以下が選挙結果が出る前にFacebookに投稿した内容です。——————————
新自由主義(≒市場原理主義)的な経済思想、
その結果、既存の政治・経済・
旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
新自由主義(≒市場原理主義)的な経済思想、
その結果、既存の政治・経済・
菅原さん紹介の「蝶と人と美しかったアフガニスタン」(尾本恵市著)を読み終えました。内容と本著の刮目点は菅原さんの紹介文(7月2日ブログに掲載)が全てを網羅していますが、私が特に興味を持ったのは以下のような点です。
1 著者が人類学者として1960年代初めにドイツ・ミュンヘンに留学していた頃の楽しかったことが記述された部分があること(丁度、同時期に私も南ドイツのローテンブルグに3か月生活して北のハンブルグと合わせて1年間海外研修生活をしていた)。
2著者はその後は、本人曰く、偶然と幸運に恵まれて、ワイアットという蝶の収集家としては著名人だが結構な変わり者の誘いで1年間ほど幻の蝶アウトクラトールというアゲハ蝶の仲間の採集に、アフガニスタン首都のカーブル(カブールではないらしい)から4000m越えのヒンドゥークシュ山脈へ登る紀行が綴られている。(この標高の山脈は森林限界を超えているのかで、殆ど草木はない赤茶けた瓦礫の山や砂漠の風景など、綺麗な写真が沢山掲載されている)
3 文章は蝶の学術的な部分もあるが読みやすく、何故かな~と思ってみたが、著者のあとがきに、下記のような記述がありました。【自然史の研究者がすぐれた紀行本をものしている。ダーウインの「ビーグル号世界周航記」や、ウオーレスの「マレー諸島」(宮田彬訳は700頁)でよく知られている。
菅原さんの感想文に、著者の素晴らしい体験(を1960年代)を何故、今頃(2023年8月発行)になって、 書物に纏めようと考えたか?その点は私も不思議に思いましたが、著者はそのことには何も触れていません。 大変、面白く読める読み応えある著書でした。菅原さん、ご紹介ありがとうございました。
「沈黙のファイル」副題:瀬島龍三とは何だったのか(著者:共同通信社会部編、発行:朝日文庫、2025年)。
これは、1999年8月、新潮文庫から出版された同名本の復刻版だ。26年も前の話しとなるが、小生、そんなことがあったとは全く知らなかった。
副題に「瀬島龍三とは何だったのか」とあるように、小生も彼については、いささかの胡散臭さを感じていただけに、この本がその謎をある程度解明してくれるのではないかとの大きな期待を持って飛びついた。しかし、その期待は見事なまでに裏切られた。依然として謎はそのまま謎として残っている。それは、解説で保坂正康がいみじくも述べているように、「むろん瀬島も多くの事実を語らないことにより、歴史を歪曲したり、隠蔽したりしてきた」。正にこの言葉どおり、瀬島は、その謎を抱えたまま95歳で天寿を全うしてしまった。
では、一体、瀬島はどんな人生を歩んで来たのだろうか。1911年、富山県に生まれ、陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業した生粋の軍人だ。ただ、直ちに参謀本部作戦課に配属されているように実戦の経験は全くないし、以後も皆無だ。参謀本部には、1939年から1945年までいたわけだから、この間、日本が北部/南部仏印に進駐したり、対英米蘭開戦などの重大案件の策定に深く携わっていたことになる。終戦目前の1945年7月、満州の関東軍司令部に転出。1945年8月、終戦。
9月、ソ連に逮捕されシベリアに連行される。1946年10月、極東国際軍事法廷(東京裁判)にソ連側の証人として出廷。1949年5月、ソ連内務省に戦犯として逮捕され、7月、ハバロフスクの軍事法廷で重労働25年の判決。1956年8月、ソ連から帰還。従って、シベリア抑留は実際には7年間だったことになる。
そのシベリアで過酷な労働を強いられた日本人は57万5千人に達し、その内の5万5千人が帰国を果たせぬまま死亡した。ただし、収容所にいた元関東軍兵士、河野 宏明の証言によると、「僕らは朝、真っ暗なうちから森林の伐採や凍った土地の穴掘りの使役に出された。だけど彼(瀬島)は、ただ外に立って敬礼して見送るだけだった。いつも収容所の中をぶらぶらしていた」とある。
帰国後、商社の伊藤忠に入ることになるわけだが、その出世は極めてトントン拍子だった。
