台風直撃地域の報告です  (47 関谷誠)

陸の孤島となってしまった、本日(8月30日)午後の我が家です。関東の大雨も心配ですね! ご安全に!

浸水したのは、我が家を取り巻く田んぼ(現在休耕田)で、今朝は添付の通り、水は引いていました。

この水は農業用用水路に流れ込みますが、この用水路がオバーフローしてしまうと、住宅への浸水もあり得ます。(浸水時の写真)

この用水路の水利権を我が家も有しており、年数回、この清掃・整備に駆り出されております。メンバーの大半が、日本の農業の将来を暗示するような、後期高齢者で、この先が思いやられます!なお、宅地は、若干の盛り土の上にあり、多少の浸水でも道路までのクセスは問題ありません。

(堀川)絵で描いたような洪水で浸水した家屋の写真ですね!

この状況では家の外に出られないでしょう。水位は何センチ位でどの位で水が引くのでしょうか?何時もこんな写真を見ると思うのですが、トイレの汚物なんかも流れて来るでしょうね、実際にこの様な状況に遭遇したことが無いので無知な質問で恐縮ですが、、、

ローハイドのころ (44 安田耕太郎)

(島田さんのイーストウッド論に便乗です)

スターの仲間入りしてからのイーストウッド(東森さん)は貫録も付きなかなかのものですが、登竜門ともなったテレビドラマ「ローハイド」の頃のi粋がっていて青臭さ一杯の東森さんが何と言っても懐かしい(1959~65年放映、彼は29~35歳時)。Rawhide:raw, 生の +hide 皮、などを意味するが、そこから派生してカウボーイ達のズボンの上から着用する革製のズボンカバーを指す言葉である。他の多くの映画でも描かれた(最も有名な”赤い河” など)、テキサスからオクラホマまでのチザムトレイルを通ってシカゴ・東部の大消費地へと運ぶ鉄道の起点となった、鉄道が敷設されたばかりのカンサスまで牛を運ぶキャトルドライヴ(Cattle Drive)に従事する荒くれ者の男たちカウボーイを描いたドラマ。名画「赤い河」を観る前であり、カウボーイとはキャトルドライブで牛を運ぶ男たちをそう呼ぶことを初めて知ったのが「ローハイド」だった。主題歌(下記URL)では歌の合間に牛を追う掛け声と鞭音が鳴り響いている。多い場合には1万頭近くの牛を運ぶキャトルドライブは、牛が狂ったように暴走するスタンピードの危険もあり、困難一杯の一筋縄では行かない仕事であった。

話が飛躍したが、クリント・イーストウッドのデビュー作品と云っても良い「ローハイド」の思い出である。「ララミー牧場」「ルート66」「サンセット77」「ボナンザ」「ライフルマン」「ローンレンジャー」などと共に青春時代、アメリカに興味を持つに至るきっかけとなったテレビドラマ群だった。

(関谷)私は、この会の、どう云う訳だか!、メンバーとなって、NHKBSのシネマシアターを中心に、何時か観て、コメントできるかとの思いから、本日の「次郎物語」を含め約900本を録画、BD・CDに落とし込んでいますが、今まで、まともに観たのは精々2~3本!貴兄がこなした本数はunbelievable!

私にとり、この先、身体が動けなくなり、ボケる前の楽しみとなりますかナ!子供の頃に、欠かさず観ていた白黒TV時代の「ローハイド」は懐かしいイ!

(金藤)クリント・イーストウッドが歌うYouTubeありがとうございました。顔に手をやってポーズですか?照れているのでしょうか?歌も上手ですね「ローハイド」私は観ませんでしたが、兄たちが観ていましたのでローレン ローレンのテーマ曲が流れていたのは覚えています。

ローハイド」(Rawhide) は、ネッド・ワシントン(英語版)が作詞し、ディミトリ・ティオムキンが作曲した、ウェスタン音楽(英語版)の楽曲。 オリジナルは、 フランキー・レインが吹き込んでいます。 この曲は、CBSテレビで1959年から1966年まで放映された西部劇シリーズ『ローハイド』のテーマ曲として使用されています。

(ウイキペディアによる補足)

英語の”Rawhide” は、「ロー(raw、生の)」+「ハイド(hide、皮)」、つまり「生皮(きかわ)」「生皮の鞭」「生皮の鞭で打つ」などを意味するが、そこから派生してカウボーイ達のズボンの上から着用する革製のズボンカバーのことを指す言葉でもあり、この番組では初期にそのように説明されていた。

(編集子)小泉さん、頼りになる仲間が登場したようで。”ローハイド” そのものの写真を探しましたがいいものがなく、安田兄の思い出にあるローハイド、ならこの人。確か水泳事故で亡くなったのでは?

