乱読報告ファイル (59)バリ山行     (51 斎藤邦彦)

藪漕ぎの小説「バリ山行」(松永K三蔵著)が芥川賞に選ばれました。私は文藝春秋9月号で読了しました。バリ山行とは「バリエーション山行」の短縮でバリ島旅行ではありません。

(1)藪漕ぎの思い出

藪漕ぎはワンダラーにとってはお馴染みの山行形態で非常時にも対応できる登山の技術を学ぶ重要なプランですが、夏合宿等では数々のエピソードを残しており仲間との「苦難と達成感の共有」の面もあったような気もします。

先輩から聞いた話も含めいくつかその例を挙げると

・這松の隙間に足を踏み抜いて身動きできなくなった。(ふりをして休んだ。)

・安いニッカホースを買って行ったら一日でボロボロになった。

・一日にコップ一杯の水しか自由にさせてもらえなかった。

・のどが渇いて我慢できず笹に残った朝露を歩きながら軍手にしみこませて啜った。

・一日中藪の中でもがいて地図の1cmしか進まなかった。

・一日中藪漕ぎをして午後に良いテントサイトが見つかったと思ったら今朝出発した場所だった。

等々思い出話のネタになっています。

(2)小説「バリ山行」について

この物語では兵庫県の中小企業に勤める30代の主人公が社内交流のため会社の登山部に入り休日に六甲山を仲間と一緒に歩いているうちに次第に山歩きの魅力に嵌っていきます。そのなかでバリエーションルートを毎週山行している同僚と出会い、初めてバリ山行を体験しその険しさや厳しさを知るというものです。

ストーリーは会社の方針変更などビジネスの変化に翻弄される中小企業の社員の感情とバリエーション山行の困難さを重ね合わせて展開しています。今までの山岳小説の多くは岩や雪をテーマにしたものが多かったように思いますが、地味な藪漕ぎの魅力や難しさをうまく取り上げて表現していると思います。非常に簡潔で平易な文章なので一気に読めるのも魅力です。

藪漕ぎファンにはお勧めの一冊です。

(編集子)面白い本が出現したものだ.編集子現役のあいだでは 藪漕ぎ というのはあくまでワンデルングの一要素(多くの場合ネガティヴな)に過ぎなかったし、自分も三国山荘創設の前後によく知られた 上越の藪 を何度か経験したくらいしかない。現在の現役の活動の中には “ヤブ” というジャンルが明確に定義されているようだが、自分の中では壮烈な稲包稜線通過第一号を目指したはずで惨敗した苦い経験を思い出すだけで、変われば変わったものだ、という感想しかない。しかしこれも若手(小生から見れば、の話だ、もちろん)OBの中での100名山レースのトップを走っているク二ヒコならではの感想だから親近感が生まれる。現役諸君にどなたかのルートで伝染していけばいいのだが。

エーガ愛好会 (279)僕の映画遍歴-イーストウッドのこと  (55 島田光雄)

今から7年ぐらい前だろうか、いくら見ても切りがない韓国ドラマを卒業し、1時間半から2時間で集中して楽しめる映画を徹底的に見てみようと一大決心をして、今日まで見続けている。継続していると洋画で1800本、邦画で500本になってしまった。対象ははずれが少ないテレビ放送の映画として、不在中でも後で見れるようにと録画、ダビングを行った。そして、何とか見逃しがないようにと週次で録画予約をすることが習慣となってしまった。最近ではすでに見たことがある映画が多く、覚えきれないので、一覧表を作成し、チェックしている。ただ、どこかのタイミングで、見ていない有名な映画を一本釣りで見ていくのも次の楽しみ方かと思うようになってきた。これらの中で、特に印象が残り、いつ見ても、何回見てもおもしろい、人生が映画そのものであるクリント・イースト・ウッドに焦点を当ててみたい。クリント・イースト・ウッドは単なる俳優だけではなく、どちらかというと監督としても大成功をおさめており、二束の草鞋が最も似合う超有名な映画人の一人である。

