乱読報告ファイル (62) 美食家ロッシーニ   (普通部OB 菅原勲)

「美食家ロッシーニ」(著者:水谷 彰良。出版社:春秋社。発行年:2024年)を読む。

著者の水谷は1957年生まれの67歳。音楽・オペラの研究家であり、日本ロッシーニ協会の会長でもある。各種の資料を渉猟した上での原稿で、その参考文献は11頁にも亘っている。

ジョアキーノ・ロッシーニ(1792年生)は「セビーリャの理髪師」(1816年、24歳)で有名なオペラ作曲家。しかし、1829年の「ギヨーム・テル」(ウィリアム・テル)を最後にオペラの筆を折る。この時の台詞が誠にカッコよい、「私の時代は終わった」(本当にこんなことを言ったのかなー)。この時、ロッシーニ38歳だが、鬼籍に入ったのが76歳の1868年。つまり、主にパリでの後半生は、「老いの過ち」と言うちょっとしたピアノ曲とグルメ。この美食が何とも凄まじい、それも、ロッシーニ風と自筆レシピ(料理の作り方や材料を記した指示書)まで残しているのだから、途轍もない意地汚さとしか言いようがない。

例えば、冒頭に、写真付きで掲げられたロッシーニの代表的な創作料理は、

トゥルヌド(牛フィレ肉の心部と隣接する稀少部位)・ロッシーニ。註:フォアグラとトリュフを乗せた、いわゆるステーキ。

トリュフ詰め七面鳥、ロッシーニ風。註:トリュフに加え、栗を詰める。

注入したマカロニ、ロッシーニ風(注入器でフォアグラとトリュフの詰め物をマカロニに注入)。註:つまり、単なる棒であるスパゲッティーと違って、マカロニには穴が開いているから、そこに特殊な注入器を使って、フォアグラとトリュフを詰めるのだから、贅沢も極まれりだ。

鳩、ロッシーニ風。註:これは豚の膀胱の中に鳩肉などを詰める。鳩なんて食えるのかな。

などだが、これらを含め、この本の最後に、40頁にも亘ってロッシーニの料理として50ものレシピが掲げられている。

そして、その意地汚さは、コーヒー、ワイン(無類のワイン通だった)、菓子(小生の全く知らないムスタッチョーリ、ゼッポレ、パネットーネ)、野菜と果物にまで及んでおり、勿論、チーズはゴルゴンゾーラでありリコッタでもある。そして、私邸で食通を唸らせる晩餐会を頻繁に開いていたが、これらの食材を手に入れるために頻繁に手紙のやり取りをしており、その往復書簡が数多く残されている。

テオフィル・ゴーティエと言うフランスの小説家は、「若きフランス」と言う小説の中で、「ロッシーニはものすごく太っていて、この6年間自分の足を見ていない」と述べ、「これが音楽の神ロッシーニと知っていなければ、彼をズボンを穿いたカバと思うだろう」と揶揄している。そりゃーそうだろう、こんなもの毎日食っていたら、腹が突き出て、自分の足も見えなくなるに決まってる。

「赤と黒」などの小説を書いたスタンダールは、「ロッシーニ伝」で「ロッシーニは、ナポレオンに続いて現われた天才だった」と述べているが、ロッシーニ自身は回顧録の類は残さず、日記すら書こうとはしなかった。ただし、数千通にも及ぶ書簡は残されている。

今や、冬は、湯豆腐、夏は、冷ややっこ、胡瓜の酢もみ、茄子の重焼、熱々のご飯に明太子が大変なご馳走と思っている小生からすると、これを見て思わずゲップ、もう一度、ゲップ。東と西、全く違いますね。

ここまで書いて来て思い出したことがある。パリから帰国して15年ほど、「男子、厨房に入らず」の禁を破って、ふた月に一回ほど、主にフランスの家庭料理を作るのに夢中になっていた。取っ掛かりは、海老沢 泰久が書いた大阪・阿倍野に辻調理師専門学校を創設した辻静雄のことを書いた「美味礼賛」。新聞記者だった辻が出来たことなら、無謀にも俺だってと辻が書いた「家庭のフランス料理」(新潮文庫。1985年発行。今は廃版になっているらしい)を参考に、料理じゃないところから始めようと、「ニース風サラダ」から狂気の料理作りが始まった。

今でも覚えているが、そのソースは、3(濃い味)か4(薄味)のエキストラ・ヴァージン・オイルに1のワイン・ヴィネガー(白か赤かは忘れた)、すり潰したアンチョビー(かたくちいわし)、潰した小片のニンニクを混ぜ合わせ、胡椒を振りかけ、これで出来上がり。調合次第では、ロッシーニでさえ舌なめずりする極上のドレッシング。でも、美食家と言う点ではロッシーニの足元にも及ばないので、この辺で打ち止めとする。

