エーガ愛好会(311)  小さな映画館でみた佳作ふたつ  (UPOB 小田篤子)

✤「ファイアーブランド」
ヘンリー8世の(6番目)最後の妻の映画(英 ’23)
立川キノシネマは満員で、翌日からは終わりが夜11時頃だった為、吉祥寺のPARCO地下2Fの映画館《UPLINK》に翌日初めて行きました。
小さな映画室が5室、毎日25作品以上の作品を上映しているようです。
この映画は大きなTVのようなスクリーンと、ゆったりした座席が3列、計29席の部屋で上映されました。
キャサリン·パーの母は王の最初の王妃であったキャサリン·オブ·アラゴンの女官でした。パーは2度夫と死別後、トマス·シーモアと恋愛関係にありましたが、王の望みで結婚。前王妃達の遺児、メアリー、エリザベス、エドワードとも親しくし、信仰についての本も女性としては珍しく出版しています。
経験から、悪化していた王の足の看病もできる人でしたが、映画では、王が火刑にした新興宗教の友達を援助した罪で投獄され、王が臨終の際ふたりだけとなった時、殺めてしまいます。(本では、メアリとエリザベスを連れXmasの祝賀で出かけている間に亡くなり、死目には会えなかった…とあったように思うのですが、サスペンス的ストーリーだからでしょうか?
キャサリン·パーはその後は、トマス·シーモアと結婚。
以前、河瀬さんが写真を載せられ、私も偶然訪れたことのある、イギリス コッツウォルズのシュードリー城で暮らしました。
(映画の後、《スープストック》で『ゴッホの玉葱スープ』を頼んでみました。
オニオングラタンスープをシンプルにしたような感じでした)。
✤Netflix「6888郵便大隊」
主人公は黒人の若い女性。幼なじみの白人男性と結婚を約束しましたが、彼は戦死。自分も軍に志願、黒人女性にも好意的なルーズベルト婦人のお陰もあり、スコットランドへ有色人女性だけの郵便部隊として派遣されます。
しかし、着いた格納庫は散らかっており、ペンキ塗り、作業場、美容院、教会、レストラン作りから。
溜まっている10ヶ月分の 郵便物は、かび、ネズミ、不明瞭な宛先と様々。
“6ヶ月で処理せよ…“の命令に、厳しいが聡明な部隊の大尉は適材適所に皆を配置し、やり遂げます。
家族、兵士は届いた郵便物に喜び、兵士の士気もあがり、無理と思っていた白人兵士達は彼女らに敬礼と拍手をおくります。主人公も皆の協力で、亡くなった彼の手紙とお墓を見つけることができました。
敵との戦いより、有色人種女性部隊と白人幹部兵士達との戦いの実話映画です。
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第 6888 中央郵便大隊は、第二次世界大戦中に海外に派遣された最初で唯一の黒人だけの部隊でした。 彼らは、ヨーロッパ戦域に駐留する約 7 万人の軍人への郵便物を仕分けして配達するという困難な任務に直面しました。 彼らの行動が、他の何千人もの黒人 WAC とともに、連合軍の勝利にどのように貢献したかを学びます。

エーガ愛好会 (310) 名もなき者

”フォークソング” というのはどういう音楽か。辞書を引くと、民謡すなわち民間に伝承されてきた民族的歌謡、と書いてある。民謡、と逆引きすれば folk song が第一義に出てくる。しかし今ではフォークソング、という単語の意味は1960年代以降、アメリカ発の、かの地でのカントリウエスターンあるいはヒルビリーとひっくるめて呼ばれる”民謡”をオリジナルとする一連の反戦(当時はベトナム戦の最中だった)的、政治的な意味を含めて作られた一連の音楽をさすようだ(この映画の途中でも、背景としてだが一連の若者がカントリとフォーク、と議論している場面がちらっと出てくる)。        日本ではその反戦的意味を込めて作られた、”花はどこへ行ったの(Where have all the floweres gone)” が当時全国に広がっていたベトナム戦争への反感と相まって、たまたま流行していた ”歌声喫茶” などを通じて爆発的に人気を集めた。そしてこのような背景から、それまでのいわゆる流行歌というジャンルには収まり切れない、主張を持った曲がつくられるようになった。たとえば ”戦争を知らない子供たち” とか “フランシーヌの場合” なんかはその代表だろう。そしてその流れは若者の心情を歌った多くの傑作へと発展していく。僕にもいくつか気にったものがあるのだが、その中に ”学生時代の喫茶店” という曲があって、その歌詞の一部が僕の心に深く残っている。

君とよくこの店に来たものさ                       わけもなくお茶を飲み話したよ                      学生でにぎやかなこの店の                           片隅で聞いていたボブディラン

という一節だ。高校時代の終わりごろ飛び込んできた数多くの歌の中から、この曲が特に記憶にある理由は、このイントロに続く一連の歌詞が思い出させる僕の高校時代のことどもなのだが、次々と多くの歌手の名前が飛び交っていた時代に、ボブ・ディラン、という名前が妙に心に残っていた。

