スナック JIJI のこと

3月31日という日にちは日本の社会慣習上、特別な日である。学期の終わり、決算の締めの日、など、一つの事柄の終わりを示す区切りという意味を持っている。僕らも数え切れない多くの3月31日の想いを持ってきているはずだ。

ここでもう一つ、その ”特別な日” のことを書く。2009年3月31日である。僕らがOBになってからの ”部室” であった、スナック JIJI がその灯を落とした日だ。このことについて新たに書く代わりに、同期の文集、”ナンカナイ会 そのふみあと” に記載したコラムを転載する。この日以降、OBに加わった諸君に JIJI が果たしてくれた意味を実感してもらうことができないのが誠に残念であるが。

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            スナック・ジジ

銀座の灯が青春の象徴だったという人間は沢山いるだろう。町並みは変わり、”いちこし”も”ジュリアン・ソレル”も”スイス”もなくなってしまったったとはいえ、今なお古き良き時代の思い出は我々とともにある。

その銀座に住吉康子が店を持ったのは1983年6月9日、名前はスナック・ジジ。女子高時代演劇部にいた彼女は演じた役の名前がそのままニックネームとなり、友人たちの間では本名をとっさに思い出せないのがいるほど、親しまれた名前であった。

この店の誕生には、1年上の”マックス”こと畠山先輩の強い勧めがあった。彼女はこれに先立って、友人に請われ横浜、都橋の近くで”こけし”というスナックをマネージしていたことがある。ヨコハマ、というきらびやかなイメージとはかけはなれた、どちらかと言えばうら寂しい一角だったが、六郷沿いに住んでいた小林章悟が私設応援団長的にひろくワンダー仲間によびかけ、仲間が集うこともたびたびで、荒木ショッペイ夫妻もよく訪れていた。ここへ来た畠山が、”ジジ、おまえ、銀座に出ろ”と強く勧めたのだという。

住吉はいろいろな友人を通じて、塾体育会のOBたちに知己が多く、そのひとりだった野球部OBの増田先輩(1957年卒)からの紹介で、ホテル日航に近いあの店の権利を得て、スナックとして開業した。バーテンも置かないから、当然カクテルなぞというものとは無縁、、カウンター1本しかないせせこましい造り、住吉本人だって世にいう”銀座マダム”とはかけはなれて不愛想。それでも、ここは開業以来、”慶応”、それもどちらかと言えば”体育会(この場合はKWVも含めてだが)OB”,の何とも居心地抜群の、理想の止まり木でありつづけた。

何しろ、店の場所がよかった。都心オフィス勤めの人間にして見れば、”帰りがけに銀座でちょっと飲む”プライドを持つことができたし、古びたドアを開けて入れば、先ず5割の確率でワンダー仲間がいた。あれ、今日は誰もいないか、と思って奥を見れば、何年何十年ぶりかで見る高校、中学時代の仲間が、これまた5割くらいのヒットレートでにやにやしているという、まさに”おれたちケイオー”の場所だったのだ。

KWVで同期以外の常連、といっても枚挙にいとまがないが、なんといっても2年上、34年卒の三ツ本和彦がダントツだったのは、先ず誰もが納得する事実だろうし、後輩連では41年の田中透、44年の浅野三郎、45年の島哲郎などの名が浮かぶ。同期の仲間は当然としても、後輩年代でも ”それじゃ、ジジで”と云うのが決まりだった。

われわれの”部室”であった”スナック・ジジ”は、2009年3月31日、その”銀座の灯”を落とした。

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           JIJIのこと

3月月いち高尾報告  (38 堀川義夫)

3月22日

参加者 翠川、遠藤、深谷、後藤、平松、町井、岡沢、堀川、蔦谷、河合、川名、伊川   以上12名

前日は大荒れの天気で催行するかどうか迷いましたが、昨年も3月の梅を鑑賞できなかったので、なんとしても今年は実施したいと思い強行(?)しました。残念なことに新しいコース、楽々コースの設定なしその上天候不順が響いたのか参加者はやや少なく思いました。

高尾駅北口よりバス9時34分ー10時夕焼け小焼け10時15分―10時45分ジグザグ道尾根へ。10時50分ー11時45分黒ドッケー12時05分杉の丸12時25分―13時10分狐塚峠ー13時38分木下沢14時00分ー14時30分木下沢梅林ー梅の里入口15時11分ー15時30分高尾駅北口 15時40分天狗飯店 17時解散

