。励みになるコトバだ !! こ れから真冬はラベンダーとローズマリーは生き生きと伸びていく。ほのかな香りがしてくる。心に安らぎをもたらす香り。

青みがかった紫色の花は、立ち姿がキリッとした高貴な姿である。夕闇が迫る頃、真冬の香水花を相手にしてワインを飲む。

 

同期合宿    (42 保谷野伸)

10日は同期のミニ合宿で「八ヶ岳高原ロッジ」に泊まり、併設の人気音楽堂で「森山良子&秋川雅史のコンサート」を楽しみました。

人気の出演者の場合、まとまったチケットを取得するのは至難だそうですが、偶々54年卒の岩見君が八ヶ岳高原ロッジの社長在任中だったため、(9月退任)12名分のチケットを取ってくれました。

森山良子は、76才という年齢をを感じさせない歌唱力が見事でしたが、秋川雅史(57才)も、あの圧倒的な声量は健在で迫力満点でした。なお、最後に二人で歌った「タイム・トー・セイ・グッドバイ」は圧巻でした。

さて、10日は丁度(同期の主治医)Dr河瀬の卒寿誕生日だったため、部屋で、同期の女性(マコ)が用意した「リンゴケーキ」でお祝いしました。帰りはシモさんの車含む2台(6名)で御岳昇仙峡に寄って帰京しました。紅葉はイマイチでしたが、好天に恵まれ、仙娥滝等渓谷の秋を満喫しました。

*添付写真は「八ヶ岳高原音楽堂」と大昔の田宮二郎主演のテレビドラマ(高原にいらっしゃい)のモデル「八ヶ岳高原ヒュッテ」(現在はレストラン)及び昇仙峡の高さ30m、日本滝百選の「仙娥滝」です。

エーガ愛好会 (288) 意思の勝利 (普通部OB 菅原勲)

「意志の勝利」(原題:Triumph des Willens。監督:レニ・リーフェンシュタール。以下、レニと省略。1935年)を、15年前の2009年、確か、渋谷の小さな映画館で見た。

この映画のことを思い出させたのは、11月に入って、ノン・フィクション作家、沢木 耕太郎の「オリンピア1936 ナチスの森で」(1998年)を読んだからだ。勿論、沢木は1947年生まれだから1936年の五輪は見ていない。しかし、幸いなことに、まだ選手(例えば、男子三段跳で世界記録を樹立し、日本の三連覇に寄与した田島 直人)をはじめとする当事者への聞き取りが可能な時期だった。加えて、沢木はその時、90歳を優に超えているレニ(1902年生)ともインタービューしており、そこで「意志・・・」にも言及されていたからだ。

小生、同じ、レニの1936年ベルリン五輪の「民族の祭典」は見ていたが、これは陸上競技を扱ったものだ。が、ここで、沢木は「レニのオリンピア(「民族の祭典」、「美の祭典」陸上競技以外の種目)は、必ずしも正確にベルリン五輪の姿を伝えるものではなかった。オリンピアは彼女の美意識によって事実の変更が大胆に行われていた」、と述べている。具体的には、例えば、男子の棒高跳だ。これは決勝が長引いて、夜に入ったが、撮影のための照明が足りず、後日、米国と日本の選手を呼び戻して撮り直しをしている。そうであれば、「意志・・・」にも事実の大胆な変更が行われているのかもしれない。が、これは、関係者の殆どが物故している現在、最早、その証明は難しい。

「意志の・・・」は、1934年、ニュールンベルクで行われた、国家社会主義ドイツ労働者党(いわゆるナチス)の第6回全国大会のドキュメンタリー映画だ。ナチスはこの2年前の1932年、ドイツ議会に233人の議員を送り込み、既に第一党となっていた。

この映画は、勿論のことナチスのプロパガンダなのだが、その映像美は、白黒の画面と相俟って群れを抜いている。その中で、最も印象に残っているのは、一つはヒットラーの演説だ。確かに、その演説風景は、C.チャップリンの映画「独裁者」中の独裁者を彷彿とさせた(実際には、その逆で、チャップリンのヒットラーの物真似は正に抱腹絶倒だった)。