(編集子)なんといっても八甲田山中夏合宿、昼飯は飯盒飯に沢の水をぶっかけて、おかずは一人1本配られた乾タラだけ、なんて食生活をしてきた小生には、この種の話題は美術と同様、別世界のトピックである。幸いパートナーは無類の料理好きだから、このレシピ―のいくつかは早晩、実感できるだろうと期待。

料理の名前についてのエピソードは今や国民食になっている スパゲティナポリタン、というのが実は日本発だとか、だいぶ古いが名前だけは知っているシャリアピンが来日したとき、確か帝国ホテルでこしらえた一皿が気に入ったということで、シャリアピンステーキになったとか、そんなことくらいしか知らない。普通部で同じ釜の飯を食ったスガチューとの文化度の違いをまたまた実感する。      小生にとって今まで最高の一皿はといえば、コロラド州山奥のレストランで食べた、”本場” のTボーンステーキくらいだ。それもレア、で注文して半分も食べきれなかったが、皿を下げに来たウエイターが、”you did a pretty good job as a Japanese! ” とほめてくれたのがうれしかった、という程度のことしか思い浮かばない。

しかし同じ飯盒飯で育ったはずのKWV仲間には食品メーカーに就職したことでいっぱしの食通やらワインコノシユアに変身したのが何人もいる。急逝してしまった37年卒の菅谷国雄なんかがいい例だ。同期の山室修(ザンバ)は大手ビール会社に就職、キャリアのなかで直営レストランの社長をつとめた男だが、150周年記念ワンデルングで炎暑の一日の後、なだれ込んだ温泉宿で、指定した銘柄(当然彼の会社のものだ)として出てきたビールを一口のんだだけて怒り出し、宿のマネージャを呼びつけて満座のなかで怒鳴りつけた。向こうは平身低頭で、在庫切れでしたので、と大誤りになったことがあった。同席した10何人かはわけもわからず(へえ、ザンバってえれえんだ!)と感心するだけだった。彼によれば、ビール会社には一口のんだだけでどの工場で醸造したものかを言い当てるプロがいるそうだから世の中は広い。ま、おれは860円(ご当地オーゼキ価格)のチリ大衆ワインくらいで十分だけどな。

シャリアピン・ステーキ:shalyapin steak)とは、牛肉を使ったマリネステーキの一種。1936年(昭和11年)に日本に訪れたオペラ歌手フョードル・シャリアピンの求めに応じて作られた。日本以外の地域ではほとんど知られていない、日本特有のステーキ料理である。

 

キチ会 (KWV 41年卒同期会)にぎやかに開催  (41 斎藤孝)

 

ヒレひとくちカツの味に引きつられて集まった。柔らかに揚げられているので入れ歯に優しい。 

一人3分以内とされた近況報告だが、久々に発声するから張り切った。普段は誰も聞いてくれない。孫からもバカにされている。話題を豊かにと試みるが、足腰の痛みや痴呆などどうしても病の暗い内容になる。

笑って誤魔化すが誰も聞いていない。よく耳が良く聞こえないのだ。苦しそうにスピーチしているのに冷ややかな態度。会合は手旗手話の世界といえる。「3分以内やがな・・、早うせんかい !! 、トンカツがまずうなるわい、!!」ひたすら黒豚肉団子と松茸の御椀を食す。そして飲み放題に酔う。 

2024年10月23日13時から原宿にある「まい泉」で「KWV41年キチ会」は開催された。

(安田)1年生の時の先輩4年生の59年後のご尊顔を懐かしく拝見いたしました。ありがとうございます。その年(1965年)は, 東京農大ワンゲルしごき事件などがあり、ワンゲル活動が物議を醸した記憶が残っています。FCと北海道夏合宿でご一緒した先輩方がおられます。就職難の年で、4年生の先輩方は苦労なさっておられたと記憶しております。

僭越ながら、綽名でお呼びすることもお許しいただき、顔と名前が判明する先輩の名前を列挙させて頂きます。下井さん、秤さん、マサボンさん、ボウヤさん・アタエさん、安藤陛下、久米さん・コブキ姉位、柏木さん、斎藤カメさん、翠川さん。 不判明の先輩方が数多くおられます。失礼して申し訳ありません。

(保屋野)キチ会(気違い?)の名にふさわしい「奇人変人会」(もちろん、「個性的」という意味です。)の写真、ありがとうございます。大人しい「ガニマタ(凡人)会」はとても適いません。我々は9/30にニンニンの(横浜)墓参で20名ほど集まりました。

 

日本の桜を救ったイギリス人の話  (普通部OB  船津於菟彦)

