一年回顧の時がまたやってきた    (普通部OB 船津於菟彦)

年の暮れ、2024年を思い返すと災害と混乱の始まりの年のような兆しの年だった。地震と異常気象。与党自民党大敗。米国は「またトラ」.。

・新年早々 1月1日の午後4時過ぎ、石川県能登半島を震源とするマグニチュード7.6の地震が発生し、震度7の激しい揺れを石川県志賀町で観測したほか、震度6強を七尾市と輪島市、珠洲市、穴水町で観測。
・1月2日午後6時前、東京 大田区の羽田空港で、新千歳空港から向かっていた日本航空516便が、着陸した直後に海上保安庁の航空機と衝突、海上保安庁の機体に乗っていた6人のうち5人が死亡、日本航空の乗員・乗客379人は全員が脱出。
・8月8日に起きた日向灘を震源とするM7.1の地震を受け、気象庁は、次の巨大地震に注意を呼びかける「南海トラフ地震臨時情報」(巨大地震注意)を発表。
・58年前、静岡県で一家4人が殺害された事件で死刑が確定した袴田巌さんの再審=やり直しの裁判が行われ、9月26日の判決で、静岡地方裁判所は捜査機関によって証拠がねつ造されたと指摘し、袴田さんは無罪となる。
・10月11日、ことしのノーベル平和賞は、被爆者の立場から核兵器廃絶を訴えてきた日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会が受賞、核兵器のない世界を実現するための努力と、核兵器が二度と使用されてはならないことを証言によって示してきたことが受賞理由だった。
・民間の有識者グループ「人口戦略会議」は4割にあたる744の自治体で、2050年までに20代から30代の女性が半減し、「最終的には消滅する可能性がある」とした分析を4月24日、公表。
・少子化対策が進む中、去年1年間に生まれた子どもの数が前年より5.1%減少し、75万8631人となり(速報値)、統計開始以来、過去最少を更新。
・旧優生保護法のもとで障害などを理由に不妊手術を強制された人たちが国を訴えた裁判の判決で、最高裁判所大法廷は、7月3日、旧優生保護法は憲法違反だとする初めての判断。
・新しい紙幣が7月3日に発行され、日銀から金融機関への引き渡し開始。
新たな紙幣は一万円札が「近代日本経済の父」と呼ばれる渋沢栄一、五千円札は日本で最初の女子留学生としてアメリカで学んだ津田梅子、千円札は破傷風の治療法を開発した細菌学者の北里柴三郎の肖像がデザインされている。
・自動車やエンジンの大量生産に必要な型式指定の取得で、ダイハツ工業などによる不正行為が相次いだことを受け、国土交通の同じようなケースがないか各社に命じた調査に対し、自動車メーカーなど5社が車の性能試験で不正があったと報告したことが6月3日、判明。結果、国土交通省は現在生産する車種で不正が確認されたトヨタ自動車、マツダ、ヤマハ発動機の3社に出荷の一部停止を指示。
・日本郵便は手紙の料金をいまの84円から110円にするなど、ことし10月に郵便料金を一斉に値上げする届け出を6月13日に行った。利用数の減少や物流コストの上昇が理由。
・4月29日の外国為替市場では、円安がさらに加速、1990年4月以来、34年ぶりに1ドル=160円台をつけたのち、日本時間の午後に一転して円高方向に変動し、円相場は1ドル=154円台まで値上がりした。
・2月22日の東京株式市場、日経平均株価は、バブル期の1989年12月29日につけた終値としての史上最高値を更新して3万9098円68銭まで上昇。
・7月24日、最低賃金について議論している厚生労働省の審議会は物価の上昇が続いていることなど踏まえ、今年度、過去最大となる時給で50円引き上げる目安を示し、全国平均は時給1054円とすることで決着。
・日本の2023年1年間の名目のGDP=国内総生産は、ドル換算でドイツに抜かれて世界4位(内閣府・2月15日公表)。長年にわたる低成長やデフレに加えて、外国為替相場で円安が進みドルに換算した際の規模が目減りしたことも影響。
・派閥の政治資金パーティーをめぐり自民党は、4月4日安倍派と二階派の議員ら39人の処分を決定、塩谷元文部科学大臣と世耕前参議院幹事長は離党勧告処分に
・岸田総理大臣の後任を選ぶ自民党総裁選挙が9月27日に行われ、石破茂元幹事長を新しい総裁に選出。自民党は衆院選挙で大敗過半数を割る与党となった。
・10月1日、衆参両院の本会議で行われた総理大臣指名選挙で石破茂総裁はを第102代の総理大臣に選出。
・「またトラ」となり米国第一主義が—–今後の政界情勢は不透明。

・新語・流行語大賞 「ふてほど」 関係者は『不適切にもほどがある』という言葉が使われ、うれしい半面、今年は不適切なことが多かったということかと、複雑な心境でもある」と話した。

