錦糸公園さくら祭り-宴はオシマイ (普通部OB 船津於菟彦)

緋寒桜から始まり枝垂れ桜から大島桜・染井吉野等々次々咲き矢張り春の来ない日本は無い。やや今年は遅かったり早かったり櫻の開花はやきもきしましたが、自然チャンと巡って参ります。
ここ錦糸公園も華やかな宴がこの日曜日で終わり雪洞とかライトアップを片づけています。地球温暖化で春だか夏だか冬だか分からない今年の櫻の季節でしたね、このまま行くと2030年には櫻は咲かないかもと言う学者さんも居ます。寒暖の差があって初めて櫻は咲くようです。秋と春が無いような日本になって貰っては困りますね。矢張り春夏秋冬商い繁盛がニッポン。

初桜 折しもけふは 能日(よきひ)なり  松尾芭蕉
咲く心しだれ桜に置きそめし 稲畑汀子
さまざまの 事思ひ出す さくらかな 松尾芭蕉
提灯は 恋の辻占 夕ざくら 高浜虚子
夜桜も賑わいました
夜桜や 天の音楽 聞し人 小林一茶
夜桜に 後ろの闇の ありてこそ 今井つる女
一杯の ビールに酔いひて 夜桜へ 星野立子

夜桜はライトアップされ遅くまで多くの人が賑わいました。多少雨でも寒くても夜桜に酔い

散る桜 残る桜も 散る桜 (良寛和尚)

ハラハラ落ちる染井吉野。散る櫻と花吹雪を観ると何か人生を感じますね。あぁ今年も春は終わっていよいよ夏かぁとか。亡き友人を思い出したり。

トラさんの狂気に振りまわされていますが、戦後は芋を食べたりランプ生活もしましたね。贅沢は敵だ鬼畜トランプなのかなぁ。まぁ我慢比べ。繁栄しすぎた日本がトラさんのお陰で「普通の生活」に戻るチャンスかも。欲しがりません勝つまでは。一戸一灯一テレビで我慢なのかなぁ。
ぽつんと一軒の様に自給自足で幸せに心豊かに生活されて居られる方いますよね。

(編集子)そうか、そういう見方もあるのか。おめえ、時にはいいこと、言うなあ。

エーガ愛好会 (318) ”ロードショーが150円” 追補 (大学クラスメート 飯田武昭)

川本三郎「ロードショーが150円だった頃(副題:思い出のアメリカ映画)」の菅原さんの読後感に興味をそそられ、著者の川本三郎を調べたところ、菅原さんが述べられているように代々木の自家を昭和20年5月の空襲で全焼するなど、極めて我々の世代に近い経験をしている(その後の麻布中学・高校から1浪で東大法学部卒、朝日新聞・朝日ジャーナルは全く別)。

評論家・翻訳家であるのに、1950年代、60年代の洋画を沢山観てきて懐かしがっている点、私も共感を得る一人です。この種の映画評論に関するエッセイで面白く読めるのは和田誠の「お楽しみはこれからだ」や池波正太郎の「映画を観ると損をする」などで、川本氏の著書もその類の著書かとも思う次第です。

それにしても川本氏の著作の数は驚くほど多く、そんな中でロードショウ、2流館、3流館と、よくぞそんなに映画を観る時間があったな~と驚きます。多分、その点、私は数だけでは負けていないのでは?と密かに思っています。

菅原さん曰く                              ≪いずれにしても、こう言った1950/60年代の映画が連なって来ると、こう言う類いの本の一番イケナイところは、見たくなる映画がゴマンと出て来ることだ。当時を思い出して懐かしさが込み上げて来るのは、年寄りとしては、致し方ないだろう。特に中でも「ハリーの災難」「成功の甘き香り」「十二人の怒れる男」「渚にて」「アラバマ物語」など≫