クリント・イースト・ウッドは何といってもダーティハリー全5作。ニヒルな刑事がかっこよく、事件を解決していく。あまりにも強くてスマート、ストーリー展開が早いので、あっという間に見終わってしまい、後味もすっきりしている。
こんな飛ぶ鳥を落とすように超有名な映画スターになったクリント・イースト・ウッドも映画の世界に飛び込んだ当時は売れない俳優で、何とかローハイドの役につき、次を狙っていたところ、同じく、無名に近かった映画監督セルジオ・レオーネのオファーにたまたま縁があり、主役を務めることとなった。逆に言うと無名のため、出演料が安く、有名俳優が断ったための結果である。この二人の出会いが、マカロニウエスタンの最高傑作を生みだすことになり、クリント・イースト・ウッドもはまり役のダーティハリーにつながる作品に巡り合ったと考える。このドル箱3部作「荒野の用心棒」、「夕陽のガンマン」、「続夕陽のガンマン」は監督・主演の知名度を徹底的に上げ、西部劇がヨーロッパで人気を博することとなる。特に最初の「荒野の用心棒」は東宝から「無許可によるリメイク」として訴訟をおこされたため、アメリカでの公開が遅れ、クリント・イースト・ウッドがそれまではヨーロッパでの人気が高かったことが面白い。また、アメリカ公開後はマカロニウエスタンのアメリカでの知名度を上げることとなり、この3部作がその後の西部劇に大きな影響を与えた。
この3部作を見て、興味深かったことは1作目、主役1人、2作目、主役2人、3作目、主役3人となり、クリント・イースト・ウッドの影が薄くなり、監督の人気を盤石にしたことだ。ただ、この後、クリント・イースト・ウッドはアメリカに転身し、西部劇でもそれ以外でも完全なる主役の座で大スターの道を歩むことになる。なお、2作目のリー・ヴァン・クリーフ、3作目のイーライ・ウォラックについてはこれ以来、私にとっては注目の俳優に位置づけている。
アメリカ転身後はドル箱作品で稼いだお金で、映画製作会社を設立、自ら脚本にも一部参加して、「奴らを高く吊るせ!」を公開。007シリーズより高い興行収入を上げ、成功の道を進み始めた。その後の西部劇の作品では、ドン・シーゲル監督の「真昼の死闘」、ジョン・スタージェス監督の「シラーノ」と続くが、自らも監督を行い「荒野のストレンジャー」、「アウトロー」、「ペイルライダー」といつも法外にいる一匹狼を演じている。そして、アカデミー賞4賞獲得の「許されざる者」は、クリント・イースト・ウッド最後の西部劇で、ローハイドから34年、監督として、俳優としての西部劇の集大成として世に送り出した作品となった。この作品が表現している勧善懲悪、友情、復讐心、家族愛、弱者救済は監督としての渾身の一撃となっている。

そして、西部劇とは別の道ではドン・シーゲル監督との出会いが大きい。二人は共同製作者となり、西部劇から離れた「マンハッタン無宿」を公開し、いよいよダーティハリーの本格的な製作に入る。ダーティハリーシリーズは治安が悪かった当時のアメリカの世相を反映している作品で、ハリウッドのアクション映画の代表作となった。また、この第1作目により監督のドン・シーゲルと主演のクリント・イースト・ウッドはそれぞれ高収入を得て、確固たる地位を築くこととなった。なお、第4作目の監督はクリント・イースト・ウッドが務めている。
クリント・イースト・ウッドの初監督作品が「恐怖のメロディー」。恐怖の女性ストーカーのスリラー。15年後にストーカーの鬼気迫る演技で話題となった「危険な情事」の先駆けの作品。初作品から人気を博し、監督としても認められるようになったもの。当時、子弟コンビであったドン・シーゲルもバーテンダーで出演している。そして、「アルカトラスからの脱出」で袂を分かつまでドン・シーゲルの手法を学び、共に監督としての名声を博した。その後は毎年のように監督作品を出し、自ら出演しない作品も手掛けるようになった。
その出演しない作品の中で一番印象に残っているのが「インビタス/負けざる者たち」。名優モーガン・フリーマンが南アフリカ大統領ネルソン・マンデラから自伝の映画化権を買い、監督をクリント・イースト・ウッドに依頼した作品。南アフリカ初の黒人大統領がアパルトヘイト(人種隔離)を克服し、スポーツの力(ラグビーワールドカップ)を借りて、国をまとめていく感動の映画。モーガン・フリーマンが人格者の大統領を好演しており、人柄含めピッタリの配役となっている。クリント・イースト・ウッドとモーガン・フリーマンの共演作の「許されざる者」「ミリオンダラー・ベイビー」についても、7歳違いでそろぞれ老練なの味を出し、モーガン・フリーマンの出演映画も楽しみに見ている。
その他、クリント・イースト・ウッドの映画は扱う対象も幅広く、死傷者を出した山岳のスパイ映画「アイガー・サンクション」、戦争映画の「父親たちの星条旗」、「硫黄島からの手紙」等意欲的に映画製作に取り組んでいることが垣間見える。
現在、94歳で最後と言われる映画製作に取り組んでいるが、90歳前後で作成した「運び屋」「クライ・マッチョ」はカッコよさは無くなったが、深みがあり、この年で全体的に飽きさせないこんな面白い映画が作成できるのかとただただ関心しきりである。「クライ・マッチョ」では90歳とは思えない、カウボーイ役を演じており、若かりし頃のイメージと重なり、感慨深げに見ていた。次の作品にも期待したい。

