12月3日、YHP (今の正式社名は日本HPなのだが俺達にはYHPがよく似合うのだ)東京支社時代の悪友が一夕を共にした。苦労話、今だから打ち明ける話、あの娘はきれいだった話など、あっという間に3時間が経過していた。心温まる時間だった。
左から麻生洋、沖本重之、木内和夫、田中一夫、中司、天堀平衛。
旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
こんな小さな姿でも富士山には元気が貰えます、電車から見えると
(編集子)大田区立赤松小学校昭和26年卒6年2組。戦後の混乱はようやく一段落したものの、朝鮮動乱が始まり、新たな世界が始まったころ、遊び場はまだ焼け跡で(ここでよく 匂いガラス なんてものを探したもんだ。B29の窓ガラスの破片だ、なんていう説があって見つけると宝物みたいにしたりしたのを思い出す)、今は見かけることもないが ”コッペパン” に甘いだけの安ジャムがのっている、それだけで大ご馳走になり、北千束と大岡山の子供料金が50銭だった、そういう時代だった。GHQ(占領軍司令部)の押しつけ改革にあおられて教育現場にも混乱が絶えなかったあのころ、戦線から帰国し、新時代には新しい教育が必要と信じて教員免許を取ったひとりの熱血青年が僕らのクラスの仲間を育てた。旧態依然の古手教師とは子供たちとの向き合い方をめぐって真っ向から張り合い、噂では殴り合いも辞さなかったという ”会津っぽ” そのものの人、今の世の中にこそ求められる、まさに僕らの 恩師 と呼ぶにふさわしい人だった。その教え子たる僕ら2組はいまだに ”クラス仲間” と誇れる友情を保ち続けている。
そのクラス仲間の一人の筆者は小柄で、すばしこくて、ほがらかで、男の子だったらさしずめ 弾丸小僧なんて呼ばれていたかもしれない少女だった。彼女をはじめとして、お互い米寿をうかがう年齢になっても続いている小学校クラス会、というのは調べたことはないが慶応幼稚舎みたいな特例は別として、あまりないのではないか。春になったらまた誰かが言い出して集まることになるだろう。
無法の地となった町を自らの手で一変させようとするロイ・ビーン
冒頭テキサスのペコス川は文明の境界線で、川より西は法も秩序も
これからは、暴力的なのに、何処か滑稽な個々のエピソードの積み
まう。それから20年、石油王となったガスは自分に盾突く者は撃
ポール・ニューマンが西部の実在した人物を演じた映画は他に、ビ
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①恋人までの距離(Before Sunrise)’95 (米)
アメリカからの旅行者ジェリー(イーサン·ホーク)は、
河瀬さん
2019年6~7月の旅行は、もうあまり行けないのでは…と思い、最初と最後は私のいきたかった所、 中に主人の希望する場所を訪れました。 ミラノ、フィレンツェを訪れ、トリノで車を借り、クールマイユール、シャモニー、セントバーナード峠を越え、 チェルビニアへ、 そして最後は私の希望したイタリアのマッジョーレ湖で少し長い2 5日間の旅を終えました。 河瀬さんが歩かれ、主人がエギーユ・デュ・ミディから滑った(ガイド付き)という、 モンブラン氷河の雪は写真のように消えていました。 またチェルビニア(広場からの写真)は利用はスキーシーズンのようで、 借りた広いコンドミニアムは人の気配があまりなく、 ホーンテッドマンション状態でした。 *先日送られてきたJCBの旅の冊子の“大特集“は「今年のクリスマスはヨーロッパで」。 好きなホットワインを飲みながら、パリやドイツ、オーストリアのおとぎの世界のような写真を眺めて我慢します。 寒そうですし。 プレスリーの《Xmasは我が家で》(I’ll be Home forChristmas)を聴きながら…。小田篤子
季節外れのバラ一輪が紅葉の森に咲いた。うす紫色した可愛らしい名残のバラ。葉の艶は元気いっぱいである。
紅葉の森にラベンターとローズマリーのほのかな香りが漂う。
平和な鵠沼の晩秋を楽しみ元気に生きていこう。
(編集子)バラが咲いた、という一言ですぐ頭に浮かんだのが、僕らの学生時代から社会人なりたての、ベトナムの悪夢が一応終わって、とりあえず平和気分が横溢していたころ、それまでの ”流行歌” と一般に言われていた分野に新風を吹き込んでくれた、若者たちの歌の数々が思い出される。そのきっかけというか代表作がマイク・真木の バラが咲いた だったような気がする。ベトナム反戦の若者たちのいわばテーマソングだった ピ-ト・シーガーの 花はどこへ行ったの とか、スコット・マッケンジーの 花のサンフランシスコ、日本で言えば杉田次郎の 戦争を知らない子供たち などなど、この後にくるいわゆる日本フォークソングの先駆けとなった歌をなんとなく思い出される。ビートルズ世代との過渡期?だったのか、このあたり、年代自体がもうあいまいなのだが。
1960年後半からのニューシネマの波は西部劇にも及んだが、こ
