”いただかれてください” とはどこの言葉か

昨日の読売新聞に、かの 大間のマグロ の記事が載っていた。なんと ”一番マグロ” は2億円、1キロ当たり75万円だそうだ。先日、柄にもないがベートーヴェンにまつわる話題を提供した。音楽以上にわからないのはこの手のことだ。1キロ75万円、トロ握りにしていくらにつくのかわからないが、この味は1貫200円、なんていうマグロとそんなに違うもんなんだろうか.いずれにしても縁のない話なのだが、この記事でインタビューされた漁師さんのコメントが気になった。”本当に夢みたい。ちょっと高いけど、おいしくいただいてもらえればありがたい” という、まことに素朴だが心の籠った話だし、彼の心情はしっかりと伝わった。

だが、である。このコメントに一つだけ、言いたいことがあるのだ。それは いただいてもらえれば というところだ。彼は自分が釣り上げたマグロを食べてくれる人たちに感謝の気持ちを込めて、敬語を使ったのだろうし、そのこと自体にとやかく言うつもりはもちろん、毛頭ない。気になるのは、若い人たちの間で使われている敬語の中で、一番気にかかっているのがこの ”いただく” という動詞についてである。

少し以前のことだが、ある先輩のお宅にお邪魔して夕食をごちそうになった時のこと、夫人が ”どうぞ いただかれてください” と言われたのにまことに居心地の悪い思いをしたことがある。僕は言語学者でないから、間違っているかもしれないことをあえて言えば、”いただく” は 頂く とか 戴く というように、自分より上位のひとから受ける好意や温情などに対して自分の感情を表すときに添えるべき単語なのではないだろうか。この例でいえば、先輩からごちそうになる、ということに対して、その受け手である自分が使うべきものであって、その対象となるべき人、この例でいえば先輩夫人が相手にいただけ、というのはどう見てもおかしくはないか。このマグロの話も全く同じで、食べてください、という自分の行為を修飾する用語ではない。難しい理論は知らないが、80年を超える年月やってきた日本人の感覚でいえば、”食べてくれる相手” の行動にたいして敬意を払うのならば、その人の行為を修飾して、たとえば、召し上がる、というのが正解のはずだ。、

このような誤解のもとにあるのは、昨今の料理番組なのではないか、と思うのだが、その典型が ”・・・最後にソースをかけて頂きます” という言い方である。だって自分が作ったものを食べるんだから、なぜ 食べます ではいけないのだろうか。また、ペットを扱った記事や番組で自分のペットに ”たべさせてあげます” ”えさをあげます” というのか。これは ”食べさせます” ”えさをやります” ではないんだろうか。この用法が一般化して、食べる という基本的用語の活用系がすべて いただく に置き換わってしまったのではないか?

レストランで、何か複数のオーダーをしたとする。一度に出てくれば問題ないが、当然調理の都合などでデリバリが1回で済まないのはいわば当然だ。そういう場合、ウエイトレスがやってきて、確認をする。それは結構なのだが、ほとんどの場合使うセリフが ”ご注文の品、お揃いでしょうか” というのが当然のようになっている。客が何人かいるので、その人数が全部集まりましたか、と聞くならばこの言い方は正しい。そろうのは客だから、敬語を使うのは当然である。しかし注文された品を揃えるのは自分であって、この場合は ”ご注文の品、そろいましたでしょうか” というべきなのではないか。

古典落語というのか、耳慣れた話に登場して、なにか難癖をつける横丁の旦那。おれもそろそろその年齢なんだろうか?

 

 

AI とオントロジー(41 斉藤孝)

河瀬さんのAIの回答をめぐって」に関してAIそのものについて所見です。

チッポケな存在                             相模湾の海原と茅ケ崎の海岸は一体となり雄大な光景が広がった。遥か彼方に富士山が見える。箱根と伊豆の山並みは丹沢まで続いている。親子は砂浜に並んでたたずむ。大自然の中ではチッポケな存在である。

存在論                               ふと存在から「存在論」をつぶやく。カメの専門はオントロジーという名前の「存在論」だった。オントロジーはAIと密接に関係する。

オントロジー                            何事も何物も名前が無ければ存在できない。名前は人間の知恵の産物である。SNS世界で氾濫する諸々のデータ、流行りのコトバ、発見と発明、そこには必ず名前を付ける。名前を持つことにより存在できる。意味は「ある」のか「ない」のか、意味の存在論である。

「存在、意味、定義」はオントロジー(Ontology)における研究テーマでもある。iPSという名前を与えられると、その存在はもっともらしくなる。AIという名前を与えられると、その概念や考え方など思想はなんとなく分かったような気分になる。

存在論は名前付け(ネーミング)や意味と定義に関する情報技術とされ「AIオントロジー」になった。AIはオントロジーなくして存在できない。人は、何事にも何物にもまず名前をつけて存在を確認する。AIは諸々の名前あるデータをかき集めることにより新たな知識を生成する。ただし、その知識にAIは名前を付けてくれない。

これは「概念化」ということで, AI技術では「メタデータ」と呼ぶ。簡単な例を挙げてみよう。

「ニワトリ、雀、カラス、燕」など名前が与えられた鳥類というグループで、これらは実際に飛び回っている。「実体」である。ところが「ニワトリ、雀、カラス、燕、鳥」とし「鳥」を加えてみると、鳥という実体は存在しない。鳥は「概念」であり鳥類も同じく概念、実体も無く名前だけの存在です。つまり「メタデータ」。

