エーガ愛好会 (283)  踊る大捜査線   (HPOB 小田篤子)

懐かしく、面白く観ました。

このTVは昔家族でよく観たものです。26年も経つと亡くなった俳優さんも何人か出演していますね。
クールな警視庁エリート軍団と湾岸警察署のおかしな人達、不気味な殺人犯役の小泉今日子も印象的です。
警視庁のゴルフの帰り副総監が誘拐され、警視庁だけの極秘捜査から、公開捜査となり、青島刑事(織田裕二)など所轄組も捜査に加わります。
誘拐された副総監とは友人の、退職した刑事(いかりや長介)が犯人をつきとめますが、団地のゴミ収集所に閉じ込められてしまいます。
ポケットにいれてあった、副総監がブービー賞として貰い、分けてくれた赤いゴルフボールを焼却炉に入れ、その赤い煙で青島刑事(織田裕二)が発見する…このことは黒澤明監督「天国と地獄」の白黒映画に、煙突からピンクの煙が立ち昇る場面を思い出させます。
最後、犯人逮捕の際に怪我をした主人公の青島刑事らを乗せたパトカーを、警察官らは次々敬礼をして見送ります。
このシーンは、検視の仕事も時々引き受けていたという主人の叔父の葬儀の車が署の前を通る時、雪が降る中警察の方々が、並んで敬礼をして見送ってくださった何年も前の光景のようでした

(編集子)小生、”捜査線” シリーズは ”レインボーブリッジ” だけしか見ていないが、サイドライン ”アマルフィ” は面白かった。ここのところ、この時代のリバイバルをよく見ているが、いろいろある中で、村上弘明の ”刑事の証明” と 船越英一郎の ”吉永誠一”  シリーズが気に入っている。偶々、この二つで、仲間の刑事が殉職する話があり、そこで知ったのだが、この場合は二件とも殉職した警官は二階級特進で警部補として葬儀になる。市民の命を守るために身を捧げた仲間に対する敬意をこめた葬列の場面は心に響く。特に ”吉永” シリーズで号泣する小泉孝太郎の演技はよかった。雪は降っていなかったが、心にしみた。
(参考)警察官の”階級”は9つあり、昇任することによって階級を上げることができる。 その階級とは、『巡査』『巡査長』『巡査部長』『警部補』『警部』『警視』『警視正』『警視長』『警視監』『警視総監』『警察庁長官』刑事と呼ばれる警察官は「巡査」や「巡査長」の階級にあたる警察官で、管理職はそれぞれ役職で呼ばれる。

ヒヤリ、はっと を軽視していませんか? (普通部OB 篠原幸人)

まえに「物忘れ日誌のすすめ」を書きましたが、覚えていますか? 認知症とは縁遠いと自負している貴方こそ、些細な物忘れのエピソードがどのくらいの頻度で起こったかを日時と共に記載しておくことが、5年先を考えると必要だと思いますよ。
最近、新しい抗認知症薬(レケンビ)が発売され、小生の病院でも可なりの患者さんに試みています。そのためにも、物忘れなどの発症の正確な時期の把握が重要で、「物忘れ日誌」にちょっとしたエピソードの記載が日時と共に残っていると、専門医師は大変助かります。
認知障害は物忘れだけとは限りません。計算力・注意力その他が先に衰えることもあります。これも以前に書きました。
小生はシルバーウィークを利用してまた軽井沢で過ごしていましたが、先週末、車で上田市の別所温泉付近の松茸山まで片道1時間半強もドライブし、松茸料理を堪能してきました。その帰り道、付近の真田家ゆかりの生島足島神社に柄にもなくお参りしましたが帰り道の選択で家内と一寸口論しながら細いT字路を右折しようとして、危うく直進車と接触しそうになりました。典型的な「ヒヤリ・ハット」です。私の注意力不足は明らか。
こんなエピソードを私は「物忘れ日誌」の小ノートを逆にして、最終頁から自分の「ヒヤリ・ハット集」として記載を残すことにしています。まだ2冊目に移るほどのエピソードは多くありませんが。
皆さんも沢山のヒヤリとしたり、ハッとする経験があると思います。無論、相手側が100%悪い時もあるでしょう。そんな時も含めて、是非皆さん、これも始めませんか? これを始めることで、却ってヒヤリ・ハットが減るかもしれません。そのノートがお医者さんに皆さんが自分の症状を説明するのに役立たないことを祈っています。この逆説的な言い方、理解してください。