大英帝国の末期に活躍した園芸家、コリングウッド・イングラム「日本の櫻の恩人」の生涯を記者魂でその祖先とかあらゆる資料を調べ訪ねて書かれた知らざる日本の櫻のエピソード。

1902年(明治35年)9月5日に21歳のイングラムを乗せた船は長崎に到着した。母方がオーストラリア出身だったため、鳥の観察の目的でオーストラリア数ヶ月過ごして帰途に日本に二週間ほど滞在したのが最初の日本発見である。当時ヨーロッパでは日本の浮世絵などからジャポニズムが巻き起こっていたときである。そして長崎から箱根の山で櫻を観た。
そして9月20日に再び船上の人となり帰国するのだが、彼は「西洋では人間は自然を破壊して都市を造り、景観を損ねるが、日本では人が手を加えた後も自然はいっそう美しく輝くのだ。これは驚嘆的なことだ」と富士を船上から観ながら小さく成っていく日本を眺めた。

イングラム26歳の1906年10月に一つ下のフローレンス・ラングと結婚、そして新婚旅行に1907年3月に日本に新婚旅行で向かった。日本では鳥類の捕獲や研究に費やして野鳥を求めて新婚旅行そっちのけで、調査に忙しく走り回っていた。鳥類の研究では英国でそれなりの成果は上げたが、ロンドンの郊外に移り住んだ。「ここで自分の庭園を造ろう」と思い立ちその時に初めて「ジャパニーズチェリー」2本植えた。その後100種類以上の日本の櫻をイングラムは育てた。「マメザクラ-富士櫻」二度目の日本訪問の時に富士山麓で見た古風な日本の香りが懐かしいと。

そしてイングラムは「櫻の専門家になろう」と決めて、日本の植物専門商社「橫浜植木商会」のロンドン事務所に日本の櫻を購入した。そして「櫻辞典」まで発刊する。1926年(大正15年)の春に三度目の日本訪問をした。鳥類の研究で日本の鷹司伸輔侯爵などと知り合っていて、「日本へ櫻の集取に行きたいので世話してほしい」と依頼して鷹司のお陰で財界人とか有力者とも歓迎を受けてた。長崎に着いたときは45歳。「新しい櫻を蒐集する」事でどんな僻地でも行く覚悟で来日した。しかし、着いたときは寒く櫻の開花は遅れていて、小石川植物園でやっとカンヒザクラが開花していた。しかしも日本では山桜の様な地味で温和しい咲くサクラから、関心は一重か八重の派手さを欠く温和しい櫻は人気が無く成ってきていた。イングラムは華やかさを欠いた櫻は手間も掛かり、何と絶滅から救おうということを強く感じた。東京の荒川堤の櫻を観に行く。そしてそこで舩津清作を訪ねた。桜の名士。彼はフナツ氏の懇親が無ければ日本では間違いなく多くの櫻の品種は消滅していたであろうと書いている。荒川堤で見た櫻を品種として「白妙」「駒繋」「泰山府君」「手鞠」「白雪」などが上げられている。荒川堤は当時五色の櫻に彩られたことと思う。そして富士山麓では新種のアサノを発見するなど数々の日本固有な櫻ろを日本で見てまわる。

その後日本ではソメイヨシノが人気の櫻となり、固有品種は種滅していく。
ソメイヨシノは母をエドヒガン、父を日本固有種のオオシマザクラの雑種とする自然交雑もしくは人為的な交配で生まれた日本産の栽培品種のサクラ。江戸時代後期に開発され、昭和の高度経済成長期にかけて日本全国で圧倒的に多く植えられた。このため今日では気象庁が鹿児島県種子島から札幌までの各地のサクラの開花・満開を判断する「標本木」としているなど、現代の観賞用のサクラの代表種となっており、単に「サクラ」と言えばこの品種を指す事が多い。東京では荒川堤と小金井街道の桜並木のみがソメイヨシノ以外の櫻を観る場となった。
しかし、その荒川堤も荒川放水路工事とか開発と戦後は薪などに使用され消滅してしまう。舩津は埼玉県の田舎に里桜の保護を依頼して荒川堤は消滅したが、その穂木を接ぎ木して苗を作り、軍部から伐採を言われても守り抜いた。そして彼の孫などの手で江戸時代の数々の里桜は生き延びたのだ。戦後の焼け野原の公園にはソメイヨシノが植えられ「昭和30年代は染井吉野の植栽ラッシュ」が起きた。染井吉野の歴史は150年程度。1000年以上の櫻の歴史の中で多種多様な櫻の風景の方が遙かに長く続いた。今その頃の櫻が観られるのは小金井桜だけとなってしまった。