このような概念化はAIは非常に苦手で、実体の属性までは明らかにできても分類まで思考できない。実体の属性を分類して、つまり抽象化することによりグループを造り出す。なんとかそこまでは可能だが、「鳥や鳥類」という集合、分類カテゴリーに与える名前(メタデータ)は何とすべきか。分類は知の体系化、すなわち概念の抽象化の産物である。

AIの苦手とする分野は、「抽象化」つまり「概念化」で、かたや人間は、概念化は得意である。AIオントロジーでは「概念化」とは「メタデータ」、データのデータ」つまりデータを定義するデータ(メタ超える)のことである。例えばカメのホームページ(Website)は、HTMLやSGMLなどメタデータを使い表現(プログラミング)されているのだ。

(河瀬)カメさんが指摘するオントロジー(存在論)は人間の存在の重要性を指摘していますが、AIはその意味を介しません。そこでそれをベースに、脳外科医として両者の基本的な違いをまとめてみました。

1)デジタルとアナログ:AIはデジタル、脳はアナログ(神経細胞)とデジタル(ホルモン)両方で動く。
AIは名前や名誉を求めず喜怒哀楽もないけれど、過去のデータをを広範に利用し無限の力を発揮する。しかし抽象的な想像力を要する芸術や過去にデータがない複合分野の開発などは苦手。
 一方環境に支配される人間の脳は「どうやって生きるか?」という目的のために、ホルモンによって神経活動をアップダウン(喜怒哀楽)させ、その活力で芸術などを創造する。その一方でAIが求めない存在意義や名誉欲、支配力を求めることも多い。
2)エネルギー消費:AIは沢山電気を消費するが、脳はわずかしか使わない。
AIは半導体の連絡に大量の電気を必要とする。脳は電気を使わずシナプスで起こるわずかな電気で連絡するので、エネルギー効率は遥かに高い。しかし多くの人が一致協力しなければ、AIの能力には及ばない。
3)記憶容量と時間:AIの膨大な記憶容量とスピードは脳の比ではない。しかし人間の脳が時間をかけて作った『直感」や「創造」に至るにはまだ及ばない。またAIは過去のデータを選別消去しないので大容量のコンピュータでもいずれは容量を超過する。
 脳の記憶には時間がかかりその能力は限られているので、長年得た記憶をインパクトの多い重要な記憶と使わない不要な記憶を選別し「忘れる」「睡眠する」ことによってそれを補っている。しかし記憶容量では遥かにAIには及ばない。
4)自動修復能:古くなったコンピュータは大きな故障時の自動修復は難しく長年の維持は難しい(今後可能?)
 若い人の脳障害では可塑性があり、正常人に負けない能力を発揮することがある(パラリンピック)。健康な脳は50歳ごろまで自動修復能を維持しているが、老化、脳卒中などではその能力が落ち間違いが起こりやすくなる。
以上より皆さんは、将来世界を支配する(あるいは破滅させる?)のはAIか、人間か、どちらだと思いますか?

(編集子)“カメ” とは筆者斎藤君のKWV時代の通称である。

乱読報告ファイル (67)  旅人    (普通部OB 菅原勲)

「旅人(たびにん) 国定龍次」(著者:山田風太郎、発行:講談社、1986年)の上・下(ちくま文庫。2011年)二巻。山田と言えば忍法ものを「忍法帖」として見事に復活させたことで有名だが、小生、忍法ものを大の苦手としており、これまで一冊も読んだことがない。

一方、山田の明治ものについては、「警視庁草子」に始まって可なりのものを読んだが、なかでも「幻燈辻馬車」は、薩長閥による明治政府を判官贔屓の観点から虚仮にして描いており、大変、面白かった。これらは、実際にいた人々の中に、山田の想像、創作した架空の人物を放り込んで物語を進めて行く体裁をとっている(そう言えば、司馬遼太郎にも同じような「十一番目の志士」と言うのがあった。長州藩の高杉晋作の下に架空の刺客、天堂晋助を放り込んだもので、それが余りにも現実味を帯びていたことから、実際にいたと思い込んだ人もあったようだ。これも、大変、面白かった)。

 で、幕末もののこの「・・・龍次」も同様で、国定忠治(忠次とも。「国定忠治は鬼より怖い、にっこり笑って人を切る」と謳われた江戸時代の侠客。41歳で、磔刑)の次男、架空の人物、龍次を主人公にしたもので、ヤクザや博打打が諸国を渡り歩く、所謂、「股旅」ものとなっている。

話しは、血気に逸る龍次が、水戸藩の天狗党、八州取締出役などを、忠次譲りの長ドス(長脇差)で、忠次の戒名「遊道花楽」、「ゆうどう からくっ」を叫んで殺ってしまったために(人を殺るに当たって、龍次は必ずこの戒名を叫ぶ)、上州(群馬)は大前田の栄五郎の下にいた龍次は、これ以上、上州にいられないことから、修業の喧嘩旅に出かけることになる。

それに伴って、栄五郎の養女であり、股旅が終わったら夫婦となる約束をしていたおりんが龍次の追っかけ(お目付け)となって龍次の前後に出没し、得体の知れない薩摩は文武に優れた草堂万千代(別名、ヒゲ万)が龍次の用心棒として控える。

