 現在の外気温27度、晴れていますが若干湿度が高く感じます。日なたはジリジリと太陽の日差しが強く、日焼け対策必須です。
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朝晩はすグッと涼しくなってきました。八ケ岳は秋の気配を感じますね!市内の田んぼも稲が色づき、稲刈りももうすぐ始まります

旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
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先日ビデオに取っておいた掲題映画は以前から気になっていた映画で、やっと観ることができましたが、味わい深く、余韻の残る良いエーガでした。カズオ・イシグロの小説を映画化したもので,ナチスが台頭する時代、ナチ擁護派の英国有力貴族館での人間模様を描いた作品です。
物語は上記貴族館での日常を執事の回想という手法で淡々と描いていますが、政治、恋愛等織り交ぜながら見応えある映画に仕立てられました。
主役は、執事役のアンソニー・ポプキンスとメイド頭役のエマ・トンプソンですが、その好演により、それぞれアカデミー「主演男優賞」「主演女優賞」にノミネートされております。・・・さて、密かに思いを寄せる2人の運命は・・・
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 サー・カズオ・イシグロ(Sir Kazuo Ishiguro OBE FRSA FRSL, 日本名:石黒 一雄、1954年11月8日 – )は、日本生まれのイギリスの小説家。
サー・カズオ・イシグロ(Sir Kazuo Ishiguro OBE FRSA FRSL, 日本名:石黒 一雄、1954年11月8日 – )は、日本生まれのイギリスの小説家。
長崎県長崎市で生まれ、1960年に両親とともにイギリスに移住した。長編小説『日の名残り』で、1989年にイギリス最高の文学賞とされるブッカー賞を、2017年にノーベル文学賞を受賞した[2]。
サー・カズオ・イシグロ(Sir Kazuo Ishiguro OBE FRSA FRSL, 日本名:石黒 一雄、1954年11月8日 – )は、日本生まれのイギリスの小説家。
長崎県長崎市で生まれ、1960年に両親とともにイギリスに移住した。長編小説『日の名残り』で、1989年にイギリス最高の文学賞とされるブッカー賞を、2017年にノーベル文学賞を受賞した[2]。
日米戦争当時のアメリカ海軍の掃海艇で起きた叛乱事件を描いた作品である。上半身裸で艦長室で執務するという、風紀にいい加減だった前艦長の後任として赴任した新艦長は、全く反対で、乗組員がシャツの裾をズボンから出したままにすることさえ許さないという、細かいことに厳しい人であった。
そして、着任早々、「当艦の乗組員は、全員が、平均点以上の成績を出さなければならない。」と訓示する。これを聞いて、これは絶対破綻する、と直感した。何故なら、あらゆる人間の組織に見られるとされる「一割現象」という法則に反するからである。「一割現象」とは、軍学者兵頭二十八氏が提唱するもので、人間のいかなるグループ、団体でも、上部一割の優秀者、下部一割の落ちこぼれ、中間8割の平凡人に分れるという「法則」である。同氏は、このことを、自衛隊にいたとき発見したとのことである。或る艦の乗組員の全員が平均点以上の成績を出すということは、この法則に反していて、無理なことなのである。