一方でイギリスではイングラムがサクラ情報流し続けどんどん多様な櫻が整備された。イングラムは英国王室の庭園まで進出した。「ウインザー・グレート・パーク」の櫻。晩年のイングラムは再び鳥類の研究に再び没頭して日本鳥類学会名誉会員の称号も授与されるなどした。

明治時代、足立には「千住の桜土手」「荒川堤桜」「中川堤の桜」が相次いで誕生した。その中でも、江北地域の人々が明治19(1886)年に植樹した江北の荒川堤桜は、様々な品種の桜が、白や黄色、淡紅や濃紅色に彩られ五色の雲のようにたなびく姿から「五色桜」と呼ばれ、東京の名所となっていく。。

ポトマック河沿いの桜

有名になった荒川堤桜は明治4 5(1912)年2月19日、尾崎行雄東京市長からワシントンへ寄贈され、ポトマック河畔に植樹された。しかし、同時期に荒川放水路(現荒川)の建設が始まり、荒川堤桜の多くが滅失し、また戦時中の物資不足の中で姿を消していってしま ったのだ。
しかし昭和56(1981)年、区制50周年記念事業として行われた桜の里帰り事業では、戦前に桜を贈ったポトマックの公園から桜の枝を採取し30品種以上3,000本の「桜の里帰り」を実現させた。ポトマック公園の「タフト桜」からとった挿し木の苗が、「レーガン桜」として舎人公園によみがえったのである。

(小田)ご近所の方が定年になり、何日か前に、”週に一度、小金井の《江戸東京たてもの園》にボランティアで行ってます…“と聞き、間もなく、船津さんの《小金井公園の桜》のメールに接しました。

英国のイングラムさん、舩津清作さんの桜のお話、興味深く読ませて頂きました。ありがとうございました。川の土手の桜は見物人に踏み固めてもらう為もあり植えられたとか、吉野山の桜は神様への献木だったとか、花桃は福沢諭吉氏の娘婿、桃介がミュンヘンから持ち帰り、木曽の発電所に植えたのが最初など…
その歴史は様々で面白いですね。

エーガ愛好会 (286) ピーター・ユスチノフ礼賛

(安田) ブログ上のお問い合わせ『ところでポアロ役だが、小生が特に気に入っているのは ”ナイル殺人事件” でのピーター・ユスチノフなんだが、賛同者いない?』についてですが、全く同感です。時代は20世紀始め、ナイル川沿いの遺跡を優雅に眺めながらの小振りながら豪華客船の中で起こった、上流階級の乗客を巻き込んだ殺人事件。ユスチノフの雰囲気に相応しいポアロでした。

初めて観たユスチニノフ出演映画は「クオ・ヴァディス」(1951年公開)、次に名画「カサブランカ」を演出した名匠マイケル・カーティス監督作品、ハンフリー・ボカート共演の「俺たちは天使じゃない」(We’re no Angels) 1955年公開)。共に封切りより随分月日が経って(25年近く後年)、エルキュール・ポアロシリーズでは 『ナイル殺人事件』 『地中海殺人事件』を観た時期とほぼ同時期に観ました。

1950年代は「俺たちは天使じゃない」。出演映画の若さから(30歳代だったろう)、風格あるKing’s Englishを独特の間合いで喋るやや太り気味のユスティノフは、英国籍イギリス人といってもロシア系の血をひくその風貌と物腰はクリスティ描くポアロ役にピッタリだと思いました。 1974年公開の「オリエント急行殺人事件」も面白い映画で、ポアロ役の名優アルバート・フィニーも良かったが、ユスティノスのポアロには敵わなかったと思います。

(飯田)菅原さんの ≪乱読ファイル:アガサ・クリスティ 再訪≫ の編集子コメントにジャイ大兄の ≪ところでポアロ役だが、小生が特に気に入っているのは ”ナイル殺人事件” でのピーター・ユスチノフなんだが、賛同者いない?とあり大いに賛同と思いつつ「ナイル殺人事件」(1978年)を再々見しました。 

やはり、この映画でのポワロ役のピーター・ユスチノフの存在感は、特に係留中のナイル遊覧船内での最後に乗客全員を集めての犯人の推理シーンでは圧倒的でした。 ポアロ役では「地中海殺人事件」(1982年)にも出演していました。 ピーター・ユスチノフは「クオ・ヴァディス」(1951年)、「エジプト人」(1954年)、「スパルタカス」(1960年)など歴史物で暴君ネロを演じたりする名優との印象がありますが、私はユーモラスな人情味のある3人の泥棒役の一人を演じた「俺たちは天使じゃない」(1955年)が、大変好きな映画でした。 