(編集子)ダーティハリー(1)を見た時の痛快な印象はたしかにあった。ただ小生にナンバーワンを選ばせてもらうとするとやはりグラントリノ、かなあ。もちろん、彼も俺も若かったころ、テレビで興奮したローハイド、は別にして、だけど。

 

一曲、聴かせようか?  (大学時代友人 飯田武昭)

諏訪湖周辺の逍遥から帰った翌々日に、ピアノ教室の発表会があり、一曲吹きました。

私のサックスのピアノ伴奏を付けて頂いている講師が、低学年の生徒さんを中心のピアノ教室を開いておられ、その発表会に、おっさん(お爺さん)一人、毎年参加して一、二曲吹いています。

私以外は全てピアノ演奏ですが、第2部のトップバッターで、今回は練習も足らずにラテン系のキエンセラ(Quien Sera)を吹きました。エントリー24名が猛暑にも関わらず、全員参加してくれたことを、ピアノ講師の先生が最後の挨拶で、弥や涙ながらに話されたことが印象に残った楽しい発表会でした。

(編集子)才能のある人はうらやましい。

かっこいい、おじさま。
でも、ズボンは俺と同じ太さで安心。
(PCがダウンしてしまい、しばらく休載を余儀なくされた。思い切って新型(今度はとうとうNECになった)を購入して、これが再開第一号になる)

諏訪湖の旅   (大学時代クラスメート 飯田武昭)

先週、信州の諏訪湖周辺を数日間うろついてきました。さしたる目的地もなく、諏訪湖の観光花火を観て、諏訪大社の8月1日の遷座祭(お舟祭)※の前々日に、

春宮と秋宮に参拝し、甲州道が中山道と交わる地点などを散策して、老舗そば屋「山猫亭」で天ぷら蕎麦を賞味しました。

翌日は天候が良さそうで気温も左程高くならないことを確認し、霧ヶ峰にバスで登り八嶋湿原の板道をゆっくり散策し、可憐に咲く草花や蝶を見て楽しみました。その次の日は諏訪湖岸の間欠泉の温泉玉子を食べながら、北澤美術館での特別展(エミール・ガレ没後120年記念)とサンリツ服部美術館を鑑賞するなど、猛暑を避けて屋内で過ごす時間を増やしました。

とてもKWV諸兄の北アルプス連峰の旅とは比べ物にならないのんびり無害な旅でしたが、2度夕食に出掛けた「すみかまど」のメニューはどれも手ごろな値段で美味しく、サービスも控えめで丁寧と、やたらと居酒屋が多いこの街ではラキーな出会いでした。

関西では“びわこ(琵琶湖)”という単語をしょっちゅう使うので、今回は“すわこ(諏訪湖)”という単語が直ぐに出て来なくて、ついつい、“びわこ“と先ず間違えて言ってしまうことが多く、後期高齢をしみじみ感じました。

