父親が前年に殺され、今年母親が亡くなり、4人の兄弟が、葬儀に
製作時4人
冒頭河川に沿って走る蒸気機関車に聴きなれた音楽が伴奏する。音
葬儀に帰る長男ジョンを駅に出迎える3人の兄弟、「真昼の決闘」
ヘイスティングスとエルダー兄弟の戦いは、最初
以上概要だが、久しぶりに肩の凝らない痛快西部劇と言っても良い
旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
父親が前年に殺され、今年母親が亡くなり、4人の兄弟が、葬儀に
製作時4人
冒頭河川に沿って走る蒸気機関車に聴きなれた音楽が伴奏する。音
葬儀に帰る長男ジョンを駅に出迎える3人の兄弟、「真昼の決闘」
ヘイスティングスとエルダー兄弟の戦いは、最初
以上概要だが、久しぶりに肩の凝らない痛快西部劇と言っても良い
東京空襲の一般民間人の被害全体についてみると、東京の区部が被
https://tokyo-sensai.net/
東京都慰霊堂は東京都墨田区横網の横網町公園内にある慰霊施設。
住吉の角にも暫くの間戦争慰霊館を作る計画が出ていましたが何時
しかし、80年前の未明に僅か2時間の間にこの下町界隈のが紅蓮
錦糸公園は戦時中は空襲からの避難所としての役割や戦災で命を落
*****************************
空襲当時の風景と今の風景。 同じ碑が在るので同じ場所だと思います。左の高いビルが当家です
(以下ウイキペディアの解説)
東京空襲の一般民間人の被害全体についてみると、東京の区部が被害を受けた空襲は60回を越えます。確認された死者の遺体数は約10万5400人になります。負傷者は約15万人で、罹災者は約300万人、罹災住宅戸数は約70万戸です。焼失面積は約140㎢で、区部の市街地の約50%、区部面積の約25%に当たります。三多摩や伊豆諸島・小笠原を含む東京都全体では、空襲は100回を越えています。東京大空襲は、第二次世界大戦の連合国による植民地・占領地も含む日本空襲の一環です。東京への本格的な空襲は1945年3月10日の下町への大空襲を境に区分されます。すでにアメリカ軍は、都市の中で、住宅が密集し人口密度が高い市街地を、焼夷地区1号に指定していました。東京は当時の深川区の北部と本所区・浅草区・日本橋区の大部分などが焼夷地区1号でした。そこをまず焼夷弾で焼き払う絨毯爆撃が、この日から始まりました。焼夷地区1号の目標地域には、軍施設や軍需工場などの明確な軍事目標はほとんどなく、アメリカ軍の目標となった大きな軍需工場は精工舎や大日本機械業平工場のみで、築地、神田、江東などの市場、東京、上野、両国の駅、総武線隅田川鉄橋などが実際の目標でした。住民を殺戮し、それによって戦争継続の意思をそぐことが、主な目的でした。また、市街地を焼き払うことで、そこにある小さな軍需工場を焼くことも合わせてねらっていました。アメリカ軍は春一番のような大風の吹く3月に焼き払い空襲を開始することを目指して、日本向けの油脂焼夷弾を開発し、B29とともに大量生産をしていきました。
3月10日の下町大空襲は夜間に低高度から1665トンに上る大量の焼夷弾を投下した空襲でした。目標地域に4か所の爆撃照準点を設定し、そこにまず大型の50キロ焼夷弾を投下しました。これにより、大火災を起こし、日本側の消火活動をまひさせ、その後小型の油脂焼夷弾を投下する目印となる照明の役割を果たしました。 火災は北風や西風の強風もあって、火災は目標地域をこえて、東や南に広がり、本所区、深川区、城東区の全域、浅草区、神田区、日本橋区の大部分、下谷区東部、荒川区南部、向島区南部、江戸川区の荒川放水路より西の部分など、下町の大部分を焼き尽くしました。罹災家屋は約27万戸、罹災者は約100万人でした。 木造家屋の密集地に大量の焼夷弾が投下され、おりからの強風で、大火災となったこと、国民学校の鉄筋校舎、地下室、公園などの避難所も火災に襲われたこと、川が縦横にあって、安全な避難場所に逃げられなかったこと、空襲警報が遅れ、警報より先に空襲が始まり、奇襲となったこと、踏みとどまって消火しろとの指導が徹底されて、火たたき、バケツリレーのような非科学的な消火手段がとられ、火災を消すことができないで、逃げおくれたことなどの要因が重なり、焼死、窒息死、水死、凍死など、9万5000人を超える方が亡くなりました。