もう一つは、ドイツ人の凄まじいまでのナチスに対する肩入れだ。その典型的な例が、ツェッペリン広場での国家労働奉仕団(ナチスが失業対策として設立した労働組織)の入場風景だった。それは、各地区の整然たる行進や隊列の美しさで描写されていると共に、広場を埋め尽くした大観衆は、例えば、バイエルン、ポンメルン、シュヴァルツヴァルト、ドレスデンなどなどの各地区労働奉仕団が入場する都度その大歓声は耳を揺るがす程のもので、未だに小生の耳朶に残っている。これを見ると、有名、無名を問わず殆どのドイツ人が、ヒットラーに、ナチスに熱狂していたことが良く分かる。つまり、多少の例外を除いて、ドイツ人は総ナチス同調者だった。そこにアリバイ(不在証明)などある筈はない。にもかかわらず、有名だからと言って、有名人だけが糾弾されたのはどうにも承服できかねる。

確かに、例えば、レニはナチスのプロパガンダ映画を作成した(本人は否定しているようだが)。指揮者のW.フルトヴェングラーは、亡命せずにドイツに居残り、ナチスの高官の前で指揮を執った。また、作家のG.グラスは、武装親衛隊に入隊していた。しかし、戦後、その有名人を糾弾した無名の人たちだってナチスに与していたのだ。こう言う人たちは、無名であるが故に、恰もアリバイ(不在証明)があったかの如く、有名人たちを糾弾する。なんとまー、誠にふざけた行為ではないか。しかも、それが延々と続いたのだ。要するに目くそ鼻くそを笑うの類いの話しで、同じ穴のムジナであり、全くの茶番劇と言っても言い過ぎではない。

また、ナチスの諸々の蛮行は、ナチスがやったものであり、ドイツは全く預かり知らぬとの弁明もあるようだが、話しが長くなるので、ここでは触れないことにする。いずれにしても、西洋だからと言って、何事も無批判に礼賛するのは断固として御免を蒙りたい。

レニ・リーフェンシュタール(ドイツ語: Leni Riefenstahl)ことベルタ・ヘレーネ・アマーリエ・リーフェンシュタール

(ドイツ語: Berta Helene Amalie Riefenstahl、1902年8月22日 – 2003年9月8日)は、ドイツ映画監督写真家、女優。世界最年長のスクーバダイバーでもあった。近年ではレニを「レーニ」と表記する例も見られる。

 

 

今度は裏磐梯―日本の秋を満喫   (普通部OB 船津於菟彦)

全日本クラッシックカメラ撮影会に続いてニッコールクラブ裏磐梯撮影会に参加して、往く夏と秋来るを堪能して参りました。東京を出るときは雨でも降りそうな天候でしたがバスが北へ走ると共に空は快晴に成って参りました。翌日も雨の予報でしたが9時出発時には雨もあがり時折陽が差す天気で何とか紅葉も愉しめました。
バスは東北道を走り4時間。先ず裏磐梯の入口。曽原湖で紅葉を堪能致しました。その後周辺の小さい湿地帯を巡り曲沢湖とか白樺橋近辺を撮影して、どでかいホテル「裏磐梯レイクリゾートホテル」に宿泊して元気印の方は雨模様の中4時起きで早朝撮影に出ましたが爺やは朝の温泉を堪能して「早朝撮影」はタンマでした。翌日は指導の熱血先生が藪の中とかバスが止まれないような所の撮影スボットを巡り、足場の悪い急峻の道を登り、「幻の滝」を撮影して、十割蕎麦屋へ—天麩羅が山盛りの天ざるを堪能してまた4時間チョイで帰京致しました。

水青く石白く兩岸の紅葉哉 正岡子規 紅葉
渓声をきき寝ねんとす紅葉宿 山口青邨
湖をとりまく山の紅葉かな 正岡子規 紅葉
滝の白さなりぬれにぞぬれし紅葉なり 荻原井泉水

バスは船堀駅前を8時50分出発して曇りの東京から巻雲たなびく磐梯山の麓へまっしぐら。
曽原湖は紅葉が始まり快晴の中の撮影会、そして曲沢湖へ。湿地帯の沼で、枯れ葉かと思って足を踏み入れたらドボン。水溜まりでした。夕闇迫る白樺橋近辺を撮影して今宵の宿。「磐梯レークリゾートホテル」へ。白樺橋近辺は正に「夏が去る」の景色。野天風呂からの景色は紅葉と檜原湖が見えて幻想的でした。

