乱読報告ファイル(40)明治波濤歌    (普通部OB 菅原勲)

「明治波濤歌」上・下(著者:山田風太郎。発行:筑摩書房、1997年)。

ちくま文庫に、「山田風太郎明治小説全集」がある。全14巻で、この「明治波濤歌」上・下は、9/10巻目に当たる。この内、小生が読んだことがあるのは、「警視庁草子」上・下、「幻燈辻馬車」上・下、「地の果ての獄」上・下の六冊だ。なかでも、最も面白かったのは、「幻燈辻馬車」だ。旧会津藩生き残りの薩長新政府への反感を通奏低音に、物語りが幻想的に語られる。山田には、他に、忍法ものもあるが、小生、それを、大変、苦手としており、一冊も読んだことはない。

 

波濤(ナミ)は運び来(キタ)り

波濤(ナミ)は運び去る

明治の歌・・・・・

と巻頭にあるように、この「明治波濤歌」上・下は、一言で言えば、「明治維新」と言う波が来て去った後の物語だ。そして、山田独特の虚実ないまぜになった、以下、六つの短編から成り立っている。

それからの咸臨丸:咸臨丸で米国へ航海した吉岡良太夫を通じて榎本武揚を語る。

風の中の蝶:南方熊楠、北村透谷を語る。

からゆき草子:樋口一葉、黒岩涙香を語る。

巴里に雪のふるごとく:川路利良、詩人ヴェルレーヌ、作家ヴィクトル・ユーゴー、画家の玉子ポール・ゴーギャン、それに、作家E.ガボリオが創作したルコック探偵を語る。こりゃー、映画で言うオールスターキャストだ。

築地精養軒:森鴎外を、ドイツから追っかけて来たエリス(エリーゼ・ワイゲルト)が語る。

横浜オッペケペ:浪士芝居の川上音次郎、その妻の貞奴、野口英世、永井荷風を語る。

虚実ないまぜ、と言っても、所詮、小説だから全てが虚であるのだが、それを感情移入させて最後まで読者に読ませるのが腕の見せ所。この点で、山田は極めて卓越しており、勘所を抑えて外さない。

一番、印象に残っているのは、樋口一葉のことを述べている「からゆき草子」だ。樋口は24歳で逝去した。従って、薄幸悲劇の小説家と言う印象が甚だ強いが、それに反するように、相場師に金を貸せと依頼する。それは、母親が奉公した家が零落し、娘を吉原に売り渡すまでになったため、その娘を救うために、原稿の前借を黒岩に泣きつくものの拒絶され、見るに見かねての樋口の行動だった。つまり、山田は、樋口の従来の印象を大きく覆そうとした。

樋口については、確か、「たけくらべ」を読んだ記憶がある。しかし、文章が文語体であること、それに句読点がないことなど、小生、歯が立たず、2/3頁、頑張ったものの早々に途中で棄権してしまった。それに懲りて、その翻訳本も試してみたが、これは、まるきり樋口の文章のリズムが喪われ、全くの別物になっていることから、これすらも途中棄権。つまり、樋口の本は一冊も読んでいない。樋口の作家生活は僅か14ヵ月で終わってしまうのだが、その間、「大つごもり」、「たけくらべ」、「にごりえ」など、森鴎外、幸田露伴などの文豪からも絶賛され、高い評価を受ける作品を発表し、奇跡の14ヵ月とまで呼ばれている。小生、5000円札が、樋口から津田梅子に変わったのが残念でならない。

次いで、「巴里に雪のふるごとく」。マルセイユから巴里までの列車の途中、後に警視総監となった川路が大便を催したくなるものの、列車の便所が満員のため、致し方なく新聞紙を便器替わりにし、それを、走っている窓から放り投げて捨てる。ところが、巴里につくや、糞を包んだ新聞が発見され、それが日本語であることから、犯人は日本人ではないかとの嫌疑を掛けられる。新聞紙が日本語であることころがミソなのだが、山田にはこんなオアソビモある。作家がふざけているのだから、臭いのを覚悟で、それを満喫しよう。

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山田 風太郎は本名は山田 誠也。戦後日本を代表する娯楽小説家の一人。東京医科大学卒業、医学士号取得。 『南総里見八犬伝』や『水滸伝』をはじめとした古典伝奇文学に造詣が深く、それらを咀嚼・再構成して独自の視点を加えた伝奇小説、推理小説、時代小説の3分野で名を馳せる。
受賞歴: 菊池寛賞
デビュー作: 『達磨峠の事件』
主な受賞歴: 探偵作家クラブ賞(1949年); 菊池寛賞(1997年); 日本ミステリー文学大賞(2000年)

 

エーガ愛好会 (322)シヤイアン    (34 小泉幾多郎)

1878年アメリカ政府の政策により、故郷のワイオミング準州イエローストーンから、オクラホマ準州のインディアン居留地に強制移住させられたシャイアン族は、病気と飢餓のために、仲間の三分の二が死んで行った現状を打破すべく、内務省先住民局を訪れ、現状を訴えようとしたが、政府委員会の役員は現れず、その理由が、今夜の将校の舞踏会に差し支えるという、シャイアンを小馬鹿にした態度が映画の始まり。痺れをきらしたトール・ツリー(ビクター・ジョリー)、リトル・ウルフ(リカルド・モンタルバン)、ダル・ナイフ(ギルバート。ローランド)の3酋長は相談の上、生き残った人々を引き連れ、故郷のイエロー・ストーンに帰ることを決定する。