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最近有名人の訃報とか知人の訃報の知らせを聞くと何やら秋風が顔をなぜるように寂しくなる。歳だなぁ。

さびしさはいつともわかぬ山里に
尾花みだれて秋かぜぞふく

年を取ると「残る花」が淋しくなる。親しい人たちがみな亡くなって、ひとりとり残されるほうが淋しいからだ。そういう心情が投影される。島崎藤村の曰く

あゝうらさびし天地(あめつち)の
壺(つぼ)の中(うち)なる秋の日や
落葉と共に飄(ひるがえ)る
風の行衞(ゆくえ)を誰か知る
風の行衞(ゆくえ)を誰か知る

諸行無常を芭蕉は「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」。

小生は今の心境をあらわす二句で今年を送ろう。

小林一茶 『 世につれて 師走ぶりする 草家哉 』
正岡子規 『 いそがしく 時計の動く 師走哉 』

乱読報告ファイル (65) ”イスラム移民”    (普通部OB 菅原勲)

「イスラム移民」(著者:飯山 陽(アカリ)、発売:扶桑社、発行:2024年)を読んだ。これは、正に紛れもない警世の書であり、飯山なくして世に出る類いのものでもない。そこで、飯山に満腔の謝意と敬意を表する次第だ。

ここで少し長いが、本書の主題であるイスラム移民の問題を適確に表現している「はじめに」の中からその一部を引用しよう(一部、補足説明を付け足している)。「日本はなんだかわからないけれど、「多様性」とか「多文化共生」というものが「いいものだ」とされており、イスラム教徒を受け入れることが、その企業、学校、地方自治体、ひいては日本と言う国家にとって良いことだとされているのではないか。しかし、日本に先んじて大量のイスラム教徒を受け入れたヨーロッパ諸国では、犯罪が増加し、文化や秩序が破壊され、社会が変質した。と言うのも、イスラム教徒は移住先の法や文化に適応し順応しそれを受け入れるのではなく、自分たちの法や文化を移住先に持ち込むからである」。つまり、「郷に入れば郷に従え」とか「When in Rome、Do as the Romans Do」なんてのは、イスラム教徒には全く通用しないのだ。

一例を挙げる。土葬墓地問題がある。亡くなった場合、日本では、殆どの場合、火葬にされてただの灰となる。ところが、イスラム教では、土葬することしか許されていない。何故なら、イスラム教徒は来世を信じており、その最後に、神の審判を受け、天国に行くか地獄に行くかが決められるからだ。それに加えて、火は地獄の象徴でもある。従って、火葬は断じて許されていない。しかるに、近傍に土葬墓地が計画される、これは、普通の日本人にとって誠に堪えがたいことではないだろうか(実際に、例えば、大分県日出町、宮城県石巻市などで問題が起きている)。しかし、例えば、朝日新聞、毎日新聞などは、周辺住民の抵抗は、多様性を受け入れない、無知蒙昧で頑固な差別主義者だと断じて、日本人を非難し、周辺住民の困惑など一顧だにしていない。

また、イスラム教は、一端、イスラム教徒になったならば棄教することは許されないし、その子孫はイスラム教徒になることが求められている。従って、現在、地球上の全人類の1/4がイスラムと言われている。

オールド・メディアと言われる新聞、テレビの殆どが、産経新聞を除き、これらの事実を全く報道していない。例え報道したとしても、それらは全て「多様性」の名のもとにイスラム支援に回っている。蛇足だが、それが故にオールド・メディアと言われるのだが。それは、彼らが金科玉条としている「多様性」なるものが、この一事で一挙に崩れ去ってしまうからに他ならない。つまり、SNSに限らず、オールド・メディアこそがフェイク・ニュースを垂れ流し続けて来た。また、それを、いささかも顧みることすらしていない。

従って、ここには数々の貴重な情報が満載されており、その点では、肝を冷やす恐ろしい本だ。このまま何もしなければ、正に日本消滅に向かっていると言っても過言ではない。例えば、イスラム教徒であるクルド人が跋扈する埼玉県川口市は、最早、住民が安寧に暮らす環境からは程遠いものとなっているようだ。

今や、日本には、イスラム教徒が約27万人いるそうだ。確かに、ここまで、その問題点を摘出することについて、誠に舌鋒鋭い飯山なのだが、残念ながら、イスラムを含む移民問題の根本的な解決策を提示しているわけではない。移民は何故発生するのだろうか。そこを解決しなければ、根本的な解決とはなり得ないだろう。それは豊かさを求めてのものなのだろう。さすれば、E.マスク、J.ベゾスなどの億万長者が、その貧しさにいくらかでも寄付してくれれば、解決の糸口が掴めるのではないか、との妄想も抱きたくなる。

南の島に雪が降るーキナバル行     (41 斎藤孝)