このくだりで、私の感想ですが何れの映画も過去数年間に再見、再再見していますが、「ハリーの災難」以外は全てモノクロ撮影ですね。「ハリーの災難」以外は概ね明確なテーマ性、作者の主張がある映画だと思います。全て佳作・面白い(愉快と言う意味でなく観て面白い)映画です。

「ハリーの災難」ですが、制作当時に映画館で見た時が1番面白かったです。その後は観るたびに興趣が少しずつ下がって来たのは、映画の舞台がニューハンプシャー州、バーモント州の田園風景の紅葉の時期に起こる殺人事件と言うヒッチコック特有のシュチュエーションのために、この地方特有の黄色を基調にした紅葉の色の美しさが徐々に経年劣化で薄れてくるためと感じています。西部劇の名作「シェーン」なども同じ理由で、公開当時が一番楽しめ、昨今のテレビ放映では相当に色彩の劣化が進んでしまっています。「拳銃王」も割合近年(2020年)にBSシネマの放送がありました。再見してみます。

 

藤沢蓮池公園 - ブキさんのこと     (41 斉藤孝)

老人仲間とのラジオ体操は近くの蓮池公園で楽しみます。小さな湖水は蓮で一杯になります。やがて赤い蓮の花が見ごろになります。水辺の蓮池公園には数本の大きな赤松と柳があります。

ここは悲劇の公園でもあります。平成17年(2005年)7月7日七夕の日でした。KWVのS38先輩である岡崎昌子さん親子は大きな松の木の下で雨宿り中に雷にうたれて亡くなられました。

 その柳は蓮池公園内ですがブキさん親子が落雷に遭われたの大きな松は、写真中央です。20年前は稲妻の後が一部黒く焦げていましたが今は、御覧の通り立派な松の大木になりました。今でも鮮明に思い出すのは激しい雷の稲妻と土砂降りでした。岡崎さんと娘さん、そして愛犬はこの松の下で雨宿りをされていた。その後の悲劇は地元では有名になりました。カメも当日に現場に行きました。

愛犬だけが生き残りご自宅に帰って来ました。岡崎県知事は自治省出身で大変な人格者で藤沢市民からも人望がありました。カメは藤沢市民として岡崎夫人の後輩であること誇りにしていました。ブキさんも優しいお人柄でテニスなど御一緒しました。鵠沼地区のプロテスタント系幼稚園にも熱心にご指導されていました。お二人の棺を載せた霊柩車はご自宅から駅前を通り市営墓地へと向かいました。実に厳かな市民葬でした。それにしても写真では立派な松に成長しました。本日、4月12日に見てきて驚きました。

カメと年寄り仲間は毎朝、この鵠沼蓮池でラジオ体操に励んでいます。そして亡きブキさんを偲びいつも合掌しています。

(編集子)穏やかなやり方でありながら確たるリーダーシップを発揮してくれる、たよりになる ”2年生” だった。最後に会ったのは事故の少し前、伝説の ”八甲田合宿” を忍ぼうという企画で、当時の4学年仲間で東北ワンデルングをやった時だった。帰途のバスの中で、小生のすぐ後ろに陣取り、八戸までのの間、同期の町井(旧姓舟橋)としゃべり続けていて、こっちは居眠りができなかったことを覚えている。20年もたったのか、まさに感無量(こういう場合に適切な用語ではないかもしれないが)というだけである。合掌。

我が家もお花見でした  (HPOB 小田篤子)

昨日は水道管工事で13時〜17時まで断水。ならば、トム・ハンクス出演の《HERE》でも見に行こう…と決まり関係記事を読んだりしたのですが、朝になると良いお天気のお花見日和!

立川で映画館横を素通りし、昭和記念公園に行ってしまいました!