それを知った政府軍は、すぐさま討伐軍を派遣する。討伐軍の将校アーチャー大尉(リチャード・ウイドマーク)は、シャイアン族に同情的ではあったが、一行の中に婚約者のデボラ(キャロル・ベーカー)がいることを知り、任務のため追討しなければならなかった。やがて両者の間で過激な戦いが始まる。特に、スパニッシュ・ウーマン(ドロレス・デル・リオ)といわれる、その息子レッド・シャツ(サル・ミネオ)が好戦的で、白人側も8人の戦死者を数えた。このニュースも8人から16人、24人とエスカレートし人々の憎悪を煽ったのだった。

物語は、前半からシャイアン族を主体に、それを追う騎兵隊の展開がすすむが、背景となる景観は、ウイリアム・クロ―シャー撮影監督の下、フォード映画では、お馴染みのモニュメント・バレーが今回も舞台に選ばれ、視覚的に非常に美しき風景と共に、行進する人々のシルエットにも詩情を感じる。飢餓と不正義に耐えかねて、故郷を目指しして旅をする民族の尊厳と自由を求める闘いは、アメリカ社会の葛藤そのものだった。アカデミー色彩撮影賞にノミネートされている。この景観に歴史ものの音楽で成功を収めているアレックス・ノースの音楽が劇的にマッチしている。

シャイアンが来るという噂で、ダッジシティは恐慌状態になり、市民軍が結成され、ワイアット・アープ(ジェームス・スチュアート)が隊長に、ドク・ホリディ(アーサー・ケネディ)、のほか、ジェフ・ブレア―(ジョン・キャラダイン)も加わる。その3人がポーカーを始めた頃、インディアンを殺し、頭皮を切り取った4人組と酒場のマダムに収まるミス・プランジェナット(エリザベス・アレン)が一騒動起こす。この騒動が、特にこのストーリーに直接関係するとは思えない。ワイアット・アープ他二人と酒場でのつまらないエピソードと酒場マダムとの野外での疾走シーンとも、独立した話のようで、こんな話は、B級映画と同じく何と下らない映画を作ってきたことか?と反省すると辻褄が合うようだ。このエピソードの損害は、絹のドレス1枚。

冬が近づき、シャイアンは大草原を進み、鉄道の突破に成功することもあったが、寒さと雪に悩まされ、フォートロビンソンのウエッセルズ大尉(カール・マルデン)に降伏したものの、居留地に戻せという命令が届き、居留地へ連れ戻されるより、死んだほうがいいと思ったシャイアンは大部分が倒れながらも遁走し洞窟に隠れた。其処へ騎兵隊が現れ、大砲を向け、もはやと思われたが、事前にアーチャー大尉が、打ち合わせしたカール・シュルツ内務大臣(エドワード・G・ロビンソン)と共に、リトル・ウルフ(リカルド・モンタルバン)とダル・ナイフ(ギルバート・ローランド)と会い、「シャイアンが父祖の地に戻りたいのは、尤もであり、真相を知れば、白人も理解する」と説いた。二人の酋長も同意した。その後シャイアン内部では、リトル・ウルフとレッド・シャツが撃ち合い、レッド・シャツは息絶えた。自分の種族を殺したリトル・ウルフは一人、放浪の旅に出た。デボラとアーチャーは、シャイアン達が嬉々として緑の谷へ向かうのを見守った。

フォード映画の常連ベン・ジョンソンとハリー・ケリーJr.の両名、キャストに
載っていないが、馬上で出演とのことで、探したら、2回出てきた。開幕40分後、二人偵察を指示され、ベンの馬が撃たれるも、ハリーの馬に同乗し帰還。更に開幕1時間40分後、二人は川を渡り、ハリーがデボラ記載の日記帳らしきものを見付け、拾い上げアーチャー大尉に手渡す。「黄色いリボン」から10年以上経っているのに、二人共動きが速い。それにしても、今回のキャスト、これまでのフォード作品に出ていないような俳優たちを選択したものだ。主役のリチャード・ウイドマークは、「馬上の二人1961」での相性の良さからも、ピッタリの適役で、部下のジョン・ウエインの息子パット・ウエイン扮するスコット少尉に、シャイアンの扱いにつき、勇敢と蛮勇であることは違うのだと念を押すように、インディアンに深い同情を寄せながらも、非情な行動をとらねばならぬ難しい役柄に挑んでいる。相手役のキャロル・ベーカーもインディアンと苦労を共にする若い女教師という役どころは、気丈な娘として、風雪の中を生き抜く女性像を演じてきた女優として適役だった。白人側の要職者、エドワード・G・ロビンソン、カール・マルデン。アーサー・ケネディやシャイアン側の主役の面々ビクター・ジョリー、リカルド・モンタルバン、ギルバート・ローランドにサル・ミネオ。シャイアンの女性ドロレス・リオ。ダッジシティでスカートを剥ぎ取られながら駆けずり回るエリザベス・アレン等々フォード映画初登場、遅まきながらもフォード一家の誕生ということにもなる。

以上概要だが、ジョン・フォード最後の西部劇、途中にお遊びも入れたところもあるが、円熟の極致に達した集大成と言っても良いのではなかろうか。

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シャイアン(Cheyenne)とは、アメリカ合衆国インディアン部族の一つ。ワイオミング州の州都シャイアンはシャイアン族に因んでいる。

ワイオミング周辺を領域とした「北シャイアン族」と、オクラホマ周辺を領域とした「南シャイアン族」の二大支族に分かれる。現在も同盟関係にあるダコタ・スー族が彼等を「わからぬ言葉を使う人」と呼んだのが訛ってシャイアンと呼ばれるようになった。