新艦長の異常な、偏執狂的言動は積み重ねられ、ついに、台風に遭遇したときの操船方法をめぐって争いとなり、艦長の命令は無視され、部下によって拘束される。この事件が、台風を乗り切った後、軍法会議にかけられる。ところで、例えば、東大生といえば全員優秀な人に違いないと思いがちであるが、決してそうではなく、ここでも、この「一割現象」は厳然として存在する、らしい。「さもありなん。」という気がする。そうであるなら、弁護士の業界、弁理士の業界(そして、裁判官の世界)にも、この法則は当てはまると思われる。
世界的に見ても、当事務所は、約50ヶ国の現地代理人と取引があるが、スピード感、緊張感、責任感をもって仕事のできる人は、やはり、一割程度しかいないように思われる。養老先生が、「まともに考え、自分の言葉を持っている人間は、十人に一人いるかどうかだろう。」と言っているのも、この「一割現象」の一面であろう。
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(編集子)ミッキーも懐かしい顔に出会えたようで、よかったね。小生は中学1年の時に翻訳者は誰だったか忘れてしまったがこの本に出合った。不運なくじをひきあてた副長のマリックに大いに同情したものだった。何十年か経って、映画の締めくくりになるなったサンフランシスコはマ―ク・ホプキンスホテルを尋ねる機会があり、このシーンだっただろうと思う広間でへへえ、と思ったりした。
なお、ミッキーはキースがケイン号を選んだ、と書いているが、原作では実は母親が頼りにしたコネが働かず、いやいやながらの着任だったのだ。そうしないとこの作品の背景が違って見えてくるので、付け加えておこう。
 小生には負けを覚悟で正義感から弁護士役をひきうけたホセ・ファーラーが印象に残っている。この弁護士はユダヤ系で両親をナチに惨殺されたという経歴を持つ。職責上、艦長を糾弾するが、(こういう男たちがいたからこそ、、ナチは撲滅できたのに)という葛藤にさいなまれ、最後に祝賀会に招かれざる客として現れ、爆発する。この映画の真骨頂はこのアイロニーをぶちまけたことにあるのではないか、と思うのだが。
小生には負けを覚悟で正義感から弁護士役をひきうけたホセ・ファーラーが印象に残っている。この弁護士はユダヤ系で両親をナチに惨殺されたという経歴を持つ。職責上、艦長を糾弾するが、(こういう男たちがいたからこそ、、ナチは撲滅できたのに)という葛藤にさいなまれ、最後に祝賀会に招かれざる客として現れ、爆発する。この映画の真骨頂はこのアイロニーをぶちまけたことにあるのではないか、と思うのだが。
「雪あかり日記/せせらぎ日記」(著者:谷口吉郎―ヨシロウ、発行:中公文庫/2015年)。
 掛け値なしに、大変、面白かった。解説も入れて541頁もある大冊なのだが、それこそ一気に読了した。ただし、谷口が建築家であることから、そのことについての記述が数多あるが、小生、建築には極めて疎いので、ここではそのことに言及していないことを事前にお断りしておく。ただし、ここで強調しておきたいことがある。例えば、大使館の日本庭園に庭石を検討する際、野火で焼かれてしまった奥州平泉の毛越寺(もうつうじ)に残された庭石を思い出すなど、適宜、欧州の建築を見る目は、日本のそれを思い出しながら眺めていることだ。勿論のこと、こんなことは、日本の事を知悉していなければ出来ることではない。
掛け値なしに、大変、面白かった。解説も入れて541頁もある大冊なのだが、それこそ一気に読了した。ただし、谷口が建築家であることから、そのことについての記述が数多あるが、小生、建築には極めて疎いので、ここではそのことに言及していないことを事前にお断りしておく。ただし、ここで強調しておきたいことがある。例えば、大使館の日本庭園に庭石を検討する際、野火で焼かれてしまった奥州平泉の毛越寺(もうつうじ)に残された庭石を思い出すなど、適宜、欧州の建築を見る目は、日本のそれを思い出しながら眺めていることだ。勿論のこと、こんなことは、日本の事を知悉していなければ出来ることではない。