花火、紅葉、Xmas、ビールフェスティバル、駅伝予選会…などで訪れているのですが、お花見は始めてでした。
(船津)エーガ「チャップリンの独裁者」を観て居たら何故かトラさんの狂気と同じですなぁ。
気分改めて明日は雨とか言うので最後?の錦糸公園花見 八重桜が満開。ピンク色です。染井吉野も風で花吹雪すると茎がピンク。白からサクラ色。

福島ミニ合宿   (42 保谷野伸)

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同期14名での掲題ミニ合宿(4/9・10)は天気も良く、新幹線+レンタカーでの「早春の福島」を堪能しました。(幹事はDr河瀬とシモさん)

①  9日の花見山公園(1時間トレッキング)では、満開の桜と菜の花、サンシュ、モモ、レンギョウ等各種の「花の絶景」を楽しみました。(写真添付)

②  10日の会津、喜多方は、桜はまだ早かったのですが、鶴ヶ城や(蔵の街)喜多方の(酒蔵等)散策を楽しみました。

③  宿泊は東山温泉のリゾートホテル、「東鳳」で温泉も料理(バイキング)も十分満足できるものでした。最後に、平均年齢80才を超す14名(男7名、女7名)がドタキャンもなく全員2日間無事クリアできたのが何よりでした。

乱読報告ファイル (38)ロードショウが150円だったころ (普通部OB 菅原勲)

副題:思い出のアメリカ映画。著者:川本三郎、発行:晶文社、2000年。

川本は1944年生まれだから、小生とは6歳の違いがある。でも、以下のように見ている映画がほぼ重なっているから、1960年では川本16歳、小生22歳。川本がませていたのか、小生がボンクラなのか。その理由は、両方だろう。

彼は、この本が発行された2000年当時、あとがきでこのように述べている。「50年代から60年代にかけてのハリウッド映画は、いまよりずっと面白かったと思う」。その時代のアメリカ映画を語っているのがこの本で、ちょっと長いが、以下、全部で52本。ただし、例えば、「オクラホマ」、「ワーロック」、「許されざる者」など文中だけで言及している映画もあるが、余りにも煩雑になるので目次で示されている映画だけに限った。また、彼は、十代の映画少年にとって劇場プログラムは宝物だった、とプログラムを絶賛している。

ただし、彼はロードショーばかりを見ていたわけではなく、その値段が150円だった頃のことを回想して述べているのであり、ロードショーは勿論、二番館、三番館でも映画を楽しんでいる。なかでも、彼の大好物は西部劇で、作家の逢坂剛と西部劇について対談している本もある「大いなる西部劇」(新書館。2005年)。ただし、彼の好みは、例えば、監督はジョン・フォードではなく、同じジョンでも、「ゴーストタウンの決闘」、「OK牧場の決斗」、「ガンヒルの決斗」などのジョン・スタージェスであり、俳優はジョン・ウェインではなく、同じ「リオ・ブラボー」に出ていたリッキー・ネルソンと言った具合なのだから、そのねじ曲がり具合は尋常ではない。それを象徴しているのが、この本が、西部劇で始まり、西部劇で終わっていることだ。小生は見ていないが、冒頭の「拳銃王」(The Gunfighter。1950年)を「異色の西部劇」と呼んでいるが、何故なら、グレゴリー・ペック演ずる主人公がガンマンを止めたがっているガンマンと言う設定なのだ。また、とりを務める「ハッド」(Hud。1963年)を、川本は「西部の夢の終り」と名付けている。テキサスを舞台に、ポール・ニューマン(主人公のハッド)が出演しているのだが、全体にたそがれの西部という寂しい雰囲気にひたされていると言う。しかし、この類の西部劇を、川本は好んでいるようだが、小生は、イジケテいるからイジケタ西部劇と呼びたい。

いずれにしても、こう言った1950/60年代の映画が連なって来ると、こう言う類いの本の一番イケナイところは、見たくなる映画がゴマンと出て来ることだ。当時を思い出して懐かしさが込み上げて来るのは、年寄りとしては、致し方ないだろう。特に、中でも、「ハリーの災難」、「成功の甘き香り」、「十二人の怒れる男」、「渚にて」、「アラバマ物語」など。