読売朝刊のシリーズ記事 ”食堂のおばあちゃん” の欄外 ”ソウルフード”というコラムに出た記事である。失礼ながら小生この記事がフィーチャーしているJOY君なる青年については全く無知なのだが、群馬の、しかも僕らには縁の深い土地の出身と知って親近感を覚えたので記事に目を通し、懐かしい事件を思い出した。
KWV三国山荘が完成しても、国道17号線三国トンネルがまだ掘削中のころ。山荘へ入るには湯沢経由は敬遠され、もっぱら上越線後閑からバスで法師温泉の手前まで入り、三国峠を越えるのがルートだったころだ。工事未完でもトンネルを通過することはできたが、例によって壁の奥には工事の犠牲者(がいたのかどうかもわからないままに)が埋められている、なんて怪談もあり、同期の大塚文雄などは一人で来たもののどうしても気味が悪く、峠を歩いて越えた、なんて話があったころのことだ。なんでだったかはすっかり忘れたが、こういう三国通いも初期の帰京の途次、後閑まで来て、駅前の、その後しばらく我々のたまり場になった渋谷のおばさんが経営する食堂へ入ろうとしたとき、駅前に うじんま焼 という広告看板を見つけた。一緒にいたのが美濃孝俊だったか、中島英次だったのかあやふやだが、へえ、これ、なんだ?と訳が分からず、渋谷のおばさんに大笑いされたことがあった。当時、僕らの常識としては横書きは左から、というのが当たり前だったが、戦前からの習慣で右から書く人もたくさんいたわけで、この看板が右書きで、そのうえ、焼まんじゅう が、まんじう と書かれていたのだ。
目にした記事の中で、紹介者としてJOY君は焼きまんじゅうをなつかしみ、わが故郷のソウルフードである、と書いている。故郷、というものを持たない僕の感傷は彼とは違っていて当たり前だが、このことを思い出させてくれたこの記事で、あの頃の上州への幾度かの旅、というと大げさかもしれないが、就職した後も勤務場所の工場が八高線北八王子の駅前であったこともあって、ことこととあの遅い八高線で夜遅く、何度も後閑は渋谷のおばさんの店に出入りしたこととか、あのころ高崎の鳥めしはたしかまだ90円だったな、とか、学割で後閑までいくらだったか、とか、いつの帰りだったか、中妻哲雄が席にいすわって調子っぱずれの歌を歌い続けて、高校時代後輩だったという安東静雄が迷惑そうに聞かされていたこともあったな、とか、はたまた、理由は忘れたが2年上の妹尾さんに駅でこっぴどく怒られたな、とか、そんな甘酸っぱい記憶だ。
うじんま焼き、がどんな味なのか、申し訳ないがまだ食べていない。この次はぜひ探してみるよ、JOY君。故郷の味を知らない俺の ”ソウルフード” になるかどうか、わからないけど。
PS と書いたものの、ソウルフード、という最近流行りだした用語の意味を僕は正しく理解していないかもしれない、誤用かもしれない、と気が付いた.識者のご意見を伺いたい。
”フォークソング” というのはどういう音楽か。辞書を引くと、民謡すなわち民間に伝承されてきた民族的歌謡、と書いてある。民謡、と逆引きすれば folk song が第一義に出てくる。しかし今ではフォークソング、という単語の意味は1960年代以降、アメリカ発の、かの地でのカントリウエスターンあるいはヒルビリーとひっくるめて呼ばれる”民謡”をオリジナルとする一連の反戦(当時はベトナム戦の最中だった)的、政治的な意味を含めて作られた一連の音楽をさすようだ(この映画の途中でも、背景としてだが一連の若者がカントリとフォーク、と議論している場面がちらっと出てくる)。 