AIは「知った」と言えるのだろうか ?  (41 斉藤孝)

コトバの意味を本当に理解するためには、身体的な経験を持たなければならない。すなわち、「記号接地問題」の解決が必要なのだ。体験と経験、皮膚感覚のアルゴリズムは、「オノマトペ」と「アブダクション」から暗示される。 

「オノマトペ」

私は隣の犬に吠えられて「ワンワン」と呼び、口がまわらなく「ニコニコ」と挨拶するだけだ。酒を飲むと気持ちが「ホンワカ」としてきて、血液の流れも「サラサラ」になる。いつも腹の虫が「ゴロゴロ」と泣く。

こんな幼稚なコトバを年寄りが使うと痴呆症の老人と見なされそうだ。ワンワンやヨチヨチ、ニコニコなど擬音語・擬態語を「オノマトペ」という。「オノマトペ」は身体の感覚に密接に関係している未開な幼児コトバである。 

「記号接地問題」

「オノマトペ」の研究がにわかに注目されている。それも最先端のAIの研究領域においてなのだから驚く。AI(人工知能)は頭脳だけを対象にし、身体を持っていないから「オノマトぺ」を発せられるのかという「記号接地問題」。すなわち記号(コトバ)が意味対象の実体を指示しているのかどうか、それを「接地」と比喩した。

特に、この「記号接地問題」ではコトバと身体のつながりを問題化する。「オノマトペ」は記号として何処へ接地するのか  ? 

ChatGPTなど生成AIは、記号を別の記号で表現するだけ、いつまで経ってもコトバの対象について理解していない。生成されたコトバはレトリックにすぎない。「記号から記号へのメリーゴーランド」という人もいる。 

『言語の本質』は、認知科学者(今井むつみ)と言語学者(秋田喜美)による共著で文庫本なので読みやすい。

人間は、「アブダクション」という、非論理的で誤りを犯すリスクがある推論を続けてきた。 コトバの意味の学習を始めるずっと以前からである。それは本能的な行為といえる。 人間は子どもの頃から、そして成人になっても論理的な過ちを犯し続けている。

ところが、「アブダクション」という臨機応変な曖昧な推論によって言語の習得を可能にしたという。 

「アブダクション」(abduction)

私は意味論で使われていることを思い出した。第三の推論と呼ばれ、論理的には間違う可能性を秘めた推論法である。これが人間の学習の根本にあって、言語や科学の発展を支えているという。人間は、間違うことによって進化してきたというのが「アブダクション」。

「正しい人」が評価される時代が続いたが、これからは「間違いながら進む人」が評価される時代になるのか。正論なのかどうか、一見したところAIに対抗し、負け惜しみのような理屈にも聞こえるが。 

ところで推論について補足。推論には二つの方法がある。演繹法と帰納法である。仮説(モデル)を証明するために用いるが演繹法はトップダウンに帰納法はその逆でボトムアップに結論を導く。

最近のデータサイエンスは帰納法を採用している。おそらく生成AIなども帰納法を応用しているだろう。演繹法は、分類表を例にすると分かりよい、まず上位に大分類がある。分からない事とわかる事を分ける。 さらに分からないことを何とかしてわかる部分と何となく分かった部分とにわけていく。

その同じ事を繰り返して分類の水準を下げていく。 細分類の構造が出来上がっていく。演繹法はトップダウンの推論といえる。 

帰納法は全く逆である。諸々のデータを集めて類似性を見出し、グループを作り出す。属性の似たものをグループにしても良い。属性は羽が付いているか、エラがあるか、足が二本あるかなど特性を見出して分類していく。 そしてそのグループ(分類カテゴリー)に名前を付ける。例えば、「鳥」という分類である。帰納法はボトムアップの推論といえる。 

「アブダクション」は第三の推論といわれ、推論というよりは「推理」といえるだろう。人間の個人的な心理的判断を介入させる。それをヒューリスティックという。つまり人間的な発見的な機転に依存させる。論理的には間違う可能性を秘めた推論法である。

ヒューリスティックに対比されることは、「アルゴリズム」である。こればかりはコンピュータに負けてしまう。AIは、帰納法によってアルゴリズムを処理していく。それは意外なことに単純なアルゴリズムなのである。コトバの山を力ずくで「データマイニング」する「データサイエンス」。 

「記号から記号へのメリーゴーランド」はコトバのレトリックを楽しむだけだ。これがAIの正体と言えるだろうか  ?  

 (編集子)” すなわち記号(コトバ)が意味対象の実体を指示しているのかどうか、それを「接地」と比喩した”。
上記の文節から解釈すると、まだ一つの記号系からほかの記号系への転換にすぎないAIが、実態を示すとき、それは 接地された、という、ということなのか?確かに電子回路は負荷を通った(仕事をした)電流を最終的には電源のもう一つの極に帰すことで終結するので、必ず ”接地”(通常、”アースする”と表現する) という動作が必要とされる。そういう意味で考えればいいのかなあ。この場合、電流が” ”仕事をする” ということが、”意味を持つ” ということに相当する、
ということなのか?難しすぎて、不安。
たとえば菅井君がAIに問いかけて、アメリカの政治について質問し、回答を得た。ここまでで、質問に対してchat は接地したのか? 彼が得た回答は、まだ オノマトペ に過ぎないのか。俺はこの回答に同意しないが、このばあいにはまだ接地していないのか?
よくわからん。ま、いいか。オヤエが外出から帰ってきたので、おととい、買いこんでおいたバドワイザにしようっと。