蛇足だが、1960年当時の初任給を10000円とすると、150円の出費は可なり痛い。でも、一般大衆にとっての娯楽は、まだテレビではなく、その殆どが映画だった。従って、映画館で映画を見物する人口も、その後、テレビ、ビデオなど映画館以外での選択肢が大幅に増えたことにより、1960年の10億人以上から2012年の1億5000万人へとこの間殆ど1/10にまで激減してしまった、と伝えられている。

目次で取り上げられた52作品(太字は、小生が見た映画30本、*は西部劇13本)。 (編集子が見たものは g を付けてみた。スガチューにはやはり敵わないことがわかるのは一目瞭然)

「拳銃王」*

「ハーヴェイ」

「真昼の決闘」* g

「赤い風車」

「裸の拍車」   g

「シェーン」*  g

「悪魔をやっつけろ」

「大アマゾンの半漁人」

「ケイン号の反乱」 g

「裸足の伯爵夫人」 g

「雨の朝巴里に死す」

「ヴェラクルス」* g

「星のない男」* g

「情事の終り」

「日本人の勲章」

「東京暗黒街・竹の家」

「エデンの東」  g

「七年目の浮気」

「海底二万哩」

「マーティー」

「ハリーの災難」  g

「ピクニック」  g

「山」

「禁断の惑星」

「必殺の一弾」*

「ジャイアンツ」g

「友情ある説得」

「翼よ!あれが巴里の灯だ」g

「めぐり逢い」

「成功の甘き香り」

「戦場にかける橋」 g

「青春物語」

「情婦」  g

「若き獅子たち」

「ゴーストタウンの決闘」* g

「愛する時と死する時」

「手錠のま脱獄」

「大いなる西部」*  g

「大戦争」

「月夜の出来事」

「縛り首の木」*  g

「旅路」

「走り来る人々」

「十二人の怒れる男」

「ガンヒルの決斗」* g

「或る殺人」

「夜を楽しく」

「渚にて」

「スージー・ウォンの世界」

「荒野の七人」*  g

「アラバマ物語」

「ハッド」*

 

”コミュニケーションをとる” と言う言い方

人間年を取るにつれてそれまでは気にも留めなかったことがいろいろ気にかかるものらしい。本稿でも何回か、若い人たちの間で使われる、いわば現代語、について書いたことがあるが、今回は コミュニケーション という英語(ま、準日本語と言っていいのかもしれないが)についてのいちゃもんである。

先日、巨人戦の実況をみていた時、回のあいまのベンチの映像を見て、解説者が文脈はよく覚えていないのだが、投手とコーチが何やら話し合っている画像につて、”・・・・・こういう風な場面に経験の深いコーチとコミュニケーションをとることが非常に重要である” 云々としゃべっていた。言おうとすることはわかるのだが、なんでこんな場合にコミュニケーション、なんていう言葉をつかうのか、いつもながら違和感があった。 ”よく話し合う” とか、”意見を聞いてみる”などといったほうが自然ではないのか。なにか コミュニケーション ということのほうが程度が高いとか、そんな程度のことなのだろうが、こういう場面によく出くわす。僕がサラリーマン人生、まあまあ人並みにこなせたのは、なんといっても早い時期にこのコミュニケーション、というものの真のあり方を叩き込まれ、武骨に実践してきたからだと思っているので、そのことについて感想を書く(関係ないが、先日、KWVOB会の竹原君から、小生の愚痴話をなんと ”天下のご意見番” と持ち上げてもらった。気恥しいけれどもそんなことになればこのブログもやっている価値があろうかというものだ)。

