この本の帯に、「借財10万両から蓄財10万両へーわずか7年で財政を建て直した備中松山藩(今の岡山県)の改革」とあったから、てっきり、儒学者である山田方谷(ほうこく)が、どうやって10万両を返済し、どうやって10万両を蓄えたのかが、縷々述べられるものと思っていた。ところが、この本は、羊頭を掲げて狗肉を売る類いの話しではないが、全く違って、何のことはない、返済し終わった後の後日談で、その主題は、正に江戸時代が終わらんとする幕末の動乱期を扱っている。
確かに、当初の思惑とは違った内容となっており、470頁をも超える長丁場となったが、大変、面白かった。松山藩の藩主である板倉勝靜(かつきよ)を江戸幕府の老中に召し出されたが故に、松山藩に降りかかって来る、朝敵の汚名をどのように漱ぐのか。そして、山田方谷を筆頭に時代の波に揉まれながら、懸命に生きる人々を描く、幕末群像劇でもある。
なかでも、極めて印象的だったのが熊田恰(あたか)の生き様だ。鳥羽伏見の戦いでは、藩主板倉勝靜の親衛隊長として大阪に詰め、その後、藩兵157人を率いて海路玉島(現在の岡山県倉敷市)に逃れるものの、朝敵として岡山藩に包囲され、恭順の証として、1868年1月22日、熊田は切腹し(43歳)、藩兵の生命と玉島を戦火から救うこととなった。年寄役200石取りの武士だったが、没後、300石取の家老となり、また、朝敵ではあるが、神となって熊田神社に祀られている。
物語りは、その熊田が山田を襲うところから始まる。何故なら、山田が卑賎の商家の出にもかかわらず、藩の財政を建て直したことにより、異例の昇進を遂げ、藩内の怨嗟の的となっていたことから、「君側の奸は除かねばならん」。しかし、山田を直接知り、その謦咳に接するに及んで、山田の並外れた無私さに敬服し、素直に、山田の用心棒となる。それが、最後の最後、逆に熊田が切腹することになるとは、何とも皮肉な話しではないか。
山田の藩財政を建て直したと言う盛名は、それこそ全国の津々浦々まで鳴り響いており、越後長岡藩の河井継之助、会津藩の秋月悌次郎などが弟子入りのため山田の下にやって来る。
加えて、伊豆の韮山代官、江川太郎左衛門、上州安中藩、新島七五三太(しめた。後の襄)などが登場し、その他に、澤田の架空人物が数多登場するのは言うまでもない。
確かに、江戸城は無血開城された。とは言え、革命には、つきものなのだが、会津の白虎隊しかり、五稜郭の幕府軍しかり、あるいは、この熊田しかりなど、その犠牲になった人々は枚挙に暇がない。そこに悲劇が生まれることになるのは言を俟たない。
最後、山田の詞、「世は移ろい、孤城は春にして、人は変わらぬ今日を迎える」でこの本は終わるのだが、その題名「孤城 春たり」はそこからとったものと思われる。
これは余談となるが、その後、山田は、岩倉具視、大久保利通らからその能力を高く評価され、明治政府の会計局(旧大蔵省)への出仕を求められ続けたが、老齢と病、郷学(一種の教育機関)に専念したいことから固辞し続け、明治10年、73歳にして亡くなった。なお、これも全くの余談だが、地元では、山田方谷をNHKの大河ドラマにと言う運動もあるらしい。また、板倉勝靜は、最後の最後まで佐幕を貫き通し、明治5年、特旨によりやっと赦免された。
なお、澤田瞳子には、画家、河鍋暁斎(きょうさい)の娘、暁翠を描き、直木賞を受賞した「星落ちて、なお」があり、これも、また面白かったことを付け加えておく。
***************************
山田 方谷(やまだ ほうこく)は、幕末期の儒家・陽明学者、備中松山藩士。方谷は号。諱は (きゅう)、字は (りんけい)、通称は安五郎。備中聖人、小蕃山と称された[1