メキシコ革命をめぐる実在の英雄パンチョ・ビラの半生を描いたの
タッフとキャストを見て驚く。ウイリアム・ダグラス・ランスフォ
キャストは、ユル・ブリンナーとチャールズ・ブロンソンがメキシ
開巻すると、パンチョ・ビラの部隊と思われる古い写真がセピア色
ビラ側は、政府軍が謀略の限りを尽くしても、政府軍に対する
せるがため攻撃を遅らせるとか、捕虜を一人一人壁を越えて逃げ遂
最終的には、ウエル
旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
メキシコ革命をめぐる実在の英雄パンチョ・ビラの半生を描いたの
タッフとキャストを見て驚く。ウイリアム・ダグラス・ランスフォ
キャストは、ユル・ブリンナーとチャールズ・ブロンソンがメキシ
開巻すると、パンチョ・ビラの部隊と思われる古い写真がセピア色
ビラ側は、政府軍が謀略の限りを尽くしても、政府軍に対する
せるがため攻撃を遅らせるとか、捕虜を一人一人壁を越えて逃げ遂
最終的には、ウエル
(42 河瀬)美しい晩秋の上高地の写真ありがとうございます。
(昨日掲載のブログ記事についてのフォローです)
小生Internetが始まった頃から放送法とこのメディアの問
もうこのSNSは止まらない。FaceBook・Google・
東京都知事選挙から斯様な現象が始まり今や選挙のやり方も変わっ
トランプ&ハリス。斎藤&和美。共に「負けた方が先行していたが後半
小生はInternet創生期の頃から放送との違いとか規制につ
新聞も取らずテレビも政治番組等観ない世代はどう判断していくの
そして貴兄が案じて居る様にAIは始まったばかりです。世界でど
会議では、イーロンマスクのテクノロジーと富の影響力、インター
また、会議では、SNSの無責任な情報発信と個人情報保護の過剰
(編集子)紙上討論会、歓迎。
(33小川)お二人のブログ拝読しました、まさに時宜を得たコメントで小生も同様に考えております。
大学で生田助教授の発刊された「マスコミュケーション論」に触発されて生田ゼミに入りました。まさに勃興期で新聞・ラジオという媒体にテレビという新しいメディアが参入してきた時期、テレビの功罪が論議された時代でした。それが僅か半世紀足らずでジャイさんの卓見「フロムの時代」に出会うとは考えもしませんでした。21世紀に入り全世界の何十億の人間が携帯電話を日常の生活に利用する時代が来るとは・・・。新聞、テレビがオールドメディアと言われ,SNSが実に短期間に普及して圧倒的に身近なツールになってしまいました。
この数か月の間の東京都知事選の石丸戦略、衆院選の国民民主党の大躍進、兵庫県知事選の斉藤戦略、をみると今後の選挙戦はどうなるのでしょうね。テレビの政見放送の無意味さ、コメンテイターの発言などなど。
米国大統領選で旧ツイッターを経営するイーロン・マスクが政権中枢に入るとのこと、世論の誘導も政治化されるのですか。またAIやドローンで今後どんな世界になって行くのでしょうかね。
(42 下村)SNSの危険性や怖さについては小生も同じように危惧の念を抱いているひとりである。
視聴者の関心をひく短く断定的な言葉で二者択一を迫る。そこには議論や対話をするといった気持ちは感じられず、ただ一方的に主張して世論を煽るフレーズや動画が繰り返されている。興味を引くテーマを印象的な動画と単純明快で歯切れのよい言葉でくり返し世の中の人に訴えつづける。
この手法は太平洋戦争開戦前の時代の流れを彷彿とさせる。このとき世論をリードしたのは大手の全国紙。購買量が減少するからと言って開戦に危惧を抱く意見や否定的な意見はほとんど掲載せず、誰もが飛びつきたくなるような景気のよいニュースばかりをセンセーショナルに流し続けた。半信半疑の人もいたにもかかわらず大半の人たちは開戦に反対の運きをすることもなく大きな流れに乗っていった。
