ショパンとサンドのはなし  (HPOB 小田篤子)

先日読んでいたミステリー本に、ドラクロワの1838年の絵画『フレデリック・ショパン』を題材にした物が載っていました。ドラクロワの友人であった12歳年下のショパンがピアノを弾いていて、その横に恋人のジョルジュ·サンドが描かれている肖像画です。

翌年、1839年にショパンは結核の病状が悪い中、サンドと、寒い雨季のスペイン、マヨルカ島へ行き、《雨だれ》を作曲。
ショパンとサンドは1847年に別れ、ショパンは1849年に、サンドは1863年に、ドラクロワは1876年に亡くなります。ドラクロワの死後、アトリエから二つに切られた絵が発見されます。
この本では、X線に通すと…共にフランス語のサンドの字で…
✩サンドの部分には『雨音は永遠に』
✩ショパンの部分には『私達の愛とともに』
と浮かびあがってくる…となっていますが、1863〜73年頃に切離されたようです。
現在は、サンドの方の絵はコペンハーゲンの美術館に、ショパンの方はルーヴルにあるそうですが、真実は?以前、平井さんがドラクロワの壁画や、絵画を色々紹介してくださったのを思い出しました。

(余計なことかもしれないがググった結果を載せておきます)

結婚歴があり2人の子供もあったジョルジュ・サンドは、当時としては画期的にも、作家として「働く女性」でした。にもかかわらず、ジョルジュ・サンドは驚くほど家政や子供の世話が大好きであったそうです。7歳年下のショパンとの恋も、ジョルジュ・サンドの母性から発したのではという説もあるほど。天才ショパンの命を縮めたという悪評までうまれたジョルジュ・サンドとの恋ですが、この恋はさまざまな波乱を乗り越えて、なんと9年も続きます。

その間、『雨だれ』『バラード第2番』『軍隊ポロネーズ』『舟歌』『幻想曲』など、私たちの耳になじんでいる代表作が次々に生まれました。愛らしい『小犬のワルツ』は、ジョルジュ・サンドが飼っていた小犬の動きを描写したとも伝えられる作品で、2人の幸せな恋の姿の象徴ともいえるでしょう。しかし、別れはその直後にやってきました。ジョルジュ・サンドの子供たちとショパンとの関係が悪化、ジョルジュ自身ともうまくいかなくなったショパンは彼女のもとを離れることになったのです。

(編集子)小生は行っていないが、わがパートナーはだいぶ以前になるが親友と二人スペインに旅し,マヨルカでショパンとサンドの旧跡を訪ね、ショパンが使っていたピアノも見てきたようだ。ま、こーゆーところはセーブにはないわな。ビリー・ザ・キッドの使ってた銃、なんてのはどっかにあるんだろうが。

 

たかが塩焼のことだけではない話

(話の始まり)

(41 斎藤孝ブログ記事)
………..夕食の献立の話だった。三匹の若鮎を買ってきた。天然物は高いので養殖物で我慢した。大型のよく肥えた鮎だった。こんがりと炭火焼にする。子供の頃、72年前に富山の神通川で友釣りしたことを懐かしんだ。

おとりの鮎は買ったものだった。生きているから慎重に尾に針を付けた。おとりのメス鮎に若鮎が群がってくる。恋の縄張り根性を熟知した鮎の釣り方。流れも速いからなかなか難しい。竿さばきをすること1時間。竿がしなり重くなった。釣れたぞ~~~(唸る)

ぴちぴちした若鮎は友釣りに騙されたのだ。爺様宅で「鮎の塩焼き」にした。ほんのりと苦味ある若肌。美味かった。庭のギボウシは満開だ。そしてシュウカイドウも真っ赤な花を付けてくれた。

「鮎の塩焼き」から「愛の塩焼き」へと変わった。

(42 河瀬斌)15年前の夏に友人たちと立山観光と「おわら」を見にゆきました。その後五箇山に行った帰り、神通川沿いの「鮎や」という料理屋に入り、鮎を注文したところ、東京の様にたった一匹皿に乗っているのでなく、大皿に塩焼きした若鮎が山盛り出たのでびっくりしました(写真)。若鮎なので頭ごと食べたその美味しさが忘れられず、7年ほど前にその店を再度訪れましたが味は変わりませんでした。 その後自宅でも味わえるかと、取り寄せましたが、残念ながら焼きたての味とは比べ物になりませんでした。 カメさんはその近くの富山生まれですから、その店を知っているでしょうか?