ところで、アガサ・クリスティの小説のドラマは「名探偵ポワロ」シリーズ(全80本)、「ミス・マーブル」シリーズ(私は5本ほどしか見ていませんが)の他、映画化された分では、上記の2本の他では「情婦」(小説名:検事側の証人)(1958年)、「オリエント急行殺人事件」(1974年)、「アガサ・愛の失踪事件」(1979年)、「クリスタル殺人事件」(小説名:鏡は横にひび割れて)(1980年)、「アガサ・クリスティの奥様は名探偵」(2005年)、ABC殺人事件」(2018年)などが私がテレビ放送も含めて見た映画です。

(編集子)”オリエント急行” はクリスティの作品群のなかでも抜群の面白みがある小説だと思う。この作品では12人が一人を殺す、という筋だが、同じように人気のある ”そして誰もいなくなった” は逆に一人の人間が孤島に集まった客をひとりひとり殺していく、という逆の発想だ。.2冊ともミステリになじみのない方にも是非お勧めしたい,菅原の言う エンタテインメント性 に優れた読み物だ。

映画では日本での翻訳ドラマを含めて3本みているが、1974年の作品が断然光っている。なんといっても出演陣の豪華さはいったいギャラはいくらかかったのか、と心配するくらいだった。ポアロはアルバート・フィニーだったが、ほかにだれがいたか? リチャード・ウイドマーク、ロ―レン・バコ―ル、イングリッド・バーグマン、ショーン・コネリー、ジャクリン・ビセット、アンソニー・パーキンズ、ヴァネッサ・レッドグレーヴ、ジョン・ギールガットなどなど、知ってる顔がみんな出てる、という感じのエーガだった。あれだけの顔をそろえることはもうないだろうが、これでユスチノフがいたらどうなっていただろうか。2017年版のポアロはケネス・プラナーで、ほかのメンバーもぐっと若返っている(当たり前だが)のを感じる。

テレビで三谷 幸喜による翻訳ものが野村萬斎のポアロで作られたのを見たが、殺される極悪人ラチェットの佐藤浩市が上記2作品でその役を演じたウイドマ―クやウイレム・デフォーなんかよりはるかに凄みがあると感心した。このクリスティ翻訳ものの第三弾が近々出るらしいので心待ちにしている次第。

ナンカナイ会 夏の集まり

KWV昭和36年卒同期会 ”夏の集まり” は翠川の発案で長くつづいてきたイベントで、小生が遺志を継いで世話役をやっているが、今年は猛暑のみぎり、夏を敬遠して 秋の集まり になった。10月18日、銀座みかわやレストランで開催。知る人ぞ知る、銀座の老舗で(多少高かったが)本格的フレンチを堪能した。直前に不都合が発生した田中新、吉牟田という常連がいなかったのは残念だが、ま、ほぼベイ の会合は楽しかった。

だいぶ顔つきが変わってきたので、一応解説しておく。後列は左から前田、中司、大塚、坂田、堀野、深谷、遠藤、岡、高島、安東夫人。前列は浅海、鮫島、高橋,中司、栗田、飯田、鶴岡、田中、安東。

トルクメニスタンを走ってきました   (41 斎藤孝)

「突厥」「とっけつ」と読む。そこは「突厥の世界」だった。
「突厥」とは「テュルク」のことである。すなわちトルコ人であり「トルコ人の世界」といえる。トルクメニスタンは突厥帝国の末裔である

カラクム砂漠
ウズベキスタンの大河「アムダリア」を渡りウルゲンチから国境を越えた。
トルクメニスタンは初めての訪問である。
首都アシハバードまでカラクム砂漠を4輪駆動車に乗り悪路を走破した。
途中「地獄の門」を見物するためである。砂塵が吹きまくる荒涼とした僻地。
その夜はカラクム砂漠でガラオイ天幕の中で一晩過ごした。
暗闇のカラクム砂漠は満天の星座に包まれ月は煌々と輝いていた。

夢を2つ見てうなされた。
その一つは地獄に落ちる夢。真っ赤な炎に包まれたクレーター、「地獄の門」そのものである。 いま一つは天国に昇天する夢。「天国の門」をくぐり抜けると若き天女に囲まれた。 トルクメンの踊り子が影絵のように写る。幻想的な夢だった。

 「地獄の門」
1971年の天然ガスの採掘事故以来、真っ赤な炎が燃え続けている。
これは世界遺産でも何でもない。むしろ地球を汚す負の資産といえる。
吹き出したガスの炎が火口に広がる巨大な穴である。イスラム教でも地獄に落ちると火に灼かれのだろう。 「地獄の門」は新たなトルクメニスタンの名所になっている。まもなく燃え尽きるだろう。

 「天国の門」
 「安息」「安息日」、サバトなのか? ユダヤ教に関係があるのか?