日本ではその反戦的意味を込めて作られた、”花はどこへ行ったの(Where have all the floweres gone)” が当時全国に広がっていたベトナム戦争への反感と相まって、たまたま流行していた ”歌声喫茶” などを通じて爆発的に人気を集めた。そしてこのような背景から、それまでのいわゆる流行歌というジャンルには収まり切れない、主張を持った曲がつくられるようになった。たとえば ”戦争を知らない子供たち” とか “フランシーヌの場合” なんかはその代表だろう。そしてその流れは若者の心情を歌った多くの傑作へと発展していく。僕にもいくつか気にったものがあるのだが、その中に ”学生時代の喫茶店” という曲があって、その歌詞の一部が僕の心に深く残っている。
君とよくこの店に来たものさ わけもなくお茶を飲み話したよ 学生でにぎやかなこの店の 片隅で聞いていたボブディラン
という一節だ。高校時代の終わりごろ飛び込んできた数多くの歌の中から、この曲が特に記憶にある理由は、このイントロに続く一連の歌詞が思い出させる僕の高校時代のことどもなのだが、次々と多くの歌手の名前が飛び交っていた時代に、ボブ・ディラン、という名前が妙に心に残っていた。
前置きが長くなった。今度、この映画のことを知った時、何が何でもすぐ見たい、と思ったのはこのボブ・ディランの実像を知りたい、と思ってからで、ほぼ1年ぶりでエーガ館へ足を運ぶことになった。こういう種類の作品は ”グレン・ミラー物語“ から ”ボヘミアン・ラプソディ” まで、過去に何度も見ているが、それらはあたりまえだが、あくまでそのミュージシャンの物語である。だが今回の映画では、そういうことよりも、彼がどういう背景で曲を書き、歌っていたのか、といういわばディランの人生観、そしてもし、自分が当時、空き時間が同じだった住吉康子なんかとよく行っていた自由が丘はセシボンで、設置されたばかりのジュークボックス、ハーレムノクターンや夕陽に赤い帆、ばかりでなくて彼の曲を聴いていたら、どう感じていただろうか、ということを知りたかった。そしてそんなものを感じた気がして、ストーリーの何か所で、ディランが夜の街を一人でさまよう場面が演奏シーンより心にしみたものだ。Blowing in the wind に始まって、世界で若者たちに愛された、ヒット曲が歌われ(主役のティモシー・シャランは歌手ではなく、実に5年間、楽器を含めての習得に費やしたという)、その過程で同じ時期にデビューしたジョーン・バエズや、彼を発掘したピート・シーガー(”花はどこへ行ったの”の作曲者)、僕のごひいきジョニー・キャッシュ(映画 ”ウオーク・ザ・ライン” でその人となりが描かれた)も紹介されるし、作中でディランの曲がつぎつぎと歌われる。それだけでも十分に見ごたえ聞きごたえがあるのだが、自分の生き方を探し続け、愛してくれた女性は彼のもとを去ってしまう、歌手としての成功物語ではなく、あの頃、つまり僕たちの年代の人間が過ごし、悩み、何かを求め続けていた時間を共有していた青年の話として心に響く映画だった。
映画の印象とは関係ないが、ボブ・ディランというのはいわば芸名だということを初めて知った(本名はロバート・ジンマーマン)。
(34 真木弓子)今日 ジャイのエーガ愛好会を拝読しました。
開けたら、ドンと「名もなき者」を観賞なさった感想文に同感で嬉
ティモシーシャラメのひたむき な 若さが心に沁みました。芯がシッカリしていますし清々しく素晴ら
小泉さんの「西部にかける女」 を拝読させて頂きました。映画愛好会の皆様は変わらず 博学多才でいらっしゃいますが、我等が小泉さんも流石ですね、ア
ざっと申し上げれば男優は優しく繊細で女優は意思が明確で活溌に
キエフ(今はキーウ)
ブロードウエイ出身で舞台劇の映画化を得意とし、演技指導、女優
1968」。西部劇とは言うものの、所謂バックステージもので、