“小屋” というところ

”小屋“ という名詞はだれでも使う単語であるが、多くの場合は背後に ’小さい” とか  ”貧弱な“ といった、どちらかといえばネガティヴなイメージを持つ。日本の住宅事情を自虐的に示した ”ウサギ小屋“ などが思い浮かぶ。 しかしこれに ”山“ という接頭語をつけると、そのイメージは一転して、何となくロマンチックな響きを持つ。それはその後ろに ”旅“ が意識されるからだろう。

KWVでの4年間、僕が泊めてもらった ”山小屋“ はそれほど多くはない。これは小屋、よりも苦労して運んだテントこそモノホンだ、という思い込みがあったからだと思う.。これは僕一人の勝手な理屈なのだが、登山という行為の一部としてよりも、そこで過ごす時間が自分が抱く ”wanderun” のフィーリングに会う場所であれば、小さい小屋であれ豪華なホテルであれ、それが自分の “小屋” として記憶に残るものになっているように思えるのだ。

山を愛する人なら、一度は仲間たちと占有できる小屋が欲しい、と思ったことがあるに違いない。そういう意味で、KWVの仲間にとって ”小屋“ とは新潟と群馬を分ける三国峠の先にある、”浅貝(部落の名前)のKWV山荘“ である。”浅貝の小屋“ はKWVの先輩の皆さんが抱いてこられた思いを結実させたものだ。多くの先輩方の支援のもとに、僕はといえば2年生部員という中堅どころであった時期、総務(今の現役の間では部長、というらしいが、つまり運動部でいえばキャプテン)だった妹尾先輩の強力なリーダーシップと、すでに社会で活躍しておられた先輩方の支援によって完成した、ある意味、当時の僕らにとっては神聖な場所でもあった。完成後、上越国境の山歩きのベースとしてはもちろん”小屋で過ごす仲間との時間“ を満喫する場所であり、卒業後は暮れから正月にかけての ”越年”はかけがえのな行事であったし、同期の卒業後の ”夏合宿” の場でもあり続けた。

卒業翌年の5月連休、同期生の好漢児玉博が上越国境縦走の途次、悪天のため無念の遭難死をとげた。その後、児玉家から令息の想い出として何か意義あることに使ってほしい、として資金のご提供があった。現場に何かの慰霊碑でも、というご意向だったのだが、我々は遭難の悲劇を繰り返させないためにという熱意を持って、ほぼ半年にわたって休日ごとに有志で材料を運び上げ、完成後は ”越路避難小屋“ として広く一般登山者に親しまれることになる小屋(というには余り小さかったが)を遭難現場にちかい縦走路沿いに建てた。その後、地元の要望もあって現在は場所も変更されてしまったが僕ら建設に微力を尽くした仲間の間では今なお、”俺たちの小屋” の熱い記憶として残っている。この ”小屋” にかかげておいた由来を書いたプレートは確か山荘にあるはずだ。

僕が米国勤務などで浅貝から離れていた間に開業した “豊島ロッジ”は、社会人生活になれたわれわれにとって、”浅貝小屋“ とはまた違った、いわば ”大人の小屋“ として親しまれた。地元出身のオーナー豊島さんのおおらかな人柄が醸しだす、一種独特の雰囲気にひかれて足しげく通ったものだ。苗場と三国峠を一望にできたガラス張りの部屋での時間(35年卒の徳生先輩はこれを ennui アンニュイ と表現された。まさに言い得て妙、であった)は、スキー場に出ることがばかばかしくなるような、そういう時間であった。

就職した先でお世話になった先輩から紹介されて、八方尾根山麓の ”白い小屋“ へ行ったのも同じころだった。創業者の大野さんは著名なクライマーであり、夫人の榧(かや)さんは著名な熊谷画伯を父に持つ芸術家で、センスにあふれた、ロマンチックな小屋のつくりや、昔からある”八方のスキー宿“ というイメージからかけはなれた、シックな雰囲気には完全にとりこになってしまい、スキーシーズンは苗場か八方で決まり、というのがしばらく続いた。

スキー、といえば現役時代からお世話になったのが妙高高原は燕温泉スキー場にあった、”燕ハイランドロッジ“ だ。同期の翠川幹夫の父上は古くからのスキー愛好家で、若いころ通っておられた燕温泉の岩戸屋旅館に出資され、赤倉から燕へ抜ける林の中に、瀟洒なロッジを建設された。その創業の冬、翠川に招かれて、”雑用をする“ という口実で同期の飯田昌保と二人で滞在させてもらった。その後も卒業まで、何回も ”手伝い“ と称して泊めてもらった。当時まだ 田口、という名前だった妙高高原駅まで荷物を取りに行き、翠川と二人、荷物を担いでゲレンデの真ん中をシールでこれ見よがしに歩いたり、客の初心者にスキーの履き方を教えたり、挙句の果て、赤倉との間で雪崩に巻き込まれたり、いろんな思い出がある。僕が曲がりなりにもSAJ1級のバッジをもらったのも燕であった。