先ずは、上巻で、実際にいた有名な侠客たち、例えば、新免辰五郎、黒駒の勝蔵、清水の次郎長などに、一宿一飯の草鞋を脱ぐ。龍次は、竹を割ったような性格で弱い者の味方に徹するが、脳天気であるだけに、その言動には一種、喜劇の趣さえある。しかし、最後には、その喜劇が一転して悲劇に突入することになる。

つまり、下巻の後半、京都の薩摩藩邸にいたヒゲ万に呼び寄せられてからは、それまでの股旅ものから、龍次は幕末の尊王攘夷、佐幕開国、入り乱れての争いに巻き込まれて行くのだ。その相手は、坂本龍馬、西郷隆盛、岩倉具視、相良総三、近藤勇(後に、龍次は近藤に右目を潰される)などなどだ。一本来な龍次は、最後、相良総三を慕って赤報隊に入れ込んだが、岩倉具視によって赤報隊は偽官軍の汚名を着せられ、相良総三は処刑される。

最後は、おりんが薩摩のヒゲ万に鉄砲で殺され、右目を潰された龍次も、ヒゲ万に右腕を切り落とされ(それまでの稽古では、ヒゲ万に全く勝てなかった龍次が、ここで、初めて、ヒゲ万をヤッツケル)、正に満身創痍となって、おりんの愛馬におりんの死体をのせ、赤城山へ帰るところで終わっている。ハッピー・エンドでないところが、いかにも山田らしいのだが、この最後は、哀愁を帯びたもので、涙を誘う。

山田は、著書「非壮美の世界を」の中で、「彼(龍次)を主人公として描き出される屍山血河の世界は、単純無比の男だけが生み出せる(非壮美)の世界である」と語っている。小生も、そう思う反面、これは、岩倉具視を筆頭とする海千山千の輩に翻弄された一本気な若者の喜劇悲劇を物語った大人のお伽噺と言った趣が非常に強いのではないかとの思いを深くした。

紙幣の肖像にかかわる話    (普通部OB 船津於菟彦)

日本における紙幣の歴史を振り返ってみると、約20年ごとに主要な紙幣のデザインが大きく変わっています。現在使われている1万円札、5,000円札、1,000円札が発行されたのは2004年で、その20年前の1984年にも描かれる人物やデザインが変わっています。そんな役割を果たす人物の肖像も、新紙幣では刷新されます。具体的には、以下のように変更されます。

券種 新たな紙幣 現行の紙幣1万円券 渋沢栄一  福沢諭吉
5,000円券 津田梅子 樋口一葉
1,000円券 北里柴三郎 野口英世
財務省によれば、紙幣に描かれる人物は3つの条件をクリアしていることが求められます。なるべく精密な写真や絵が残っていること・品格があること・国民によく知られていることの3条件です。

新紙幣に描かれることになった渋沢栄一と津田梅子、北里柴三郎は、いずれもこれらの条件をクリアしています。財務省はさらに、3氏はある共通点を持っていると説明しています。それは「現代の日本にも通じる、普遍的な問題に取り組んだ人物」という点です。
近代日本経済の父」と呼ばれる実業家、渋沢栄一をデザインした一万円札、日本で最初の女子留学生としてアメリカで学んだ津田梅子をデザインした五千円札それと破傷風の治療法を開発した細菌学者の北里柴三郎をデザインした千円札、という具合です。

北里柴三郎は、破傷風菌の純粋培養に世界で初めて成功し、その治療法を確立するなど、明治から大正にかけて伝染病の予防などに多大な功績を上げた世界的な細菌学者です。
江戸時代の嘉永6年に(1853年)現在の熊本県小国町に生まれ、東京大学医学部の前身となる「東京医学校」で学び、卒業後は、ドイツに留学し、病原微生物学研究の第一人者「コッホ」に師事し、1889年には当時不可能とされていた破傷風菌だけを取り出して培養する「純粋培養」に世界で初めて成功しました。さらに、菌の毒素を少しずつ注射しながら体内で抗体を作ることで病気の治療や予防を可能とする「血清療法」も開発しました。この研究は、第1回ノーベル賞を獲得した大発見でした。ところが、この研究を一緒に行っていたドイツ人のベーリングだけが第 1 回ノーベル賞を受賞し、北里は受賞できませんでした。明治維新になって初めて西洋医学を学んだ日本人がそんな偉大な発見をするわけがないという偏見があったためと言われています。帰国後は、「私立北里研究所」を設立し、インフルエンザや赤痢などの血清開発を続けるとともに、黄熱病の研究で知られる野口英世や赤痢菌を発見した志賀潔など多くの弟子の指導・育成に取り組み、大正6年(1917年)には、慶応義塾大学医学科の創設にも関わりその功績の大きさから、日本における「近代医学の父」とも呼ばれています。

一万円札の肖像は、40年間変わらず「福沢諭吉」が採用されてきました。平成12年(2000年)には二千円札も登場しています。二千円札の表面は、他のお札のように肖像ではなく、同年に九州・沖縄サミットが開催されることになっていたことから、沖縄の建造物である守礼門が採用されています。40年間一万円札は福沢先生の肖像画が使われていたわけです。
北里柴三郎と福沢諭吉と野口英世はどんなつながりがあるのでしょうか。