前置きが長くなった。今度、この映画のことを知った時、何が何でもすぐ見たい、と思ったのはこのボブ・ディランの実像を知りたい、と思ってからで、ほぼ1年ぶりでエーガ館へ足を運ぶことになった。こういう種類の作品は ”グレン・ミラー物語“ から ”ボヘミアン・ラプソディ” まで、過去に何度も見ているが、それらはあたりまえだが、あくまでそのミュージシャンの物語である。だが今回の映画では、そういうことよりも、彼がどういう背景で曲を書き、歌っていたのか、といういわばディランの人生観、そしてもし、自分が当時、空き時間が同じだった住吉康子なんかとよく行っていた自由が丘はセシボンで、設置されたばかりのジュークボックス、ハーレムノクターン夕陽に赤い帆、ばかりでなくて彼の曲を聴いていたら、どう感じていただろうか、ということを知りたかった。そしてそんなものを感じた気がして、ストーリーの何か所で、ディランが夜の街を一人でさまよう場面が演奏シーンより心にしみたものだ。Blowing in the wind に始まって、世界で若者たちに愛された、ヒット曲が歌われ(主役のティモシー・シャランは歌手ではなく、実に5年間、楽器を含めての習得に費やしたという)、その過程で同じ時期にデビューしたジョーン・バエズや、彼を発掘したピート・シーガー(”花はどこへ行ったの”の作曲者)、僕のごひいきジョニー・キャッシュ(映画 ”ウオーク・ザ・ライン” でその人となりが描かれた)も紹介されるし、作中でディランの曲がつぎつぎと歌われる。それだけでも十分に見ごたえ聞きごたえがあるのだが、自分の生き方を探し続け、愛してくれた女性は彼のもとを去ってしまう、歌手としての成功物語ではなく、あの頃、つまり僕たちの年代の人間が過ごし、悩み、何かを求め続けていた時間を共有していた青年の話として心に響く映画だった。

映画の印象とは関係ないが、ボブ・ディランというのはいわば芸名だということを初めて知った(本名はロバート・ジンマーマン)。

(34 真木弓子)今日 ジャイのエーガ愛好会を拝読しました。
開けたら、ドンと「名もなき者」を観賞なさった感想文に同感で嬉しくなりました。私は上映初日の翌日に渋谷シネマズで観賞!
ティモシーシャラメのひたむき な 若さが心に沁みました。芯がシッカリしていますし清々しく素晴らしい映画ですので今回のアカデミー賞主演男優賞はティモシーシャラメと思いましたが、何と無冠に終わり残念でした。才能がありますからいずれアカデミー賞受賞者に成るでしょう!
小泉さんの「西部にかける女」 を拝読させて頂きました。映画愛好会の皆様は変わらず 博学多才でいらっしゃいますが、我等が小泉さんも流石ですね、アサ会のスターですよ~、映画の俳優陣も大スターばかりで、ソフィアローレンはさぞ綺麗だった事でしょう!昔(私達の若き時代)のスターの顔は今のスターの顔とは随分違いますね、
ざっと申し上げれば男優は優しく繊細で女優は意思が明確で活溌に見える、 かな? ところで 90才のソフィアローレン はどんな感じだったのかしらね、

 

 

ロシアとウクライナのことです   (42 河瀬斌)

私は2008年ごろから2年毎に「日露友好脳神経外科カンファレンス」に参加しロシアにも何度か行っていました。そのご縁でクリミア紛争直前の2013年に平和な時代のウクライナを訪れました。その時はウクライナ人がロシア人の代わりにオデッサでこの会を主宰したのですその時はロシアとウクライナ両国はまだ兄弟関係だったのです。その頃の本当は温かいロシアの国民性をはじめ、穏やかで兄弟のような両国関係を知っているだけに、現在の戦争は本当に残念でなりません。
その時の会長一家との写真です。ウクライナは過去にトルコ領だった時代もありますので、歓待してくれた会長の顔はトルコ系、奥様はロシア系?人種が混在している国なのです。それが現在のウクライナの戦争の下地になったのでしょうか?
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キエフ(今はキーウ)は金色の塔を頂くロシア正教教会がドニエプル川に沿って並ぶ美しい街です。

この教会があるため、ロシアはキーウ中心部を破壊したくないと思っているのでしょうか?この町がそうならないことを願います。
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友好カンファレンスを行った黒海沿岸のオデッサには海を望むウクライナ独立の塔がありました。しかし今、この街の一部はミサイルで破壊されていると聞きますので、今この塔がまだあるかどうかは不明です。おそらくここもロシア領になってしまう恐れもあります。
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この写真を撮ったわずか9ヶ月後の2014年にクリミア半島がロシアに強引に併合されました。ソ連崩壊後はウクライナの核保有を認めない代わり、ロシアはそのウクライナ領を認めていました。しかしプーチンを支持する東部のロシア系住民とロシアの金持ち(オリガルヒ)の欲望によって強引な占領がなされたと聞きます。 それをきっかけにそれまで兄弟国であった両国の関係は冷え切り、ウクライナは「国を防衛するためにロシアに負けない」と、以後8年間に軍需産業を育て、東部のロシア人住宅街に度々砲撃を加えるようになってしまいました。そしてついに2022年にはロシアの侵攻を誘発することになったのです。
確かにウクライナは東部のロシア系と西部の民族の違いの歴史がその戦争の伏在原因でしょう。しかし豊かで温暖な保養地を奪って金持ちの欲望を満たすため」の国際法を自ら破ったクリミア半島の強引な併合がそのきっかけになったのではないでしょうか?チェコ、グルジアなどでその国際法を無視した併合のやり方を私は見てきましたので。
狭く豊かではないけれど自由な国の一住民として単純に思う。世界一広大で豊かで美しい伝統文化を持つロシアが異民族との融和を図らず、世界から兄弟国から嫌われても、どうして更なる領土拡張と富を必要とするのでしょうか?
(編集子)平井さんからの情報をはじめ、今まで知らなかったいろんなことがわかってきて、ウクライナ―ロシア―トランプ という一連のことどもについて、仲間内でも活発な議論が展開している現在だが、小生には確たる議論ができる自信がない。しかし河瀬兄のこの最後の4行には完全に同意する。
 狭くて資源がないのに人口は多い。代表的なのは我が国だ。変な言い方だが、河瀬兄の論法でいえば、こういう国が資源を求めてやむを得ず戦争という手段に訴える(歴史的事実でいえば太平洋戦争はその典型だ)のならまだわかるが、何から何まで持っている大国がなぜ他国を領有しようとするのか、まったくわからない。
理屈はともかく、両國とも兵士には祖国防衛という意識(信じるかどうかは別だが、あくまで理論上の話だ)を持つことはできるかもしれない。しかし無残というか哀れなのは駆り出された北朝鮮の若者たちだ。このことにはただ怒りが先に立つ。そのためにも停戦は一日も早く実現されなければならないと改めて感じる。