卒業後も続けてきた山歩きは、仲間にもいろいろな事情が起き、かたや娘を持つ身になって、パートナーは家を空けることができないので単独行を余儀なくされたが、その数年のあいだ通っていた北八ツで、麦草峠に至る縦走路にあった高見石小屋には何回かお世話になった。これは無念にも病を得て早逝してしまった37年卒ジュンこと村井純一郎の勧めで初めて泊り、その後僕の愛読書になった名著 ”北八つ彷徨“ の影響もあって、何回か泊めてもらった。ロマンチストで愛書家だった村井好みの、またオーナーのSさんの心遣いあれふる、実に感じのいい小屋だった。11月半ば,冬支度の最中だったここで、Sさんとストーヴを囲んで過ごした一夜の思い出は忘れられない。

そうこうしている間に、サラリーマン生活を終える日が来て、以前からあたためていた自分の小屋、を作る決意をした。”別荘”という名前がどうもしっくりこないまま、考えてみたらほぼ20年、今では北杜、なんてもっともらしい名前になったが、南八ヶ岳の南端、小淵沢の小さな別荘地に退職金をはたいて建てた ”小屋“ での生活は、旅の間の一夜を過ごした感覚をどこかに感じながら時間が過ぎていく、かけがえのない止まり木的な存在になっている。

この ”自分の小屋“ で周りを囲むミズナラの林を眺めていると、現役時代にはなかった時間の感覚にひたってしまう。戦前からある蓼科とか、野辺山から小海線沿いに開発された高級別荘地とは違って、われわれ ”サラリーマン卒業生” クラス“ の人たちがいわばひっそりと第二の人生を模索する、そんな感じのある場所で、何年か通ううちに周りの人たちとのあいだに心地いい仲間意識ができてきた、深い森のフィトンチッドに満ち溢れるいい場所であり、とにかく、静かな、風の音くらいしか聞こえてこない時間に、あらためて “人生は旅なのだ” と思い、これが俺の小屋なのだ、と感じる時間が経過していく。

しかし、時間、とは冷酷なものでもある。あれだけ通い詰めていた豊島ロッジは事情があって閉館してしまい、僕自身は行ったことがないが経験者によれば、後身は効率第一の、味気ないありきたりのスキー宿になってしまったようだし、高見石小屋も創業者のSさんが、部外者にはわからないが複雑な事情に巻き込まれてオーナーを降りてしまったあとは、ここもまた、”小屋が岳” 群の、一連の営業小屋になってしまった。一度、麦草峠へ遊びに行って足を延ばしたことがあるが、あの頃の雰囲気は望むべくもない。”白い小屋” は事業者としても成功した大野さんのプラン通り、拡張もされ施設もモダンなものになって、同期の連中と何度か訪れていい時間を過ごしたのだが、大野さんご逝去のあとは訪れる気も起きず、もう5年もたってしまった。ハイランドロッジもその人柄で誰にも好かれたオーナー経営者で岩戸屋旅館の次男坊、通称 ”ろくちゃん” こと宮沢英雄さんが病に倒れられた後は足が遠のいたままだ。赤倉に通った古いスキー仲間の間では、”燕” は上級者のいくところだというイメージがあって、あの辺りでは僕ら世代のスキーヤーには別格な場所だった ”燕” が由緒あったスキー場を閉鎖してしまった現在、経営環境も悪化してしまったのではないか、という気もする。取り越し苦労ならいいのだが。

わが 浅貝の小屋、はどうか。何度かの改築を経て、現在は僕らの抱く、”けむい小屋でも黄金の御殿” ではなく、近代的な設備を持つ施設になったし、現役諸君の間ではそれなりの浅貝生活があるようだ。しかし僕個人にとっては、いわば民宿並みになってしまったこの近代化、がしっくりこない。これは施設の問題ではなく、あの ”小屋の時間” がもう戻っては来ないという、当たり前のことがなお受け止められていないし,”トヨシマのおじさんおばさん” のいない浅貝部落そのものがどっかへ行ってしまった、ということなのだろう。そんなセンチメンタルな気分のまま、一昨年の山荘祭へ参加した時、(長い間ありがとう)という感謝を込めて、国道から苗場の山稜を、惜別の思いをこめて眺めてきた。多分、もう浅貝、をおとずれることはないだろう。