ニューギニア侵攻の日本軍の物語「南の島に雪が降る」を思い出した。その雪は白い紙きれだった。雪国出身兵士が故郷を懐かしむ内容だった。 

赤道近く熱帯密林に囲まれたキナバル山に雪が舞うこともある。キナバル山(標高4095.2メートル)はボルネオの最高峰である。富士山(標高3776.12 m)よりも高い。 キナバル山は成層火山であるから広大なすそ野をもつコニーデ型になっている。溶岩や火山砕屑物が交互に堆積してできた円錐火山である。浅間山にも似ている。 

キナバル山は力強い岩肌が魅力であるから男性的。
富士山は柔らかな美しい裾野を広げるから女性的。

 「富士は世界一の日本美女」
富士山の美しさをあらためて実感した。 

「キナバル山は南国武者」
ボルネオを守護する野武士の風格がある。あまり褒め過ぎたのか雲が湧いて来て山頂を隠した。

(堀川)キナバル山。いつ登ったかわからないほど遠い昔に登ったっけ!下山後にオラウータンの居る動物園(?)でしばしオラウータンとそんだっけ!

(安田)KWV44年卒閑人会10名は 2013年11月(67〜69歳時)、キナバル山登山を行った。ボルネオ島の最北端に近い地域(マレーシア領土)に位置し、マレーシア領ボルネオ島では最大の都市コタキナバル(日本から直行便あり)から山麓へアクセスできる。第二次大戦中は日本の占領下にあった、山崎朋子著「サンダカン八番娼館」で知られた第2の都市サンダカンはコタキナバルと半島の反対側東海岸に位置する。

キナバル山の周辺は熱帯雨林のジャングルでオランウータンの生息地。
また、19世紀半ば頃よりヨーロッパから(主としてイギリス人)のプラントハンターが跋扈した。彼らは熱帯の草花発見・採取が主目的であったが、目の前の高山・キナバル山にも登山し、連峰の多くのピークには彼らとイギリス所縁の名前が冠せられている。最高峰The Low’s Peak(4,095.2m)の他に、Alexandria′s Peak,(3,998m)、Victoria’s Peak (4,090m)、KingnEdward Peak (4,086m) などである。

ドイツを知ろう     (普通部OB 菅原勲 + 大学クラスメート 飯田武昭)

(菅原)本日の日経朝刊の一面に「失速ドイツ 原発訣別の誤算」と言う記事が載っていた。加えて、フォルクスワーゲンの人員削減、工場閉鎖など、どうも大変なことが山積みになっており、ショルツ首相は四苦八苦しているようだ。小生、ドイツ学(?)の専門家ではないが、ドイツが現在抱えている問題の殆どは、実は、A.メルケルが残したものだと思っている(メルケルが旧東ドイツ出身だったため、ロシア、中国と仲良くし過ぎたと言う穿った説もあった)ショルツはそのシリヌグイをさせられているんだろう、と、小生は思っているのだが、ドイツ滞在が長かった飯田兄のお考えを聞きたい。

(飯田)メルケル政権の功罪の罪の面では前政権シュレーダー首相の改革により経済成長が波に乗り、メルケルがこれを後押しする政策を取って、ドイツが立派な輸出大国に生まれ変わった結果、大胆な改革を断行するための資源を手にしていたのに内外ともに動かなかった点だと思う。

メルケルは閣僚時代から真面目で仕事熱心、しかも賢く有能だという定評があった。朝早くから仕事を始め書類に丹念に目を通し会議で人の意見を良く聞き目の前の課題を着実に解決していく。それなのに改革が断行できないのはビジョンがなかったからだろうと思う。

改革を主導するには「社会や国がかくあるべし」というビジョンが必要なのに、それが無く調整役としての才能に徹してEU分裂危機やユーロ危機を乗り越え、ドイツを安定させた功績を残すにとどまった。

フランスではマクロンが「欧州主権」という野心的な目標を掲げ大統領になった時も、メルケルは彼とは個人的にウマが合うとされるし、協力しようと思えばいくらでもできたが乗らなかった。フランスがいくら旗を振っても財布を握るドイツが動かなければ物事は進まない。EUは変わらなかったのだ。

思うにメルケルの最大の失敗はシリア内戦などの難民受け入れ問題で100万人規模を受け入れる案の主導的立場を取った2015年頃のことではないか。私が生活していた頃の西ドイツでもイタリア、ギリシャ、イラン辺りからの移民が沢山、土木建設業に従事していたが、その頃は黒人は全くと言っていいほど街中には見られなかった。しかし、2000年代になってからの私的な旅行時にはハンブルグにさえ多くの黒人が働いていて、驚いた記憶がある。

第2次大戦後のドイツは東西分裂後の西ドイツBundesrepublik Deutschland)は、中道右派と左派の首相が入れ替わり立ち代わりに誕生して政策運営をしてきた。アデナウワー(CDU-中道右派)、ブラント(SPD^中道左派)、シュミット(SPD)、コール(CDU)、シュレーダー(SPD)、メルメル(CDU)、シュルツ(SPD)と。こういう変化を考えると、私が東西分裂の西ドイツに居た頃(1964年の1年間と1973~77年の4年間)の感覚で、現在のドイツを評論するのは感覚がずれている恐れが多いので差し控える。