現代の「トルクメニスタン」にあった国名「安息国」である。「安息」はパルチアの中国名である。司馬遷『史記』にも「安息」という名前を見つけることができる。今日のパルチアは民族も様変わりしてトルクメン人の国になっている。

万国博パビリオン

真っ白な大理石のパビリオンが点在する。 人通りもまばらで、人々はまるで人形のように歩いていた。 トルクメニスタン首都、アシハバートは万国博会場といった感じだ。 この世の天国をアピールしているようだ。
建物は白色、車も白一色、道路は直線、異様な雰囲気の街並みである。
街行く人々も同じような服装、男は黒色の背広姿、女性は色鮮やかな民族衣装を着ている。 怪しげな新興宗教を信じこむ操り人形達、ゾンビのようで気持ちが悪い。

トルクメニスタン皇帝
朝テレビをつけると大統領「セルダル・ベルディムハメドフ」の顔と従う軍幹部の顔が写った。 忠誠心を強調して拍手していた。世襲制で皇帝のような振る舞いである。 全体主義で強権国家。もし北朝鮮が豊かな国ならば、トルクメニスタン帝国のような独裁国になっていだろう。
トルクメニスタンは豊富な石油や天然ガスを埋蔵しているという。
面積は日本の約1.3倍、人口は約610万人。お金持ちの国である。

●続編  「突厥の結婚式」と「メルブ仏教遺跡」


ホーム |  独り言  |  論評  |  小話  |  旅行  | 御挨拶  |  ガーデニング   |  ブログ  |  English  | YouTube 

旅行 <—–  現在のページ                                                          戻る  —–> 旅行


 

乱読報告ファイル (61) アガサ・クリスティー、再訪 (普通部OB 菅原勲)

 

最近、以下のクリスティーの探偵小説を読んだ。

「ゼロ時間へ」(Towards Zero)1944年。翻訳:三川 基好。早川書房(クリスティー文庫)。

「カリブ海の秘密」(A Caribbean Mystery)1964年。翻訳:永井 淳。早川書房(クリスティー文庫)。

「復讐の女神」(Nemesis)1971年。翻訳:乾 信一郎。早川書房(クリスティー文庫)。

その切っ掛けは、ネット上で、クリスティーの誕生日(1890年9月15日)を祝った画面で、「あまり読まれていないクリスティーの傑作」(正確にどんな題名だったのか想い出せない)を覗いたことからだった。この他に、「死との約束」、「アガサ・クリスティー自伝」、「蒼ざめた馬」が挙げられていた。

「ゼロ・・・」。殆どの探偵小説は殺人事件で始まり、警察、或いは、私立探偵が駆けつけて、犯人探しを始めるのがその流れだ。ところが、ここでは、ゼロ時間(殺人)に向かって様々な要因があり、その結果として後半に殺人が起こる新形式となっている(具体的に、375頁ちゅうの209頁で殺人が起こる)。つまり、誰が加害者で誰が被害者になるかが話の焦点となり、お馴染みのポワロもマープルも登場せず、探偵役はバトル警視となっている。しかし、1944年の発表以来、クリスティーは二度とこの新しい形式を試みておらず、その意味では、この新形式は失敗だったと見做すことの方が正解だろう。

「カリブ・・・」。これは、何もカリブ海に秘密があると言う訳ではなく、カリブ海で起こった殺人事件と言った方が正しい。そのカリブ海に静養に来ていたマープルが、かなり衰弱した老人の大富豪と共に殺人事件を解決する話で、これは真っ当な探偵小説なのだが、そのミソは大富豪の存在だ。

「復讐・・・」。「カリブ・・・」の後日談で、その大富豪が亡くなり、マープルに後事を託す。ところが、その後事が、具体的に何を意味するかの指示が全く不明なことから、それが何かを探ることから話しは始まって行く。従って、458頁にも及ぶ大作となっており、何事も起こらない時間が続いて行くことから、いささか退屈と思われる読者も出て来ることだろう(小生は、クリスティーの、いわゆる、ストーリー・テリングに大いに堪能しており、この3冊の中では最も面白かった)。なお、「復讐の女神」とはマープルのことを指している。

結局のところ、クリスティーには敵わない。いずれも、凡そ犯人らしからぬ人物が犯人であって、犯人を当てることは出来なかった。だからと言って、傑出したトリックがある訳でもなく、「復讐・・・」以外は、さして興をそそられる内容ではなかった。