海外の旅行記と言えば、通常、漫遊記の類となるのが普通だろう。ところが、建築家、谷口にとって不運だったのはその時期が悪かった、それも極めて。横浜で日本郵船の靖国丸に乗り、マルセイユで上陸し、列車でベルリンに到着した正にその当日の11月10日、歴史上でも非常に悪名高きナチスによるユダヤ人に対する蛮行、即ち、水晶の夜がそのベルリンで行われていたからだ。日本も同様だった。長いが以下に引用する。マルセイユに行く途中、「船がアデンの港を出た頃、日本軍が広東に近いバイヤス湾(註:大亜湾)に上陸したという報に接すると、船客は全員が甲板に整列して、宮城を遥拝し、声をそろえて「君が代」を歌った。・・・祖国の方に向かい、声をはりあげて「万歳」をさけんだ」。こう言う時代だったのだ。
つまり、その旅行期間は、1938年11月から1939年9月まで、世は正に風雲急を告げていたわけで、彼はそこに飛び込む羽目に陥ってしまう。本来の目的は、恩師、伊東忠太の指図によって、ベルリンの日本大使館が新しい都市計画のために改修されることとなったので、この機会に向こうに言ってはどうか、と言う伊東の厚意に従ったものだった。
そのベルリンでは、彼が行く至る所でナチスが闊歩しており、「強制収容所」の存在も耳にする。加えて、ドイツの民衆のナチス、ヒットラーに熱狂する様は筆舌に尽くし難く、中でも、チェコを制圧し、凱旋するヒットラーを一目見んものと集まった群衆は(彼もその一人なのだが)、ウンター・デン・リンデン街を埋め尽くしている。彼がドイツ人を訪問すると、どんな人からも、先ず、「ハイル・ヒットラー」と声を掛けられ、その人の赤い腕章には必ず、ナチスの党印章である「ハーケン・クロイツ」(逆卍)の紋章が付いている。
しかし、そう言った状況にもめげず、彼はベルリンを拠点として欧州を駆け回る。勿論、その主眼は専門の建築物が主な対象だが、パリでは「オランジュリー美術館」でモネの絵を愛で、また、建築家のコルビュジェに会う。しかし、コルビュジェからは、フランスでは仕事がないことから、満州国(この時点で、フランスは満州国を承認していない)にでも大きな仕事がないかとの相談を持ち掛けられる。イタリア行きの列車の中では同席したイタリア人が、親しくなってから、突然、本居宣長の和歌「敷島の大和心を人間はば、・・・」を美しいバリトンで歌い出すのに驚く。ミラノの「レオナルド・ダヴィンチ博覧会」では、その万能ぶりに驚嘆する。また、彼は、ナチス・ドイツの建築界が国粋的な保守主義に固まっているのに対し、全体主義国家であるイタリアが建築界も美術界も新鮮なモダン・スタイルが旺盛であることを応援する、などなど。中でも、白眉なのは、マッターホルンを直接眺めるために、態々、ツェルマットまで出かけ、しかも、牧歌的なスイスの休日を満喫していることだ。ただ、残念だったのは、危険であることから、ギリシャ行きを断念してしまったことだ。
谷口と言う人は、何物にも阿らない、明治生まれの硬骨漢と言う印象が甚だ強い(1904年生、1979年没)。小生は彼に漢(オトコ)を見た。それが彼の建築にどのように反映されているかは、建築に疎い小生には分からない。しかし、慶応義塾幼稚舎の校舎に、1935年、今から90年も前でありながら床暖房を設置した、その優れた先見性には目を見張るばかりだ(コペンハーゲンのグルンドヴィッヒ記念教会堂を見学するために中に入ったが、床が工事中だった。そこから、これは床暖房の工事をやっているのだと気づき、自分も日本でやったことを思い出す)。