※(2月1日に春宮にお遷しした御霊代(みたましろ)を神幸行列を以て再び秋宮へ御遷座する神事です。この遷座の行列 に次いで青柴で作った大きな舟に翁媼の人形を乗せた柴舟が御頭郷の氏子によって春宮から秋宮へ曳行されます)

(編集子)本稿の解説を読んで思い出したのが、最近読んだミステリ小説、”アマテラスの暗号” である。この本は、以前本稿で紹介したことがあるが、高木彬光の傑作(と勝手に思っているだけかも)”成吉思汗の秘密”、古くは英国推理小説黄金時代に書かれてこのジャンルの嚆矢といわれている ”時の娘” と同じように、故事を現時点で史実或いは事実としてわかっている事物と比較し、別のテーマを追求したものである(その結果、小生は高木に賛成して成吉思汗は平泉の館から脱出してシベリアにわたった源義経の後身だと信じている)。この本は高木の作品とは比較にならないほど多くの史実、写真、文献を提示して、天照大御神に始まる我が国創立の過程にユダヤ教にまつわる史実が重なることを説いた本であり、衝撃的なものだった。例えば、僕らのレベルでわかることで言えば、京都のある古刹の家紋(というのか、要は其の寺の印)が、あのダヴィデの星(ナチ支配下のドイツでユダヤ人が常に身に着けることを強制された、あの印)である、と言ったような数多くの事実がこれでもか、というくらい写真などとともに明らかにされる。また、飯田兄が言われているものではないが諏訪の有名な神事がユダヤ教で行われるプロセスと全く同じであるとか、遷宮という儀式がそっくりそのまま、ユダヤ教のしきたりと同じである、と言ったことが列記される。この本自体は一応ミステリの形をとってはいるが、全く異種の読み物として、知的興味満々、一読に値するものだった(正直 気味が悪くなった)。寝られない猛暑の夜、お勧めの1冊である。琵琶湖にはこういう話はないのだろうか。

巨人ファンにお尋ねします   (33 小川義視)

強烈な読売・巨人ファンのご意見を伺いたい。

先程YouTubeで「大谷の日テレ出禁問題」を見て感じたこと、報道業界・プロ野球でのナベツネの圧力も世界の大谷に屈したかという快挙です。日テレの代表的な夏恒例の「24時間テレビ」にどうしても出させるように、ナベツネが強烈な圧力を日テレ幹部に掛けていたようです。「たかが選手が…」という彼本来の考えです。

それに対して大谷と共にドジャーズ球団も完全に拒否しています。昔からナベツネの政界にまで及ぶ圧力に非常に憤慨していました。巨人以外の球団も随分泣かされたでしょう。 恐らく日テレは視聴率が強烈に落ちると思います。ナベツネという嫌な存在が大谷の力で葬られた快挙と小生は喜んでいますが、

(42 下村)『実ほど首を垂れる稲穂かな』ですね。彼も入社したてのころは真面目で仕事一筋。若くして頭角を現したようですが、周囲に意見をする人がいなくなってからは独裁体制の様相。ビッグワン、小林製薬に限らずトップに何も言えない会社はいずれダメになりますね。

お陰様でわが家はカミさんがうるさいほど口を出してくるから大丈夫!!

(編集子)事情は良く存じませんが、快挙ですね。ナベツネの傍若無人ぶりについては、後藤三郎がIBMで輝いていたころ、ナベツネとラウンドをしたことがあるそうですが、その時、彼はコースで平然として立小便をしたというのです。なんとも言葉を失いますが、こういう思い上がりには社会正義の鉄槌がくだるべきです。”わが巨人軍は永遠に不滅です” とチョーさんの名言がふさわしいジャイアンツであってほしいものです。

