今日は温暖な気候に恵まれたので、京都の嵯峨野に出掛けてきました。
本来は小倉山の亀山公園から常寂光寺、落柿舎、二尊寺から祇王寺、清凉寺を巡って帰るルートを考えていたのが、渡月橋周辺からの桜が未だ満開でその見事さで足が止まり、落柿舎辺りでランチする処が見つからず、竹の小径(竹林)辺りからはインバウンド観光客の人並みに呑まれ、途中で計画の完遂を断念して夕方帰宅しました。
桜の色は宝塚辺りよりはピンク系が強いように感じたのは日光の加減かも知れませんが、スナップを添付します。
旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
世の中は、寅の「Kanzei」の一言で、てんやわんやの大騒ぎ。
でも、外に出れば、桜は満開。しかし、ちょっと変だぞ。知人は、白くて気持ち悪いと言う。小生も、白いと思う。本来は、もっと鮮やかなピンクだったのではないか。知人は、お前と同じように、桜にもScrap & Build(小生に、Buildは当て嵌まらない)が必要だと。さて、本当に、何故、白くなったんでしょうか?
(中司)BINGO!実は昨日,墓参りに行って、
(44 安田)菅原さん、ジャイさん、流石、菅原さん、目のつけどころが「恐れ入谷の鬼子母神」。自分では答えが解るはずもなく、だらしなくネットを頼りに。できます。
(船津)櫻の種類は沢山在り過ぎで分からない。白かピンクか桜色かさてさ
今眼下の錦糸公園の櫻は満開です。遠くから観るとややピンク色に
しかし、遠くから観るとサクラ色に見えませんか。
マァ3日観ぬかの櫻かな 間もなくハラハラ散っていくことと思います。
調布と世田谷と三鷹がぶつかり合うあたりを仙川が流れている。甲州街道にぶつかるあたりの流れは完全に護岸作業で出来上がっていて味がないが、その分、両岸に菜の花が敷き詰められていて、桜とのハーモニーがしゃれている。深大寺はこの時期、人出が多くて往生するのだがここはのんびりした雰囲気が保たれている気がする。そのせいか、ここの桜は桜の色してるよなあ。
母校横浜平沼高校1年5組当時寒川先生が担当しておられたので、
まあそういうこともあり、1年生のクラスの
た。その都度幹事を決め、2011年の東日本災害と2020年2
ちょっと長くなりますが、過去に、行った場所を
(編集子)我々昭和29年慶応普通部卒業の仲間では少し前に卒業70年の集い、というのを催した。我々の場合は 80周年をどうするか? が話題となった。先輩、ま、平和な日本、と改めて感謝しましょうや。
画集「富嶽三十六景」(編:日野原健司。岩波文庫、2019年)。
北斎の「富嶽三十六景」については、散々言い尽くされているが、ここに、その画集を見たド素人である小生の感想を綴ることとする。ただし、題名は富嶽三十六景となっているが、実際の版画の数は四十六景もあることから、その一々の版画についての話しは省略する。その「富嶽三十六景」だが、これを描き始めたのが、北斎、70歳過ぎからだったと言うから、さすが画狂老人卍の名に相応しい。
その前に、先ず、この本の説明を簡単にしておこう。見開きの2頁を使って、図版を掲載し、その後ろの見開き2頁を使ってその絵の解説をする構成となっている。従って、先ず図版をジックリと眺め、解説を読み、それから、再び図版に戻ることを繰り返して行った。
題名は、富嶽とはなっているが、その富士山だけを描いたものは、たったの三点に過ぎない(「凱風快晴」、「山下白雨」、「諸人登山」)。残りの四十三景は、富士山は単なる点景に過ぎず、言ってみれば刺身のつまにも等しい。北斎が描きたかったのは、富士山にかこつけて、その前景にある情景だろう。人の営み、日常風景。その後景に、ちょこんと富士山を、申し訳程度に配す。だから、富士山自体は皆似たり寄ったりとなっている。また、その殆どの富士山は、太平洋側から見た表富士であり、日本海側から見た、所謂、裏富士は数が極めて限られている(「身延川裏不二」)。