なお、この本が出来上がった経緯は以下の通りだ。これは、もともとは、雑誌「文藝」に「ベルリンの日記」として1944年11月号から1945年3月号まで5回、連載されたもので、ベルリンの冬の思いでだったことから、題名を「雪あかり日記」とした。だが、戦後、一冊の本として出版するに当たって、「ギリシャの文化」中の「シンケルの古典主義建築」(1942年)と雑誌、「演劇」に載せた、チェーホフの戯曲「桜の園」を観劇した感想(1943年)、いずれもドイツ、特にベルリンの冬の思いでであることから追加している。また、「せせらぎ日記」は、谷口の一周忌に遺稿として出版されたもので、その内容は、ベルリン以外のドイツの諸都市や、ドイツ以外の国々の思いでをまとめたもので、「雪あかり日記」の続編にあたる。「せせらぎ日記」の最後に「が、その地球の一角に火の手があがり、劫火が全地球をつつもうとしている」と、第二次世界大戦の勃発を正しく予言しているように、「雪・・・」も「せせらぎ・・・」も、いずれも戦前に書かれたものだが、その文章と言い、内容と言い、30歳台後半の谷口を反映してか誠に瑞々しい。そして、夫々が、見事なエッセイともなっている。
唯一の汚点は、この本の解説だ。この本の解説を堀江敏幸と言う人が書いている。初めて目にする名前なのでネットで調べてみた。2001年、第124回の芥川賞を受賞した作家だと言うことが分かった。こりゃー、ダメダ。案の定、何遍読んでも、何が言いたいのか、その意味するところがさっぱり分からない。谷口の文章は極めて明快で、極めて分かり易い。ところが、この芥川賞を受賞した作家の文章は、抽象語の羅列で、何を言いたいのかさっぱり分からない。例えば、「・・・ここに込められた、と言うより、事後的に含有されてしまったアイロニーを見逃すことになるだろう」と言う文章があり、アイロニーと言う言葉が出て来る。見慣れない言葉だし、態々、こんな言葉を使う必要があったのだろうか。こう言うさっぱり意味の分からない文章を有難がる輩もいるのだろうが、小生のような平均的な輩にとっては正にチンプンカンプンだ。だから、苦手だ、有体に言ってしまえば、嫌いだ。最後に、話しが脱線し過ぎた。
(下村) 読後感を拝読。谷口さんの紀行文の内容(の一部)
 金藤さんの映画「ララミーから来た男」の主演、ジェームス・スチ
金藤さんの映画「ララミーから来た男」の主演、ジェームス・スチ
 ご参考までにリストを添付しますが、もう一人のジミーは、言わずと知れたジェームス・ディーンです。
こちらは「エデンの東」「理由なき反抗」「ジャイアンツ」 の3作
の3作
ジェームス・スチュアートは又、役柄に悪役が無い善良な役ばかり
20世紀には「白熱」など、今ではテレビでは見られないジェーム
| NO.36 | 製作年 | タイトル | 番号 | 
| 1、 | 1938年 | 我が家の楽園 | |
| 2、 | 1939年 | スミス都へ行く | |
| 3、 | 砂塵 | ||
| 4、 | 1940年 | フィラデルフィア物語 | |
| 5、 | 1946年 | 素晴らしき哉、人生! | |
| 6、 | 1948年 | ロープ | |
| 7、 | 1949年 | 踊る熱球 | |
| 8、 | 1950年 | ウインチェスター銃’73 | yes | 
| 9、 | 折れた矢 | yes | |
| 10、 | 1952年 | 地上最大のショウ | yes | 
| 11、 | 怒りの河 | yes | |
| 12、 | 1953年 | 裸の拍車 | yes | 
| 13、 | グレンミラー物語 | yes | |
| 14、 | 1954年 | 裏窓 | yes | 
| 15、 | 遠い国 | yes | |
| 16、 | 1955年 | 戦略空軍命令 | yes | 
| 17、 | ララミーから来た男 | yes | |
| 18、 | 1956年 | 知りすぎていた男 | yes | 
| 19、 | 翼よ!あれが巴里の灯だ | yes | |
| 20、 | 夜の道 | ||
| 21、 | 1958年 | めまい | yes | 
| 22、 | 媚薬 | ||