(44 安田)僕は野球少年だった幼少期より、野球は自らやると同時にプロ・東京六大学をテレビで観ていた。小学生の時、チョーさんが東京六大学の通算本塁打新記録8本目を左翼外野席へ打った対慶応戦もテレビで観ていた。当時は神宮球場の左右両翼は今より10m近く広く、ホームランが出にくかった。新記録達成日は、調べると1957年11月3日(文化の日の祝日)、小学5年生の秋だった。1965年に慶応の広野が8本で並び、僕と同期の法政田淵が1968年に22本まで伸ばした。現在の最多記録は慶応(のち巨人)の高橋由伸の23本、1997年に達成。田淵・高橋の時代は神宮球場左右両翼は狭く(現在と同じ)、ホームランが出やすくなっていた。
話は17年飛んで1974年10月14日のこと。社会人になって3年目、チョーさんの現役最後の試合が旧後楽園球場の対中日戦ダブルヘッダー第2試合目。国内営業の外回りが仕事だったが、仕事をサボり後楽園へ足を運び(前もって入場券を買っていた 確信犯・笑!)、両試合を生で観た。チョーさん、第一試合でホームランを打つ。彼のさよなら試合(ダブルヘッダー第2試合目)、巨人はベストメンバーで臨んだ。柴田・高田・王・長嶋・末次・黒江・土井・森・高橋善正(P)。対して、中日は星野・高木以下主力選手は出場せず。理由は、最終戦(チョーさんのさよなら試合)は13日の予定であったが雨で順延して14日になった。その年1974年ペナントレース、巨人はV10を逸し、中日が優勝。順延された14日は名古屋では中日の優勝パレードが既に予定されていて、主力選手は巨人最終戦には出場せず、名古屋にいたのだ。球場では、試合終了後、愛すべき口下手のチョーさんがピッチャーマウンドに立ち「巨人軍は永遠に不滅です」のスピーチをした。現場の球場一塁側内野席で見て聞いた。川上監督最後の試合となった。中日監督は元巨人の与那嶺要。この年、王が2年連続の3冠王を達成。日本シリーズ制覇は金田正一監督のロッテオリオンズだった。
かくの如く詳しく覚えているが、実は僕は大のアンチ巨人です。九州育ちの僕にとっては巨人は不倶戴天の敵、ジャイさん🙇すみません。

(編集子)長嶋の学生時代のゲームを一度だけ、神宮で見た経験がある。縦じまのユニフォームがよく似合う、憎らしいやつだ、というのが第一印象だった。
チョーさんの、というより ”わが巨人” の凄さを感じたのが歴史に残る(と勝手に思っているんだが)有名な対中日最終試合での決着ゲーム(2000年9月24日東京ドーム)だった。9回、満塁で(そんなこたあるめえ)と思っていた満塁ホームランをしかも小生ごひいきの江藤が撃ち、直後に二岡がライトスタンドのぶち込んだとどめの一発(https://www.youtube.com/watch?v=SeCXycrRMcY)。ほかにも例えば天覧試合のチョーさんの一発、とか、ま、結果的に天下をうならせる劇的シーンはやはりわが巨人軍。九州での獅子の遠吠えなんかじゃ、ねえ。

オリンピック選手村    (在パリ 平井愛子)

オリンピック選手村に行く仕事が有りまして、日本チームの垂れ幕を見つけました!

(安田)オリンピック村は終了後、民間に販売されるアパートになるのでしょうか?前回の東京大会の選手村は都心にあって交通至便でお販売されましたが大変人気高く、購入競争率はとてつもなく高かったです。

(小田)セーヌ川での開会式では、平井さんもおっしゃっていたように、首のないマリーアントワネットと血しぶき、セーヌを馬に乗り進むジャンヌ・ダルクの姿がフランスらしく、大変印象に残りました。そして、どこからでも見える《エッフェル塔》は、日本でいうと《富士山》のよう…今回も中心となり輝いていました。

久し振りにコンサートを聴く   (44 安田耕太郎)

昨夜は「麻布学園OBオーケストラ演奏会2024」をサントリーホールに、腰椎骨折から3年半経ち漸く外出出来るようになった”神さん”と一緒に聴きに行った。久し振りに音楽のシャワーを気持ちよく浴びた。指揮と総アドバイザーは愚息と同期だった、今では引く手あまたの鈴木優人(プロフィール下記貼付)。