シャイアンの町に、旅回りの一座ヒーリ劇団が着いたところから開
しかし土地
舞台で生きた馬を使ったりしながら、ソフィアを男
議だ。結局、借金を背負った旅芸人一座が巻き込まれるトラブルはボスであるデ・レオン(ラモンソ・ヴァロ)がメイプリーに5000ド
主役二人の間をかき回すメイプリー役のスティーブ・フォレストは
(飯田)色男のメイプリー役のスティーヴ・フォレストが、ダナ・アンドリ
マーガレット・オブライエンは「若草物語」のイメージが強く、他
ところで、この映画は製作者にカルロ・ポンティ(イタリア出身)
映画の劇中出てくる演劇は「トロイのヘレン」と「マゼッパ」です
(小田)アンソニー・クインとソフィア・
谷崎純一郎 ”金と銀”を読む。
谷崎は、1965年に亡くなっているから、この本については少々の説明が必要だろう。 先ず、これは、探偵小説編と銘打たれている内の一冊で、この他に、横溝正史「死仮面」、
甲賀三郎「盲目の目撃者」、夢野久作「暗黒公使」、小栗虫太郎「女人果」、佐藤春夫「更生記」などがある。しかし、小生は、この谷崎を含め、これらの本を読んだことは全くない。
そこで、「金と銀」なのだが、以下、五つの短編から成り立っている(括弧は、発表年)。しかし、結論から先に言ってしまえば、これら全ては、殺人が発生し、それを探偵役の人物が論理的な推理を働かせて解決する経過を主眼とした物語と言う探偵小説の定義からは相当程度、逸脱している。何故なら、この内、相手を殺し損ねて痴呆状態にした例(「金と銀」)、
殺人にまで至った例(「或る少年の怯れ」)があるだけなのだ。
確かに、探偵小説ではないのだが、さりとて、犯罪小説なのか、はたまた、フランス語で言うノワールなのか、何とも名状し難い。むしろ人間の底の底の底まで見つめた、極めて独特な谷崎にしか描けない、それこそ谷崎独自の世界なのではないかとの思いを強くする。そして、普通は、本を読んで気持ちが浄化される、所謂、カタルシスがあるのだが、そんなものなども微塵もない。ただ残るのは、人間、この不可解な生き物が浮かび上がって来るだけだ。従って、小生も好まないが、万人むきの内容とは到底言い難い。
小生の谷崎に対する読書歴は極めて貧弱で、有名な「細雪」は最初の1頁で早期途中棄権(実は、川本三郎に、「「細雪」とその時代」(2020年)と言う著書があって、そちらの方が読み易かったことから、すっかり読んだ気持ちになってしまった)、さりとて、完走した「刺青」は全く印象に残っていない。ただし、大変、面白かったのは、谷崎の明治時代の自身と日本橋を描いた「幼少時代」(1955年)、それに、谷崎家の女中の変遷を描いた「台所太平記」の二つだ。ただし、これらは谷崎にとっては余技であって、巷間、云われる独特の谷崎の世界とは全くの別物だ。従って、小生は、谷崎の読み手としては落第だし、これ以上、谷崎の本を読む気持ちも毛頭湧いてこないと思われる。
ただし、ここで一言断っておきたいことがある。それは、谷崎の文章だ。1920年前後だから、ほぼ100年も前の作品となるのだが、改行が少ないけれど、意外にも非常に読み易い。別に、旧仮名遣いから新仮名遣いにした旨を断っているわけではないので、地の文のままと思われる。
ここで、以下、夫々の内容について、簡単に触れておこう。
「金と銀」(1918年)。両人共に絵描きである銀程度の男が金の男の才能に激しく嫉妬し、殺し損ねて痴呆にしてしまう。
「AとBの話」(1921年)。これが、話しとしては、一番、面白かった。同年齢の従兄同士である、全くの善人(A)と全くの悪人(B)との相克。Aは全くの善人であるが故に、厳しい窮境にあるBである悪人を救うため、Bの要求通りAの作品をB名義で発表することを許す。逆に、善人のAはその作品の発表の機会がなくなったことから窮境に陥る。
「友田と松永の話」(1926年)。松永が、松永自身となり、そして、別人とも見紛う友田になりすます一人二役の話しで、これは極めて平凡だった。