コロナを見くびらないこと   (普通部OB 篠原幸人)

7月・8月とコロナはまた増え続けています。つい最近は実妹がコロナ後の肺炎+誤嚥性肺炎で入院しました。最近はコロナの後遺症は軽症例も多いのですが、患者数は確実に増えているようです。

確かに昨今はコロナはもう「風邪のようなもの」と片付けられることが多くなりましたが、肺炎ばかりでなく、「元気が出ない」・「集中力がなくなった、ボーとして考えがまとまらない(以前にBrain Foggingという話をしましたね、覚えているかな~)」・「一寸働くと、体が鉛のように重く動かなくなる(クラッシュ)」などの後遺症患者さんが増えています。東京都も「コロナ後遺症専門ポータル」を作っているほどです。特に一回目感染より、二回目・三回目の方が後遺症は重いようです。「俺は3回もコロナに罹ったぞ」と威張ってはいられないのです。おそらく一部のコロナウィールスは自覚症状が無くなっても体のどこかに生き続けているのかもしれません。

コロナ後遺症は長く続く「咳・痰」・「微熱」・「呼吸困難」・「味覚障害」などの他に、「脳卒中」・「自律神経異常」・「心疾患」・「腎臓障害」その他、本文の冒頭に書いた症状も含めて200以上の後遺症が知られています。

予防は一つ。コロナに罹らないこと。それには、公衆に接する時はマスクを使用・手洗い・うがいが有用で、万一罹患したら1-2か月は無理しないことです。「俺は大丈夫だろう」という過信が一番危険です。 しかし何でもコロナのせいにすることも問題ですね。私も最近、右腕の筋肉痛でゴルフのバックスイングやテニスのサーブの際に痛みを感じますが、これもコロナの後遺症とするには一寸無理がありますかね~

 

乱読報告ファイル (59)バリ山行     (51 斎藤邦彦)

藪漕ぎの小説「バリ山行」(松永K三蔵著)が芥川賞に選ばれました。私は文藝春秋9月号で読了しました。バリ山行とは「バリエーション山行」の短縮でバリ島旅行ではありません。

(1)藪漕ぎの思い出

藪漕ぎはワンダラーにとってはお馴染みの山行形態で非常時にも対応できる登山の技術を学ぶ重要なプランですが、夏合宿等では数々のエピソードを残しており仲間との「苦難と達成感の共有」の面もあったような気もします。

先輩から聞いた話も含めいくつかその例を挙げると

・這松の隙間に足を踏み抜いて身動きできなくなった。(ふりをして休んだ。)

・安いニッカホースを買って行ったら一日でボロボロになった。

・一日にコップ一杯の水しか自由にさせてもらえなかった。

・のどが渇いて我慢できず笹に残った朝露を歩きながら軍手にしみこませて啜った。

・一日中藪の中でもがいて地図の1cmしか進まなかった。

・一日中藪漕ぎをして午後に良いテントサイトが見つかったと思ったら今朝出発した場所だった。

等々思い出話のネタになっています。

(2)小説「バリ山行」について

この物語では兵庫県の中小企業に勤める30代の主人公が社内交流のため会社の登山部に入り休日に六甲山を仲間と一緒に歩いているうちに次第に山歩きの魅力に嵌っていきます。そのなかでバリエーションルートを毎週山行している同僚と出会い、初めてバリ山行を体験しその険しさや厳しさを知るというものです。

ストーリーは会社の方針変更などビジネスの変化に翻弄される中小企業の社員の感情とバリエーション山行の困難さを重ね合わせて展開しています。今までの山岳小説の多くは岩や雪をテーマにしたものが多かったように思いますが、地味な藪漕ぎの魅力や難しさをうまく取り上げて表現していると思います。非常に簡潔で平易な文章なので一気に読めるのも魅力です。

