TBS放映の「兼高かおる世界の旅」は、1960〜 70年代よく観た好きな番組であった。 学生時代に2年間休学して世界一周貧乏旅行をしたが(1968 – 70)、 その決行をドライブした原動力の一つがこの番組であった。 他に二冊の本からも影響を受けた。小田実著「何でもみてやろう」 (1961)と五木寛之著「青年は荒野をめざす」(1967)。 これら三つは全て外国を舞台にした旅行体験談と体験に基づく小説 であった。 海外旅行一般渡航者の外貨持ち出し額限度が米500ドル( 360円/1ドル)であった当時、 海外旅行は現実的でない夢のような存在であった。 兼高かおるは日印混血の洗練された気品ある女性で、 彼女の旅行体験番組に「いつか海外を旅してみたい」 と魅了された。
世界旅行の最中メキシコはユカタン半島を旅していて、 州都メリダを訪れた。 とある現地のおじさんに市内の大学病院に連れて行かれた。 会わせたい人がいる、が理由であった。
出て来た白衣を着た威厳に満ちた老人はドクトル・ ヴィラヌエヴァ(Villa Nueva – 日本語では新村さんだ) と言った。彼はその病院の院長で、1919年当地にて、 勤務していたニューヨークのロックフェラー医学研究所から派遣さ れて黄熱病研究に従事していた野口英世の助手をしていたとのこと 。今からちょうど100年前。遭遇したのが1968年。 野口後49年目であった。 訪れる日本人など殆どいないメキシコ地方都市、 懐かしい想いが強く日本人であれば誰でも、 という感じで連れて行かれ、歓待されたのである。 会った時ドクトルは多分70歳くらい、 野口に仕えていたのが20歳前後ではなかったか。 当時野口は42歳。
世界旅行から帰国後、「兼高かおる世界の旅」 を観ていてビックリ。ドクトル・ヴィラ・ ヌエヴァを訪ねた兼高かおると二人で歓談しているではないか! 二年前に会ったばかりのドクトルと。現地では有名人であり、 ノーベル賞候補に三度もなった野口英世の助手をしていたことも当 然知っての取材撮影であったのだ。ついでながら、 野口英世はメリダ滞在から9年後、 研究で訪れていたガーナのアクラで研究テーマの黄熱病に罹り客死 した、51歳。
メキシコから南下してエクアドルのアンデス山中 赤道記念碑を訪れた際、
赤道記念碑 (Ciudad Mitad del Mundo – スペイン語で世界の真ん中の意)