10月になった。すこしばかり早い紅葉を楽しみに、来月には小淵沢へ行こうと思っている。

 

 

 

赤富士がきれいでした     (42  河瀬斌)

昨日の日の出前、それまで見えなかった富士が薄明かりに現れたのを見ていますと、5:40分、わずかな雲間から山頂下の雲に突然日光が差し、金色に輝きました。
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それから数分後、日差しは弱まり、見事な「赤富士」が現れました。わずか8分の自然のドラマで、30分後にはその富士も雲中に搔き消えました。
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私達は千変万化の富士を見るのが好きで、何度もこの窓から富士を見ていますが、北斎の「赤富士」を実際に見たのはこれが初めてです。
9月25日 山中湖エクシブでのことでした。

(保屋野)赤富士、私も一度見たいものです。貴重な写真ありがとうございます。

山中湖エクシブには何回か泊まらせていただきましたが、添付写真はホテルの裏山(鉄炮木の頭)からの冬富士です。先頭を歩いているのはDr河瀬です。

(斎藤孝)初めて見ました。凄い凄い、雲も朝焼けしている。たしかに「北斎の赤富士」ですね。

(堀川)
いや〜。素晴らしい写真ですね‼️
最高のシャッターチャンスです。
赤富士に乾杯‼️

オオタ二! 四冠王の予感  (36 大塚文雄)

2024年MLB(米国大リーグ野球)もいよいよ大詰めにきました。大谷選手が史上最初の「50-50」をどこまで伸ばすか興味ぶかいところです。「50-50」の凄さは、MLBには40-40を達成した選手をメンバーとする「40-40クラブ」があって、そのメンバーは僅か3選手しかいないことからも分かります。ドジャースの残り試合は6試合(全試合数162)です。

1シーズンで打率、本塁打、打点の3部門でリーグトップの選手が「三冠王」で、これに盗塁王が加わると「4冠王」です(注:ナショナルリーグとアメリカンリーグ単位の記録)。MLBが打者部門で年間表彰するタイトルはこの4つだけです。140年におよぶMLBの歴史の中で「三冠王」は17名いるものの、「4冠王」は皆無です。そのため「三冠王」が最高の打者の称号として独り歩きしていますが、MLBは打者部門の最高タイトルの一つとして盗塁王を設けて、四冠王の出現を首長くして待っています。

私は、打者専門(DH)の大谷選手が次々と盗塁を成功させるのをみながら、今年が4冠王になる最初で最後のチャンの年と思っていました。投手はケガをおそれてあまり盗塁しないから、二刀流に戻る来年以降に盗塁王はあり得ないからです。今シーズンの盗塁はすでに55ですが、2019年から2023年までの盗塁実績は12、7、26、11、20で年平均15回からみても、来年激減するのは明らかで、四冠王は不可能です。

今シーズンを見るとは、盗塁は64の選手、0.301の打率は0.318の選手が上にいるので四冠王は絶望的で、ホームラン王と打点王の二冠で終わる可能性が極めて高くなりました。

来シーズンはケガなど思いもよらぬ事を起すことなく、打率、本塁打、打点の3部門でリーグトップの三冠王になって欲しいと思います。本塁打王は出場数が減る可能性を入れても間違いなしでしょう。打率王は今シーズンでも三振(160)の1割を四球にしていれば、安打数が同じでも一位を競う0.318になります。実際シーズン途中にしばらく一位の時期があったことなどから来シーズン打率王競争に加わる可能性は高いと思います。打点王は前の打者の出塁に左右されます。今シーズンのドジャースは下位打線の出塁率が低く、大谷選手自身も得点圏打率が低い時期がありました。それでも今トップの打点をあげているので、来シーズン打点王になる可能性は高いと思います。三冠王になるのを今から楽しみにしています。

ちなみに、MLB全体の打撃三冠王ライバルはアメリカンリーグ所属のニューヨークヤンキースのジャッジ選手です。AIに訊ねると、今シーズン現在の成績は打率0.321,打点138,本塁打55本で、三部門いずれも大谷選手を上回っています。

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(安田)OPS(On-base plus slugging)は、野球において打者を評価する指標の1つで、出塁率と長打率を足し合わせた値である。数値が高いほど、打席あたりでチームの得点増に貢献する打者だと評価される。アメリカ大リーグ(MLB)では重要視される指標で、最近よく耳にするが、日本のプロ野球で用いられず、関心はあまりないようだ。