(斎藤)鮎や」は庄川峡の近くにあります。富山でなくて隣町、高岡の近くです。これも超有名な鮎料理。カメは残念ながら行ったことなし。河瀬さんは、お金持ちなので大皿の鮎の塩焼きを注文した。羨ましい。これこそ本物、天然鮎ですね。ただし神通川のものではありませんよ。

神通川は飛騨では高原川となり、その支流の蒲田川は笠ケ岳と槍ヶ岳を源流とする。余談ですが、富山市は神通川と常願寺川に挟まれています。常願寺川の源流は「称名の滝」。地鉄(富山地方鉄道)の有峰口から入ると、「亀谷温泉」があります。亀谷一族の発祥の地です。これこそカメの本当の故郷。「Turtule Valley」、先祖は地侍あるいは山賊だった。越中は戦国期に一向宗が多く、治めにくい。

前田家以前の佐々成政は大変苦労した。成政は称名の滝沿いに弥陀ヶ原に行き「一の越」を越えて信濃に逃げたそうです。成政にちなみ「サラサラ峠」ともいう。カメは小学校5年生まで富山市の爺様宅で暮らしたので、カメのルーツにこだわっていました。貧乏人の誇りは怪しげなルーツだけ。

カメの「鮎の塩焼き」は神通川のものであり亀谷の川で育ったものだけです。

(44 安田)聞くだけで、見るだけで涎が無意識に垂れるほどの美味しそうな鮎塩焼きです。羨ましい限り。岐阜県長良川の上流、”郡上おどり”で知られた郡上八幡を訪れたことがあり、簗で捕獲された新鮮な鮎を食したことが一度ありました。もう味を覚えていませんが、絶品だった記憶は残っています。

(42 下村)カメさん、安田さん、河瀬さん。 皆さん趣味というか興味の世界が広いというか、とにかく多彩。 絶対ボケませんね。

(36 浅海)お2人の言葉遊びについて行くつもりはありませんが河瀬さんの「鮎や」の若鮎塩焼の大皿盛りいかにも旨そうだなあ。是非鮎やに行ってみたいと思えてなりません。こんな鮎の塩焼の大皿盛り今でもいただけるのかな。是非神通川行きを考えます。

大昔琵琶湖の北西岸に注ぐ確か広瀬川とか言う川で釣りたての若鮎を嫌というほど沢山食べさせてもらった記憶がありますが鮎やのように 旨そうだなあ、冷で一杯飲みたいなあ と思う「鮎の塩焼き」ではりませんでした。鮎やに負けない美味しい鮎の塩焼きを食べさせる店近場に無いかなあ。。。

(編集子)下村君の感想に同調。日本って平和な国だよなあ。
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ウイキペディアにいわく:
 神通川は、その源を岐阜県高山市の川上岳(標高1,626m)に発し、岐阜県内では宮川と呼ばれ、川上川、大八賀川、小鳥川等を合わせて北流し、岐阜、富山県境で高原(たかはら)川を合わせ、富山県に入り神通川と名称を改め、神通峡を流下し、平野部に出て、井田川、熊野川を合わせて日本海に注ぐ、幹川流路延長120km、流域面積2,720km2の一級河川です。
神通川流域は、富山、岐阜両県にまたがり、富山県の県都である富山市、南砺市、岐阜県の高山市、飛騨市の4市からなっています。
沿川及び氾濫域には、平成27年に開通した北陸新幹線をはじめ、あいの風とやま鉄道、JR高山本線、北陸自動車道、東海北陸自動車道、一般国道8号、41号等や国際空港の富山空港及び国際拠点港湾の伏木富山港(富山港)の基幹交通ネットワークが整備され、中部縦貫自動車道が整備中である等、交通の要衝となっています。また、富山平野では水稲の生産が盛んなほか、都市基盤の再構築が進む富山市街地や国内外の観光客で賑わう飛騨高山を擁し、富山城や高山の古い町並み、越中八尾のおわら等の歴史的・文化的資源にも恵まれ、古くからこの地域の社会・経済・文化の基盤を成しています。さらに、豊かな水の流れを利用した水力発電地帯としても知られており、中部山岳国立公園、宇津江四十八滝県立自然公園や神通峡県定公園等の優れた自然環境が数多く残されています。
(もうひとつの 神通 のこと)
昭和17年(1942)7月2日、アメリカ軍はソロモン諸島を足がかりとした反抗作戦を発動。8月7日に大挙ガダルカナル島に上陸し、その後約半年に渡る死闘を演じた。ガダルカナル島をめぐる死闘に終止符が打たれた後、戦場はソロモン諸島西部へと移った。  これに対し日本軍は、航空機と水雷戦隊による反撃を行った。そして5日の夜には兵員2400名、物資約180tを載せた7隻の駆逐艦と支援の駆逐艦3隻が、ニュージョージア島の北西に浮かぶコロンバンガラ島に向かった。  7月12日22時35分、米海軍36.1任務群の索敵機が日本艦隊を発見。日本側の布陣は旗艦が軽巡「神通(じんつう)」、それに駆逐艦「清波(きよなみ)」「三日月」「浜風」「雪風」「夕暮」、輸送隊として駆逐艦「皐月(さつき)」「水無月(みなづき)」「夕凪」「松風」が参加、というものであった。