「青塚氏の話」(1926年)。惚れ込んだ女優の人形を三十体以上抱えて毎日を過ごす異常変態者(本文には名前は出て来ないが、それが青野氏)の話し。
「或る少年の怯れ」(1919年)。兄嫁を殺害した兄が、そう疑っている自分にも兄からそうされるのではないかとの惧れを描く。
谷崎は文豪と言われているようだが、結局のところ小生とは全く縁がない存在だ。今は朝井まかてであり、物故した作家であれば山崎豊子、獅子文六あたりが小生には、正にぴったりと来る。
「ケイン号の叛乱」は、原作が「ピューリッツアー賞」の作品だけあって、ストーリーは面白く見応えあるエーガでした。。
この映画は、太平洋戦争下の(オンボロ)掃海艦「ケイン号」が舞台ですが、「戦争映画」ではなく、台風下の非常事態に際し、艦長に操舵能力無し,と判断した副官が艦長から指揮権を奪い(結果として)艦を転覆から救ったのですが、戦時下の艦長は絶対的存在で、叛乱は許されない行為であることから後に軍法会議にかけられ、「死刑か、無罪か」という「法廷映画」でした。
主なキャストは、①新米の海軍少尉(ロバート・フランシス)、②新任の(偏執狂気味の)艦長(ハンフリー・ボガード)、③副官(ヴァン・ジョンソン)④(作家志望の)通信長(フレッド・マクマレイ)、⑤敏腕弁護士(ホセ・フェラー)の5名ですが、存在感があったのは、②のH・ボガード-と⑤のホセ・フェラーで、特に後者は、死刑の可能性が高かった(被告)副官の無罪を勝ち取り、かつ、ラストで④の通信長を「叛乱を陰で誘導した」と糾弾する、カッコ良い役どころでした。彼はあまり有名ではありませんが、魅力ある俳優ですね。
ちなみに、ボガードは「黄金」で救いようがないワルを演じて、(ミスキャスト?)と「ガッカリ」しましたが、今回も「悪役~といっても偏執狂」で、好演ではありましたが、彼は悪役より(カサブランカの)ニックのような「ニヒルで男らしい役」が似合うと思います。。最後に、同じ「法廷映画」の(G・ペック主演の)「アラバマ物語」との比較では、感動や共感という面で、私はアラバマ物語を推します。
(編集子)このブログをおっかなびっくり、本屋で買った入門書と首っ引きで始めたのが2017年の夏なので発足以来足掛け8年になる。自分からの発信ではなく、できるだけ多くの友人たちとの付き合いを持ち続ける場にしたい、というのが狙いだったが、幸い、意図を理解してくれた友人たちのご協力で、それなりの達成感はある。中でも、ひょいとした思い付きで始めてみた、映画の話題を中心としたメル友グループ (エーガ愛好会)は映画の話題にとどまらず、いろいろな場面での情報、意見の交換の場となり、数回にわたって食事会などを催したりして、編集子の中学から大学までの友人たちや、職場での仲間などとの交歓の場として僕にはかかせないものになった。その投稿300号が最近達成できたので、何か記念になる行事はないか、と提案したのが、鑑賞した作品についてのエッセイのコンテストだった。通常であればだれかがまず投稿し、それに対してのフォローやら反論やらを語り合うのだが、今回はある一つの作品にできるだけ多くの人たちに同時投稿をやってもらい、事後にベストを選ぶ、ということを考えたのだ。しかしテレビでの放映日と投稿までの時間が短かったのと、作品 ”ケイン号の反乱” というタイトルから、いわゆる戦争もの、と誤解されたりしたこともあり、応募数が4通にとどまって、当初の狙いとはずれてしまった。しかし投稿されたのはそれぞれ味のある文章であり、また未知の情報も多くあったので、投稿原文をそのまま、紹介することにした。
ピューリッツァー賞を受賞したハーマン・ウォークの同名の世界的ベストセラー小説(1951年発表)を監督エドワード・ドミトリク、製作スタンリー・クレイマー、出演ハンフリー・ボガート、ホセ・フェラーなど当時のハリウッドの超一流スタッフ・キャストが総結集、映画史上に残る名作ドラマに作り上げた。大まかな内容は第二次世界大戦の太平洋戦域を舞台に、アメリカ海軍の駆逐艦掃海艇内での出来事とその後の軍法会議を描いているアメリカの軍事裁判映画。
