巨人ファンにお尋ねします   (33 小川義視)

強烈な読売・巨人ファンのご意見を伺いたい。

先程YouTubeで「大谷の日テレ出禁問題」を見て感じたこと、報道業界・プロ野球でのナベツネの圧力も世界の大谷に屈したかという快挙です。日テレの代表的な夏恒例の「24時間テレビ」にどうしても出させるように、ナベツネが強烈な圧力を日テレ幹部に掛けていたようです。「たかが選手が…」という彼本来の考えです。

それに対して大谷と共にドジャーズ球団も完全に拒否しています。昔からナベツネの政界にまで及ぶ圧力に非常に憤慨していました。巨人以外の球団も随分泣かされたでしょう。 恐らく日テレは視聴率が強烈に落ちると思います。ナベツネという嫌な存在が大谷の力で葬られた快挙と小生は喜んでいますが、

(42 下村)『実ほど首を垂れる稲穂かな』ですね。彼も入社したてのころは真面目で仕事一筋。若くして頭角を現したようですが、周囲に意見をする人がいなくなってからは独裁体制の様相。ビッグワン、小林製薬に限らずトップに何も言えない会社はいずれダメになりますね。

お陰様でわが家はカミさんがうるさいほど口を出してくるから大丈夫!!

(編集子)事情は良く存じませんが、快挙ですね。ナベツネの傍若無人ぶりについては、後藤三郎がIBMで輝いていたころ、ナベツネとラウンドをしたことがあるそうですが、その時、彼はコースで平然として立小便をしたというのです。なんとも言葉を失いますが、こういう思い上がりには社会正義の鉄槌がくだるべきです。”わが巨人軍は永遠に不滅です” とチョーさんの名言がふさわしいジャイアンツであってほしいものです。

(44 安田)僕は野球少年だった幼少期より、野球は自らやると同時にプロ・東京六大学をテレビで観ていた。小学生の時、チョーさんが東京六大学の通算本塁打新記録8本目を左翼外野席へ打った対慶応戦もテレビで観ていた。当時は神宮球場の左右両翼は今より10m近く広く、ホームランが出にくかった。新記録達成日は、調べると1957年11月3日(文化の日の祝日)、小学5年生の秋だった。1965年に慶応の広野が8本で並び、僕と同期の法政田淵が1968年に22本まで伸ばした。現在の最多記録は慶応(のち巨人)の高橋由伸の23本、1997年に達成。田淵・高橋の時代は神宮球場左右両翼は狭く(現在と同じ)、ホームランが出やすくなっていた。
話は17年飛んで1974年10月14日のこと。社会人になって3年目、チョーさんの現役最後の試合が旧後楽園球場の対中日戦ダブルヘッダー第2試合目。国内営業の外回りが仕事だったが、仕事をサボり後楽園へ足を運び(前もって入場券を買っていた 確信犯・笑!)、両試合を生で観た。チョーさん、第一試合でホームランを打つ。彼のさよなら試合(ダブルヘッダー第2試合目)、巨人はベストメンバーで臨んだ。柴田・高田・王・長嶋・末次・黒江・土井・森・高橋善正(P)。対して、中日は星野・高木以下主力選手は出場せず。理由は、最終戦(チョーさんのさよなら試合)は13日の予定であったが雨で順延して14日になった。その年1974年ペナントレース、巨人はV10を逸し、中日が優勝。順延された14日は名古屋では中日の優勝パレードが既に予定されていて、主力選手は巨人最終戦には出場せず、名古屋にいたのだ。球場では、試合終了後、愛すべき口下手のチョーさんがピッチャーマウンドに立ち「巨人軍は永遠に不滅です」のスピーチをした。現場の球場一塁側内野席で見て聞いた。川上監督最後の試合となった。中日監督は元巨人の与那嶺要。この年、王が2年連続の3冠王を達成。日本シリーズ制覇は金田正一監督のロッテオリオンズだった。
かくの如く詳しく覚えているが、実は僕は大のアンチ巨人です。九州育ちの僕にとっては巨人は不倶戴天の敵、ジャイさん🙇すみません。

(編集子)長嶋の学生時代のゲームを一度だけ、神宮で見た経験がある。縦じまのユニフォームがよく似合う、憎らしいやつだ、というのが第一印象だった。
チョーさんの、というより ”わが巨人” の凄さを感じたのが歴史に残る(と勝手に思っているんだが)有名な対中日最終試合での決着ゲーム(2000年9月24日東京ドーム)だった。9回、満塁で(そんなこたあるめえ)と思っていた満塁ホームランをしかも小生ごひいきの江藤が撃ち、直後に二岡がライトスタンドのぶち込んだとどめの一発(https://www.youtube.com/watch?v=SeCXycrRMcY)。ほかにも例えば天覧試合のチョーさんの一発、とか、ま、結果的に天下をうならせる劇的シーンはやはりわが巨人軍。九州での獅子の遠吠えなんかじゃ、ねえ。