”こんな日もありけり” 予録

(10月2日アップの記事について楽しい反応があった.少し前に小泉さんのご投稿がきっかけで高校同窓の関谷君、横河電機時代の親友との3人の楽しい邂逅があったりして、このブログとやらを始めてよかったと思えてくる。今後もこのようなセレンディピティ(?)を期待したいものだ)

(39 堀川義夫)

10月2日付のブログ見ました。びっくりの写真ですね。

①一番左端の彼は名前は忘れましたが、志賀から山田峠に行くときに「のぞき」右の谷へ滑落! 私にとっては強烈に印象に残る場面でした。そのあと、彼の持っていたテントのメインを持たされました。ジャイさんの陰謀だったのでは?

②その隣(片手をあげている)は岡田正大君で、彼とは都立青山の同期でクラスメイトでもありました。別に、打ち合わせて入部したわけでなく、当時の新人の多さからFCで一緒になるまで、彼が同じワンダーに居たとは知らなかったくらいです。彼は卒後、NHKに入りその後、結構長くイギリスのBBCに出向になり、帰国後は自然界のドキュメンタリー制作に敏腕を発揮し有名プロデューサーになりました。 残念ながら、業者間との交渉事が問題視され、責任を取り退職、その後はわかりません。良い男でした!

③私の右隣は伊藤さんと言いました。直ぐにやめていますので、印象にもあまり残っていなかったのですが、ある日、家内が福井に里帰りし、高校の同窓会に出席したときに、主人が慶應のワンダー出身で、山が大好きなんです。と言う話をしたところ、この伊藤さんが堀川なら知っているということで盛り上がったそうです。家内とは福井の藤島高校でクラスメイトだったわけです。

④2日目のテン場で(少し雪が降っていたと思いますが)ジャイさんが、しきりに杉本さんに明日の天気を聞いていました。杉本さんはしきりにテントの窓を開け、難しい顔をして天気図とにらめっこをしていました。天気図をかける先輩を見てびっくりです。そして杉本さんの予報が翌日、ぴったしだったのにびっくりしました。

このプランは、草津でなく万座に下山したと思いますが・・・?? 一枚の写真からいろいろ思い出せるものですね。楽しみました!!

(37 杉本光祥)

志賀高原越えのFCの写真懐かしく拝見しました。こんな時代もあったのですね。

天気図は手塚さんと気象協会へ通って習得したものです。その後、銀行の山岳会で活躍した時も役立ちましたが、今は携帯のインターネットで見れる時代、進歩したものです。

気象は65才の定年後、予報士の資格を取ろうと勉強しましたが、目が悪くなり、細かい資料が虫眼鏡を使わないと見えなくなり、周りで講習を受講している人を見ても目のいい、ぴちぴちの若い人(特に女性)で、とても老人が取れる資格ではないと断念しました。

先月も老骨に鞭うってマダガスカルへ行ってきましたが、緑内障の進行で、下りの段差が見えず家内に先導してもらう始末で難儀しました。でももうしばらくは山旅を続けたいと思っています。

(37 加藤清治)

10年以上前だと思いますが岡田正大君が突然訪ねてきました。小生がリーダーのプランに彼が参加していたのでで懐かしくなり会いに来たとの事でした。しかし残念ながら彼のことはまったく思い出せませんでした。精神的にかなり参っているようだったので一度メシでも食べながらゆっくり話しをしようと言って別れました。その後何度か連絡をしましたが取ることは出来ませんでした。その件をオカマには話しましたが、貴兄と同じく高校とは知りませんでした。出来たら会いたいですね。   (編集子注: オカマとは39年卒小祝君の愛称)
(39 堀川義夫)
加藤さん
私は高1、2年と同じクラスで、仲良くしていました。
彼の華々しいNHKプロデューサー時代は、はた目から見ても羨ましく、
もともと、ペンギンの生態のドキュメントなど自然派だった彼には最適の
仕事場だったと思います。しかしながら、週刊誌に傲慢プロデュサーなどと
書かれ、彼の人生は一変したのではないでしょうか?
オヤカタに会いに行ったなんてちょっとびっくりです。
私が彼との年賀状のやり取りをしていたのも何時までだったか?
多分、もう、20年以上前のことだったと思います。
従って、彼との連絡のつけようもありません。
彼が元気にしているのを祈るばかりです。