翌日は夜来の雨も止み9時出発時には曇りから陽射しの差す天気となりました、誰か晴れ男い居るなぁ。バスは熱血先生の撮影指導で藪の中とかバスの止められない場所とかで絶景撮影、一番標高の高い磐梯山の登山口、最後の撮影地「幻の滝」へ。これは雨で濡れた急峻な坂道を上り爺や息も絶え絶え。 滝はやや幅か広く黄葉の中綺麗でした

昼食は磐梯熱海インターチェンジ側の十割蕎麦屋へ 天ぷら蕎麦は天ぷらてんこ盛り。食い過ぎ。十割蕎麦短くやや堅いですが「つなぎ人情の森そば」でした。バスはインターから高速へ。無事東京も雨が上がり帰宅できました。二週続けての撮影会でやや疲れましたが過ぎゆく夏。来る秋を堪能致しました。ヤレヤレ疲れました。

定年制は憲法違反か?   (36 大塚文雄)

日本国憲法の第14条には、「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」とある。同じく第22条には、「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する」とある。

今年の初めに「企業価値と富を生む無形資産」という本を書き終えてから、暇な毎日になり、若い頃から「年齢制限付き求人」(以下「年齢制限付き求人」)と「定年退職制度」(以下「定年制」)は職業選択の自由に反しているのではないかと疑っていたことを思い出した。

1952年に制定された雇用対策基本法では、社員雇用時の年齢制限について何の決まりもなく、年齢制限付き求人が当たり前だった。それが法律違反になったのは、2007年の雇用対策基本法改正で、「事業主は、労働者の募集および採用に際して、年齢にかかわりなく均等な機会を与えなければならない」と制定されてからだ。禁止される前から行政指導や労働行政官の裁量などで企業の自主的努力を促していたのが実態であり、労働立法・労働行政の関係者の中には憲法違反と認識していた人が多数いたのだろう。

もう一つテーマ「定年制」も高齢者の働く自由を奪う点で、年齢制限付き求人と同じく「職業選択の自由」に反すると私は考える。しかし、定年制を経験した者として法律で禁止するまでのことはないと思う。長期雇用が一般的な日本では、現在進行中の雇用契約が数千万もあり、それを禁止するのはあまりにも非現実的だ。社員・会社・社会に与える影響は甚大で、日本の企業文化に深く根付いている定年制を法律で禁止するのは「やり過ぎ」と思う。将来、仮に定年制が日本国憲法に違反するという判断に至ったとしても、社員の意向を十分に取り入れて柔軟な高年齢者制度にすることが賢明だろう。既にそうした立法はその方向に動いていると思う。例えば、「高年齢者等の雇用の安定等に関する法律」では定年年齢が65歳未満の定年制の場合、65歳まで安定して雇用を確保するために次のいずれかの措置を取ることを求めている。

一、定年の引き上げ。

二、継続雇用制度の導入(現に雇用している高年齢者が希望するときは、

当該高年齢者をその定年後も引き続いて雇用する制度)。

三、当該定年の定めの廃止。

これは定年65歳未満の会社に対するもので、すでに65歳定年制の会社には適用されない。現在65歳を定年としている会社が継続雇用制度も併用して「ただし、本人が希望する場合には70歳まで継続雇用する。その場合会社が指定する医療機関で健康診断を受けること」というような事になるのが望ましい。高齢者の働く自由を守るのは大切だけれど、仕事ができる健康状態であることの確認も等しく大切です。

米国大統領選挙と民主主義について

石破政権誕生よりも多くの人が関心を寄せたと思えるほど、今回の米国大統領選挙と結果をめぐっていろんな議論があるようだ。それぞれに納得するのだが、ただ一点、絶対に間違っている認識だと思うのが、今回の結果が米国における民主主義の弱体化のせいだ、という議論である。

小生は今回の選挙の結果は米国の民主主義がいまなお健全であり、われわれの範とすべきものだ、と確信するものだ。民主主義の根底は個人の意見意思がそのままに政治に反映されることにつきる。今回の結論を見れば全米50州のうち、かつて民主党地盤とされた、いわゆるブルーステートの多くが共和党州すなわちレッドステートに入れ替わっている。これは人々が明確に民主党の主張よりも共和党のそれを選択したからであり、従来のいきさつにひきずられることなく、個人の意思が示された結果だ。これほど民主主義の原則を明確に示した結果はあるまい。また、敗れたハリスもきっぱりと結果を尊重し,新政権との平和的な引継ぎを確約した。このことはもう一つの政治システム、二大政党制の健全さを示すものだろう。