映画はサンフランシスコ湾からハワイの真珠湾へ寄港する航路の周辺でのアメリカ海軍の老朽掃海駆逐艦ケイン号の艦上での新艦長とその部下たちの間の揉め事が、大型台風の襲来という想定外の出来事をきっかけに、艦長を追放し部下が取って代わって艦長を勤めるという規律違反の事件にまで発展する。
その事件で一時艦長の役を務めたキース少尉が軍法会議に掛けられ反乱行為と判決されれば絞首刑もありうる裁判で、被告を弁護した弁護士の有能な弁論で無罪になるというストーリーだ。結審後の弁護士が信条を吐露したところでは、この事件を小説に書こうとしていた作家としてのキーファー大尉と無罪放免となったキース少尉が再び乗船する老朽掃海駆逐艦の艦長が元のデウリーズ艦長(トム・チューリー)であるとの落ちが付いている。
この映画では新たに艦長として着任したクイーグ少佐(ハンフリー・ボガート)が部下に対して必要以上に規律に厳しく、それが次第に編執症又は偏執病かと思われる言動にまで発展する。後半の軍法会議で、この偏執症が過去8年間の過酷な海上勤務が原因のものかという点も論議されたが、最後に証言台に座ったクイーク少佐本人が、自らの不甲斐ない艦長としての非を認める短いが迫真に迫るセリフで、この裁判を被告無罪とする結審に至らせる。裁判では被告のキース少尉の弁護に立つグリーン・ワールド弁護士(ホセ・ファーラー)が、艦長の当時の精神状況を医学的に分析する専門医の証言に対して、実体験の無さで反論し、この弁論も被告の無罪への大きな援護となった。
それぞれの役を演ずる俳優陣が魅力的で、新艦長のハンフリー・ボガートは規律に極めて厳しい偏執症的な面と、時には部下を一斉召集に掛けて自分の寂しい心情を訥々と述べるなど、そして前述の裁判シーンでの艦長としての非を認める迫真の短い独白シーンなど、「カサブランカ」「三つ数えろ」「キー・ラーゴ」「アフリカの女王」「必死の逃亡者」「麗しのサブリナ」などで名演技を残した俳優ボギーの面目躍如。他にも、副長役のマリック大尉は、極めて上官に真摯に使える雰囲気をお馴染みのヴァン・ジョンソンが演じるが、彼は戦争映画でよく見る顔である反面、歌手・ダンサーでもあるので、ジーン・ケリー主演のミュージカル「ブリガドーン」やエリザベス・テイラー主演の小説の映画化「雨の朝パリで死す」などにも準主役を演じている。彼と仲間のキーファー大尉はテレビ・ドラマ「パパ大好き」で日本でも大人気だった俳優フレッド・マクマレイで、この映画の役では戦場以外では小説の作家をしている曲者という設定をソフトに演じている。話の中心のキース少尉(ロバート・フランシス)は、名門プリンストン大学出で一貫して艦艇では新人らしい振る舞いを上手く演じている。彼の恋人のナイトクラブ歌手(メイ・ウイン)との逢瀬のシーンは、多分ヨセミテ国立公園と思わせる大きな樹木と巨大岩石の公園やお互いの両親が二人の結婚については育って来た家庭環境の違いを心配するシーンがゆっくりと時間を取って挿入されていて、この当時のアメリカ人の結婚観(日本では恋愛かお見合いかの時代、現代は合コンか恋愛か?)が現代と大きく違っていたことを思い出すシーンでもあった。
直、劇中で偏執症又は偏執病と言う英語の単語は“Paranoia“と発音されており、今日では通常トラウマとかと表現される経験に基ずく一種の強迫観念のような精神疾患のことかと理解した。邦題の「ケイン号の叛乱」の叛乱だが、一般に“叛“は国に背いて偽(敵国・反乱者)に従うこと、“反“は君主の身に危害を及ぼすことなのだが、《軍事》でも〔上官に対する〕反抗、反乱と簡単な方の乱(みだす)という漢字を使うのが一般的なので、この邦画の題名は特に事件の重大性を強調する意味で使っているのかと思う。