例えば、自動車業界だけでも、1964年にはAUDIは未だ無く、Auto-Union-DKWと言う車種が走っていたが、その会社がAUDIとなって誕生していた。Ford Taunusと言うドイツ・フォード社の車種も964年には人気があった。当時の西ドイツは主力の鉄鋼・自動車・化学工業が極めて健全な戦後回復期だったと今になって感じるところがあり、化学業界は第2次大戦前の財閥の所謂イー・ゲー・ファルベン(!.G.Farben)が、3分割されたバイエル(BAYER),ヘキスト( HO”CHST),ビー・エー・エス・エフ( BASF)の3社が業界を牛耳っていたが、現在はその面影もなく産業構造が変わってしまっている、という具合なのだ。

1973年時代にハンブルグで家族ぐるみで親しくしていた日本人夫妻(夫はクオーター・ドイツ人)がその時以来ハンブルグに住んでいて、今秋に日本にやっと帰国してきた友人から聞けるドイツ人の感覚を一度聞いてみたいと思っている。

(菅原)そうか、メルケルの最大のチョンボは、大量の移民の受け入れか。これでドイツは大分変ったんでしょう。多様性なんて誰が言い出したんでしょう。左巻きの連中か。

(編集子)足掛け2年くらい、ドイツ語初歩の習得をしたいと思い、ネットで探したドイツ人の個人レッスンを受けた。30歳後半で米国での生活も経験し、日本人と結婚したという現代風の若者だったが、飯田君が指摘した移民の急増がドイツ文化を混乱させている、という実情を例を挙げて話してくれた。理想論として反対はできないが、正直言えば迷惑だ、という感覚だった。日本でも昨今、外国人による犯罪の多発が問題化している。欧州のように他国と隣接する長い歴史があるところでも起きる社会現象が日本で引き起こす問題ははるかに深刻になるのではないか。

2024年12月 月いち高尾   (47 関谷誠)

色々あった2024年も後わずか、高尾山塊から冠雪の霊峰「富士」を拝みながら、楽しかった・嬉しかった出来事・思い出等に感謝するとともに、悲しかった・嫌気がさした出来事・思い出等を拭きはらい、明るく・輝かしい2025年を迎えることをテーマに第96回「月いち高尾」を、12月11日(水)に実施した。ここ最近の「月いち高尾」は天候に恵まれなかったが、今回は冬晴れの下、「シニア・コース」に9名、「一般コース」に18名が参加し、各々のコースで初冬の山歩きを楽しみながら、目的の「富士」を拝んできた。

1.シニア・コース 

(1)参加者9名: <敬称略> S36/遠藤、高橋、大塚  S38/町井  S39/岡沢 S40/藍原 S62/木谷 S47/伊川、関谷

(2)ケーブルは定期点検の為、1時間に1本の間引き運転にて、久々に、リフトで山頂駅まで。リフト乗り場までの階段が、思いの外、厳しく、ゼイゼイしながらリフトに乗るも、スキーを付けずズボ足でのリフト乗りは思いの他難しく、戸惑ってしまったが、リフトは残っていた紅葉の中、気持ちよかった。薬王院参拝後、高尾山頂へ。山頂からは目的の霊峰「富士」が拝めた。

山頂では、初参加の木谷君(現KWV三田会親睦委員長)と合流。木谷君は、稲荷山コースを、何と、1時間10分ほどで登頂。若いとは良いもんだと思い知らされた!

下りは、この若い力に引っ張られ、遠藤、藍原、木谷の面々は1号路を一気に下山。 他は往路と同じくリフトにて下山。今回の平均年齢80歳のワンダー岳人は、2024年最後の「月いち高尾」を、無事、終えることが出来た。                              (文責: 関谷誠)

2. 一般コース 「能岳/八重山542m」

(1) 参加者:18名、堀川義夫(S39)武鑓宰(S40)相川汎(S41)安田耕太郎(S44)吉田俊六(S44)徳尾和弘(S44)平井利三郎(S47)水町敬(S47)佐藤充良(S48)実方義宣(S50)丸満隆司(S50)家徳洋一(S50)羽田野洋子(S51)斎藤邦彦(S51)後藤眞(S59)鈴木一史(S60)斎藤伸介(S63)大場陽子(BWV)

(2)コースタイム等

(アクセス)JR上野原駅(バス乗り場5番)光電製作所行きバス9:13⇒(バス17分)⇒9:30光電製作所前

光電製作所前220m9:40⇒(40分)⇒10:20虎丸山10:30⇒(40分)⇒11:10能岳見晴所11:20⇒(30分)⇒11:50八重山展望台12:20⇒(60分)⇒13:20大堀バス停13:38

(帰路)上野原駅からJR14:07 (高尾駅まで所要18分)

