日本はサテサテとなります。誰か次の首相になるのかサッバリ分か
フランスの新首相 (在パリ 平井愛子)
日本はサテサテとなります。誰か次の首相になるのかサッバリ分か
旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
先日読んでいたミステリー本に、ドラクロワの1838年の絵画『
(余計なことかもしれないがググった結果を載せておきます)
結婚歴があり2人の子供もあったジョルジュ・サンドは、当時としては画期的にも、作家として「働く女性」でした。にもかかわらず、ジョルジュ・サンドは驚くほど家政や子供の世話が大好きであったそうです。7歳年下のショパンとの恋も、ジョルジュ・サンドの母性から発したのではという説もあるほど。天才ショパンの命を縮めたという悪評までうまれたジョルジュ・サンドとの恋ですが、この恋はさまざまな波乱を乗り越えて、なんと9年も続きます。
その間、『雨だれ』『バラード第2番』『軍隊ポロネーズ』『舟歌』『幻想曲』など、私たちの耳になじんでいる代表作が次々に生まれました。愛らしい『小犬のワルツ』は、ジョルジュ・サンドが飼っていた小犬の動きを描写したとも伝えられる作品で、2人の幸せな恋の姿の象徴ともいえるでしょう。しかし、別れはその直後にやってきました。ジョルジュ・サンドの子供たちとショパンとの関係が悪化、ジョルジュ自身ともうまくいかなくなったショパンは彼女のもとを離れることになったのです。
(編集子)小生は行っていないが、わがパートナーはだいぶ以前になるが親友と二人スペインに旅し,マヨルカでショパンとサンドの旧跡を訪ね、ショパンが使っていたピアノも見てきたようだ。ま、こーゆーところはセーブにはないわな。ビリー・ザ・キッドの使ってた銃、なんてのはどっかにあるんだろうが。
(話の始まり)
(41 斎藤孝ブログ記事)
………..夕食の献立の話だった。三匹の若鮎を買ってきた。天然物は高いので養殖物で我慢した。大型のよく肥えた鮎だった。こんがりと炭火焼にする。子供の頃、72年前に富山の神通川で友釣りしたことを懐かしんだ。
おとりの鮎は買ったものだった。生きているから慎重に尾に針を付けた。おとりのメス鮎に若鮎が群がってくる。恋の縄張り根性を熟知した鮎の釣り方。流れも速いからなかなか難しい。竿さばきをすること1時間。竿がしなり重くなった。釣れたぞ~~~(唸る)
ぴちぴちした若鮎は友釣りに騙されたのだ。爺様宅で「鮎の塩焼き」にした。ほんのりと苦味ある若肌。美味かった。庭のギボウシは満開だ。そしてシュウカイドウも真っ赤な花を付けてくれた。
「鮎の塩焼き」から「愛の塩焼き」へと変わった。
(42 河瀬斌)15年前の夏に友人たちと立山観光と「おわら」
(斎藤)鮎や」は庄川峡の近くにあります。富山でなくて隣町、高岡の近くです。これも超有名な鮎料理。カメは残念ながら行ったことなし。河瀬さんは、お金持ちなので大皿の鮎の塩焼きを注文した。羨ましい。これこそ本物、天然鮎ですね。ただし神通川のものではありませんよ。
神通川は飛騨では高原川となり、その支流の蒲田川は笠ケ岳と槍ヶ岳を源流とする。余談ですが、富山市は神通川と常願寺川に挟まれています。常願寺川の源流は「称名の滝」。地鉄(富山地方鉄道)の有峰口から入ると、「亀谷温泉」があります。亀谷一族の発祥の地です。これこそカメの本当の故郷。「Turtule Valley」、先祖は地侍あるいは山賊だった。越中は戦国期に一向宗が多く、治めにくい。
前田家以前の佐々成政は大変苦労した。成政は称名の滝沿いに弥陀ヶ原に行き「一の越」を越えて信濃に逃げたそうです。成政にちなみ「サラサラ峠」ともいう。カメは小学校5年生まで富山市の爺様宅で暮らしたので、カメのルーツにこだわっていました。貧乏人の誇りは怪しげなルーツだけ。
カメの「鮎の塩焼き」は神通川のものであり亀谷の川で育ったものだけです。
(44 安田)聞くだけで、
(42 下村)カメさん、安田さん、河瀬さん。 皆さん趣味というか興味の世界が広いというか、とにかく多彩。 絶対ボケませんね。