エーガ愛好会 (309)   西部に賭ける女     (34 小泉幾多郎)

ブロードウエイ出身で舞台劇の映画化を得意とし、演技指導、女優扱いの名人で巨匠と言われたジョージ・キューカーが監督した唯一の西部劇「西部に賭ける女
1968」。西部劇とは言うものの、所謂バックステージもので、借金を背負った旅芸人一座が巻き込まれるトラブルと看板女優をめぐる色恋沙汰が小気味よく描かれる。

シャイアンの町に、旅回りの一座ヒーリ劇団が着いたところから開幕。座長トム・ヒーリー(アンソニー・クイン)、女優アンジェラ(ソフィア・ローレン)、若い女優デラ(マーガレット・オブライエン)、その母ローナ(アイリーン・ヘッカート)、シェークスピア俳優を自称するマンフレッド(エドマンド・ロウ)が幹部。この一座オッフェンバッハのオペレッタ「トロイのヘレン」で成功してきたが、劇場主から、この土地には合わぬとの助言でアンジェラが男装し生きた馬に乗り、駆けずり回る舞台演出の「マゼッパ」という芝居が大当り。

しかし土地の暴れん坊で色男のメイプリー(スティーヴ・フォレスト)にアンジェラがポーカーで負けたりして、一座は無一文で町を逃げ出し、ボナンザの町へ。途中アパッチ族に襲われるも、メイリーの助けで逃げ切ることが出来たが、この時のインディアンの服装がいつもの羽で飾り付けたパンツだけでなく、白人同様の恰好が、格を上げている、というのは監督のセンスか。

舞台で生きた馬を使ったりしながら、ソフィアを男装美姿や細いウエスト、縦縞のタイツとか、とっかえ、ひっかえの舞台衣装を楽しませ、子役で有名な23歳のマーガレットも脇役ながらも美しさが光り、その後大成しなかったのが不思
議だ。結局、借金を背負った旅芸人一座が巻き込まれるトラブルは、ボナンザのボスであるデ・レオン(ラモンソ・ヴァロ)がメイプリーに5000ドルの借金があり、アンジェラはメイプリーの代理を偽装した借金を受け取りマドリーに届けず町の中心地の酒場を購入、デ・レオンの差し金の殺し屋にメイプリーと間違われ撃たれ負傷したトムとその一行が来る前に、酒場を購入し、グレイト・ヒーリーズ・テアトルとつけた。メイプリーは、アンジェラとトムが愛し合っていることを知り、借金を迫るのをやめるという人の良いところを示す。レオン一味が楽屋を取り巻いたが、アンジェラは、身代わりにマドリーを馬に括り付け、劇場の外へ走り去らせ、その後ヒーリ劇団はトムとアンジェラを中心に成功し、めでたし、めでたし。

主役二人の間をかき回すメイプリー役のスティーブ・フォレストは、ダナ・アンドリュースの弟で、「燃える平原児」で、プレスリーの兄を演じた好漢で、ここでもソフィアの愛人に誤認されるが、当て馬的役柄がもう一つスッキリせずに終わってしった。逆にクインは控え目なながら、借金を背負いながら、喧嘩をすれば強く、ヒロインであるソフィアは、衣裳と共に可愛さを増す等、西部劇とは別の男女の機微を巧みに描いてきているのは監督の手腕なのだろう。

(飯田)色男のメイプリー役のスティーヴ・フォレストが、ダナ・アンドリュースの実弟だということは知らなかったですが、確かに”当て馬的役柄がもう一つスッキリせずに終わってしまった”と言われる小泉さんの感想に私も同感です。
マーガレット・オブライエンは「若草物語」のイメージが強く、他の役はもう一つイメージが違う。アンソニー・クインとソフィア・ローレンは確かに、この映画で主役の役を演じたと思えました。

ところで、この映画は製作者にカルロ・ポンティ(イタリア出身)が名を連ねてますが、ソフィア・ローレンの結婚相手がハリウッドの大物プロヂューサー(セシル・B・デミル等と肩を並べる大物)で90歳のソフィア・ローレンはカルロと1972年~2007年まで、夫婦として長年連れ添った間柄。カルロ・ポンティは自身の製作する映画に、時々、愛妻を出演させて稼がせていたので、この映画もその一本。