僕が就職をまじめに考えていた時期は、まだまだ経営といえばアメリカのほうが優れていて日本は遅れているのだ、というような風潮が支配的だったし、なんだかMBAなんてのがいるらしい、どっかで講習を受けた方がいいんだろうか、なんて時代だった。その頃、日本経営の問題点は、物事が論理的に解決されない、万事人間関係やありていに言えば親分子分仁義で決まってしまうことが多い。これは直ちにアメリカのようにきちんとしたフォーマルなコミュニケーションで論理的に解決するようにしなければならないのだ、という空気が支配的だった。小生は新聞記者になる、という夢に見切りをつけてからは、サラリーマンならどこでも同じだろう、位にしか考えずに家族的社風、ということで会社を選んだので、職場の雰囲気にせよ意思決定プロセスにせよ、そんなもんだろう、位で納得していたものだ。だから2年経って新進アメリカ企業として評価の高かったヒューレットパッカードとの合弁会社に移籍が決まった時は学生時代に理解していた、フォーマルコミュニケーションに基づいた論理一点張りの会社になるのだろうと思い込んでいた。ところが、移籍して間もなく、親会社から派遣されてきたマネジメントチーム(ま、占領軍司令部みたいなもんだったな)から、”この会社ではインフォーマルコミュニケーションを重視するのだ” と言われたときはただひたすらにびっくりしたものだった。これは会社の二人の創立者、ウイリアム・ヒューレットとデヴィッド・パッカードが卓越した技術者であると同時に事業を成すのは人間であり、お互いの信頼だ、という思想というか信念の持ち主であったからだ。

小生自身体験したのだが、初めてヒューレットと話をする機会にえらく緊張して ”Mister Hewlett…” と呼んだら、 ”Mister Hewlett is my father.  I’m Bill” と言われたものだ。これに倣って、会社ではお互いを呼ぶのに一切肩書を使うことをせず、課長だろうが部長だろうがつねに ”鈴木さん“”田中さん” と呼び合うことになった。このことが真の意味でのコミュニケーション、という土台を築き上げたのはまちがいない。当時の生産現場は中学出たての少女たちがずらりと並ぶ、典型的なシーンであったが、そのラインの中から、”ジャイさあん、ちょっとおしえて!”なんて声がかかったり、社長の横河さんが月末の出荷時期になると搬送場へ現われて、”俺にも箱詰めぐらいやらせろ”と冗談をいったりという、僕にとってみれば浅貝の小屋の雰囲気のような一体感があった職場だったのだ。(僕は当然ながらジャイ、ジャイさん、であり、英文では Gi Nakatsukasa とサインしたから、HP社取締役会議事録のどこかに Gi という名前が、例えば President  Shozo Yokogawa や、もしかすると David Packard 、などと並んで残っているはずである)。こういう全体としてのコミュニケーションを前提として、マネジメントは目的を示し、職員はそれに向かって自発的に動く、というのがこの会社の基本原理であった。技術という面ではもちろん世界水準を行く優良企業ではあったが、この経営思想と実践とがHPという企業の真価だったのだ。

話が少しずれた。言おうとしたのは、今気軽につかわれるようになった、コミュニケーション、とはなにか、ということだ。”Bill and Dave” の哲学で貫かれていた時代(とわざわざいうのは、同じ名前の会社はいまも存在するが。その実態は今では全く違った企業文化の企業に変わってしまったからだ)のHP社にいあわせ、そこで教わった定義は言葉だけでなく表情や感情や身振り手振りやそういうものすべてを通じて人と分かり合うこと、というものだった。だから、単なる情報が伝達されたからコミュニケーションが成立するものではない、ということを言いたいのだ。 ”詳しくはホームページを見てください” といえば ”コミュニケーションはとれる” のか。。

IT技術の展開によって、いろんなメディア(媒体という意味だ)が登場し、情報を正確に速く伝える、という部分は確かに出来上がった。しかしそれだけでは真の意味のコミュニケーションが成立したとは絶対に言えない。資料情報の伝達だけでなく、人間同士の間にのみ存在し感知し理解できるなにかが伝わって初めてコミュニケーションが成立したといえる。ホームページというのは確かに優れた情報伝達の手段ではある。しかしまず第一にそれが成立するには情報の受け手が自分でアクセスするというアクションがなければ絶対に機能しない。送り手の方がどうしても先方に、確実に、送りての感情もふくめて、とどいてほしい、という立場にあるのなら、ホームページに載せました、というのでは完結できないのだ。だから、”ホームページにのせました”というだけですませられないものが、いかにIT技術が発展した社会にあっても存在するはずだ。