選挙で負けたのは不正選挙があったと暴動を煽り、しかもセクハラ容疑で有罪となった人物を大統領に選ぶアメリカ。パワハラ疑惑や内部通報者を探し出すよう指示した人物を県知事として再度選出する日本。いずれも通常では考えられないような結果を引き起こしている。この異常ともいえる現象のベースにあるのがSNSではないかと分析されている。テレビが出始めた当初、一億総白痴化と言われたことがあった。テレビが思考力や想像力を失わせ、ただ一方的に流れ出る映像を見るだけの受動的な人間になってしまうと危惧されたのだ。SNSも使われ方によっては世論を操作し、ひとつの方向だけへ世の中を誘導してしまう怖さがある。そこには思考や想像、別の立場から考えるといったプロセスはない。直近の2つの選挙がこのことを物語っている。
民主主義の完成度はその国の国民のレベルによって決まると言われている。日本は江戸時代の庶民でも学問に精を出し、人間性や見識の高さを誇っていた。初めて日本の土を踏んだ欧米人は誰でも日本という国のモラルの高さに驚いたという。SNSをうまくコントロールしていきたいものである。
(41 斎藤孝)SNS時代は戦国時代と同じなのである。下剋上とアナキーズム。そして「SNS開拓史」は「西部開拓史」でもある。
自由の大地であるアメリカ西部に民主主義というルールを開拓者自身によって定めた。SNSという自由は、時として不自由なことにもなる。その自由から逃れる方策はあるのだろうか
もしかして制御される自由こそ、心地よい自由といえる。それは全体主義という自由かもしれないが・・。
(44 安田)音楽、読書、対面コミュニケーションetcについては、
(HPOB 菅井)明大の塚原教授の論に全面的な賛成はできませんが、
ところが日本では、この大前提がうまくいっていません。
自己主張を控えがちな日本では、
民主主義に合わない「日本人の国民性」
https://www.meiji.net/life/
一時話題をさらった、兵庫県知事の選挙だが、いわば被告人扱いだった元知事が圧倒的な支持を受けて再選された。ことの詳細や事実関係についてはマスコミの報道以外知らない部外者が知ったかぶりでコメントすることは差し控えるべきだろう。しかしこのことと、数日前アメリカで起きたトランプ圧勝というニューズには、共通したテーマがあるように思える。
第一は兵庫県においても米国においても、民主主義は健全だ、ということだ。繰り返すがその結果がどうなるかは別問題だが、兵庫では知事自らの個人の努力を通じて(これが真実なのだろう)と信じるに至った若者層の支持があったことだし、アメリカでは(なおのこと現地の状況がわからないので評価のしようがないが)全土で圧倒的な支持があったこと、その多くは民主党の地盤であった州での勝利だったこと、などを考え合わせると兵庫のケースに酷似したものを感じる。つまり、個人の意見がなんら掣肘を加えられることなく政治に反映された、という確証なのだ。その意味で今度の2回の選挙結果は意義があった、と思う。
第二は、これが小生の関心事なのだが、この二つのイベントにSNSという仕組みが果たした役割である。マスコミに登場する記事の多くはこれによって選挙民が背景を理解した、というポジティブが論調が多いし、自分もそう信じたい。しかしかたやためにする記事の氾濫によって、人々が結果的に誘導されてしまう危険の大きさは空恐ろしいものがある。
本稿でも幾度か書いたが、小生が “専攻” (おこがましいのだが)した社会思想史の見方で行くと、僕らが学窓にいた60年代はまだまださきのことだと高をくくっていた社会の破局、といえば言い過ぎかもしれないが、あきらかに負の方向への転換、が起きつつある、あるいは起きてしまったのではないか、という感覚を持たざるを得ない。思想関係の用語だが、大衆社会、の到来である。
大衆社会、Mass Society という用語がいつから使われるようになったのか、確たる史実があるわけではないが、ぼくのささやかの読書歴でいえば、有名なデヴィッド・リースマンの 孤独なる群衆 とか、イ・オルテガ・ガセットの 大衆の反逆、またある意味でこれらの思想の先駆的が意味があると思うのだが、シュペングラーの 西洋の没落、などが論じていることだ。要は、制度として西洋社会を作り上げてきた民主主義の爛熟とともに、それを担う一般大衆の考え方や生き方やそういうものが、独裁者はいないはずの社会に何となく生まれてくる主張というか雰囲気というか、このことを実はぼくが卒論にわかったふりをして論じたエリッヒ・フロムはこれを 匿名の権威 と呼んだのだが、そういうものにいつの間にか左右されてしまい、社会が迷走していく、大げさに言えば崩壊してしまう、という主張だ。