0.9000を超えれば一流打者、1.000を超えれば超一流打者だと評価される。今シーズンのMLBで、今のところ1.000を超えている選手はアーロン・ジャッジと大谷翔平の2人しかいない。0.9000を超えた選手は二人を除くとア・ナ両リーグ併せて10人しかいない。打者の指標として本塁打数、打点、打率が重要視される値で、数字が打撃成績をストレートに示すので分かり易い。ジャッジも大谷も本塁打と打点の2冠は2位以下を多く引き離して確実視されている。因みに、シカゴカブスの鈴木誠也のOPSは0.841で、一流までもう少しだ。
ジャッジは本塁打数は53本、3塁打1本、2塁打35本、単打83本で合計塁打数は大谷より少ない368(vs大谷383)だが、打数が圧倒的に少ない539(vs大谷693)ので長打率0.683(vs大谷0.636)となる。ジャッジは打率が大谷より0.020(2分)高い上に、四死球が135と大谷の82より53も多く、その分打数も少なくなり、合計塁打数は大谷より少ないにも拘わらず、長打率が高くなっている。出塁率では、四死球の多さが出塁率の値を高くして、0454 (大谷0.378)の値を示している。ジャッジのOPSは1.137となり、大谷を0.122凌駕している。
OPSには表れない、大谷の凄さと貢献の高さは盗塁数の多さであろう。単打が2塁打になり、2塁打が3塁打になる勘定だ。盗塁数を塁打数にカウントすると、大谷の長打率は0.675(vsジャッジ0.683)と0.039高く、OPSは1.054に跳ね上がる。
いずれにしても大谷とジャッジの2人がMLBを代表するスラッガーの東西横綱であるのは間違いない。

24年秋季 日平会開催    (普通部OB 船津於菟彦)

本日9月26日 木曜日 10名で開催 何時もの定食とカツカレーで愉しく2時頃まで歓談致しました。初参加加藤武男さんを含め、参加者は河野・佐藤・中司・岡野・高山・田中宏幸・宮坂・水木・加藤・船津。

帰りは銀座は結構酷暑でしたね。明日から天気は崩れるとか。元気が一番で人生100歳時代を謳歌していきましょう。次回はー忘年日平会。
2024年12月12日 木曜日 12時〜   銀座三田倶楽部で開催予定です。

(編集子)日平(日平)会は普通部昭和29年卒業生の有志で始まった、気の置けない雑談会。同期生諸氏の参加を募集している。連絡は岡野嘉久 または 船津於菟彦 まで。

Glen Campbellは超スピードドライバー   (36 大塚文雄)

1967年から1970年代半ばにかけて、ナンカナイ会(KWV36年卒業の同期会)では、中司君(ジャイ) がサンフランシスコ、故翠川君(ミドリ) がシカゴ、故後藤君(サブ) と僕の二人がニューヨークに赴任していました。シカゴに出張した時に翠川家で日本食の晩御飯をご馳走になり、サンフランシスコに出張した時には中司君とケーブルカーに初乗りし、日本食と一泊のお世話になりました。

数少ない日本食レストランは高嶺の花の時代で、久しぶりのご馳走でした。その後、中司君ご夫婦が我が独身アパートに一泊して奥様(オヤエ)が夜遅くまで掃除をしてくれたこと、翠川ご夫妻がニューヨークに遊びにきたこと、後藤君が家族全員で我が家を訪ねてくれたことなど懐かしい思い出です。

時を同じくして、西部の一地方都市で30歳になったGlen Campbell(グレン・キャンベル)というカントリーシンガーが、1967年10月に「By the Time I Get to Phoenix」という歌をCoverして一躍All Americaの歌手になりました。中司君はこの曲をくちずさんでいたそうだし、僕もテレビやラジオから流れてくるのを毎日耳にしていました。

煎じ詰めるとこの歌は、Phoenix郊外に住んでいた「私」が、Phoenix市内に住んでいる「彼女」から去って、高速道路を1,900KMも走り続け、その日の内にOklahoma市たどり着くというものです。

フェニックス遠望

歌詞から推測して、合計所要時間が14~15時間で、食事や休憩時間の5時間を引いて、実際の運転時間は10時間、平均時速190kmになります。中西部の高速道路は幅が広く車数も少ないので東部より早く運転できるにしても、時速190kmで10時間も運転し続けるのは無理でしょう。僕が赴任していた会社の社米国人社員の中でもこれが格好のLunch talkになっていました。そこには東部と西部の競争意識があるように感じたものです。

