八幡平夏合宿騒動始末記   (34 船曳孝彦)

私はワンダー卒業後も医師(国家試験前)としての参加も含め、最も多くの合宿に参加してきました。1年生の時は健康を崩して行けませんでしたが、2年生の戸隠合宿で分散・集中の大合宿の楽しさを実感しました。

そして臨んだ八幡平合宿‼ 集団赤痢という大事件に見舞われました。当時の日本では時々集団発生が報じられた法定伝染病で感染力が強く恐れられていました。私は医学部の学生という立場なので、麓の病院へ毎日往復し、テントサイトの現況を先生に報告し、先生の指示やら私の拙い医学知識を皆に伝え、医師・看護婦をテントサイトに迎えて、検便をしてもらうなどで忙しく、自分のパーティ(SL)と歩いた記憶はすっ飛んでしまいました。

この合宿では、温泉宿のトイレから沢の水が汚染された疑いも明らかになり、数多くの問題点が浮かび上がりました。しかしこの出来事を、逆に良い機会ととらえ、部活動の組織、運営を見直して確立したこと、合宿中の事故の報告、陳謝を兼ねて現役部員が大先輩を始めOB方を訪問し小屋建設募金をお願いし、自分たちも小屋建設のためのバイトをしたりして、『自分たちの小屋を持とう』という遥かな夢をこの1年で実現したこと、この二つはマイナスからプラスを生んだ大成果といってよいでしょう。

そして4年の夏合宿は、新築された三国山荘の庭にテントを張って行うことが出来ました。土砂降りの雨で『飲んでも飲んでも減らない味噌汁』も良い思い出です。解散した夜は疲れているのに眠くならず、いつまでも焚火を見つめながら夜を明かしました。

(編集子)当時のKWVの運営は毎週末、多い時には3-4本、 ”プラン” という呼び方でワンデルングが企画され、月ごとにリーダー名とともに日吉、三田の部室に掲載された。希望者はその貼りだされた紙に学年と名前を書き、指定された日に準備会に出る、という方式をとっていて、月2回程度、ワンデルングに参加する、というのが平均的なあり方だった。毎回、仲間はだれになるかは不定で、1年を通じても気の合った中でも同じプランで一緒になるは数回だった。だから全員がとにかく顔を合わせる夏合宿というのは非常に重要でもあり、楽しみであった。形式はベースキャンプから班ごとに、毎日違ったピークを往復するスタイルで、数多くのエピソードが語られ、伝説が生まれたものだ。小生1年、張り切って参加したのは東北八幡平、天候に恵まれた1週間だったが、その間に思ってもみなかった、赤痢の発生、という事件が起きた。これはそのこと自体、もちろん大変なことだったが、これがきっかけでOBとの交流が本格化し、また、大人数の行動を安心に実施する、という観点からも山小屋建設が加速された、というKWV史上、記憶されるべきハプニングであった。