入社後、2年で部長となり、以降、常務、専務、取締役副社長、副会長、会長まで登り詰めた。そして、最後は、ご存知の通り、第二次臨調(臨時行政調査会)の委員を務め、電電公社など三公社の民営化を答申し、第二次行革審会長代理にまでなった。その伊藤忠入社の切っ掛けとなったのは、伊藤忠が、防衛庁商戦の戦力として瀬島の獲得に熱心だったからだ。その結果、例えば、半自動警戒管制システムの受注に成功している。これだけを見ると、シベリア抑留時代を除いて、瀬島は誠に華麗な人生を送って来たと言えるだろう。ただし、その抑留時代も、確かに、過酷な環境下にあったことは間違いないのだが、その実態は、上述の河野が証言しているように、大方の捕虜と全く違って、華麗なものだったに違いない。
実は、この本は、時間が前後することになるのだが、いきなり戦後賠償の話しから始まっている。確かに、日本が侵攻したインドネシアはオランダの植民地だったから賠償の対象となり得るだろう。しかし、韓国は、日本が日清戦争で清を破ったことにより国際連盟から統治を委任されていた朝鮮の片割れだ。従って、日本は韓国と戦争していたわけではない。それが、何故、韓国が賠償の対象となったのかは甚だ理解に苦しむところだ(ここでは、日本の植民地支配の償いだと述べているが)。いずれの国との賠償にも、その賠償のからくりに(具体的には、インドネシア、韓国側からの仲介料の要求)、伊藤忠勤務時代の瀬島が暗躍し、ひと役かっていたのは間違いない。
結局、瀬島は、解説で保坂が、「・・・どのような時代にあっても責任あるポジションにつかない。ただし、参謀としての役割に徹し、権力を持つ者の陰に控え、・・・」と述べているのが正に図星だろう。それは、例えば、会長にまで上り詰めた伊藤忠にあっても、社長となっていないことでも明らかだ。それ故に、胡散臭さがプンプンと匂って来るのではないだろうか。
最後に、揚げ足取りになるが、題名の「沈黙のファイル」では、ファイルが黙っていることを意味するから、これでは、物事の真実を伝えることは出来ない。勿体ぶったこの題名、だいぶおかしいんじゃないか、との疑問を抱いた。
フレイル(高齢者にみられる下肢の筋力低下、立ち上がる時のいわゆるドッコイショ症候群もその表れです)についての話です。
テレビではトランプが「慢性静脈不全」だと騒いでいますね。皆さんには耳慣れない病名かもしれません。日本ではこのような言い方や診断名はあまり使いませんが、下肢の静脈血栓という病名は聞いたことがあるでしょう。それによく似た病態です。
多分、トランプ氏は下肢がひどく浮腫(むく)んで腫れあがり、その原因として心臓や腎臓には異常がない?ので、下肢の静脈が血管硬化で固くなり、足の血液を心臓に戻す働きをする静脈弁の働きも極端の悪くなったのが浮腫の原因という説明です。要するに心臓に帰るべき下肢の血液が大渋滞を起こし 静脈がはれ上がり血液中の水分が血管外に漏れ出て浮腫(むくみ)になったという事です。「動脈硬化」という言葉はポピュラーですが、こちらは簡単に言えば「静脈硬化」ですかね。静脈だけが硬化するわけはないので一緒に可なりの「動脈硬化」も彼の身体には起こっているのでしょうね。
最近の彼の言動をみているとそれもうなずけます。
握手のし過ぎとのことで彼の上肢にはアザが出来ていましたね。これは下肢静脈にできた血栓が肺に飛ばないように抗凝固薬という血液が固まりにくくする薬を飲んだせいかもしれません。この薬は心房細動などにも使う薬ですが、大量に摂取すると身体じゅうどこにでも出血が起こりうる非常に使い方の難しい薬です。私も沢山の患者さんに処方していますが、非常に気を使って使用しています。
もし彼が治療してはいないが高血圧があったり、興奮すると血圧が上がる体質だったら脳出血や他の部位の出血の危険もありますね。 イスラエルのネタニヤフがシリアに爆撃を仕かけたのが、彼の血圧に影響しなければいいのですが。或いはこれはネタニヤフの策略? これは一寸考え過ぎかな。
先日、”月いち高尾” 100回記念パーティに持参するためにワイン通販を利用した。 ついでに今後のこともあろうかと ”会員” になったら、なんと3日にあけず広告メールが来る。世の中に好きな人間はいっぱいいるんだ、と感心する。
それがきっかけでKWVOB会の数多い飲兵衛のうち、特にトリビアに詳しいと定評のある二人とのやりとりー私信だが暑さしのぎの話題として公開させてもらう。両兄、ご容認ありたし。
(中司発)KWVOB会随一の物知りお二人に伺います。
(水町発)毎日暑い日が続きますが,お元気ですか?