映画の劇中出てくる演劇は「トロイのヘレン」と「マゼッパ」ですが、「トロイのヘレン」は往年のギリシャ人の美女ロッサナ・ポデスタ主演の映画でお馴染みの方も多いと思います。もう一つの「マゼッパ」ですが、歌劇「マゼッパ」(チャイコフスキー作曲))でも舞台化されている、今や世界の注目のウクライナのロシアからの独立を画したマゼッパとマリアとの愛憎劇の筈です。

(小田)アンソニー・クインとソフィア・ローレンのインパクトあるふたりがこの映画を引き立てていました。ソフィア·ローレンがこれ程バービー人形のようなスタイルだったとは知りませんでした!

昔デパートで催された、(オーストリア皇妃)エリザベート展で、ガラスケースに飾られていたウエスト50cmのドレス(身長は172cm)を思い出しました。
スティーヴ·フォレスは「燃える平原児」でElvisのお兄さん役だったこと、小泉さんのご指摘で知りました。同じ’60年の作品のようですが、髭無しのほうが、スッキリと知的に見える様な気がします。

(編集子)英語版のタイトル HELLER というのがあやふやなので辞書を引いた。エクスワ―ド搭載新英和辞典にいわく:
(米俗)騒々しい(乱暴な、向こう見ずな)人、扱いにくい人
だそうだ。小泉さんのご感想はいかが。
(小泉) 「西部に賭ける女」のHELLERのことですが、実は。原名Heller in Pink Tights を見た時、Heller という人物が、画面に現れず、座長のHeallyと似てはいるが、違うし、疑問のまま提出してしまった次第です。貴辞書によるHELLERの意味が判明し、小生もパソコンで調べたりした結果、貴文書通り、騒々しい、乱暴な、向こう見ずな人、扱いにくい人で、特に通常若い男とありました。ピンクのタイツを着たソフィ
ア・ローレンがしかも薄物一枚といういで立ちで、劇中馬の背中に仰向けに縛られるというというところ等「ピンクタイツの腕白小僧Heller in pink taightu」の由来になっているようです。それにしても、わかりずらい原名です。

乱読報告ファイル (75) 谷崎 金と銀を読んだ (普通部OB 菅原勲)

谷崎純一郎 ”金と銀”を読む。

谷崎は、1965年に亡くなっているから、この本については少々の説明が必要だろう。 先ず、これは、探偵小説編と銘打たれている内の一冊で、この他に、横溝正史「死仮面」、

甲賀三郎「盲目の目撃者」、夢野久作「暗黒公使」、小栗虫太郎「女人果」、佐藤春夫「更生記」などがある。しかし、小生は、この谷崎を含め、これらの本を読んだことは全くない。

そこで、「金と銀」なのだが、以下、五つの短編から成り立っている(括弧は、発表年)。しかし、結論から先に言ってしまえば、これら全ては、殺人が発生し、それを探偵役の人物が論理的な推理を働かせて解決する経過を主眼とした物語と言う探偵小説の定義からは相当程度、逸脱している。何故なら、この内、相手を殺し損ねて痴呆状態にした例(「金と銀」)、

殺人にまで至った例(「或る少年の怯れ」)があるだけなのだ。

確かに、探偵小説ではないのだが、さりとて、犯罪小説なのか、はたまた、フランス語で言うノワールなのか、何とも名状し難い。むしろ人間の底の底の底まで見つめた、極めて独特な谷崎にしか描けない、それこそ谷崎独自の世界なのではないかとの思いを強くする。そして、普通は、本を読んで気持ちが浄化される、所謂、カタルシスがあるのだが、そんなものなども微塵もない。ただ残るのは、人間、この不可解な生き物が浮かび上がって来るだけだ。従って、小生も好まないが、万人むきの内容とは到底言い難い。

小生の谷崎に対する読書歴は極めて貧弱で、有名な「細雪」は最初の1頁で早期途中棄権(実は、川本三郎に、「「細雪」とその時代」(2020年)と言う著書があって、そちらの方が読み易かったことから、すっかり読んだ気持ちになってしまった)、さりとて、完走した「刺青」は全く印象に残っていない。ただし、大変、面白かったのは、谷崎の明治時代の自身と日本橋を描いた「幼少時代」(1955年)、それに、谷崎家の女中の変遷を描いた「台所太平記」の二つだ。ただし、これらは谷崎にとっては余技であって、巷間、云われる独特の谷崎の世界とは全くの別物だ。従って、小生は、谷崎の読み手としては落第だし、これ以上、谷崎の本を読む気持ちも毛頭湧いてこないと思われる。

ただし、ここで一言断っておきたいことがある。それは、谷崎の文章だ。1920年前後だから、ほぼ100年も前の作品となるのだが、改行が少ないけれど、意外にも非常に読み易い。別に、旧仮名遣いから新仮名遣いにした旨を断っているわけではないので、地の文のままと思われる。

