“襲われた幌馬車” と 麻生発言

”襲われた幌馬車” は懐かしき西部劇のひとつで一昨日、BS3番での放映があった。まず、小泉幾多郎西部劇論から。

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 6月5日西部劇「襲われた幌馬車」が放映されたことでの感想。
1956年製作。大分昔に観たので殆んど忘れていた。リチャード・ウイドマーク主演。「悪の花園」「ゴーストタウンの決闘」「ワーロック」等、ゲーリ-・クーパー、ロバート・テイラー、ヘンリー・フォンダという名だたる俳優との共演で損な役回りが多かったが、これは「六番目の男(1956)ジョンスタージェス監督作品」と同様、完全なる主演者なので気持ちよさそうに演じていた。 冒頭、ライフル銃を構えたウイドマークが、川越しに狙いをつけ、一人を射殺する。その後3人と打ち合い、二人を殺す。連中の胸にバッチが見える。悪役ウイドマークかと思いきや、後で判るのだが、コマンチ族インディアンの妻と子を殺された
敵を討ったのだった。しかし最後の一人に捕まり、縛られたまま馬で引っ張られる等残虐行為を受けるが、モルモン教徒らしき幌馬車の一団と同行することになる。胸バッチの残虐行為は同行してもやまず、それがコマンチと勘違いしたのか、コマンチと同居してきたからなのか、よくわからなかったが、最近白人警察官が黒人を地面に押さえつけて殺害という事件を彷彿とさせた。
幌馬車を率いるリーダーの先妻がインディアンでその娘と白人の後妻の娘との葛藤とかもあり、人種問題も提起される。監督はあの歴史上はじめてインディアン側から描いた西部劇と言われた「折れた矢」の監督デルマー・デイヴィスである。その後アパッチ族の攻撃をウイドマークの戦略で無事切り抜け、最後は軍事裁判での将軍による大岡裁定で、めでたしめでたし。 ウイドマークのインディアンに似た風貌で、出来る限りセリフの少ない、またストイックな流れるようなアクション等主人公にぴったりと合ったこと、ロケ地が、アリゾナ州セドナのオーククリーク渓谷で、カセドラルロックといわれる聳え立つ赤い絶壁の岩山等がいつも背景に眺めることが出来、楽しむことが出来た
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小泉論評にもあるが、この映画で人種差別の問題が提起された。よくあるテーマなのだが、編集子が特に興味を持ったのは、小泉さんが ”大岡裁き” とかかれている裁判でのウイドマークの発言である。裁判長のもと将軍が、たぶん、経験の浅い将校に率いられた陸軍の小部隊がウイドマークの活躍で救われたことに対して恩義もあったのだろう、殺人の動機について、斟酌したいという気持ちを示したのに対し、ウイドマークはあえて自分ははっきり意識して、冷血に(cold  blooded) 殺人をしたのだから、縛り首で結構だ、と明言する。驚いた将軍との間で展開された議論で、ウイドマークは 将軍は南北戦争で大勢の敵を cold blooded で殺したではないか、と詰問する。将軍はそれは同胞を守るためだったのだ、だから合法だ、と答えるのだが、同胞とは何か、それは南軍、北軍などと言う前に同じアメリカ人のことではないのか。そのアメリカ人にコマンチ族ははいらないのか。法とは何だ。白人に法があるようにコマンチにも法がある。自分たちが勝手に作った法律だけを言うのは間違っているではないか。この展開に将軍も困ってしまい、結果としてウイドマークを彼に好意を持つ女性と彼を慕う少年に預ける、ということでハピーエンドになるのである。
映画の背景としてその将軍が南北戦争に参戦していたということになっているのだから、1867-8年、日本で言えば明治維新のころの話だろう。それから150年以上、4世代くらいまえのことだが、いまなお、米国は人種差別問題で解決を見いだせていないようだ。これはこのまま、単一民族、単一文化の日本ではどうしても理解できない歴史の汚点として残っていくのか。