小生が大変気に入っているのは、北斎が描いている様々な人の営みだ。例えば、「神奈川沖裏浪」では、押送船に乗っている者たち、「深川萬年橋下」では、橋を行きかう大勢の人々、「尾州不二見原」では、桶の内側を削っている桶職人、「甲州犬目峠」では、峠道を行く旅人、馬子たち、「武州千住」では、馬を曳く農夫、などなどだ。これらがあって初めて「富嶽三十六景」が成立する。
肉筆浮世絵ではなく、版画だから同じものが複数枚あるわけだが、ここで紹介されている四十六の版画がどの美術館に所属しているかを見ると、米国のメトロポリタン美術館所蔵のものが30点と圧倒的に多く、続いて、太田記念美術館が8点、島根県美術館が5点、すみだ北斎美術館が3点となっている。これだけを見ても、北斎が如何に西洋から極めて高く評価されているかが良くわかる。
小生、実物を上野の展覧会会場で見たが、意外だったのは、その大きさだ。これは版画であるから致し方なかろうが、その絵の大きさは、縦が26.5cm、横が39cm。従って、有名な「神奈川沖浪裏」の波乗り(サーフィン)に絶好の大波(英語のBig Wave)の迫力が余り感じられなかった。意外と小さいなと言うのが第一印象だった。それに加えて、会場の見物人が余りにも多く、全部を観て回るのはほぼ不可能だったので、「富嶽三十六景」だけを見ることにした。それでも、大勢の見物人の頭越しであったことから、ゆったりと見たることは出来なかった。従って、家に帰って、画集を見ながらユックリで我慢してしまうのだが、それでは本当に見たことにはならないだろう。
北斎と来れば、その娘、葛飾応以を忘れるわけには行かない。その展覧会会場のドンジリに葛飾応以の「夜桜美人図」が飾ってあったが、画狂人の娘だけあって、いや、若しかすると、明暗陰影の見事さは、親父を凌いでいるのではないかとの印象すら受けた。その見事さは、仮にレンブラントの絵から影響を受けていたとしても、これは全く応以独自のものであることは言うまでもない。傑作と言われる「吉原格子先之図」の実物は見ていないが、画集によってでも、その見事さは良くわかる。
(普通部OB 船津)富嶽三十六景は今話題の蔦重が版元では無く柳亭種彦『正本製(
菅原さんご指摘のように北斎は海外で認められ日本は反故紙扱いだった。。「ベロ藍」こと輸入化学染料プルシアン・
北斎は83歳から89歳の間に4回、
(44 安田)北斎は生涯で雅(画)号を30回ほど改名したという。「神奈川沖浪裏」
ラオスの古都ルアンパバーンのホテルは、フランス植民地時代の古き良き時代を感じるコロニアル様式だった。朝食はメコン川を眺められる場所で優雅に楽しんだ。メコン川の流れは全くなく湖のようで茶色く濁っている。
メコン川はチベット高原青海省に源流を発し、中国雲南省を通り、ミャンマー・ラオス国境、タイ・ラオス国境、さらにカンボジア、ベトナムをおよそ4200 kmにわたって流れ、南シナ海に注ぎ込む。東南アジアで最長の河川である。メコン川は「一帯一路」でも中華の絆を示しているようだ。ヨーロッパのライン川やドナウ川のように国際的な開かれた河川を期待したいものである。
「援蒋ルート」は80年前に険しい山岳地帯をイロハ坂のように切り開いた陸路であった。昔の写真からもいかに難路であったか想像できる。インパールやビルマから救援物資を積んだ連合軍のトラックはじぐざぐの山岳道路を登って行った。深い谷底にはメコン川が流れていた。
米国が主導する連合軍は中国の蒋介石と毛沢東を強力に救援したのである。今日の米国には、このような輝かしい能力は微塵もない。実に情けない。80年後の「援蒋ルート」は中国の「一帯一路」になった。立派に舗装された昆明ルートを中国のコンテナ・トレーラーの長い列が続いている。
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援蔣ルートの経路は、日中戦争の開戦から太平洋戦争の終戦まで途中、日本軍によって遮断されたり独ソ戦の開戦によって援助が滞ったものも数えて、4つある。本稿で取り上げられているルートはビルマルートと呼ばれたもののようだ。