ここで、以下、夫々の内容について、簡単に触れておこう。

「金と銀」(1918年)。両人共に絵描きである銀程度の男が金の男の才能に激しく嫉妬し、殺し損ねて痴呆にしてしまう。

「AとBの話」(1921年)。これが、話しとしては、一番、面白かった。同年齢の従兄同士である、全くの善人(A)と全くの悪人(B)との相克。Aは全くの善人であるが故に、厳しい窮境にあるBである悪人を救うため、Bの要求通りAの作品をB名義で発表することを許す。逆に、善人のAはその作品の発表の機会がなくなったことから窮境に陥る。

「友田と松永の話」(1926年)。松永が、松永自身となり、そして、別人とも見紛う友田になりすます一人二役の話しで、これは極めて平凡だった。

「青塚氏の話」(1926年)。惚れ込んだ女優の人形を三十体以上抱えて毎日を過ごす異常変態者(本文には名前は出て来ないが、それが青野氏)の話し。

「或る少年の怯れ」(1919年)。兄嫁を殺害した兄が、そう疑っている自分にも兄からそうされるのではないかとの惧れを描く。

谷崎は文豪と言われているようだが、結局のところ小生とは全く縁がない存在だ。今は朝井まかてであり、物故した作家であれば山崎豊子、獅子文六あたりが小生には、正にぴったりと来る。

 

エーガ愛好会 (308)ケイン号の反乱  (42 保谷野伸)

「ケイン号の叛乱」は、原作が「ピューリッツアー賞」の作品だけあって、ストーリーは面白く見応えあるエーガでした。。

この映画は、太平洋戦争下の(オンボロ)掃海艦「ケイン号」が舞台ですが、「戦争映画」ではなく、台風下の非常事態に際し、艦長に操舵能力無し,と判断した副官が艦長から指揮権を奪い(結果として)艦を転覆から救ったのですが、戦時下の艦長は絶対的存在で、叛乱は許されない行為であることから後に軍法会議にかけられ、「死刑か、無罪か」という「法廷映画」でした。

主なキャストは、①新米の海軍少尉(ロバート・フランシス)、②新任の(偏執狂気味の)艦長(ハンフリー・ボガード)、③副官(ヴァン・ジョンソン)④(作家志望の)通信長(フレッド・マクマレイ)、⑤敏腕弁護士(ホセ・フェラー)の5名ですが、存在感があったのは、②のH・ボガード-と⑤のホセ・フェラーで、特に後者は、死刑の可能性が高かった(被告)副官の無罪を勝ち取り、かつ、ラストで④の通信長を「叛乱を陰で誘導した」と糾弾する、カッコ良い役どころでした。彼はあまり有名ではありませんが、魅力ある俳優ですね。

ちなみに、ボガードは「黄金」で救いようがないワルを演じて、(ミスキャスト?)と「ガッカリ」しましたが、今回も「悪役~といっても偏執狂」で、好演ではありましたが、彼は悪役より(カサブランカの)ニックのような「ニヒルで男らしい役」が似合うと思います。。最後に、同じ「法廷映画」の(G・ペック主演の)「アラバマ物語」との比較では、感動や共感という面で、私はアラバマ物語を推します。

(編集子)このブログをおっかなびっくり、本屋で買った入門書と首っ引きで始めたのが2017年の夏なので発足以来足掛け8年になる。自分からの発信ではなく、できるだけ多くの友人たちとの付き合いを持ち続ける場にしたい、というのが狙いだったが、幸い、意図を理解してくれた友人たちのご協力で、それなりの達成感はある。中でも、ひょいとした思い付きで始めてみた、映画の話題を中心としたメル友グループ (エーガ愛好会)は映画の話題にとどまらず、いろいろな場面での情報、意見の交換の場となり、数回にわたって食事会などを催したりして、編集子の中学から大学までの友人たちや、職場での仲間などとの交歓の場として僕にはかかせないものになった。その投稿300号が最近達成できたので、何か記念になる行事はないか、と提案したのが、鑑賞した作品についてのエッセイのコンテストだった。通常であればだれかがまず投稿し、それに対してのフォローやら反論やらを語り合うのだが、今回はある一つの作品にできるだけ多くの人たちに同時投稿をやってもらい、事後にベストを選ぶ、ということを考えたのだ。しかしテレビでの放映日と投稿までの時間が短かったのと、作品 ”ケイン号の反乱” というタイトルから、いわゆる戦争もの、と誤解されたりしたこともあり、応募数が4通にとどまって、当初の狙いとはずれてしまった。しかし投稿されたのはそれぞれ味のある文章であり、また未知の情報も多くあったので、投稿原文をそのまま、紹介することにした。

エーガ愛好会 (307) ケイン号の反乱    (学生時代クラスメート 飯田武昭)

ピューリッツァー賞を受賞したハーマン・ウォークの同名の世界的ベストセラー小説(1951年発表)を監督エドワード・ドミトリク、製作スタンリー・クレイマー、出演ハンフリー・ボガート、ホセ・フェラーなど当時のハリウッドの超一流スタッフ・キャストが総結集、映画史上に残る名作ドラマに作り上げた。大まかな内容は第二次世界大戦の太平洋戦域を舞台に、アメリカ海軍の駆逐艦掃海艇内での出来事とその後の軍法会議を描いているアメリカの軍事裁判映画。

映画はサンフランシスコ湾からハワイの真珠湾へ寄港する航路の周辺でのアメリカ海軍の老朽掃海駆逐艦ケイン号の艦上での新艦長とその部下たちの間の揉め事が、大型台風の襲来という想定外の出来事をきっかけに、艦長を追放し部下が取って代わって艦長を勤めるという規律違反の事件にまで発展する。