お問い合わせのunoskedですがカリフォルニアワインに見られる独特のワインの製造方法で、特にKENDALL JACKSON AVANT UNOAKEDの様に、いろいろな畑のシャルドネをブレンド、熟成する前のブドウ本来の
樽熟成しないのでunoakedと呼ばれています。
大切なのは、小生の発信では何を飲んだか書いてない、それにも関わらずピンスケはボトルまで言い当てているのだ。まいったね。
(佐藤)暑さに負けずしっかりと飲んでますね。昨日遅く旅行から帰り、メールを拝見しました。
ワインは水町さんのジャンルです。私はフルボディなら何でも好き
小生は決して世にいう食道楽や飲兵衛ではない。もともと繊細なつくりではないので、難しい味覚特にアルコールやコーヒーのことなんかはほとんどわからない。ただ、世の中、ベテランというかワインの場合はあらたまってconnoisseur などというらしいが、よくわかる人がいるもんだと感心。そういえば同期の浅海のチョコレート論もすごい。彼に言わせると小生が好きな日本のブランドMなんどはチョコレートじゃねえ、というし、愛用しているコーヒースタンドのDなんかに行く、というとせせら笑うのだ。俺って、だめなんかなあ。
水町解説で十分納得するのだが、図に乗ってもう一つ、教えてもらおう。unoaked という意味だが、辞書をひいてもも oak には動詞形はないので、”樽に詰める“という使い方はないし、その過去分詞ということもあるまい。つまり あくまでoak、オークの樽を使っていない、という含意なのだろう。水町解説にあるようにブドウ本来の味を確かめるためのつくり方、ということなら、オークにこだわらず、樽で熟成しないものならすべて unoak というのか。それともオーク以外の樽、まずないとは思うがたとえばもし松の樽を使っているところなら unpined というのか?
どうも年齢とともに言うことがしつこくなってきてる気はしてるんだが、ご両所(本稿をお読みの方ならもちろん歓迎する)のさらなる蘊蓄を期待する次第。晩飯時に飲んだ アンオーク2杯がほんのり聞いてきた。早寝としようか。
宝塚歌劇に多少の興味をお持ちの方へ、“知っていて損ではない ”程度の話ですが・・・・
演目「GUYS and DOLLS」の公演予定は宝塚大劇場 7月26日~9月7日、東京宝塚劇場 10月4日~11月16日)ですが、宝塚歌劇で度々公演プログラムに乗るこの演目は、元々はニューヨークのブロードウエイのヒット・ミュージカルがオリジナルで、映画化は1955年に監督ジェセフ・L・マンキウイッツ主演:マーロン・ブランド、フランク・シナトラ、ジーン・シモンズの邦題「野郎どもと女たち(GUYS and DOLLS)」で、日本でも当時、劇場公開された時に楽しみに観に行きました。
ところが、この映画には良い曲、良いダンス・ナンバーは幾つかあるものの、ミュージカル映画としては興行的に失敗作で、その主な原因は主役のマーロン・ブランドのミス・キャストだと新聞各紙共が伝えていたと記憶しています。
マーロン・ブランドは当時、「欲望という名の電車」(1951年)で、衝撃的なデビューをし、続く「革命児サパタ」「ジュリアス・シーザー」「乱暴者」そして、名作「波止場」(1954年)と飛ぶ鳥を落とす勢いの俳優でしたが、この「野郎どもと女たち」(1955年)頃から、何故かヒット作が減り「ゴッド・ファーザー」(1972年)までは不遇に喘いでいたように思えます。
主役のこれほどのミス・キャストは他には直ぐには 思い出せないような、奇妙な面白さがある映画です。
(42 保屋野)確かに、マーロン・ブランドとミュージカル・・ちょっと想像できませんね。宝塚は大昔,浜木綿子や加茂さくら、淀かほる等が活躍していたころ、テレビでよく観ていましたが、姉から「男のくせに」と、からかわれた記憶もあります。宝塚も一度劇場で観たいとは思いますが「見果てぬ夢」となりそうです。
なお、私は、自慢ではありませんが(笑)学校の授業で能を一度観ただけで、歌舞伎、狂言、文楽は(食わず嫌いで)観たことがありません。寄席も一度ぐらいしか記憶にないし、伝統芸能が嫌いというわけではないのですが、興味がわかない、というか・・。日本人失格ですね。ちなみに、一度観てみたいのが、京都の「都踊り」そして「阿波踊り」と「風の盆」・・歌手では「新妻聖子」のコンサート。
(44 安田)確か、愛好会の皆さんに送付した記憶がありますが、菅原さんの映画「エデンの東」
(編集子)”風と共に去りぬ” でヴィヴィアン・リーが演じたスカーレットが当初の予定はスーザン・ヘイワードだった、というような話を聞いたことがある。エーガに限らず、人生ミスキャストがもたらしたものは数多い
だろう。多くの場合、結果がよくないことを暗示するようだが、参院選の結果のキャスティングがどう収まるのか、興味津々、というところだ。
グーグルサーチしてみたら、スーザンとクラーク・ゲーブルのツーショットがみつかった。もし、”風”の主役がこの二人だったら、どんな仕上がりだったのだろうか。小生もヘイワードにはたびたびお目にかかっているが、まだ無名だったころ、ゲイリー・クーパー,レイ・ミランド、ブライアン・ドンレヴィという当時のスターに囲まれていた、 ”ボージエスト” での初々しい印象が強い。あの役がヴィヴィアンだったらどうだっただろうか。キャスティング、というのはなにかと想像を掻き立てるものだ。
(34 小泉) 宝塚歌劇には家内がファンなもので、多少の興味はあります。家内
その後、「回転木馬」「南太
いつ、誰によって描かれた?