(3)概要

中央線の遅れでぎりぎりでの上野原駅のバスに乗車、慌ただしく出発、バスの終点の光電製作所の前で入山し墓地の中を通って山道に入る。

総勢18名の団体での山行は落ち葉の絨毯の山道の中、とても快調だったため予定外の虎丸山にも立ち寄りながら能岳を目指す。能岳見晴所は以前より伐採が進んで展望やぐらの建設も進んでおり北側にゴルフ場(上野原CC)を見下ろし、南に冠雪の富士山の雄姿を眺め全員で感動の声を上げる。見晴所からは陽だまりの能岳と八重山の頂上を巡りながら富士山の眺めが素晴らしい八重山展望デッキに到着、昼食を摂る。毎回楽しみな焼き菓子のフィナンシェを頂き雄大な景色を楽しんだあと、上野原中学校前の駐車場まで下る。駐車場からは大堀のバス停までロードを歩き路線バスで上野原駅まで帰途に着く。   (文責: 斎藤)

3.下山後、両パーティーの有志24名が高尾駅「テング飯店」で合流。今年の「月いち高尾」を、何はともあれ無事故で終えたことを祝して、忘年会を楽しんだ。

(編集子)これからこの3番目を ウルトラシニアコース と命名し、ワンデルングとして認知したいと思うのだが、賛同者はいねえかなあ。

エーガ愛好会 (296) 裸の拍車  (34 小泉幾多郎)

アンソニー・マン監督が、ジェームス・スチュアート主演の西部劇「ウインチェスター銃‘73 1950」のヒットによって、その後「怒りの河1952」「裸の拍車1952」「遠い国1954」「ララミーから来た男1955」と、スチュアート主演の西部劇を連作するが、3作目がこれだ。出演者は、途中襲ってくる先住民を除くと5人のみ。脚本が、当時TVラジオの新進ライターだったサム・ロルフとハロルド・ジャック・ブルームでアカデミー脚本賞にノミネートされた。5人のみながらもシンプルなストーリーラインの中にスリルとサスペンスそして心理戦を提供して呉れる。主人公を演じるのは、愛する人の裏切りから曾って所有していた牧場を売払われ、その上駆け落ちまでされた身の上のジェームス・スチュアート、途中で道ずれになる金発堀の夢を捨てきれない老人ミラード・ミッチェル、素行不良で退役となった元騎兵隊大尉ラルフ・ミーカー。スチュアートは売り払われた牧場分を取り返すべく賞金稼ぎとして、目当ての無法者ロバート・ライアンを追う。途中で知り合ったミッチェルとミーカーの助けを借り、崖の上に見付けた無法者ライアンとライアンに連れ添う女性ジャネット・リーを捕えアビリーンまで護送することになり、ここでライアンには賞金5000ドルがかかっていたことを知られ、漁夫の利を得たいミッチェルとミーカー、3人を仲間割れさせて逃亡の機会を狙うライアン、進行と共に、ライアンとスチュアートの間で揺れ動く女心のリーが夫々の思惑でのロードムービーとなる。女心、男を簡単に乗り換えると言えば身も蓋もないが、ライアンからスチュアートへの変心は、雨の洞窟で、置かれたアルミ食器に落ちた雨だれの音が、フォスターの夢見る人になるシーンとなり、二人が心を通わせるのだった。音楽は「リリー1953」でアカデミー作曲賞のブロニスラウ・ケーパー。リーは「若草物語1949」の長女から4年後、「サイコ1960」の7年前で、へアーがショートカットの一番美しい時か。

開巻早々から雪を被った山々が背景に見える自然の景色が美しく、青空の下の疑心暗鬼な人間模様が小さく見える。いきなりの断崖を挟んだ登攀から始まり、断崖の垂直の構図に崖からの落石等高低差を活かした戦いはスリル満点。最後の渓谷を挟む断崖での戦い迄続く。撮影監督が「陽のあたる場所1951」でアカデミー撮影賞の名匠ウイリアム・C・メラー。この5人以外の戦いは、ミーカーが先住民女性に悪さをしたことから先住民に襲われ、スチュアートが脚に怪我をするも撃退する事件のみ。ミッチェルは、ライアンから金鉱の在り処を教えると巧みに持ち掛けられリーと共に、脱出させられ射殺される。これを知ったスチュアートとミーカーは激しい射ち合いの末、ライアンは激流に落ち、ライアンの死体を拾い上げたミーカーは流木に流されてしまう。この最後の戦いも渓谷沿いの断崖での戦いとなる。開幕でスチュアートの拍車が大写しで描写されるが、最後にスチュアートが断崖を登るのにピッケルとしての助けと相手ライアンの顔面をやつける飛び道具となる題名通り重要な小道具だった。結果は、一人になったスチュアートが賞金を独り占めできることになり、ライアンの死体を馬に括り付けようとしているとき、リーからそれでも一緒に行くと言われ、賞金稼ぎの生き方と牧場をやっていた自分とは違うのではないか、自問自答の結果賞金をやめても新しい生活を求めることを決心し、死体を埋葬し、二人新天地カリフォルニアに向けて旅立つのだった。