その事件で一時艦長の役を務めたキース少尉が軍法会議に掛けられ反乱行為と判決されれば絞首刑もありうる裁判で、被告を弁護した弁護士の有能な弁論で無罪になるというストーリーだ。結審後の弁護士が信条を吐露したところでは、この事件を小説に書こうとしていた作家としてのキーファー大尉と無罪放免となったキース少尉が再び乗船する老朽掃海駆逐艦の艦長が元のデウリーズ艦長(トム・チューリー)であるとの落ちが付いている。

この映画では新たに艦長として着任したクイーグ少佐(ハンフリー・ボガート)が部下に対して必要以上に規律に厳しく、それが次第に編執症又は偏執病かと思われる言動にまで発展する。後半の軍法会議で、この偏執症が過去8年間の過酷な海上勤務が原因のものかという点も論議されたが、最後に証言台に座ったクイーク少佐本人が、自らの不甲斐ない艦長としての非を認める短いが迫真に迫るセリフで、この裁判を被告無罪とする結審に至らせる。裁判では被告のキース少尉の弁護に立つグリーン・ワールド弁護士(ホセ・ファーラー)が、艦長の当時の精神状況を医学的に分析する専門医の証言に対して、実体験の無さで反論し、この弁論も被告の無罪への大きな援護となった。

それぞれの役を演ずる俳優陣が魅力的で、新艦長のハンフリー・ボガートは規律に極めて厳しい偏執症的な面と、時には部下を一斉召集に掛けて自分の寂しい心情を訥々と述べるなど、そして前述の裁判シーンでの艦長としての非を認める迫真の短い独白シーンなど、「カサブランカ」「三つ数えろ」「キー・ラーゴ」「アフリカの女王」「必死の逃亡者」「麗しのサブリナ」などで名演技を残した俳優ボギーの面目躍如。他にも、副長役のマリック大尉は、極めて上官に真摯に使える雰囲気をお馴染みのヴァン・ジョンソンが演じるが、彼は戦争映画でよく見る顔である反面、歌手・ダンサーでもあるので、ジーン・ケリー主演のミュージカル「ブリガドーン」やエリザベス・テイラー主演の小説の映画化「雨の朝パリで死す」などにも準主役を演じている。彼と仲間のキーファー大尉はテレビ・ドラマ「パパ大好き」で日本でも大人気だった俳優フレッド・マクマレイで、この映画の役では戦場以外では小説の作家をしている曲者という設定をソフトに演じている。話の中心のキース少尉(ロバート・フランシス)は、名門プリンストン大学出で一貫して艦艇では新人らしい振る舞いを上手く演じている。彼の恋人のナイトクラブ歌手(メイ・ウイン)との逢瀬のシーンは、多分ヨセミテ国立公園と思わせる大きな樹木と巨大岩石の公園やお互いの両親が二人の結婚については育って来た家庭環境の違いを心配するシーンがゆっくりと時間を取って挿入されていて、この当時のアメリカ人の結婚観(日本では恋愛かお見合いかの時代、現代は合コンか恋愛か?)が現代と大きく違っていたことを思い出すシーンでもあった。

直、劇中で偏執症又は偏執病と言う英語の単語は“Paranoia“と発音されており、今日では通常トラウマとかと表現される経験に基ずく一種の強迫観念のような精神疾患のことかと理解した。邦題の「ケイン号の叛乱」の叛乱だが、一般に“叛“は国に背いて偽(敵国・反乱者)に従うこと、“反“は君主の身に危害を及ぼすことなのだが、《軍事》でも〔上官に対する〕反抗、反乱と簡単な方の乱(みだす)という漢字を使うのが一般的なので、この邦画の題名は特に事件の重大性を強調する意味で使っているのかと思う。

エーガ愛好会 (306) ケイン号の反乱 (44 安田耕太郎)

舞台は、ハワイ真珠湾を母港とする老朽掃討駆逐艦「ケイン号」。時は、日本軍の真珠湾奇襲から2年弱後の1943年。旧約聖書「創世記」に登場するアダムとイヴの息子たち兄のケイン(Caine)と弟のアベルは、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の神話において、人類最初の殺人の加害者(兄)、被害者(弟)とされている。映画「エデンの東」にはケインとアベルを示唆する兄弟が登場するが、「ケイン号の叛乱」でも旧約聖書上のケインを匂わせるような筋書きかと期待したが、その名前の由来は潜水艦との砲撃で犠牲になったケイン中佐に因んで命名されたと艦内に記されていた。肩透かしを食らった。

オンボロ駆逐艦「ケイン号」の新旧艦長と乗組員たちの間で展開される人間ドラマを描き、新任艦長は神経質で心身喪失状態に陥り、ついには操艦能力欠如と判定され副長から解任される。解任した副長は帰還後軍法会議に掛けられる。映画を大まかに分割すると、新任艦長が着任するまでを第1幕だとすれば、新任艦長と乗組員たちの艦内に於ける人間ドラマが第2幕、そしてクライマックスの軍事裁判の顛末が最終第3幕となる。