(36 浅海)お2人の言葉遊びについて行くつもりはありませんが河瀬さんの「鮎や」の若鮎塩焼の大皿盛りいかにも旨そうだなあ。是非鮎やに行ってみたいと思えてなりません。こんな鮎の塩焼の大皿盛り今でもいただけるのかな。是非神通川行きを考えます。
大昔琵琶湖の北西岸に注ぐ確か広瀬川とか言う川で釣りたての若鮎を嫌というほど沢山食べさせてもらった記憶があり
戦いが始まってすぐ、サーチライトによる照準射撃を行っていた旗艦神通が集中放火を浴び、艦橋に砲弾が直撃して司令官の伊崎少将が戦死する。それでも神通は主砲を撃ち続け、7本の魚雷も発射。ところが米駆逐艦が放った魚雷が命中し、船体が真っ二つに分断された。後部は瞬時に沈んだが、前部は沈まなかったので、残された一番砲塔のみで戦い続けた。
開始直後に集中攻撃を受け、大爆発を起こしつつも船体前部のみで2時間以上も戦い続けた神通の最期は、どんなものであったか誰も知らない。早朝に駆逐艦皐月と水無月が捜索に向かったが、艦影はおろか一人の生存者も発見できなかったのである。
直近に読んだ「赤と青のガウン」(オックッスフォード留学記)/彬子女王著は面白かった。女性皇族の著者が、その「帯」で書いているように、≪生まれて初めて一人で街を歩いたのは、日本ではなくオックスフォードだった≫その体験記であり、女性皇子として初の博士号取得までの瑞々しい筆致で綴られた留学の日々が読みやすい文体も加わって、一気に読み終えた。人との出会いが如何に大切か、その出会いを生かすも殺すも本人次第と私は日頃から思っているが、その点でも正に、この著者はその出会いを100%生かして生きて来た感がする。
私の個人的な経験では昭和38年(1963年)から1年間、会社から海外語学研修生として当時の西ドイツに着地し、先ずはゲーテ・インスティテュートの南独のローテンブルグ校でドイツ人夫妻の家に寄宿してドイツ人講師から日常会話が不自由ない程度までの授業を3カ月間受けたとことから始まった、その後の海外事業所勤務の経験と幾分か重なり、外国人との初顔合せ場面の描写などに特に興趣が募った。
学生時代に流行ったアガサ・クリスティやエラリー・クイン、クロフツなどの推理小説を読むには読んだが、映画「オリエント急行殺人事件」などを観ると、2時間で観られる映画の方が手っ取り早くて良いと思ったりしたもんだ。 ただ、母親が大変に書物好きで、自宅には『智恵子抄』、「岡本かの子の記」などが日常的にテレビ横の小さな本立てに差してあって、特に「万葉集」には詳しく、戦前・戦後の激動の時代に生きながら、読書仲間で行く「万葉集の旅」には、毎年、本当に楽しみにして出かけていた。私は自宅の文学全集から「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」など、文学小説を読み始めては止めの繰り返し。でもヘルマン・ヘッセの「車輪の下」などは比較的短編でもあり読み終えていた。
西ドイツでは、当時、ハンブルグに会社の支社はあったのだが、日本からの出張者・旅行者も未だ限られた人数しか来られなかった時代(外貨持出し制限が厳しくUS$500迄)だったが、ハンザ都市ハンブルグからの観光で同じハンザ都市のリューベックへ片道約2時間のドライブで土日の仕事の休暇日に連れて行くことも多かった。リューベックは第2次世界大戦で壊滅的な破壊を受けた街の一つであるが、作家トーマス・マンの生家が復元されて保存されているので、出張者・旅行者には、≪これが「ブッデンブローグ家の人々」などの作家トーマス・マンの生家です≫と説明していた。 この説明は私が最初に西ドイツに行った当時のハンブルグ支社長が、初めてリューベックに案内してくれた時に紹介してくれたセリフを、その後もそのまま使っていた。トーマス・マンは「魔の山」の方が有名だったと思ったが、いずれにせよ「ブッデンブゴーグ家の人々」を読み通した人を、私も含めて未だに一人も出会ったことがない。現地での案内人とは、大体こんなものだと、今でも時々情けなく思い出す。
(保屋野)映画、サックスに続き、文学ですか。その底知れないパワーの源は何でしょうか。前に、私は「美術検定」に関し、船津さんの1%と書きましたが、「読書」に関しては多分菅原さんの0.1%以下ではないでしょうか。たまに行く図書館でも、読むのは、「岳人」「ニュートン」「サイエンス」等の雑誌を拾い読みするぐらいで、超読書家だったというデコちゃんのファンとしては情けないと反省しています。