今回の結果起き得るトランプ政権の動向に多くの人が不安を感じ、世界的な影響を憂えるのは確かだ。そのため、我々外国人のあいだには反トランプ感情があったのは事実だし、小生もその一人だ。しかしそれは民主主義の崩壊などという感情的な論理とは全く別の次元での問題であり、原因と結果の取り違えをしてはならない。今回の歴史的事件を見て、われわれがいま憂うべきは、米国ではなく我が国の民主主義のあり方ではないか。これは議会制度と大統領制との根本的な違いでもあるが、総理大臣が決まる過程そのものに党利党略がからんだり、民主主義政治の重要なインフラであるべき基本的なしくみである二大政党制がいまだに実現していないことにつきる。与党内部の暗闘や駆け引きはもちろん問題だが、何よりも憂うべきは、健全な野党が生まれないことだ。さすがに最近の言論の場にマルクス・レーニンが登場することは少なくなったが、現実離れした理想論にしがみつき、今なお憲法九条があるから戦争がないのだなどという妄想におどらされる空疎な議論から脱却しない限り、二大政党の実現は今なお道遠し、と言わざるを得ない。

トランプMAGA政権が何を引き起こすのか、不安は数多い。なかでも地球温暖化という現実からさえ目を背けようとするトランプの論理に背筋が寒くなるのは事実だ。しかしその不安があるからアメリカの民主主義が崩壊した、などという議論は、くりかえすが原因と結果の取り違ええあり、全くの空論に過ぎない。それよりも我が国の民主主義の仕組みがいまなお不全であることのほうがはるかに問題なのではないだろうか。

(菅原)首件を拝読。

「今日の結果が米国における民主主義の弱体化のせいだ」。誰がこんなバカバカシイことを言ってるのか知りませんが、どうせ左巻きの連中でしょう。つまり、エセ共産党である民主党のハリスを応援していたところが、トランプが勝っちゃった。連中が信奉していた多様性とか包摂性などが否定されたわけだ(民主主義は多数決)。これは、米国が賢明な選択をしたことを意味する。つまり、米国の民主主義は極めて健全である。左巻きの連中は、世の中の選択が間違っているのであって、自らは一切反省なし。でも、お互いを罵り合うのは、日本では真似したくない。

 

乱読報告ファイル  (63) ぎやまん物語 (普通部OB 菅原勲)

北原亜以子の「ぎやまん物語」(出版:文芸春秋。発行年:2014)を読む。著者、北原は1938年生まれだから、小生と同い年なのだが、残念ながら、2013年3月、心臓の病で亡くなった(享年75歳)。

ギヤマンとは、オランダ語(Diamant:ダイヤモンド)が語源のガラス製品のことだそうだが、ここでは手鏡の事を指している。それを狂言回しにしており、その特徴は、手鏡を擬人化していることだ。勿論、鏡に映る範囲では見ることは出来るが、喋ることは出来ない。ただし、聴くことは出来る。そこで、見たこと、伝聞を含めて聞いたことを読者に伝えると言う形で物語が進行して行く。そこには、手鏡の見解も含まれているが、それは、言うまでもなく、作家、北原自身の見解でもある。

話しは、ポルトガルの宣教師が持って来た手鏡を豊臣秀吉がオネダリして譲り受け、それを正室の北政所、於祢(おね)に渡すところから始まる。そこからその手鏡は、拾われたり、貸されたり、貰われたり、などして、以下の様に、転々と人から人の手へと渡って行く。彼らは、秀吉の側室お茶茶(淀殿)、徳川秀忠の正室お江、徳川家光の乳母お福、などなど、歴史上の人物で、夫々が一編の短編となっており、都合して16編から成り立っている。言い換えれば、全437頁に溜め込んだ簡略日本史と言っても差し支えなかろう。

そのなかで小生が最も記憶に残っているのは、以下の二つだ。

一つは、新選組による芹沢鴨の暗殺だ(「落日」の前篇・後編)。何故か、手鏡は芹沢鴨の手に落ちるのだが、その鴨に対し、手鏡、即ち、北原は、「鴨は多分、京都守護職の動きを尊攘派に漏らしていた。尊攘色の強い水戸で生まれ育ち、急進尊攘派として暴れ回っていた鴨が、近藤達と一緒に京に止まる理由は、幕府側の動きを尊攘派に伝える、それしかない」。つまり、鴨は討幕派だったと言うことになる。小生の認識不足もあろうが、この暗殺は、これまで、新選組内部の単なる内輪もめ、内ゲバだと思っていた。ところが、これを読むと、鴨は、新選組に潜り込んだ、今で言うスパイだったことになる。そうだとすると、沖田総司以下による暗殺行為は正当化されることになるわけだ。