Glenn Campbell :1936年 4月22日生。アメリカ合衆国 の カントリー・ミュージック 歌手、 ギター 奏者、テレビ司会者、俳優。 1960年代および1970年代に多くのヒット曲を生み出し、 CBS のバラエティ番組『 The Glen Campbell Goodtime Hour 』の司会で知られる。(出所:Wikipediak)

歌詞と私の日本語訳をつけておきます。使うか否かご自由に。なお、日本版レコードのタイトルは「恋はフェニックス」で、これは誤訳です。正解は「恋の終わりのフェニックス」あたりでしょう。どちらでもいいことですが。

By the Time I Get to Phoenix
By the time I get to Phoenix she’ll be rising.
She’ll find the note I left hangin’ on her door.

She’ll laugh when she reads the part that says I’m leavin’
‘cause I’ve left that girl so many times before.

By the time I make Albuquerque she’ll be working.
She’ll probably stop at lunch and give me a call.

But she’ll just hear that phone keep on ringin’
off the wall, that’s all.

By the time I make Oklahoma she’ll be sleepin’.
She’ll turn softly and call my name out low.

And she’ll cry just to think I’d really leave her
tho’ time and time I’ve tried to tell her so,
she just didn’t know I would really go
She didn’t know I’d leave her.

 

「私」がPhoenixに着く頃までには、「彼女」は起きていて、「私」がドアにつるしてきたメモ書きを見つけるだろう。
そして「私」がサヨナラと書いたところを読んで笑い飛ばすだろう。

なぜなら、私はこれまでに何度も彼女のもとを去っては戻ったからだ。Albuquerque市に着く頃には、彼女は職場にいるだろう。

多分、昼休みに公衆電話から私の元住家に電話をするだろう。でも彼女は壁にかけてある電話の呼び出し音が鳴り続けるのを聞くだけだ。

Oklahoma市に着く頃には、彼女はベッドについているだろう
ゆっくりと寝返りを打って、低い声で私の名前を呼ぶだろう
そして、私が本当に彼女を去ったと考えて泣くだろう。
これまで、何度も何度も私が去ることを分かってもらおうとしたのに、私が彼女のもとを本当に去ることを彼女は知らなかったのだ。

この曲から計算してみると、Glen Campbellの Driving Distanceと時間はこうなります。

His home  →Phoenix    Albuquerque     Oklahoma
0   →    50         561      →    550   Mile
0                               →   1,161  Mile ( 1,870  Km)

主人公はPhoenixより西に住んでいたと考える。それを50マイルと仮定すると、
出発からOklahomaまでの運転総距離は1,161マイル(1870 km)でしょう。歌詞から想像すると、Phoenix郊外の自宅を朝早く出発して、She宅の玄関ドアの把手に別れの手紙をつるした後に、食事や休憩をとりながらHighway40経由で夜遅くOklahomaに到着したことになります。つまり、合計の所要時間14時間、食事や休憩時間を4時間とすると、実際に運転している時間は10時間で、毎時平均116 Mile (187km)の速さになる計算になるわけです!

なお、曲タイトルの日本語訳「恋はフェニックス」で、全くの誤訳で「フェニックスで別れの恋」が正訳ですね。

(編集子)1967年、ベイエリアはまだまだ牧歌的な雰囲気を残していた。今はIT企業が乱立するあたりにもまだ果樹園が残っていたし、すっかり変わってしまったサンフランシスコも、トニー・ベネットの歌がそっくり当てはまっている街だった。このエリアをカバーするAM放送に KEEN という局があり、歯切れのいい

You listening to Radio KEEN, the music station. Country music, 24hours a day

というアナウンスとともに当時売り出し中のバック・オウエンスがひっきりなしにかかっていた。グレン・キャンベルもこの時期の歌手だ。僕はこの曲もそうだがWichita Lineman  という哀愁のあるやつも好きだった。僕がおっかなびっくり、マニュアルだけを頼りにブログ、というものを始めたのが17年の夏だったが、初めて間もなく、キャンベルの訃報に接してショックを受けた。その時の率直な感想を By the time I get to Phoenix という少しばかりセンチな記事を書いた。2017年8月11日、をブログ画面から検索して一読いただければ幸甚。