| 23、 | 1959年 | ある殺人 | |
| 24、 | 連邦警察 | ||
| 25、 | 1961年 | 馬上の二人 | yes | 
| 26、 | 1962年 | リバティ・バランスを射った男 | yes | 
| 27、 | 西部開拓史 | yes | |
| 28、 | 1963年 | シャイアン | yes | 
| 29、 | 1965年 | シェナンドー河 | yes | 
| 30、 | 飛べ!フェニックス | yes | |
| 31、 | 1966年 | スタンピード | |
| 32、 | 1970年 | テキサス魂 | |
| 33、 | 1974年 | ザッツ・エンターテイメント | |
| 34、 | 1976年 | ラスト・シューティスト | yes | 
| 35、 | 1977年 | エアポート’77/バミューダ | |
(編集子)小生が見たものは上記リストにアスタリスクをつけてみたが、結構よく見た、という感じがする。一番深い印象があるのは 34 ラスト・シューティストだ。映画の上でもそうだが、ウエインがこれが最後、と思い詰めたであろう傑作に出演、その演技から(相棒、これが最後だよな)というような、脚本には表れない気迫みたいのものが感じられたものだ。ローレ ン・バコールもよかった。
ン・バコールもよかった。
もう一本、リバティ・バランスを射った男 は、ストーリーもそうだが今度は役の上でもウエインに花を持たせた作品で、エンドマーク近く、ウエインの葬儀帰りの夫婦の会話が身に染みる、スチュアート作品の代表みたいな佳作だった。このエンディングの伏線になっているサボテンの花、見てみたいものだが日本では無理だろうな。
博識の飯田兄には無用のことと思うが、悪役、の代表はなん といってもブライアン・ドンレヴィだと小生は思っているし、顔が出てきただけで役どころがわかってしまったのがネヴィル・ブランドだったな。彼が、たしかトラトラトラだったと思うのだが、日本軍の奇襲の情報を知り、上官に伝達しようとするのに苦労する下士官を演じたことがあった。”悪役でない” ブランドはほかではお目にかかっていない。ほかの敵役で名の売れているということならご存じリー・マーヴィンとかアーネスト・ボーグナインやらヴィクター。ジョリーなんかかな。
といってもブライアン・ドンレヴィだと小生は思っているし、顔が出てきただけで役どころがわかってしまったのがネヴィル・ブランドだったな。彼が、たしかトラトラトラだったと思うのだが、日本軍の奇襲の情報を知り、上官に伝達しようとするのに苦労する下士官を演じたことがあった。”悪役でない” ブランドはほかではお目にかかっていない。ほかの敵役で名の売れているということならご存じリー・マーヴィンとかアーネスト・ボーグナインやらヴィクター。ジョリーなんかかな。
(飯田)悪役の二人、ブライアン・ドンレヴィは以前にもジャイ兄が好きな悪役とのことで「大平原」「ボー・ジェスト」などを思い出していますが、もう一人のネヴィル・ブランドは名前は知りませんでした。調べたら年に2~3本は出ている俳優なので顔は知ってましたが、如何にも悪役面ですね。
 「勇者のみ」「第十七捕虜収容所」「限りなき追跡」「胸に輝く星」「トラトラトラ」など多数に出ていたようですが、「やさしく愛して」ではエルヴィス・プレスリーを殺す役だったり、テレビ「アンタッチャブル」のアル・カポネ役だったとは・・覚えておかないといけませんね。
「勇者のみ」「第十七捕虜収容所」「限りなき追跡」「胸に輝く星」「トラトラトラ」など多数に出ていたようですが、「やさしく愛して」ではエルヴィス・プレスリーを殺す役だったり、テレビ「アンタッチャブル」のアル・カポネ役だったとは・・覚えておかないといけませんね。