そこへ今、全米で問題になっている暴力事件である。これのきっかけとなった警官の行為は、たぶん白人相手ならしなかっただろうと思っていたのだが、その後いくつかのニューズ画面で、白人の老人や女性に対して警官が警棒で女性を殴る、デモを利用した商店の略奪が黒人だけの犯行ではない、など、日本では想像もできない行為が報道されるのを見ると、これは単に人種差別だけの問題ではなく、アメリカ人全体の成熟度、一言でいえば民度、の問題なのではないかと思わざるを得ない。
民度、という単語の専門的な定義は知らないが、ここでは生活水準とか、教育程度だけの問題だけではない、個人と社会とのかかわりあいを含んで使っている。つまり、自己の尊厳、ということと同じ次元で、公徳心、公共精神、おもいやり、といったことだ。このことを先日、英会話のレッスンで説明したら、英国人のインストラクタはそれを SOCIAL OBEDIENCE という用語で理解した。その時はなるほど、と思ったのだが、OBEDIENCE には服従とか、何か強制されている、というニュアンスがある。これに加えて彼は、日本社会の根本にある SHAME という感覚、”恥の文化”( “菊と刀” のルース・ベネディクトがこう名づけたように覚えているが定かではない)が機能しているからだ、と言う。
たしかにわれわれは ”人様に迷惑をかけるのは恥” というしつけを、学校教育よりも早くから、家庭のなかでされてきた(少なくとも昭和人には。話が飛ぶが、昨今はこういうことまで学校の責任だとする風潮があるのは誠に残念)。この伏線が、たとえば東日本大震災の時にはいかんなく発揮されて、前回もどこかで触れたと思うが、救援にかけつけてくれた米軍指揮官を感動させたし、なによりもそれが顕著に表れたのが、今回のコロナ騒動での国民全体の行動だったと思うのだ。
例によって”日本モデル” には安倍首相の政治宣伝らしきニオイが漂っているのはたしかであるが、少なくとも今までは日本でのコロナ封じ込めの成功が欧州の人には理解できず、なにか統計上の問題があるのではとか単なる幸運なのだという論議が盛んである。山中博士のいうファクターエックスが特定できるのを僕らは待つしかないが、一つだけ確かなのは今回の騒動が科学的問題であると同時に社会の成熟度の問題でもあるということだ。”マスクをする“ ことが、発生はともかく蔓延を防ぐために有効なのは、懐疑的だったWHOも認めたようだが,”する” ”しない” は科学上の課題ではなく、個人の公共意識の問題である。ロックダウンもせず(もっともできなかったのは憲法上の問題でもあるようだが)、個人の意識と自制に頼った今回の政府対策が効果を上げたのは、何といっても、そういう意味での日本人、日本社会の民度の高さを立証したのだと思ってきた。
”日本モデル” があやしいものなのでは、あるいは単なる幸運なので、政府の対応が功を奏したのではない、もっと(また例によって)欧米のような科学的対応をしなければならない”という論調がある。原因追及のために世界と強調していくのはもちろんんそうあるべきだが、例えば、昨日報道されたフランスの例にあるように、”人混みを避ける“ ”マスクをするのが効果的だ” と公的に認めてもなおかつ、実行しない人間が多すぎるため、外出証明書の携帯とか、高額な罰金とか、そういうものがないと実行がむずかしい、という現実は一体何なんだろうか。”欧州のように” 論者がその文化の中心と崇め奉るフランスはパリの現実はどう考えたらいいのか。いくらワインの銘柄にくわしくともソルボンヌを出ていようとも、”人様に迷惑をかけない” 意識がなければ現実の社会で正義は成立しない。そういう意味で今回のコロナ対応の多くは、 ”恥の文化” であろうと SOCIAL OBEDIENCEだろうとかまわないが、日本の民度の高さ、文化の表れとして評価すべきものだと信じてきた。
そこへ、数日前の読売新聞は麻生副首相の発言として、”外国から日本だけ特別な薬を持ってるんじゃないか” などという問い合わせがある。それに対して日本の民度の高さのためだ、と言ってやったらその後そういう話はなくなった” という報道があった。小生、このおじさんはどうも好感が持てない政治家のひとりなのだが、今回の発言に限っては、タロー,よく言ってくれた、という感じを持った。だからといって現政権がいい、と言ってるわけじゃないんだが。