(安田)
スピードドライバーキャンベルと「By the time I get to Phoenix」ストーリー、大変興味深く拝読いたしました。今後もし可能であれば、是非第2の故郷、イエイツ、バーナード・ショウ、オスカー・ワイルドの「文の国」アイルランドの体験話を伺えればまことに幸甚です。cooperに絡めたアイリッシュウイスキーの話はとても興味深く、目から鱗でした。座談の名手だとお見受け致しております。

 

 

ベランダで感じる秋の気配  (大学クラスメート 飯田武昭)

近年に日本各地で起こる線状降水帯の被害は、日本が亜熱帯化してきた現象の一つと考えられ、大変に危惧しています。

又、今日は元旦に大地震に見舞われた能登半島が、追い打ちをかけるように洪水、土砂崩れの被害にあっていて、大変に心が痛みます。

こんな中、記録的な連続猛暑日も、さすがにそろそろ息切れか?小宅の南側ベランダから見える夕焼け雲にも少し秋の気配がする、うろこ雲、いわし雲、さば雲が時々混ざって来ました。

(小田)とても綺麗な景色です!

私も夕方、台所の窓が一面紫色でびっくりしたり…、雲の形や色など、空は自然の芸術作品。毎日飽きさせません。
飯田さんの早起き、《The early bird catches the worm》ですね。

(飯田)早起きは三文の徳≫を英語では《The early bird catches the worm》という言い方があるのを、不肖、私は知りませんでした。素敵な表現ですね。

ついでに、ドイツ語ではどう言うのかを調べてみました。

≪早起きは三文の徳≫のドイツ語は2パターンの言い方があるようです。2番目の言い方が、英語の表現と同じだと分りました。

1、Morgenstund(e) hat Gold im Mund.

   【和訳】朝の時間は口に金を携えている

2、Der frühe Vogel fängt den Wurm.

   【和訳】早起きの鳥は虫を捕まえる

24年9月 月いち高尾    (47 関谷  51 斎藤)

2024年5回目(通算94回目)の「月いち高尾」を9月18日(水)に実施。

6月の「月いち高尾」は、当日早朝からの突然の降雨で変則的な開催(ドタキャン、集合後の帰宅者が出る中、参加者の一部は朝からの懇親会!)となってしまい、その後、KWV三田会の夏合宿、又、夏の猛暑を避け中断、久々の開催となった。幸いなことに晴天だったが、「暑さ寒さも彼岸まで」と思いきや、強烈な残暑に見舞われ、汗だくの9月「月いち高尾」だった。

9月「月いち高尾」報告今回は、定番の「高尾山」と相模湖南側に位置する「石老山」(702m)に2ルートで実施した。

1.シニア・コース
参加者17名: S36/遠藤、高橋、 鮫島、吉牟田、浅海、S37/矢部、S38/町井、 S39/岡沢、 三嶋、蔦谷、多田、S40/藍原、S41/相川、 S48/保屋野、S46/村上、S47/平井、関谷

(1)清滝」ケーブル駅 ⇒  ① ケーブル利用 (遠藤、高橋、吉牟田、浅海、町井、岡沢、藍原、相川、平井、関谷)⇒11:30 高尾山

(2)琵琶滝コース (矢部、三嶋、多田、保屋野、村上) ⇒ 12:00 高尾山  <三々五々>  ⇒ ①13:15ケーブル ②1号路「高尾山口駅」

厳しい残暑の影響か、新学期早々なのか、学童・学生グループはいなく、一般登山者も少なく、山頂は無風で30度を超えるムンムン・ムシムシとした熱暑の中、良子さん差しれ~現ワンダー用語「バクダン」の冷えたパイナップルが何と美味かったこと!  (文責: 関谷誠)

2.一般コース:
参加者10名: S39/堀川、S40/武鑓、S44/安田、吉田、S45/徳尾、S47/福本、S51/五十嵐、斎藤、S59/後藤、BWV/大場

JR相模湖から8:37三ケ木(ミカギ)行きバスに乗り石老山入口で下車、準備体操の後登山を開始する。登山口にあるお屋敷には顕鏡寺(ケンキョウジ)にお墓がある柳原白蓮(ヤナギハラビャクレン)についての資料が掲示されており、これを見て大正ロマンの美人の代表として「なるほど美人だねぇ~」と文学愛好者の皆様がたはご納得のご様子。第三紀層の巨岩が並ぶ山道を進み顕鏡寺に参拝、9:50本格的登山道に入るが9月中旬とは思えない気温34℃湿度90%の過酷な気象条件の中で苦戦を強いられる。時折姿を見せる相模湖の景色に癒されながら極めて蒸し暑い木立の中を頑張る。