藪漕ぎファンにはお勧めの一冊です。

(編集子)面白い本が出現したものだ.編集子現役のあいだでは 藪漕ぎ というのはあくまでワンデルングの一要素(多くの場合ネガティヴな)に過ぎなかったし、自分も三国山荘創設の前後によく知られた 上越の藪 を何度か経験したくらいしかない。現在の現役の活動の中には “ヤブ” というジャンルが明確に定義されているようだが、自分の中では壮烈な稲包稜線通過第一号を目指したはずで惨敗した苦い経験を思い出すだけで、変われば変わったものだ、という感想しかない。しかしこれも若手(小生から見れば、の話だ、もちろん)OBの中での100名山レースのトップを走っているク二ヒコならではの感想だから親近感が生まれる。現役諸君にどなたかのルートで伝染していけばいいのだが。

エーガ愛好会 (279)僕の映画遍歴-イーストウッドのこと  (55 島田光雄)

今から7年ぐらい前だろうか、いくら見ても切りがない韓国ドラマを卒業し、1時間半から2時間で集中して楽しめる映画を徹底的に見てみようと一大決心をして、今日まで見続けている。継続していると洋画で1800本、邦画で500本になってしまった。対象ははずれが少ないテレビ放送の映画として、不在中でも後で見れるようにと録画、ダビングを行った。そして、何とか見逃しがないようにと週次で録画予約をすることが習慣となってしまった。最近ではすでに見たことがある映画が多く、覚えきれないので、一覧表を作成し、チェックしている。ただ、どこかのタイミングで、見ていない有名な映画を一本釣りで見ていくのも次の楽しみ方かと思うようになってきた。これらの中で、特に印象が残り、いつ見ても、何回見てもおもしろい、人生が映画そのものであるクリント・イースト・ウッドに焦点を当ててみたい。クリント・イースト・ウッドは単なる俳優だけではなく、どちらかというと監督としても大成功をおさめており、二束の草鞋が最も似合う超有名な映画人の一人である。

クリント・イースト・ウッドは何といってもダーティハリー全5作。ニヒルな刑事がかっこよく、事件を解決していく。あまりにも強くてスマート、ストーリー展開が早いので、あっという間に見終わってしまい、後味もすっきりしている。
こんな飛ぶ鳥を落とすように超有名な映画スターになったクリント・イースト・ウッドも映画の世界に飛び込んだ当時は売れない俳優で、何とかローハイドの役につき、次を狙っていたところ、同じく、無名に近かった映画監督セルジオ・レオーネのオファーにたまたま縁があり、主役を務めることとなった。逆に言うと無名のため、出演料が安く、有名俳優が断ったための結果である。この二人の出会いが、マカロニウエスタンの最高傑作を生みだすことになり、クリント・イースト・ウッドもはまり役のダーティハリーにつながる作品に巡り合ったと考える。このドル箱3部作「荒野の用心棒」、「夕陽のガンマン」、「続夕陽のガンマン」は監督・主演の知名度を徹底的に上げ、西部劇がヨーロッパで人気を博することとなる。特に最初の「荒野の用心棒」は東宝から「無許可によるリメイク」として訴訟をおこされたため、アメリカでの公開が遅れ、クリント・イースト・ウッドがそれまではヨーロッパでの人気が高かったことが面白い。また、アメリカ公開後はマカロニウエスタンのアメリカでの知名度を上げることとなり、この3部作がその後の西部劇に大きな影響を与えた。
この3部作を見て、興味深かったことは1作目、主役1人、2作目、主役2人、3作目、主役3人となり、クリント・イースト・ウッドの影が薄くなり、監督の人気を盤石にしたことだ。ただ、この後、クリント・イースト・ウッドはアメリカに転身し、西部劇でもそれ以外でも完全なる主役の座で大スターの道を歩むことになる。なお、2作目のリー・ヴァン・クリーフ、3作目のイーライ・ウォラックについてはこれ以来、私にとっては注目の俳優に位置づけている。
アメリカ転身後はドル箱作品で稼いだお金で、映画製作会社を設立、自ら脚本にも一部参加して、「奴らを高く吊るせ!」を公開。007シリーズより高い興行収入を上げ、成功の道を進み始めた。その後の西部劇の作品では、ドン・シーゲル監督の「真昼の死闘」、ジョン・スタージェス監督の「シラーノ」と続くが、自らも監督を行い「荒野のストレンジャー」、「アウトロー」、「ペイルライダー」といつも法外にいる一匹狼を演じている。そして、アカデミー賞4賞獲得の「許されざる者」は、クリント・イースト・ウッド最後の西部劇で、ローハイドから34年、監督として、俳優としての西部劇の集大成として世に送り出した作品となった。この作品が表現している勧善懲悪、友情、復讐心、家族愛、弱者救済は監督としての渾身の一撃となっている。