新旧2つの陸路と1つの空路があり、当時イギリスが植民地支配していたビルマ(現在のミャンマー)のラングーン(現在のヤンゴン)に陸揚げした物資をラシオ(シャン州北部の町)までイギリスが所有、運営していた鉄道で運び、そこからトラックで雲南省昆明まで運ぶ輸送路(ビルマ公路:Burma Road)が最初の陸路で、日本軍が全ビルマからイギリス軍を放逐し平定した1942年に遮断された後、イギリスとアメリカはインド東部からヒマラヤ山脈を越えての空路(ハンプ:The Hump)に切り替え支援を続けた。いわゆるハンプ越えと呼ばれるものを実施した。しかし、空輸には限りがある上に、空輸中の事故も多発したため、アメリカが中心となって新しいビルマルートの建設を急ぎ、イギリス領インド帝国のアッサム州レドから昆明まで至る新自動車道路(レド公路:Ledo Road)が北ビルマの日本軍の撤退後の1945年1月に開通した。
トランプ大統領令に振りまわされた弥生でしたね。
我々が知らない日本ではわからなかったバイデン政権の失政の大き
ウクライナ戦争も直ぐに停止させられると豪語した華道やらプーチ
日本は米の不足と物価高の中で「あの人もやるのか」という10万
そんな中ハワイ・マウイ島の火災のほか、カリフォルニア州、カナ
そんなやや混乱の弥生も終わり、いよいよ卯月、新スタート。人口
日はながし 卯月の空も きのふけふ 加賀千代女
寝ころんで 酔のさめたる 卯月哉 正岡子規
ぬぎかへて 衣に風吹く 卯月哉 正岡子規
この頃は冬〜夏へと衣替えも変化かなぁ。春と秋がなくなってきて
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(34 小泉)「赤い河1951」は、エーガ愛好会の記念すべき第1号(202
豪快な男の香りがハワード・ホークス監督のどんな作品にも浸み込
テキサスの牛群移動は、1877年ジェン・チゾルムが、チゾルムレッド・リヴァーの上流で、コマンチ族に襲
た幌馬車隊の一行を助け、気丈
その(ハリ・ーケリー)は一頭20ドルで全
10人ほどの新しい部下を従
しかしこのような親子の関係の時代が現在
(44 安田)今日(3月28日)の放映で3回目となる「赤い河」を観ました。いつ観ても広大なテキサスの荒野をミズーリまで1600km (鹿児島から陸路大阪・東京を通り仙台くらいまでの距離)もの長距離を一万頭もの牛(テキサスホーン種)を運ぶ 100日にも及ぶキャトルドライブ、牛の暴走スタンピードは迫力があります。
野宿しながらの厳しいキャトルドライブの旅路は人間を極限状態に置き、喜怒哀楽と本性を炙り出すと同時に、主役の若者のモンゴメリー・クリフトと男盛りのジョン・ウェインの親子の世代間の葛藤と諍い、その中にあって渋いいぶし銀のベテラン ウォルター・ブレナンを交え三者三様のそれぞれの持ち味が「赤い河」を単純なカウボーイのキャトルドライブ映画でない素晴らしいヒューマンドラマにしています。映画の主題歌も大変良かったと思います。
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(2018年9月付け本稿記事の一部を転載する)
数週間前、何の気なしにテレビをつけたら、ジョン・ウエインの代表作とされる ”赤い河” をやっていた。原題は Red River。ウエインの脂の乗り切った時代の非常にすっきりした、これぞ西部劇、というやつで、当時(1948年)、売り出し中のモンゴメリ・クリフトが初めて西部劇に出演したという意味でも知られる映画である。僕も映画館でももちろん見たし、その後何回もテレビで見る機会があったのだが、今回、終わり近くになって、バックに流れるテーマ曲が、僕のもう一つの愛唱歌である My Rifle my pony and me (これもウエインの代表作といわれる リオ・ブラボーの挿入曲)と同じことに気がついた。