北里はドイツから帰国後、慶應義塾大学を創設した福沢諭吉の支援で、慶応義塾大学横の三田、芝公園に土地と建物を譲り受け、伝染病研究所を設立しました。 しかし、以前から派閥にパッシングなどがあり、嫌気がさしてこの研究時をを去り、再び福沢諭吉の世話で慶応義塾幼稚舎隣りの港区白金台の土地に移りましたが、前の場所は現東京大学医科学研究所です。

北里が所長を務めていた伝染病研究所は、赤痢菌を発見した志賀潔、黄熱病の研究で知られる細菌学者の野口英世(前千円札の肖像)など、優れた人材を輩出しました。野口英世は、英語が堪能だったので研究所では、研究者というより通訳として北里柴三郎に仕えていました。

野口は、福島県会津の猪苗代町の貧しい農家に生まれ、母と二人で暮らす毎日でした。ある日、母が畑仕事に行っている間に囲炉裏に落ちて、大やけどをしてしまい、指が縮んだまま動かなくなってしまいました。
そんな子を不憫に思った母は、せめて読み書きだけでもさせたいと、毎日、囲炉裏の灰に火鉢で字を書いては消し、書いては消しを繰り返して、読み書きを覚えさせたのです。その努力の甲斐あって学校では最も優秀で、地元の人たちがお金を出し合い、固まった指を五本に切り離す手術を受けさせたことで指が動くようになりました。その後、医師になって恩返しをしようと上京して、北里柴三郎に学ぶことになりましたが医師としても優秀で、アメリカに渡り、黄熱病の研究で一躍世界的に有名になりました。その後黄熱病の研究のためアフリカのガーナに渡り研究に励みましたが、自ら黄熱病にかかり、亡くなりました。

今でも、ガーナには、野口学校などもあり、ガーナの英雄とされています。私は福島県出身なので、よく小学生のころ、 「野口英世先生のような立派な人になりなさい」と学校で教えを受けた記憶があります。

現在は、白金台の東京大学医科学研究所と聖心女子学院の丘の下に、北里大学医学部・薬学部があります。北里柴三郎は、「細菌学の父」であるばかりか、 まさに日本の近代医学の礎を築き上げた偉人なのです。またここに北里柴三郎記念館と北里・コッホ神社があります。めでたい限りですね.

 

 

新年早々のトピックー”上を向いて歩こう” とべ―トーヴエン

(中司)読売新聞元日号の特集 歌といつまでも に加山雄三のことが出ていました。彼のことは先にブログった通り、小生なんぞはおよびもつかない才能の持ち主であることは承知していますが、この記事にそれでも理解できないことがあるので、その道に詳しいというかうるさい各位にご解説をお願いしたく一筆啓上します。

彼は自分の作曲に触れて、”君といつまでも” はジャズの代表曲 On the sunny side of the street  を下敷きにした、と書いていて、さらにかの ”上を向いて歩こう” は ”ベートヴェンのピアノコンチェルト 皇帝 だからさ” と言っています。この”だからさ” というのが何を指すのか明示していませんが、彼が Sunnyside  を下敷きにしたということと同じことでしょう。
およそクラシック音痴の小生ではありますが、それでも ”皇帝” はサラリーマンなり立ての夏、大枚を払って(当時、LPレコードは高額商品の代名詞だったのですぜ)買った2番目のレコード(1枚目はやはりB氏の手になる交響曲第七番でした)だったし、エベレストのトレッキングでは山頂を眺めながら聞くつもりでカセット(当時はこれしかなかった)までもっていったくらいの愛着があります。しかしそれでもかの曲と九ちゃんとがつながっている、というに至っては全く理解できません。
(菅原)加山雄三の全くの勘違いじゃないの。もしかしたら、ハイリゲンシュタットの森を散策しながら、ベートーヴェンが「上を向いて歩こう」を歌ってた、なんてことはないか。飯田さん、どうですか。

(金藤)クラシックの曲の題名には疎い人間ですが・・・添付YouTube  1:20頃のことではないでしょうか? お聞きください。

https://youtu.be/BSMeKeZ4SJw

★ベートーヴェン ピアノ協奏曲 第5番 変ホ長調 作品73 「皇帝」
ゼルキン / バーンスタイン Beethoven : Piano Concert No.5 Es-Dur

今、すぐに思いつきませんが、似たようなフレーズが他の曲の中に出てくることは時々あります。

(菅原)ベートーヴェンのピアノ協奏曲・第五番「皇帝」、改めて2/3回聴きました。確かに、同じような旋律が出て来ているような気もします。でも、はっきり言えることは、仮にそうだったとしても、「君といつまでも」もそうだし、「上を向いて歩こう」も、独立した一個の立派な作品であることは、論をまたないでしょう。

(保屋野)明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。読売新聞、読みました。さて掲題、さすがチビ太さん(編集子注:金藤の間違いではないか?。別名人間グーグルの回答は未着)確かに1分20秒のところが「上を向いて」のメロディーに似てますね。

皇帝は何回も聴いていますが、気が付きませんでした。ネットでも「パクリ」とか「オリジナル」とか話題になってましたが、私は、二つの曲は全くの別物で、「中村八大のオリジナル曲」というコメントに賛成します。