もう一つは、「終焉」だ。手鏡を持っていた十四代将軍家茂の侍医である松本良順が、その診療所の手伝いに来ていた土肥庄次郎にその手鏡を渡す。何故なら、土肥が上野の山に立て籠もっていた彰義隊に参加することになり、手鏡を弾除けとして使うようにと渡したからだ。結局、新政府軍と一戦を交え、彰義隊は敗北。その際、流れ玉に当たって、手鏡は、最後に、上野の彰義隊と共に砕け散ってしまう。ここには、薩長政府に対する、江戸っ子の反骨心、反骨精神が垣間見え、物悲しさも漂わせ、そして、切なさをも感じさせ、山田風太郎の「幻燈辻馬車」を思い出させる。ここで、山田はもっと端的に薩長新政府に対するあからさまな嫌悪感を表明していた。この薩長政府に対する北原の反感は、東京・新橋の祖父からの椅子専門の洋家具職人の家に生まれたことと密接に関係しているのではないだろうか。格好良く言えば、江戸っ子としての矜持か。

なお、北原には、シリーズとして、人情ものの「深川澪通り木戸番小屋」(全:6巻)、元同心ものの「慶次郎縁側日記」(全:18巻)などがあるが、「慶次郎・・・」は主人公を高橋英樹がテレビでやっていたのでご覧になった方もおられよう。小生、人情ものは大好きなので、「深川・・・」は大変面白かった。

日米関係に関する補論   (44 安田耕太郎)

11月4日付本稿(”近頃気に入らないこと”)の、”安田論の最後の3行には異論を称える” に対する返答投稿です。

”理想の政治なんてものは存在しなかったし、今後もしないだろう”のくだりに異論反論するものではありません。ご尤もなご見解で、同感です。戦後、ほぼ80年間、戦闘による死者なしの平和が維持されている現実以上に大事な国家運営はありません。世界から賞賛される、相対的ではあるが、極めて安全・安心・平和で、居心地の良い便利な社会創造は国民の民度の高さと国家運営の成果の一つでもあると言って間違いない。僕の管見が不充分、不明瞭だったので、補充説明させて頂きます。

まず、「アメリカの属国」の件について。
僕の意味するのは、戦後の占領期以来の日米間の密約の存在が、日本をして完全な独立自尊の主権国家ではなくアメリカの「属国」(部分的であるにせよ)にしている事実です。良し悪しの議論をしているのではなく、事実を指摘したのみです。1952年に日本の占領を終わらせた「サンフランシスコ条約」によって、政治と経済に於いては占領状態を終わらせた条約だった。しかし、実は普通の平和条約ではなく、軍事に関しては安保条約と連動するかたちで日本の占領を法的に継続し、固定化させています。その結果、戦後日本は21世紀になっても完全な主権国家に成りえていないのは事実です。感覚的にあるいは気分的な「対米従属」の実態を軍事面で法的・論理的に説明してみます。それは、アメリカ(或いは米軍)と日本政府・官僚との二者間で結ばれた密約に基づいています。単的に云えば、「指揮権密約」「裁判権密約」「基地権密約」です。指揮権密約」とは、詰まるところ、日米が共に共闘する戦争になったら、自衛隊は米軍の指揮のもとで戦う」ことに他なりません。口頭で密約を結んだのは、当時(1950年代初め)の吉田首相です。アメリカ側の米軍司令官と駐日大使に対する日本側の相方は首相と外務大臣でした。

何年か前に沖縄で米軍ヘリコプターが日本の学校に墜落した事故がありました。その際、日本の領土内にも拘わらず、事故現場には日本の警察や自衛隊は一切立ち入れませんでした。裁判権密約」が存在したからです。米軍関係者に対する日本の刑事裁判権の事実上の放棄を意味します。日米地位協定の下、米軍の人間には何か犯罪を犯しても日本の警察は手が出せないのです。いわゆる治外法権が日米間には残っています。

