「美食家ロッシーニ」(著者:水谷 彰良。出版社:春秋社。発行年:2024年)を読む。
著者の水谷は1957年生まれの67歳。音楽・オペラの研究家であり、日本ロッシーニ協会の会長でもある。各種の資料を渉猟した上での原稿で、その参考文献は11頁にも亘っている。
ジョアキーノ・ロッシーニ(1792年生)は「セビーリャの理髪師」(1816年、24歳)で有名なオペラ作曲家。しかし、1829年の「ギヨーム・テル」(ウィリアム・テル)を最後にオペラの筆を折る。この時の台詞が誠にカッコよい、「私の時代は終わった」(本当にこんなことを言ったのかなー)。この時、ロッシーニ38歳だが、鬼籍に入ったのが76歳の1868年。つまり、主にパリでの後半生は、「老いの過ち」と言うちょっとしたピアノ曲とグルメ。この美食が何とも凄まじい、それも、ロッシーニ風と自筆レシピ(料理の作り方や材料を記した指示書)まで残しているのだから、途轍もない意地汚さとしか言いようがない。
例えば、冒頭に、写真付きで掲げられたロッシーニの代表的な創作料理は、
トゥルヌド(牛フィレ肉の心部と隣接する稀少部位)・ロッシーニ。註:フォアグラとトリュフを乗せた、いわゆるステーキ。
トリュフ詰め七面鳥、ロッシーニ風。註:トリュフに加え、栗を詰める。
注入したマカロニ、ロッシーニ風(注入器でフォアグラとトリュフの詰め物をマカロニに注入)。註:つまり、単なる棒であるスパゲッティーと違って、マカロニには穴が開いているから、そこに特殊な注入器を使って、フォアグラとトリュフを詰めるのだから、贅沢も極まれりだ。
鳩、ロッシーニ風。註:これは豚の膀胱の中に鳩肉などを詰める。鳩なんて食えるのかな。
などだが、これらを含め、この本の最後に、40頁にも亘ってロッシーニの料理として50ものレシピが掲げられている。
そして、その意地汚さは、コーヒー、ワイン(無類のワイン通だった)、菓子(小生の全く知らないムスタッチョーリ、ゼッポレ、パネットーネ)、野菜と果物にまで及んでおり、勿論、チーズはゴルゴンゾーラでありリコッタでもある。そして、私邸で食通を唸らせる晩餐会を頻繁に開いていたが、これらの食材を手に入れるために頻繁に手紙のやり取りをしており、その往復書簡が数多く残されている。
テオフィル・ゴーティエと言うフランスの小説家は、「若きフランス」と言う小説の中で、「ロッシーニはものすごく太っていて、この6年間自分の足を見ていない」と述べ、「これが音楽の神ロッシーニと知っていなければ、彼をズボンを穿いたカバと思うだろう」と揶揄している。そりゃーそうだろう、こんなもの毎日食っていたら、腹が突き出て、自分の足も見えなくなるに決まってる。
「赤と黒」などの小説を書いたスタンダールは、「ロッシーニ伝」で「ロッシーニは、ナポレオンに続いて現われた天才だった」と述べているが、ロッシーニ自身は回顧録の類は残さず、日記すら書こうとはしなかった。ただし、数千通にも及ぶ書簡は残されている。
今や、冬は、湯豆腐、夏は、冷ややっこ、胡瓜の酢もみ、茄子の重焼、熱々のご飯に明太子が大変なご馳走と思っている小生からすると、これを見て思わずゲップ、もう一度、ゲップ。東と西、全く違いますね。
ここまで書いて来て思い出したことがある。パリから帰国して15年ほど、「男子、厨房に入らず」の禁を破って、ふた月に一回ほど、主にフランスの家庭料理を作るのに夢中になっていた。取っ掛かりは、海老沢 泰久が書いた大阪・阿倍野に辻調理師専門学校を創設した辻静雄のことを書いた「美味礼賛」。新聞記者だった辻が出来たことなら、無謀にも俺だってと辻が書いた「家庭のフランス料理」(新潮文庫。1985年発行。今は廃版になっているらしい)を参考に、料理じゃないところから始めようと、「ニース風サラダ」から狂気の料理作りが始まった。
今でも覚えているが、そのソースは、3(濃い味)か4(薄味)のエキストラ・ヴァージン・オイルに1のワイン・ヴィネガー(白か赤かは忘れた)、すり潰したアンチョビー(かたくちいわし)、潰した小片のニンニクを混ぜ合わせ、胡椒を振りかけ、これで出来上がり。調合次第では、ロッシーニでさえ舌なめずりする極上のドレッシング。でも、美食家と言う点ではロッシーニの足元にも及ばないので、この辺で打ち止めとする。
(編集子)なんといっても八甲田山中夏合宿、昼飯は飯盒飯に沢の水をぶっかけて、おかずは一人1本配られた乾タラだけ、なんて食生活をしてきた小生には、この種の話題は美術と同様、別世界のトピックである。幸いパートナーは無類の料理好きだから、このレシピ―のいくつかは早晩、実感できるだろうと期待。
料理の名前についてのエピソードは今や国民食になっている スパゲティナポリタン、というのが実は日本発だとか、だいぶ古いが名前だけは知っているシャリアピンが来日したとき、確か帝国ホテルでこしらえた一皿が気に入ったということで、シャリアピンステーキになったとか、そんなことくらいしか知らない。普通部で同じ釜の飯を食ったスガチューとの文化度の違いをまたまた実感する。 小生にとって今まで最高の一皿はといえば、コロラド州山奥のレストランで食べた、”本場” のTボーンステーキくらいだ。それもレア、で注文して半分も食べきれなかったが、皿を下げに来たウエイターが、”you did a pretty good job as a Japanese! ” とほめてくれたのがうれしかった、という程度のことしか思い浮かばない。
しかし同じ飯盒飯で育ったはずのKWV仲間には食品メーカーに就職したことでいっぱしの食通やらワインコノシユアに変身したのが何人もいる。急逝してしまった37年卒の菅谷国雄なんかがいい例だ。同期の山室修(ザンバ)は大手ビール会社に就職、キャリアのなかで直営レストランの社長をつとめた男だが、150周年記念ワンデルングで炎暑の一日の後、なだれ込んだ温泉宿で、指定した銘柄(当然彼の会社のものだ)として出てきたビールを一口のんだだけて怒り出し、宿のマネージャを呼びつけて満座のなかで怒鳴りつけた。向こうは平身低頭で、在庫切れでしたので、と大誤りになったことがあった。同席した10何人かはわけもわからず(へえ、ザンバってえれえんだ!)と感心するだけだった。彼によれば、ビール会社には一口のんだだけでどの工場で醸造したものかを言い当てるプロがいるそうだから世の中は広い。ま、おれは860円(ご当地オーゼキ価格)のチリ大衆ワインくらいで十分だけどな。
シャリアピン・ステーキ(英:shalyapin steak)とは、牛肉を使ったマリネステーキの一種。1936年(昭和11年)に日本に訪れたオペラ歌手、フョードル・シャリアピンの求めに応じて作られた。日本以外の地域ではほとんど知られていない、日本特有のステーキ料理である。