シャイアン族とスー族はブラックヒルズなどをめぐり敵対関係にあったが、後に北方シャイアンはダコタ・スー族と同盟関係になり、リトルビッグホーンの戦いではダコタ・ラコタのスー族と、同じく同盟関係にあったアラパホー族の連合軍が、カスター中佐率いる第七騎兵隊を壊滅させた。

25年春 キチ会  (KWVS41年卒同期会)開催      (41 斉藤孝)

2025年の「春のキチ会」は、4月24日(木)に三田ファカルティクラブで開催された。 ビュッフェ形式で飲み放題であるという。

「食い放題と飲み放題」は大好きなフレーズ。 スピーチ中でもテーブルに並べられた御馳走の配置を探る。

出席者は翠川、下井、見谷、斉藤、相川、上野、今井、浅輪昭子、横山、 柏木、安藤、平木、佐川久義、久米吉之助、行子、高木、16名である。

ふと出会い、そして仲良く過ごした山旅。これこそが一生の宝物、大切にしていこう。 あれから年月日は流れ82歳の老人になった。背筋を伸ばし、残る余生は堂々と進もう。

 

 

渡辺貞夫を聴きに行ってきました       (44 安田耕太郎)

92歳のサックス奏者・渡辺貞夫のライヴ🎷を聴きに馴染みの岩手県一ノ関市の「ベイシー」(Basie)に行った。立錐の余地は10cmも無いほどの超満員。来た人はひょっとして貞夫さんの最後の生演奏になるかも知れないと思った可能性が高い。一年前にはそれが最後になる、と本人が言っていたからだ。

(飯田)Basieと言う、言わば安田さんのホーム・グラウンドで、92歳のナベサダ(渡辺貞夫)のサックス演奏を2日連続で聴かれ、その合間に満開の弘前の桜を満喫とは、真に羨ましい限りの旅でしたね。貴重な又綺麗な写真を楽しませて貰いました。ところで、クラリネットでは、96歳の北村英治(慶應義塾文学部中退)が、同じく現役で頑張っていますね。北村は神戸が好きで毎年のように演奏にきます。

 

渡辺 貞夫わたなべ さだお英語Sadao Watanabe1933年昭和8年〉2月1日 – )は、日本ジャズサクソフォーン奏者ジャズミュージシャン作曲家栃木県宇都宮市出身。「ナベサダ」の愛称でサックス奏者フルート奏者としてジャズ、フュージョンの分野で活動を展開。ちなみに、妹はジャズシンガーのチコ本田、弟はジャズドラマーの渡辺文男、娘に絵本作家の渡辺眞子がいる。

ローマ教皇葬儀のパリからエーガの話    (パリ在住 平井愛子)

今、私はPape Francoisの葬儀の中継を見ているというか、インタ-ネットを接続したままにしているというところです。バチカンの公式セレモ二-の言語はフランス語なのですね。各国の首脳はフランス語の国名に従って、アルファベット順に並んでいます。世紀のセレモ二-は続きますが、先日、映画「コンクラ-べ」を見たことについて書かせていただきます。
この映画はパリで封切られて2ヶ月ぐらいたつのですが、見たいと思いながら、多忙に任せて見に行けなかったのですが、Pape Francoisが亡くなって、私もこの方には尊敬を寄せておりましたので、サンミッシェル近くの、Saint Andre des Arts通りの同じ名前の映画館にいきました。満員でした。皆、Papeが亡くなった機会に見なくちゃ、とやって来たようです。
主題が重たいのでそういうイメ-ジを持って行きましたが、何とバチカンを真剣におちょくっているというか、それは“真剣な辛口コメディ”なのです。
Papeが亡くなる所から映画は始まります。動作、会話などに、クスっとしてしまう皮肉が散りばめられて、またバチカンがぶつかっている様々な問題やテーマが浮き彫りにされています。
3人の有力な次の法王に目されているカルディナ-ルがいるのですが、投票の度に、女性への性暴力、汚職、未成年への性ハラスメント、などが明らかになり、失脚していきます。同時にローマで大変なイスラミストのテロがあり、かなりの人が犠牲になるという事件が起き、これはコンクラーベ中のカルディナ-ルたちに大きな影響を与え、ムスリムにトレランスも持ち過ぎていた、とかイスラムへの強い嫌悪を表明するカルディナ-ルも出てくる始末。そこへPapeが亡くなる寸前に任命したアフガニスタンのカブ-ルのカルディナ-レが、本来の神の心とキリストの精神について語るのです。これは、多くのカルディナ-ルに長年の内に、初心を失い、神に仕えるはずだった自分の生き方がすっかり政治家のそれになっていたことに気付きます。この勢いで、なんとこのカブ-ルのカルディナ-ルがPapeに選ばれてしまうのです。でもこの人にも重大な問題があります。これは皆さま、ご自分でご覧くださいませ。
セレモ二-は粛々と続いております。
(ウイキペディア抜粋)
コンクラーベとは、カトリック教会において新しい教皇を選ぶための選挙のことです。ラテン語で「鍵がかかった」を意味し、選挙期間中、枢機卿たちが外部との接触を絶たれた場所で投票を行います。結果は煙の色で知らされ、白い煙が上がれば選出、黒い煙なら再投票を意味します。