11:30石老山頂上(702m)に到着、木陰のベンチで昼食を摂る。大場さんからいつものカヌレ、フィナンシェとホットコーヒーが 振舞われる。(とても美味しい。)12:00頂上を出発し、縦走路を大明神展望台へ向かい13:00からチャレンジコースを経て14:30プレジャーフォレスト前に下山15:23のバスでギリギリ雷雨に打たれずにバスで相模湖駅へ到着しました。  (文責: 斎藤)

3.下山後、両パーティーの有志が、都合により山行に参加出来なかったS36/中司、S47/伊川のご両名が待つ高尾駅「テング飯店」に集結、20名での和やかな残暑納涼懇親会を楽しんだ。

写真参照: https://photos.app.goo.gl/5rMCoihmLieqyMaZ6

(関谷)こちら山口は、流石、「彼岸」が過ぎた今朝、久々に、エアコンなしで爽やかに迎えました。首都圏は如何でしょうか。

なお、10月は26日にKWV三田会秋ワンがありますので中断します。次回(第95回)「月いち高尾」は11月15日(金)に開催します。詳細は追ってご連絡いたしますが、今年の紅葉は如何でしょうかね!

季節の変わり目、ご自愛ください。

 

コロナは俺にもやってきた   (34 船曳孝彦)

これまで繰り返しコロナに罹らぬよう注意を喚起してまいりましたのに、なんと私自身がコロナになってしまいました。 なんとも面目なく、居心地の悪い日々を送っています。以下ことの詳細を告白いたします。

 8月下旬まで快調で、たまたま名古屋での予定が重なり、ハードなスケジュールが予定されておりました。8月29日風邪気味で、咽頭痛あるも1日のみで、痰は少々増えましたが、咳や発熱なし。その後なんとなく不調で、9月に入り傾眠傾向強く、頭がスッキリしない日が続きました。味覚が失われることはありませんでした。コロナらしい症状がなくともコロナ後遺症のような状態(Brain Fog)がありうるだろうかと、大阪の外科医の友人(コロナに2回感染し、後遺症があった)に相談したところ、「あるかもね」ということだったので、9月6日友人と逢う前に、藤田医大の名古屋分院で検査をしてもらったところ、夫婦ともどもPCR陽性と出てしまいました。

 6日、7日は、名古屋で慶應同期生夫婦2組との食事会、研究会(私が現役時代に深く関わった)の世話人会と懇親会、研究発表会、藤田医大消化器外科同門会、さらに個人的な相談受け、などと目一杯の予定がありましたがすべてキャンセルとなり、そのまま帰宅となりました。後期高齢の友人たちにうつさずに済んだことで満足すべきでしょうか。

 私自身≪コロナ情報≫を出し始めた2020年、間質性肺炎を発症した2021年の時から『間質性肺炎と新型コロナ肺炎が合併すると、肺胞の表裏両面からのダメージとなるので、極めて危険である』ということを書いてきました。藤田医大教授からも『先生はハイリスクですから抗ウィルス剤を飲み始めましょう』とその夕刻より服薬し始めました。かなり強烈な副作用があり、下痢、食欲不振に悩まされましたが、5日間の服薬終了後には落ち着き、傾眠傾向もそのころから改善してきました。

 9月19日は慶応大学呼吸器内科の定期受診日でしたので、レントゲンや検査データがものすごく心配でした。教授からも『ラッキーでしたね』と言われましたが、レントゲンはまずまずで、間質性肺炎のマーカー(KL-6)も、炎症のマーカー(CRP)も8月受診時より悪化はしているものの、間質性肺炎に特有のいわゆる急性増悪とまで行かずに留まっていました。経過を通じ、発熱や上気道炎などのコロナらしい症状は一切なかったものの、KL-6、CRPはもう少し悪化したものが、今は改善されてこの値となっているものとも解釈されます。

 畏友黒木登志夫氏の近著【死ぬということ 医学的に、実務的に、文学的に】=中公新書=に触発されて、私の幼少期から米寿までの度重なる死への接近から、【私の健康史:死線をすり抜けて】という駄文を書きましたが、今回またもすり抜けたことになります。

 10月には再び名古屋に参りますし、11月には神戸、宇都宮へとも予定されています。現在、体力は一段と落ち、歩行も疲れが目立ちますので、これまでの社会復帰のペースは落とさざるを得ませんが、それでも前を向いて進もうと思います。やっとこのご報告も書き残す気になりました。

 たかがコロナ、されどコロナ。皆さんくれぐれもご注意を