的作品と言われた「俺たちに明日はない1967」の脚本家コンビ
少年たちが夢を求め西部に向って旅をするうちに、強盗
南北戦争末期の1863年オハイオ州グリーンビルは、まさしく人
リー・ブラウン)は両親の手を借り、徴兵逃れのためミズリー州へ
主演のジェイク:ジェフ・ブリッジは「真昼の決闘」保安官助手の
と思ったら、残念なことに惜しくも27歳で自殺してしまったとの
(編集子)ニューシネマといわれた一連の作品も 何本か見たが、一番印象に残っているのが本稿でも何度かふれたが、バリー・ニューマン主演の バニシング・ポイント Vanishing Point だ。ベトナム戦争がアメリカ社会におよぼした厭世観が当時の自分の精神状態にぐっと響いた作品だった。以前、ラストシーンはどの映画だったか、という議論をしたことがあった。この作品のラストも心をえぐるようなショックをうけたものだった。夕陽の群盗の少年たちが落ち込んでいく心理とどこかでつながっているような感覚がある。
小泉さんが触れておられる 真昼の決闘 でのロイド・ブリッジェスは印象的だった。あの映画でデビューしたのだと思うのだが、ケティ・フラドとふたり、グレース・ケリーを圧倒する迫力だった。夕陽での息子の演技とくらべてどうだろうか。
大関琴櫻が初優勝を成し遂げました。大関5場所目で初めての賜杯と巷間の期待に中々添えなかった時期が長く、漸くと言う感じです。
私は数年前に鳥取、島根を数日間旅行した際に、鳥取県中部にある倉吉市に是非立ち寄りたいと思い1泊しました。市内には、打吹玉川地区をはじめ土蔵が多く、交番や公衆トイレにも土蔵のデザインが採用されており、白壁土蔵の街として知られています。ここでひょっこり出会ったのが小さな公園にある大きな元横綱琴櫻の胸像でした。
この横綱が倉吉出身だったことは、それまで知りませんでした。私の勤務していた会社の最初の研修工場(大阪府泉南の忠岡町)の女子バレー選手(当時は9人制)の数人の出身校が倉吉市だったことも、この地を訪れたいと思った理由の一つです。
胸像の横には、元横綱琴櫻がいかに遅咲きの力士だったか、そしていかに短命の横綱だったかが記されており、栃若時代からの大相撲好きの私は、忘れかけていた元横綱琴櫻を思い出して、それから何となく母方の祖父に当たる現琴櫻(関脇までは琴の若)を応援していました。最後の仕切で闘志を表す、あの怖い顔は天下一品です(豊昇龍の怖い顔も怖いですが、普段も怖い顔なので・・・)。
気持が優し過ぎると言われているようですが、往年の千代の富士のような鬼の形相は、これからは変わります。
(安田)先代の横綱琴桜は栢鵬時代のあと、
亀戸天神菊祭りが好天で今が盛り、会期も終わり。七五三のお祝い
往く秋ですね。いきなり冬。今年は衣変えもせず冬のモノをそのま
国際政治も目まぐるしく変わっていっていますね。103万の壁っ
• 咲花をいくつか捨てけふの菊 / 加賀千代女
• 菊の香や流れて草の上までも / 加賀千代女
• きくはたやいかにすぐれて残る菊 / 加賀千代女
• 道愉ししきりに菊の咲きあふれ / 久保田万太郎
山茶花も秋桜も満開ですね。
秋は終わりぬ。
所謂、オールド・メディアと言われる新聞とかテレビなどは、今まで、どのような情報を提供して来たでしょうか。例えば、新聞で言うと朝日新聞です。珊瑚記事捏造事件の問題しかり、従軍慰安婦誤報記事の問題しかり。などなど全く間違った情報を臆面もなく伝えて来ました(一言で言えば虚報。今で言う、フェイク・ニュースはこれまでも多々あった)。これだけを情報源とする人は、この間違った情報を鵜吞みにするしかありませんでした。つまり、良いも悪いも、いわゆるオールド・メディアから情報を一方的に伝えられるだけで、例外があったとしても、その受け手はただただそれを受け取るしかなかったのです。そして、それを信じました。
しかし、ネットの時代となり、誰でも自由に見解、情報を発信することが出来るようになりました。また、その特徴は、これまでのオールド・メディアと違って、情報の一方的な垂れ流しではなく、相互会話が可能となった新しい世界が開けました。しかし、勿論のこと、物事には、常に表と裏があります。つまり、そこには、正しいものと間違ったものが混在しています。また、為にする情報も紛れ込んでいます。これらを取捨選択し、正しい情報を選択するために、一層の賢さが求められているのは言うまでもありません。しかし、明日、直ちに利口になるわけではなく、幾多の試行錯誤を経てそれを手にすることになるのでしょう。まさか、こんな大事なことまでAIに任せるような愚行を人類が行うとも思えません。
小生、これからの世界に極めて楽観的です。例えば、SNSを廃止せよとの論があるようですが、これは極めて馬鹿げた妄論です。そこで思い出しました。産業革命の初期、極めて愚劣な打ち壊し運動ってのがあったことを。
今、オールド・メディアしかなかったならば、米国ではK.ハリスが大統領になり、兵庫県では稲村 和美が知事になっていたことでしょう。実際には、そうでなかったことを考えると、これで良かったんじゃないでしょうか。