今年の一つの方針として、高尾山以外の周辺の山々を楽しもうと言う第一弾の企画でした。私が知らないこの会の初期に実施されているとのことでしたが、夕焼け小焼けの里から高尾の北北高尾山稜縦走コースを行きました。紅一点のカボちゃんもよく頑張りました。コースタイムよりやや早めに登り、下りは昨日来の雪が残っていて足元が悪く、皆さん苦闘されていましたが怪我もなく無事小下沢林道に下山できました。下山したところは鮫島先輩がボランティアで活動されている森林保護団体の小屋があり、鮫島先輩が出迎えて下さり、お仲間が紅茶を振舞ってくださいました。ありがたいことです。しばし休憩の後林道を下り木下沢梅林に向かいました。梅林はまさに満開で素晴らしい花見が2年分楽しめました。余談ですが、この地は中央高速関節の折の残土を持ったところに植林したそうで土の部分が薄く根っこが大きく育たないそうで、当初は梅も取れたらしいのですが、最近は身をつけない姥桜ならぬ姥梅になってしまったそうです。うばざくらは姥梅の方が漢字のニュアンスが伝わるように思うのは私だけでしょうか・・・?? そのあとはバスで高尾へ、そして何時もの天狗で乾杯!!

春告鳥って俺のこと?   (34 小泉幾多郎)

長崎紀行

先般”タウンウオーク”の企画でも書いたが、日本も知らないところばかりである。残された時間に、どれだけの街を尋ねられるかわからないが、まずは近代史の原点たる長崎へ行ってみようということに夫婦一致、珍しく直ちに準備にかかり、この14日から2泊3日の旅を試みた。

風頭公園に建つ竜馬像

長崎、と言ってもそこに抱くイメージは人によってずいぶん違うだろう。すべての国民共通の意識は原爆被害の聖地ということとしても、クリスチャンにとっては伝来時点からの殉教者の地、食通にとっては独特の料理や食材であり、はたまた思案橋ブルースから前川清まで数多いだろう。僕の場合は徹底して明治維新とのかかわりあいである。高校時代に日本史を選択しなかった僕の歴史知識はまず90%が司馬遼太郎の小説からのものだから、”竜馬がゆく”と”坂の上の雲“と”燃えよ剣“と”翔ぶが如く”、この4編がメインテキストであり、単発の作品なら“酔って候”に描かれたわき役ともいうべき人物像や、後日譚としての”峠”なんかも入ってくる。映像で言えばこれは何と言っても栗塚旭の”新選組血風録“に尽きる(新選組!も面白かったがすこし座興にすぎる感じがした)。

だから親しんできた遼太郎文学にたいして僕なりの意識を確定する、けじめをつける?、ということも今回の目的だった。オヤエの興味は当然とはいえ、大聖堂だったり本場ちゃんぽんだったりグラバー邸だったはずであるが、ま、3日間、ほぼ8割は足で歩いた旅だった(中心部には路面電車もあるのだが、端から端まで歩いても、高尾山二往復くらいのアルバイトであろうか)。

今考えてみて、これは夫婦一致した見解なのだが、長崎は “優しい” 街、というのが今回得たイメージである。第一に街路がほかの街のように碁盤目という感覚が全くなく、縦横斜めに優雅に伸び、坂がたくさんあって、それこそ ”坂の上”に何があるかと思わせる。ほんのりした夢がある。清潔である。それとなにより人が優しい。それも観光地ずれした人工的な優しさでなく、ほのぼのとした会話ができる人たちばかりだったのがなんとも嬉しかった。

維新前夜のありようが見つかるかと長州山口を初めて訪れたとき、第一印象として思い浮かべたのは ”山紫水明“ という一句だったが、そのわりに人々には硬質な感じがあり、萩はなんだか人を寄せ付けないような感じがしたし、高知はぼくには明るすぎた。開国当時の歴史をたどるとすればあとは鹿児島と会津若松にはどうしても行かなければならないが、そこはどんな印象を持っているだろうか。土方歳三終焉の地、函館・五稜郭は如何。

今回の第一の目的は坂本龍馬がかの“海援隊”を組織した、”亀山社中”の建物であった。オリジナルそのものではないが、発見された古い図面をもとに忠実に古材を使って再生された、ま、今の感覚で言えば4LDKサイズだろうか。上がってみて愕然とし、かつ感激したのは、竜馬が盟友中岡慎太郎とともに刺客に襲われ、絶命した京都近江屋から伝えられたという屏風と掛け軸があり、そこに飛び散った竜馬の血痕がはっきりと残されていたことだ。あえてしなかったが、手で血痕にふれることすらできた。これはまさに時空を超えた衝撃だった。

最後の日に余った時間をぶらぶら歩いていたら、蘭学者高島秋帆の自宅跡、というのに遭遇した。オランダから砲学を学び、日本での製造に成功、多くの若者が西洋の近代武器を学ぶ礎をつくりながら無実の罪に問われ、12年間蟄居させられた。もしこのブランクがなければ、近代化はもっと早く進んでいたのではといわれた人物である。