(金藤)「赤と青のガウン」先週 展覧会に一緒に行った友人が持ち歩いていました。話題になっていたそうですね、
オーディオで飯を食ってたチビ太、普通部時代から白いガウン着て実験室にいりびたってた変人フナツ、それに医学会の大物まで登場してここ数日間のオーディオ談義がさかんである。いずれその道に詳しいホヤノだの関西の粋人飯田なんかも論議に加わるんだろう。
小生の美術音痴についてはすでに告白の通りだが、それなら音楽はどうか、と言ってみても横丁の老人のツブヤキぐらいのところで、ま、それなりに人並みにいろんなものを聞いては来たけれどもオーディオシステムで再生された音がどうで、タンノイがいいか悪いか、なんて議論に加わるような、プロはだしの耳を持っているわけではない。しかし、一応は第一級アマチュア無線技士であり(このあたり、浅野サブローには黙っていてほしいのだが)多少はデンキの初歩を知っているものとして、せいぜいキロヘルツ界隈のデンキを扱う機器ができないわけはないんであって、とにかくなんか作ろうか、という気を起こしたのが退職してから数年してである。手始めに完全キットを購入して、指示通りに作った2A3 シングルアンプは今、小淵沢のセカンドハウスで使っている。ラジオ技術だったか出典は覚えていないがその道の大家の記事を読み、何度か手紙を出して教えを乞うて作った2号機が上掲の1台である。一応最低の測定器はそろえ、もっともらしいデータもとったりしたもので、現在は自宅のメイン機としてもっぱらわがパートナーの愛用にあずかっている。
その後、息子の結婚記念とかなんとか、雑誌の記事をベースに何台か作ったが、現在、自分のデスクにのっているものになると、もうデータをとったりするのも面倒になり、まともに音が出ればいいや、という程度だが、満足して使っている。当初は昔懐かしいレコードプレーヤを音源にするつもりだったが、レコード自体の入手も難しいし、結局、チビ太に頼んで購入した、一流メーカーのプレーヤーを使用。音源よりもこのほうがはるかに高価かつ高性能で、面倒をかけた彼には申し訳ない気もするが、ここしばらくは使うつもりである。
ここまでくるまでに、6BQ5のプッシュ、とかそのほか何台か作ったが、部屋の大きさからしても大型管プッシュプル、なんてのはデンキの無駄遣い、と知って、6V6シングル、というベーシックなものに落ち着いた。スピーカは家に手を入れたとき細工して本棚に埋め込んでもらったデンオンのペアである。
チビ太には申し訳ないが、ここのところ、一応は好きだと思っているチャイコフスキーもドヴォルザークもほとんど聞いていない。今日も暑い。小林旭の ”北へ” にでもするかい。
「何がメデタイ80歳」なんて話題に成ったり,佐藤愛子さんは100
当方も何となく「何がメデタイ86歳」時は1938年。紀元26
大学時代キザにシモンーヌド・ド・ボーヴォール「老い」-人生の
老いとはと縄文時代の平均寿命は何と15歳 明治時代でも44歳。そして平成は80代。令和は100歳かなぁ
ひとの老鴬ものを言ぬぞよ 五明
まだ若ししかし老鶯鳴くわいな 金子兜太
もよほして鳴く老鴬や新茶くむ 森澄雄
一老鶯唱名一途法法華経 中村草田男
乱鴬と瀬音に峡の温泉の夜明け 高浜年尾
「年を思わず、年を忘れず」「一読、十笑、百吸、千字、万歩」と
また佐藤愛子さんの本から引用 「人生は美しいことだけ憶えていればいい」とそして使い捨て時代
小生、信州に疎開した時に山羊程度しか居ない上田動物園に母か連
シモンーヌド・ド・ボーヴォール「老い」の最後に「人間は早死ぬ
痴呆と言う言葉から「認知症」に代えて、世界的精神学者で沢山の
たとえ話も書かれています。「在る子供がつまずいて倒れた、後か
まぁ人生100歳時代を謳歌して参りましょう。「老獪」に生き、
(編集子)無言。おれ、フナツより1年、上。
陸の孤島となってしまった、本日(8月30日)午後の我が家です。関東の大雨も心配ですね! ご安全に!