そして、西部劇とは別の道ではドン・シーゲル監督との出会いが大きい。二人は共同製作者となり、西部劇から離れた「マンハッタン無宿」を公開し、いよいよダーティハリーの本格的な製作に入る。ダーティハリーシリーズは治安が悪かった当時のアメリカの世相を反映している作品で、ハリウッドのアクション映画の代表作となった。また、この第1作目により監督のドン・シーゲルと主演のクリント・イースト・ウッドはそれぞれ高収入を得て、確固たる地位を築くこととなった。なお、第4作目の監督はクリント・イースト・ウッドが務めている。
クリント・イースト・ウッドの初監督作品が「恐怖のメロディー」。恐怖の女性ストーカーのスリラー。15年後にストーカーの鬼気迫る演技で話題となった「危険な情事」の先駆けの作品。初作品から人気を博し、監督としても認められるようになったもの。当時、子弟コンビであったドン・シーゲルもバーテンダーで出演している。そして、「アルカトラスからの脱出」で袂を分かつまでドン・シーゲルの手法を学び、共に監督としての名声を博した。その後は毎年のように監督作品を出し、自ら出演しない作品も手掛けるようになった。
その出演しない作品の中で一番印象に残っているのが「インビタス/負けざる者たち」。名優モーガン・フリーマンが南アフリカ大統領ネルソン・マンデラから自伝の映画化権を買い、監督をクリント・イースト・ウッドに依頼した作品。南アフリカ初の黒人大統領がアパルトヘイト(人種隔離)を克服し、スポーツの力(ラグビーワールドカップ)を借りて、国をまとめていく感動の映画。モーガン・フリーマンが人格者の大統領を好演しており、人柄含めピッタリの配役となっている。クリント・イースト・ウッドとモーガン・フリーマンの共演作の「許されざる者」「ミリオンダラー・ベイビー」についても、7歳違いでそろぞれ老練なの味を出し、モーガン・フリーマンの出演映画も楽しみに見ている。
その他、クリント・イースト・ウッドの映画は扱う対象も幅広く、死傷者を出した山岳のスパイ映画「アイガー・サンクション」、戦争映画の「父親たちの星条旗」、「硫黄島からの手紙」等意欲的に映画製作に取り組んでいることが垣間見える。
現在、94歳で最後と言われる映画製作に取り組んでいるが、90歳前後で作成した「運び屋」「クライ・マッチョ」はカッコよさは無くなったが、深みがあり、この年で全体的に飽きさせないこんな面白い映画が作成できるのかとただただ関心しきりである。「クライ・マッチョ」では90歳とは思えない、カウボーイ役を演じており、若かりし頃のイメージと重なり、感慨深げに見ていた。次の作品にも期待したい。

(編集子)ダーティハリー(1)を見た時の痛快な印象はたしかにあった。ただ小生にナンバーワンを選ばせてもらうとするとやはりグラントリノ、かなあ。もちろん、彼も俺も若かったころ、テレビで興奮したローハイド、は別にして、だけど。

 

一曲、聴かせようか?  (大学時代友人 飯田武昭)

諏訪湖周辺の逍遥から帰った翌々日に、ピアノ教室の発表会があり、一曲吹きました。

私のサックスのピアノ伴奏を付けて頂いている講師が、低学年の生徒さんを中心のピアノ教室を開いておられ、その発表会に、おっさん(お爺さん)一人、毎年参加して一、二曲吹いています。

私以外は全てピアノ演奏ですが、第2部のトップバッターで、今回は練習も足らずにラテン系のキエンセラ(Quien Sera)を吹きました。エントリー24名が猛暑にも関わらず、全員参加してくれたことを、ピアノ講師の先生が最後の挨拶で、弥や涙ながらに話されたことが印象に残った楽しい発表会でした。

(編集子)才能のある人はうらやましい。

かっこいい、おじさま。
でも、ズボンは俺と同じ太さで安心。
(PCがダウンしてしまい、しばらく休載を余儀なくされた。思い切って新型(今度はとうとうNECになった)を購入して、これが再開第一号になる)

諏訪湖の旅   (大学時代クラスメート 飯田武昭)