謎である。説明によれば、今から1000年-2000年以上前のナスカ文明の時代に、この地に住む民族によって描かれたと考えられる。
ペルーの海岸近く、アンデス高地でもないのにインカ人が居たとは信じがたい。こんな巨大な落書きはヘリコプターを使わない限り難しい。特に数キロの線を真っすぐ描く。縄張りしたのか?
ナスカには巨石など石造遺跡はまったく見当たらない。砂漠のような広大な平原「パンパ」が続く。「パンパ」に大量の石が転がってくる。そして、散在した石が強い日差しと乾燥した空気に晒されることで酸化し、黒ずんでいく。
地上絵は動植物、図形、線などが描かれている。最大の絵柄は285mの鳥類の絵柄、線は何kmも続く。 巨大で精巧な図を描くためには高度な測量技術と数学的な知識が必要とされる。今も謎に包まれている。
謎のナスカ文明とは何だろう ? 謎は観光資源になる。
久々に小型機(20人乗り)に乗り、童心に帰りパイロットと仲良くなった。
昨日、毎週行くことにしている整体治療のあと、現在作成中のセットに使うアルミパネルの加工を依頼するために新宿ハンズまででかけた。ついでにここで買うつもりにしていたネジ類に満足するものがなく、秋葉原まで出かける羽目になった。すぐ済ませて、昼飯を食べて帰って日課の昼寝、という計画だったのだが敵もさるもの、目当ての店は ”昼食中、2時まで待ってください” との張り紙がしてあった。
ほかの店でも用は足りるのだが、やはりなじみの店で、という気持ちでこっちもカレーでも食うか、と一度駅まで戻って、これまたここの所なじみのカレースタンドへ行ってみたら、なんと閉店になっているではないか。そうなるとどうするか、結局駅周りを多分20分くらいほっついて、見たこともない新顔のカレー屋に入り、あまりうまくないのですぐ飛び出した。ちょうど時間だ、と歩き始めたら、なんだか、おかしい。頭が軽くって、目のあたりがしょぼしょぼ、気のせいか足もふらつくではないか。やべえ、音に聞く熱中症ではあるまいかと日蔭を探した結果、目の前にルノアールがあったのでそこへ飛び込んだ。涼しい場所に腰を下ろし、コーヒーを頼んだらコップに冷えた水がきた。そこで水をもう一杯もらってがぶ飲み。どうすべえ、と思っていたら、ウエイトレスがおしぼりを持ってきてくれた。当然冷えているんだろうと思ったらこれがなんと手に取れないくらい熱いのだ。ここのところ、懐旧版で見ている”真田丸”、主人公格の石田三成は確か秀吉が寺を訪れたとき、いきなり熱い茶を出さず、冷えたもの、ぬるいものと出してから本格的に淹れた茶を出し、秀吉が機転が気に入って武士に取り立てられたというではないか。お嬢さん、あんた、ねえ、っていいかけたが思いとどまり、ビニル袋から熱いお縛りを取り出し、見つからないようにそっとコップの冷水をかけて顔を拭いたが効果なし。そこでますま大胆になって、ビニル袋をそっとあけ、さらに隠しながらコップの氷をつまみ出し(結構難しかった)てこの袋に入れ、ハンカチ(たいてい忘れてるんだがこの日はもっていたのが幸運)にくるんで、シャツの襟を開け、首の後ろ(たしか延髄ってこのあたりだったよな)と念じながらにいれた。テレビで得たところでは、とにかく体内にたまった熱気を出すべきだ、と思い出したが裸になるにはちょっと正気すぎ、そうだ、とソックスを脱いだ。最近の若者には裸足で靴を履くのが流行っているようだから、文句はあるめえ。その足をふとテーブルの台に乗せたら、これがなんと冷たい。しめた、というわけでそのまま、かれこれ10分くらい、受信記録もないのにスマホを開けたり、考え事をしてるふりをしてから(この歴史ある喫茶店ではジョニー・キャッシュなんか流さないのだ)、おもむろに、老紳士の威厳を取り戻し(たと思ってるんだが)870円を支払って中央線に乗った。適度の冷房でこれは問題なし。家までたどり着いて残り湯を浴び(ちょうどいい温度だった)、何食わぬ顔をしていたが、さすがに夕食は食欲なく、アルコールも今日はやめて、午後9時半、久しぶりに入眠材を一錠飲んで、目が覚めたら7時0分、今朝は快調。
サイト―1号(邦彦)君、”夏場は月いちなし” は大正解。本文を読んだら2号(伸介)のエスプリとユーモアたっぷりの名文が出るかな。それにしても3号(孝)のエネルギーはすげえな。あんた、何喰ってんの? 熱中症、って聞いたこと、ある?
