ノンフィクション、「力動山 未亡人」(著者:細田昌志、小学館出版、2024年)、「力道山」(著者:斎藤文彦、岩波新書、2024年)を読む。
力道山([相撲とは、力の道なり]がその名前の由来)は、戦後の一時期、正に日本の英雄だった。しかし、その力道山(本名:百田光浩)とは、一体、何者だったのだろうか。以下、小生の思い出と共に、その読後感を述べることとする。
日本では、戦後の1949年、中間子の存在を予言した湯川秀樹がノーベル物理学賞を授与されたが、当時、11歳の小生を含め、殆どの人にとってその本当の価値が分かるわけがない。一方、勝ち負けがはっきりして分かり易いスポーツの面では、以下の様に惨憺たる有様だった。同じ1949年、日本のプロ野球は、米国のマイナー・リーグに属するサンフランシスコ・シールズに0勝6敗と完膚なきまでに叩きのめされ、戦前、五輪三連覇を成し遂げた陸上の男子三段跳では、1952年ヘルシンキ五輪で、1936年、田島直人が出した世界記録16m00を実に1m以上も下回る14m 台で6位と惨敗し、それまで数々の世界記録を打ち立てていた水泳の古橋広之進が男子400m自由形でビリッケツに終わるなど、全く意気の上がらない状況だった。
それに取って代わって、全く新しいスポーツであるプロレス(プロフェッショナル・レスリング)が、NHKに加えて、テレビが民間に開放されたことと相俟って、爆発的な人気となった。その理由は、言うまでもなく、1954年のプロレスのタッグ・マッチで、日本人である力道山が米国のシャープ兄弟を完膚なきまでに叩きのめしたからだ。つまり、敗戦国の日本が戦勝国の米国をやっつけたわけであり、当時、これほど胸のすくことはなかった(しかし、後に分かったことだが、実態は、朝鮮人とカナダ人、外国人同士の争いだった)。従って、テレビの受像機がまだ極めて珍しかっただけに、例えば、お寺の境内で、それこそ立錐の余地もなくプロレスに見入っていた群衆の中に小生も混じっていた。終わって、気持ちが浄化され(カタルシス)、下駄を踏み鳴らして意気揚々と帰途に就いたものだ。それは学生の小生に限らず、境内にいて高揚したひと全てがそうであって、人口増のボーナスと相俟って、いささかなりともその後の高度経済成長に寄与したのではないだろうか。
さて著書「力道山」だが、左巻きの岩波書店から発行された岩波新書であるだけに、極めて斬新な力道山像が生み出されるものと期待していたが、何の取柄もなく、結果は大失望。これは、購入して損をした数少ない書籍となったのは甚だ残念としか言いようがない。
一方、著書「・・・未亡人」の方は、知らないことばかりだったこともあって、大変、面白く一気呵成に読了した。力動山の未亡人(田中敬子)は1941年6月6日に生まれた。従って、1938年生まれの小生と三つ違いであり、ほぼ同年代を過ごして来たことになる。現在、彼女は存命中で、無聊を託つことから、水道橋は新日本プロレスの「闘魂ショップ」で働いている。
彼女は横浜市で生まれた。少女時代から学業優秀で、高校卒業後、発足間もない日本航空の客室乗務員となった彼女は、誰もが知るスーパースター(力動山)に見初められ、21歳で結婚する。すなわち、正真正銘のシンデレラだ。しかし、力道山はヤクザとの乱闘で、1963年12月15日、刺殺され(つまり、力道山のプロレス人生は光芒一閃、僅か10年ほどで終わってしまう)、その結婚生活はたったの半年で終わり、早くも22歳にして未亡人になってしまう。つまり、借財も含め、力道山の資産を相続することになるのだが、事業意欲誠に旺盛だった力道山が残した負債は都合して30幾円にも達していた。しかし、力道山と違って、彼女は商才に乏しく、辛うじて資産の切り売りで借金を返済し、結局、残ったのは、彼女が住むリキ・マンション(旧リキ・パレス)のみとなってしまう。
その他に、力道山の弟子であるアントニオ猪木とジャイアント馬場の角逐(力道山は、弟子に対しては今で言うパワハラが凄まじかったが、弟子の中では、猪木をアゴと呼んで、一番可愛がっていた)、それと並んで、日本プロレス、新日本プロレスなど、プロレス界の勢力争いなどが述べられているが、小生が最も衝撃を受けたのは、本書の帯にあるように、「戦後日本の闇の深さを際立たせることに成功した、・・・」。つまり、1965年初頭まで、プロレスの興行を取り仕切るのは、広域指定暴力団、東は東声会、西は山口組によって独占され、暴力団の資金源となっていた。力道山が創設した日本プロレス協会の会長が児玉誉士夫、副会長が山口組組長の田岡一雄、東声会会長の町井久之(本名:鄭建永)ではそうならざるを得なかった。
小生にとって力動山は、悪玉(例えば、カナダのシャープ兄弟など)を空手チョップでやっつけるヒーローだった。だが、事前の台本と違って、柔道の木村政彦を本気で叩きのめしてから、プロレスは出来レイスであって、見世物であることが明明白白となり、また、力動山が北朝鮮出身の朝鮮人(金侘洛)であることが明らかになるなど、小生のプロレスに対する興味は完全に消え失せてしまった。
ここまでは半世紀以上前の話しだが、さて、今、そのプロレスはどうなっているのだろうか。
(HPOB 菅井)慶応高校が2008年に46年ぶりに夏の甲子園(
卒業後は三菱商事に就職し、その後スペインのビジネス・
(44 安田)僕はシャープ兄弟 vs 力道山・遠藤幸吉 のタッグマッチ試合を郷里の小倉で試合会場のリング近くで観まし