6月25日 ゲリラ豪雨襲う三田キャンパスで慶應義塾史展示館 都倉教授によるツアーがあり参加致しました。非常に有意義なツアーでした。開催時にゲリラ豪雨も上がり、笠も無くキャンパスを回ることが出来ました。その報告です。
慶應義塾は1858年(安政5年)に江戸築地鉄砲州で開塾してその後1871年(明治4年)に三田の旧島原藩中屋敷に移転し慶應義塾の原点隣幼稚舎・普通部・医学部などもここからスタートしました。日吉に予科を作り学術の中心として三田キャンパスを鉄筋コンクリートの良質な素材を使った校舎を曽彌中条建築事務所設計て゜建設する予定でしたが工事半ばで1938年物資統制で工事中断。
「日本最大の戦争被害大学」と言われ、5割が焼失。1949年まで5割が米軍に接種されて校舎不足。各地に移転。普通部は天現寺に間借りし居て、日吉へ移転など
戦後三田キャンパスは谷口吉郎設計の建物で復活していった。スリット状の窓に一貫した意匠は演説感の福澤精神ルネッサンスを表現と言われているが、実情は大きいガラスは高価な為に細いガラスにしたとも言われている。旧自尊館・慶應普通部日吉校舎等然り。
今回巡る三田キャンパスツアーのコースは先ず1875年竣工・1924年移築の「三田演説館」。福澤時代から残る唯一の建物で重要文化財。「演説」—-6月27日は「演説の日」です。1874(明治7)年、福澤諭吉とその門下生たちによって、日本で初めて演説の実践・研究を目的とした「三田演説会」が発足したことに由来します。ちなみに、「演説」はもともと仏教語で、「講義や仏教者による説教」といった意味がありました。福澤は大勢に向けて話をするという意味である英語の「Speach(スピーチ)」を、この「演説」という言葉に置き換えました。明治時代の演説ブームを経て、「人前で主義主張をする」という活動や意味が広く普及し、現在は当たり前のように使われています。

「第二研究室」「ノグチ・ルーム」(万来舎)1951年竣工 一時新築校舎のため解体されるモノが一部の方の努力により現在の位置に一部移転した。従って完全の谷口吉郎・イサム・ノグチのコラボによる建築とは言えないが殆どかそのまま移築されています。イサム・ノグチは詩人の父米次郎は福澤門下生。
西洋と東洋の融和と戦没者への入れの眼差しのの平和を込めた暖炉など。素晴らしい。
元の第二研究室 新聞研究所の米山・生田教授が居られました。谷口吉郎設計の細いスリット状の窓が特徴。なお竣工当時はイサム・ノグチ彫刻を庭園に配していた。今は「無」-沈む夕陽が石灯籠に火を灯す。「学生」-豊富溢れる学生、和の櫓 本を抱えているようにも見えますね。今は南館入り口正面に在ります 。そして「若い人」抽象表現の像 南館入り口角にあります
かっての「山食」に谷口吉郎さ設計の学生ホールに猪熊源一郎作の「デモクラシー」1949年制作。物資不足でこの絵も素材はラッカー吹きつけのベニア板、エナメル繪の具使用し、壁だけ取り外して現在の学生ホールに移設してある。そのため以前の壁と合っていない。
この絵は「学生生活」「青春」「自由の世界いけ」堅苦しいことはダメというデモクラシー(慶應義塾の精神)を表していて上野駅の壁画「自由」と双璧。
羽の生えた犬は「自由に世界へ行け」を表しているとか。
この場所に三田キャンパスのシンボル「大講堂」1915年竣工が建っていた。立ち見を入れると3000名がは入れる東京有数のホール。因みに安田講堂1925年竣工は1738席。大隈講堂1926年竣工は1123席。如何に大きいか分かりますね。1945年5月26日の大空襲で内部全焼。ずーっと焼けたまま残って居て飾りの「ユニコーン二体」は現在は中等部在る。この由来は不明ですが何故かケイオーのマスコットになっています。なお、1922年(大正11年)11月19日、世界的な物理学者のアインシュタインの講演が三田大講堂で行なわれています(現在は西校舎が建っている)。

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