*パクリとは、前にも書きましたが、早春賦→知床旅情やロッホ・ローモンド→五番街のマリーのような曲です。

(菅井)「皇帝」の第1楽章はいきなりピアノ独奏で始まりますが、短いピアノ序奏が終わってからオケの主題の提示部のオーボエかクラリネットの旋律が似ている?と言われているのではないでしょうか?ネット検索してみたところ、オーケストラ・アンサンブル金沢のファンページの解説では、筆者は「このメロディは,坂本九の大ヒット曲「上を向いて歩こう」の元ネタとなったメロディです。」と言い切っていますね。

(飯田)納得がいく結論が出て良かったですね。
遅ればせながら、私の使っているサックス「上を向いて歩こう」の譜面を取り出してみました。3段目の2小節目の4つの4分音符が下がっていく部分が、菅井さんが見つけ出した「皇帝」の楽譜のクラリネット(3番目)の3つの4分音符と付点8分音符+16分音符の下がりと略、似ているのが分かります。アンサンブル金
沢のようなビッグ・ネームが断定しているとのことですので加山雄三の言っていることは正しいのでしょう。作曲家の中村八大が生前に言っていたかは知りませんが。
ただ、私はこの種の詮索はあまり好きではありません。精々、保屋野さんが出していた《*パクリとは、前にも書きましたが、早春賦→知床旅情やロッホ・ローモンド→五番街のマリーのような曲です》程度までなら結構と思っています。所詮、私には有名でない演歌は殆ど同じに聞こえるし、最近の若者のミュージッ・ライブでの演奏曲も然りです。

エーガ愛好会 (298)アウトロー    (34 小泉幾多郎)

12月29日(日)BS12の18時から「アウトロー」「ジャック・リーチャー ネバ―ゴーバック」の放映があった。「アウトロー」と言うから、クリント・イーストウッド監督主演の西部劇とばかり思ったが、トム・クルーズ主演のアクション・スリラー映画だった。

英国の作家リー・チャイルドのハードボイルド小説25作の9作目 One Shot を「ユージュアル・サスペクト1995」でアカデミー脚本賞受賞のクリストファー・マッカリーが監督した。原作は、元アメリカ陸軍少佐の捜査官ジャック・リーチャーが退官後、一匹狼として難事件解決に挑む姿を描いたアクションサスペンスものだ。この「アウトロー2012」では白昼5人の無差別殺人の犯人から呼び出されたジャック・リーチャー(トム・クルーズ)が女性弁護士ヘレン・ロディン(ロザムンド・パイク)と射撃場のオーナーマーティン・キャッシュ(ロバート・デュバル)と協力しながら、巨悪な犯人を追い詰めていく。

ジャック・リーチャー  ネヴァーゴーバック2016」は、原作18作目で、「ラストサムライ」のエドワード・ズウイックが監督。ジャック・リーチャーはトム・クルーズ。冒頭から喧嘩に巻き込まれたジャックは、元同僚スーザン・ターナー少佐(コビー・スマルダーズ)がスパイ容疑で逮捕されたことを知るが、この騒動は誰かに仕込まれたものと悟り、不審な動きを見せる軍の内部を調べ始める。また彼と交流のあった女性が娘サマンサ(ダニカ・ヤロシュ)をジャックの実子と申請していることを知る。利発だがジャックに不道徳をあらわにするサマンサと有能で気丈なスーザンがロードムービーを始める。結果的には、軍の組織的な武器横流しと大量の大麻を発見し幕切れとなる。

トム・クルーズはこれまで、ミッション・インポシブル や トップガンといったシリーズもので、最近に至るまで年齢を感じさせない活躍を見せてきており、このジャック・リーチャーもアクション・スリラー満載のシリーズとして期待されたが、残念ながら、この2作で終了してしまうらしい。そもそも原作の主人公は、身長2メートル近く、体重100キロ以上と言われており、どうやら、この2作で主役交代の可能性が高いと言われている。原作を読んでいないからか、別に身長170センチのトム・クルーズでも違和感はなかったが。

(編集子)退職後に新しいチャレンジと思って始めたポケットブック読破プランの第一号はジャック・ヒギンズの “鷲は舞い降りた” だったが、リー・チャイルドという作家のことを知って読んでみたら非常に読みやすい文体で歯切れのいいストーリなので、半年ほどチャイルド一本鎗で読んだものだ。小泉さんご指摘の原作、One Shot が実はその読み始め第一号なので、大喜びで見た。

トム・クルーズに不満はないが、原作ではリーチャーには一種の諦観みたいというか、人生を投げてしまっている男のような雰囲気も感じられるので、クルーズではちょっと明るすぎる印象がした。僕の好みではチャールズ・ブロンソンとかリー・ヴァン・クリーフなんかが当てはまるんだが、ドクター小泉はいかがお考えだろうか。いずれにせよ2作で打ち切りとは知らなかった。残念のきわみ。

 

日本はどうあるべきかーAIの回答をめぐって  (42 河瀬斌)

日本が今後どうあるべきかは最も大事なことですが、今の政治は混沌として全くそのビジョンはわかりませんね。そこである友人が日本の国家として必要なビジョンをAIに託してみたところ、次の8項目の返事が返ってきました。