名門プリンストン大学を卒業したウィリー・キースはナイトクラブ歌手の恋人と別れ、海軍に入隊して「ケイン号」に乗船。艦長デヴリースの口が悪く人を食ったような態度にも、がさつで下品な乗組員たちにも馴染めなかった。やがてデヴリースは新しい任務先に去り、新任の艦長クイーグ(ハンフリー・ボカート)が着任する。デヴリース離艦の際、乗組員たちのデヴリースに対する尊敬の念に触れたキースは不思議がるが、副長のエリクは「それが解れば君も一人前だ」と告げる。新旧艦長に対する信頼の好対照の伏線になっている。

第2幕の艦内の人間ドラマは続き、クイーグ艦長は風紀の乱れを直し規律を厳守させると宣言。しかし、シャツの裾が出ていると甲板で作業する乗組員を叱責し、その後監視までつけて徹底させるなど神経質でやり過ぎが目立ってくる。厳格な姿勢で臨む一方、自らのミスは部下に責任を押しつける態度をとるにつれ、部下たちはクイーグに対する不信感を募らせる。そんな折、配給されたイチゴがなくなった程度のことでクイーグは乗組員全員の所持品検査を命じる。部下たちの軽蔑は増幅していく。「カサブランカ」「脱出」「三つ数えろ」「麗しのサブリナ」などの映画に於いて、ニヒルでカッコ良い紳士役を演じたボカート(ボギー)にとっては、この艦長役はいやな役柄だったろう。貧乏ゆすりをするかのように、いらいらしたボギーがクルミを神経質に手の中で揉むのが印象的だった。流石、ボギー、見事な演技だった。毒舌で皮肉っぽいボギーを観るのも楽しいが、部下としては働きたくはない。好きな映画「眼下の敵」の艦長とは随分違う。ピーター・ユスティノフと共演したコメディ映画「俺たちは天使じゃない」ではユーモア溢れる役を演じ、見応えのある好きな映画だ。

小説家志望で皮肉屋の通信長キーファー(フレッド・マクマレイ)は親友でもある副長マリクに対し、艦長には明らかに偏執症(パラノイア)の徴候があり、非常時に下級士官が指揮官を解任できるとする海軍規程184条に則って副官は指揮を代行すべきだと忠告する。マクマレイは、ワイルダー監督のロマンティック・コメディの傑作「アパートの鍵貸します」1960年ではシャーリー・マクレーンと浮気をする役を好演。その後のテレビドラマ「パパ大好き」で典型的な良き父親を演じ、少年時代から馴染みの顔だった。

やがて艦は猛烈な台風に遭遇、あわや転覆の危機に陥る。クイーグは取り乱して一時心神喪失状態となり、操艦もおぼつかなくなったと副長マリクは判断して、クイーグを解任、自ら指揮を執って嵐を乗り切った。だが彼は帰還後、軍法会議にかけられることとなる。反乱行為で絞首刑の可能性もある裁判を8人の弁護士が断った。打診を受けた法務将校のグリーンウォルド大尉(ホセ・フェラー)に対して、マリクと共同被告のキースはクイーグの非を訴えるが、彼は平然と云う「たしかに台風で3隻沈んだが、194隻は指揮の交替なしに乗り切ったし、3人の精神科医がクイーグを正常と判定した」と。ほぼ勝ち目は無いが、グリーンウォルドは弁護人を引き受けると、驚くべき発言をする、「無実だから」と。

同時代制作の法廷物映画では「情婦」(ビリー・ワイルダー)、「アラバマ物語」などが忘れがたいが、「ケイン号の叛乱」も題材の面白さに加えて、弁護した法務将校の独特の間合いと、検察官を演じた後年テレビドラマ「弁護士プレストン」でも馴染みのE・G・マーシャルとの丁々発止の論戦は非常に見応えがあった。グリーンウォルド法務将校は、形勢不利な状況から巧みな質問でクイーグが偏執症であることを証明して無罪を勝ち取る。

無罪が確定した後のパーティで法務将校は云う、「艦長をあそこまで異常にさせる前に乗組員たちもやるべきことがあったのではないか」と。そして、少し酔っ払った頃、将校はキーファーの顔に思いっきりシャンパンをぶちまけた。裁判の場で、艦長の肩をもつ発言をして裏切ったことに怒っていたのだ。キーファーは唖然として後悔の苦笑いをみせながら将校が立ち去るのを見送った。戦争のような極限状況では、乗組員たちの生死がかかる状況下で上官の命令に服従しない士官の罪をどこまで問えるか、というのがこの映画が問いかけたテーマであった。「歴戦の功労者のメンツと名誉」と「現実的な判断」の狭間でその困難さを突きつけた映画でもあった。それにしてもキーファーの裏切りには驚いた。

キースは裁判後、恋人と結婚。ケイン号の任務に戻り乗艦する。すると、馴染みのあるデヴリース艦長に出会う。再び艦長としてケイン号に戻ってきたのだ。二人はにこやかに笑う。艦長を演じたトム・テューリーはアカデミー助演男優賞を受賞する。キースを演じたロバート・フランシスはその後の将来を嘱望されるも、映画公開翌年に自ら操縦する飛行機の墜落事故で亡くなった。享年25。

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(編集子)原著者ハーマン・ウオークは第二次大戦中、駆逐艦に搭乗して実戦に参加している。以下、ウイキペディア。

エーガ愛好会 (305) ケイン号の反乱   (42 下村祥介)