本気で ”コミュニケーションをとる” つもりであるならば、” それにはそれだけの含みがあり意味があるのであって、ホームページにのせたからすむ、ということではないものがあるはずなのだ。

4月 月いち高尾報告     (51 斎藤邦彦)

1.概要報告

3月予定の行程が4月に変更になったので桜が終わってしまうのではと心配していたが、花冷えで花は散らず結果的には最高のタイミングとなった。両コースとも快晴の天候のもと、満開の桜花と青空のコラボの下での散策を存分に楽しむ素晴らしい春の一日だった。

2.行動報告(敬称略)

(1)シニアコース:滝山城址公園

<参加者16名>中司恭(36) 鮫島弘吉郎(36)遠藤不士男(36) 高橋良子(36) 矢部精一(37)三嶋睦夫(39)西澤昌幸(39) 立川千枝子(39)多田重紀(39)藍原瑞明(40) 相川正汎(41) 猪俣博康(43)村上裕治(46)平井利三郎(47)伊川望(47)

<山行報告>

「月いち高尾」の会にとって土地勘のない八王子だったが全員が時間前に無事集合し予定通り10時5分のバスにて滝山城址へ向かう。

穏やかな天気と花を愛でながら三の丸、中の丸、本丸に。中の丸は桜が満開、眼下の多摩川、昭島(福生?拝島?)の街並みを眺めながら昼食を摂る。ここは百名城に選ばれるだけあって地形を生かした城づくりは素人目にも見事で張り廻らされた空堀も綺麗に復元・整備されていた。訪れる人も少なく、のんびり散策するには絶好のスポット!

本丸で雲行きが怪しくなり一目散でバス停に、雨にも降られず楽しいハイキングだった。

(2)一般コース:城山かたくりの里から草戸山

<参加者14名>久米行子(41) 保屋野伸(42) 菅谷敬臣(42)安田耕太郎(42)吉田俊六(44)水町敬(47) 福本高雄(47) 佐藤充良(48)福良俊郎(48)五十嵐隆(51)羽田野洋子(51)斎藤邦彦(51) 後藤眞(59)  大場陽子(BWV)

<コースタイム等>

橋本駅北口8:22⇒(三ケ木行きバス約20分)⇒城山総合事務所前8:40⇒(ロード30分)⇒9:10城山かたくりの里10:30⇒(40分)⇒11:10龍籠山展望台11:20⇒(40分)⇒12:00草戸山12:30⇒(30分)⇒13:00梅ノ木平⇒(30分)⇒13:30高尾山口

<山行報告>

3/20から4/20まで一般開放されている「城山かたくりの里」では、かたくりのピークは3月下旬に終わっており代わりに黄色いかたくりが咲き始めていた。逆に時期を遅らせたことが幸いして各種の桜や花桃、三つ葉ツツジ、ボケ、ヤマブキが文字通り百花繚乱と咲き誇っているのを見ることが出来た。

ここでは珍しい高山植物も多く見られチングルマ、エーデルワイス、ショウジョウバカマ、ヒトリシズカ、エンレイソウなどが育てられていた。(高い山に行かなくてもここで見ることが出来る。)

晴天に恵まれ金比羅宮のある龍籠山(タツコヤマ)の展望台からは都心の景色を見渡すことが出来、遠くはスカイツリーや横浜の展望を楽しんだ。桜の花が満開の城山湖の堰堤を過ぎ、草戸山に上がって眺望を愛でながら昼食を摂ったが老朽化した頂上の松見平休憩所の小舎は撤去されて何も残っていなかった。昼食後は梅ノ木平までニリンソウの咲く道を一気に下ったが、高尾の奥座敷と言われる「うかい竹邸(昨年11月末に閉店)」の取り壊し工事がかなり進んでいた。下山後、梅ノ木平の「かたくりの邸」に立ち寄ったが、かたくりの花は終わりに近くわずかに残っているだけだった。ここから国道20号線甲州街道を帰路に着いた。このコースは橋本駅の近くから草戸山を越えて高尾山口駅まで延々と歩く行程だったが、最先輩のコブキさんを始めメンバーは健脚揃いで予定よりかなり早く高尾山口駅に到着することが出来た。