浸水したのは、我が家を取り巻く田んぼ(現在休耕田)で、今朝は添付の通り、水は引いていました。
この水は農業用用水路に流れ込みますが、この用水路がオバーフローしてしまうと、住宅への浸水もあり得ます。(浸水時の写真)
この用水路の水利権を我が家も有しており、年数回、この清掃・整備に駆り出されております。メンバーの大半が、日本の農業の将来を暗示するような、後期高齢者で、この先が思いやられます!なお、宅地は、若干の盛り土の上にあり、多少の浸水でも道路までのクセスは問題ありません。
(堀川)絵で描いたような洪水で浸水した家屋の写真ですね!
(島田さんのイーストウッド論に便乗です)
話が飛躍したが、クリント・
(関谷)私は、この会の、どう云う訳だか!、メンバーとなって、NHKBSのシネマシアターを中心に、何時か観て、コメントできるかとの思いから、本日の「次郎物語」を含め約900本を録画、BD・CDに落とし込んでいますが、今まで、まともに観たのは精々2~3本!貴兄がこなした本数はunbelievable!
私にとり、この先、身体が動けなくなり、ボケる前の楽しみとなりますかナ!子供の頃に、欠かさず観ていた白黒TV時代の「ローハイド」は懐かしいイ!
(金藤)クリント・
ローハイド」(Rawhide) は、ネッド・ワシントン(
7月・8月とコロナはまた増え続けています。つい最近は実妹がコロナ後の肺炎+誤嚥性肺炎で入院しました。最近はコロナの後遺症は軽症例も多いのですが、患者数は確実に増えているようです。
確かに昨今はコロナはもう「風邪のようなもの」と片付けられることが多くなりましたが、肺炎ばかりでなく、「元気が出ない」・「集中力がなくなった、ボーとして考えがまとまらない(以前にBrain Foggingという話をしましたね、覚えているかな~)」・「一寸働くと、体が鉛のように重く動かなくなる(クラッシュ)」などの後遺症患者さんが増えています。東京都も「コロナ後遺症専門ポータル」を作っているほどです。特に一回目感染より、二回目・三回目の方が後遺症は重いようです。「俺は3回もコロナに罹ったぞ」と威張ってはいられないのです。おそらく一部のコロナウィールスは自覚症状が無くなっても体のどこかに生き続けているのかもしれません。
コロナ後遺症は長く続く「咳・痰」・「微熱」・「呼吸困難」・「味覚障害」などの他に、「脳卒中」・「自律神経異常」・「心疾患」・「腎臓障害」その他、本文の冒頭に書いた症状も含めて200以上の後遺症が知られています。
予防は一つ。コロナに罹らないこと。それには、公衆に接する時はマスクを使用・手洗い・うがいが有用で、万一罹患したら1-2か月は無理しないことです。「俺は大丈夫だろう」という過信が一番危険です。 しかし何でもコロナのせいにすることも問題ですね。私も最近、右腕の筋肉痛でゴルフのバックスイングやテニスのサーブの際に痛みを感じますが、これもコロナの後遺症とするには一寸無理がありますかね~