久しぶりに真面目に映画を見た。「真面目に」という意味は、その映画に没入し登場人物に感情移入するくらいの真摯な気持ちで見ないと本当に見たということにはならないと思うからだ。家庭の居間というのはTVでの映画鑑賞にはまったく不適で、家の者がしょっちゅう出入りしたり鬼の居ぬ間にと家人の留守中に見はじめると宅配業者に席を立たされたりと落ち着かないことおびただしい。今回は御大のお薦めということで早起きし、早朝まだ皆が眠っている中で集中して見ることができた。

吹き荒れる嵐の中、激しい波に翻弄され今にも沈没しかねない艦のなかで操艦を巡る自己愛の強い艦長とそれまで艦長を支えてきた副官との壮絶な確執。艦長から出される支離滅裂な種々の指示に異常を感じた副官が軍規に基づき指揮権を奪取するが、これが帰投後反乱とみなされ軍法会議にかけられる。圧巻は軍法会議における検察官・精神科医と弁護士との迫真の論戦。精神科医による一般的な診断では極端ではあるが病気とは言えないと判断された艦長。それにもかかわらず艦長の命令に逆らい指揮権を奪った副官は反乱罪が当然だと誇り勝ちの顔を見せる検察官。やがて艦長が尋問の場に立たされ自己弁護を始めるが、艦内で起きた異常と思える事故について弁護士が一つ一つ事実を追求していく。自らの言動の正当性を主張したり不都合なことは記憶にないなどとはぐらかす艦長だが、虚偽の答弁がついに馬脚を現し自ら記憶にないと言っていたことを残らずしゃべってしまう。こうしてめでたく副官は無罪となったわけであるが、打ち上げの飲み会にくだんの弁護士が現れて曰く、「俺たちが平穏なところで勉強したり遊んだりしていたときに、危険に身をさらして前線で戦っていたのは誰なのか。艦長ではなかったのか」と。助けるべき時に助けもせずグルになって上官をさげすんでいたことに対して苦言を述べるのであった。

私見だが、我々はややもすると過去の業績で人を判断しがちになる。確かに能力がなければその業績は達成できず敬意を払うべきだが、その能力が現在もあるとか発揮できるとかにはならない。艦長も活躍していたころからは歳を取ってきているわけで、私は副官の判断を支持したい。

ハンフリー・ボガードが憎まれ役で出ていたことに驚いたが、さすがに演技は抜群で追及され追い詰められていく焦りの表情は何とも言えない。不安と親友に裏切られたという苦悶の表情を浮かべる副官もそうだし、弁護士もその役にふさわしい顔立ちの男だった。久しぶりに面白い映画を見た。

余談1.巨大空母:ゴルフのショートホールにもなりそうな巨大な空母が登場。当時の日本にもこれに匹敵する赤城、加賀、飛竜、蒼龍といった空母群があった。その大半はミッドウエーで失ったが、誰も責任を追及されなかった。

余談2.軍規184条:指揮官が負傷するなど明らかに指揮が取れないなどの場合以外は運用は難しそう。異常な命令や指揮がとられても何をもって異常と判断するのか判断基準が曖昧。他にも敵を攻撃すべきか否か寸刻を争う緊急事態に対して艦長と副艦長との判断が異なり、副艦長が武力で指揮権を奪うという米国の海戦映画があった。密閉空間内での確執であり難しい問題である。

 

カンボジア・アンコールワット再訪 (41 斉藤孝)

静かに東の空が明けていく。

暗かったアンコールワットの遺跡群のシルエットが浮かんできた。太陽が昇り始め、太陽に照らされてアンコールワットは目覚めた。

5本の尖塔が姿を現す。時間とともに空の色は変わり始めた。「聖池」に逆さアンコールワットが映る。壮大な遺跡群の全貌がハッキリ現れた。

朝焼けのアンコールワットは光り輝いていた。空も遺跡群も瑠璃色一色である。

紅のカンボジア(クメールルージュ) !! これこそが「クメールルージュ」ではないか ? 「聖池」の横に立たずむ白髪の老人は「ポルポト」なのか ?悪い冗談をつぶやいた。

「クメールルージュ」(1970–1975)は原始共産主義社会を本気で実験した悪名高き集団。その指導者は「ポルポト」だった。約300万人のクメール人を虐殺(ジェノサイド)した。

老夫婦は午前3時に起床し、足元を懐中電灯で照らしながら用心深く歩いた。60年振りのアンコールワットだった。センチメンタルジャーニーといえるだろう。

1969年(大学院)を修めた春に東南アジアを放浪したことがあった。あの頃のインドシナ半島はベトナム戦争の最中であったがカンボジアだけが平和だった。

(42 河瀬)素晴らしい朝焼けのアンコールワットですね!

私は2013年にプノンペンで日本の友人が立派な脳外科の病院を建設したので、その祝辞に行った折にアンコールワットに寄りました。アンコールワットの他に素晴らしい彫刻のあるアンコールトムも訪ねました(添付写真)。寺院の一部は熱帯のジャングルの巨大な根に飲み込まれつつありました。
 ポルポトに大虐殺されたクメール人は、12世紀初頭にクメール王、スーリヤヴァルマン2世の主導でこのような驚くべき、エジプトにも負けない壮大な歴史遺産を残していたのです。
 カンボジア人が今若い人ばかりで活気があるのは、その大虐殺で高齢者がいないためだそうですが、学者、先生や医師などの知識人がいなくなって困っているようです。