しかし、ここからが肝心なところだが、「カリブ・・・」の解説者、穂井田 直美が言っているように、クリスティーの最大の魅力は、「エンターテインメントなストーリー作りに長けていること、加えて人物造形のうまさや、心理描写の巧みさなど」、に尽きるのではないか。この点では、並みの探偵小説を遥かに凌駕しており、極めて傑出している。乱暴な言い方だが、その話しの進み方次第では、誰が真犯人かは、もうどうでもよくなってしまうのだ。極端に言えば、クリスティーにとって殺人事件は「刺身のつま」程度のものに過ぎなかったのではないか、との妄想も浮かんでくる。

現に、クリスティーの最初の習作長編は未出版の「砂漠の雪」(1906年。16歳の時)であって、これは探偵小説ではなく、後に(1930年)、メアリー・ウェストマコット名義で出された普通の小説の先駆けとなるものだった。探偵小説は、篤志看護婦として陸軍病院に勤務していた1914年(24歳)から書き始めており、それが、後の「スタイルズ荘の怪事件」となって、1924年に出版された。

今、「・・・自伝」を読み始めているが(序の24頁まで)、なにしろ改行が殆どなく頁が活字で埋まっており、その上、上巻は532頁、下巻は529頁と1000頁を超える代物なので前途多難だ。それにしても、クリスティーの記憶力にはおっ魂消るしかない。

(小田)お久しぶりのアガサ·クリスティですね。ヤッコさんも殆ど読まれているようですが、私も’16年にイギリス南部(デヴォン)のアガサゆかりの場所を訪ねた前後あたりに色々読みました。

最近は、面白いTVのない時に録画してあるポアロやミス·マープルを見直しています。菅原さんが今回読まれた3作は、TVでは全て私の大好きな”ミス·マープル”物ですね。TVは本と内容が少し違いますが、綺麗なバラいっぱいの庭園や、コッツウォルズのような景色が楽しめるのがいいです。
登場人物が多く、最後の謎解きで分からなくなりますが、ご指摘のように普通の小説としても楽しめますね。知らない人物からバスツアー券を受取り集まった人々が、一緒にバスでハイキングをしたり、邸宅や古い修道院を巡る《復讐の女神》が好きです。共通して人気が高いのは、《予告殺人》のようです。

✩クリスティーの《火曜クラブ》を思い出させる、イギリスで人気の、リチャード・オスマンの《木曜殺人クラブ》。同じ施設に入居している老人たちが、暇つぶしに未解決事件を解決していく…を読んでみたいと思います。

 

(編集子)先日書いたが、こちらは目下、クイーン再訪、を始めたところだ。まだまだ前途遼遠、なのだが、このスガチュー論でなるほど、と思い当たったことがある。エンタテインメント性、ということである。クリスティは生前、毎年クリスマスには読者が(今年のプレゼントは何か)と新作を心待ちにしていた、という。探偵役がポアロにせよミスマープルにせよタペンスにせよ、だれにでも好かれる好人物の側面を持っているのもその理由だったのだろう。対するにクイン物のエラリーは学歴と博学をひけらかし、片眼鏡をかけた偏屈な学者はだしであり、もう一人の同時代人ヴァン・ダインの主人公ファイロ・ヴァンスにいたってはことあるごとに美術や文化の博学ぶりを見せつける、とても友人にしたいとは思わない衒学徒で、まともな市民の仲間とは思えない人物として描かれる。

そういう主人公を持ってきたので、話自体が当時の知識階級を読者に想定したものになっていて、確かにミステリとしての技術論は素晴らしいが、どうしても一般の人がクリスマスに期待する雰囲気の作品にはならない。このあたり、万事につけて兄貴分の英国の鷹揚な雰囲気に、ともかく力で対抗する米国人気質の表れなのかもしれない。”エンタテインメント性” を欠き、論理だけを振り回すニューヨーク発の話が、より日常性を基盤にした、東海岸文化の向こうを張る西海岸での、ハードボイルドミステリの誕生につながったのだろう、と改めて思う。

ところでポアロ役だが、小生が特に気に入っているのは ”ナイル殺人事件” でのピーター・ユスチノフなんだが、賛同者いない?

 

 

 

 

近本は盗塁王か?

そもそもの話:

(中司)新聞にセリーグの個人タイトルが載っています。ひとつわからない点があるんで(読み方が悪いのか比較方法が悪いのか、それとも)教えてください。

盗塁王の近本ですが、19個で最多? 片方で50を超える人がいるのに?
(菅原)これが、メジャー・リーグ(59)と日本(19)の差です。
(中司)ふーん。G九連覇のころ、柴田なんかはいくつくらいだったの?
(安田)それにしてもセリーグ盗塁王19は少ない。近本は足が速いだろうに。全球団進塁する意識の欠如に唖然とするばかり。