1)超高齢化を超える:老若が支え合う社会
2)未来を育む:子どもと家庭への投資
3)自立する日本:エネルギーと食の安全保障
4)豊かさの再生:経済成長への新モデル
5)国土を未来につなぐ:次世代インフラ開発
6)格差を超える:日本人の絆
7)国際貢献:平和の騎手としての先導
8)希望の未来:教育と技術の先端地日本
いずれも優等生的な答えで、具体的にどうすれば良いのかは各人が考えよ、ということでしょう。しかしこれからの日本の目標として意味深い項目もありますね。2024年は大荒れに荒れた自然、波乱の国際情勢と国内政治に振り回された1年でした。そこで頼りにならない政治家に代わって、あらためて「今後日本人はどうあるべきか」「この項目ではこういう考えがある!」などを新年にゆっくり考えて討論するのもいいかもしれません。
(44 安田)我々日本人にとっては当たり前のことが、海外から日本を訪れた短期滞在者には とてつもなく新鮮で魅力的と捉えられています。安全・犯罪の少ない平和な社会、清潔で綺麗な街、移り変わる四季の魅力、美味しい食事、効率的で便利な公共交通機関、コンビニ・自動販売機、日曜でも開店している店舗、驚愕するほど綺麗‣機能的で素晴らしいトイレなどなど 枚挙に暇がありません。
日常当たり前のこれらの特徴は、謂わば日本が誇る魅力あふれる無形資産でしょう。経済停滞、貧困化など負の側面の指摘がマスコミ報道で目立つ昨今の日本の現状ですが、「日本で最も驚いたこと」で指摘された、当たり前の”無形資産” の恩恵を無意識に享受して、それらが総括的に我々の生活と社会を快適かつ便利にしている事実に気付かずに過ごしているようです。安全・安心・便利・快適を担保する海外ジャーナリストが指摘する「日本の驚くべきこと」が存在しない、あるいは不充分な社会と日常生活を想像すると、ぞっとします。日本が誇るそれらの無形資産と目に見えて恩恵を受けている ”驚くべきこと” に、我々日本人は”満足感”、”幸福感”を持つべきだと思います。海外の有力旅行誌による「最も魅力的な旅行先」には日本がNo.1にランクされています。短期滞在の旅行者と住んで毎日を暮らす我々住人の捉え方は、勿論異なります。が、物理的・計数的尺度で捉えがちな”日本経済の停滞”、”成長のシナリオが描けない”、”貧困化” のハード面に偏りがちな視点を、ソフトパワーとも呼べる観点からも、生活の満足度を捉えるべきだと強く思います。

そうは言っても、貧困化を是としているわけではありません。貧困化は社会を不安定にし、安全な社会が犯罪に脅かされることになるのは否定できません。更に、経済的豊かさは実りある生活の手助けになるのは間違いありません。30年以上に亘る停滞の経済に終止符を打ちハード面ではAIが指摘するビジョンの具現化を成功裡に果たし、生活を快適で便利にする”驚くべきソフト面”の遺産、に呼応して、両輪がスムーズに機能する日本に切になってもらいたいと願わずにはおれません。

(42 斎藤孝)

時代が止まる。泊まる。何処に泊まるのか。日本時間である。日本の古き旅籠。源泉の硫黄臭い温泉がある。これがカメの座標。そこから世界を眺めてのんびりと批評したい。カメは純日本人。短足でがにまた眼も細く典型的な弥生顔。AIさま当たり前の忠告、ありがとう。

カメは日本の古き旅籠。源泉の硫黄臭い温泉に泊まっています。これらの宿題は予期したこと、カメは深刻にならず気楽に解いていきます。民主主義と平和を尊び、群衆の衆知とSNSの良きアナーキズムを育みますよ。日本人ならば喜んで挑戦できますね。安心してください。

(編集子)先回、”老舗” ということについての一考を書いたが、安田君のご指摘は僕の感慨に一致するようだ。それに便乗していえば、これも何回も繰り返して恐縮だが、マクロな観点から、”80年間、ただ一人の若者も戦争で死なせていない” という歴史的事実はもっと理解されてほしい。
そういうと必ず、それは米国の属国だからだ、日本はこれでいいのか、とかなんとかいう理屈が必ず現れる。それはその通りだが、僕らが在学中に起きた安保反対騒動とか、一連の反発を経て、今ある国の現実を見れば、その選択には何も恥じることはないのであって、そういう選択をしてきた日本の政治手法は結果から言えばひょっとすれば世界に誇っていいものなのではないか。ローマ帝国のもたらした平和や、パックスブリタニカとかいやアメリカーナかな、そういう歴史に匹敵する、そんな国が現実にある、トイレがきれいなどというレベルでなく理解されるべきなんじゃないだろうか。
もちろん、米国が日本とのありかたを考え直すであろうことは間違いないのだから、”今まで通り” で済むことではないのであって、河瀬君が提示された問題には国を挙げて対応しなければならないのは当然なのだが。
今韓国が大揺れに揺れている。他国のことだからもちろん我々には理解できない力学が働いているのは間違いないが、どうもかの国の人たちは政治家が常に人格品格に優れた聖者でなければならないと思い込んでいるのではないか。どの本だったか忘れたが、戦後米国の軍人が日本軍の幹部が将校の持つべき資格として定義したものをみて仰天したという。こんな人物がいるとすれば、それは神か聖者だ。こういう人が日本軍を率いていたのなら、なんで日本は我々にむざむざと負けてしまったのか、と皮肉ったそうだ。
今の日本政治を担っている人たちが、この日本軍人に要求されたような人格高潔なんかであるわけはないし、みっともない迷走ぶりも見飽きた感じがする。しかしそういう頼りない政治家や官僚が主導してきた我が国のあり方が、なんといわれようと若者を死なせたことのない、結果として世界に誇れる平和な社会を生み出しているのも厳然たる事実だ。
そういうことを可能にしている日本、日本人の思考回路、それを起動力にして世界に貢献する、そういうことがこれからの日本、なのではないだろうか。