そこで終わった後、何もあるまいがダメモト、とおもいながらグーグルに ”Red River, My Rifle and Me” と入れてみたら、なんと!一発でアメリカ人の女性が同じ質問をしていて、その道の専門の人が明確に答えをだしているではないか。この広い世界で同じ経験をした人がいるということもうれしかったが、この解説によると、この2本は主演ジョン・ウエイン、監督ハワード・ホークス、音楽ディミトリ・ティオムキンという共通点があり、1959年に作った ”リオ・ブラボー”にティオムキンが原曲をそのまま使ったのだそうだ。ちくしょうめ。
1.北アメリカ大陸に Red River という河は2本存在する。うち1本はミネソタ、ノースダコタのあたりから始まり、北上してカナダを流れる。この流域には開拓初期、レッドリバー植民地という地域があった。2本目はテキサス、オクラホマにまたがるミシシッピーの支流である。
(注)映画の初めの部分で、幌馬車隊と別れたウエイン・ブレナンが河にぶつかったところでキャンプする。ウエインはここで Red River と言っているが、当然、この2本目のことであろう。
2.西部開拓時代、牛肉は主として中部諸州から提供され、テキサス牛(ロングホーンと呼ばれる種類)はまだ流通していなかった。一方、大陸横断鉄道が徐々に伸び、カンサスあたりまで敷設されるようになり、ジェシー・チザムによってテキサス南部からカンサスまでのトレイルが開かれた。この道をたどって、テキサスの牛をカンサスまで運ぶという冒険がはじまった。
3.映画 ”Red River” はこのチザムトレイル開拓史をベースにした物語であり、その脚本のベースになった記録もあるのでこのような話は史実として裏書される(これによって成功者となったチザムを主人公にした単純明快勧善懲悪なウエイン作品が”チザム”(1970年)である)。
うんぬん。
それでは俺の ”Red River Valley” はどうなる? まだ資料は見つからないが、単に作詞者の創造した地名でないとすれば、どうも雰囲気は1本目のほう、つまり初期の英国植民基地のほうが合うような気がする。ジョン・ウエインは僕のごひいき俳優NO.1ではあるけれど、どう見ても come and sit by my side if you love me などとめんどくさいことはしないで、それじゃあばよ、と格好つけて馬を駆っていってしまうだろうという気がするからである。何方か、博識の方のご意見を頂戴したい。
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The Chisholm Trail was a major 19th-century cattle trail that ran from southern Texas to Kansas, facilitating the movement of longhorn cattle to eastern markets after the Civil War, and is named after the Scot-Cherokee trader Jesse Chisholm.
この解説にあるチザム・トレイルが現在どうなっているかは知らない。もう一つよく聞く名前に有名なオレゴン・トレイルがあるが、アイダホへ行った機会にそのあとを訪ねたことがある。たしかにここだ、と明記されていたのは何年か何十年かわからない昔につけられたのだろう深い轍が乱脈にきざまれていただけだった。もしこの轍の何本かが、往時の開拓者の馬車がつけた、そのものだとしたら、と思うと、よくある史跡なんかとは違った、現実味のあるものとして胸を撃たれたものだった。同じ歴史の彼方の話とはいえ、western movies が、例えば忠臣蔵なんかと違う印象を持たせるのは、こうした―適切な単語かどうかわからないがー一種の親近感なのかもしれない。