”むかし”の語り部として    その2

大分前のことになるが、OB理事会の打ち上げの席で、たしか斎藤伸介(63-記憶違いであれば申し訳ない)から、”ジャイさんたちの代は勝ち組です!”といわれたことがある。彼が言いたかったのは、僕ら36年卒前後6-7年の代の卒業生が実に幸運なサラリーマン生活を送れた、という事実を言っていたのである。たしかに僕ら数代の間、日本経済は急速度で成長し、だれもが(明日は今日よりよくなるはず)と無邪気に信じていた時代だった。これから日本がどうなるか、想像もつかないが、我々がすべて去った後世の歴史は、この時期を20世紀日本の黄金時代だというかもしれない。そんなころのKWVの話をしておこうと思う。

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(文集第8章 百年祭ワンデルングと三田祭 から抜粋)

1858年に創立された慶応義塾が創立百年を祝う年に、大学2年生といういわば”働き盛り”で居合わせたわれわれは幸せであった。日本も戦後という時代を抜け出し、世界も冷戦のさなかとはいえ,いわゆる”パクスアメリカーナ”のもとで、緊張の中にも明るい未来を展望し得る時期、塾全体もまた、底抜けに明るい時期でもあったからだ。

わがKWVも、OB現役一致して念願の山荘建設を果たし、さあこれから、というタイミングに恵まれ、荒木床平総務に率いられた執行部は、塾自治会からの勧誘もあったようだが、部全体で意義のある事業に参画する意思を持ち、委員会でいろいろの案を議論した結果、福沢先生誕生の地から三田まで、慶応義塾の歴史をひもときつつ、”祖国を、俺たちの部が歩く(荒木総務の言)”という、まさにワンダーフォーゲル運動そのものといっていい企画を決定した。今考えると、内容ももちろんだが、この企画そのものを選定したとき、成功は約束されたといっていいように思える。しかしその規模の大きさに比べて、果たして踏破が可能なのかどうか、部員の安全は確保できるのか、委員会メンバーの不安は大変なものであったろう。

ワンデルングは1958年9月28日、第一班の九州中津出発に始まり、11月12日最終班が記念式典会場に福澤本家からのメッセージを届けることによってめでたく終了した。参加延べ人数は152人であり、われわれは各班の中軸を担うことができた。その過程を共有することでさらに友情を深め、仲間内の歴史が書かれ、いくつもの伝説が生まれた。

一方、塾当局は例年執り行われる三田祭にも記念の意味を持たせたため、全塾を上げて各部・グループが参加を希望してコマ取りも熾烈であったようだ。KWVはこの機会に記念ワンデルングを中心に部活動のアピールにつとめたが、もう一つのコアはできたばかりの三国山荘の紹介であった。全国規模のワンダー人気は依然続いており、その中でも部の山荘を有するということは重要であったし、建設過程にOBから現役までの、いわば義塾の誇る”社中”精神が息づいている、ケイオースピリットのあらわれでもあった。長い旅を終えたわれわれはまた新たな挑戦として三田祭活動に取り組んだ。

当時、アマチュアの間で操作できる、今でいう”動画”は8ミリ幅のフィルムを使う通称”8ミリ”であったが、カメラや映写機、さらには編集に使う機器も決して安価なものではなく、それほど多くの部員が使いこなしていたわけではない。われわれの2年先輩にあたる林田新一郎はその先駆者ともいうべき存在で、山荘建設の記録フィルムはコンテ作りからプロはだしのものが出来上がっていたが、100年祭ワンデルングでは何人かの手でばらばらに撮影されたから、それを編集し、画面を見ながら解説を考え、テープレコーダーに吹き込む(”アテレコ”と呼ばれた)作業が必要だった。3年生の手塚信利は家業として映画館を経営していて基本に強い(と信じられていた)ので、彼の家には連続数人が寝泊まりしてこの作業にあたった。