フロムの時代、すなわち1960年代には、この ”権威” はマスコミの報道であり、ラジオであり、勃興しはじめたテレビであった。これにとって代わり、さらに強力な影響を及ぼすのが現代のSNSという仕組みだろう。それが一部の勢力なり犯罪組織なりに巧妙に利用されることがいとも簡単になってしまい、かててくわえてAI技術の一般化が発生してしまった以上、現在の社会を誘導するものが一体何なのか,誰にもわからないのではないか。
すでに半世紀以前、ま、暇があれば教室に行く、という程度の学生だった自分にも、フロムの予言がしみついてきて、俺が生きている間にこんなことがないように、と思っていたものだ。それがいま、現実にある、という事実を、今回の二つの選挙、その結果云々を論じる資格がないことは百も承知のうえでいえば、そのプロセスで感じたことだった。
「アメリカ革命」(著者:上村 剛。中公新書。2024年。以下、米国)を読む。日本の憲法を考える上で、大変、参考になった。
米国革命とは、今日、米国合衆国となる国家の始まりを意味しており、それは、具体的には、成文憲法の始まりであり(世界最古の成文憲法)、これこそ、米国革命の最大の功績である、と言うことに尽きるようだ。
ご存知のように、1776年7月4日、米国は、英国などとの戦争のさなか、独立を宣言する。同時期にそれぞれの州(13)での憲法制定が進み、並行して、夫々の州を束ねた連邦をどのように作るかも検討された。1783年、英国などとの戦争が終結。様々な紆余曲折もあって、1787年5月、フィラデルフィアで連邦憲法制定会議が始まり、B.フランクリン、G.ワシントン、A.ハミルトン(後に決闘で敗れた、享年49歳。ミュージカル「ハミルトン」の主人公)など、夫々の州を代表する政治家が集まり、秘密の漏洩を恐れ、会議は窓を閉め切った密室で行われた。ここで、最後まで争われた論点は、執行府(まだ大統領と言う用語は使われていない)の設計だった。大統領を選ぶのは議会か、それとも、人々の公選か。ここでも侃々諤々の末、現在の、人々が先ず選挙人を選出し、選挙人が大統領を選ぶ制度に落ち着いた。
結局、最終案を作るのに、都合4カ月も要した。しかし、案は出来たものの、次の問題は13の各州の批准が必要となる。ここでも、同様の喧々諤々の末、やっと現在の憲法が出来上がった。勿論、その検討期間が長ければ長いほど良いとは限らない。しかし、少なくとも、数多の人の知恵を借りて成立した憲法であることは間違いない。
翻って、現在の日本国憲法はどうだったか。GHQ(連合国最高司令官総司令部)とは言え、実質的に米国の占領下で、憲法の専門家皆無の20数名(一説には、10数名)の米国人によって、僅か10日間で作成されたシロモノだ。そんなものが、議会の審議まで、一貫してGHQ、要するに米国の統制が及び、国際違反で無効ではないかとの指摘もあった。また、これを日本政府が批准するよう、官邸周辺の上空を米国の爆撃機が上空を威嚇するように飛んでいた、との説もある(註:こりゃー、体の良い脅迫だ)。要するに、情けないが、占領軍に唯々諾々として従ったと言うことになる。それを、米国が作った憲法だと決めつける説もむべなるかなだ。
小生、改憲なんて生易しいものではなく、全部、日本人の手で日本の憲法を作り直すべきだと考えている。しかし、憲法発布から一字一句も修正されていない状態は正に異常だ。そこで、例えば、軍隊を自衛隊と誤魔化し、憲法を修正できないから、誤魔化し誤魔化し、拡大解釈をしながらやって来た。
憲法修正については、米国でも、両院の2/3の賛成で発議。3/4の州の批准により成立。1787年以来27回(1945年以降では6回)。日本は全くゼロ。これは、石器時代の憲法を後生大事に抱え込んでいるようなものだ。これで、良く日本が成り立っていると思うが、国防など重要な事柄が、誠に残念ながら、米国の手に委ねられているからに他ならない。