教皇選挙』(きょうこうせんきょ、原題:Conclave)は、2024年制作のアメリカ合衆国イギリスミステリー映画

ローマ教皇死去に伴って行われることとなった教皇選出選挙(コンクラーヴェ)の舞台裏と内幕に迫ったミステリ[4]。原作はロバート・ハリスの小説『教皇選挙 (小説)英語版』(未邦訳)で、原作から登場人物の設定に変更が加えられている。第97回アカデミー賞において作品賞含む8部門にノミネートされ、ピーター・ストローハンが脚色賞を受賞している[5]。第82回ゴールデングローブ賞においても脚本賞を受賞している[6]。また、英国アカデミー賞では作品賞英国作品賞を、全米映画俳優組合賞では最高賞となるキャスト賞を受賞した。

エーガ愛好会 (321)消えゆくミュージカル・コメディ (大学クラスメート 飯田武昭)

時々、往年の映画のシーンを思い出し、気になって何本かの作品を見直すことがある。今月にはパリのカンカン踊りが何本かの映画シーンで楽しめたことを思い出し、手元のビデオを再々見した。製作年代の古い順番で紹介する。

・「赤い風車」(1952年、アメリカ・イギリス合作):ムーラン・ルージュ(赤い風車)の踊り子との関りで画家のロートレックの半生を描いた作品。 監督:ジョン・ヒューストン 主演:ホセ・ファーラー、コレット・マルシャン、ザ・ザ・ガポール

・「フレンチ・カンカン」(1954年、フランス):経営難のムーラン・ルージュを再興するために、創立者が起死回生のフレンチ・カンカン踊りを興業の目玉にするまでのお話。 監督:ジャン・ルノワール 主演:ジャン・ギャバン、フランソワーズ・アルヌール、マリア・フェリックス、(実名でエディット・ピアフ、パターシュなど)

・「カンカン」(1960年、アメリカ):ムーラン・ルージュでのカンカン踊りが公序良俗に違反すると、度々の取り締まりに合いながら、心優しい検事・判事・裁判官の裁量で生き延びるお話。 監督:ウオルター・ラング 作曲:コール・ポーター 音楽・指揮ネルソン・リトル  主演:シャーリー・マクレーン、フランク・シナトラ、モーリス・シェヴァリエ、ルイ・ジュールダン、ジュリエット・プラウズ

いずれも現代では殆どテレビ画面では観られないカンカン踊りのシーンが素晴らしく華やかに展開するが、残念なことに「赤い風車」以外の2作品はBSシネマでは観た記憶がない。私の手元のビデオはアナログ放送時代のNHK衛星映画劇場とCM入りの民放時代のVHS録画をDVD変換したビデオである。もう少し、これらの作品の私なりの好きなところを紹介する。

・「赤い風車」は身障者の画家ロートレックを演じるホセ・ファーラーの名演技と当時のムーラン・ルージュとその界隈の風俗が良く描かれていて、物語性が印象深く残る。

・「フレンチ・カンカン」は監督がジャン・ルノワール(1894~1979)で、撮影がクロード・ルノワールと、フランス印象派画家のピエール=オーギュスト・ルノワール(1841~1919)の次男(監督)とその甥(監督の兄の息子)が指揮を執っているので、映像の各シーンが額縁に入っているような安定感がある。更に主演の二人、先ずジャン・ギャバンは「現金に手を出すな」「われら巴里っ子」と同じ年の製作で、沢山の踊り子たちを束ねては、自己の赴く方向へ引っ張っていく精力的な興行主の役柄を十分上手く出している。フランソワーズ・アルヌールは「過去を持つ愛情」や「ヘッドライト」「大運河」に先立って、略、日本でのデビュー作品であるが、初々しく可愛らしい踊り子を生き生きと演じている。 それとシャンソン界の大御所エディット・ピアフ、パターシュ、アンドレ・クラボーなどがチョイ生出演している。

・「カンカン」は踊り子を演じるシャーリー・マクレーンの絶妙な表情と演技力とダンスの才能がフルに出た作品で、後の傑作「愛と喝采の日々」に勝るとも劣らない演技が楽しめ、耳に心地良いコール・ポーター作曲のメロディが時々取り入れられている。

ところで、感覚的なことで言えば、カンカン踊りは1840~60年代に既にフランスで流行った時代があって、アメリカのブロードウエイのタップダンス全盛時代の1930~50年代よりは古く、私はN.Y.に駐在した1980年代には未だRadio-City Music Hallでのロケット・ダンス・レビューが観覧できた。 日本ではその後に宝塚歌劇などのレビューで、この流れは続いているように思える。

一般にミュージカルという映画の分野では、名作「雨に唄えば」「マイ・フェア・レディ」「ウエストサイド物語」「巴里のアメリカ人」「メリー・ポピンズ」「オペラ座の怪人」やリチャード・ロジャース(作曲)&オスカー・ハマースタイン二世(作詞)コンビの「王様と私」「南太平洋」「回転木馬」「オクラホマ」「サウンド・オブ・ミュージック」などが、先ず記憶に残るが、さほどの大作(原作・脚本・製作者・俳優等にお金を掛ける)ではない佳作とも思える≪ミュージカル・コメディ≫という分野が1940~60年代に多く製作されていた。ところが今日では、この≪ミュージカル・コメディ≫という分野の映画を目にする機会が殆ど無くなってしまったことを、私は強く憂いでいる一人だ。

ミュージカル・コメディとは、勝手な解釈で言えば、ストーリー展開は簡単な物が多く、作品によっては非現実的なわざとらしささえ見られる物もあり、日本人には基本的に馴染まない分野の作品が多い。ストーリー展開は出演する俳優の会話と演技でコミカルに進めるもので、合間々々に歌やダンスを挟む物である。 日本人が馴染めないのは、このストーリー展開の作為性とその会話に馴染めないかららしい。