イスラム国の現状   (44 安田耕太郎)

(本稿でドイツの現状について菅原さん、飯田さんの寄稿があったが、文中のトピックの一つであったイスラム教徒人口の現状について調べてみた)

ドイツには現在、1600万人、全人口の20%近い「移民の背景を持つ人々」、即ち移民とその子孫が存在している。一番多いのがトルコ人を主とするイスラム教徒である。国内経済成長に伴う労働人口不足を補う為の移民流入、富んだ国を目指す周辺国(東欧・バルカン半島・中東・アフリカなど)からの流入だ。第二次世界大戦時のアーリア民族優性思想の反省から、移民に寛容な政治・文化・社会の風潮が生まれた。メルケルはそれをさらに助長する政策を執った。今では、巨大化した移民人口とそれがもたらす深刻な問題にドイツ政府と国民が気が付いているが、もはや「覆水盆に返らず」状態になっているようだ。移民人口の多くはドイツ国籍を取得して(しつつあり)ドイツ人として生活している。郷に入れば郷に従わない彼等独自の生活をして、経済格差の問題も重なり、ドイツは大きな問題に頭を痛めている。

隣国フランスでは、今日、全人口の約9%に当たる600万弱のイスラム教徒が暮らしているとされ、モスレム人口の規模はEU加盟国の中では最大とされる。モスレム人口の8割以上が北アフリカの3国(アルジェリア・モロッコ・チュニジア)のいずれかにルーツを有している。モスレム人口と移民問題がもたらす国内問題はドイツと同様、一旦居住を認めた以上(国籍か永住権付与)、その解決は一筋縄では行かないのは、マスコミ等で報告されている通りだ。

イスラム教徒人口は現在約20億人(世界総人口の約1/4)、2030年には22億人(同26.4%)に達する見込みで中東産油富裕国の影響力と相まって、無視出来ない存在感と政治的・経済的・文化社会的影響力を増して行きそうである。

毀誉褒貶いろいろあろうが、アメリカのトランプ次期大統領が標榜する、国境を閉じ中南米からの不法移民を追い出す(祖国へ帰国させる)施策はむべなるかなとも思う。独仏の難しい移民問題の現状を教訓とすると、圧倒的に大きい出生率でスペイン語を話す中南米移民人口の急激な増加は、アメリカ国内の人種的・経済的・社会的分断を助長させかねず、難しい舵取りとなるのは必死だ。

日本も、道徳的観点や世界の趨勢だからといって多様性を多として、将来「覆水盆に返らず」と大後悔することのないように、移民問題や海外からの労働人口流入問題には独仏米の現状を冷徹に観察して、冷徹な施策を講じて貰いたい。治安面の不安、文化社会面の混乱など、単一民族国家としての伝統と文化を損なうことない慧眼を持って政府は対応することが肝要だ。

モスレム人口の国別分布などを以下に図説しておこう。

 

乱読報告ファイル (66)  白い巨塔   (普通部OB 菅原勲)

「白い巨塔」(著者:山崎豊子、発行:新潮社、1965/69年)。大変、遅まきながら文庫で「白い巨塔」を読んだ。発行が1965年だから、それからほぼ60年も経っている。

これは映画(主演:田宮二郎)にもなったし(ただし、映画は、文庫本3巻までなので、原告である患者の敗訴で終わっている)、テレビでも数回放映されたから、殆どの方が、全5巻を読了していないまでも、どんなことを描いたものであるかはご承知のことだろう。従って、ここでは話の筋は屋上屋を重ねることになるので、一切を省くことにする。

全部で5巻だが、当初は3巻で終わる予定だった。ところが、この小説の判決(原告敗訴)について、多くの読者から「小説といえども、社会的反響を考えて、作者はもっと社会的責任をもった結末にすべきであった」という声がよせられた。そこで、山崎は一年半おいて、再び「続白い巨塔」(これが、文庫本で4/5巻に当たる)の執筆に取り掛かった(最終的には原告勝訴となった)。と言う次第で全5巻となり、全部で2144頁、2000頁になんなんとする大長編となったわけだ(勿論、全51巻にも亘った佐伯泰英の「居眠り磐音」には遥かに及ばないが)。

確かに、江藤淳が「現代の正統的大衆小説」と評したように波瀾に富んだ筋書きが展開される。しかもその底に社会の矛盾や虚偽に対する批判がこめられ、社会派的な発想が強くなってゆく。小生、面白くて面白くて、ほぼ1巻1日。つまり、全5巻、5日で読了した。自慢ではないが、と言って、実は自慢しているのだが。