確かに、勝てば官軍、負ければ賊軍だろう。しかし、だからと言って、世界では、占領軍が被占領国家の憲法を作成することは許されていない(戦時国際法)。にもかかわらず、日本は受諾してしまった。ドイツは、降伏に際し、三つの条件を付けた。その内の一つが、新しい憲法はドイツ人自らの手で作ると言うものだった(日本に対するものとドイツに対するものの違いは、日本には二度と米国に手を出させないことにあったのだろう。まさか、黄色と白の違いでからではあるまい)。ここでも、米国の身勝手さが目に余る。自分たちは(米国)、人と時間を掛けて憲法を作ったにもかかわらず(初めての成文憲法だったこともあろうが)、他人(日本)のそれは米人二十数人、期間10日で安直に済ませてしまう。
米国の日本に対する三大悪事は、無差別の空襲、原子爆弾の投下、そして、安直な憲法作成もその一つだろう。日本国憲法は来年で発布80年。これでは、間違いなく一世紀にも亘って改憲皆無の世界新記録(?)を樹立することになる、何ともお目出度い話しではないか。
2024年6回目(通算95回目)の「月いち高尾」を11月15日(金)に実施。
10月の「月いち高尾」は、KWV三田会の秋の日帰りワンデルングの関係で中断。結果的に、秋ワンは悪天の関係で中止となってしまった。そこで、11月の「月いち高尾」は、満を持して、深まりゆく秋の山歩きを大いに満喫したいものだと意気込んでいたが、その数日前またまた雨天の予想になったので下記の注記を発信。
私が参考にしている「日本気象協会」の高尾山のピンポイント予報(11/13 18:00)で、11/15(金)は(00~06)曇りのち雨 降水確率50%、(06~12)曇りのち晴れ 降水確率40% 気温12℃、(12~18)晴れ 降水確率10% 気温17℃との予報です。この先、天気がどう変化するか分かりませんが、集合時間頃には何とかなっている事を祈って! 11/15の「月いち高尾」は予定通り「実施・決行」とします。 なお、この不安定な天候の中、「やめた」と判断される方は無理しないでください。各コースの集合時間に来られたメンバーで実施することとしますので、キャンセル等の事前連絡は「不要」です。参加される皆さんは雨具と防寒着をお忘れなく。取り急ぎ、「実施・決行」のご連絡まで。」と通知せざるを得なかった。
予報通り、当日朝、柏の拙宅を出る頃は土砂降り! 果たして何人の方が、この中を、強行参加されるだろうかと思案しながら京王「高尾山口」着いた頃、予報通り、雨は上がっていた。既に、小学生、高校生のグループや、インバウンド観光客で賑わう駅前広場に、見知った顔を見出し、ホッとした! 「シニア―コース」の参加者は遠藤さん(36)、三嶋さん(39)、平井さん(47)、伊川さん(47)と関谷(47)の5人だった。
19名がエントリーしていた「一般コース・相模嵐山」のJR上野原に何人が集合するだろうかと興味津々でいたが、斎藤リーダーからの中間連絡で、このコースも同じく5名とのことだった。
1.シニア・コース (もみじ台の「細田屋」名物「なめこ汁」を嗜みながら紅葉を愛でるプラン)
(1)参加者5名: 上述
(2)10;30「清滝」ケーブル駅 ⇒ 高尾山駅 ⇒ 11:30 高尾山の脇道経由「もみじ台」 ⇒ 同じルートで下山 ⇒ 13:07 高尾山口発
(3)前夜からの降雨の為か「細田屋」は、残念ながら、営業してなかった。それでも、山頂の賑わいから外れた「もみじ台」で、紅葉は今一だったが(今秋は紅葉するのだろうか!)昼食、遠藤さん差しれの歌舞伎揚本舗「天野屋」の揚げせんべいをほおばりながら、遅ればせながらの深まりゆく秋を楽しんだ。 (文責: 関谷誠)
2. 一般コース (「相模嵐山406m」から相模湖紅葉見物)
(1)参加者5名:武鑓宰(S40)斎藤邦彦(S51)後藤眞(S59)鈴木一史(S60)斎藤伸介(S63)
(2)コースタイム等
(アクセス)JR相模湖駅(バス乗り場1番)三ケ木(ミカギ)行きバス9:39⇒(バス6分)⇒さがみ湖MORIMORI前さがみ湖MORIMORI前220m10:00(50分)⇒10:50竹林11:00⇒(30分)⇒11:30相模嵐山406m12:00⇒(20分)⇒相模湖ダム⇒(20分)⇒12:40相模湖駅 (帰路)相模湖駅からJR13:08 (高尾駅まで所要10分)