戦いが始まってすぐ、サーチライトによる照準射撃を行っていた旗艦神通が集中放火を浴び、艦橋に砲弾が直撃して司令官の伊崎少将が戦死する。それでも神通は主砲を撃ち続け、7本の魚雷も発射。ところが米駆逐艦が放った魚雷が命中し、船体が真っ二つに分断された。後部は瞬時に沈んだが、前部は沈まなかったので、残された一番砲塔のみで戦い続けた。

開始直後に集中攻撃を受け、大爆発を起こしつつも船体前部のみで2時間以上も戦い続けた神通の最期は、どんなものであったか誰も知らない。早朝に駆逐艦皐月と水無月が捜索に向かったが、艦影はおろか一人の生存者も発見できなかったのである。

乱読報告ファイル (60) 赤と青のガウン ほか (大学時代クラスメート 飯田武昭)

直近に読んだ「赤と青のガウン」(オックッスフォード留学記)/彬子女王著は面白かった。女性皇族の著者が、その「帯」で書いているように、≪生まれて初めて一人で街を歩いたのは、日本ではなくオックスフォードだった≫その体験記であり、女性皇子として初の博士号取得までの瑞々しい筆致で綴られた留学の日々が読みやすい文体も加わって、一気に読み終えた。人との出会いが如何に大切か、その出会いを生かすも殺すも本人次第と私は日頃から思っているが、その点でも正に、この著者はその出会いを100%生かして生きて来た感がする。

私の個人的な経験では昭和38年(1963年)から1年間、会社から海外語学研修生として当時の西ドイツに着地し、先ずはゲーテ・インスティテュートの南独のローテンブルグ校でドイツ人夫妻の家に寄宿してドイツ人講師から日常会話が不自由ない程度までの授業を3カ月間受けたとことから始まった、その後の海外事業所勤務の経験と幾分か重なり、外国人との初顔合せ場面の描写などに特に興趣が募った。

学生時代に流行ったアガサ・クリスティやエラリー・クイン、クロフツなどの推理小説を読むには読んだが、映画「オリエント急行殺人事件」などを観ると、2時間で観られる映画の方が手っ取り早くて良いと思ったりしたもんだ。 ただ、母親が大変に書物好きで、自宅には『智恵子抄』、「岡本かの子の記」などが日常的にテレビ横の小さな本立てに差してあって、特に「万葉集」には詳しく、戦前・戦後の激動の時代に生きながら、読書仲間で行く「万葉集の旅」には、毎年、本当に楽しみにして出かけていた。私は自宅の文学全集から「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」など、文学小説を読み始めては止めの繰り返し。でもヘルマン・ヘッセの「車輪の下」などは比較的短編でもあり読み終えていた。

西ドイツでは、当時、ハンブルグに会社の支社はあったのだが、日本からの出張者・旅行者も未だ限られた人数しか来られなかった時代(外貨持出し制限が厳しくUS$500迄)だったが、ハンザ都市ハンブルグからの観光で同じハンザ都市のリューベックへ片道約2時間のドライブで土日の仕事の休暇日に連れて行くことも多かった。リューベックは第2次世界大戦で壊滅的な破壊を受けた街の一つであるが、作家トーマス・マンの生家が復元されて保存されているので、出張者・旅行者には、≪これが「ブッデンブローグ家の人々」などの作家トーマス・マンの生家です≫と説明していた。 この説明は私が最初に西ドイツに行った当時のハンブルグ支社長が、初めてリューベックに案内してくれた時に紹介してくれたセリフを、その後もそのまま使っていた。トーマス・マンは「魔の山」の方が有名だったと思ったが、いずれにせよ「ブッデンブゴーグ家の人々」を読み通した人を、私も含めて未だに一人も出会ったことがない。現地での案内人とは、大体こんなものだと、今でも時々情けなく思い出す。