一方、山荘についてはその正確な模型を作ろう、というプランがあって、こちらは”ミスター山荘”小林章悟の自宅で深谷勝を中心としたチームが徹夜の連続で完成させた。この模型は長く保管されていたが、いつの間にかなくなってしまった。初代山荘が焼失してしまったいま、残念の極み。

徹底的にトリビアまでこだわった山荘模型と若き日のわが友

 

また、”スキー合宿も浅貝でやるんだ!”という暗黙の合意のなかで、ワークキャンプのあいだからゲレンデ作りを実施していたが、”ゲレンデにロープトウ(さすがにリフトとは言わなかった)を作れ!”ということになって、工学部にいた鮫島弘吉郎と高木圭二がその任を仰せつかった(今考えると上級生にも工学部がいたのになぜ2年生だったのか不明)。ワークキャンプ中のある深夜、東京から”拉致“されてきて工事にあたった鮫島幸吉郎の手記。

松本恭俊(34年卒)さんから「家にエンジンがあるから、それを使って、浅貝の小屋の横のゲレンデにロープトゥーを作りたい。お前らは工学部だから、設計しろ」と髙木圭二と小生に話があった。確かに工学部に在籍していたが、まだ、2年生、何もわからない状態であったが、引き受けてしまった。松本さんの工場を訪問、エンジンのスケッチ、そのあとは設計である。「機械設計便覧」を片手に、2人で図面を書いた。この図面で松本さんから部品を発注してもらった。出来上がった部品、エンジンを積んで、トラックに便乗し17号線を一晩がかりで、小屋まで行く。なぜかこのとき制服を着ていたようである(新注:中司はこれを見ているので確か)。土台を作るため、川から砂利を黙々と部員が運び上げてくれた。これで、使えなかったらと、どうしようか、雪が降るのが怖い気もした。

いよいよ雪が降り試運転だ、寒さでエンジンがかからない、小屋で大きなやかんにお湯を沸かし、エンジンを温める。やっとエンジンが動き出し、ロープも回りだした。何人ひっぱりあげられるか?恐る恐るロープにつかまる。2人~3人を引き上げてくれ、計算通りだとやっと強がりを言った。しかし低温の中エンジンをかけるのが大変、毎朝大きなやかんで御湯を持ち上げ,仲間がエンジンを温める仕事も率先して引き受けてくれた。雪の降る前、深谷、妹尾は雪が降ると大変だと、エンジンに雪囲いをし、運転中水分でロープが伸びると、調整してくれたそうである。最近になって、私の知らないところで仲間全員が、多々助けてくれたことを知った。仲間はありがたいと、改めて感じる次第である。

ここに記したいくつかの愉快なエピソードからもわかるように、100年祭のあったころの我々の生活はまさにワンダーの周りをまわっていたのだ、ということを改めて感じるが、街の姿も徐々に復興する経済とともに新しい形に変わりつつあった時代である。テレビ文化の拡大によりアメリカの文化、それも50年代後半の熱気が押し寄せ、風俗などもめまぐるしく変わっていった。日吉から近かった自由が丘にはまだ当時珍しかったジュークボックスを置いた喫茶店ができたし、渋谷や銀座にはハワイアンやカントリーソングをライブ演奏する店もできた。これに影響されて、テントサイト夕食後のミーティングにそれまでの”山の唄”にくわえて、新しいジャンルが持ち込まれるようになった。1級上にいた森永正幹がウクレレを持ち込み、それが一種のブームになったのは、先輩方から聞いていた”ドイツのワンダラー”のイメージの中に革の上着でギターを抱えて歩く、というような憧れに近い感情があったのかもしれない。この”カントリーソング”派は、森永から田中新弥へ伝承し、1学年下では荒木隆司や福永浩介(五色のスキー合宿の時、かのザイラーの映画にあこがれてウクレレを抱えて滑ったりした)、その次には綽名まで”ウクレレ”になった林裕や大原誠三郎などに受け継がれた。将来に微塵も不安を抱かず、学生時代を謳歌した時代の記憶である。