(3)概要
朝まで残った雨の影響で参加申込者19名のうち相模湖駅には5人しか集まらず少し寂しいスタートとなったが若手が多く意気軒高に山行に向かった。
先月より「プレジャーフォレスト」から「さがみ湖MORIMORI」に改称された遊園地のバス停から入山、前回登った石老山からの東海自然歩道の続きを歩き始める。開場時間前の遊園地の音楽を金網フェンス越しに聞きながら細い道を進み谷筋に架かる丸太橋を2本渡ると名物の竹林にたどり着く。京都嵐山の「竹林の道」に似ていることから相模嵐山の雰囲気を醸し出す大きな要素になっている。春には大量の
筍狩りが期待できそうな場所である。ここからさらに2本の丸太橋を渡り送電鉄塔の横を通過すると産霊宮水上神社を祀る嵐山の頂上に出る。
かつては同志と小仏との「間の山」と呼ばれていたが雰囲気が京都の嵐山に似ていることから嵐山と呼ばれるようになったとのことである。
健脚ぞろいでコースタイムを切って早々に山頂に到着したのでゆっくりと昼食を摂りながら相模湖から奥高尾の山々の景色を楽しむ、遠くは滝子山の尖峰が望まれる。下山は樹林帯の中をジグザグに縫うように下りあっという間に相模湖ダムのある築井大橋の横に降り立つことが出来た。期待していた紅葉は今ひとつでしたが全行程において雨にも降られず涼しく快適な山歩きを楽しんだ。(文責: 斎藤)
下山後、両パーティーが高尾駅「テング飯店」で合流。初参加の鈴木さん(S60)の自己紹介、三嶋さんが10月に訪れた中国雲南省・玉龍雪山(5500m)、梅里雪山(6700m)の旅行談義等々を話題に、こぢんまりだったが、和やかに懇親した。何はともあれ、95回目「月いち高尾」を、無事、終えた。
豪華な英国バラ「デビッドオースチン」が枯れた。老衰なのか ?
「クイーンエイコ」と名付けて大切に育ててきたのに・・(ショック)。小さな庭は寂しくなった。世界も混沌として情けない状況である。
「民主主義は錆びついたのか」
錆を落とし磨けば、民主主義は再び輝けるのだろうか・・・。アメリカも日本も世界中の民主主義に対して是非とも元気になってほしい。
11月末になり中庭のケヤキの葉は黄色くなり小さな庭にも紅葉が始まった。真っ赤なコリウスは炎のように咲き誇っている。名残のバラが一輪、寂しげに咲いている。
枯れたツボミと葉をこまめに取りさる。手首が傷み腰の動きも鈍い。「花咲か爺さん」は枯れ木に花を咲かせたい。励みになるコトバだ !! こ れから真冬はラベンダーとローズマリーは生き生きと伸びていく。ほのかな香りがしてくる。心に安らぎをもたらす香り。
青みがかった紫色の花は、立ち姿がキリッとした高貴な姿である。夕闇が迫る頃、真冬の香水花を相手にしてワインを飲む。
10日は同期のミニ合宿で「八ヶ岳高原ロッジ」に泊まり、併設の人気音楽堂で「森山良子&秋川雅史のコンサート」を楽しみました。
人気の出演者の場合、まとまったチケットを取得するのは至難だそうですが、偶々54年卒の岩見君が八ヶ岳高原ロッジの社長在任中だったため、(9月退任)12名分のチケットを取ってくれました。
森山良子は、76才という年齢をを感じさせない歌唱力が見事でしたが、秋川雅史(57才)も、あの圧倒的な声量は健在で迫力満点でした。なお、最後に二人で歌った「タイム・トー・セイ・グッドバイ」は圧巻でした。
さて、10日は丁度(同期の主治医)Dr河瀬の卒寿誕生日だったため、部屋で、同期の女性(マコ)が用意した「リンゴケーキ」でお祝いしました。帰りはシモさんの車含む2台(6名)で御岳昇仙峡に寄って帰京しました。紅葉はイマイチでしたが、好天に恵まれ、仙娥滝等渓谷の秋を満喫しました。
*添付写真は「八ヶ岳高原音楽堂」と大昔の田宮二郎主演のテレビドラマ(高原にいらっしゃい)のモデル「八ヶ岳高原ヒュッテ」(現在はレストラン)及び昇仙峡の高さ30m、日本滝百選の「仙娥滝」です。
「意志の勝利」(原題:Triumph des Willens。監督:レニ・リーフェンシュタール。以下、レニと省略。1935年)を、15年前の2009年、確か、渋谷の小さな映画館で見た。