(保屋野)映画、サックスに続き、文学ですか。その底知れないパワーの源は何でしょうか。前に、私は「美術検定」に関し、船津さんの1%と書きましたが、「読書」に関しては多分菅原さんの0.1%以下ではないでしょうか。たまに行く図書館でも、読むのは、「岳人」「ニュートン」「サイエンス」等の雑誌を拾い読みするぐらいで、超読書家だったというデコちゃんのファンとしては情けないと反省しています。

(金藤)「赤と青のガウン」先週 展覧会に一緒に行った友人が持ち歩いていました。話題になっていたそうですね、今なら文庫本が本屋さんの店頭にあるというので気分転換にと帰りに買って帰りました。 まだ、読みかけの本がありますので読み終えてからになります。

自分で選んだ本ばかり読んでいると同じ作家 同じ系統に偏るので、読む読まないは別にして、時々友人たちと今何を読んでいるのか聞きあっています。

 

 

 

オーディオシステムとやらについて

オーディオで飯を食ってたチビ太、普通部時代から白いガウン着て実験室にいりびたってた変人フナツ、それに医学会の大物まで登場してここ数日間のオーディオ談義がさかんである。いずれその道に詳しいホヤノだの関西の粋人飯田なんかも論議に加わるんだろう。
小生の美術音痴についてはすでに告白の通りだが、それなら音楽はどうか、と言ってみても横丁の老人のツブヤキぐらいのところで、ま、それなりに人並みにいろんなものを聞いては来たけれどもオーディオシステムで再生された音がどうで、タンノイがいいか悪いか、なんて議論に加わるような、プロはだしの耳を持っているわけではない。しかし、一応は第一級アマチュア無線技士であり(このあたり、浅野サブローには黙っていてほしいのだが)多少はデンキの初歩を知っているものとして、せいぜいキロヘルツ界隈のデンキを扱う機器ができないわけはないんであって、とにかくなんか作ろうか、という気を起こしたのが退職してから数年してである。手始めに完全キットを購入して、指示通りに作った2A3 シングルアンプは今、小淵沢のセカンドハウスで使っている。ラジオ技術だったか出典は覚えていないがその道の大家の記事を読み、何度か手紙を出して教えを乞うて作った2号機が上掲の1台である。一応最低の測定器はそろえ、もっともらしいデータもとったりしたもので、現在は自宅のメイン機としてもっぱらわがパートナーの愛用にあずかっている。

その後、息子の結婚記念とかなんとか、雑誌の記事をベースに何台か作ったが、現在、自分のデスクにのっているものになると、もうデータをとったりするのも面倒になり、まともに音が出ればいいや、という程度だが、満足して使っている。当初は昔懐かしいレコードプレーヤを音源にするつもりだったが、レコード自体の入手も難しいし、結局、チビ太に頼んで購入した、一流メーカーのプレーヤーを使用。音源よりもこのほうがはるかに高価かつ高性能で、面倒をかけた彼には申し訳ない気もするが、ここしばらくは使うつもりである。

ここまでくるまでに、6BQ5のプッシュ、とかそのほか何台か作ったが、部屋の大きさからしても大型管プッシュプル、なんてのはデンキの無駄遣い、と知って、6V6シングル、というベーシックなものに落ち着いた。スピーカは家に手を入れたとき細工して本棚に埋め込んでもらったデンオンのペアである。

チビ太には申し訳ないが、ここのところ、一応は好きだと思っているチャイコフスキーもドヴォルザークもほとんど聞いていない。今日も暑い。小林旭の ”北へ” にでもするかい。

 

何がめでたい86歳     (普通部OB 船津於菟彦)

「何がメデタイ80歳」なんて話題に成ったり,佐藤愛子さんは100歳越えても回遊魚を宜しく留まるところ無く書きまくっていますね。篠田桃紅・瀬戸内寂聴さん等女性はご長寿でした。

当方も何となく「何がメデタイ86歳」時は1938年。紀元2600年記念と東京オリンピック開催で沸き返っている頃、東京府東京市豊多摩郡中野村に生を受けました。父母・兄弟四人の内憎まれっ子一人残されて寂しいですが、皆様のお陰で86歳を迎え後に二年すれは米寿と結婚60年-ダイヤモンド婚-とこの縦長長屋に移転して早20年が同時にやって来ます。

大学時代キザにシモンーヌド・ド・ボーヴォール「老い」-人生の究極的意味-なんぞ小脇に抱えて歩いていたものですがどれだけ理解してのかサテサテ。そして映画「野いちご」-スウェーデン映画。イングマール・ベルイマン監督作品。名誉学位の授与式に向かう老教授の一日を、彼の悪夢や空想、追憶などの心象風景を交えて描写した作品。スウェーデン語の「Smultronstället」は、「野いちごのある場所」で、同時に「一人になって静けさの中で幸せを感じられる秘密の場所」の意味でもある。人間の「死」や「老い」、「家族」などの普遍的なテーマを扱った本作品は広く共感を呼び、ベルイマンの代表作として高く評価されている。に感動したり今この歳に成り再度読みたいし、映画も観てみたい。