「フレンチ・カンカン」「カンカン」などは、このミュージカル・コメディ分野の作品であり、他にもドリス・デイ主演の「二人でお茶を」「パジャマゲーム」「夜を楽しく」「先生のお気に入り」「カラミティ・ジェーン」、ビング・クロスビー主演の「皇帝円舞曲」「上流社会」、ベティ・ハットン主演の「アニーよ、銃を取れ」、ジーン・ケリー主演の「踊る大紐育」「いつも上天気」「魅惑の巴里」「夜は夜もすがら」、フランク・シナトラ主演の「夜の豹」、レスリー・キャロン主演の「恋の手ほどき」「リリー」などがあった。

それ以前には至芸のタップダンサー、フレッド・アステア主演の「コンチネンタル」「トップハット」「艦隊を追って」「有頂天時代(スイングタイム)」「躍らん哉」「気儘時代」「カッスル夫妻」「セコンド・コーラス」「踊る結婚式」「スイング・ホテル」青空に踊る」「恋愛準決勝戦」「バンドワゴン」「足ながおじさん」など多数の作品があった。

テレビ放送でも20世紀末迄は、これらの作品もCMだらけの民放でも時々放送されていたが、2010年以降は全くと言って良いほどテレビでの放送は無かった。考えてみると、現在、社会で活動している人たちの年齢から考えると、これらの≪ミュージカル・コメディ≫を観たことがない世代に入ってしまったので、今後ともにこれらの佳作は世の中には出てこないのみならず、消滅の危機に晒されていると思うと、大変に残念で寂しく思う次第。

 

”高尾の森“ の活動記録   (高校時代友人 山川陽一)

私は中学、高校、大学を通じ山岳部に属し、社会人になってからも職域の山岳部に籍を置いて山登りを続けてきました。そんな中で、年々変わりゆく山岳環境の変化を目の当たりにして、会社生活を終えたら山岳環境問題に本気で取り組みたいと思っていました。そんな私が日本山岳会の自然保護委員会で最初に取り組んだのが森づくり活動でした。今回はその時の経験について話したいと思います.

東京の奥座敷高尾山から小仏城山、景信山に続く南高尾山稜と関場峠を挟んで相対する北高尾山稜の間を小下沢(こげさわ)が流れており、この一帯はスギ、ヒノキの植林地が広がっています。

自然保護委員のひとりに林野庁関係者がいて、小下沢上流域右岸斜面170ヘクタールを対象に日本山岳会で森林ボランティア活動をやらないかという話が持ち込まれていました。この広大な場所に広葉樹を植え、針広混交の森にするという野心的なプロジェクトでした。当初3年間は国土緑化推進機構からの助成金の支給もあります。

私が関わったのは立ち上げからの5年間(4,5年目は自然保護委員長兼務)だけでしたが、以下は、その間、事務局長として私が考え実行してきた主要事項です.

  • 森づくりは100年のしごと

誰もが最初に考えるのは助成金や寄付金をフル活用して運営することだと思いますが、私はそうは思いませんでした。いっときのイベントではなく森づくりは100年のしごとです。確かに、国土緑化推進機構からは立上げ資金として3年にわたり助成金が出ますが、3年を過ぎた後どうするのか、この活動の意義を訴えれば相当額の寄付金も集まると思いますが、毎年継続的に寄付を集めるのは至難の技です。私が考えたのは助成金や寄付金に頼らないで継続的に資金が集まるしくみを作ること、ボランティア活動をしたい人達が自主的に集まるしくみを確立することでした。それが出来なければ森づくりはできないと思いました。

  • まずはネーミング

当初「小下沢国有林森づくりの会」という案が有力でしたが「高尾の森づくりの会」にしたのは、多くの人達に親しみやすい名称にしたかったからです。

  • ホームページをつくる

四半世紀前のことです。今でこそホームページを持たない会社や団体を探す方が難しい時代になりましたが、当時はホームページを持つボランティア団体はほとんどなかったと思います。パソコンをロクに操れない人間がよくぞやったと思うのですが、IBMのホームページビルダーを購入し、マニュアル片手にパソコン教室に通って、ホームページを自作しました。事務局として広報、連絡の近代兵器が欲しかったからです。

  • 法人会員制度の制定

国土緑化推進機構からの助成が終わった後どうやって運営していけばいいのでしょうか。活動に参加してくれる個人の会員から大きな会費をいただくわけにはいきません。

時代は大きく変わりました。環境が企業評価の尺度として大きなウエイトを占めるようになったのです。社員のボランティア活動のフィールドを提供することを条件に法人会員を募ったところ十数社の大企業の賛同を得ることができたのです。企業の場合、寄付金だと非課税限度額を超えると課税対象になってしまいますが、一口幾らの年会費なら経費扱いです。加えて、社員が環境ボランティア活動に参加することで企業評価が上がります。当会にとっては、継続的に収入が得られるだけでなく、作業参加者増にもつながります。

両者両得Win-Winの制度でした。

  • 京王電鉄との関係をつくる

年間250万人が訪れる高尾山は京王電鉄にとって企業基盤ともいえる宝の山です。その一角で展開する森づくりの活動に関わることは京王にとって大きな意味があります。当会にとっても京王がバックについてくれればこの上ない力になります。何としても相思相愛の関係を作りたいと思いました。

幸い、当時京王電鉄の副社長だった加藤奐さん(そのあと社長を経て会長)が私の慶応中等部時代からの山仲間だった関係もあり、特別支援団体として迎えることができたのは会の基盤づくりに大きく寄与できたと思います。資金的援助のほか植樹祭の苗木の提供、子供キャンプの共催など大きな力になってもらってきました。