この映画のことを思い出させたのは、11月に入って、ノン・フィクション作家、沢木 耕太郎の「オリンピア1936 ナチスの森で」(1998年)を読んだからだ。勿論、沢木は1947年生まれだから1936年の五輪は見ていない。しかし、幸いなことに、まだ選手(例えば、男子三段跳で世界記録を樹立し、日本の三連覇に寄与した田島 直人)をはじめとする当事者への聞き取りが可能な時期だった。加えて、沢木はその時、90歳を優に超えているレニ(1902年生)ともインタービューしており、そこで「意志・・・」にも言及されていたからだ。
小生、同じ、レニの1936年ベルリン五輪の「民族の祭典」は見ていたが、これは陸上競技を扱ったものだ。が、ここで、沢木は「レニのオリンピア(「民族の祭典」、「美の祭典」陸上競技以外の種目)は、必ずしも正確にベルリン五輪の姿を伝えるものではなかった。オリンピアは彼女の美意識によって事実の変更が大胆に行われていた」、と述べている。具体的には、例えば、男子の棒高跳だ。これは決勝が長引いて、夜に入ったが、撮影のための照明が足りず、後日、米国と日本の選手を呼び戻して撮り直しをしている。そうであれば、「意志・・・」にも事実の大胆な変更が行われているのかもしれない。が、これは、関係者の殆どが物故している現在、最早、その証明は難しい。
「意志の・・・」は、1934年、ニュールンベルクで行われた、国家社会主義ドイツ労働者党(いわゆるナチス)の第6回全国大会のドキュメンタリー映画だ。ナチスはこの2年前の1932年、ドイツ議会に233人の議員を送り込み、既に第一党となっていた。
この映画は、勿論のことナチスのプロパガンダなのだが、その映像美は、白黒の画面と相俟って群れを抜いている。その中で、最も印象に残っているのは、一つはヒットラーの演説だ。確かに、その演説風景は、C.チャップリンの映画「独裁者」中の独裁者を彷彿とさせた(実際には、その逆で、チャップリンのヒットラーの物真似は正に抱腹絶倒だった)。
もう一つは、ドイツ人の凄まじいまでのナチスに対する肩入れだ。その典型的な例が、ツェッペリン広場での国家労働奉仕団(ナチスが失業対策として設立した労働組織)の入場風景だった。それは、各地区の整然たる行進や隊列の美しさで描写されていると共に、広場を埋め尽くした大観衆は、例えば、バイエルン、ポンメルン、シュヴァルツヴァルト、ドレスデンなどなどの各地区労働奉仕団が入場する都度その大歓声は耳を揺るがす程のもので、未だに小生の耳朶に残っている。これを見ると、有名、無名を問わず殆どのドイツ人が、ヒットラーに、ナチスに熱狂していたことが良く分かる。つまり、多少の例外を除いて、ドイツ人は総ナチス同調者だった。そこにアリバイ(不在証明)などある筈はない。にもかかわらず、有名だからと言って、有名人だけが糾弾されたのはどうにも承服できかねる。
確かに、例えば、レニはナチスのプロパガンダ映画を作成した(本人は否定しているようだが)。指揮者のW.フルトヴェングラーは、亡命せずにドイツに居残り、ナチスの高官の前で指揮を執った。また、作家のG.グラスは、武装親衛隊に入隊していた。しかし、戦後、その有名人を糾弾した無名の人たちだってナチスに与していたのだ。こう言う人たちは、無名であるが故に、恰もアリバイ(不在証明)があったかの如く、有名人たちを糾弾する。なんとまー、誠にふざけた行為ではないか。しかも、それが延々と続いたのだ。要するに目くそ鼻くそを笑うの類いの話しで、同じ穴のムジナであり、全くの茶番劇と言っても言い過ぎではない。
また、ナチスの諸々の蛮行は、ナチスがやったものであり、ドイツは全く預かり知らぬとの弁明もあるようだが、話しが長くなるので、ここでは触れないことにする。いずれにしても、西洋だからと言って、何事も無批判に礼賛するのは断固として御免を蒙りたい。
レニ・リーフェンシュタール(ドイツ語: Leni Riefenstahl)ことベルタ・ヘレーネ・アマーリエ・リーフェンシュタール
(ドイツ語: Berta Helene Amalie Riefenstahl、1902年8月22日 – 2003年9月8日)は、ドイツの映画監督、写真家、女優。世界最年長のスクーバダイバーでもあった。近年ではレニを「レーニ」と表記する例も見られる。