「基地権密約」についても然りで、日米安保条約上は存在を認めていない基地について、アメリカは基地権を主張しつつ、日本における軍事的展開の自由だけでなく米軍関係者の権利・利益の優越的な保護を要求し、双方の主張は対立したものの、結果的には日本側はこれを受け入れた。日本には131の米軍基地があり、そのうち81ヵ所が米軍専用基地で、残りは自衛隊との併用です。米軍基地総面積は東京23区の面積の約1.7倍の1064平方キロ、日本国土面積の3%を占めている。沖縄県には31の米軍専用施設があり、総面積は沖縄本島の15%を占めている。

「横田空域」についても触れないわけにはいかない。日本の領空なのに航空管制を米軍が握り、計器飛行の民間機は米軍の許可なく飛べない、北は新潟県から南は静岡県に及び、高度は場所によって7000mに達する巨大な空の壁だ。横田は米軍にとってアジアと西太平洋の空輸の巨大なハブの役割を果たしており、JALやANAの定期便はいちいち許可を得る代わりに、横田空域の不許可地域を避け、大きな壁のそばの許された不自然なルートを選択して飛んでいます戦後全ての空港が米軍に接収され日本の空全体が米軍の管理下に置かれました。徐々に各地の空港が日本に返されましたが、横田と沖縄の嘉手納基地だけは今でも管制権を米軍が持っています。敗戦国ドイツとイタリアにも米軍基地は存在しますが、米軍が管制権を握ってはいません。日本では首都圏の空を米軍が支配しているという異常さです。日本政府は返還を要求し続けてきましたが、合意には至っていない。下図を参考にして下さい。
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このように、戦後80年経つ今日の21世紀になってもなお「軍事面での占領状態が部分的に続く半分主権国家」であり続けています。日本は、東京23区の1.7倍の土地を無償貸与してアメリカに軍事基地を提供し、在日駐留米軍経費1兆円以上を毎年負担し、その見返りに、日米安保条約の規定に基づき、米軍の傘の下で安全の担保を図ってきたのです。完全な主権国家と云えない国家体制ながら、遠慮深謀の賢い面従腹背が言ってみれば今日まで戦後80年間戦争に巻き込まれず、1人の戦死者を出さず、安定した平和を実現させてきた賢明な知恵の果実でもありました。平和な社会と平凡ながら安寧の日々をもたらすことほど重要な国家運営はありません。これまでは大変平和裡に推移した賢明な国家運営だったと思います。これまでの対米関係においては基本的には日本の態度は泣く子と地頭はそおっとしておこう」だったと思います。今後の先行きですが、一寸先は闇の国際政治、予断は許しません。自力で平和が享受出来る国際政治環境では最早ありません。周辺国の理不尽に仕掛ける戦争に巻き込まれないとも限りません。同盟国アメリカ為政者の政治選択肢、意思決定と行動には要注意です。在日駐留米軍の規模を縮小化して日本に肩代わりの軍事力強化を要求してくるかも知れません。逆に、1兆円を遥かに超える在日米軍経費負担の更なる大幅増額を要求してくるかも知れません。台湾有事が発生して日米が軍事的に巻き込まれるかもしれません。その際、アメリカは日米安保の規定に基づき、自ら血を流しながら他国日本の為に100%確実に尽力するのでしょうか?日本自らが血を出さないとすれば、そんな他国の為に自国兵士の血を流す必要を米国世論が甘受するかどうかは不確実で日本には大きな問題です。日本が参戦すれば軍事指揮権は米軍が握ります。とすれば政府は、日本の自衛隊員が米軍総司令官の下、血を流す覚悟と世論の後押しが必要です。
‘70年代の日米繊維問題、’80年代の日米自動車問題と1986年の円高誘導プラザ合意、‘90年代の半導体問題の経緯を観るにつけ、更に現在の日本製鉄によるUSスティール買収問題の政治問題化を目の当たりにすると、同盟国の利害に反しようが、自己の信じたアジェンダを突っ走る傾向が強いのがアメリカです。この点、日本の為政者と担当官僚の賢明且つ効果的な外交能力と手腕に期待したい。
僕が言及した「Parentがふらふらすれば、Childは好むと好まざるに関わらず先行きに多難が待っている」の真意は、日本が御せないアメリカの意思決定と動向は、日本が自らの権限・能力と責任でコントロール出来にくい状態に貶められる場合を仮定するシナリオです。
最後に、戦争で一人として犠牲者を出してない戦後の平和な日本に関連して、自衛隊の自殺について、ご参考までに。
イラク戦争、03~09年にイラクに派遣された自衛隊員のうち、在職中に自殺したとされた隊員は29人。01~07年のテロ特措法でインド洋での給油活動に参加した隊員のうち、同様に自殺と認定された隊員は27人。計56人が自殺死。イラクに派遣された陸海空の自衛隊員は計約9310人。321人に1人が自殺したことになる。これは自殺率で、自衛隊平均の1.5倍、世間一般の15倍だという。当局は自殺とイラク派遣の関連には触れていない。
任務の厳しさと緊張が原因のPTSD(Post Traumatic Stress Disorder・心的外傷後ストレス障害)発症が自殺の原因だと推察されている。命を脅かすような強烈な心的外傷(トラウマ)体験をきっかけに、実際の体験から時間が経過した後になってもフラッシュバックや悪夢による侵入的再体験、イベントに関連する刺激の回避、否定的な思考や気分、怒りっぽさや不眠などの症状が持続する状態を指します。戦争・戦闘での直接死者はいなくても間接的な犠牲者は存在した戦争関与の悲惨さは指摘しておくべきかと思う。
(編集子)明快な論旨、ありがたく熟読。”主権国家” という概念についての説明も納得。本日は米国大統領選の決着がつく日であり、その結果がこの論議にも少なからぬ影響を与えるだろう。さらなる議論を期待する。