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彼の演奏・指揮したバッハ・コレギウム・ジャパンコンサートを何回か聴いたことがあり、注目すべき逸材。昨夜のコンサートは、多くの世代に跨る卒業生楽団員から構成される謂わばアマチュア楽団をOBのプロ・鈴木優人が指揮するというのがプログラム。
先ず一部では、1960/S35年卒OB(大学はS39卒)のジャズピアニスト山下洋輔の82歳とは思えぬエネルギー溢れる、ジョージ・ガーシュインの名曲「ラプソディー・イン・ブルー」、続いて「サマー・タイム」の熱演に聴き入る。山下も
リラックして、笑みを見せながら鍵盤を叩いていた。インターミッションを挟んで2部は、モデスト・ムソグルスキーの大曲「展覧会の絵」が演奏された。
昨夜の演奏会では、世に知られたラヴェル編曲版ではなく、麻布OBのアマチュア音楽家(コンサートではトランペット演奏)による編曲版で世界初演とのこと幾度となく聴いたラヴェル版との相違は正直分からなかったが大編成のオーケストラの迫力を充二分に満喫。演奏自体も聴き応えのある中々のレベル。嬉しい驚きであった。

(編集子)ガーシュインもムソルグスキーもどうでもよろしい。何はともあれ、ミセス安田が快癒されたことが第一。無理を重ねられないよう、亭主の心配りとテイクケアが重要ですぜ。

KWVOB会 24年度夏合宿-実らなかったセンチメンタルジャー二イ

どの本だったか忘れてしまったのだが、上高地について触れた文章で覚えているのがふたつある。

一つは上高地、という呼称を聞いて、”かの 神河内 を 上高地、などという俗称にしてしまったのか” という、日本アルピニズム黎明期、この地をまさに神の宿るところ、とまで激賞した先人の嘆きであり、もうひとつはウエストンが日本を去る直前、徳本峠で “さよなら、ホタカ” と夫人の肩に涙した、という一節である。

現役時代から僕の記録に穂高の想い出はあまり現われない。縦走の終わりにピリオドとして訪れたとか、秋の定番であった涸沢BCで一般ルートをたどったほかは、卒業して間もなく、山岳部OBだった山川陽一からロープワークの実地訓練をうけながら北尾根を上り、グリセードでテントへ戻る、といういわばクラシックな登行を経験させてもらった程度だ。

2年の秋、涸沢から徳澤に下って来た時、徳澤山荘の前に大きな板看板が張り出してあって、”氷壁、完結” と書かれ、主人公魚津恭太の最後のことが簡単に書かれていたことがあった。この小説の背景にいつも意識されるのが涸沢だし、山に夢を賭ける人たちの ホタカ への想いがずんと胃の中に落ちた気がしたのを思い出す。卒業して間もなく、八方尾根山麓のヒュッテ 白い小屋 に通い始めてから、ストーヴのそばでの、オーナー大野さんのとつとつとした回顧に出てくる穂高、がすべて、僕なんかがわかる由もない滝谷のことと知って、また違う感覚を感じたものだった(なお”氷壁”、未読の方はぜひ一読をお勧めする)。

僕の ホタカ はこの岩稜を真に愛する人たちからすれば、ありきたりの、傍観者の勝手な思いにすぎないのだが、それでもいつか、それでも自分なりに青春の一部であった山々に ウエストン のむこうをはって、あばよ、ホタカ くらいは言いたい、という気持ちがあった。もうひとつ、社会人になった2年目の晩秋、当時関西で工場勤務をしていた田中新弥と落ち合って我々夫婦と3人、岳沢から前穂の秋、としゃれこんだことがあったのだが、その時に河童橋を渡ろうとしたら、なんと向こうから、今でも記憶にあるのだが見事な紅葉をバックに、同期の宮本健(ガン)が歩いてきたのと遭遇するという、誠にエーガ的な出会いをした。快晴の山麓の秋色のなかでのこの遭遇が、僕の ”河童橋” にまつわる想い出だ。現役時代は川内三千雄との名コンビで不死身といわれた宮本だが、宿痾には勝てず、こののち数年を経ずして旅立ってしまった。あの時のガンが歩いてきた、あの橋はどうなっているのか、という思いもあった。

今度のKWVOB会夏合宿が上高地の奥座敷、平湯集中で、なかに上高地散策というプランがあるのを知り、この地を訪れるのも たぶん、行けば今回が最後になるような気がして、参加させてもらうことにした。つまり今度の上高地散策はいい年をしてのセンチメンタルジャー二イ、のつもりだったのだ。古手の同行は同期の高橋良子、1年あとになるが親しくしていた加藤清治、国府田信雄。加藤は同期で三国山荘の主と誰もが認めていた故小林章悟の一番弟子、ミスター山荘と言われた職人肌の男である。