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拍車(はくしゃ)は、乗馬用のブーツのかかとに取り付ける金具のこと。 西部劇に登場するカウボーイのブーツについている、あの歯車です。 拍車を馬の脇腹に当てて、刺激を与えることで馬を加速させます。 金属製ですが、先端は尖らせず丸くするなどの工夫があり、馬を傷付けることはありません。

 

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(飯田)異色の西部劇「裸の拍車」を再々見しました。さすが、アンソニー・マン監督だけあって見どころ満載に仕立ててあり、観終わって疲れを感じるほど次々と見どころが出てきます。小泉さんの解説・感想文の ≪5人のみながらもシンプルなストーリーラインの中にスリルとサスペンスそして心理戦を提供して呉れる≫ の部分が、この映画の組立を十分表現していると思います。

本当に5人以外は途中で襲って来るインディアンが出て来るだけで、コロラド州を撮影現場にした雪を頂くロッキー山脈が幾度も遠方に背景として見える風景は、この映画の影の主役とも言える光景です。後半の銃撃戦からは“空と陸と川の3つの要素“を上手に使って、J.スチュワートの崖をよじ登る場面では「空と陸」、旅の途中で川の畔で野宿するシーンやR.ライアンが撃たれて川に転落死した後の場面では「陸と川」というように、UPを多く取り入れた撮影を交えて上手く製作されていると思います。

5人の中では、善良なアメリカ人の代表のような(この映画では賞金目当ての元保安官で故障した愛馬を殺してしまうやや複雑な善人役)J.スチュアートよりも、悪人役の(他の映画では善人役も演じる)R.ライアンの方が味が出た映画かな~とも思いました。

 

エーガ愛好会 (295) SHOGUN  (44 安田耕太郎)

原作は、1980年にもアメリカで実写ドラマ化されたジェームズ・クラヴェル(James Clavell)の1975年発表のベストセラー小説「SHŌGUN 将軍」。リチャード・チェンバレン主演(三浦按針役)、三船敏郎(吉井虎長役)共演でドラマ化されており、本作はそのリメイクになる。

2024年の本作では、真田広之が『ラストサムライ』(2003年)以降海外での活動を本格化し、プロデューサーとして本作を実現するに至った。20年に及ぶ海外活動の集大成とも思える獅子奮迅の活躍だ。真田本人も「この20年間の集大成。自分にとって非常に大きな第一歩だった」と強い思いを馳せている。黒澤映画の三船敏郎、「ラストサムライ」「SAYURI」「硫黄島からの手紙」の渡辺謙に続く逸材だと思う。

全10話のドラマの内、第1話「按針」(英:Anjin)と第2話「二人の主君に仕えて」(英:Servants to Two Masters)の映画を映画館で観た。アメリカ映画ながら、日本人出演者のセリフは全て日本語。ヨーロッパ人の役柄(スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリスなど)出演者は全て英語で邦訳字幕が画面に。1950〜60年代の黒澤映画を彷彿とさせる殺陣シーンでの迫力と臨場感はこの先3話以降を期待させるに充分であった。
ドラマ界のアカデミー賞と言われる第76回エミー賞のドラマシリーズ部門で作品賞、主演男優賞(真田広之)、主演女優賞(アンナ・サワイ)など18部門を受賞するという快挙を成し遂げた。

ヨーロッパとはまったく違う社会制度や生活習慣に驚きながらも、吉井虎長(徳川家康)らの武将やヨーロッパ人宣教師らなどと関わり、政治的に激動する日本で生きていく 実在したイギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針)をモデルにしているが、内容は実在の人物を架空の人名に置き換えた史実と異なるフィクシンである。吉井虎長とジョン・ブラックソーン(三浦安針)を軸に物語が展開していく。僕には興味深く面白かったのは、知っている史実とフィクションのストーリーが展開する未知との遭遇の対比だった。

映画の時代は、天下を治めていた太閤豊臣秀吉亡き後(1598年)、太閤の遺言で世継ぎの八重千代(秀頼)が元服するまでの政治を任された「五大老」のひとりである戦国武将の吉井虎永(徳川家康)は、覇権を狙うほかの五大老たちと対立し、包囲網を徐々に狭められていた。そんなある日、イギリス人の航海士ジョン・ブラックソーン(按針)が虎永の領地である伊豆半島網代へ漂着する。虎永は、家臣である戸田文太郎(細川忠興)の妻で、キリスト教を信仰して語学にも堪能な戸田鞠子(細川ガラシャ)に按針の通訳を命じる。按針と鞠子の間には次第に絆が生まれていき、按針を利用して窮地を脱した虎永は、按針をサムライの地位に取り立てることになるが、第2話まではそこまでの展開は未だ描かれていない。ガラシャ演じる俳優アンナ・サワイはニュージーランド生まれの海外を拠点に活躍する日米両語堪能な日本の女優。いかにも欧米人好みの頬骨の高い顔立ちと姿は、1980年「将軍」の同役を演じた島田陽子とは好対照だ。