ところでローレン・バコールは夫ボギー(ハンフリー・ボガート)の死を看取ってから失意の時期が長かったですが、その間にボギーの親友だったフランク・シナトラと親密になったことを思い出しました。シナトラはエヴァ・ガードナーと離婚後に同じく失意の時期だったそうですね。ゴシップ全盛の時代ではありました。
 先の「戦争遺跡として巡る三田キャンパスツアー」で谷口吉郎さん
 先の「戦争遺跡として巡る三田キャンパスツアー」で谷口吉郎さん
 谷口吉郎さんはすでに戦前から、慶應義塾の各所において建築設計
 熟年生は普通部入学の時は天現寺の幼稚舎校舎を仮住まいとしてい
1949年には5号館、4号館、学生ホールが木造で完成した。こ 今は西校舎内の食堂に移設されているが、こうした芸術家との協働
今は西校舎内の食堂に移設されているが、こうした芸術家との協働
慶應義塾の建築家と言えるのが谷口吉郎
 慶應義塾普通部は天現寺幼稚舎から1951年に日吉へ谷口吉郎さ
慶應義塾普通部は天現寺幼稚舎から1951年に日吉へ谷口吉郎さ
谷口吉郎設計1937年竣工戦中に海軍聯合艦隊司令部となった悲 若い無名の建築家を、慶応義塾はよくも起用したものである。ここ
若い無名の建築家を、慶応義塾はよくも起用したものである。ここ
暑いですね。日本は完全に今は熱帯地方の仲間入りですね。
そんな中。今日は久しぶりでコロナの話です。 街を歩いていても、マスクしている人 減りましたよね。公共の乗り物に乗っても マスクをしているのはお年寄りばかり。
厚生省がお金がかかるからと、コロナを「5類感染症」に引き下げてから、社会の緊張感も薄れ 皆さんもコロナは普通の風邪と全く同じと考えるようになったからでしょうね。
今、日本で猛威を振るいはじめているのは、オミクロン株(今となっては懐かしい響きも感じますが)から変異したと考えられる「ニンバス」です。香港・シンガポールなどから日本に入ってきたとの説が有力です。
症状の特徴は「刺すような、或いは剃刀(かみそり)を飲んだような強烈な咽頭痛」、それに加えて咳・痰・発熱・倦怠感・頭痛・時には吐き気や下痢を伴うこともあります。特徴的な咽頭痛を除けば普通の風邪症状ですよね。北海道・九州でも またいま私が滞在している長野でも7月に比べ8月は4倍近いこの患者が出ているようです。
但し、今 行われているコロナの治療はこのニンバスにも有効性が証明されています。お出かけの際は、できればまだマスクをお忘れなく。またたかが喉が痛いだけと痩せガンマンせず 怪しいと思ったら近所の先生に。
ニンバスをまだ知らない先生には 教えてあげてください。
小生、俳句については一見識もない。では、何故、女性俳人の杉田久女(久が本名。以下、久女)を知ったかと言うと、かねがね愛読している、日経は土曜の夕刊、最終面の「文学周遊」に久女のことが載っていたからだ。それも、彼女の俳句ゆえの話しではなく、彼女に対する毀誉褒貶の評価に、大変、興味をそそられたからに他ならない。
久女は、大蔵省の書記官を父に、鹿児島で1890年に生まれた。その父親の転勤に伴い、沖縄、台湾などで幼少期を過ごし、東京女子高等師範学校(今のお茶の水女子大)付属高等女学校を卒業後、19歳で、東京美術学校(今の東京芸術大学)を卒業し、小倉で美術教師をしていた杉田宇内と結婚する。俳句に慣れ初め出したのは、26歳の時、兄で俳人でもある赤堀月蟾から句を学び、以降、俳誌「ホトトギス」に数多の句を投稿した。
しかし、夫の宇内は、久女が俳句に夢中になることを好まず、一方、彼女には二人の娘の面倒を見る必要があり、しかも、女中がいないとあっては、誠に厳しい生活環境にあった。逆に、そう言う環境にあったからこそ、そこからの一種の逃避手段として、生き甲斐である俳句に徹底的に拘ったとも考えられる。しかし、一方では、「ホトトギス」の同人となりながら、敬愛する師、高浜虚子から、突如として除名されるなど、不幸な運命を辿ることにもなる。やがて、連夜の空襲の中、自身の句稿を抱えて防空壕にうずくまる日々。そして、戦後となり、心のバランスを崩した久女は、精神病院に入院、食糧難にも苛まれ、55歳で鬼籍に入る。彼女の生前に果たせなかった句集の出版は、娘の石昌子に引き継がれ、「杉田久女句集」として、1969年、角川書房から出版された。