現地へ行くまでは、ま、お定まりの古い家と何かの遺品くらいだろうと思って行ってみたのだが、予想に反して、そこは空き地だった。春日の下の、ただの空き地。広さはおそらく三百坪くらいか、古くからの低い石垣に囲まれ、井戸の跡が数か所、ほかに礎と思しきものが散在しているだけ。むろん幾つかの説明板はあったが、まさにそれだけ。

高島秋帆邸の椿

なかほどにある石塀を回ってみたら、庭のはしに深紅の椿がただ1本、みごとな花を惜しげもなく落としていた。もちろん樹齢から言って当時のものではないが逆に昔に向きあった現代の魂が何かを問おうとして果たせない、その悔しさを吐露しているようで、見ているうちに息苦しくなってきた。この空き地が空き地であるからこそ持ち得る、歴史をつくりながらその結実をわがものとしえなかった人間の恨み、悲しさを表す雰囲気をそのまま、長く伝えて行ってほしいと思ったことだった。椿が散った後、夏草は何を語るだろうか。

原爆記念館は初日に訪れた。ここも広島とは違った、静かな、優しい雰囲気を持ち、ただ、祈りに徹した雰囲気であった。広島を訪れたときに誰しもが持つはずの、戦争への怒り、といういわば外向的な感情よりも、人間の持つ悲劇性を静かになだめよう、という内向的な感じがあった。浦上(爆心地)に存在する数多くのキリシタンの足跡がそのような感じをさらに強くさせるのだろうが。

グラバー邸や出島も一応訪れたし、ちゃんぽんも皿うどんも名物海鮮料理も食べた。カステラも文明堂だの福砂屋なぞは二級品ですよ、と地元の人が言っているブランドをまとめてを買い込む。。。。つもりだったがなんせ高いのに閉口。しかし、確かに上品で甘すぎず、うまいものだった。グラバー邸のあたりは出島がオランダ人専用から解放され、外国人特に英国人が居住した地域であり、いくつかの面白い発見があった。

本邦初ボウリングアレ
グラバー邸近くで発見

そんなわけで、観光旅行そのものも満喫できたが、僕には明治維新の背後にあった事柄を改めて感じなおさせた旅だった。今月からはじめたタウンウオークだが、もし、その延長プランがゆるされるものなら、再度、仲間とともに訪れてみたいと思わせる、いい旅だった。帰りは羽田から調布までのほうが長崎―羽田のフライトより長かったが。

思案橋ブルースを歌ったのが西田佐知子と思い出すまで時間がかかった。

こんどは本物の春らしいよ (34 小泉幾多郎)

寅さんに会って来たー同期タウンウオーク第一回報告

酒井政蔵先輩とか百名山二百名山のつわものはともかく、ワンダーにいたおかげで、世の中の多くの人よりはいろんな場所を訪ねて来た。しかし70年以上住んでいるわが東京に関しては、城南から都心の一部くらいしか知らない。意地になっているところもあるが、東京タワーにも上ったことはない。まして城北城東と言われる地域に至っては西も東も分からない、という現状に発奮,一念発起して、まずは城北は柴又あたりを歩こうかと思いついて企画したが一度は雨のため断念。考えてみたら同期の連中にも同じ思いの仲間がいるはず、と、例によっておせっかいな企画を立てた。いわく、”タウンウオークプラン”。高尾山でも遠くなった連中も誘えるかと、まず歩くのは街なか、参加申し込みなど不要、都合により中途切り上げ自由、食べるものだけは土地の名物。ただし連絡の関係もあるので、参加意思を表明した人に限ってリストを作って連絡する、いうのが骨子である。第一回の参加希望を確定、2月28日、寅さんのふるさと柴又をたずねた。

メンバーは安東、浅海、深谷、岡、翠川夫妻、鮫島夫妻、田中(新)、高島、山室、横山夫妻、吉牟田の16人という予想以上の大舞台になった。型どおり帝釈天まいりと彫刻、庭園拝見、山本亭、寅さん記念館、山田洋次ミュジアムと定番コースを歩き、残念ながら冬季運航停止の矢切の渡しを展望。

矢切の渡し 遠望

食事は横山隆雄先輩(この人は飲食の舞台には必ず重要な役目を果たす天命を受けているらしい)のおすすめ、塾員の経営するうなぎ屋で満腹。ここで流れ解散とし、三々五々、通りの商店街をぶらついて帰宅した。次回は月島でもんじゃ焼きはどうか、という雰囲気である。川を渡れば古戦場、夜はブリックあたりになるのではないか?

川千家で鰻重うまし
草団子か?佃煮か?