(3)天狗飯店懇親会

両コースの参加者から合わせて25人のメンバーが懇親会に集まり賑やかな歓談となった。両コースとも桜の花が満開だったので花の美しさをはじめ春の息吹を感じる話題に終始した。今回は特に次回の第100回記念の開催について意見の交換を行った。

嵯峨野の桜  (大学クラスメート 飯田武昭)

今日は温暖な気候に恵まれたので、京都の嵯峨野に出掛けてきました。

本来は小倉山の亀山公園から常寂光寺、落柿舎、二尊寺から祇王寺、清凉寺を巡って帰るルートを考えていたのが、渡月橋周辺からの桜が未だ満開でその見事さで足が止まり、落柿舎辺りでランチする処が見つからず、竹の小径(竹林)辺りからはインバウンド観光客の人並みに呑まれ、途中で計画の完遂を断念して夕方帰宅しました。

桜の色は宝塚辺りよりはピンク系が強いように感じたのは日光の加減かも知れませんが、スナップを添付します。

さくらはなぜ白くなったのか (普通部OB 菅原勲 発)

世の中は、寅の「Kanzei」の一言で、てんやわんやの大騒ぎ。

でも、外に出れば、桜は満開。しかし、ちょっと変だぞ。知人は、白くて気持ち悪いと言う。小生も、白いと思う。本来は、もっと鮮やかなピンクだったのではないか。知人は、お前と同じように、桜にもScrap & Build(小生に、Buildは当て嵌まらない)が必要だと。さて、本当に、何故、白くなったんでしょうか?

(中司)BINGO!実は昨日,墓参りに行って、もともと景観のいいと言われている八王子郊外の高台の墓地で、まさに満開の桜にぶち当たった。

西行法師ではないが日本人たるもの、この花の下で旅立ちたいと思ったもんだが、ご説の通り、桜は白かったね。 白内障手術の影響か(そういえば貴兄もそうか)などと思ったもんだが。追い打ちするように、今朝散歩途中で見た人家の桜も白かったな。
なんでも知ってるヤスダなら解説してくれるような気がするけど、チビ太、いかが。

(44 安田)菅原さん、ジャイさん、流石、菅原さん、目のつけどころが「恐れ入谷の鬼子母神」。自分では答えが解るはずもなく、だらしなくネットを頼りに。以下URLhttps://www.i-iro.com/sakura-iroをクリックしてご覧下さい。なるほどと納得👍できます。

(船津)櫻の種類は沢山在り過ぎで分からない。白かピンクか桜色かさてさて。

今眼下の錦糸公園の櫻は満開です。遠くから観るとややピンク色に見えますね。茎がピンクのためかも。最初に咲くのが寒緋桜・河津桜・彼岸桜などそして染井吉野 確かに白い でも味方によりややピンク色完全真っ白は大島桜 葉が花と同時に そして豆ザクラの一種のミドリ桜この二つは完全に白ですね。
しかし、遠くから観るとサクラ色に見えませんか。

マァ3日観ぬかの櫻かな 間もなくハラハラ散っていくことと思います。

調布と世田谷と三鷹がぶつかり合うあたりを仙川が流れている。甲州街道にぶつかるあたりの流れは完全に護岸作業で出来上がっていて味がないが、その分、両岸に菜の花が敷き詰められていて、桜とのハーモニーがしゃれている。深大寺はこの時期、人出が多くて往生するのだがここはのんびりした雰囲気が保たれている気がする。そのせいか、ここの桜は桜の色してるよなあ。