  • 助成金の継続

国土緑化推進機構からの助成金は3年で打ち切りになります。3年を超えても助成が受けられる方法はないだろうか。詳細は割愛しますが、国土緑化推進機構と京王電鉄に働きかけ、3者ともメリットがある方法で助成が継続できる仕組みを提案し合意を得ることができました。

今から20年以上前の話です。今日現在どうなっているかわかりませんが、森づくりは100年のしごと、必ずや未来につながる形で進化し続けていると信じています。

(編集子)山川陽一とは慶応高校の同期生。高校で同じクラスにいた山岳部の友人を通じて知り合い、その後、偶然就職先で一緒になり、それ以来の長い付き合いである。一時は小生が移籍先で予想もしなかったがコンピュータの営業担当になり、なんと彼が得意先になる、ということもあり、そのうえ、住まいがなんと同じ町内という濃密な付き合いを重ねてきた。

名門慶応山岳部で山歴を磨き、卒業後は日本山岳会で中核的な存在であった。本稿にあるように自然環境保護に積極的に向かい合い、環境破壊の実情を確かめたいとヒマラヤ地域まで出かけたし、本稿でも以前に紹介したが太陽光発電の実践に挑戦し、現在はそれと休閑地を利用した果実栽培とを組み合わせた施設として最近知られるようになった ”さがみこファーム” を運営している。この手記にあるように、いわば徒手空拳、自力だけを頼りに見事に夢を育てた、快男児である。彼の主張に共感した編集子KWVでの親友、鮫島弘吉郎はこの通称高尾の会のキーメンバーであり、彼の紹介もあって、文中にある小下沢の同会の小屋はKWVOB会のプランでもたびたび使わせてもらってきたし、この一帯は我々にとってなじみの深いゲビートである。我々が入部したての初夏、新人訓練としてこの沢に幕営し、景信を超えて与瀬(現在の相模湖)駅まであるいたこともあったし、KWVOB会の恒例である年一度の大ワンデルングで担当学年となった時はここをベースにしたこともある。激しいことはできなくなったが、今後も散歩がてらにふらりと訪れることはまだまだ続きそうだ。

 

コメの話 (普通部OB 船津於菟彦)

姥捨山の棚田

米の販売価格が高騰して色々問題となっています。
以前信州に居て、田植え時とか稲刈り・麦刈り・イナゴ取りなどに小学生がかり出されたことを思い出す。どれも面白かったし畦道でお煎餅などのおやつを戴けるのが楽しみでしたね。
苗代を張り、横一列に並び泥の水田に足を入れて投げ込まれた苗を縄の印に従い差し込んでいく。今のように自動化していない。イナゴ取りも紙の袋を手に持ち一列に並び捕っていく。そして佃煮にして食べる。脱穀なども足踏みだった。多分そんな田畑も今は無いと思います。

テレビ「ぽつんと一軒」を観て居てもかっては水田だった所が総て廃棄されているか、他の野菜などなっていますね。米のニッポンと盛んに言われますが、今や米作で総て賄うのは困難に成って来ているのでは無いかと思う。

写真撮影に行った日本の原風景・棚田も観光用で実際にはボランティアとか学校の生徒などによって稲を植えている。そのままの畑もありますね。

野沢温泉郷から飯山市瑞穂地区の三部の棚田                              

統計が残っている最も古い 1883(明治16)年の水稲の収穫量は 457万トンで、作付面積は 257万ha、単収(10a当たり収量)は 178kgでした。
この収穫量が、米騒動が発生した1918(大正7)年には 802万トンと 1.8倍(作付面積は 1.1倍、単収は 1.5倍)へと増加、さらに戦前において最も収穫量が多かった1933(昭和8)年には 1,044万トンと 2.3倍(同 1.2倍、1.9倍)へと増加し、初めて1千万トンの大台に乗りました。

もっとも米は自給できていたわけではなく、朝鮮や台湾からの輸入(移入)米に依存していましたが、これも戦況の悪化に伴い、円滑な輸送ができなくなってきました。ところが、右肩上がりで増加してきた水稲の収穫量は、1933(昭和8)年をピークに停滞するようになり、終戦の1945(昭和20)年には 582万トンにまで落ち込みます。これは、農業を担っていた男性の多くが軍に徴用されて戦地に送られ、肥料等の生産資材も不足を来 していたためです。
このように、太平洋戦争は日本の米生産(生産力、生産基盤)にも大きな影響を及ぼしたのです。

大戦後、日本全国で食料をはじめあらゆる物資が不足して、国民は激しい困窮状態に陥りました。餓死者が月に数十人というまちもありました。
そこに、アメリカから『ララ』(Licensed Agencies for Relief in Asia)の名前で、食料・医薬品・衣料・学用品などの大量の救援物資が日本に贈られました。これは宗教団体や慈善団体などアメリカ人の善意によって集められた支援物資だと言われてきました。こうした支援物資を受け取ったのは、約1400万人。当時の日本の総人口の約15%、つまり6人に1人がこの支援物資を受け取った計算になります。不味かった「脱脂粉乳」を思い出します。
実際は『敵性国民』として強制収容されていた日本人・日系人たちが、祖国への支援物資を送る為に奔走して『ララ物資』は実現したのだそうです。しかし、当時のGHQは、この事実を日本人には隠していたのです。