プロデューサー真田の関与によって、その時代、身分によって異なる歩き方、座り方、立ち方、お辞儀の所作、デザイン衣装と衣服生地と色彩、室内装飾、建物の巨大セット、日本の美の時代考証、そしてセリフの一言一句まで日本人が観ても違和感ない戦国時代の日本と日本人を描くべくアメリカ人監督・スタッフと打ち合わせを重ねたと言う。これまでのハリウッド作品における日本描写の違和感を克服して見応えのある映画に仕上がっていると思った。電灯がない蝋燭の明かりによる当時の室内の薄暗さ具合が時代に忠実で流石だとも思った。
「SHOGUN 将軍」が描く日本は“本物”なのか? 主演・プロデューサーを務めた真田の功績を引き続き第3話から第10話まで楽しみたい。

 

細川ガラシャ:

明智光秀の三女で、後に細川ガラシャと呼ばれる明智たまにインスパイア。1563年生まれのたまは、父親が織田信長の家臣として出世する間、恵まれた少女時代を過ごす。1578年、15歳で、同じく信長の家臣であった細川藤孝の長男・忠興と結婚し、5人の子供に恵まれた。しかし、1582年に父親が本能寺の変を起こすと、たまも幽閉の身となる。この間にたまはキリスト教を学び、忠興が九州に遠征に出ている間に洗礼を受ける。しかし、洗礼を受ける直前に秀吉がイエズス会禁教令を出したため、九州から戻った忠興は、たまに棄教を迫った。これが2人の間に深刻な不和を引き起こしたと言われる。1600年、細川家が家康に加勢したとき、たまは大坂に残り、やがて来るべき戦争で重要な役割を果たすことになる。

女優アンナ・サワイ

ニュージーランドで生まれ、東京で育つ。来日してすぐオーディションで選ばれ舞台で俳優デビュー。2009年に『ニンジャ・アサシン』で映画デビューを果たし、英BBC製作のドラマ「Giri /Haji』やApple TV+で配備された「パチンコーPachinko』、映画『ワイルド・スピード/ジェットブレイク』(21)に出演し、高い評価を得る。 Apple TV+で配中のドラマシリーズ『モナーク:レガシー・オブ・モンスターズ」では主要キャラクター、ケイト・ランダ役を演じ、カート・ラッセルらと共に主要キャストとして出演した。

キャスト (史実で相当するキャラクターは[ ]内で表記)
・吉井虎永[徳川家康  – 真田広之
・ジョン・ブラックソーン[ウィリアム・アダムス/三浦按針]- コスモ・ジャーヴィス
・戸田鞠子[細川ガラシャ]- アンナ・サワイ
・樫木藪重[本多正信] – 浅野忠信
・樫木央海[本多正純] – 金井浩人
・石堂和成[石田三成] – 平岳大
・戸田文太郎広勝[細川忠興] – 阿部進之介
・戸田広松[細川藤孝] – 西岡徳馬
・落葉の方[淀殿] – 二階堂ふみ
・桐の方[阿茶局] – 洞口依子
・ロドリゲス司祭 – ネスター・カーボネル
・マルティン・アルヴィト司祭[ジョアン
・ロドリゲス] – トミー・バストウ
・中村八重千代[豊臣秀頼] – セン・マーズ
・中村秀俊(太閤)[豊臣秀吉] – 螢雪次朗
・大蓉院[高台院・北政所] – AKO
・大野晴信[大谷吉継] – 黒川武
・木山右近定長[小西行長] – 井田裕基
・杉山如水[前田利家] – 戸田年治(ドイツ語版)
・伊藤輝鈍[宇喜多秀家] – 篠井英介
・明智仁斎[明智光秀]- ユタカ・タケウチ
・黒田信久[織田信長]- 尾崎英二郎

冬支度の富士山です    (グリンビラ総合管理HPより転載)

今朝の冷え込み現在の外気温マイナス2度となっています。日中は寒気も次第に緩んで日差しの温もりを感じれるかもしれません。

一昨日大泉から事務所に帰る際、甲府盆地の明かりの向こうに富士山が見えました。すっかり冬の装いですね. 長坂小荒間地区の富士見坂周辺からの冬姿です。

 