老いとはと縄文時代の平均寿命は何と15歳 明治時代でも44歳。そして平成は80代。令和は100歳かなぁ。生物の中で人は他の動物と違い二本足で立って歩くことと、人の考えて居る事とかを感じる力を持っている。そして仲間を作り共生することでこれだけ地球を制覇して繁栄は続いて居る。何故??? 地球ではアフリカから世界に散らばっていき、今や80億人そして100億人に成ると予想されています。学者の研究ですと80万年前に一度1280人に人類は滅亡寸前になったそうです。これは地球の極寒による事のようで何故生き延びられたかはどうやら「火」を発見し暖を取ったり食事をしたりすることを考えた事だと推論されています。今度は「原爆」で人類滅亡かもね。「過ちは繰り返しません」で発展していくことを願っています。

ひとの老鴬ものを言ぬぞよ 五明
まだ若ししかし老鶯鳴くわいな 金子兜太
もよほして鳴く老鴬や新茶くむ 森澄雄
一老鶯唱名一途法法華経 中村草田男
乱鴬と瀬音に峡の温泉の夜明け 高浜年尾

「年を思わず、年を忘れず」「一読、十笑、百吸、千字、万歩」と言われますがどれも出来ていません。写真の師匠金井浩さんは90歳過ぎても毎日新聞広告の裏面の白紙のところに字を毎朝書かれ居ました。この事を多分実践されておられたのだと思います。出来ないですね。
また佐藤愛子さんの本から引用 「人生は美しいことだけ憶えていればいい」とそして使い捨て時代を嘆いてて、捨て方にも捨て方がある。その捨て方で次第にむごたらしくなっていくのを見るに付け、モノに対する愛着を捨てるということから、人は次第にきめ細かさの心を失っていく様な気がした成らない。と書いておられます。

小生、信州に疎開した時に山羊程度しか居ない上田動物園に母か連れて行ってくれた、そんな時母は何時もちり紙など落いるとゴミを着物の袂にしまい家に持ち帰って棄てて居た。そなことを観て居たので今でもモノが落ちていると拾いたくなる。アァ爺やだなぁ。

シモンーヌド・ド・ボーヴォール「老い」の最後に「人間は早死ぬするか、老いるか、それ以外の道はない。そして医学の進歩した現在、多くの者にとって老齢はいわば宿命であるにもかかわらず、若者はこれに真剣に考える者は殆ど無く、老人と自分には関係の無い異種族だとみなしがちだある。しかし、我々はやがてやってくるで在ろう老い、この人間最後の段階の次期においてこそ、人生の究極的な意味を付与する物では無いか。人生の最後の次期において我々はいかなる者となるか、それを知らずに人間の存在の真の意味を考えることが出来るだろうかと」と結んでいる。そして今や65歳以上の5.4人に1人が認知症患者だそうです。完全なる予備軍。しかし、物忘れと認知症は違い老齢化すれば当然「アレー」となるのは当たり前。

痴呆と言う言葉から「認知症」に代えて、世界的精神学者で沢山の「認知症患者」を観てきた長谷川和夫医師が「ボクはやっと認知症のことがわかった」と言う本は認知症に自らなったその認知症の専門医が書いた本から引用してみたい。長谷川医師は慈恵医大から聖マリアンナ医科大学理事長で認知症専門医で活躍され世界で初めて認知症の確認の「長谷川式スケール」を開発して認知症患者の発見に努力された。その長谷川スケールはこんな質問に答えるだけで判定出来るそうです。皆様如何。

たとえ話も書かれています。「在る子供がつまずいて倒れた、後から来た子供は手助けするのかと思ったら自ら隣に転び寝てその子供と顔を合わせて目を合わせ笑う、そしてその友と一緒に立ち上がる」こんな接し方が「老人」「痴呆症」にも必要であると。「暮らしの障碍」を如何に取り除きその人らしく生きていくように周りがするかで、世界は変わってくる。

まぁ人生100歳時代を謳歌して参りましょう。「老獪」に生き、例え「認知症」になっても怖くない世界を作っていくことが大事のようですね。本日「何がメデタイ86歳」に際して思いついたことを書いて自分を鼓舞しました。

(編集子)無言。おれ、フナツより1年、上。