(菅原)Wikipediaによると、1967年、赤手袋の柴田勲の盗塁は70!大谷も顔色なし。

(下村)小生、野球中継はまったく見ませんが「球辞苑」という番組はよく見ています。素人にはこれがとても面白い。この番組によると野球選手は頭が良くないと務まらないということがよくわかります。対戦相手の全選手のクセやどのような時にどのような動きをするかなどを記憶する力、相手の心理状態を読み取る推理力など。 囲碁や将棋の棋士は対戦したときの布石などをすべて覚えていると聞きますが、これとまったく同じなのですね。

 昨日は大谷の完敗、ダルビッシュの完勝でしたが、ニュースでも紹介されていた通り、ダルビッシュは投球ごとに投げる球種はもちろん、間合いの取り方、球速の緩急などありとあらゆることに頭脳を巡らせて投球していたとのことです。

 過去の「球辞苑」によると、例えば3ボール・2トライクでフルカウントになったときにどのような球を投げるか。対する打者の過去のフルカウント時の対応を思い起こして球種や球速を決めていると。「球辞苑」ではこれをキャッチャー場合、併殺を狙う場合のショートやセカンドの場合、併殺されそうになった選手の場合など各球団の各選手のノウハウが披露されており、過去の数値データとつき合わせながら紹介されています。もっとも企業秘密的なこともありますから、すべての手の内を晒すようなしゃべりはないでしょうが・・・。

因みにかつて100mを10秒台で走る陸上選手をピンチランナーに起用したことがありましたが、ある解説者は早く走れるだけではダメだ、陸上競技は「用意、スタート」のシグナルがあるからスタートを切るのは簡単、野球では投手のクセや投球フォームなどを頭に入れて自分でスタート時点を決めなくてはならないから難しさがまったく違うと。野球も奥が深いですね。

(保屋野)貴兄から野球談議が聞けるとは・・・幅広い関心に感心。盗塁に関して、改めてネットで調べました。メジャーでは、リッキー・ヘンダーソンが1406でトップ(シーズンでは130で2位。1位は1887年ニコルの138)日本では福本の1065がトップ(シーズンでも106とトップ)

日本のプロ野球は、盗塁はもちろんですが、ホームランも少なく、非力なバッターが目立ちます。大昔の、西鉄「豊田・大下・中西」、巨人「王・長嶋」、阪神「バース・掛布」の時代が懐かしい。このままだと、第二の(魅力ない)「男子ゴルフ」となってしまうのでは。なお、シモさんの「100m10秒台の選手」とは飯島のことだと思いますが、確かに100mを10秒で走る彼が成功しなかったのが不思議です。

(安田)近本以前の盗塁王最低盗塁数は、1994年横浜の石井拓朗の24。福本・広瀬・柴田は皆、全盛期が1960年代から70年代の選手(福本は’80年代後半まで)。明らかに盗塁数は年と共に漸減しています。今年のセリーグ近本の19は酷すぎる。パリーグはソフトバンク周東選手の41。最低でも40~50を達成しないと、盗塁王には相応しくない。

強肩のキャッチャーが増えたとはとても思えません。相対的に韋駄天の足の速い選手が急に激減したとも思えません。理由を勝手に考えますと、ピッチャーの牽制とクイック投法更にキャッチャー送球の向上、チームの戦術上盗塁の重要性が減った。そして韋駄天も相対的に少なくなった。近本にしても昔の列挙した韋駄天選手に比べると足は存外速くないのかも。
(飯田)大リーグの大谷選手の盗塁成功率の高さは脅威的ですが、見る方としてはあまり成功率が高いと塁上でのクロスプレイ(ビデオ判定クラス)が少なくなり、興趣が低下することもあるのではとも思います。広島カープの2塁手菊池涼介選手の絡むクロスプレーは芸術的で見応えがあります。

大リーグの昨年辺りの規約変更も盗塁数の増加に関係していると、数カ月前にテレビで解説を見た記憶があります。ピッチャーが投球までの15秒以内のピッチロック、牽制球は2回まで、それと塁ベースのサイズが少し大きくなったこと。この3つ共にランナーには有利に働いているようです。

塁ベースのサイズが大きくなれば、塁間の距離も若干とは言え短くなる上に、塁に身体が触れる面積も広くなるので走りやすいのでは・・。イチロー選手が現在大リーグで活躍していたら、多分、大谷選手にシーズン盗塁数の日本人記録は破られず、もっと記録を延ばせたのではとも思います。

(編集子)小生の小さな疑問でこれだけ話が弾むとは。要は暇なんだ、みんな。
ま、とにかく阿部Gが優勝したし、細かいこたあ、いいか。
来年はリーグ1位、戸郷20勝、秋広30本、浅野40盗塁、締めに岡本50本、この1-2-3-4-5で行こう。
(この話題には関係ないが、先日新聞にでた侍Jのメンバーに村上がいないようだけど、これはなんで?)