そして米国は余剰の小麦と脱脂粉乳の振り向け先に食糧難の日本に向けた。学校給食がパンと脱脂粉乳になった、これが日本人の食生活を大きく変えた原点でもあります。確かに食糧不足で栄養失調などになった日本人これで助かった面も在るが、米国はしっりお金は取っています。

ちなみに戦後に入ると米の収穫量は大幅に増大し、1967(昭和42)年には 1,426万トンを記録しました。 しかし、次第に生産過剰基調が明らかとなってきたため、70年代からは生産調整(減反)が実施されるようになり、収穫量は減少していきます。

減反政策とは:
水稲の作付け面積は、1969年(昭和44年)の 317万ヘクタールをピークに、1975年(昭和50年)には 272万ヘクタール、1985年(昭和60年)には 232万ヘクタールに減少、生産量も 1967年(昭和42年)の 1426万トンをピークに、1975年(昭和50年)には 1309万トン、1985年(昭和60年)には 1161万トンに減少します。
生産調整が強化され続ける一方で、転作奨励金に向けられる予算額は減少の一途をたどり、「転作奨励」という手法の限界感から、休耕田や耕作放棄の問題が顕在化し始めた。こうして弥生時代(縄文時代晩期とも)以来、長い時間をかけて開発され、維持されてきた水田の景観は、荒れるに任されるようになったのです。減反政策の弊害として、日本の原風景が失われること、自然環境が変化し生態系に影響を与えること、伝統ある農業文化が失われます。

1970年から2017年まで、およそ50年近くにわたり実施されたこの「減反政策」が、2018年度(平成30年)に廃止されました。
米の生産量抑制のために実施され、農業関係者にとって当たり前の存在となっていた減反政策。廃止から年数が経過していく中で、地域ごとに少しずつ変化も見られましたが、その後も米の生産量自体は増えることはなく、歯止めがかからない農業生産者の人口減少も続いてきました。
それに輪をかけるように、2024年(令和6年)の急激な米不足と、それに端を発する米価格の高騰などを巻き起こした「令和の米騒動」により、長年の減反政策がすべての元凶だったとする声も大きくなっています。

今後、注目される可能性があるのが地域ブランド米です。全国でブランド米が次々と登場しており、減反政策が廃止されたことによってブランド米の競争が激しくなることが予想される。地域一体となって地域ブランド米をつくれば、個人の品質が保たれ、ブランド米として知名度が定着し、高単価での販売ができるようになり地域がうるおい、後継者不足の解消の一助となるでしょう。
儲かる米作。後継者の育成。米の作る畑の統合拡大化など進め、自給できる米政策が必要だと思います。

このままトランプに押し切られ、米の輸入拡大はまた戦後の「麦処理」政策になってしまう。飛行機で籾を捲き、広大な敷地をコンバインで作る米とは生産性が違うのですが、一時山形のサクランボウの自由化でもめたことがあったけれど、日本の味には勝てず売れなかった。自動車然り。中国は凄い。日本の軽トラックの需要を見込んで、日本仕様のEVを日本向けに開発して売り込んでくるでしょう。
アメリカと日本では交通事情も違うし、一部の好き者以外は今の米国車に魅力を持つだろうか。左ハンドルのガソリンを食う自動車。売ってみなはれ。

稲作はニッポンの原風景。失くしてなるものか!

エーガ愛好会 (320) 座頭市と用心棒    (普通部OB 菅原勲)

昼飯を食い終わって、テレビを何気なしに見始めたのだが、寡聞にして、座頭市シリーズで、座頭市の勝新太郎と「用心棒」の三船敏郎が共演していたなんて全く知らなかった。加えて、滝沢修(小生、芝居は滅多に見ないのだが、T.ウィリアムスの「セールスマンの死」でセールスマンを演じた滝沢が、舞台の上で、青年から老人へと瞬時に肉体改造をやってのけたのには驚いた)、中村斉加年(小生の記憶に間違いがなければ、大河ドラマ「三姉妹」の桐野利秋は、大変、良かった)、嵐寛寿郎(名にし負う鞍馬天狗)、若尾文子(勇気がなくて映画を見られなかったが、「十代の性典」のポスターで憧れた)などが出ているから、世に言われるオールスターキャスト映画なのだろう。1970年の作品で、監督は、「独立愚連隊」(これは面白かった記憶がある。なかでも、主演の佐藤允が良かった)などの岡本喜八、製作は勝新太郎。これは、確かに、総天然色映画なのだが、むしろ、黒白の方が見栄えがしたんじゃないかと言う程に、色付きにする必要は微塵もなかった。

話しは、他愛ないもので、金に目がくらんだ連中のみっともない奪い合いに座頭市も用心棒も参戦する。別に面白くも何ともなく、これは勝を、勝だけを見て満足する映画だろう。果たして、勝、三船は並び立つのか。結局、最後は、両者の果し合いになり、勝は血みどろとなり、三船は左腿を勝の仕込み杖でやられるなど、互角の勝負、いずれかを勝者にすることは出来ず(そりゃー、そうでしょう。勝と三船だったら、どっちかを勝者、どっちかを敗者にするわけにはいかないでしょう)、従って、引き分けに終わってエーガも終了する。

これを見ていて、一言で言ってしまえば、勝は確かに手練れの役者、しかし、三船は相当な練馬大根。要するに、三船は勝の引き立て役になってしまったから、三船はツマラン映画に良くもでたもんだなと感心するしかない。逆に言えば、三船は、黒沢明によって始めて大俳優になったと言えるのだろう。