ここで一言。江藤が「大衆小説」と言っているが、その対極と言われる「純文学」とはっきり分けて論じているのはいささか暴論ではないか。しかも、正統的とは言え、明らかに純文学が上位にあり、その下に大衆小説がある位置づけだ。これは、ただ「小説」の一言で済む事柄ではないか。所詮、読書は娯楽(エンタテインメント)であり、先ず面白いことが必要不可欠となる。勿論、例えば、勉強のための読書は娯楽とは言えないが。

山崎の著書は、「不毛地帯」(1976/78年)を文庫本で読んだのが初めてで、今回が二作目となる。その理由は、この主人公、壱岐正のモデルが伊藤忠商事の元会長である瀬島龍三であったからだ(山崎は、そのモデルは複数人からのものだと述べているが、瀬島自身は自分だと吹聴していたらしい)。何故、瀬島に関心があったかと言うと、彼の11年間のシベリア抑留時代の言動(例えば、ソ連のスパイだったのではないかとか、天皇制打倒、日本共産党万歳を叫んでいただとか)に非常に疑わしい点があったからだ。なお、これを映画化した監督であり共産党員でもあった山本薩男は、原作で長々と描写されているシベリア抑留には偏見があるとして、興味は持たなかったと言われている。

男勝りと言うと、ポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)が、それは男女の格差を助長すると言って絡んで来る誠に厄介至極な世の中になっているが、正に山崎は男勝りそのものだ。主人公は、ご存知、医者の財前五郎、里見俊二の男二人だが、特に癌の外科医である財前は、皮肉にも、早期に癌を発見できず、癌で死んでしまうのだが、最後に、山崎は、権謀術数、極めて上昇志向の強い財前の生き方に必ずしも否定的ではないことが強く印象に残った。

老舗、という意味について

老舗、という単語はどういう場合に使うのが正しいのか。ただ古くからある、というだけではこの言葉のもつニュアンスを表すことはできない。伝統、だけでもない。この単語は本来、商売とか店とかそういう領域で使われたのだろうが、いまでは例えばスポーツの世界では古強者、というイメージで派手に優勝を稼ぎ続けるよりも、いつでも終盤戦には必ず顔を出すチーム、といった感じだろうか。何か本筋とは別の、雰囲気というのかそういうものが伝わっている、そういう店のことだ、と思う。

今日、医者へ行った帰りにちょうど昼飯の時間になったので、(なんかあるだろう)くらいの気持ちで飛び込んだ、中央線駅近くのショッピングセンタの中にまったく偶然に、父親の世代が話題にしていたことから名前を知っていて、銀座の本店にも何回か行ってみたことのある、いわゆる老舗、が分店を出していることを知り、うれしくなって飛び込んだ。久しぶりに開いたメニューに、この店の代名詞になっている一品がきちんと収まっているのにまず安心して注文した。少しばかり汗ばんでもいたので、小さなビールと一緒に久方ぶりの味を思い出した。いい昼飯だった…..それはそれでいいのだが、店をでてから、どうも物足りなさが残った。

食事の味は確かにあの頃のものなんだが、楊枝を加えて食後のコーヒーでも頼もうか、という雰囲気がわいてこなかった。なぜだか説明できないがなにかが欠けてしまった、なんかが足りないんだ。それが要はこの店がきれいすぎ、効率がよすぎたからだ、ということにあとで気が付いた。

最初の違和感は、入り口に ”発券機” なるものがあったことだった。切符を持ってむっつり立っているしかなく、これじゃメニューも今をはやりのスマホまがいのものか、と心配したが、そこは今まで通り、ウエイトレスが話を聞いてくれた。ま、いいか。だが席を立とうとして、はていくらかな、と伝票をみたが、メニューをあらわす記号と個数が書いてあるだけで、たしかにキャッシャーが必要な情報は完全なんだろうが、客が(さて、いくらになるのか)と心配することもできないのでは、どうも客を数字としてしか見ていないのではないか、という感じがしてしまう。銀座の店やその後開いた渋谷の店ももっとごたごたしていて、不潔とは言わないがもっと影があって、(食い終わったけどもう少しいてもいいよな)という気持ちが持てけど、店の効率、っていうことになると話が違ってくるんだろうな。

こんなことを考えたのも、実は朝刊に出ていた経済記事で、個人当たりGDPで日本は韓国に追い越された云々、なんて記事があって、例によって”日本では第三次産業とくに飲食産業の効率が云々、というのを読んだからだろう。     以前、日本での経験が長い米国人が ”日本じゃ、ウエイトレスが席に来て、ニコニコ話をして、こっちもうれしくなるよな。カリフォルニアじゃ、愛想なんてあるわけないおばさんがテーブルにナイフとフォークを放り出して、”Now, what do you want ?”  だからな” と嘆いたことがあった。ま、その差が ”サービス業の生産性” なんだ、なんていうことになって、またぞろ ”欧米では” とのたまいたまうインテリ出羽守がしゃしゃり出る論調をするんだろうと腹立たしかったからだ。

文化、というものは無駄に見える細かいことどもが集積し、混沌の中の醸成されたものなんだろうと思うのは引かれ者の小唄、の類だろうか。一人当たりGDPがすべての世界には無用の心配なんだろうが,ランキング1位のルクセンブルグの老舗はどんなもんだろうか。かの友人が心配していた米国も決して褒められた順番にいるわけじゃないが、これはま、レストランのせいじゃなくて、USスチールなんかが悩んでる部類の問題なんだろう。