猛暑が戻って来ました。お変わりありませんか。
いかにもラテンアメリカ的体験、それも細やかな体験でした。カメは彼らを大好きになりました。「アスタマニュアーナ」と「ケセラセラ」。これこそ巧みな人生哲学ですね。
Que sera sera. 「ケセラセラ」、これは有名な歌の題名でもある。「ケセラセラ」の意味は「なんとかなるさ」。 この一言でラテンアメリカに共通した明るい国民性を表現できる。
6月29日のペルー入国の新リマ国際空港の出来事だった。今年6月1日に完成したばかりの最新のリマ国際空港は大きな天井が自慢、屋内ドーム球場のようで立派な建物である。数千人の入国乗客は長蛇の列を作らされ大混雑だった。待機すること約3時間にもなると我慢は限界になってきた。係員に聞いても明確な返答はもらえないのだ。どうやら最新の入国管理システムがダウンしたらしい。
「ケセラセラ」、つまり、どう頑張っても、起こるものは起こるだろうし、そうなる予定のものはそうなるってこと。 ペルー人は特に超ケセラセラ。人が良すぎるのか、ダラシナイのか、徹底した「ケセラセラ」なのだ。さすがに同行した合衆国マイアミ在住のペルー女性は、「はずかしい」と弁解。
ペルー国内には不法占拠による住居が小山のてっぺんから麓まで町並みを形作っている。 このような貧民窟は5年も過ぎると合法的な町になれるという「ケセラセラ」な規制。 かつて日系ペルー人大統領「フジモリ」は強権的にペルーを改革しようと試みたが「ケセラセラ」に負けた。
私は「ケセラセラ」の連中と会話を楽しみ、2台の介護車いすの操作を担当して入国審査の長い列に並んだ。私は空港介護職員の「マルコス」と仲良くなり、私の入国カードまで代筆してくれた。
Asta mañana (アスタマニュアーナ) 明日まで間に合わない ??
Que sera sera. (ケセラセラ) ??
Muchas gracias(ムーチャス・グラシアス)!!
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「ケセラセラ」 (Que Sera, Sera) は、 ドリス・デイの1956年の楽曲である。同年のヒッチコック監督映画『知りすぎていた男』の主題歌で、主演女優で歌手でもあるドリス・デイが歌った。
「Que Será, Será」は「なるようになる(Whatever will be, will be)」という意味のスペイン語だとされる。スペイン語起源説を否定する向きもあるが、現在のスペイン語圏では、Que Seráは一般的な会話では利用されている。別題として、「Whatever Will Be, Will Be」、「Whatever Will Be」(映画タイトルバック)、あるいは副題を併記した「Que Sera, Sera (Whatever Will Be, Will Be)」[注 1]、「Whatever Will Be, Will Be (Que Sera, Sera)」(アカデミー歌曲賞受賞時)「The Man Who Knew Too Much:Que sera sera」(e-onkyo ハイレゾ配信)も使われる。 2004年にはアメリカ映画主題歌ベスト100に選出された。
日本でも文化放送『ユア・ヒット・パレード』で1956年度の年間4位[2]を記録し、また歌詞を日本語訳され、雪村いづみ、ペギー葉山らの競作によってヒットした[3]。
(44 安田)カメさんが体験されたペルーでの話と印象、