確かに、勝はあくは強いし、その演技も向こう受けする代物で、好き嫌いは大いにあろう。でも、観客を面白がらせると言う点では、勝は三船を遥かに上回っている。また、この映画そのものが理屈ぬきで、楽しませる典型的な大衆娯楽映画なのだ(実際に、勝と三船が共演すると言うことで、大量の観客を動員することが出来たらしい)。と言っても、勝を除けば、前述のように、たいして面白くはなかったのだが。そして、例えば、確かに、どんぶり飯をガツガツ掻き込むところなんか勝らしいのだが、この映画では、三船に遠慮してなのか、いつになく大人しいのがいささかながら不満が残った。

その他に、誤って息子役の細川俊之に肩口を切られ、幽鬼のようにのたうち回って行く、生糸問屋、滝沢の大熱演。そして、紅一点の若尾は、当時、37歳(1933年生)になっていたが、なかなか可憐そのもの。と言うことは、あの「十代の性典」で憧れていた若尾文子が今年で92歳!まー、こっちも馬齢を重ねて、四捨五入すれば、年齢は似たようなものなのだが。

確かに、勝には、例えば、パンツ事件など、様々な醜聞があったが、映画俳優としては、日本映画史上、稀代のエンタテイナーだったのではないか。現在に至るも、映画俳優として過小評価されているのが誠に残念でならない。

 

(ウイキペディア抜粋)

「座頭市」は、小説、映画、テレビドラマなどで知られる、盲目の按摩の旅人である。特に映画シリーズでは、勝新太郎が演じたことで有名である。元々は盲目の琵琶法師の座頭を指す言葉で、江戸時代には盲人への施策として「当道」という組織に所属していた者たちのことを指していた.

  • 座頭(ざとう):

    江戸時代に盲人の階級の一つで、琵琶法師の座に所属する者たちを指す.

  • 座頭市:

    盲目の按摩の旅人である。小説「座頭市物語」を原作とし、勝新太郎が演じた映画シリーズで有名になった.

  • 当道(とうどう):

    江戸時代に幕府が認めた盲人組織で、盲人たちが音曲などを学ぶために所属していた.

  • 映画「座頭市」:
    勝新太郎主演で人気を博した映画シリーズで、盲目の按摩の旅人座頭市を主人公とする.

 

乱読報告ファイル (39) 米欧の分裂と日本の選択

先回本稿で書いた ”西洋の敗北” の著者、エマニュエル・トッド博士の論文が文芸春秋5月号に紹介された。現在論争の火種になっているトランプ外交についての解説として非常に明快なものだ。

今回の寄稿はホワイトハウスでの、ゼレンスキーとトランプ・ヴァンスの首脳会談を、”前代未聞のショー―一つの文明のルールが崩壊した場”という衝撃的なイントロで始まっている。トッドはこれをさらに、米国の新たな ”野蛮さ” が露呈した歴史的瞬間で、破廉恥にも全世界に生中継され、欧州にとってはまさに ”文明の衝突” とも言える事件だった、とし、”トランプ政権の首脳陣が揃って欧州への憎悪と軽蔑をあらわにした”、とも書き足している。

この論文はウクライナ問題をめぐっての話だが、もともとウクライナは自力でロシアと戦えるはずはなかったのが、米英の支援によってロシアが脅威と感ずるほど増強された。その上の支援を受けてもロシアに勝てないのは明確になった今、停戦を論議することは正しい。しかし起きていることは勝者のロシアと敗者としての米国プラスウクライナ、であるのに、あたかも米国はウクライナよりも上位にいる仲裁者、とみせかけている茶番劇である、と断言し、これによって彼のいう ”西洋の敗北” が具体的な事実となるだろう、というのだ。それがどのように起きてくるかはまだわからないが、現時点で確実に言えることは、トランプの行動は不確実で予測もできないが、プーチンの冷静な言動は一貫した論理に基づいたものだ、と書いている。ウクライナへの侵攻は決して突然起きたことではなく、以前からNATOがウクライナを包含する、と宣言した時点で、それは絶対に許さない、とプーチンは明言していた。このようにして起きてしまった、有言実行のロシア vs 予測不能なアメリカ という図式の結果、アメリカを信用したジョージアは結果として領土の2割を失い、ウクライナもその轍を踏むであろう。そしてその不確実性、はいまやトランプ体制のもとでさらに悪化している、というのだ。

”西洋の敗北” は本来欧州の中心にあるべき国々、特にイギリス、ドイツとフランスの迷走によってますます激化し、彼らが理論と行き過ぎた理想論から導き出したEUが、実は国民レベルに大規模な混乱を引き起こしている。それに比べた時、プーチンの指導力と実行力に支えられたロシアの優位は揺るがないものである、と言えるようだ。

EUという体制が実現する前夜、当時編集子は大学で社会思想史に興味を持っていた。この分野とくに欧州思想史の泰斗であった故平井新教授はこの動きを知って、”君たちはこのような歴史の転換を目の当たりにできる時代に生きている。この事実をよく理解したまえ”、と言っておられたものだ。あのころの高揚感にくらべて、いまの西洋の敗北、をだれが予想しえただろうか。

そのトランプの政治姿勢は今やアメリカ経済を支配している一連のIT企業オーナーのスーパー富豪たちが牛耳る形になっているが、その背景や見通しについては、本書でトッド論文の次に掲載された前駐米大使富田浩司氏のトランプ外交に関する解説に詳しい。現在、トランプをめぐって論争が激しいが、文春掲載のこの二つの論文はトランプのみならず、アメリカの現実を理解する貴重な資料となるだろう。トランプ現象に興味を持たれる方のご一読をお勧めする。文春1冊、1200円は決して高くない投資と思うのだが。