先週、信州の諏訪湖周辺を数日間うろついてきました。さしたる目的地もなく、諏訪湖の観光花火を観て、諏訪大社の8月1日の遷座祭(お舟祭)※の前々日に、

春宮と秋宮に参拝し、甲州道が中山道と交わる地点などを散策して、老舗そば屋「山猫亭」で天ぷら蕎麦を賞味しました。

翌日は天候が良さそうで気温も左程高くならないことを確認し、霧ヶ峰にバスで登り八嶋湿原の板道をゆっくり散策し、可憐に咲く草花や蝶を見て楽しみました。その次の日は諏訪湖岸の間欠泉の温泉玉子を食べながら、北澤美術館での特別展(エミール・ガレ没後120年記念)とサンリツ服部美術館を鑑賞するなど、猛暑を避けて屋内で過ごす時間を増やしました。

とてもKWV諸兄の北アルプス連峰の旅とは比べ物にならないのんびり無害な旅でしたが、2度夕食に出掛けた「すみかまど」のメニューはどれも手ごろな値段で美味しく、サービスも控えめで丁寧と、やたらと居酒屋が多いこの街ではラキーな出会いでした。

関西では“びわこ(琵琶湖)”という単語をしょっちゅう使うので、今回は“すわこ(諏訪湖)”という単語が直ぐに出て来なくて、ついつい、“びわこ“と先ず間違えて言ってしまうことが多く、後期高齢をしみじみ感じました。

※(2月1日に春宮にお遷しした御霊代(みたましろ)を神幸行列を以て再び秋宮へ御遷座する神事です。この遷座の行列 に次いで青柴で作った大きな舟に翁媼の人形を乗せた柴舟が御頭郷の氏子によって春宮から秋宮へ曳行されます)

(編集子)本稿の解説を読んで思い出したのが、最近読んだミステリ小説、”アマテラスの暗号” である。この本は、以前本稿で紹介したことがあるが、高木彬光の傑作(と勝手に思っているだけかも)”成吉思汗の秘密”、古くは英国推理小説黄金時代に書かれてこのジャンルの嚆矢といわれている ”時の娘” と同じように、故事を現時点で史実或いは事実としてわかっている事物と比較し、別のテーマを追求したものである(その結果、小生は高木に賛成して成吉思汗は平泉の館から脱出してシベリアにわたった源義経の後身だと信じている)。この本は高木の作品とは比較にならないほど多くの史実、写真、文献を提示して、天照大御神に始まる我が国創立の過程にユダヤ教にまつわる史実が重なることを説いた本であり、衝撃的なものだった。例えば、僕らのレベルでわかることで言えば、京都のある古刹の家紋(というのか、要は其の寺の印)が、あのダヴィデの星(ナチ支配下のドイツでユダヤ人が常に身に着けることを強制された、あの印)である、と言ったような数多くの事実がこれでもか、というくらい写真などとともに明らかにされる。また、飯田兄が言われているものではないが諏訪の有名な神事がユダヤ教で行われるプロセスと全く同じであるとか、遷宮という儀式がそっくりそのまま、ユダヤ教のしきたりと同じである、と言ったことが列記される。この本自体は一応ミステリの形をとってはいるが、全く異種の読み物として、知的興味満々、一読に値するものだった(正直 気味が悪くなった)。寝られない猛暑の夜、お勧めの1冊である。琵琶湖にはこういう話はないのだろうか。

巨人ファンにお尋ねします   (33 小川義視)

強烈な読売・巨人ファンのご意見を伺いたい。

先程YouTubeで「大谷の日テレ出禁問題」を見て感じたこと、報道業界・プロ野球でのナベツネの圧力も世界の大谷に屈したかという快挙です。日テレの代表的な夏恒例の「24時間テレビ」にどうしても出させるように、ナベツネが強烈な圧力を日テレ幹部に掛けていたようです。「たかが選手が…」という彼本来の考えです。

それに対して大谷と共にドジャーズ球団も完全に拒否しています。昔からナベツネの政界にまで及ぶ圧力に非常に憤慨していました。巨人以外の球団も随分泣かされたでしょう。 恐らく日テレは視聴率が強烈に落ちると思います。ナベツネという嫌な存在が大谷の力で葬られた快挙と小生は喜んでいますが、

(42 下村)『実ほど首を垂れる稲穂かな』ですね。彼も入社したてのころは真面目で仕事一筋。若くして頭角を現したようですが、周囲に意見をする人がいなくなってからは独裁体制の様相。ビッグワン、小林製薬に限らずトップに何も言えない会社はいずれダメになりますね。

お陰様でわが家はカミさんがうるさいほど口を出してくるから大丈夫!!