しかしながら、雲は岳沢の雪渓をちらつかせただけで稜線を動かず、穂高を見ることはかなわなかった。焼岳は2度ほど登ったことはあるが、あまり魅力のある山ではない。ただ、大学4年時、所属していた平井ゼミの夏旅行を企画する立場になったので、同学年にいた翠川幹夫としめたとばかり上高地旅行というプランを立て、本来ならば平井先生などと毎日同行すべきところだったが、知らぬ顔で奥又白の池へ行ったことがあった。その時、一応幹事面をして大正池とか焼岳、なんてのを案内したことが思い出され、大正池の澄んだ水と、泰然とした焼岳、親友との想い出をかみしめることになった。

此処まではよかったのだが、好ましい林間の散歩道をへてやってきた河童橋の、いわば惨状とさえいえる現状には声も出なかった。

オーバーツ―リズムとはまさにこれか。人が多いのはシーズンだし想像どおりだったがなんでこんなところにこんなものを作るのか、という気持ちだった。自然保護、という事では先駆者的な行動をとった地元の人たちがいたのに、大正池にホテルを造り河童橋を渋谷まがいにしてしまったのは、やはり欲望か。“神河内” の堕落を嘆いた先達たちに申し訳ない気持ちすら覚えた。

そんなわけで、今回のセンチメンタルジャー二イは消化不良のままに終わってしまった。ただ合計なんと百人という規模で集合し、年代を越えて語り合うことのできる、参加された船曳さん(34年卒-米寿、おめでとうございます)の言葉通り、この日本にふたつとないであろう、最高の同窓会に参加し、その一部であることが誇りに思えた。志賀のスキー合宿に森田先輩が持ち込まれた ”俺達の青春はまだ終わらない” という(タイトルもシンガーも忘れてしまったがいい歌だ―ご存じの方があればぜひ教えてください)、あの歌の通りの週末がただ、うれしかった。幹事各位に改めて感謝し、我々を見守ってくれた桑原、関根両兄に改めてお礼申し上げる。なお合宿の全体報告については別途ご紹介することにし、パートリーダの桑原君のメモの一部を付記する。

(平湯温泉集中夏合宿第一班 リーダー 桑原克己)            この度は、夏合宿1班 上高地のんびり散策プランにご参加頂き、誠に有り難うございました。お陰様で天気にもコースにも、また、メンバーにも恵まれ、事故もなく、のんびり楽しく安全にプランが実行できました事、皆さまのご協力のお蔭様と、感謝申し上げます。

大正池昼食後~河童橋~上高地バスターミナル 散策             コースタイムは実動100分(休憩20分)合計120分  歩数34893歩 

エーガ愛好会 (279) ”愛の讃歌” のこと    (HPOB 金藤泰子)

「愛の讃歌」は原詩はエディット・ピアフが作詞 日本で越路吹雪が歌って有名になった岩谷時子訳詞の歌詞より、ずっと激しい歌詞です。 私は仏語が(も)分かりませんのでもちろん原曲の和訳の歌詞を読んでのお話です。

エディット・ピアフは妻子ある世界チャンピオンのボクサーと恋をするのですが、その恋人が乗った飛行機が墜落してしまうのです・・・詳しい話は知りませんので 8月6日(火)放送予定NHK BSシネマ 「エディット・ピアフ 愛の讃歌」を鑑賞します。

エディット・ピアフ 愛の讃歌 8月6日(火) 午後1:00〜午後3:21

(編集子)これはKWVのOB連中にしか通じない話題だけど、38年卒の岩木義明が酒席でいつもこの歌を微醺を帯びながらいい声で歌ったものだった。頑健そのもの、小樽潮陵高校出身にふさわしく豪快な滑り、常にジョークを連発するまことに楽しい男のことを思い出す。

やっこがイメージする 愛の賛歌 とはおよそ似つかわしくない、でもどこかやさしい、そういう後輩のことだ。