野球場の規格について    (HPOB 菅井康二)

ここのところ、野球についての論戦が続いています。中でも野球場そのものについての議論もあるようなので調べてみたことをまとめてみました。

アメリカのメジャーリーグ(MLB)の球場が多様で、形状や大きさに大きな違いがある理由には、いくつかの歴史的および文化的背景があります。これに対して、日本のプロ野球の球場は、どちらかといえば標準化されている傾向が強く、比較するとその違いが際立ちます。この違いについて考えるには、以下のポイントが関係しています。

1. 歴史的背景と球場の設計自由度
MLBの球場は非常に古いものが多く、球場が建設される際の都市の立地や建物の形状、土地の形に合わせて設計されています。その結果、球場ごとにフィールドの形状やフェンスの距離が異なるという、ユニークな特性が生まれました。この多様性は、球場自体が都市の一部として歴史を持ち、その個性を守り続けることがファンや地元に支持されているからです。

一方、日本の球場は、特に1960年代以降に建設された多くの球場が規格化された設計を採用しており、基本的にはフェンスの距離や形状に大きな差がないように作られています。日本の野球文化では、球場間での公平性や記録の一貫性が重視される傾向が強いためです

2. アメリカ文化における多様性の受容
アメリカ社会は、ルールの厳格な適用を重視する一方で、多様性や独自性を尊重するという価値観も強く根付いています。メジャーリーグの球場が各地で異なる形状を持っているのも、その土地固有の「文化」として受け入れられており、それぞれの球場が持つ特徴が試合の一部と捉えられています。

これに対して日本では、競技そのものの公平性を重んじ、どの球場でも同じ条件でプレーできることを重視する文化があります。野球に限らず、日本では「全体の統一性」が大切にされることが多く、そのため球場の形状や大きさに大きな差がない設計が好まれるのです。

3. 記録の公正性に対する考え方
確かに、MLBの球場の多様性は、記録の公正性に影響を与える可能性があります。たとえば、フェンウェイ・パークのような古い球場は左翼が極端に狭く、ホームランが出やすい反面、他の球場では難しい場合もあります。しかし、MLBではこれも含めて「その球場でのプレー経験」や「戦略」として捉えられており、公正性についての議論はあまり強調されません。どの球場も長い歴史を持っており、選手やファンはその特性を楽しむ文化があるのです。

一方、日本ではどの球場でも同じ条件下でプレーすることで、選手間の能力や記録がより直接的に比較されるという考え方が強いです。そのため、記録の一貫性を保つために球場の規格がより統一されています。

4. 結論
アメリカの球場の多様性は、その地域や歴史、文化の一部として尊重されており、それが試合の戦略や選手の適応力を試す一つの要素とみなされています。記録の公正性よりも、その多様性がもたらす興奮やチャレンジを重視しているとも言えます。一方、日本では公平性や一貫性が重要視され、規格化された球場が好まれるという違いがあるのです。この違いは、アメリカと日本のスポーツ文化や社会的価値観の違いを反映していると言えます。