(編集子)事情は良く存じませんが、快挙ですね。ナベツネの傍若無人ぶりについては、後藤三郎がIBMで輝いていたころ、ナベツネとラウンドをしたことがあるそうですが、その時、彼はコースで平然として立小便をしたというのです。なんとも言葉を失いますが、こういう思い上がりには社会正義の鉄槌がくだるべきです。”わが巨人軍は永遠に不滅です” とチョーさんの名言がふさわしいジャイアンツであってほしいものです。

(44 安田)僕は野球少年だった幼少期より、野球は自らやると同時にプロ・東京六大学をテレビで観ていた。小学生の時、チョーさんが東京六大学の通算本塁打新記録8本目を左翼外野席へ打った対慶応戦もテレビで観ていた。当時は神宮球場の左右両翼は今より10m近く広く、ホームランが出にくかった。新記録達成日は、調べると1957年11月3日(文化の日の祝日)、小学5年生の秋だった。1965年に慶応の広野が8本で並び、僕と同期の法政田淵が1968年に22本まで伸ばした。現在の最多記録は慶応(のち巨人)の高橋由伸の23本、1997年に達成。田淵・高橋の時代は神宮球場左右両翼は狭く(現在と同じ)、ホームランが出やすくなっていた。
話は17年飛んで1974年10月14日のこと。社会人になって3年目、チョーさんの現役最後の試合が旧後楽園球場の対中日戦ダブルヘッダー第2試合目。国内営業の外回りが仕事だったが、仕事をサボり後楽園へ足を運び(前もって入場券を買っていた 確信犯・笑!)、両試合を生で観た。チョーさん、第一試合でホームランを打つ。彼のさよなら試合(ダブルヘッダー第2試合目)、巨人はベストメンバーで臨んだ。柴田・高田・王・長嶋・末次・黒江・土井・森・高橋善正(P)。対して、中日は星野・高木以下主力選手は出場せず。理由は、最終戦(チョーさんのさよなら試合)は13日の予定であったが雨で順延して14日になった。その年1974年ペナントレース、巨人はV10を逸し、中日が優勝。順延された14日は名古屋では中日の優勝パレードが既に予定されていて、主力選手は巨人最終戦には出場せず、名古屋にいたのだ。球場では、試合終了後、愛すべき口下手のチョーさんがピッチャーマウンドに立ち「巨人軍は永遠に不滅です」のスピーチをした。現場の球場一塁側内野席で見て聞いた。川上監督最後の試合となった。中日監督は元巨人の与那嶺要。この年、王が2年連続の3冠王を達成。日本シリーズ制覇は金田正一監督のロッテオリオンズだった。
かくの如く詳しく覚えているが、実は僕は大のアンチ巨人です。九州育ちの僕にとっては巨人は不倶戴天の敵、ジャイさん🙇すみません。

(編集子)長嶋の学生時代のゲームを一度だけ、神宮で見た経験がある。縦じまのユニフォームがよく似合う、憎らしいやつだ、というのが第一印象だった。
チョーさんの、というより ”わが巨人” の凄さを感じたのが歴史に残る(と勝手に思っているんだが)有名な対中日最終試合での決着ゲーム(2000年9月24日東京ドーム)だった。9回、満塁で(そんなこたあるめえ)と思っていた満塁ホームランをしかも小生ごひいきの江藤が撃ち、直後に二岡がライトスタンドのぶち込んだとどめの一発(https://www.youtube.com/watch?v=SeCXycrRMcY)。ほかにも例えば天覧試合のチョーさんの一発、とか、ま、結果的に天下をうならせる劇的シーンはやはりわが巨人軍。九州での獅子の遠吠えなんかじゃ、ねえ。

オリンピック選手村    (在パリ 平井愛子)

オリンピック選手村に行く仕事が有りまして、日本チームの垂れ幕を見つけました!

(安田)オリンピック村は終了後、民間に販売されるアパートになるのでしょうか?前回の東京大会の選手村は都心にあって交通至便でお販売されましたが大変人気高く、購入競争率はとてつもなく高かったです。

(小田)セーヌ川での開会式では、平井さんもおっしゃっていたように、首のないマリーアントワネットと血しぶき、セーヌを馬に乗り進むジャンヌ・ダルクの姿がフランスらしく、大変印象に残りました。そして、どこからでも見える《エッフェル塔》は、日本でいうと《富士山》のよう…今回も中心となり輝いていました。