”時代の証言” ー 加山雄三

読売新聞のシリーズ 時代の証言 が今回は加山雄三(池端直亮)だった。上原謙 という戦中から戦後にかけて、日本の映画界を代表する二枚目スターの長男として生まれた彼は小生と同じ昭和12年生まれ。僕は満州からの引き揚げ組だが、帰国した時点ではだいぶ衰弱していたらしく、用心深かった母は帰国後すぐ復学させず、ほぼ半年遅れで小学校へ戻ったので、同い年よりは一学年遅れであった。もしこのことがなければ、彼とは慶応高校で同期だったはずだから、多分知り合いになり、(おい、池端ア)なんていう仲になっていたかもしれない。KWVの1年先輩(つまりひょっとしたら同期だったはずの)の何人かが彼と高校時代に交友があって、その関係で一度、蔵王で彼と遭遇、華麗なスキーをみたこともある。そんな因縁があって、今回の31回にわたった連載は自分の時代の思い出、と思いながら完読した。

映画スターの息子、という環境でいろいろ難しい問題もあったのだろうが、高校入学以前、というより幼少のころからミュージシャンとしての天分に恵まれ、一方ではその後ヨットを自作するまでの才能豊かな少年だったことが書かれている。何かといえば上原謙の息子、とみられることに反発して高校時代は硬派で通そうと髪を五分刈りで通してスキーに熱中し、妙高高原ではパトロールをやっていたし国体にも出場したというから、当時赤倉燕に通い詰めていた僕らとひょっとしたらゲレンデですれ違っていたかもしれないし、レベルの違いはあれ、同じような生活だったのだろうと親しみを覚える。この時代、僕らを引き付けた音楽シーンのことどもは曲名をきくだけでも懐かしい。大学卒業にあたって就職を考えた時点で意に反するような形で俳優になった、いうのも、同じ時期、あるハプニングがきっかけで新聞記者になろうという意思をなくしてサラリーマン生活を選んだ、僕自身のありように引き比べて感ずることが多かった。

俳優、ミュージシャンとしてのサクセスストーリーは今更いうまでもない。ただ、彼の映画の中核として触れられている若大将シリーズは、例によって起きてしまった天邪鬼症状で、一本も見ていないが、椿三十郎の若武者ぶりは素晴らしかったし、”独立愚連隊西へ” での活躍も面白かった。しかしこの新聞コラムを続けて読もうと思い立ったのは、高校同窓、という親近感もさることながら、その第一回目の見出しが100歳まで生きる宣言、となっていたからだ。そしてそのために生活態度をあらためている、という意気込みに賛同したからでもある。先輩にあたるわけだから、池端さん、と言わなければならないのかもしれないが、お互い他人さまから見れば恵まれた環境を生きてきた同時代人として、俺だって100歳まで生きてやらあ、という意気込みにさせてくれた読み物だった。

 

エーガ愛好会 (294)ロイ・ビーンとニューマン  (大学クラスメート 飯田武昭)

小泉さんに感想を詳しく書いて頂いた「ロイ・ビーン」を初見でみました。

私はポール・ニューマンは「傷だらけの栄光」「熱いトタン屋根の」「ハスラー」等々、多数見ていますが、好きな俳優の一人です。この映画「ロイ・ビーン」(1972年)は、絶頂期の彼の代表作明日に向かって撃て!」(1969年)と「スティング」(1973年)の間に製作された作品ですが、それを考えると正直、ちょっとがっかりしました。小泉さんの記述にあるように≪気に入らない者は首を吊るして行くという人間を無邪気さとのギャップを込めながら描いている≫ということでしょうが、見ている本人(私)としてはあまり面白くない。

ジョン・ヒューストンという監督は“鬼才“とあだ名がつけられていたと思いますが、奇をてらって演出する所があり、「キー・ラーゴ」「赤い風車」「白鯨」などは成功した部類ですが、「アフリカの女王」はアカデミー賞を取ったというので、数回見てやっと良さが分ったのが正直な所でした。この映画、薄汚い格好のK.ヘップバーンとH.ボガートが延々とボートで漂流するシーンが続きました。
翻って「ロイ・ビーン」にもポーカー賭博シーンが2~3回出てきますが、ストーリー展開の割には場面転換が少ない感じがしたのとP.ニューマンが女性たちを呼ぶのに娼婦と売女と言い分けて呼んだり(菲才な小生には聴き分けられなかったですが)するシーンも、あまり戴けない感じがしました。

折角のP.ニューマン主演の映画でしたが残念でした。率直な感想です。

(小泉) 飯田さんの言われること、もっともと思うことが多々あります。小生の感想、映画
の内容を紹介するだけの、個々のエピソードをごたごた書きすぎて、感想らしくないものになってしまっているようです。どうやらジョン・ヒューストン監督としては、気に入らない者の首を吊ることの正義感は法律の手先であることへの反発としているかのようです。妻を失ったことへの責任を医師のせいにして、縛り首にしようとして、阻まれ、町を出て行く場面等も、本人は正義の裁きを下せない不条理を感じての行動のようだが、心から納得するところまでは行きません。

(編集子)この人(ニューマン)のことは良く知らないので見当はずれかもしれないが、基本的にセーブ劇向きの人じゃなかったと思うな。スマートすぎるというか、うまく言えないんだが、いつも冷笑的な、都市人特有の感じが抜けない気がする。