確かに、田辺は久女の生き方に寄り添っているが、「尊敬すべき見識と教養を人にも認められながら、それが人と人とをつなぐ親和力にならず、かえって敬遠されていくという不幸」があったと述べている。小生は、久女には一本気なところがあり、加えて、人付き合いに不器用なところがあることから、それらが誤解を招く原因になったのではないかと推測する。例えば、俳句仲間のお宅を訪問し、話し込んで長っ尻となることから、自分から勝手に弁当を持参するなど、結局、以降、出入り禁止となってしまう。
また、松本清張の小説「菊枕」(1953年)、吉屋信子の小説「底のぬけた柄杓 憂愁の俳人たち」(1963年)中の「私の見なかった人(杉田久女)」などで久女を言われもなく貶めているいい加減さが、後年の虚実入り混じった久女像の固定化に大きく影響した面もあろう。中でも吉屋の作品については、田辺は「ありていにいって、半分よたっぱちである」と酷評している。しかし、致命傷となったのは、師匠とも目していた虚子の彼女を狂人扱いにした(彼の著書「国子の手紙」、1948年)、それこそ正に嘘っぱちが人口に膾炙してしまったことが、彼女の句ではなく、久女を遠ざける風潮の源になったのではないか(確かに、久女は、短期間の間に、200通余りの手紙を虚子に送りつけている。しかし、解説を書いた作家の山田詠美は、それらの手紙を読んで、「私は、久女が、それほど、精神に異常をきたしていたとは思えない」と述べている)。だが、田辺のこの「花衣・・・」が彼女の名誉を完全に回復したのは間違いない。これは、小生の全くの憶測だが、虚子は、豪放磊落な人だったようだが、その本心は、久女の溢れんばかりの才能に激しく嫉妬し、我を忘れて嫉んでいたのではないか。それがこう言う彼女を「ホトトギス」の同人から除名し、更に必要以上に貶める発言になったのではないかと思われる。
田辺は「わが愛の杉田久女」と呼んでいるが、小生は、「我が愛する杉田久女」と呼びたい(山田は、「読みながら、何度も、久女の写真を見返した。彼女は、とても美しい顔をしている」)。
ここで、彼女の代表的と思われる俳句(小生にはそれを評価する術が全くないので、この欄で挙げられている句に止めておく)を列挙しておく。
「花衣ぬぐやまつわるひもいろいろ」。
「鯉を料るに俎せまき師走かな」。
「谺して山ほととぎすほしいまま」。
「朝顔や濁り初めたる市の空」。
以下は、田辺と解説を書いた山田が、最も心ひかれ、愛する句として挙げている。
「甕たのし葡萄の美酒がわき澄める」。
 杉田 久女(すぎた ひさじょ、1890年(明治23年)5月30日 – 1946年(昭和21年)1月21日)は、鹿児島県出身の日本の俳人[1]。本名は杉田 久(すぎた ひさ)。高浜虚子に師事[1]。長谷川かな女、竹下しづの女とともに、近代俳句における最初期の女性俳人で、男性に劣らぬ格調の高さと華やかさのある句で知られた。家庭内の不和、師である虚子との確執など、その悲劇的な人生はたびたび小説の素材になった。
杉田 久女(すぎた ひさじょ、1890年(明治23年)5月30日 – 1946年(昭和21年)1月21日)は、鹿児島県出身の日本の俳人[1]。本名は杉田 久(すぎた ひさ)。高浜虚子に師事[1]。長谷川かな女、竹下しづの女とともに、近代俳句における最初期の女性俳人で、男性に劣らぬ格調の高さと華やかさのある句で知られた。家庭内の不和、師である虚子との確執など、その悲劇的な人生はたびたび小説の素材になった。